そっちがいい
【そっちがいい】
「国行」
言ってから、即座に審神者が口元を抑えて、一気に赤くなった顔を隠しながら「嘘! 間違えた! ごめん!」と両手で否定してくる。
「なにも間違ってないやん。ええやろ、国行」
「俺たちに釣られたかー」
「俺たちしか呼んでないしね」
明石は茶を取り替えて審神者の部屋に戻ってきたところだったが、状況を察する。
「ほな、もっかい言ってや。
おかえりー、国行ーて」
「すぐそうやって意地悪する!」
もう知らない! といって蛍丸の後ろに隠れる。
「主さん、それはさすがになんにも隠れてないぜ」
「あ、お茶ありがと国行。はい、国俊の。主も、ほら」
「うう、ありがと、蛍丸くん」
「で、ほら? 国行には?」
「やめろって……」
まだ追い打ちをかける明石を愛染が止める。こういうところが結局面倒見が一番いいのは誰だと言われたら愛染が選ばれがちな理由だろう。
「しゃあないな……。今日はこんくらいにしときますわ」
正直言い足りない、聞き足りない、というか、その手があったか、という表情だったのを、愛染はしっかりと見抜いていた。
(こりゃ、主さんも苦労するな)
明石は素直に言わない。男性を苦手としている主に対して自分からはグイグイ行くことはないが、言質が取れれば強行手段に出ないこともない。気持ちを通わせたものの、触れる練習をしているというだけで、結局ほとんど触れることの出来ない状況では、まあ、言葉での睦言を強請るくらいは審神者にも譲歩してあげてほしいとはさすがに愛染も少し明石に同情的だった。
*
「なあ、呼び方」
「嫌です」
日課となっている夕食後の逢瀬で、今日あったことや、明日の編成や今後の行事の相談など、恋仲というよりは半分以上仕事の話をごちゃまぜにしながら穏やかな時間を過ごすのが常だった。
それが、今日はお互いに正座をして、決して譲らない、という意思表示をしている。
「なんでや、加州はんやって、大和守はんだって、刀工名で呼んでるやんか」
「いや、あれは、あれで……なんか、だって、みんなそうやって呼んでるから……つい……」
「一緒やろ。蛍丸と国俊がおんなしように「国行」って言うてんのやし、なにがあかんの?」
「いや、あかんくないですけど……」
「ほな、なに? なあ、教えたってや」
こういう時の明石国行はしつこい。そして、あざとい。今だって絶対わざと下から顔を覗き込むようにしている。顔がいいのがよく見えるからやめてほしい。
審神者は動揺していた。
異性のことをまるで「下の名前」で呼んでいるようなその親しさを経験したことがないので、異常に恥ずかしいのだ。
清光や安定は弟みたいな感じだし、新選組の仲間たちも同じように呼んでいる。
だが、明石は違う。
気持ちの通じ合った男女の関係である。まだ、なにもしてないけど。
異性として意識して、彼の「国行」という名を、特別に扱ってしまいそうになっている自分に堪えられない。
それがどうしたことか、明石は「絶対に諦めない」という強い意志を今回はめちゃくちゃに発揮してくる。
基本的には流れに身を任せることが多く、よほど切羽詰まっていなければ自分の意見を言わない男が、だ。
「逆に、なんで、そんなに、国行って呼ばれたいの?」
「……」
「ちょ、ちょっと、黙らないでくださいよ……」
あのポーカーフェイスが、しれっと目線を逸らした。
「そら、好いた女子に親しゅう呼び名で呼ばれたいんは、普通やないんですか? ……よう知らんけど」
ダメだった。
完全に、こちらに大打撃だった。あのいい顔をして、「好いた女子」って誰だ? 審神者か? それはもしかして私のことなのでは? 本当に?
乙女は明石のことではなくてか?
