第一話*My boyfriend.
図書館のカウンターに並ぶ。
さすが国立図書館とだけあって、それなりに人が集まっていた。別にどのスタッフももたもたしているわけでもなく、感心するくらいに慣れた手つきでテキパキと利用者を捌いていた。
そうして私の番がやってくる。
対応してくれた金髪の若い男に「返却と貸出です」とそれぞれの本を示して見せても、男は顔を一度も上げずに「こちら返却ですね。こちら貸し出しですね」と、それまでのように捌いていく。
「……?」
なんだろう。この男に私は何か妙な違和感を抱いた。わからない、何が私の中で引っかかったのか。その違和感の正体を探って、そこにある丸い頭を眺めていたときだ。
「はい、ではこちら返却は来週まで――、」
私が貸し出しをお願いした本を差し出しながら顔を上げた男は、私の表情を見るなりぱちくりと大きな眼で瞬きをした。
「えっ……あ、アニ……!?」
唐突に名前を呼ばれて肩を震わせてしまったのは私だ。
「……!? あ……あ?」
誰だ、この男は。こんな見ず知らずの男に、
「僕だよ! アルミンだよ!」
飛び出てきた言葉に私は度肝を抜かれて、瞬時に頭が真っ白になった。だって、待って。〝アルミン〟って。
思い出の中にいた〝アルミン〟はもっと小柄で、きのこヘアの冴えないオタク、……でも、抱きしめてくれるときはとても優しくて……、キスも、下手くそだけど、恋しくなるような……そんな男だった。
「わあ、奇遇だね!? こんなところで会うなんて! 本借りてたんだ!?」
「あ、うん……」
だが目の前で〝アルミン〟を名乗る男は、体躯も少しは立派になって、髪もおしゃれにツーブロックなんかにして……すごく、垢抜けていたのだ。これが、本当に……アルミン……?
ちらりと脳裏をよぎったのは、最後に見たアルミンの背中だった。その日もなんの変わり映えもしないアニメのTシャツを着ていたアルミン。まだ少し肌寒くて上着を羽織り、……帰らないでと願いながら、見送った背中。
そう、アルミンは、私の――、
「あの、その……っ、こ、今度、食事にでも――、」
「えっ、あ! わ、私っ、付き合ってる人……いるから……っ!」
――私はとっさに、嘘を吐いていた。
Love lies.
~愛は嘘を吐く~
「……え、……あ、あぁ、そ、そう、だよね……」
私はすぐ思い出せもしなかった〝元彼〟に食事に誘われそうになっていることを察して、とっさにそんな嘘を吐いていた。……そう、本当は、私に付き合っている人なんていない。
しかし目の前のアルミンは苦虫を噛み潰したような顔になり、
「その、ぼくも、いるし……」
気まずそうにそんなことを教えた。
そこでなぜかドクンッと心臓が脈を打った。何かに驚いたようなその反応を抑え、
「……え、あ、そう」
私はなんとかそう相槌だけを打った。
それからしばしときが止まったかのようだった。私は私で次に何を言われるのだろうと様子を見てしまったし、アルミンはアルミンで、何か言葉を探しているようだった。
「あ、うん……」
だが、それを形にしないまま飲み込む。
「じゃ、じゃあ、行くから」
アルミンの手の中から借りた本を受け取って、慌てて出口のほうへ足を進めた。
「あっ、うん! ま、またね!」
「……ん」
背中に向けて張りのある声が響き、私は「そんなうるさくしたら」なんて思いながら、聞こえるか聞こえないかわからないくらいの小さな返事をした。
アルミンが見えなくなるときも、彼はずっと私に手を振っていて、私はむずむずとこそばゆい感覚を抱きながら、そこをあとにした。
国立図書館の大きな玄関を抜ける。
――私は、久しぶりに会った元彼にいきなり嘘を吐いてしまった。どうしてあんなことをとっさに言ってしまったのか自分でもわからない。
だけども……そうかあ。そうだよなあ。
自転車の前カゴに本を入れた鞄を突っ込んで、後輪の鍵を開錠する。
そうだよ。あんなに垢抜けたのだ。彼女くらい、いないほうがおかしいだろう。……性格が変わっていなければ、穏やかで優しいままで……その上であの好青年さが加われば、それはもう、モテたことだろう。
「……はあ」
私はこの気持ちが何なのかわからなかった。このもやもやとした胸のわだかまりは何なのだろう。
そもそもあのとき、アルミンを振ったのは私で……未練なんて……なかった、というのに。
*
秋も深まったころの話だ。
