第三話*I didn't wanted to see you no more.
「アニ、ごめんね。ちょっと待たせてもらって、」
「――なんでいるの?」
アルミンの言葉を遮って私は問い詰めていた。自然と止まった足で地を踏ん張り、ただひたすらにアルミンに焦点を絞ってその答えを待った。
暗い電灯でも鼻頭が真っ赤になっていることがわかる。そこから考えても『ちょっと待たせてもらった』なんて嘘だ。きっと仕事が終わってからここにいるに違いない……この寒空の下? こんな長時間?
しばし言葉を選んでいたアルミンも、私の眼差しを見て観念したように表情を変えた。誤魔化すように笑っていたのが薄らとした微笑みにとって代えられ、
「あの……やっぱりどうしても一人だとモヤモヤしちゃって……君に、聞きたいことが、あるから……」
――聞きたいこと。
私の中で腹を括るような強張りが巡った。
それはそうだろう、ずっと言っていた……アルミンは、何度も『私に聞きたいことがある』と。そしてそれは、きっと〝あの日〟のことなのだろう。……私はそろそろ観念して向き合わなければならない。それこそ、もう逃げ回っていても埒が明かないのはわかっていた。
ふう、と深呼吸をしてギターを担ぎ直した私はようやくまた歩き出して、アルミンを押しのけて自宅の玄関を開いた。それを見守るアルミンをそこに残し、私だけが玄関へ踏み込む。
「……なに? 要件ならここで言いな」
あくまでアルミンは外に置いたまま、玄関のドアから顔を覗かせて言ってやった。
話の内容として私が問い詰められる側だとしても、彼女がいるくせにそうホイホイとほかの女の家に上がれるなんて思うなよ、と、なぜか湧いてくる強気を保ってアルミンと対峙した。前回家に上げたのはお礼だったのだから、あれは別件だ。――もしかして保身だったのかもしれないが、アルミンはそんなことを気にしている様子はない。
俯いていた顔で視線を泳がせたあと、ふわりと顔を上げてしっかりと瞳を覗き込まれる。『あ、責められる』、そう私は身構えた。
「……なんで、嘘を吐くの?」
「……え?」
てっきり『あの日のことだけど』と切り出されると思っていたので、不意を突かれて用意していた言葉が飛んでいってしまった。
「マルロと恋人って話、嘘でしょ?」
「……っ!?」
さらに驚くべき言葉が続けられ、今度こそ思考がすべて白紙と化した。
うそ、どうして。どうしてわかったの。やっぱりわかりやすかったか。ばれてしまった、マルロのこと。嘘を吐いていたこと。
「誰かと付き合ってるって言うのが、そもそも嘘なんじゃないかなって……」
「えと……それは、その、」
はいそうです、などと簡単に認められるようなら、おそらく始めから私は嘘なんか吐いていなかっただろう。この期に及んで何か言い訳でも探していたのか、まったく頭の中で言葉がまとまらず、意味のない感嘆だけが口をついて出ていく。
「……アニ」
改まった声が私の浮足立った意識を釘づける。
「なんか部屋の感じとか、彼氏と付き合ってるって雰囲気でもなかったし、デートのときも、君とマルロは手も繋がないし、会話もそんなになかったし……」
ああ、そうか、アルミンはもう、あのダブルデートのときから私のことを怪しんでいたらしかった。確かにアルミンとルイーゼが手を繋いでいないことに気づいていたというのに、私は自分がマルロと手も繋いでいないことには気づきもしていなかった。……それはなんと、なんと間抜けだったのか。
「マルロのことを君と話したときも、恋人の話なのに興味薄そうに話してて……馴れ初め話も『共通の友人を介して知り合った』ってマルロは言ってたのに、君の話では『合コン』に変わってたり……」
ドキリ、と心臓が跳ねあがる。確かにそうだと今さら自分の落ち度に気づく。
「そもそも、あれ君の話じゃないんでしょ? ……その、君を試すようなことをしたのは、悪かったって思ってる。ごめん」
――ああ、そうか。ルイーゼの誕生日プレゼントを選びたいから付き合ってというのも、本当は私からマルロのことを聞き出す口実だったのかと理解した。アルミンとしても確証が欲しかったからわざわざそんなことをしたのだろうが……そんな、嘘だとわかっていて私に話を合わせていたというのか。この男は。
果たして腹が立ったのか、それとも嘘がばれて焦ったのか。
「……帰って!」
「えっ、アニっ」
私はまた逃げるように思い切り玄関の扉を閉めていた。ガチャリと施錠された音がアルミンの声と重なり、
「待ってよ!?」
玄関の向こうから必死に呼びかけるアルミンの声が続く。
すべてが知られていたとわかり、私は眩暈を起こしているような感覚に陥った。目の前がぐるぐる回っているように見えるというのか、とにかく激しく動揺していた。
だって、恋人がいるというのが嘘だったとばれてしまった。……じゃあ、次はなんだ? そうだ、そもそも本当は私に恋人なんかいないとわかったところで、それをどうしたいと言うのか。なんでわざわざ面と向かって私に確認した?
「あ、あんた彼女いるくせに何!? 私とマルロが嘘だったとして、それをどうしたいの!? あんたには関係ないでしょ。あんたには可愛い彼女がいるんだからっ! それとも何? 二股でもかける気!?」
一思いに浮かんだことをすべてぶちまけてやった。なんでかわからない、わからないけど、とんでもなく心臓の鼓動が早くなっていて、とんでもなく焦っていた。
私自身はアルミンのことを意識してしまっているのはわかっているが、だからと言ってアルミンには関係のない話だ。これまで円満に連れ添ってきたルイーゼという彼女がいるアルミンが、今さら私とどうこうなるはずもないのに。ないのに、ならばどうして。
「アニ……ここを開けてよ。僕の話を聞いてほしい」
私が半ば怒鳴ったのに対して、アルミンはとても静かに言葉を紡ぐ……それはむしろ少し寂しそうな声色にも聞こえて、私はその声色にいとも簡単に惹き込まれてしまった。うっと何かが私の胃を押し上げて、気持ちが悪くなる。一方的に取り乱してしまったことに気が回ったが、それでも今さらアルミンの言いたいことを素直に聞けるほど、心は落ち着いてもいなかった。
だから何も返せずに、ただ静かにアルミンが諦めて帰ってくれることを願った。
「……アニ、ごめん」
けど、そう思い通りにもいかず、アルミンはゆっくりと諭すような声かけを続ける。
「ルイーゼも、――僕の彼女じゃない」
その言葉が脳みそまで届いた途端、ハッと、呼吸が大きく乱れた。息苦しくなるほど、私は驚きのせいでそれの仕方を忘れてしまっていた。
……今、なんて?
