弱肉強食の掟 物凄い音と衝撃、背中にじんじんと広がる痛みにアズールと監督生、グリムは呻き声を出した。
「痛っっってぇんだゾ……!!」
「何とか生きてはいますね……」
「し、死ぬかと思った……」
「シェリー・フリップだったねぇ♪」
すぐ目の前に現れたピンク色の元凶に、二人と一匹は「うわぁああっ!?」と未だ体に残る恐怖からか、少々大袈裟に叫んでしまう。その様に「AHAHA!༄」と笑ってピンク男はジャンプして一歩後退した。
「何なんだゾ! こいつ! ダニエルはどこ行ったんだ!?」
「いえ、グリムさん。非常に言いにくいですが、ダニエルさんはずっとそこにいますよ。だいぶ姿は違いますが」
「えっ!? …………ま、まさか……」
アズールの視線が指し示す方には全身ピンク男がいる。身長はアズールより高く、おそらく180センチは越えているだろうその男と監督生とあまり変わらない小柄なダニエルが同一人物だとはどうしても思えなかったが、アズールの話では事情があるようだ。
「彼はユニーク魔法で変わったダニエルさんのもう一つの姿であり、通称ピンクのダニーと呼ばれています。本来、ユニーク魔法は使い手の意思によって発動しますが、ダニエルさんの魔法は彼の意思に関係なく、発動してしまう厄介なもの」
「ええ? そんなユニーク魔法あるのか!?」
「僕も未だ信じられませんが、現に彼はあのように手が付けられない状態になっています。おそらくはあの濃い葡萄の香りがトリガーでしょう」
葡萄の匂いとダニエルのユニーク魔法に何の関係があるのか、監督生とグリムはまるで分からなかったが、その意図を汲んだアズールは「お酒を連想させる匂いだったでしょう?」と続ける。
「酒ぇ? じゃあ、ダニエルのやつ、その匂いを嗅いで……」
「酔っ払ってる?」
「そういうことです。一度、そういう種類の匂い、食感、目で見たものですらダニエルさんは自分を抑えられず、あの姿になってしまうんです。あの姿になっている時の彼にはまともな言葉が通じない上に、ひどく暴力的だ。僕も普段は絶対に近寄らないんです」
アズールが説明している間、その辺に落ちていた小さな旗を楽しそうにふりふり振っていたダニーは、唐突にそれを捨ててまたこちらに近付いてくる。
「こ、こっちに来るんだゾ!」
「アズール先輩……!」
「二人共、今からダニーさんの言葉を同じように繰り返してください」
「なんでそんなことするんだ!? 逃げた方がいいんだゾ! アズール!」
「いいから! 僕の言う通りにしなさい!」
「ピンクの象だよ?☆」
「ひっ……」
ぬう、とアズール達一人一人の顔をよく見ようとしているのか、上から身を乗り出すようにして覗き込んできたダニーはただ一言そう言った。よく見ると、同色で分からなかったが、確かにその頭には大きな象耳が生えている。その虚無のような真っ黒の瞳の持ち主が間違いなくダニエル本人なのだと耳を見てまざまざと思い知らされた。
「ぴ、ピンクの象です」
「ピンクの象! なんだゾ!」
「ぴ、ぴ、ピンクの象、です……」
三者三様にそう応えると、ダニーは笑顔を消し、じっと見つめてくる。時間にして実際はほんの数秒だろうが、アズール達にとっては永遠に思えた。すると、また唐突ににぱあっとダニーは嬉しそうに顔を綻ばせ、「ヒピティホピティ!」と叫んで飛び跳ね、喜んだ。その様子にアズールはほっと安堵したように息を吐く。
「ああ、良かった。無事に仲間だと思われたようです」
「仲間? どういうことなんだゾ?」
