第六話*Let's get some rest.
ずっと同じ体勢で寝ていたのか、初めに認識したのは身体の固さだった。んん、と声を出しながら小さく力を入れると、指の先まで強張りが通り瞼が開く。……カーテンの隙間から光が漏れて、辺りはすっかりと明るさを帯びていた。
そうして私は、自分の隣に空間の塊を見つける。
そこに何かがあったはず、と考えたのは刹那のこと、私はすぐに寝る前にはそこにいたはずのアルミンがいなくなっていることに気がついた。
ま、まさか、私が寝ている間に帰ってしまったのか。たいそう焦った私は乱暴な仕草で身体を起こして、急いで部屋の中を見渡した。そしてそこに、アルミンの荷物と上着が置いてあるのを発見した。――よかった、アルミンは帰ってしまったわけではないのか、と心まで満たしていた空気が抜ける。
しかしならばどこへ行ったのだろうと、ゆっくりと床に足を下ろす。部屋を横切り廊下へ出ると、便所の電気が点灯していることがわかり、私はすかさずその扉をノックした。
「はあい」
扉の向こうからアルミンの声がする。私はいよいよ安堵して、思わず頬を綻ばせてしまったほどだ。
「……はあ、私が寝てる間に帰っちゃったのかと思った」
「ええ、そんなことしないよ」
「……うん。そうだね、よかった」
私はアルミンと扉越しに会話をして、それからキッチンへ入った。
乾き切った喉へ水を流し込み、それから何かアルミンに朝食を食べさせないとと考えて、買い置きしていた食パンの袋を手に取った。そこから一枚ずつの食パンを取り出し、トースターに入れてタイマーを捻る。
使い古しの小さなフライパンを火にかけて、卵を二つ割り、目玉焼きを作った。寄り添い合うように並ぶ卵二つを見て、私はまた朝食をアルミンと二人で摂ろうとしているのだな、とじんわりと実感が湧く。そしてそれは、妙に胸を掻き立てた。
アルミンがルイーゼでなく私を好きになったと言ったことが、未だになんとなく信じられなかった。……私は明るくもないし、一緒にいて決して楽しい部類の人間ではないことは、私が一番よくわかっているから、なおのことだ。……そんな私にアルミンは、『また好きになっちゃった』と言った。
フライパンの端に少しの水を垂らし込み、じゅわ、と蒸発していく音を聞きながらそこに蓋をかぶせた。
高校のときもそうだが、こんな根暗な私をアルミンは選び出して、『好きになった』と言ってくれる。どうしてアルミンのような穏やかで優しく、そして好奇心に溢れた人が、こんなつまらない私なんかを捕まえようとするのかわからないが……昨晩、がっしりと私を抱え込んで閉じ込めてくれたその両腕を思い出して、その温かな心地を思い出して、ぼう、と頬から火を吹くように熱が上がった。
カタン、と背後で扉の開閉音が響く。アルミンが便所から出てきたのだとわかり、私はすぐさま背を向けていた廊下のほうへ身体を振り返らせた。
フライパンの音で私がここにいることがわかったのか、アルミンはのそのそとキッチンへ入ってくる。
昨晩私が貸した、フリーサイズのTシャツとジャージを着たアルミンを見て、不意にくす、と笑みをこぼしてしまった。普段自分が着ているものを、男性であるアルミンが着ているのは、何とも間抜けに見えてしまったのだ。見るからに寝起きのアルミンは服装がだらしないだけでなく、ちょびちょびと無精髭が生えていて、それもまた少し面白かった。「おはよう」と言いながら距離を縮ませたことで気づいたことだ。
「……あんたでも、髭は生えるんだね」
からかってやるつもりで、また身体をフライパンのほうへ向けながら笑むと、
「まあこれでも一応ね」
アルミンは苦虫を噛むような微妙な笑みを浮かべて、自身の顎に触れながら返した。
「でもジャンやエレンほど立派な髭は生えてこないんだ。僕の毛は金髪ってのもあって、ぜんぜんかっこよくもなくて……」
つらつらと文句を垂れている様子を見て、また思い出が目の前を駆け巡る。
「はは、相変わらずそこ気にしてるんだ」
そう、高校のときも、アルミンはなかなか生えてこない髭を気にしていたし、少し本人の中性的な容姿にコンプレックスを抱いている様子だった。
その度に『私は好きだけど』と伝えると、歯に噛みながら『じゃあいいや』と笑ったものだ。
それに、アルミンは今も昔も私にとってはとても〝男〟で……そして、それは特に今となっては顕著だった。ちらりと盗み見た首筋で、はっきりとした喉仏が目に入り、また処理しきれなくて目を逸らす。とくとくと控えめだが、自分の脈がはっきりと聞こえた。