「彼女は、なんていうか、ミカサのファンでさ。最近はエレンにも入れ込んでて……それで、僕が相談に乗ってあげてたんだ。……ダブルデートのときは、君の前でだけ、僕の恋人のふりをしてくれって頼んだ。それだけ」
淡々と語り始めたアルミンの言葉に、これ以上ないほど意識を注いでいた。
「……は? なに、それ……?」
これまで何度も劣等感を抱いた自分を振り返り、そんなはずがないと頭で勝手に否定した。……これはアルミンの考えた嘘だ、そうに決まっている。だって、だって、あんなに。
「そんな都合のいいこと、信じられるわけないでしょ。あんたたちあんなに仲良さそうだったのに」
「ほんとなんだ。なんなら今からルイーゼに電話するから、直接聞いてくれてもいい」
扉越しのアルミンの声色がどんどん穏やかさを増していく。私がそう感じただけかもしれない。どんどん……愛おしく感じていく。アルミンが本当にルイーゼと恋人ではないのかもと思った側から、これだ。
けれど、ならばなんで、どうして。アルミンは……ルイーゼとは恋人ではない……の?
「……なんで。そんな嘘を吐くの?」
「それを説明したいから、ここを開けてくれてないか」
もうだめだった、その最後の声使いで、アルミンが本当のことを言っているのだと納得してしまった。自分でも理屈はわからないけども、ただの直感で、この男は本当のことを言っているのだと受け入れていた。――いや、もしかするとそんな確証なんてなかったのに、私はただこの扉を開けたかっただけなのかもしれない。
けれど、本当に開けていいのか? ここを開けたところで、私に何か不利なことが起こらないだろうかと考えてみた。冷静ではない自覚はあったけれど、やはりそうしたところで考えは何もまとまらなかった。
「……アニ?」
ここを開く以外に、ほかにどうしたいのかわからない。アルミンのこの閑やかな声に惹かれるように、私はゆっくりと扉の鍵に手をかけていた。
静かになった空間では、開錠した音がやけに響く。今ごろ家の中が真っ暗だったことに気づき、玄関の電気を点灯してから、のそのそと進まない手つきで玄関の扉を開いた。
そこには星空を背負うアルミンが立っていた。白い吐息が膨らんでは消えて、丸い鼻のてっぺんは真っ赤なままだ。
「……アニ……その……、」
少ない光を反射させて、アルミンの瞳が揺れている。私の視線を捉えたり、どこかへ泳いだりと忙しなく揺れている。
「とっ、とりあえず、入りなよ……。寒いでしょ」
私はそれから目を逸らすように一歩を引いて、アルミンを招き入れた。
アルミンも何かを思い出したように瞳を上げると、
「あ、うん……」
足元を確認しながら私の家の玄関へ入ってくる。
「ごめん。ここでいいから」
奥のリビングへ向かおうとした私を引き止めるように、アルミンは玄関の真ん中で靴も脱がずにしっかりと立っていた。一度踵を返しかけた私は、また身体をそちらのほうへ向ける。
「……それで、その」
ゆっくりとその口を開いたのはアルミンで、私はただ静かにそれを聞いていた。
「僕がなんでこんな嘘を吐いたのか聞いてほしいとは言ったんだけど、僕もそのあと、君に同じことを聞きたい……んだけど、いいかな」
ちらりとその瞳が私のことを盗み見る。
なぜ私が恋人がいると嘘を吐いたのか……?