私は学生のころからなんとなく続けていた音楽活動の傍ら、アルバイトを転々として日銭を稼いでいた。もう二十六にもなるのにこんな生き方をしていることに多少の後ろめたさはあり、いい加減にしないととは思いつつ、どうしても今の気楽な生活を手放せずにいた。
そんな中、前職にもだんだん嫌気が差してきて、私は職を変えることにした。
そうして目を付けたのが、国立図書館の施設内に併設された喫茶店だ。そもそも前職に嫌気が差したのも、客層にうんざりしたということが大きいため、〝図書館施設内にある喫茶店〟はさぞかし客層もいいのだろうと目星をつけたのだった。
面接を受けた日、せっかくだし何か本を借りて帰るかなんて軽い気持ちで図書館に立ち寄った。そのとき、確かに『昔、本を読むのが好きなやつがいたな』とは思った。だけど、そいつの名前を思い出すこともなければ、そいつに出くわすこともなく、その日私は家に帰った。
……だから油断したのだ。
数日後には採用の連絡があり、私は面接からちょうど一週間後、初出勤を迎えることとなった。――それが今日だった。
初出勤を終え、先週借りた本を返却ついでに、また何か借りてみようなんて思ったのが間違いだった。でなければ、借りていた本を返却ボックスに投げ入れて終わりだったはずで、アルミンとも……再会することはなかったのだから。……そもそも、普段から本を読むことを趣味と言えるような人間ではなくて、背伸びをしたのが間違っていたのかもしれない。
とにかく私は、アルミンが司書として勤める国立図書館に併設された喫茶店に、就職してしまったらしかった。なんという偶然――不運だろう。……明日からの出勤で、私がそこにいることをアルミンにばれないようにしなければいけない。……いや、なんとなく、だけども。
そうして私は数日、図書館施設内に作られた従業員用の休憩所を利用しないなどの工夫をしながら、何とかアルミンから身を隠そうと過ごした。
喫茶店の仕事は何も難しいことはなくて、すぐに仕事は覚えた。……以前、チェーン店だが他の喫茶店でアルバイトをしていたこともあり、それが手伝ったのだと思う。メニューもそうそう変わるものでもなく、慣れるべきは制服の着方と先輩たちの名前くらいだった。
私が出勤を始めてちょうど三日目になるころ。
あと二時間くらいで上がりだなあとぼんやり静かな店内を眺めていたとき、からんからんと入り口のドアにぶら下げたベルがなった。この店では客と直接やり取りをする店員だけが『いらっしゃいませ』などの声をかける決まりになっていたので、私は今店内に入ってきた客の姿が見えるまでレジカウンターの中から待っていた。
それから客がここからでも見える範囲に入ったとき、先輩が率先して声をかけに行っていたので、私は驚きに集中することができた。――そう、入店してきたのは、あの、金髪のまあるい頭のアルミンだった。横顔しか見えなかったが間違えるはずもなく、私は慌てて店内に背中を向けてしまった。
アルミンは先輩店員と親し気に話しながら奥の席へ誘導されたようだ。
その気配を背中で探りながら、理解不能な焦りを感じていた。本当にどうしてかわからないが、心臓が故障したかのようにバクバクと高速の脈を打っている。……どうしてこんなに動揺しているのかわからない。わからないけども、確かなことが一つだけあった。
――アルミンの傍らには……、お、女の子がいた。
そう、アルミンは、私くらいの小柄な女の子を連れ立って入店していたのだ。
ニット帽を被った彼女は、一瞬しか見えなかったが少し茶色の混じった金髪だった。髪の毛は肩くらいまでの長さで……利発そうな顔立ちをしていた。
オーダーをもらった先輩が私のいるレジカウンターの中へ入ってきて、店内に背中を向けている私に「何やってるの?」と尋ねてきたけども、私は「あ、いえ、別に……」と曖昧な返事しかできなかった。
とにかく、アルミンたちの対応をさせられるのはごめんだ。私はすぐにキッチンへ引っ込み、大して溜まってもいないお皿洗いを始めた。とにかく、今入ったオーダーを誰かが運んでくれれば、あとは会計時だけを避ければ私は直接顔を合わせずに済む。
ただ、一つだけ懸念したことはある。――それはアルミンが先輩と親し気に話していたことだった。……そう……つまり……もしかしなくても、アルミンはこの喫茶店の常連……なのではないか……?
