海神と恋人 11 いつものように仕事から帰って来た
千栄理はポセイドンに帰った旨を伝えようと、彼の自室の扉を開ける。
「只今帰りました」
「お帰り~、
千栄理ちゃん」
「お帰りなさいませ、
千栄理さん」
「あっ、えっ!? ゼウス様、ヘルメスさん。いらしていたんですね」
ソファの真ん中に悠々と座って
千栄理を迎えたのは、ゼウスだった。彼の傍らにはヘルメスの姿もある。突然の来客に
千栄理はどう居住まいを正そうか、バスケットを持ってあたふたしていたが、ポセイドンにしまって来いと目で言われて素直に従った。ワイン棚の一番下の棚にしまい、一度だけお辞儀をして退室しようとした彼女をゼウスが呼び止める。
「ああ、ああ、ちょい待ち。
千栄理ちゃん。お前さんにも関係ある話じゃから」
「そうなんですか? じゃあ、お菓子を持って来ますね」
「
千栄理さん、ご心配無く。私がこちらに用意していますよ」
見ると、テーブルにはいつの間にか茶菓子の入った皿が置かれており、更にはポセイドンと
千栄理の分の紅茶も淹れられている。相変わらずの早業に未だ慣れない
千栄理はぱちくりと瞬きした。
仕事が終わったらしいポセイドンがゼウスの向かいに座ったのを見て、
千栄理も彼の隣に座った。彼らが座ったのを見て、ゼウスはまた紅茶を一口飲むと、話し始める。
「あー、ポセイドンと
千栄理ちゃんは晴れて恋人同士になった訳じゃが、まだ全ての神々への挨拶をしていなかったじゃろ?」
「はい」
「ですが、主神の皆さんにはご挨拶を済ませている様子」
「そこでじゃ。主神以外の神々のところに回るのは大変じゃろうから、ポセイドンの恋人としてお披露目パーティをするっちゅう名目で挨拶を済ましちゃおう、ということじゃ」
「お披露目、パーティ……え? あの、それは……ど、どこで? ですか?」
「ワシの城でやろうかな~って思っとるよ」
「必要ない」
案の定、いつも通りの返答をしたポセイドンに、ゼウスがぷりぷりと怒る。
「んもうっ! お前さんはまたそうやって『要らん』『要らん』ってぇ~! 他の神々に
千栄理ちゃんの顔を覚えてもらうのは大事なんじゃぞ~!」
「お前達が知っていれば良い」
「え……?」
胸を打たれたように自分の胸に手を当てるゼウスに、ヘルメスがそっと耳打ちする。
「ゼウス様、今のはキュンとするところじゃないですよ」
「……おおっ! そうじゃったわい。危ない危ない。このワシをトゥンクさせるとは、流石ワシのお兄ちゃん」
「何を言っている」
心底訳が分からないという顔をするポセイドンに、一度咳払いをしてゼウスはもう一度、お披露目パーティに出るよう促す。しかし、尚も彼の返答は変わらず、「必要無い」だった。
「やだー! 出て欲しいんじゃもんっ! ワシのお兄ちゃんとこにこんな良い子が来てくれたってみんなに言いたいんじゃもんっ! 出てー!! 出てよぉー!」
遂に駄々をこね始めてしまったゼウスに、
千栄理は驚き、ポセイドンは呆れる。最初は頑として拒絶し、放って置いたポセイドンだったが、そのままずっとゼウスが騒いでいるので、とうとうポセイドンの方が折れる形で承諾することになった。
「でも、パーティ用のドレスなんて、私、持ってません」
「あ、それは大丈夫じゃ。ハデスが手配してくれとる」
「ハデス様が?」
「最初から
千栄理を出すつもりだったろう。最悪、余の許可無く。貴様……」
「まぁまぁまぁまぁ、ええじゃろ。お前さんも
千栄理ちゃんも承諾したんじゃから、もう取り消しは無しじゃよ~」
「やられた」と舌打ちするポセイドンの腕をちょいちょいと指で叩いた
千栄理は、彼がそちらを向くと、にっこりと笑って言った。
「パーティなんて、ちょっと緊張しますけど、楽しみですね。ポセイドンさん」