けれどアルミンは思うところがまだまだあったらしく、はあっと大きく息を吸い込んで「そりゃそうだよ!」と拳を握った。
「みんな僕がなよなよしてると思ってるしさ、これでも気にして結構鍛えてるのに!」
そうして作ってみせた力こぶには、確かに大した隆起は見られない。
「まあ、筋肉も僕のことぜんぜん信用してくれなくて、いつまで経ってもついてくれないんだけど」
はあ、とまた諦めたようにため息を吐いて、アルミンは両手を下ろした。とても残念そうにしているから、なんとなくそれが可愛くて、
「はは。でもまあ、それもあんたのいいところの一つだと思うけど」
私はフライパンをかけた火を止めながら、教えてやった。
……可愛いとは言ったが、それは愛おしいという意味で、むしろアルミンはその愛おしさの中に誰よりもの男らしさを秘めている。……優しさとか好奇心とか、しっかり通った芯を持っているところとか。そういうところは、誰よりも男だと思う。
「……そ、そう?」
ピン、と飛び出てきた食パンを皿に移していると、思いの外弾んだ声がアルミンから届く。
横目で見てやると期待に満ちた眼差しで見られていたことがわかり、途端に狼狽えて「えっ、あ、まあ」などと曖昧に答えてしまった。
それでもアルミンは期待を含む眼差しを嬉しそうなそれに変えて、
「……ふふ、じゃあ、いいや」
昔と同じように、機嫌よく笑った。
それが私の胸のど真ん中を射抜いて、とんでもない鼓動となったことは知りもせず、いい匂いだねと目玉焼きを乗せる私の手元を覗き込む。ライナーから押しつけられたハーブソルトをかけてやったからそう思ったのだろうが、当然私は近くなった距離に気が気でなかった。まったくこの男は、もっと自分がもたらす影響について知っておくべきだと思ったが、知られるのは恥ずかしいなとも思ってしまったのが正直なところだ。
さて、私たちは食卓代わりのローテーブルにまた並んで腰を下ろした。昨晩、アルミンに手伝ってもらい模様替えをしたローテーブルだ。
本当は模様替えしたいと自宅に招いたのはただの口実だったと伝えたら、アルミンは笑うだろうか。それとも喜ぶ顔を見せてくれるだろうか、……いや、したり顔をするのかもしれない。
結局そんなことは一言も伝えはしなかったが、私たちは昨晩のベッドの寝心地だとか、トーストの硬さだとか、そんな他愛ない話をしながら朝食を終えた。
昨日という日を選んだときの目論見通り、〝次の日が休みだからちょうどよく〟私たちはだらだらとしばらくそのままで話をした。こんな時間は八年ぶりだったが、まだお互い過去の話題を避けるくらいには少し手探りではあったと思う。
その内にアルミンは思い出したように私たちのお皿を重ね始め、「そろそろ帰らなくちゃ」と席を立とうとした。
それに対して私はなんとも間抜けに「え、帰るの?」などと声をかけてしまった。だって、せっかく今日は休みで、まだまだゆっくりする時間があるのに……と私はまず疑問に思ってしまったからだ。
「うん、お風呂入ったりしたいしさ」
しかしそれを聞いて、私は自分の都合ばかりを考えていたのだと顧みた。……そうか、そうだよな、アルミンにだって休日に済ませたいことがあるよな……そう、頭では考えていたのに、心ではずっと〝帰ってほしくない〟という気持ちが暴れ回っていた。
どうすればアルミンの都合を壊さずに側にいてもらえるかと考えた結果、私は、
「……その。うちのシャワー……使ってもいいよ……?」
などと口走っていた。
当然のことながら、アルミンは目を見開いて私の正気を疑ったのだが。
「え……え!? い、いやっ、それはさすがに!? き、着替えとか、ないし……っ」
「私の、貸す……から……!」
勢いよく拒否されるものだから、私もその勢いに乗って応えてしまった。沈黙されるのは反応としてまったくおかしいことではなかったが、私はそれに耐えられず、
「あ、えとっ、アルミンでも入りそうなフリーサイズの服、ほかにもある……から……」
必死さを隠すことすらできずに、ちらちらとアルミンの視線を覗き込む。
帰ってほしくない……それを直接言えたら楽だったのだが、生憎とそんな性分でもないのでアルミンに察してもらうのを待った。
じっとアルミンが私を見つめる。その視線の熱さに私はじっとしていることができず、目を泳がせまくってしまった。
しかもそこへアルミンは追い討ちをかけるのだ。
「…………そんなに帰ってほしくないの……?」
そう尋ねられた途端、ぼふ、と脳みそが爆発したように沸騰した。言いたいけど言えないと噤んでいた言葉を、アルミンはわざわざ言葉にしてくれたのだ。これは皮肉だ、なぜわざわざ言葉にした?
