追想 毎年夏と冬になると、丘の上の別荘に来る男の子がいた。下の名前しか知らないけれど、民尾という綺麗な顔立ちの子だ。いつも顎の辺りで切り揃えられている、少し長めの黒髪を右耳を見せるようにして分けている。一見、男か女か分からない程で、お金持ちで都会の子なのに、山中でかけっこをしても、俺と同じか、それ以上に足が速い。でも、ちょっと変わったところのある子だった。
出会ったばかりの頃、俺はまだ炭焼きとしては見習いの身分で、朝早く父さんに付いて行って仕事を覚えたり、母さんの家事仕事を手伝う以外は弟達や民尾と魚釣りに出かけたり、山の中で遊んだりしていた頃だ。当時、俺は七つ、禰豆子は六つ、竹雄が四つ。民尾は俺と同い年。茂はまだ赤ん坊だったし、花子は母さんの傍に居たいようだったから、あの時は四人で山菜を採りに行ったんだ。竹雄はまだ山の中を歩くのに慣れてなかったから、少し遠くに山菜を見つけて走り出してしまった。俺の制止も間に合わなくて、竹雄は木の根に足を引っ掛けて転んでしまった。転げた先で盛大に泣き出してしまった竹雄に、民尾がすっと近寄って屈み込み、確かに言った。
「ねぇ、痛い? どんな気持ちなの?」
どこか楽しげに訊いてくるその表情と声は忘れもしない。痛がる竹雄の表情を堪能するような心無い態度と言葉に、俺は頭にきた。怒りのままに民尾に近付き、まずはと竹雄を励まし、立たせてやる。無闇に怖がらせたりするのは良くない。竹雄を禰豆子に預けつつ、俺は民尾に振り返った。
「民尾、今のはどういう意味だ?」
民尾はいつものようにどこか虚空を見つめているような、きょとんとした顔をして見上げてくる。何を考えているのか分からないその顔から目を逸らして、禰豆子に竹雄と一緒に帰るように言う。少し心配そうな顔をしながらも、禰豆子は竹雄を連れて家の方へゆっくり帰って行った。残ったのは俺と民尾だけで、禰豆子達から彼の方へ視線を移した。民尾は立ち上がっていたけれど、逃げるような素振りは無く、ただきょとんとした顔のまま、不思議そうに見つめてくる。話が通じていないのかと思い、俺はもう一度尋ねた。さっきのはどういう意味の問いだと。すると、民尾はやっと合点がいったようで、「あ~、あれね」とわざとゆったり話しているのかと思うような速さで話し出した。
「あれは純粋に興味があっただけだよ。転んで膝を擦り剥いちゃって、血が出ていたでしょう? その時、あの子は何を思ったんだろうって。きっと凄く驚いて怖かったろうねぇ」
「分かってるなら、なんでわざわざ訊くんだ。・・・・・・民尾、俺達はこの辺の子供の中で年長だろ。一番上は下の兄妹達を守らなくちゃいけないんだ」
「ん~? どうして?」
「俺達も今より小さかった頃、父さんや母さん、他の子達に同じように守られてきたからだよ。だから、今度は俺達が守ってやるんだ」
「ふぅ~ん・・・・・・」
いまいち理解しているのか、いないのか。民尾はよく分からない表情と生返事に近い声を発して、そっぽを向いた。これは絶対に聞いてないなと思い、再度言い聞かせようと口を開きかけたところで、唐突に民尾が「あっ」と声を上げた。何か見つけた時の声だったから何だと思い、そのまま見守っていたら民尾は少し奥に歩いて行き、立ち止まってしゃがみ込んだ。何か見つけたらしく、こちらに振り返ってそれを見せてきた。
「炭治郎、茸見つけたよ」
「あのなぁ、民、尾・・・・・・」
「食べられるのかなぁ?」と不思議そうな顔をしたまま、民尾は自らの口に近付けようとした。咄嗟に体が動いて彼の手首を掴み、殆ど体当たりするようにして押し倒すような形で倒れ込んでしまう。しまったと思ったけど、キノコは危ないのだから、仕方ない。いきなり押し倒された民尾は一瞬またきょとんとした顔をしていたかと思うと、顔を顰めて「なに?」と低い声を出す。
