海神と恋人 16※※ご注意※※
・圧倒的キャラ崩壊
それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
会場に戻ろうと踵を返したところで、すぐ目の前にいたポセイドンに少し驚き、千栄理はその厚い胸にぽふっと顔をぶつけることになってしまった。それを良いことに、ポセイドンはそのままきゅっと抱き締める。
「ここにいたか」
いつもと違う白い正装に包まれた彼は、ゆっくりと千栄理の頭を撫でる。その大きくも武骨な手に安心すると同時に、罪悪感を伴ってきた千栄理の目からは自然と涙が零れた。
「どうした。どこか痛むか? それとも、雑魚共に何か言われたか?」
「ちが……っ。違う、んです……。ポセイドンさん……私……私…………」
溢れる涙を止めようと自分の手で懸命に拭う千栄理。会場の入口付近にいた神々が自分達に気付き始めたところで、煩わしさを感じたポセイドンは、「場所を移すぞ」と言って、彼女の手を引いた。
自分と千栄理の控え室に戻ったポセイドンは、待っている時と同じように泣いている彼女を窓際の席に座らせ、自分は隣に座った。未だ泣いている彼女を無言で抱き寄せ、落ち着くまで頭を撫でてやると、しばらくしてから少しずつ話し始めた。女性に囲まれているポセイドンを見て不安に駆られたこと、ラミアから渡された小瓶の誘惑に負けそうになったこと、ポセイドンを疑ってしまったこと。しかし、そこをベルゼブブに救われたこと。全て聞き終えると、ポセイドンは先程よりもしっかりと千栄理を抱き締めた。
「お前を不安にさせた。……もう、二度としない。雑魚共の贈り物も、誘いも、全て断る」
「……だ、だめですっ。それはダメですっ!」
意外にも、千栄理は慌てて否定した。まさか否定されるとは思っていなかったポセイドンは、訝しげに彼女を見つめる。
「何故だ」
「あの、私、思うんです。他人を好きになることは凄く良いことで、素敵なことだと思います。その気持ちを無碍にするようなことは、して欲しくないです。でも、その気持ちが原因で誰かを傷付けたり、嫌な気持ちにさせたりするのは、いけないことで、私は、自分勝手にポセイドンさんを傷付けようとしてしまいました」
「だが、余の周りに雑魚の影があれば、お前を不安にさせてしまう」
「私は、大丈夫で……」
「大丈夫ではないから、こうなったのだろう。これは余が決めたことだ。お前が余を傷付けぬと決めたのなら、余も同じだ。余も、お前を……千栄理を傷付けたくない」
いつか言われたことを千栄理は思い出した。恋人となってからの彼は、ずっとそうだった。千栄理の嫌がることはしない。思い返せば、この神はいつも自分の我儘を聞いてくれていた。今回のことも、千栄理が最初から相手にしないでと言ったら、きっとポセイドンはいつものように受け入れていただろう。
でも、本当にそれでいいの?
いつも千栄理の頭の中にその疑問があった。自分の我儘で、ポセイドンを独占するのは簡単だ。私以外相手にしないで。私以外見ないで。言えば、きっとこの律儀な神様は、願いを叶えてくれる。有言実行を体現したような神だ。でも、それを言って、守って貰って本当に幸せになれるのだろうか? それは他の神々や人間達の願い、思いを踏みにじることになりはしないか?