羞恥心に足を引っ張られ、私は口をもごもごさせるだけでろくな返事ができなかった。再び顔から火が吹いているのではと思うほど熱くなり、手で煽りたかったほどだ。
それはおそらくその〝火〟を見るより明らかで、アルミンはくっ、と頬が緩むのを我慢するようなへんてこな表情で「……そっか……」とぼやいた。すべて悟られたらしい。察してほしいとは思ったが、こんなにはっきりとわかりやすく察して欲しかったわけではない。
「その、じゃあ、お言葉に甘えようかな……」
確認した本人まで照れてしまったようで、後頭部に触れながら言い始めたものの、
「あ、でも、下着とかないし、やっぱり、」
とまた言葉を引っ込めようとした。
ここで引いたらこれまでの羞恥を甘んじて受け入れた私が報われない。私は更なる恥を重ねることを承知で、
「……うち、乾燥機あるし、数時間で乾くからさ。シャワーの間に洗濯しとく」
アルミンの退路を絶とうした。
確かに乾燥機にかけている間は下着は履いていない状態にはなるが、二人で過ごすだけだし、どこかにでかけるわけでもないしで、私は別にいいのではと自己完結していた。……私がその状況に置かれたなら、側にいるためにそれくらい構わないと思うだろうと考えた。
果たしてアルミンはどう思ったのかと気になり、手元を見ていた視線でアルミンを盗み見る。
すると大袈裟なまでの仕草で肩まで息を吸い込み、「……はあ」とため息を吐いた。
それを見て私は焦った。――しまった、アルミンに迷惑がられた。恋人になったからと言って、いきなりこんなに求めてしまったら、あのころ懸念したことと同じではないかと今さら思い至る。これでは完全にあのときの二の舞になってしまう。私は慌てて言ったことを取り消そうと言葉を集めようとしたが、
「……そんなかわいい態度をとられたら、僕どうしたらいいの」
「えっ、」
まったくもって想定の範囲外からの言葉が飛んでくる。不意に疑問符をこぼしてしまったのはそのせいだ。……聞き間違いでなければ、アルミンは今『かわいい』と言ったのだ。
そんなことを言うアルミンの真意を探るべく、私はまた恥も忘れてアルミンの顔をじろじろと見つめてしまった。今、アルミンは私のどうしようもない執着の態度を『かわいい』と称したのか。なぜ。
その答えはすぐにもらえることになる。
アルミンはまるでにやける自らの顔を隠すように片方の手で顔を半分覆い、
「この間も言ったよ。君が甘えてくれるの、すっごく嬉しい」
そしてその手が降ろされ、
「……抱きしめていい?」
ぐっ、とアルミンの身体が寄る。何が何だかわからないまま今度は私が退路を断たれるように、逃げ出せないような強い眼差しで射止められてしまう。
私に決断を迫るこの間は、じわ、と背筋に甘さを走らせた。そんな目でまた私を見て、抱きしめたいなんてずるい男だ。私が拒否できるわけも、するわけもなのだから。
息を吸いながら顔を背けた。
「もう、つ、付き合ってるんだから、好きにすれば……!?」
その熱視線に耐えられなかったからだ。またしても顔が熱い。
私が返した言葉の通り、アルミンは待ちきれないような性急さでぎゅ、と私の身体を抱いた。ぎりりと身体が軋むほどに強く抱き止められ、視界がくらくらする。
よかった、アルミンは私を鬱陶しがっているわけではないと知ることができて、心から安堵した。それとほとんど同時に、どうしてこんなに執着したことが喜ばれたのか……これは本当に本心だろうかと、すぐに落ち着かなくもなった。
だがそこで、ふわり、頭に触れるだけのキスが落ちてくる。どき、と心臓を中心に身体が強く脈を打った。
「じゃあシャワー借りるね」
まるでわざと余韻をかき消すようにアルミンは立ち上がり、脱衣所のほうへ身体を向ける。
私はというと今の抱擁で情けなくも力が入らなくなり――いわゆる、腰が砕けてしまったというやつなのだろう――、立ち上がることができず、
「あ、ふ、服、脱衣所に出しとくから」
「うん、よろしくね」
廊下へ足を向けたアルミンの背中をただ見送った。
〝勝手知るには〟狭すぎるアパートなので、朝、便所を探しているときに既に浴室は見つけていたのだろう。アルミンは一直線へそちらに向かっていった。
……それにしても見事に粉砕された腰に呆れながら、私は膝を見下ろし顔を俯けた。強く情熱的な抱擁に、思考ごと脳みそはすべて茹でられて、熱が引くのに時間がかかったからだった。
私が恐れたアルミンへの執着を、アルミンは予想外にも喜んだ。……どうしてだろうか、理解はいまいちできなかったが、それでも抱きしめられた腕の力に意識は奪われて、ぼうぼうと燃え盛る熱情の間でアルミンを思い出していた。
アルミンがシャワーから上がってきたあと、私はドライヤーの位置だけを伝えてそそくさと自分も浴室に向かった。……ほくほくと湯気が立ち昇る、透き通るアルミンの肌を見ていられなかったからだ。今の私には刺激が強すぎた。シャワーに入って間違えて水を浴びてしまったときも、お湯が温かくなったあとも、しばらくこの心臓の鼓動はうるさいままだった。