再会したあの日のことを思い出しても『咄嗟に』としか言葉が浮かばない。何かを一生懸命に計算して言ったわけでもないからだ。だから私は深堀りされる前に、と、
「べ、別に。これと言って深い理由はなかったけど」
先に答えを教えておいた。
けれどそれを聞いてアルミンは何の反応も示さず、
「……とりあえず、先に僕の話をするね」
ただそれだけを淡々と連ねた。私は瞬時に自分の言葉が信用されなかったのだと悟り、そのあとも言葉を続けていくアルミンの目の前で、非常に強いばつの悪さを感じていた。ドッドッと心臓の鼓動が絡みつくように私の意識を圧迫する。
「再会したあの日、君が僕に『恋人がいる』って言ったから……僕も咄嗟にそう言ったんだ」
始めは視線を手元に落としていたアルミンでも、ゆっくりと顔を上げて私の視線を捉える。じっと見つめられて、私もそこから目が放せない。
「……だって、僕に対して『恋人がいる』と言うことは、つまり、僕を警戒してるってことだろ……? それなら、彼女がいるって言ったほうが、それ以上の警戒はされないかなって……ほんと、咄嗟に」
つまり、アルミンも私と同じで『咄嗟に』だったらしい。だけど、その『咄嗟に』にもしっかりとした理由を述べてくれた。――私がそれ以上警戒しないように、が芯の理由だと言う。
「……そう」
私が『恋人がいる』と言ったのは、果たしてアルミンが言うように、この男を警戒していたからだろうか。指摘されて初めて自分の気持ちをもっと深くまで覗き込んだ。……確かに、間違っていないようにも思う。結局は、アルミンと一線を画したかったのかもしれない。
「でも、なんとなく、君は本当は彼氏なんていなくて、僕を遠ざけるための嘘なのかなって思うようになって……」
考えをまとめている間もアルミンは、ため息を零すように一人ごちっていた。
「それが本当なら、少し、つらいかな。そうまでして僕と関わりたくなかったのかなって……」
ここへ来て、アルミンは目を合わせずにどこかへ視線を飛ばしてしまった。そう思ってはいるけど、認めたくはないのだろう。……けれどそれはまたふらりと私の元に戻ってきて、
「……君はさっき、『深い理由はなかった』って言ってたけど……そんなわけない……よね……。僕が、嫌だったんでしょう?」
ゆらゆらとまたその瞳の中の光を揺らしながら、私に尋ねた。ドキリと心臓が縮んだように感じたのは、それが図星だったからなのだろうか。――アルミンを警戒していた。それはつまり、嫌だったと言い換えられるのか。
そうは言っても、果たして〝今〟は――、
「……ごめん、本当は、僕はまだ納得できてなかったんだ」
私が返答を――というより、自分の思惑を――探って押し黙っているその間も、アルミンは待ちきれずに次の議題を切り出したらしかった。
「……あの日さ、君が『もうあんたと会いたくない』ってメッセージを僕に送った日」
するりと流れるようにあのときの光景が視界を横切る。
「……僕は、なんで振られたのかわからなくて……それ以降どんなに連絡しても返してくれないし、会ってもくれないし……」
ああ、そうだ、これだ。私は本来、この行いを問い詰められるのだと身構えていたのだ。
今でも覚えている。アルミンの携帯端末に送ったその短すぎるメッセージ。それからしばらくして何度も何度もメッセージが返ってきたけども、ぜんぶなかったことにして削除した……あのとき。
今さらどうにもならないのはわかっているけども、心の中で『ごめん』『ごめん』と何度も呟いていた。今ならそれがどんなにひどい仕打ちだったかわかる。だから、問い詰められるのが怖かった。
「……ねえ、どうして嘘を吐いたの?」
アルミンの声色が少し強くなった。一歩を踏み出されて、私は無意識に後ろのめりに怯む。
「僕があの日、振られたのって……やっぱり……せ、セックスが下手くそ、だったから……?」
「……は?」
私は突然のことに目の前の理解を失った。
「……ん?」
「……え、いや……えと、……は?」
アルミンは何を言っている? セックス? え、私がアルミンを振った理由が……セックス?
素っ頓狂な勘違いに唖然として言葉を失っていた私を見て異常を察知したのか、
「え、だっ、だって、君がもう会いたくないって言ってきたの、僕たちの初めてのセックスの次の日だよ!? 違うの!?」
非常に焦ったようにまくし立てられた。
――え、
思い切り困惑の感嘆が口から洩れていたかもしれない。
いやいや、まったく覚えていなかった。そうだったか。私がアルミンを振ったのは、そんなタイミングだったのか。
「えっ、ち、違う……」
とにかく忘れていたくらいだ、おそらく私の中でそれはそんなに大きな理由ではなかったように覚えていて、
「……えっ……!? ち、ちが……ったの……!? 僕はてっきりずっと……! だって、あのとき君泣いてたし、絶対僕のせいだって、僕、割と本気でっ、」
何故か青ざめていくようにアルミンは勢いを失った。
とにもかくにも、私はこれだけははっきりしていたことから「……っ、そ、それは違う……」とさらに付け加えた。――一体どうしてそんな勘違いをしてしまったのか……いや、私が振ったタイミングの問題だったことは明らかで、
「……そっ……そうだったの……!? じゃ、じゃあなんで!?」
しかも私はなぜそうしたかを明かさなかった。――明かしたくなかったからだ。
押しつぶされそうな中で見送った背中を思い出した。『帰らないで』と強く願って……でも、そんな自分に耐えられなくなった。
「……それは……その……。まあ、どちらかというと、私のせい……かな。あんたに対する不満は……なかった……」
そう、私は『アルミンが嫌になったから』振ったわけではなかった。アルミンには本当に非はなかった。非があったとすれば私のほうだ。だから私はアルミンに理由を言いたくなかった。……私が悪かったから。
あまつさえ、今となっては振ったことを後悔したこともあると言ったら、アルミンはどう思うだろうか。さすがのアルミンも怒るだろうか。それとも、困るだろうか。
「……そ、そんな……」
力なく項垂れるアルミンを見て、私はどこまで言うべきかと考えてみたのの、
「……それは、ごめん。あんたを無意味に苦しめてたってことだね……悪かった」
それ以上のことを言う勇気は持てなかった。
しばしアルミンは俯いたままで、自身を落ち着けるように静かに呼吸をくり返していた。それを眺めているしかなかった私の中には、泣きたくなるような罪悪感が渦を巻いていた。……こんなに気にしているとは思っていなかった、本当に悪いことをしたと思う。
「……はは……そっか……」
ようやく何か口を開いたかと思うと、力なく笑みを零して見せた。
それからゆっくりと顔は上げたものの、未だ私と視線を合わせることはない。
「それはそれで……ちょっとつらいかも……」
「え……?」
「君の問題だったなら、ちゃんと話してほしかったよ。……僕はまだ、君といたかったから……」
そろそろとその視線が私の眼差しに乗る。その瞳から深い落胆が読み取れて、私はまたドクドクと心臓から叩かれていた。本当はまだ私といたかったと言ってくれた、それは嬉しいことだったけども、同時に自分のしたむごい仕打ちにこの胸を貫かれる思いだ。
ふい、と視線を外したアルミンは、そのまましばらく押し黙ってしまった。私も何と声をかけたらいいのかわからず、それをひたすらに待つほかない。
けれど特に何かを言いたそうな様子は見られず、今度はわざとらしい大きな嘆息を零してゆっくりと踵を返し始めた。
「……じゃあ僕、帰るね」
「……へ?」
既に半分背中を向けていたアルミンに、私は間抜けな声を浴びせてしまった。
「……話、ちゃんと聞けたし……」
私と違ってすべて納得できたらしいアルミンだったが、私はまた状況の理解を手放してしまった。
「……それだけ?」
思わず尋ねてしまったのは、さらに間抜けの上塗りだった。……だって、そうではないか。なぜマルロのことをわざわざ私に面と向かって確認したのか、その疑問はまだ解消されていなかった。
「え? えっと、まだ何か話してくれることがあるの?」
「え、いや……その、本当に質問されただけだったから、ちょっとびっくりした」
そう答えると今度はアルミンが心なしか首を傾げた。
〝あのとき〟のことを聞かれただけだったなら、そのままアルミンが『じゃあね』と帰ってもそれはすんなり理解できただろう。けれどアルミンはそれよりも先に『なぜ恋人がいると嘘を吐いたのか?』と私に直接尋ねているのだ。……もし、今の私にまったく興味がなかったのなら、私に恋人がいようがいまいが、そんなことはどうでもいいはずではないのか。
「その、私の恋人は嘘だとばれて、あんたの恋人も嘘だってばらさらて……だから、」
――私との関係性を変えたいとか、そういうことを思っていたのではないのか。
その違和感のような疑問が、ようやく私の中でも形を得た。
けれど私の真意を悟ったアルミンは、すぐさまはあっと大きく息を吸い込み、
「え? あ、もしかして不安にさせてた!?」
今一度その身体を私のほうへ向けて力説を始めた。
「ごめん……っ大丈夫だよ。その、前も言った通り、今の君をどうこうしようって気は本当にないんだ。……ただ、理由が知りたかっただけ」
私はまたしても言葉を失ってしまった。
――そ、それだけ……本当に?