――最悪だ。
頭を過ったのはそれだった。
しかも、彼女を連れてくるくらいには使い慣れた店なのだろう。
ちらりとキッチンから覗いてみると、ちょうど彼女のほうがこちらに顔が見える向きで座っていた。
先ほどは一瞬しか見えなかったが、やはり利発そうという印象は間違っていなかったようで、アルミンに向かって話をするときも溌剌としゃべっているように見えた。元気そうな印象を与えるその子は……おそらく年下なのだろうと予想した。
グッと、腹の底で何かの不快感が疼く。……これは一体なんだろうと思うと同時に、アルミンたちから目を逸らした。
アルミンの首には職員証がぶら下がっていたようだったので、もしかすると今はアルミンの休憩時間なのかもしれない。……いや、退勤後で証明を外し忘れているという可能性もあるが。
とにかく、アルミンはその彼女と、休憩時間、もしくは退勤直後に会うくらいには仲がいいらしい。それだけはなんとなくだがわかった。……わかったと同時に、なぜだかまた少し、悶々としたものをこの胸に感じた。
結局アルミンとその彼女は一時間もいなかった。会計時はなんとか忙しいふりをして、また別の先輩に変わってもらったので、顔を合わせずに事なきを得た。
会計時にもアルミンはその先輩と親し気に話していたので、なるほどこの施設内の従業員とそれなりの関係性を築いているのかと観察した。
……それもそうだ。高校のときからアルミンは優しくて人当たりがよくて、それに今は臆病そうなところが抜けて完全にただの好青年に成長したようだ。おそらく、この施設内でも人気があるのだろうとは簡単に予想ができた。
実際アルミンの会計が終わったあとに戻ってきた先輩が、「今の人はね」とアルミンのことを褒めちぎり始めたので、どうやらそう予想も間違っていなかったようだ。その先輩曰く、アルミンは三年前からこの図書館で司書をしているらしく、彼女ももう随分前から連れてきているらしい。彼女さんも可愛い子よねえ、と付け加えて、先輩はまた仕事に戻っていった。――まさか私がそんなアルミンの高校のときの彼女だった、なんて言ったら、やはり驚かれるだろうなと思う。いかんせん私は〝今の彼女〟からは想像も着かないような根暗女なのだから。……と、とにかく、私は元カノです、なんて、そんなことは言いはしないが、ちょっとだけ納得がいかないような、変な心地になった。
次の日、今度は出勤したら既にアルミンは喫茶店にいた。
たいそう驚いたが、また気づかれぬようにそそくさとキッチンに私は引っ込む。
しかも今日は昨日の女の子とはまったく違う黒髪の女と一緒にいる。それに驚いて、まさか二股か、なんて勘ぐりもしたが、よく見たらその女には見覚えがあった。――そう、彼女は高校のときからアルミンとつるんでいたミカサだ。彼女とまだ親交があったのか、と思ったが、またしても二股か!? と不穏な予感が過り、しかしすぐにまた別の男が合流したので様子を見た。……その男も見覚えがあった――今でこそ長髪をこさえているが、あれは平々凡々だったエレンという男だ。……高校のときからこの三人組はいつもの取り合わせさながら、よく一緒にいたのを覚えているし、そういえばミカサはエレンにゾッコンだったことも思い出したので、やはりアルミンの二股はあり得ないという結論に達した。
しかしそうこうしていると、なんと今度は昨日の女の子がその三人組に加わったのだ。……ああ、そうか、これはダブルデートのようなものかと答え合わせをさせられた気分になった。
高校のときから仲が良かった三人――そしてそれに加わるアルミンの彼女を見て、ああもうそんなに入り込んでいるのかと少し落胆のような残念さが込み上げた。……何をこんなに落胆しているのか、私はもう八年も前にアルミンと別れたというのに。どうして今さらこんな気持ちになるのだろうと、自分で自分が理解できない。あまつさえ、少し前まで完全に忘れていたのだ私は、アルミンという男のことを。
とは言え、抱いてしまうものは仕方なく、昨日も何度か抱えた悶々を押し退けながら、とりあえず今日も顔を見られないようにしなければと一人決意していた。
――というか……もう既にこの喫茶店のアルバイトを辞めたくなっている自分がいることには気づいている。確かに客層は申し分ないが……こんなことがこの先も続くようなら、これは気が気ではない……。
「すみませーん」
私がキッチンでウェットタオルの補充をしていたとき、ホールのほうからアルミンの声がした。当然私はビクついて硬直してしまったが、それは上手く隠せたのか先輩に「今手が離せないからあなたよろしく」と背中を押されてしまった。