浴室から出ると、アルミンは私の部屋にある小さな本棚の前にいた。私がそこに詰めているのは主に楽譜や指南書なのだが、興味深そうにそれらの背表紙を目で追っていた。
「あ、おかえり。すごい数の本だね。これもしかして楽譜?」
「あ、うん。だいたいね」
髪の毛をバスタオルで乱暴に拭いながら、私は先ほどアルミンに教えたドライヤーの元へ歩む。
「へえ。中、覗いてみてもいい?」
「え、ああ、いいけど」
タオルを横にどけて、何にも気になっていませんという装いでドライヤーの電源を入れた。ごお、とうるさく音を立て始めたそれは、私の乱れた鼓動を隠してくれる。……浴室から出てきて、既に風呂上りでもないのにアルミンにまたドキドキしてしまったのだ。さらさらと光を反射する金髪とか、私が貸した襟口の広いトレーナーから覗く鎖骨のくぼみとか、刈り上げの境のうなじの生え際とか……いろんなものが目に留まって毒になっていた。だからドライヤーで髪の毛を乾かしている間は、鏡の中を見ることに集中しようとした。
私が髪の毛を乾かし終わったあと、横に置いたタオルを片づける意味でも洗濯機や乾燥機のある脱衣所に向かった。乾燥機の様子を見たが、残り時間あと一時間半と表示されているのを確認して、私は再びリビングに戻る。するとアルミンもまたこの部屋唯一のソファに腰かけて、まじまじとギターの指南書を睨みつけていた。
「……おもしろい?」
隣に腰を下ろす。実はこれはかなり勇気を要したことだが、それを悟られぬように振る舞った。
アルミンはその本に走らせていた視線を上げて、「うん。ギターって奥が深いんだね」と、本当にわかっているのか測りきれない笑顔で返してきた。それから「今度ライブあるときは僕も誘ってよ」と楽しそうに付け加える。私は「ああそうだね」と素っ気なく返して、自分の携帯端末を拾い上げた。――時刻は午前十時前。
いつも起きてからすぐ、身支度を済ませる間になんとなく追っていくSNSを、今朝はようやくここで開いた。バンド仲間のアカウントをフォローしているだけのそれだが、彼らが呟いていることをただなんとなく追うのが日課だった。
だが今日はなんとなくにはならなかった。隣で本を読んでいるアルミンに私の意識はすべて向いていて、まったく画面の中に集中できなかったのだ。こんなにも落ち着きのない自分に驚きすら抱いている。
「あ、ね、アニ」
「え、何?」
何の前触れもなく声をかけられて、少し返事が大袈裟になってしまった。
「手を見せてよ」
「手?」
藪から棒とはこのことだろう、アルミンは唐突にそんなことをリクエストしてくるので、私はおずおずと手のひらを握り込んで聞き返した。するとアルミンはまたしても何を悪びれる様子もなく、
「うん。指先。まだ固いの?」
そうして本人の手を差し出してきた。……私の手を握る気でいるらしい。
アルミンの言葉の内容から察するに、彼はただ私の指先に興味があるようだった。ギターを弾くと指先が弦に食い込むので、だんだん皮膚が固くなっていくのだが、それをこの指先で確認してみたかったようだ。そういえば高校のときも見せてと言われたことがあったなと思い出しながら、
「……ああ、うん、まあ」
私は左手を差し出した。
「でも高校のときほど弾いてないし、あのときほど固くはないかな」
「へえ、」
それを遠慮もなく握って、アルミンはふにふにと私の指先の感触を確かめている。触れ合っているせいなのか、私は嫌に緊張して震えそうになるのを必死に抑えていた。打つ脈はうっとおしいような気もしたが、その鼓動の中で見るアルミンは心地いいような気もした。
「……うん、ありがとう」
「あ、ああ」
互いに手を引っ込めるときにはぎこちなさがどこからともなく入り込んでいて、すなわち互いにこの体温を意識していたのだと思う。
放されたから改めて握り直した携帯端末だったが、それは動揺を悟られないようにするためだった。アルミンは私がそうするまで見守っていたようで、私がまた画面に目線を落とすと本を拾い上げた。
それから沈黙が訪れる。……けれどわかりやすいくらいにアルミンは私のことを意識していたし、おそらく私がアルミンのことを意識していたのも伝わっていたと思う。二人の間にあるこの微妙な距離がもどかしい。どうすればこの距離を排除できるのか……ちらりとアルミンの脚を盗み見てしまい、そうか、と思い至った。私はアルミンに触れたくなっていた。抱きしめてほしくて、キスをしたくて……だからこんなに、落ち着きがなくなっていた。
だがキスしたいこの気持ちをどう伝えればいいのだろう。あんなに粘ってここにいてもらったのだから、こんなことで悩むのは今さらなのだろうが、ただここに座っていてくれ、と頼むのと、唇を合わせてくれと頼むのとでは、同じというわけには到底いかなかった。……もしかしたらアルミンは、今、そんな気分ではないかもしれないし、そもそも、そんなこと、求めていないかも――……、