「……嘘を吐くくらい、君は僕が嫌なわけだし……」
ぼそりとアルミンが零した言葉に、『それは違う』とそれだけははっきりと脳裏に浮かんだ。
再会したときは確かに、煩わしいと思ったのかもしれない。けれど、あれから長くはないけどもまたアルミンを遠くから眺める日々が始まり……今は、再会したときとは心持ちが少し変わっていた。
――けれど、私はそれは口にせずに、ただ沈黙を守った。
だって……、そんなことを宣ったところで『どの口が』と思われるだけだ。〝あんな風に〟アルミンを振って傷つけた私が、今さら『いいえ、あなたのことをまた好きになりました』などと言えるはずもない。言っていいわけがないのだ。
「……じゃあ、話してくれてありがとう。……まあ、ちょっと強引に聞き出しちゃったんだけど。でも、もう僕は同僚の一線は越える気はないから、安心してよ」
ぐるぐると思考を巡らせている間にアルミンはこの会話の結論をそこに置いた。
ぐっと私の胃を再び押し上げる不快感の正体は一体なんだろう。お前がしたことのしっぺ返しが来ているだけだぞ、と誰かにあざ笑われている気分になった。――そう、すべては私が自分で蒔いた種だった。
未だに何も言えない私に呆れたらしいアルミンは、また聞こえるような大きさで「はあ」とため息を置いて、「じゃあ、」と改めてこちらに背中を向けた。
ああ、アルミンが帰ってしまう。
――またしても〝あの背中〟が目前を横切った。『帰らないで』と切願した感情までもが湧き上がって、一気に私の胸中をかき乱した。引き留めたい、引き留めたいけど、これ以上どう引き留めろと言うのだ。
「あっ!」
「ん?」
私は何の策もなしに、思わず声をかけてしまっていた。
困ったように振り返ったアルミンを見て、ようやく我に戻り、
「……えと、その……っ」
「……なに?」
「……きっ、気をつけて、帰って」
この状況で引き留めてどうする、と自分の情動を疑った。
当のアルミンはまたゆっくりと身体をこちらへ向け、
「うん。ありがとう」
そうして、静かに微笑みを湛えた。目元を細めて、哀しそうに……微笑んだ。
――……!
なんて、なんて人でなしだ。どうしてこんな会話をしたあとに、そんな目で微笑みかけるのか。ひどい、ひどい。
「アニもゆっくり休んでね。また明日図書館で」
私の中はぐちゃぐちゃに散らかされてしまった。
玄関から出て行ったアルミンを今度こそ引き留めることはできず、その場で座り込んでしまう。担いでいたギターを横に投げ出して、私は玄関の弱い光の中で重くなった身体に耐えた。
どういうことだ、なんだこの状況は。どうして、どうしてこんなに苦しい。
原因はだいたいはわかっていたけど、それにしても激痛が走る胸を押さえて私はうずくまるしかなかった。あんなにどうしようもない雰囲気だったのに、私はそれでもアルミンに帰ってほしくなかった。――〝あのとき〟と同じだ。だめだ、こんなにアルミンに執着してしまったら、アルミンが窒息してしまう。……こんな、あのときの二の舞になってしまう。
わかっている、頭では理解している。この先アルミンと私はどうにもなれないことは。しかもそれは、少なからず私自身の行いへの報いでもある。
悲しいとかそういう感情ではなく、自分の情動の激しさに対する動揺から、私は溢れ出る涙を床にぼとぼとと落としていた。
だめだ、こんなに取り乱しては。ずず、と鼻をみっともなく鳴らしながら、それでも私は顔を上げようと涙を拭った。――私は明日からも、あくまで澄ました顔でアルミンの同僚でいなければならない。そうしないと、またアルミンを押しつぶしてしまう。
なんとか立ち上がった私は、この胸の苦しさに耐えられず、何の前置きもなしに『そうだ、酒を飲もう』と考えた。
普段からそう好んで酒を飲むわけではない私だが、以前誕生日の祝いにともらったワインがまだそのまま残っているのを思い出した。どたどたと半ば転がりながら冷蔵庫を目指す。お世辞にもよく管理されていたとは言えない酒瓶を持ち上げ、私は一気にその注ぎ口を自らの口元に持って行った。
――そうだ、あのとき。なんで私は忘れていたのだろう。
ぎりり、とまた胸が軋んだ。酒瓶を抱いたまま私は部屋の真ん中にあるソファに身体を投げつけ、ぐちゃぐちゃになった感情とともに湧き溢れた思い出に溺れていく。
――アルミンの言った通り、あれは私たちの初めてのセックスのあとだったのだ。
私が見た最後のアルミンの背中――『帰らないで』と懇願しながら見送った背中。――あれは私が高校を卒業したその日に見た光景だった。
それまで二年ほど付き合っていたが、アルミンは私に手を出すことは一度もなかった……もちろんキスやハグはしていたけれど、互いの衣服を乱すことはしたことがなかったし、ずっと〝清い〟付き合いをしていた。それが私の高校の卒業式の日に、アルミンは初めて私の身体を求めた。――大学に入学するために引っ越しをする二週間くらい前の時期だったろうか。
芋づる式にどんどん記憶が蘇っていく。
アルミンと初めて身体を重ねたとき、その必死な眼差しにやけに惹かれて、あんなに理性的なアルミンでもここまで取り乱すのかと驚いたのもなんとなく思い出す。
はあ、はあ、と熱くなった吐息を混ぜて、汗に濡れた肌をすり合わせて、私たちはその時間に二人で没頭した。紅潮したアルミンの眼差しが視界に蘇って、切なげに揺れる瞳が思い出された。そのとき私はアルミンから包み込まれているような温かさを感じて、そして、ずっとその時間が終わらないでと願って……感情が高ぶって、こんなに強く願ったことはないくらい、この時間よ終わらないでと願いを何度も重ねた。強く願って、涙が出るくらい、強く願った。