アズールの話では過去に偶然、ラギーからダニエルのユニーク魔法について新しい事実が発覚したことを聞かされたのだという。今までダニエルからダニーへ変貌した時、彼は周囲に人がいる場合に限り、必ず「ピンクの象だよ」と言っていたらしい。今まではそれに応えた者は無く、同じように応えないと問答無用で手近にある物でぼこぼこに殴られていたという話が後を絶たない。しかも、酔っていて加減を知らない長身の、象の獣人の腕力から繰り出される一撃は相当のものだ。そんな背景があるせいで、彼は普段はびくびくしていても、あの弱肉強食のナイトレイヴンカレッジでまるで腫れ物扱いを受けていたようだ。一年もの間、何の意味も無いと思われていた「ピンクの象だよ」という一言に、ある時、ふざけてラギーが復唱した瞬間、初めてダニーは先程の言葉を発して、少しだけ話が通じるようになった。
「ということです。これ以上、彼の手による被害を拡大させないため、寮長会議を通して各寮長は彼の話す言葉の知識を仕入れたものです」
たった一人の生徒のせいで寮長会議を開くことになろうとは当時、誰も想像していなかっただろう。当時を思い出したのか、気が重そうにアズールは少し俯いたが、それもほんの少しの間だった。
「あの、ダニー……先輩? の使う言葉って」
「ああ、カクテル言葉ですよ。まさか、まだ十代でこんなにお酒に詳しくならざるを得ないとは思いませんでしたが……。さて、そろそろ僕達も鐘楼に戻らなければなりません。ダニーさん、ちょっとこっちに来てください」
「ブルームーン⊿」
「また何か言ってるんだゾ」
「ブルームーンにはいくつか該当する言葉がありますが、この場合は……『できない相談』」
その言葉を強調するようにダニーはんぺ、と舌を出し、あっかんべーをしてマジカルペンを取り出す。
「なっ……」
「おい、アズール! オレ様達、あいつの仲間って認識されたんじゃねぇのかぁ!?」
「その筈ですが、いきなり攻撃して来ない辺り、敵とは思われていませんが、まだ正式な仲間として認められた訳でも無さそうです」
ふらふらとした千鳥足でも、マジカルペンをしっかり握ってまるで野球のホームラン宣言のように向けてくるところを見ると、ダニーはかなりやる気になっているようだ。
「ブラッディマリ~‡」
その驕った勝利宣言に、アズールの心にも火が点く。ふざけたものだろうと、オクタヴィネルの寮長に喧嘩をふっかけてきたのだ。なんとしても勝たねばならない。
「良いでしょう。幼稚な売り方ですが、買って差し上げます。どちらが上か、分からせてやる」
監督生とグリムに下がっているように少し振り返ったところで、いきなりダニーの魔法が飛んできた。
「あっ……ぶなっ!? いでしょう!!」
負けじとすかさず、アズールは飛んできた火の玉を風魔法で跳ね返す。そのついでに後発の水の魔法がダニーに当たった。
「ぎゃーうっ!?」
獣じみた悲鳴を上げ、ダニーは慌てて水柱から離れた。その素早いフットワークと嫌がりようから、水が嫌いなことが伺える。
「ほら、酔いを覚ますにはぴったりでしょう? もっとご馳走して差し上げますよ」
ダニーが着地したところを狙ってアズールがまた水の魔法を放つ。今度は拘束しようとダニーの周りに渦を作り、幅を狭めていく。これで捕まえられると思った監督生とグリムだったが、ダニーはまだ諦めていなかった。
「シャンディ・ガフ*」
突如、渦の側面から無数の硬い蔓が飛び出し、辺り一面めちゃくちゃに振られる。その動きに渦は破られ、その内の一本がアズールを薙ぎ払おうとした。咄嗟に防衛魔法を張ったアズールだが、勢いを殺し切れず、バランスを崩してしまう。
「アズール先輩!?」