「まだ怒ってるの? しつこいなぁ」
「きっ……のこは危ないんだぞ! 胞子が体に入って病気になったりする種類もあるんだからな! 毒の心配もあるし、不用意に齧ったりしちゃ……」
そこで漸く間近にあった民尾の整った顔立ちに、何故か気恥ずかしくなった俺は慌てて身を引いた。
「わっ!? ご、ごめんっ!」
のそりと起き上がった民尾は、依然として不機嫌を顕にしたまま、髪や服に付いた葉っぱや土埃を払う。苛立たしげに眉間に皺を寄せ、こっちを睨んできた。悪いことをしたなと思いつつも、浮かんだ心配を口に出す。
「大丈夫か? 民尾。怪我してないか? さっきは本当にごめん。俺が悪かったよ」
「…………別に、いい。ああ、もう。汚れちゃったじゃないか」
「本当にごめんな。あ、ここ付いてるぞ」
「痛っ!? お前、力強いんだから、加減してよぉ」
お詫びにと服に付いた土を払ってやると、民尾の尻を叩いてしまう形になり、彼は少し飛び上がって尻を隠し、距離を取られた。何か悲しい。それからは何度も民尾に謝りながら、服の汚れを叩き落としたが、あんまり綺麗にならず、痺れを切らした民尾は「もういい。帰る」と言ってそのまま真っ直ぐ帰ってしまった。このことがきっかけで民尾は山に来なくなった。
なんてことは無く――
「炭治郎、川遊びしに行こうよ。もちろん、お前が俺を背負って行く係ね」
あれから数年経つが、民尾は毎年夏と冬にこうして遊びに来る。というか、あの時だって次の日にはにこにこしながら来たのだ。こいつは華奢な見た目に反して図々しくて図太い。図が二つも付くのだから、きっとそうだろう。そして、民尾は何故か俺が忙しい時に限って遊びに来る。俺の家に来ないで真っ直ぐ炭焼き小屋に来るのだ。なんで毎回俺のところなんだ。家の方が楽な道だろうに。
「嫌だよ。冬に川遊びなんて、凍えてしまうじゃないか」
「えぇ〜? 俺は楽しいと思うなぁ」
「楽しいのはお前だけだよ、全く……。少し温まるか?」
「ほら」と木で簡単に作った椅子の隣を空けてやれば、民尾はいそいそと座り込む。こういうところは弟みたいでちょっと可愛いと思ってしまうが、民尾は同い年だ。自分と比べると、どこかふわふわしている民尾のことを何だかんだ俺は放っておけなくなっていた。
「あったかいねぇ、炭治郎」
「うん……。って、何してるんだ。民尾」
左手を掴まれたと思ったら、それを民尾の上着の中に迎え入れられて包まれる。手が塞がると困るんだが。
「こうすると温まるでしょう? お前の手、冬はいつも冷たいんだもの」
「触られると冷えているから嫌だ」と言われ、なるほどと合点がいった。確かに雪山の中に建つ炭焼き小屋での作業は寒さとの戦いでもある。いつもお昼には禰豆子がお昼ご飯を持って来てくれて一緒に温かいお茶を飲んだりするが、作業に入ると集中してしまうことが多く、寒さを感じることはあまり無い。今日も民尾に話しかけられるまで手が冷たいなんて殆ど気にならなかった。左手から伝わる人肌の温もりに、安心感が湧く。炉の中で揺らめく炎を見つめていると、次第に瞼が重くなってきた。まだ作業は残っているのだから、眠ってはいけないと必死に睡魔に抗うが、隣で一緒に火を見ていた民尾がぽつりと呟く。
「いいよ、眠ってしまっても。後の作業は俺がやって置くから」
だめだ。これは自分の仕事だからと口では言いつつも、うとうとと舟まで漕ぎ出してしまう俺の体を、民尾はぐいと引っ張って自分の肩に俺の頭を寄せる。だめだってば、何寝かせようと、してる……んだ…………。
「お眠り。良い夢を」
意識が真っ暗な闇に真っ直ぐ落ちていく瞬間、隣からそんな甘い呟きが聞こえた。