――でも、それは終わってしまったのだ。
重なったことへの満足感よりも、私はこれから離れなければならない喪失感のほうを強く感じていたように思う。
そのあとアルミンにみっともなく「帰らないで」としつこくねだった私に、アルミンは文句も言わずにしばらく側にいてくれた。……けれどまだ学生だったアルミンはそのあと、永遠に帰らないことはできなかった。そうして渋々と〝その背中〟を私に見せながら、アルミンは帰宅したのだった。
あんなに『帰らないで』と念を込めて見つめてしまった私は、当然のように正気を保ったままで夜を越せなかった。
アルミンが側にいられないのは彼自身のせいではないと頭ではわかっているのに、側にいてくれないことへの深い恨みのような感情に飲まれてしまった。――こんなことでは、この先アルミンを食いつぶしてしまう。そう思ったのが、このときだった。
私は夜の闇の中で激しい自己嫌悪に陥り、夜が明けるころには思考は巡って、もうアルミンを手放そう、というところまで来ていた。――そう、それが私がアルミンと別れようと思った経緯だった。
こんなことではアルミンが私に愛想を尽かしてしまう。アルミンが疲弊してしまう。だから、私なんかがアルミンと一緒にいてはいけない。
思考はその一辺倒で、今となっては視野狭窄であったと顧みることもできるが、あのときの私にはとにかくそんな余裕はなかったのだ。アルミンは私のこんな感情なんて知らなくていい。とにかくもう一緒にはいられない――その気持ちが一直線に突き進んで、私はついに『あんたにはもう会いたくない』という無愛想なメッセージをアルミンに押しつけるに至ったのだった。
当たり前だが、そのあと私のメッセージに気づいたアルミンはあらゆる手段で私に連絡を取ろうとした。けれど既に学校を卒業していた私にはいくらでも逃げ場があり、またアルミンが一度だけ自宅に訪ねてきたときも居留守を使って乗り切った。……いや、私が家にいたときに来たのは一回だったけども、もしかしたら私が気づかない間にもっと来ていたかもしれない。
――『……僕はまだ、君といたかったから……』
グッとワインをまた口いっぱいに含んで、喉の奥に流し込む。
現実に戻った私は、先ほど自分の身に降りかかったことに未だぐちゃぐちゃにされたままだった。
アルミンはあのとき、本当はまだ私といたかったのだと言った。……けれどそれは〝あのとき〟の話であって、もうどう取り繕ったって取り返しがつかない。
――『今の君をどうこうしようって気は本当にないんだ』
すべては言葉の通りだった。今さら、アルミンがあんなことをした私を受け入れるはずがない。わかっている。そんなこと別に望んでもいない。――けれどそうやって理解を示しているのは頭だけで、胸中のわだかまりは一向に姿を消してくれないのだ。
また思い切り酒瓶を煽る。このもやもやを洗い流してくれ、とその一心で何度も何度も酒を流し込んだ。
ああ、どうしてこんなにも苦しいのか。わからない。私が撒いた種だ、別にこの結果に異論はない。ないというのに、往生際悪く沸き上がる後悔が、私をこんなに苦しめるのか。ああ、くそう。
私はそのあとも、酒瓶が空になるまで煽り続けた。
***
次の日の出勤は最悪な状態だった。……私が、だ。
昨日煽りすぎた酒のせいで無様にも二日酔いになってしまい、朝も二回ほど空っぽの胃から無を戻しての出勤となった。化粧も思うようにできないし、未だに頭がごんごんと鈍器で殴られ続けているような痛み、それと同時に、ぐらぐらと揺さぶられているような不快感があった。船酔いになる機会はこれまでなかったが、おそらくそれに近い感覚なのだろうと思う。
「……あ、アニ? 大丈夫? ひどい顔だけど」
そんな最悪の状態での出勤だというのに、現実は容赦の欠片もない。
司書には早番、遅番はないが、喫茶店の従業員にはそれがある。私は今日、これだけは幸いなことに遅番だったため、朝二回も戻す時間があったのだが、その運もこれまでだった。――なんとツイていないことに、既に従業員証とエプロンをかけたアルミンに、入店直前で声をかけられたのだ。
というか、よく昨日の今日で声をかけられるなとうっすらと浮かんだが、それは頭痛の狭間に消えていった。
「……き、昨日、飲みすぎた……」
深く考える余裕もなくただ会話の成立にばかり尽力した私と、晴れ渡る晴天のように思考がはっきりしていたアルミンとでは到底噛み合うはずもなかったのだ。
「え、あのあと? 飲んだの?」
なぜそんなところを疑問に思ったのか私には考えも至らないが、
「……うん……なんか、飲んじゃった……」
私はとりあえず引き続き、会話の成立を目指した。今にもまた戻しそうなほど、自分でもげっそりしているのがわかる。次の日仕事があるとわかっていながら際限なしに酒を流し込んだ私を咎めるなら咎めればいい。
けれど、アルミンの声色はそうはならなかった。
「まあ、とりあえず無理はしないほうがいいんじゃない? 休憩室行く?」
グッとまた不快感が込み上げた。
――この男、このままいくと休憩室までついてきそうな勢いだなと頭を過った。
だから私は大袈裟なまでにアルミンを押しのけて、
「いい、自分で行ける……!」
なんとか自身を一つに保ちながら、店の奥にあるロッカールームに足を向けた。
昨日の今日でとんでもなく肝が据わっているのはわかったが、それでもさすがのアルミンも気を使ったらしく、それ以上私についてくることはなかった。
ああ、もう、私は。……昨日思い出していたのとはまた違う、別の意味での自己嫌悪が二日酔いの気持ち悪さと一緒に身体の中に充満する。また醜態を晒して私は――!
