海神と恋人 12 迎えたパーティ当日。
千栄理は更衣室も兼ねた控え室でポセイドンと共に会場入りの時間を待っていた。ハデスが用意してくれた青く、ふんわりとした雰囲気のドレスに身を包み、緊張からかそわそわして席に座っている。小さなテーブルを挟んだ向かいの席に座っているポセイドンは、プロテウスの用意した紅茶を一口。今日の彼はいつもの青い戦闘装束ではなく、白を基調とした正装のスーツだ。普段と違う着こなしに密かにどきどきもしている。
「緊張するか?」
静かに掛けられた声に、
千栄理は色んな意味で「はい」と答える。心細そうな表情に、プロテウスが慈愛の目で見つめ、
千栄理の目線に合わせるよう屈む。
「
千栄理様、こういう時はまず、落ち着くことが重要です。深呼吸されましたら、少しは気が紛れましょう」
「は、はい」
言われた通りに深呼吸してみる
千栄理だったが、あまり効果は期待できなかった。折角、教えて貰ったのに上手くいかなくて、プロテウスに申し訳なさを感じる彼女に、ポセイドンは言った。
「余がついている。何も心配するようなことは無い。胸を張れ。お前は余の伴侶だ」
プロテウスには悪いと思ったが、
千栄理にとってこれ以上ない程の励ましの言葉に、さっきまでの緊張はどこへやら、嬉しさに掻き消されてしまった。
元気を取り戻した
千栄理は、それを表すように「はいっ」と笑顔で応えた。ふと、時計を見たプロテウスが「おや」と声を上げる。見ると、会場入りまであと少し。
「ポセイドン様、
千栄理様。そろそろお時間になります」
「そうか。では、
千栄理」
すっと立ち上がり、当たり前のように手を差し伸べるポセイドン。
千栄理もまた同じようにその手に自ら手を重ね、席を立った。
「転ばぬようにな」
「はいっ。では、プロテウスさん、行ってきます」
「はい。楽しんで行ってらっしゃいませ」
ポセイドンにエスコートされながら、
千栄理はプロテウスに微笑みかけて退室した。
ヘルメスの紹介を合図にポセイドンと共に会場へ入り、主賓席に案内された
千栄理は、やはり少し緊張が戻ってきたらしく、表情はどこかぎこちないが、俯くようなことはしなかった。代わりに礼をする時のように、きゅっと自分の手を握る。ヘルメスからポセイドンへ渡されたマイクに彼が何か一言添える。そこで漸く自分にも手番が回ってくるのだと思い出した
千栄理は、内心とても慌てふためく。ポセイドンが話す間に何か閃いたら、それをきっかけに――
「話すことなど無い。この人間は余の伴侶となった。それだけだ」
予想通りの簡潔極まりない一言に、会場はしん、と静まり返る。会場にはこんなに大勢の神がいるのにも関わらず、物音一つしない。お通夜でももう少し音があるのではと思うくらいの静寂の中で、ポセイドンから無言で渡されたマイクを握り、
千栄理は緊張で震える。ここから陽気な空気に立て直すなど、彼女には荷が重過ぎた。
「え、えっと……ご、ご紹介に与りました、
春川千栄理と申します……! えっと、えっと……よ、よろしくお願いします!」
羞恥で顔を真っ赤にし、涙目になる
千栄理。そんな彼女の腰に腕を回したポセイドンは、
千栄理の手ごとマイクを持って、もう一度念を押すように「この人間は余のものだ。危害を加えた日には、二度と日の目を見れぬと思え」とダメ押しした。
すっかりパーティどころではなくなった重い空気に、どうしたらいいのかまるで分からない
千栄理を見かねて、ゼウスが咳払いを一つした。
「あー……で、そういう訳で、今日は皆にポセイドンの恋人を紹介すると同時に、思う存分、歌って踊って食べる宴の始まりじゃ~!!」
流石は陽気なゼウスらしく、ヘルメスのヴァイオリン演奏も相まって徐々にテンションを上げ、あっという間に元の楽しげな空気に戻してしまった。良かったとほっと胸を撫で下ろしつつ、
千栄理はポセイドンに促され、そのまま自分の席に座る。
「良かったです。一時はどうなることかと思いました」
「?