「……あ、アニ。あのさ、」
「うんっ、なに」
呼ばれるままに盗み見たアルミンの横顔は真っ赤になっていた。そのせいで私にもその熱が伝染してきたように顔が熱くなって、返す声が裏返りそうになった。
「手を……繋いでもいいかな」
ちらり、アルミンが私の意思を確認するためにこちらを見やる。とんでもなくお互いのことを意識していると薄々わかっていたのだから、アルミンが『そんな気分ではないかも』と思おうとした自分を笑ってやりたくなった。……それこそ『僕たちは恋人になったの?』と確認をしてきたのはアルミンで、……つまり、アルミンだってきっと、私と触れ合いたいと思ってくれている。その熱視線が物語っているように。
「……手だけでいいの?」
誘われるがままに尋ねてやると、アルミンはさらに盗み見るように私の唇を見たのがわかった。あ、キスをされる、そう頭に過ったと同時に、返答もしていないのに私の手は握られ、そのまま唇が寄せられた。ふわりと触れる、互いの柔らかいところ。
鼻先に触れたのは、よく知ったシャンプーの香りだった。
「……んっ」
唇だけでなく、ふたりの肩もぶつかる。いいや、自分の肩が邪魔にさえ感じた。アルミンともっと距離を縮めたい、もっと。そして私の願望を叶えるように、アルミンがそっと優しく私の唇に舌で触れた。はあ、と息を吸うふりをしてそれを割ってやると、生暖かいざらつきが口内に進入する。
「ん、あるっみ、ん……っ」
「あに……ッ」
ぐぐっと力強くアルミンが身体を近づけてくる。もどかしかった距離をすべて排除するように身体の正面を向けると、肌が触れ合うくらい密着できた。薄いトレーナー越しにアルミンを感じる。そこからざわざわと悦びような感覚が身体を波打たせた。
人間が二人座っていることに慣れていないソファは、ぎ、と文句を垂れたが、そんなものは今はもはやBGMだ。
「はあぅ、あにぃっ」
「ん、ふ、……る、みん」
絡め合う舌先からびりびりと微弱電流のような痺れが脳みそへ伝う。甘い、とても甘い感覚が意識に広がり、指先や肩を含めて触れているところがすべて気持ちがよくて、そして同時にもどかしく感じる。
――もっと触れてほしい。
私はこの身体が、じりじりと焦れるような熱を持ち始めたことに気がついた。まるでもどかしさが肌の表面を這っているようなこの感覚は、私の意識の芯まで侵食してくる。触れる指先から伝わるその甘い痺れが、もっと欲しい。もっと、もっと……身体すべてに触れて、もっとこの痺れで私を満たしてほしい。
ぎゅ、とアルミンの手を握り返した。こんなことでこのもどかしさが伝わるとは思えなかったが、何もせずにはいられなかった。私は「もっと触って」とねだる代わりに、アルミンが絡める舌に必死に応えて、そして指先をも絡めた。
「……はぁ、アニっ、ん、んん」
「あるみ……ンッふ」
先日交わしたキスのように、アルミンは私の上あごを撫でて、歯列をなぞった。舌のざらつきを押しつけるように私の口内をまさぐって、その愛撫の度にだらしのない吐息が漏れる。
さわり、ついにアルミンの手が私の両方の肩に触れた。またそこからびりびりと甘さが走って、止めどない欲求が意識を占める。もっと、もっと触ってほしい、いろんなところに……例えばこの背中に、腰に、胸に、もっとその熱い手で触れてほしい。
「はあっ」
想像しただけで不埒な声が零れてしまい、自分自身に驚いた。瞬く間に正気に戻りかけたが、アルミンの手がゆっくりとした手つきで私の腕を撫でおろしたので、またどうしようもない妄想に脳みそが支配される。そのままその手が下って、私の身体中どこでもを触れてくれる妄想だ。
そろそろとその手は服の上から私の腕を伝う。……けれど、私の手首まで撫でたあと、それはまた私の肩に戻り、それからまたそろそろと手首に向けて撫でおろされていく。――そう、それをくり返すばかりで触れてくれないのだ、ほかのところに。触れられたらきっと気持ちがいいと思った、背中や、腰や、胸に、アルミンは頑なに触れてくれない。服の上から腕を撫でられるだけでこんなに熱くて、甘くて、心地がいいのだから、もっと気持ちよくなれるところがあるはずだとわかっているのに、触れてくれないから焦れて仕方がない。
「はあ、ある……みん……ッ」
「うんっ、あに、」
けれどもっと触ってなんてはしたないこと、私は言う勇気が持てなかった。甘く声を漏らしてみても、アルミンすらもどかし気に私の腕に触れるだけだ。――ああ、どうしたらいい。何をしたら、触れてくれる。
「……好きだよ、アニ」
私がそんなことで頭の中をいっぱいにしている間に、アルミンはゆっくりと唇を離した。握っていた私の肩を持って二つの身体に距離を作り、私はたちまち目を開けさせられる。
「……アルミン……?」
ふう、とアルミンは深呼吸をしていて、どうやらこの触れ合いをここで区切るつもりなのだとわかった。
……ここで、やめるの?