「ポ、セイドン、さんは……私だけの、神様じゃないです。ゼウス様のお兄さんで、ハデス様の弟さんで、もちろん私の恋人ですけれど……みんなの海の神様です。人にとっても、他の神様にとっても、大事な存在です。だから、私一人が自分勝手に独占してしまうのは違うような気がするんです」
「……だが、余は恐れられてもいる。お前も下界にいた頃、聞いたことがあるだろう。海の神であり、荒ぶる気質を持つと。余は時に恩恵を与えるが、殆どは罰を与えることの方が多い。余は……お前が思っているような神ではない」
ここのところ、全く見なかったポセイドンのどこか暗い陰を纏った表情に、千栄理は思わずその頬に触れる。その表情が、どこか泣いているようにも見えたからだった。触れると、ポセイドンは目だけを上げて千栄理を見る。図らずも上目遣いになる彼に、彼女はにこ、と笑いかける。
「ポセイドンさんは、自分が思っている以上に優しい神様ですよ。私、ちゃんと知ってます。表に出てこないけど、家族思いで、周りの神様を大切になさっています。海の生き物や雨に打たれる草花にも雨が当たらないように調整してくれているってことも、全部知ってます。だから、そんな顔しないでください。あなたを悲しませたかったんじゃないんです」
「ただ、私は私を赦せないんです」とまた涙ぐむ彼女に、今度はポセイドンが言う番だった。滲む涙を拭ってやり、小さくも少し冷えた体を暖めようと肌が見えている部分に腕や手をくっつけて更に密着した。
「お前は余に何もしていない。余を思って、誘惑に打ち勝った。ならば、後悔ではなく、誇るべきではないのか」
「……それでも、一度はあなたを疑って危うく飲ませてしまうかもしれないところまで行ったんです。考えた時点で、私は、あなたに、相応しくない……です……っ」
『相応しくない』というところで、耐えきれなくなった千栄理は、唇を引き結んで込み上げる胸を押し潰されそうになる程の悲しみを抑え込もうとしたが、そんなことは彼女には無理だった。却って嗚咽を押し殺すように唇は歪み、両手で顔を覆って泣き崩れてしまう。
「ほんとは……ほん、ぐすっ。とは…………は、ぁあ……っ」
「大丈夫だ。千栄理、耐えるな。余の前では曝け出していい」
「今更、その程度で嫌うものか」と耳元で言ってくれるポセイドンの腕の中で、ぼろぼろと涙を零しながら、千栄理は全てを吐き出すように言った。
「ほんとは、女の人と喋って欲しくない、し、プレゼントも……うっ、ひっく……受け取って欲しく、あり、あり、ませんっ! ポセイドンさんは、私の……私の恋人なのに! 私のなのに……っ! ごめんなさい……ごめんなさいっ! こんなこと、思ってごめんなさい……っ!」
初めて自分の心に湧き上がってくる『嫉妬』というものに、彼女は心底驚き、戸惑っていた。自分の中にこんなに強烈で醜く、激しい感情があったなんて信じられなかったし、目を背けたいと思った。しかし、ポセイドンはそうさせてくれない。優しい言葉で目の前に突きつけ、しっかりと自覚させてくる。それは千栄理を思ってのことだと彼女は理解もしていた。もし、このまま彼女が耐えようとすることを受け入れ、押し殺してしまったら、千栄理はこれから先もずっと耐え続けてしまうだろうと分かっているからだった。抑え続け、無かったことにした感情はいずれ感知できなくなり、忘れてしまう。本当はずっとそこにあるのに、消えたことになってしまう。自分と違って、千栄理から感情を奪うことだけは、彼はしたくなかった。
「謝るな。当然のことだ。余の考えが甘かった」
彼女を苦しませたくないと、無関心を貫いていた数時間前の自分を槍で突き殺してやりたい。そんなできもしないことが思い浮かぶが、今はそんなことをしている場合じゃない。どうしたら、彼女の不安を拭い去ってやれる? あの手の雑魚共は殺したところで、後から後からいくらでも湧いてくる。それに、殺すのは千栄理が望まない。ならば、何か目を惹きつけることをすればいい。何か決定打があれば、あの雑魚共も近寄らなくなるだろう。そういえば、とポセイドンはあることに気が付いた。他神の目があるところではあまり恋人らしいことをしてこなかったが、それが却って隙を生んでいたと考えれば、今日の出来事も不本意だが、納得はいく。ならば、今後も彼女と自分を守るため、ポセイドンはある提案をした。あくまでも、彼女の意思も尊重した上で。
「千栄理、泣くな。一つ提案がある。もうお前を傷付けぬと誓うためのものだ」