「む…………うむ……」
不意打ちで恋人の満面の笑顔を受けたポセイドンに、最早拒否するという選択肢は消え失せてしまった。存外、自分で思っていたより彼女に惚れているのだと自覚した彼は、何だか嬉しいような悔しいような少々複雑な心持ちだった。ポセイドンの承諾も得られたことだし、とゼウスはソファからよっこいしょと立ち上がる。
「日取りは追ってヘルメスから伝えるんじゃが、その前にハデスが
千栄理ちゃんのドレスを見繕うからのぉ。
千栄理ちゃんの好みのものを買ってもらうと良いじゃろ」
「え!? か、買うんですか? 今後、着る機会があるかどうか……」
「ん~? 着る機会なら、今後たくさんあるじゃろ。ポセイドンも神々の会議に出ることもまま多いし、それに
千栄理ちゃんが同席することもあるじゃろ」
「え? それって、どういう……」
「さて、ワシは会場のセッティングじゃ。ヘルメス」
「はい。では、ポセイドン様、
千栄理さん。失礼いたします」
見送りはいらないらしく、あっという間に姿を消してしまった二柱に、
千栄理は未だ理解が追いつかなく、ぽかんと口を少し開けたまま、ポセイドンを振り返った。二柱が出て行った後、開いたままの扉を閉め、すごすごと彼の隣に座る。
「今後も着る機会があるって、どういうことなんでしょう?」
「……彼奴はお前が神になると思い込んでいるようだな」
「え……? でも、私、神様になれるような人じゃないのに……」
ポセイドンの言葉に不安げな表情で彼を見上げる
千栄理。その目を見て、彼は慰めるように頭を撫でた。
「お前は、『神』をどう捉えている?」
「私がなるかもしれない上で、ってことですか?」
「それもあるが、お前の中の『神』とはどういった存在なのかが知りたい」
ポセイドンの質問に
千栄理は少し考えつつ、ぽつぽつと話し始める。ポセイドンの表情を伺いつつも言葉を選んでいるようだった。
「私にとっての『神様』……は、私達よりずっと凄い力や知恵を持っていて、神話が本当のことなら、私達を作ってくれた方々で、到底人間が敵う相手ではなくて……だからこそ、唯一無二で尊い方々だと思います」
「……ならば、『人間』とは、なんだ?」
次の質問には、
千栄理は瞠目したと思うと、ふ、と微笑む。それは自分の兄妹や家族、幼い子供を見るような優しいものだった。
「『神様』から見たら、きっとちっぽけで何の意味も無い存在、だと思います。けれど、私にとってはか弱い存在だからこそ、儚くも尊い存在です」
「……どちらも、お前にとっては尊いのか」
「はい。……でも」
何か言いたそうにポセイドンを見つめる
千栄理に、同じように彼も見つめ返した。その視線を受け取ると、
千栄理はまたふふ、と笑う。
「人間は一人ではか弱くても、みんなで協力すれば、凄い力になるんですよ。その力はきっと、時には神様にも届くかもしれません。それが私の思う『人間』です」
そこまで聞くと、ポセイドンは不思議そうな顔をして小首を傾げた。心底分からないという顔だ。
「つい先程、お前は『人間』は弱いものだと言ったばかりだが?」
「ふふ。そうですね。でも、いつか、ポセイドンさんにも分かる日が来ると思いますよ」
「……不敬な」
「ええ? 私、そんなつもりじゃ……」
「不敬を働いたお前には……ハデスが来ても余の膝の上に乗せる」
「ええ~。やですよぉ。恥ずかしいです」
そう言っている間に既にポセイドンの手によって
千栄理は宣言通り、膝の上に乗せられてしまった。
その後、ハデスが訪れても、本当に膝の上に乗せたままにするポセイドンと恥ずかしいから止めてと抵抗する
千栄理だったが、ポセイドンの怪力の前では為す術もなく、その腕の中に閉じ込められるしかなかった。