……ああ、ここか。万事休す。私はこれからのこのことホールへ出て行って、一番知られたくなかったアルミンに、ここにいることを知られてしまう。
「……ん」
「……ん?」
しかし、顔を伏せ気味にホールへ繋がるレジカウンターのほうへ出ると、レジの前にアルミンではない男が一人立っているだけだった。ちらりと顔を見てまた伏せたが、それはエレンだということがわかった。
なんだ、アルミンはいないのか。
とんでもないくらいに身体から緊張感が抜けたのを自分で感じる。
「お、お会計はこちらになります……」
またしても正体を隠すようになるべくぼそぼそと伝えたら、エレンも「ん」と不愛想に取りまとめたらしいお金をトレイに置いた。その自然なやり取りを肌で感じて、私はこれは、と閃きを得る。
――やった。エレンは私だということに気づいていない。
歓喜を隠しながら、いつも通りを装いレジを続けた。お釣りを改めてトレイに置き、エレンが小声で「ごちそうさまでした」と呟いていったので、それは少し面白く思い、思わずその背中を見送ってしまった。……確かに、学生時代からそういうことを言いそうなやつではあったが、それは健在のようだ。
私も「ありがとうございました」と小声で送り出し、今日の業務は終わったと思ってしまうくらい、全身から力が抜けた。……はあ、よかった、アルミンにばれなくて、本当によかった。
エレンが去っていったあとの伝票を手に取り、しかし本当に転職を考えないといけないなと思い始めたときだった。
からんからん、と入り口のベルがいつもより少し乱暴な響きで鳴って、それからすぐにタタタと駆け足が入店したことがわかった。なんだなんだ、と顔を上げたときにはもう既に――アルミンが私の目の前にいた。
少し大きめの眼をまん丸と見開いて、私の顔をまじまじと観察した。
……ああ、だめだ、ばれた。
私の中にあったのは、そんな諦めの言葉だけだった。
「あ、アニだったんだ!?」
「えっ、あ、アルミン……!」
「えっ、ここで働いてたの!? わあ、ぜんぜん気づかなかったや。なんで言ってくれないの。びっくりしちゃった!」
「え、あ、その……」
よほど不意を突かれた気分だったのだろう。私に言葉を挟む間もくれずまくし立てていたアルミンは、言いたいことを言い終えたあとにようやく自身が身を乗り出してまで食いついていたことに気づいたらしかった。
気まずそうに「あ……」と声を落とすと、カウンターに突いていた両手をそろりそろりと下ろし、そうしてそのまま、片方でその形のいい後頭部を撫で始めた。
「あはは、ごめん。……た、ただの元彼だもんね……そりゃ、言いたくないか……」
アルミンに言われたことはまったくその通りなのだと思う。だから私は必死にアルミンから身を隠そうとしていたし、その理由は〝元カレだから〟で十分なはずだ。――だが果たして本当にそれだけだろうか。アルミンの彼女を目撃してしまったときのような、悶々とした不快感がまた湧き上がる。この、気持ちを上手く言葉にできないときのもどかしさのようなものは、一体何を意味しているのだろう。
結局言葉が何も選べなくて押し黙っていると、アルミンは落としていた視線をなんとか持ち上げて、私を控えめに捉えた。
「……あ、アニ、その、今度よかったら食事でもいかない……?」
は、と我に戻る。
そうだ、初めて再会した日も、アルミンは私を食事に誘おうとしていた。……しかも、その口で『彼女がいる』と宣言したくせにだ。アルミンの向かいに座って、楽しそうにおしゃべりする〝彼女〟の姿が浮かんで、それがどうしてまたしても腑に落ちないような、小さな苛立ちを抱かせた。
だって、そうだろう。
「は? あんた彼女いるんでしょ?」
彼女がいるのに、しかもその彼女は今現在店の外で待っているというのに、そんな状況で元カノを食事に誘うのか。どんな神経をしているのか。
おそらく私は眉間辺りに深い皺をこさえてしまっていたのだろう。アルミンは慌てて息を改めてから、
「えっ、あ、そ、そういうんじゃなくてっ、」
と珍しく狼狽えた。付き合っていたときに何度かからかったりしたが、その時と同じような表情だったので、これは〝あの〟アルミンなのだと、ここで妙な実感を得る。
「あ、じゃ、じゃあさ! ダブルデートなんてどう?!」
さも名案でも思いついたように、アルミンは作った笑顔でにこやかに提案した。当然『付き合っている人がいる』というのが真っ赤な嘘である私はその提案にギョッとしてしまい、さらに言葉を失くしてしまった。それなのに、この口から生まれたようなおしゃべりな男は止まるところを知らず、
「君が今どんな人と一緒にいるのか気になるしっ」