*
その後、アルミンに言われたから様子を見に来たのか、先輩がロッカールームに入ってきて、椅子に座って項垂れていた私を見つけた。こんな状態になったのは完全に私の落ち度だと言うのに、やたらと優しくしてくれて、『二日酔いに効くから』と聞いたこともないエナジードリンクを差し出してきた。
それに関して何か意見できるような立場になかった私はその甘ったるい飲料を自分の中に流し込み、一応先輩の好意を受け取っておいた。
だが、これが思いのほかよく効いたのだ。
そのあと十分もしない内にかなり吐き気と頭痛が治まり、私は出勤時間に十分だけ遅れて店に入ることができた。その後も三十分もすれば『普段通り』とまではいかなかったが、それなりに動けるようにまで回復したのだ。そのエナジードリンクをくれた先輩曰く、飲み過ぎには糖分の摂取がどうとかこうとかと熱く語ってくれた。……もちろんほとんど耳には入っていなかったのだが。
それからそんなに時間も経っていなかった。おそらく時間的には昼食の時間ではあったが、遅番の私の昼食はもう少し後になる。……何より、まだがっつりしたものをこの胃に迎えるほど、身体は整ってはいなかった。
店の中の業務が一通り落ち着いた私は、先輩に声をかけられて店先の掃除をしてくるように任された。メニューのサンプルを展示しているショーケースの窓も拭いてくるようにと言われ、やれやれめんどくさいな……などと心の中で文句を言いながら店先に出る。
そうしてそのサンプルの窓と格闘しているときだった。
「あ、アニさん。こんにちは」
私は甲高い女性の声に呼ばれて、一体誰だと振り返った。
そこにいたのはルイーゼで、思わず目をぱちくりと瞬かせてしまう。――アルミンと恋人だというのは嘘だったとわかった、ルイーゼだ。
「あ、はあ、こんにちは」
今さらそれの真偽を確かめる機会になってしまうのか、と内心少し気を揉んでいたところ、
「あのときは嘘を吐いてすみませんでした!」
ルイーゼのほうから、身を引くくらいの元気のいい声とともに頭を下げられた。
「……えっ、」
一瞬だけルイーゼ自身が『嘘を吐いてすみません』と言っていることに混乱したが、
「あぁ、別に。あんたはアルミンに頼まれただけなんでしょう?」
それが何のことを言っているのかと繋げることができ、言葉を言い換えてやった。
するとルイーゼも「まあ、そうなんですけど」としれっと流したかと思うと、不服を表すように唇を尖らせて、
「でもなんかずっと自分に嘘吐いてるみたいで気持ち悪かったです……。私の好きな人はミカサさんなので!」
そうやって改めて大きく笑って見せた。……え、笑顔が眩しい。そう思ってしまい、
「え、あ、はあ……」
不意に顔を背けてしまった。……目の前の窓に、私に拭かれるのを待っている汚れを見つける。
確かにアルミンはルイーゼが『ミカサのファン』だとは言っていたが、なるほどこういう方向だったかと腑に落ちる。確かにこれはアルミンとの恋人説は完全に潰えた形となる。
私が窓を拭い始めた後ろで、ルイーゼはそれからも少し何かを話していた。
……それにしても、私にはあのダブルデートのとき、ルイーゼが一方的にアルミンにべたべたしていて、それをアルミンが少し避けているように見えていたが、今となってはルイーゼが私たちの中で一番の演技派だったのだなと思い返した。私もマルロも及第点にすら到達してなかっただろう。それに加えてアルミンは〝恋人のふりをするために〟べたべたしていたルイーゼに少し遠慮していたのだ。つまりルイーゼがあの場の誰よりも、あの場の意味をしっかり捉えて遂行していたことになる。大した役者だ。
「るっ、ルイーゼ!?」
なんと、千客万来だと急いで振り返った。新しく加わった声は聞き逃すはずもなく、よく見知った声だったからだ。
「あ、アルミンさんこんにちは!」
私が振り返ったときには既にルイーゼはアルミンに駆け寄っていて、なるほどあの距離感はあの子の地の距離感なのかと認識を改める。
「アニとなに話してたの?」
「いえ、特に何も。ご挨拶だけ!」
「そ、そう……」
アルミンは大層心配そうな顔をしながらルイーゼとともに私の側まで歩いてくる。その手にはコンビニ袋を提げていたことから、これから昼食休憩を取るところなのだろうと察した。
アルミンが来たのにいつまでも尻を向けているわけにもいかず、私は一旦窓拭きを止めてアルミンから尻を隠した。
尤も、そんなことアルミンが気にしていたなんてあり得ないだろうし、実際に、私よりも大きな予備動作を付けて会話の発端を切り出したルイーゼのほうを注視していただろう。
「でもアニさんとマルロさん、事情をわかってない私でさえぜんぜん恋人に見えなかったので、恋人のふりするならもう少し気をつけたほうがいいですよ〜!」
「ちょっと、ルイーゼ!?」
何の悪気もなさそうな純粋な笑みで言うものだから、アルミンの制止が浮いて聞こえた。言われた当の本人である私も何と返すのが妥当かよくわからず、「……あ、はい……気をつけるね……?」と首を傾げそうになるのを抑えながら返した。……気をつけるも何も、マルロに恋人のふりをしてもらう日が再び来るとは到底思えないのだが。
「あ、そうだ!」