「くっ……大丈夫です。少しバランスを崩しました。いつまでも駄々をこねていないで大人しくしなさい!」
襲いかかってきた蔓達を火の魔法で一気に燃やし、顔を上げた瞬間、目の前に跳躍して拳を振り上げた格好のダニーがいた。
「嘘だろ!?」
咄嗟にペンを足元に投げ捨て、迫り来るダニーの拳をアズールが片手で受け止めると、すかさず振りかぶってきたもう片方の拳も同じように受け止めようとして、一発もらってしまう。殴られた衝撃で眼鏡が吹っ飛んだ。
「アズール先輩!」
「食らっちまったんだゾ!?」
「セブンスヘブン!◆」
もう一度、同じ手で打撃を加えようと振り下ろしたダニーの腕を口の端から墨を吐きつつも、アズールは今度はしっかり受け止めた。否、掴んだ。ダニーの体を支えに勢いよく地面を蹴り、アズールは頭突きを食らわせる。最初に一発食らったのはこの為だった。もろに頭に食らったダニーはそのままアズールと共に後ろへ倒れ込む。がばりとすぐに起き上がり、アズールは得意気にダニーを見下した。
「どうだ!? これで分かっただろう!? あなたは魔法でも腕力でも僕に勝てないんだっ!!」
「アズール先輩、大丈夫ですかっ?」
「でこ、赤くなってるんだゾ」
暴れないように未だダニーの両手を押さえているアズールに監督生が落ちた眼鏡をハンカチで拭いて掛けてやる。マジカルペンも胸ポケットに指した。目を回しているダニーを見て二人と一匹は完全に勝利したと思い、安堵した空気を漂わせていた。が、それは唐突に破られる。
「……ふぇ……」
「ん?」
「ふぇ……ひっく…………ひっ……ひっ……びぇええええええええええええっ!!」
「うわっ!?」
地面に仰向けに押さえ付けられていたダニーの目にうるうると涙が溜まっていったかと思えば、突然決壊し、アズールを乗せたまま、じたばたとめちゃくちゃに暴れ出す。その様は癇癪を起こした子供そのものだが、相手は180センチの男子高校生だ。その暴れる力は物凄いもので、アズールの拘束は振り払われた。
「ええ……急に泣き出したんだゾ……」
「笑い上戸の次は泣き上戸ですか……。もう目を覚ますなんて、なんてタフなんだ。勘弁してくれ……」
「あっ、逃げた!」
アズールとグリムが呆れたその一瞬の隙を突いて、ダニーはわんわんと泣き喚きながらその場からダッシュで逃げ出した。
「待ちなさいっ! ジェイド、フロイド……はいないんでした。追いかけますよ、監督生さん、グリムさん!」
「当たり前なんだゾ! おい、待つんだゾ、ダニー!! オレ様が捕まえてやる!」
そのまま走り出したアズールとグリムに続こうとした監督生は箒のことを思い出し、慌てて拾ってアズール達の後を追いかける。崩壊したテントから逃げ出したダニーは泣きながら、めちゃくちゃに魔法を放って物を落とさせたり、自然現象を使ってアズール達の進路を邪魔するが、その度アズールとグリムの魔法で退かされる。次第に監督生がアズール達に追いつき、「待って!」と言った瞬間、前方を走っているアズールが叫んだ。
「監督生さん! その箒をダニーさんの方へ投げてくださいっ!」
「はぁ……ぜぇ……! えっ? な、なんでですかっ?」
「いいから早く! これ以上、被害を拡大させる、訳、には……! いきません……!」
「何だか分かんないけど、ええーいっ!」
息が切れ始めたアズールの後ろからそんなやけっぱちの声と共に、へろへろと箒が飛んで来る。立ち止まって箒に魔法をかけ、アズールはダニーの前に箒を旋回させた。
「びゃぁあああああっ!! ……んぇ?」