「えっ、いや、」
「お願い! 一度だけでいいんだ!」
また身体を前のめりに倒しながら、賛成を促した。
な、なんてしつこさだ……。私はどうやってここを切り抜ければいいのか。
失くしてしまった言葉を探している間にアルミンはまたハッと何かを思い出し、不要レシート入れから一枚のレシートを取り出すと、自身の胸ポケットに入っていたボールペンを握りしめた。
「あっ、と、とりあえずこれ僕の連絡先!」
すらすらとそこに文字列を並べていく。
「考えてみてさ……よ、よかったら……その、会えたらいいな」
そうして今度は、わざとなのか勢いを一旦引かせてから、おずおずとそのレシートを私に差し出した。
それを受け取るべきなのか、私は考えた。これを受け取ってしまうと、アルミンは必然的に私から連絡が入るのではないかと期待してしまうだろう。私もアルミンとの連絡手段を得てしまうことに、少しのためらいがあった。……こんなものを手にしてしまったら、私は……、
「あ、ほら、僕彼女いるから君に手は出さないし、そこは安心してよ!」
またしても人のいい笑顔でアルミンは言う。結局私はうんともすんとも言っていないのに、入り口のほうから「おいアルミン」とエレンの声がして、そのまま「あ、ごめん! みんな待たせてるんだった! ごめんね、またね!」と、連絡先だけをそこに置いてアルミンは店を出て行ってしまった。
「あ、うん……」
私がようやく返事ができたころには時すでに遅く、アルミンの姿はまったく持ってこの店では見つけられなくなった後だった。
サア、と血の気が引いていくような感覚が背筋を走る。
そうだ、ばれてしまったのだ、アルミンに。私がここにいること。
そうしてそこに置き去りにされた連絡先を記したレシートを見つける。
そう、時間の問題だったとは言え、私は間抜けにもここで働いていることが知られてしまっただけでなく……、その、だ、ダブルデートにまで誘われてしまったのだ。
断るのが手っ取り早いのかもしれない。……けれど、それはどうだろう。反対にさくっと誰かに相手をお願いしてアルミンを満足させたほうがすぐに収まるような気もする。……アルミンに私が現状で幸せなのだと見せてやれば、それで満足するはずだ。
私はそれからというもの、そんな大役を誰に頼めばいいのかと大層悩む羽目になった。
なんて言ったって、私の周りの男たちに適役がいるとは思えなかったからだ。
まず始めにライナーは論外だ。それからベルトルトも彼らと面識あるから却下する。アルミンの知らない男の知り合いならバンドメンバーに派手な兄弟はいるが、兄のほうは少し年上すぎる気もするし、弟のほうは〝そういうの〟にめっぽう向いてなさそうだった。――そうして残るあとの知り合いなんて早々いなくて……、
「――あ、」
私は一人だけ思い当たる節が浮かんで、バイトの休憩中に早速メッセージを送って打診することにした。『元カレと偶然再会してしまって、言い寄られて困っている。彼氏のふりをしてほしい』と送った。少し大袈裟にはなったが、これくらいしないと助けてもらえない気がした。
そうして退勤するころには返事がきていて、それは詳細を求める内容だった――。
***
なかなか全員のスケジュールが合わず、結局ダブルデートが実行されたのは、それから十日ほど時間が経ってからだった。私たちは待ち合わせのテーマパークのチケット売り場の手前の広場で合流した。
私の隣には背の高い黒髪のおかっぱ男がいて、アルミンの隣にはやはりあの小柄で元気そうな女の子がいた。……わかっていたことではあるが、やはりこの子がアルミンの今の彼女なのかと確信に変わった。
「こんにちは。みなさん」
四人が集まったところで、アルミンが率先して声をかけた。それに続けてほかのメンバーも次々に「こんにちは」「こんにちは」「ああ、こんにちは」と声を重ねていく。
言い出しっぺなのだからと責任感を抱いているのだろう、アルミンは高校のときはそんな柄でもなかったが、今日はどうやら主催として皆を引率していくつもりらしい。その証拠にまた一番に口を開き、
「えと、僕がアルミン・アルレルトです」
自己紹介を始めた。
「今日のダブルデート楽しみでした。で、こっちが彼女のルイーゼです。大学時代の後輩なんだ」
「よろしくです!」
ルイーゼと呼ばれた女の子は、予想通りの溌剌な声使いで挨拶をした。私なんかと違って声も女の子らしく可愛らしいもので、笑顔も近くで見るといくらも愛嬌があった。――ああ、これは完全に私の上位互換だ、なんて卑屈なことを、無意識のうちに考えた。
「ああ、よろしく」