千栄理、何か心配事があるのか?」
「…………ふふ、大丈夫ですよ」
流石に「あなたが原因です」とは言えず、――口が裂けても言えないが――
千栄理はテーブルに置いてあったグラスの水を飲んだ。
「
千栄理~、来たっスよ」
「この度はおめでとうございます。
千栄理」
「ゲルちゃん! ヒルデさん! 来てくれてありがとうございます!」
千栄理のところに真っ先に来たゲルとブリュンヒルデを
千栄理は笑顔で迎える。二人を皮切りに
千栄理のところにはヘラクレス、ロキ、釈迦等お馴染みの面々が集まり始める。一方、ポセイドンのところにはハデス、ゼウスの他に女神やニンフ達が集まってきた。皆
千栄理のことなど眼中に無いという感じでポセイドンにアピールしている。
「ポセイドン様、おめでとうございます! これ、ささやかですが、私からポセイドン様へ」
「ポセイドン様、私の父が新しい神殿を建てたんです。今度見に来てくださいませんか?」
「ポセイドン様、この度はおめでとうございます。ですが、正妻が人間というのも何かとご苦労なさいますでしょう。私の娘でよろしければ、正妻とは言わず、側室にお迎えしていただけないでしょうか」
「相変わらず、ポセイドンはモテるな」
「女神ちゃん達~! ワシだってまだまだ現役じゃよ~!」
女神や妖精に囲まれている終始無言のポセイドンを見て、ゲルは「うぇ~」とうんざりする。
「
千栄理が恋人だって紹介された直後にあれって、何を考えてるんスかね」
「この子が正妻になるかもしれないから、だったら、せめて側室とか愛人だけでもって感じなんじゃない? 必死すぎてウケる」
「大丈夫?
チェリちゃん。飴ちゃん食べる?」
釈迦が差し出した仏陀チャップスを受け取りつつ、
千栄理は大丈夫だと答えるが、表情は本心を隠し切れていなかった。
そんな彼女のところにオーディンとトールが近付いてくる。意外な二柱の登場に、ロキは驚いて話しかける。
「ええ? オジサマとトールがこの子に用があるなんて、意外だね?」
「……いつもパンを献上されているからな」
「献上じゃなくて配達なんだけど」
「今、ポセイドンの周囲には近づき難い」
「ああ、なるほどね」
「オーディン様、トール様。わざわざ御足労いただき、ありがとうございます」
立ち上がって丁寧に礼をする
千栄理に、トールは頷き、オーディンの代わりにフギンとムニンが応える。
「今日はポセイドン様とお前の祝いの席です。神同士の円滑な交流においては、オーディン様もこうしてご出席なさるのは当然」
「……まぁ、お前は愚かな人間共の中ではまだマシな方だしな。これからもせいぜい励めよ!」
彼らなりの素直じゃない激励の言葉に、不覚にも
千栄理は抑えつけていた感情が噴出してしまい、口では礼を言いつつ、はらりと涙を一筋流してしまう。その姿にフギンとムニンは驚き、鳴き声を上げる。
「
千栄理、大丈夫っスか?」
「え? あれ? なんで、私……」
一度流れ出すと、堰を切ったように後から後から流れる涙を手で拭うが、一向に収まる気配は無い。泣くつもりなんて全く無かったのに、止まらない涙をこれ以上、見せまいと
千栄理はその場にいる皆に「ごめんなさい」と断って会場を駆け出した。
「あっ、
千栄理!」
「ゲル、一緒に行ってあげなさい」
「もちろんっス! ヒルデお姉様!
千栄理、待つっス! ボクも一緒に行くっス!」
走り去る
千栄理を追いかけるゲルを見送り、フギンとムニンはバツが悪そうに羽を畳んだ。
「オレら、またやっちまったのか?」
「ま、タイミングの問題じゃない?」
珍しく、ロキが二羽をフォローした。