私はかろうじてその疑問は飲み込んだが、頭が追いついていない。こんなに心地がいいのに、時間だってまだまだあるのに、アルミンはここでやめてしまうらしかった。
もう一度、ふう、とアルミンが呼吸を整えると、その身体の重心を後ろに倒して先ほど本を読んでいた体勢に戻る。
「……ふふ、」
そして唖然としている私を呼び戻すように、笑って見せた。
……えっと、これは……大事に、されている、ということだろうか。
私は必死に自分を納得させようとしていた。昨晩アルミンが私に手を出そうとしなかったことは、私を大事にしてくれているからで……つまり、ここでやめてしまうのも、私を大事にしてくれているからだ。そう思おうとしたのだ。
私はハッと我に戻り、急いで同じように体勢を先ほどのものに戻した。キスをするときに無意識に横に置いてしまったらしい携帯端末を探して見回し、忙しなくそれを拾い上げる。
――でも、こんなに身体が火照っているのだから、本当はこの悶々を汲んでほしいという気持ちがあった。大事にされているのはもちろん嬉しいが……そうではない、この甘すぎる痺れを、もっとほしかった。こんなに大事にしてくれているのに、私は贅沢にも欲に負けそうになっていた。もっともっと、私の身体中どこでもをアルミンに触れてほしかった。その指先で――その吐息で。……大事にしたいと思ってくれている、それはわかっている。けれどそういうことだけでは納得が上手くできなかった。
「……アニのこれまでの話、よかったら聞かせてよ」
まるでアルミンがこの部屋の中の空気を変えてしまうように、声色を改めて言った。
「ん?」
「この八年間、アニはどう過ごしてたのかなあって」
そうやって先ほどの情熱的な時間があたかも存在しなかったように爽やかに話を進めようとする。……私はどうしていいのかわからず、必死にこれに自分を順応させようとした。
「う、うん、特に変わったことはしてないけど……」
すぐには考えがまとまらなくて曖昧に答えたのだが、それでは満足しなかったらしい。アルミンは「そうか」と相槌を打ったあと、
「でも、知りたいんだ。……あのあと、大学どうだった?」
またにこにこと普段通りの笑顔で私にその話を促した。
頭の中がとっちらかっていたせいなのか、私はその問いを認識したとき、なぜかちらりと父の姿が浮かんだ。いやいや、とその不本意な光景を忘れるようにわざとヒッチのことを思い浮かべて、
「……大学は、一年もしない内にやめた」
大して思い入れもない記憶を平然さを意識して教えた。
よほど意外だったのかアルミンは「え……」と呟いていたが、
「なんか、性に合わなくて……そんで、バンド続けながら適当なアルバイトして……まあ、転々として、きた」
そのあとのことも含めて、私は半ば諦めのような境地でそう言い切る。私自身、人から見ればだらしのない人生を歩んできた自覚はあったので、胸を張っていることができず、そのまま足元へ視線を落としてしまった。
私を見ていたアルミンもゆっくりと足元へ視線を落とし、「……そっか」と私の代わりに締めくくった。その声色はとても優しくて、呆れられることすらすれ、何かプラスに捉えられることはないと思っていたので、拍子抜けしたのは妥当なところだろう。
その真意を確かめるべくアルミンのほうへ視線をやると、アルミンはまたにこりと笑って私を見返した。
「ふふ、何かアニらしい気もするよ。君は型にはめられるような人じゃない」
そうやって肯定されて、私はなぜか冷や汗をかいた。褒められた生き様でないことを自覚していたから、肯定されて驚いてしまったのだろうか。ともあれ私は居たたまれなくなり、目を泳がせてしまった。
「そんなかっこよく言ったって、結局はみんなができることができなかっただけだから」
せっかくアルミンが褒めてくれたのに、焦って自らを貶めてしまったことにここで思い至る。これは遠回しにアルミンを否定してしまったことにならないか、ああ、これは幻滅されたかもしれない、どうしよう、と動揺が押し寄せて思考はパンク寸前だった。ただでさえアルミンは優等生なのに、こんな不真面目な私を無理に肯定してくれて、その上でそれを否定されてしまったら、たまったものではないだろう。
けれど自分がやってしまったことのアルミンの反応を待てるほど私は強くなく、何かを言わせる前に「あんた、は」と話をそちらに振った。そうだ、私の話なんてつまらないし、アルミンが話してくれるほうが私は好きだ。
アルミンが「僕?」と確認した声をかき消すように、ピーと甲高い機械音が聞こえた。……これは、乾燥機がその仕事を終えたときに発する通知音だ。
何とタイミングの悪いことか、私はアルミンの話が聞きたかったので無視しようとしたが、アルミンが『今のは?』と聞きたげな顔で見ていたので観念することにした。
「今の、乾燥機。終わったみたい」