しかしそんな私の心境など誰が知るわけもなく、私の隣にいた、この四人で一人だけ――主に頭が――突出している男がずい、と会話に入り込んだ。
「俺はマルロ・フロイデンベルクだ。アニの恋人だ。アニとは共通の友人を介して知り合った」
「あ、そうなんだ」
「今日はよろしく頼む」
「うん。よろしくね」
私は横目でマルロを見やった。――そう、私が彼氏役をお願いしたのは、友人ヒッチの恋人のマルロだった。正義感も強く真面目なマルロは、きっと助けてくれると踏んでいたが、即答で引き受けてくれたときはさすがに驚いた。そして頭の回転も速いので、それなりに〝演じること〟もできるだろう。……バカ正直なところさえ押さえられれば、だけども。
そのあと、私も簡単に名前を名乗って、これで四人すべての名前が出そろった。さあ、これから入場……と、思いきや、そんなことよりも先にと言わんばかりに、
「ところでマルロは何をしてる人なの?」
アルミンが早々にマルロに尋ねた。
私が今どんな人といるか気になっているとは言っていたが、これは本当に気になっているのだなと納得せざるを得ない。
「俺か? 俺は警察官だ」
マルロもマルロでなんのけなしに答えるものだから、こちらが拍子抜けしてしまう。
「け! 警察官! す、すごい……でもなんか納得だな……出立ちがもう警察官って感じだ」
「そうか?」
「うん。とってもね。優秀な警察官なんだろうなあ」
「まあ、それなりに自身を律しているつもりだ」
「うんうん」
やはり人当たりがいい部分は変わっていないようで、アルミンはマルロと円滑に会話を進めていく。
「君は何をしてるんだ?」
マルロもアルミンのことが気になったらしい。尋ね返している様子を、私とルイーゼは黙って見ていた。
問われたアルミンは何か申し訳なさそうな仕草で、
「僕? 僕はしがない図書館の司書だよ。警察官みたいな立派なものじゃ……」
と言いかけた。だが、それに対してまたマルロが口を挟む。
「ん? 誇りを持ってやっていれば、仕事に優劣などないだろう」
マルロらしい一言だなと私は横で聞いて思っていたが、ルイーゼは完全にぽかんとした顔つきで見ていた。――それはまあ、マルロみたいな人間はあまり見かけないので、珍しくはあるだろう。
アルミンは先ほどの申し訳なさそうな顔を少しだけ変えて、「うん。そうだね。変なこと言ってごめん」と断ったが、マルロも特に何か気に障ったわけではなかったようで「いや、いいが?」と腑に落ちなさそうに答えていた。
ともあれ、ようやくここからだ。
私たちはようやく集まったこのテーマパークへ入場することにした。どうやら今日は男性陣のおごりとなるらしかった。
入場して早々、私たちは何に乗ろうかという話で盛り上がった。……いや、まあ、この面子だと主にルイーゼが提案をして、それをアルミンが精査して、私とマルロで承認するような形だった。
始め、アルミンとルイーゼは私たちに気を使っていたのか手を繋ぎもしなかったが、時間が進むと段々ルイーゼのほうがアルミンの腕を抱いたりと、少しべたべたとし始めた。……それでも、私は二人の関係性に何かの引っかかりを覚えていたのだけど。……なんだろうか、アルミンのほうが少しルイーゼに遠慮しているというのか、それは私たちの手前、そこまでくっつくなという意思表示なのかもしれないが、そういう、何とも言い難い不可解さを、二人は終始孕んでいた。
「……アルミン」
「あ、うん。なにかな」
それでもいい大人が四人集まったのだ、それなりに楽しんで夕方を迎えたころ、一休みに入ったカフェテリアでルイーゼが化粧室へ席を立ったときだった。……マルロが、思い詰めたような声色でアルミンに呼びかけた。アルミンだけでなく、私も何を言うつもりなのかとはらはらしてしまった。そういうトーンだったからだ。
そうして案の定、
「もうこれ以上、アニに付き纏わないでくれるか」
マルロは少し強いくらいの眼差しでアルミンを咎めた。
「……え?」
「ま、マルロ!?」
虚をつかれたのはアルミンだけではない。別にそこまでしてくれなんて一つもお願いしていないのに、彼氏役を依頼したときの『言い寄られている』が悪い方向へ働いてしまったのか、マルロは正義感満載のその顔つきでアルミンの反応を見ていた。
「見て分からないのか。アニは迷惑している。彼女がいるのにほかの女性に執着するのは健全とは言えないな。ルイーゼがかわいそうだろう」
そんな、アルミンにとって図星のことをグサグサと言葉で刺していくものだから、見ているこちらのほうが緊張感に飲まれてしまった。
「……え、あ……っ、その……」
「今後、アニを見かけても話しかけないでほしい」
「……ま、マルロ!」