「ちょっと、主はん、こっち帰ってきて。人の顔見て悶絶すんのやめてもらえます? 失礼ですよ?」
「顔がいいから……つい……一生見てたい……」
「そら、おおきに。ついでに名前呼んどこか?」
「それとこれとは話が別」
あ、こいつ今舌打ちしやがった。
お互いに長い溜息をついて、冷めきったお茶を飲む。そろそろ明石は来派の部屋に戻る時間だ。めちゃくちゃ納得してない顔をしている。
ずいぶん、表情が読めるようになったなぁ、とこういう時思う。
そのまま、延長戦に突入するでもなく、もう一度、長いため息をついて、明石が立ち上がった。立つ度に思うのだが、この男、足が長いな。
「ほな、今日は、これで……」
さすがに、このまま帰すのは悪いとは思うし、元々ネガティブな審神者の頭にはすぐによくない考えが沸き上がった。このまま、彼を帰してしまうのは、良くない気がする、と。
「あ、明日も来てくれますか?」
「は?」
「ずっと、嫌がってて、あ、あの、き、嫌いになってない?」
最近ようやく触れるようになった立ち上がった明石のジャージの裾を掴んで、思わず反射で言っていた。
明石が、顔面を抑えた。うっすらと、桜が舞いはじめる。
「明日、また来ますから、じゃあ名前呼んでください」
やっぱり、諦めていなかった。
*
「主、あんなに抵抗してたのに、いざ国行って呼び始めたらなんかずっと前から呼んでました、みたいな雰囲気で呼ぶよね」
蛍丸が可愛い顔をしてひどいことを言っている。案の定、審神者はその言葉に顔を真っ赤にして黙りこくってしまった。
「そりゃそうや。たくさん練習したもんなぁ」
そうニヤニヤした明石が言い返すと、察した愛染がものすごい嫌そうな顔をしていた。
「そういうのは俺たちに言うなよ……」
こうやって普段崩れない顔が崩れるのはまあ人間味が出てきてよかったのでは? と思う一方、惚気られるのも、それはそれで面白くないと率直に思った。
【相手を選ぶ靴】
「今日はぺたんこな靴なんやな」
出かける時に度々明石に靴の話をされる。
一度、会議の時に履いていたヒールの靴がよっぽど印象に残っているのだろう。確かに持っている靴はほとんどヒールのものなので、その印象は間違っていないのだが。
「国行は、私がヒールでも気にしないの?」
思わず聞いてしまった。だが、聞かれた明石は全くわからないという表情でキョトンとしている。普段は無表情が多く、なにを考えているのかわからないことも多い。
だが、最近ようやく恋仲になってしばらくして、その瞳から意志をなんとなく感じ取れるようになった。基本的に穏やかな刀だ。表情に出ないだけで。
だからこそ、こうして「わからない」時のキョトンとしている様子が普段よりも幼く見えて、蛍丸と同じような顔をするのがかわいらしいと思った。
「男性は、いえ、刀のあなたたちにはあまりわからないかもしれないけれど、女性の背が高く見えるのを好ましく思わない人も多いというから」
「はあ」
間の抜けた返事はいつもの相槌だった。あんまりしっくり来ていない時の。
「顔が近うなってええと思いますけど」
思わず、「うっ!」と唸ってしまう。さすがにギョッとした顔をされたが、審神者が顔面を覆ったので、なにかが琴線に触れたのだとわかったらしい。
「主はんのツボが、ほんまにようわからへんですわ」
はははは、と乾いた笑い声を上げていた。その雑な笑い声も好き……とは心の中に押しとどめた。
そんな会話をしたのはいつだったか。今二人は靴屋の前にいる。
「あの、あ、国行……、ほんとに、大丈夫なので……」
「なんで、ええやん。これがええんやろ? おねーさん、これサイズ違いありますか?」
「ひえ……」
勝手に店員を呼んで勝手にサイズ違いまで頼んでいる。
こちらに気を使ってか、明石は座り込んでいるが、審神者は試し履き用の椅子に座らされており、めったに見えない明石のつむじを思わず見つめてしまっていた。
持ってきてもらったのは、明らかにドレスコード用の品のあるベルベットのパンプスだ。ヒール部分は革が使われており、同じ革のアンクルストラップが付いている。一目見て気に入ったのは事実だ。それを目敏く感付かれて店内に入ったものの、普段使わない靴を買うのには抵抗があった。
「おんなじようなもんやないですか。なにがそんなにちゃうの?」
「違うのよ。違うの。ほんとに。
いつものはヒールだって、こんなに細くないもん。仕事用の靴なのよ、あくまでも。こんなかわいい靴、履いていくとこなんてないじゃない」
「せやから買うんでしょ」
「はい?」
「自分と出かける時に、履いたらええやん。好きなもんくらい」
う。どうして、こうも、記憶力がいいんだろう。
*
ヒールを初めて履いたのは十八になった頃だった。
大人っぽくなりたくて、買ってみたものの、履きこなせずにお蔵入りになっていた。