なんとルイーゼはまだ飽き足りないのか、元気よく新たな話題を始めるようだった。ずっと持っていた印象通りの溌剌とした声使いで両手を握り、ずい、と一歩私に詰め寄った。その声よりも距離感に驚いてしまった私だが、どう考えてもルイーゼはそんなことに構ってなどいない。
「今日か明日、みんなで飲もうって話をしてるんですよ! アニさんもご一緒にどうですか!?」
「ルイーゼ! ほんと待って!」
何かアルミンにとってよほど不都合なのか、思い切りルイーゼの肩を叩きながらアルミンが制止しようとする。けれどそんなことで止まる彼女ではなく、「いいじゃないですか。アルミンさんも大概でしたよ」と何かにダメだしをして、「えっ」と零したアルミンはそれ以降言葉が出てこない様子だった。
ここだと言わんばかりにルイーゼはまた改めて私に詰め寄り、
「メンバーは私とミカサさんとエレンさん、そしてアルミンさんです! アニさんもぜひいらしてくださいね! 詳細は今日のアルミンさんの退勤までにメッセージしておくんで、お二人も連絡先交換しといてください!」
最終的になぜか私は自分の両手をしっかりと握られていた。しかもアルミンと視線を繋げられるようにルイーゼは私たちを交互に見やって、きっちりと釘を刺したつもりでいる。私が何が起こっているのかを理解しようと二人に目を向けている間に、ルイーゼに握られていた手はするりと自由になり、
「えっ、ちょまっ、る、ルイー――!」
「ではちょっと私急ぐんで、また! 失礼します!」
そうしてわざとなのか、ルイーゼは完全に後のことには我関せずと走り去ってしまった。……た、太陽なんてとんでもない……これはまさしく嵐のような子だな……と私は半ば感心していて、ちらりとアルミンを横目で盗み見た。
ルイーゼを引き留めようとしたらしく、伸ばした手は行き場を失くし、その表情はわかりやすいくらいに青ざめていた。いやはや、本当にこんなに取り乱したアルミンは珍しいなと、やはり少し感心してしまった。
「……大丈夫?」
とりあえず声をかけると、アルミンははあ、と肩から空気を抜いて、体勢を整えた。
「うん。……あの子、ああいうところあるんだよ……その、ごめんね。嫌だったら断ってくれていいから……」
私をちらりと一瞥したのは、どういう感情の元だろう。
ルイーゼが勝手に誘った飲み会。アルミンはルイーゼを制止しようとはしていたけど、私にはっきり『来るな』とは言わない。それは果たして、もう誘ってしまった手前なのだろうか。それとも、本当に私が行くと決めればそれなら、と思えるのだろうか。
「…………うん」
きっと昨日ことを考えると、私はここで断るのが筋なのかもしれない。……けれどアルミンは『嫌だったら』と言った。……私は今、どう思っているのだろう。アルミンもいる飲み会に行きたいと思っているのだろうか……自分で自分の気持ちがよくわからなかった。
「ところで君、体調のほうはどうなの?」
「ああ、かなりマシになったよ、ありがとう」
そんな他愛ない会話を表面では交わしながら、私は『私も行きたい』と言ったときのアルミンの反応を想像していた。――迷惑がるだろうか。困ってしまうだろうか。……それとも、穏やかに迎え入れてくれるだろうか。……私とアルミンの関係性に変化を持たせることができるのだとしたら……。少なくとももうちょっと〝元カノ〟の印象を、良くできるだろうか。
いやいや、そんなことを考えている時点で、私はきっと期待しすぎているのだろう。アルミンの気持ちはもう昨日、聞いているのだから、これ以上何を望めと言うのだ。
「じゃあ、僕そろそろ行くね」
「うん、じゃあ」
連絡先なんて既にあのダブルデートのときに交換済みだった私たちは、それだけを交わしてとっとと解散した。
私はそれ以降もはっきりしない胸中でずっと窓拭きを続け、は、と気づくころにはそこにガラス一枚もないような完璧な仕上がりになっていた。
*
結局のところ、私はルイーゼに誘われた飲み会をどうしたか。私はなんと、恥ずかしげもなくのこのこついていくことにしたのだった。
結局飲み会はその日の夜行われることになり、今朝のひどい状態の私を見ていたアルミンはすこぶる心配してくれていたが、もう大丈夫と伝えると静かに了承してくれた。
退勤の時間が過ぎ、私が上がるまで施設の外で待ってくれていたアルミンと、二人で集合場所の飲み屋に向かった。アルミンは車で出勤していることから、どうせ僕は飲まないし、とまた性懲りもなく私を助手席に乗せた。車が走る暗がりは相変わらず寒空ではあったが、頭上に輝く星々は異様にきれいで、会話が途切れたときもそれらを眺めて乗り切った。
――隣に座っているアルミンは今はフリーで、私がフリーであることも知っている。……そう思うと、この状況はなんとなくやきもきさせた。
アルミンが隣にいる私を――厚かましく「飲み会に参加しようと思う」と言った私を、どう思っているのかはわからない。……ただきっと、本人が言ったようにもう私のことなんて『同僚以上』には見ていなくて、エレンやミカサと同じ……は少し贅沢すぎるけども、それに近い〝友だち〟のような感覚での飲みになるところだろう。……でも、私だってもうそれくらいでいいような気がしていた。