余りに真正面から咎めるものだから、アルミンもどう対応していいのかわからない様子だ。それを見て私はなぜかたいそう焦った。そんな風に、ましてそこまで言う必要なんてないのに、そう私が割って入ろうとしたところ、
「なんだ、こういう男ははっきりと言っておいたほうがいいだろう」
マルロは私にまでそう諭してきた。
いや、そう。そうなんだけど。そうなんだけど。
マルロが恋人であることが嘘である手前、なぜだか底知れぬ罪悪感が私を埋め尽くしていた。これは……アルミンに対する罪悪感だ。
しかしアルミンはアルミンでマルロが言った言葉を素直に受け止めたらしく、「……あ、うん……その、ごめん……」とまずは謝罪を聞かせた。この状況が居たたまれなかったのか、私たちと合わせようとしている視線は何度も泳いで、「えと、」と害のない言葉を探しているようだった。
「その、ほんと、僕はアニが今どうしてるか知りたかっただけで、ほんと今後どうこうしようとか……そういう気はなかったんだ……でも、気を悪くさせたよね、ごめん」
私のほうを向いて深く頭を下げられて、私の中に湧き上がっていた罪悪感がざわざわと不快に掻き立てた。マルロが言っていることは正しいのだが、私は別にそこまでアルミンに言ってほしいわけではなくて……――ああ、そうか。私はアルミンに傷ついてほしくなかったのかもしれない。
「あ、アルミン……」
「……ま、まあ、わかってくれているならいいんだ。こういうことは今回限りにしてくれ」
「うん。そうするよ」
マルロがぽんぽんとアルミンの肩を叩いて、アルミンはもう一度だけ申し訳なさそうに微笑んだ。それは今日合流したときよりも、もっともっと深い、申し訳なさそうな顔だった。
けれどそれを見て、私もアルミンに謝りたい気持ちでいっぱいになっていた。私は別にこんなことを望んだわけでないのだ――だけど、この場にマルロを呼んだのも私で、私がここでアルミンに謝ったら、それこそマルロの立つ瀬もなければアルミンのこの行動を肯定する意味にもなってしまう。それはわかっていたから、心の内から湧き出てくる謝りたい気持ちをなんとか静めて、目の前にあったココアを飲み干した。
少しの間だけ気まずい空気が流れ、このときほど『ルイーゼ早く戻ってきて』と願ったときはないだろう。
そしてルイーゼが戻ってきたとき、だいたい周ったしそろそろお開きにしようかとアルミンが言い出した。元からそう言うつもりだったのか、はたまたマルロの話を真に受けてそう判断したのかはわからかいが、誰からも異論は出なかった。
アルミンとルイーゼとは、テーマパークの出口の前で分かれた。それから私とマルロは二人きりになり、先ほどの余韻なのか、なんとなくとぼとぼと歩いてしまった。
「……その、今日は付き合わせて悪かった」
切り出したのは私だ。
警察官というハードな仕事のたまの休日をこんなことに使わせてしまって、改めて申し訳なくなったのだ。アルミンに対して説教をしたのだって、マルロがそれだけ私を心配してくれていたということだったのだと、少し時間が経ってたから理解した。
けれどマルロはいつもの精悍で真面目な声使いのまま、
「問題ない。ヒッチにとってお前は大事な友人だからな。困ってるなら助けてやるのは当然だ」
「あ、うん」
なんて、堅物そのもののような返しをしてきた。
ときどき、よくあの自由奔放なヒッチは、こんなガチガチな堅物くんと一緒にいられるよなと思ってしまう。まあすべてはバランスと相性なのだろう。そういう意味では、この二人はよくお互いを見つけたなと褒めてやりたいくらい絶妙なバランスを保つ二人だ。
――そう、私とアルミンなんかとは違う。私たちはまったくのちぐはぐだったから。
「……しかし、彼女がいるのにアニにまで執着するなんて、まったく気の多いやつだな。また何かあったら言うんだぞ」
なんとなくふわりと浮かび上がったあのころの光景に気を取られていると、マルロに呼び戻される。『言い寄られている』というのは少し大袈裟に言った自覚はあって、だからマルロのアルミンに対する印象を悪くしたのは私の非だなと反省した。
「あ、うん。あ、ありがと」
ただ、訂正する理由は見つからないので、そのままにしたけども。
ちらりと思い出したのは、私とマルロの前を歩くアルミンとルイーゼの後ろ姿だった。見るからに彼氏にべたべたしたがる彼女と、それを少し恥ずかしがる彼氏……という構図だったが、どことなく雰囲気が〝違う〟ように感じて、私の中でピン留めされたように思い出された。仲は良さそうだったのだが……こんな恋人もいるんだなと、不思議になるような二人だった。