教えてやるとアルミンは少しホッとしたような顔つきになり、
「そう、じゃあ着替えようかな。さすがにすうすうして落ち着かなくて……、」
いそいそと立ち上がった。
そうだった、アルミンは今下着を履いてなかったのかとこんなところで思い出すという間抜けをかましてしまい、途端にその顔が直視できなくなった。
「服、貸してくれてありがとう」
「あ、うん」
私が一緒に行くとアルミンが着替えられないので、私はこの場に残ってアルミンが帰ってくるのを待つことにした。乾燥機のある脱衣所のほうへ歩いて行ったのを気配で探り、アルミンが戻ってきたら、アルミンの大学の話を聞こうと心に決める。
――だがアルミンが戻ってくると、アルミンは私に洗濯機と乾燥機の使用を感謝したと同時に、またしても「そろそろ帰ろうかな」と言い出した。時計を見れば昼ご飯どきを過ぎていて、ここでまた昼食を食べて帰るのに気が引けているのかもしれない。
実際はアルミンは「さすがに家のことをしないと」と付け加えていたので、昼食云々はあまり考えていなかったのかもしれないが。もしくは、家に作り置きしてある食事があって、今日までに食べてしまわないといけないとか。
とにかく私は今朝と同じようにアルミンが帰ることに対して、まだもう少し、という気持ちがあったのだが、アルミンが「あんまり一緒にいすぎて飽きられちゃってもいやだし」とからかうように笑ったことで我に戻った。……我に戻ったというより、昔のことを思い出したのだ。
私はあのとき、側にいてほしいとねだりにねだってそうしてもらい、けれど最終的にはその罪悪感に押し潰されてしまったのだ。だから、今日もそろそろ潮時だと自分に言い聞かせた。これ以上アルミンを引き留めて自分が許せなくなったら話にならない。
そうしてアルミンは出した本を片づけたり、使ったグラスを洗ったりと後片づけをしてくれたあと、荷物を持って帰って行ってしまった。玄関からアルミンが笑顔で手を振っているのを見て、ぎりりと胸が痛んだ――やはり、本心では帰ってほしくなかった。
玄関を施錠したあと、私は振り返りながら『アルミンにまた夜にでも来てくれ』と頼めばよかっただろうかと脳裏に浮かぶ。ただ、やはりそれはあまりにもアルミンにとって迷惑な話だとわかっていたので、言わなかったことが正解だったと自分に言い聞かせた。……私だって、休日にやっておきたいことの一つや二つあるだろう。……今は思いつかないが。
――果たして私は一人が寂しいだけなのだろうか。だからこんなにアルミンに側にいてほしいのか。……アルミンがいなくなるとたちまち自分の本意がわからなくなってしまう。アルミンを、寂しさを埋めるツールにすることだけは断じてあってはならない。それはわかっているのに、突然襲った心細さのせいで、そうではないという確信が持てなくなっていた。
*
考えてみれば確かに〝今日〟片づけようと思っていたことはいくつかあって、私は日中、溜まっていた洗濯物をしたり、模様替えの際に出たいらないものの整理をしたりして過ごした。早くまたアルミンに会いたくて……会いたくて仕方がなかった私は、明日の出勤時間を確認してしまうほど切実だった。……残念ながら明日は遅番で、アルミンと会うのは早番のときよりも二時間くらい遅くなる。
けれど夕方の五時ごろになって、アルミンからメッセージが届いた。そこには『大丈夫?』と記されていて、私はいったいどう答えればいいのだと首を捻った。――確かにアルミンへの会いたさは大丈夫ではなかったが、それをどう伝えればいいのか。一刻も早く側にきてほしいというのが本心だが、それはさすがに重すぎるだろうと飲み込んだのだ。
私はそのまましばし考えた。……側にいてほしい旨を――今すぐにでも会いに来てほしい気持ちを、上手く伝える方法はないか、と。そこで思いついた方法がある。とりあえず先にアルミンが寄こした質問に『うん』と返事を送って、それに続けて『夕飯一緒に食べる?』と送ることにしたのだ。
純粋に一緒にご飯を食べたいと思ってくれたのか、それとも私の真意を悟ったのかはわからないけども、アルミンからの返事もすぐに来て、『うん、行くよ』と記されていたことを確かにこの目で確認する。喜びと安堵と、そう言ったきゅ、と切なくなるような感情が胸に沸いて、なおさらアルミンに会うことが待ちきれなくなった。
さて、ただ問題が一つあった。肝心の夕食をどうするかだ。私はソファの上にだらしなく身体を横たえて、携帯端末を掲げるようにして持った。アルミンに向けて『何が食べたい?』と送る。するとアルミンからは、まさかの『アニは何が食べたい?』と返ってきたので、それを聞いているのはこっちだ! と力が入ってしまった。