ルイーゼがアルミンの恋人だと思っていたときは、時々苦しいくらいに胸が締めつけられていたが、自然と今はそれも落ち着いている。もしかすると私は〝誰かのもの〟だったことが気に入らなかっただけかもしれない。……あまりにも幼稚な自分に呆れてしまう。――この感情に私は、なんと名前を付けたらいいのだろう。私はやはりアルミンのことが……好き、なのだろうか。よくわからない。昨晩の苦しみも、結局はどの感情が暴れていたのかよくわからないままだ。
会場の飲み屋に着くと、既にエレンとミカサとルイーゼはそこに並んで座っていて、私とアルミンは何の選択肢もなく隣同士で座らされた。
わいわいと主にはしゃいでいるのはルイーゼだが、とりあえず目の前に並んだ三人が意気揚々と酒を流し込んでいくのを、私とアルミンはほとんど言葉を交わすことなく眺めていた。
――なんだ、この状況は。
私がそう自問し始めたとき、ふと景気のいいルイーゼの笑顔がこちらへ向いた。
「あれ? お二方盛り上がってないですね?」
ぼんやりしていたらしいアルミンの視線に、ぴり、と緊張感が走ったのがわかった。それもそのはずだ、ルイーゼはテーブルの反対側から身を乗り出して、
「やっと誤解が解けたのに、いっぱい話したいこと積もってるでしょう! 話して話して」
空になっていた私のグラスにお酒を注ぎながら、また身振り手振りでそう促してきたのだ。
言われるがままにアルミンのほうへ顔を向けると、アルミンも私のほうを向き、そうしてえらく不自然に見合わせてしまった。それだけではない、何か適当な話題で場を繋げばいいものを、私はアルミンの瞳を捉えてしまったときから言語が飛散してしまったらしく、
「……」
「……」
二人してなんとも言えない沈黙で会話をしてしまった。お互いにこりともできなかったが、それは本当にお互いさまで、二人ともが似たような困惑した顔を作っていた。
それをもちろんこの人は黙っていない。
「えっ、なんですかー! お通夜じゃないんですから!」
ルイーゼが強引に私たちの空気を持ち上げようと笑い声を混ぜ、
「私から見たらお二人、とてもお似合いですよ!」
その直後にとんでもないことを口走った。
まさかそんなことを言ってしまうとは見当もしておらず、我慢できずにアルミンを改めて盗み見てしまった。アルミンが恐れていたことはこれかと納得すらしてしまった。なんてことを言ってくれるんだいルイーゼ……私たちの間で何があったかも知らないだろうに。そうだ、知らないから仕方ないが、それにしても今それを言うのは非常に困った。
だって、アルミンは私にはっきりと伝えているのだ、もう同僚以上にはならないと。それがこの一晩で心変わりがあるわけもない。つまりきっと、私はまた拒絶の言葉を寄越されるのだろう。――そんなの、自業自得だとわかっていても、苦しいに決まっている。
「……はあ……」
腹の内が落ち着かずにざわざわと騒いでいたところに、アルミンの重たげな、深い息の塊が零された。ドキリ、とひと際強く波打った心臓に合わせて、私は大袈裟なまでに肩を震わせてしまっていた。
「やっぱりそういうことだったんだね。ルイーゼ」
その声色が心なしか冷たく聞こえる。呆れているのか、怒っているのか。
「僕はもうアニと寄りを戻す気はないって言っただろ」
珍しく荒げられた語尾にまた胃が縮んで、同時にぐっと目元がひくついた。目の奥がじりじりと熱を持ち、あ、やばい、泣きそう、と頭の中で警報が鳴る。
「そうなんですかあ?」
もうそれ以上はよしてくれ、と身を縮めながら耐えていたが、口から出ないその言葉は届くはずもない。白々しく尋ねたルイーゼに、アルミンはまたぐっと背筋を伸ばして何かを言おうとした。……が、その勢いがふと弱くなる。
「……だってほら、アニだってそんなこと言われても困るし、迷惑だろ」
言いながらアルミンの視線がこちらへ向けられたのがわかった。あ、だめだ、涙が溜まっているのがばれてしまう。私はどうしようどうしようと必死に考えた。……でも何も思いつかなくて、じっと見つめられる視線が痛くて、さらにいろんなものが込み上げてきた。
「えっ、あ、アニ……?」
ほら、やはりそうだ。私は間抜けにもアルミンにこの動揺を悟られてしまった。もうどうしていいかわからない私は、半ばやけを起こして勢いよく顔を上げた。
「なんでもない!」
そして先ほどルイーゼが注いでくれたお酒を、昨晩と同じように思い切りよく煽った。
「お酒おかわり!」
「ええ、君、今朝も二日酔いだったじゃないか! 大丈夫なの!?」
「大丈夫! 飲みたいから!」
私はそこに置いてあった酒瓶を引っ掴んで、今度は自分で自分のグラスをそのアルコールで満たした。昨日から何も学んでないなと自嘲しながらも、それを止められるほど冷静にもなれなくて、
「あ、アニッ」
私はアルミンに心底心配な顔をさせてしまいながら、それでも酒を煽り続けてしまった。
ぐわんぐわんとまた視界が回り始める。ルイーゼは目の前で楽しそうに笑っていて、どうやらもっとと私に酒を勧めているようだった。その横でエレンとミカサはあんぐりとした顔つきで私を見ていて……唯一、断固として見ないようにしていたアルミンはどんな顔をしていたかは、少なくとも私の正気が飛ぶまではわからないままだった。
> 第四話*I needed someone.