すっかり怖気ついていたのだが、常に高いヒールを履きこなす職場の先輩に思い切って聞いてみたのだ。
「履きやすいヒール? あるよ~、今度いいブランド教えてあげるね」
教えてもらったヒールの靴は、確かに履きやすくて背筋が伸びて、自分が正しい振舞いが出来ているような勇気をくれた。
力強く歩いて、前に向かって走っていく力を得た。
周囲の男性たちからは不評だったが、先輩の言葉は審神者になった今でも胸に残っている。
高く、強く見せようとしているのではない。「気高く」あるために、「私」にとってこの靴が必要なのだ、と。
男性に近寄れないこともあり出来る限りヒールを履いていたが、明石国行と恋仲となり、もしや必要ないのではないか、と思うようになった。
当然明石のほうが身長が高いので、ヒールの靴を履かないと見下ろされる状態になる。上からの視線が怖いので、やっぱりヒールを履いていたい。だが、いまだに男性恐怖に憑りつかれているようで、ヒールを卒業するのも一つの手なのではないか、とすら考えていたのだが、明石はあっけらかんとしたものだった。
「好きなもん、履いたらええでしょ」
好きなもの。
言われて初めて気付いた。私は、この靴が、ヒールの靴が好きだったのだ、と。
*
「で、でも……」
まだ渋っていると店員がサイズ違いを持ってきた。明石には靴を履かせられないため、自分でやってくれという意で「ん」と言って靴を渡される。
思わず受け取って履いてみる。
はちゃめちゃにかわいい。初見通りの可愛さだ。これはかわいい。かかともしっくりくる。これは「有り」だ。
「ええやん。かいらしいで」
「店内、歩いてみてくださいね~」
「あ、はい」
立ち上がろうとして、早速よろける。
普段は仕事用なのもあり、チャンキーヒールのようなしっかりしたヒールが多い。こんな細いヒールのパンプスは買ったことがなかった。オシャレをするための靴なんて、持っていなかったのだと今更気付く。スニーカーやバレエシューズはあるけれど、ヒールはなぜか、仕事用だった。
明石がよろけた審神者の手をさっと支えた。最近、ようやく、掌が触れられるようになって、しっかりと握られた。恥ずかしくて、外を歩く時にもまだ手を握ったことがないのに。
「あ」と思う間もなく、まっすぐに立つ。隣に立つ明石の顔が近い。こんなに高いヒールは初めてだと気付いた。
「こんなに高かったら、一人で歩けない気がする……」
思わずしょんぼりしてそういうと、明石が盛大にため息をついた。
「ほんまに鈍チンやなぁ」
「え、なにが」
「やから、買うんやって。自分と一緒の時しか履けへんてのは、そういうつもりやったんやけど」
握られた手の熱さに、全身が燃えるようだった。
「これやったら、手、繋いでくれるやろ?」
思わず、履いて帰ってしまった。
*
「あ、おかえりなさーい」
「えー、主さん、すっごいかわいい靴! どうしたのそれ!」
さすが、乱。目敏い。
「か、買ってもらっちゃった……」
「なかなか様になってるじゃないか」
ふふふ、と微笑ましいものを見る目線で歌仙が二人を見やりながらとろけるような笑みを浮かべた。
ただ万事屋に買い物に出ただけなのに、違う靴を履いて、しかもうまく歩けないからと、明石の左腕に手を預けて帰城したのだ。本丸内の伝達速度は速い。
「明石さんにしてはセンスいいじゃん」
「やかましい。それに選んだのは主はんや、自分は銭出しただけですわ」
「あ、前の靴もらいますよ」
堀川が明石が持っていた審神者の靴に気付いて受け取ってくれた。ありがたく渡すと、彼もまた眩しいものを見る表情だった。
「良かったですね、主さん」
「あ、ありがと……」
「ねえ、僕とも今度お出かけする時その靴がいいな~」
主~、おかえり~とわらわらと出迎えがやってくる。審神者が腕を離してしまった。多分もう彼女は一人で歩けるだろう。元々高めのヒールを履きこなしていたのだから。
だから、あの時の言葉は嘘ではないが、ただの願望だ。彼女は「審神者」であって、自分一振りだけの「主」ではないから。
「うふふ」
だが、隣の彼女は乱と手を繋いで玄関に向かいながら言った。
「この靴はダメ。国行と一緒の時、限定だから」
そして、少しだけこちらを見て、あの少し困ったような、でも嬉しくてたまらないという顔を浮かべた。
「好きな靴」を履いている時の、選んでいた時の、見つけた時の顔が、かわいらしくて、持ち帰りたくなったので、買ったのだ。
それが、そのままに、その笑顔を自分に向けてくれたことが、ただ、嬉しくて、今は離れてしまった手も気にならなかった。
「国行、意外と貢ぐタイプだったんだなぁ」
「ほら、桜、片付け手伝ってあげるから……」
「……すまん。あと貢いでるわけやない」
「はいはい」