目の前まで来た箒に興味を持ったダニーは、泣き顔を引っ込めて大はしゃぎで飛び乗る。そのままアズールの魔法で元来た道を風のように戻ってきたダニーは彼の前で止まった。
「はぁ……ぜぇ…………ぜぇ………………これで、ようやく……捕まえましたよ。ダニーさん……!」
それから数分後、漸く呼吸が調ってきたアズールは、地面に座り込んでいるダニーに粛々と契約書を書かせていた。今回の騒動及びアズールに迷惑をかけたとして一ヶ月、モストロ・ラウンジでバイトをするというものだ。むすっとした顔で不満を顕にし、書きたくないと駄々をこねるダニーに、アズールはいつかのロロのように腕組みをし、指で二の腕を叩きながらもう一度説明する。
「いいですか? ダニーさん。あなたは僕に負けたんです。おまけにサーカスのテントをめちゃくちゃに壊し、僕に魔法を使った喧嘩までふっかけ、あまつさえ逃げ出した挙句、周りの方々に迷惑をかけた。これだけのことをして、一ヶ月の労働で済ませる僕は正に慈悲の精神を体現しているようではないですか。ねぇ?」
「ワイン・コブラーだもん……▼」
「なんです? この期に及んでまだ自分は悪くないとでも?」
「カルーアミルクぅ〜▽」
ダニーは自分の隣の虚空を指し、訴えるような目つきでアズールを見上げる。
「ふむ。なるほど。今回のことは自分ではなく、臆病なもう一人のせいだ、と」
ぱあっと希望に満ち溢れた表情で頷くダニーに、アズールは容赦しなかった。
「関係ありません。どちらにせよ、どちらもあなたなんですから。代わりにもう一枚追加しましょう」
また出てきた黄金の契約書に、ダニーは「ハーベイ・ウォールバンガー!」と叫んだ。
「ええ。失意の底に沈んでもらって構いません。こちらの契約書はこの三日間、何があっても僕に従う、というものです。破った場合は勤続期間延長ということで、宜しいですよね。僕に負けたピンクのダニーさん」
にやにやと悪どい笑みを浮かべるアズールにダニーはぷるぷるとわなないていたが、やがて諦めたように不貞腐れて「バーバラ……●」と呟き、どちらにも名前を書いた。
「良いお返事を頂けて嬉しいです。さて、では早速、鐘楼に戻りますよ。だいぶ時間を食ってしまいましたからね」
ダニーが書いた契約書をしまい、アズールは早速彼に命令を下す。未だ不満気な顔をしながらも、ダニーは言われた通りにアズール達を後ろに乗せて飛び始めた。
アズール達が飛び去った後、危険だからと避難していた芸術大学の生徒であり、サーカスの面々が崩壊したテントに戻ってきた。皆、あまりの崩壊振りに言葉を失う中、団長と思わしき男が「何だこれはっ!」と怒鳴り散らす。
「めちゃくちゃじゃないかっ!」
「団長、小道具が粉々です!」
「大道具もやられた!」
「柱がバッキバキに……」
「一体、誰がこんな酷いことを……」
隣のテントへ何があったかサーカス団の一人が聞きに行くと、犯人はいきなり空から落ちてきてテントを破壊した後、ノーブルベルカレッジの方へ飛び去ったと言う。魔獣を連れた学生三人組だったらしいとも。
「ノーブルベルのガキ共だと!? ……ちっ。俺達の計画がバレたのか!? いや……」
一人で何事かぶつぶつと呟いていた団長は、急に頭を振ると、団員達に急いで壊れた物を直すように言う。皆それぞれ作業に入る中、団長は憎々しげに自分にだけ聞こえるように言った。
「俺達の計画はまだバレちゃいない筈だ。なら、ついでにノーブルベルのガキ共に復讐してやるっ……!」
アズール達の知らないところで例に漏れず、また恨みを買ってしまったナイトレイブンカレッジだった。ついでにノーブルベルカレッジも。