***
それからというもの、マルロの言いつけを律儀に守っていたのか、アルミンはとんと喫茶店には現れなくなった。私は借りていた本は返却ボックスに投げ込んだし、そのあとは何も借りたりしていない。つまり、私たちはあれからまた接触を絶ったのだった。
けれど同じ建物の中で毎日過ごしているのだと思うと、それはなんだか不思議な気持ちにもさせる。
すぐそこにいるのだと思うと――、いつまたからんからんとベルを鳴らしてアルミンが入店してくるだろうかと、そんなはらはらとした気持ちはいつまでも拭えない。爽やかな顔をしてまた彼女と一緒に入店してくるのではと、四六時中考えてしまうことすらあった。
……アルミンと彼女はお似合いだと思う。落ち着いて物腰が柔らかなアルミンは、バランスを考えると、ああいう少し溌剌とした元気な子が似合う。私なんかより。そう、私とアルミンはもう八年も前に終わって、もう始まることはない。――毎日毎日、私は飽きもせずにそんな結論に達して、そうしてまた得体のしれないわだかまりを捏ね捏ねと捏ねるのだった。
そんなある日のこと。
この日は天気予報でも警告されていたほどの大雨になった。私は普段は自転車で通勤していたが、さすがにこの日は傘を持って徒歩で出勤した。出勤時はまだ降っていなかったが、これから間違いなく大雨になると散々脅されていたのだから。
だが退勤の時間になり、私は国立図書館の玄関先で途方に暮れていた。
……私が持って出勤したはずの傘が、どこにも見当たらなくなっていたのだ。
……盗まれたのか?
そう思って初めて、ロッカールームに置いておくべきだったと頭を過った。深く考えずに行動しているからこういうことになる。
見上げると、曇りで低くなっている空から大粒の雨が容赦なく降り注いでいる。……だが、傘もないのではどうしようもない。まさか私まで誰かの傘を盗んで帰るわけにはいかず、このまま雨に濡れながら歩いて帰らなくてはならないのかと理解して、うんざりした気持ちのまま大きなため息を吐いた。
もう一度見上げてみても、そこからのどんよりとした光景は変わらない。
くそ、私の傘を持ち帰ったやつが、小指を箪笥の角にぶつけて痛みに悶え転がりますように。……そんな陰湿なことを考えながら、よし、と一歩を踏み出したときだった。
「あ、アニ?」
背後から呼ばれて振り返ると、不思議そうに首を傾げてこちらを見ているアルミンがいた。
ドキリ、と心臓が脈を速くしたのは、まだアルミンのツーブロックに慣れないせいだろうか。その首筋を見ていると何か居たたまれなくなって目を逸らしたくなり、私は急いで地面へ視線を落とした。
この大雨の中、一歩を踏み出そうとした私を見ただけでいろいろと察したのか、アルミンは自身の傘をぶら下げたまま、一歩一歩と私のそばへ歩み寄った。
そうしてそれから、アルミンもこのどんよりとした空を見上げて、
「その、嫌かもしれない……けど、一応、聞くね……。僕の車で、家まで送ろうか?」
雨の日に車で家まで送ってくれるのは、下心だろうか。それとも、同僚ならこれくらいしてくれるもの? 私は考えすぎだろうか――身構えすぎ、だろうか。
尋ねられただけで身体が強張ってしまった私は、それからもなんと返事をするべきかずっと答えを探していた。
正直なところ、お願いしたいという気持ちは大きかった。雨に濡れるのはもちろん嫌だったが……、何か、そうではない、そうではなく、何か衝動のような、不明瞭なものが私に『そうしてもらえ』と促してくる。
ちらりとアルミンを盗み見てみた。
アルミンは私とは目を合わせず、少し眉尻を下げて返答を待っていた。……なんとなく寂しそうにすら見えたその顔つきに、私は一気に惹き込まれてしまった。――どうしてそんな顔をするのだろう。アルミンは、彼女がいて幸せなはずだというのに。
「……あ、その、」
「うん。お願い……する」
何かを言おうとしたアルミンの言葉を遮って、私は自分でも気づかない内に返事をしていた。
彼女がいるのに私を誘うような、そんな優柔不断、もしくは軽率な男ではなかったはずだ、アルミンは。私と一緒にいたときのアルミンは、引っ込み思案で、でも優しくて、やりたいと思ったことには驚くほどの行動力を見せる男だった。そしてアルミンは今、傘のない私を見て、放っておけないと思ったのだろう。
とどのつまり、私も、〝今の〟アルミンを知りたかったのかもしれない。もっと近くで、あまつさえ、あのころのアルミンを、どこかで感じたかったのかもしれない。
私の返答を聞いたアルミンは始めこそ驚いたようだったけど、すぐにその頬を綻ばせて、
「……そっか。わかった」
何か安心したように笑った。
> 第二話 *About our break up.