とりあえず話している内にアルミンが先日エレンたちと食べたときのピザのクーポンがあると言い出したので、じゃあそれでと話がまとまった。アルミンがこちらへ来る途中で適当にピザを拾ってきてくれることになり、私は大して散らかってもいないリビングの中をそわそわしながら片づけした。
ピザを持ったアルミンが現れたのは、それから数十分が経ってからだった。
玄関からひょっこりと顔を覗かせたアルミンはまたしても鼻頭を真っ赤にしていて、暖かそうなマフラーを巻いていた。「やあ、」と笑顔で差し出してきたピザは思っていたよりも大きな箱に入っていて、しかもサイドメニューのような小さな箱もいくつか重なっていたので、思わず受け取りながら中を覗き込んでしまった。ふわりとチーズの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。私はそこから顔を上げてアルミンを招き入れたあと、玄関の鍵を閉めた。
リビングに入ると私は預かったピザを持ってそのままローテーブルのほうへ向かい、アルミンは部屋の隅でマフラーを外したり上着を脱いだりと、部屋でくつろぐ準備を始めた。そうして私が手提げ袋からピザの箱を出している最中に、一旦落ち着いたアルミンがたたたと小走りで駆け寄り、
「アニ、」
「……あ、アルミン?」
そのまま私のことをぎゅう、と抱きしめた。
耳元で「会いたかったあ」なんて声を漏らすから、私は歓喜に踊った胸をなんとか隠して「……お、大袈裟だよ」と抱き返す。その腕に包まれているのはとても心地がいい。例え外からきて身体が多少冷えていたとしても、それがアルミンである以上、私はほかほかと温かさに包まれているような気がした。――ああ、そうだ、やはり私は人寂しいからアルミンに側にいてほしいわけではないのだ、私は、アルミンだから側にいてほしいのだと実感ができた。
「……じゃあ、冷めない内に食べちゃおうか」
アルミンが私から離れ、また笑顔を作る。私もつられて笑いそうになり、待てよそれは私ではない、と思い出して息を吸って誤魔化した。
「私準備しておくから、手を洗ってきなよ」
「あ、うん、そうだね」
素直に立ち上がったアルミンは、手洗い場に向かった。ピザなのだから手は清潔にしておかないと。
アルミンが戻ってきたあと、ピザの蓋を開けて一体どんなピザを頼んだのかがいよいよ判明した。一つは無難にマルゲリータピザだったが、もう一つはラザニアピザなどという何とも奇抜なピザで、アルミンは「メニューを見たら気になっちゃって」とおどけて見せた。付け合わせにフライドチキンやポテトフライなんかも買ってきてくれていたので、強くは言及しなかったが――ちらりとアルミンを盗み見て思わず笑ってしまったのは、アルミンらしいなと面白く思ったからだった。
「――今朝の続き」
「うん?」
ピザもすっかり平らげて、残っていたポテトフライを二人でつまんでいたくらいのとき、私は思い出してアルミンに声をかけた。……ちなみにラザニアピザはそれなりに美味しかった。
私が何を言わんとしたのか上手く理解できなかったらしいアルミンに、
「今朝、私にこれまでどうしてたかって聞いたでしょ。あんたの話も、聞かせてよ」
私は答え合わせをした。
今朝、これを尋ねようと思ったところでちょうど乾燥機の通知音が鳴ったせいで、結局聞けなかった話だ。
「ああ、僕? 僕は何の面白みもないよ?」
最後のポテトも口に放り込んでしまったアルミンが、備えつけの濡れナプキンで指先を拭い始めた。それに倣い、私も同じように指先を拭っていく。
「僕もあのあとそのまま大学に入って、それから卒業して、そのまま今のところに就職したって感じかな」
呼吸を挟むほどもなく、短く簡潔に語ってくれた。確かに私もこれくらい端折って話をしたし、とてもフェアではあったのだが、もう少し何かを話してくれるものかと思っていたので、「ふうん」と相槌に留めた。
けれど続きや詳細が語られることはなく、アルミンは「あはは、ほんと面白くなくって申し訳ない」とふざけて頭を下げて見せた。
「あ、いや、それは別に、いいけど」
私が慌ててそういうつもりではなかったことを伝えようとしたのだが、
「でもあれからもう八年かあ~」
アルミンが不自然に話題を変えたので言葉を引っ込めた。
どこか別のところ――天井付近を見上げていたかと思っていたが、
「僕ももう二十五だし……お互いもうすっかり大人だね」
ふらり、とその視線は私の元へ戻ってくる。
しかも明らかに熱を意識した、篤い視線だったのだから、私はそれを認識した途端に心臓を握られたように心拍数を上げてしまった。
「もう試験のために会うの我慢しなくていいし、帰りたくないのに帰らなくてもいい、」
どくどく、とこの心臓はアルミンを見つめる分だけどんどん高鳴っていく。意味深なその笑顔は深まり、
「……好きなことを好きなようにできるね。もちろん、その分の責任はあるけど」
じっと見られているものだから、きっと私の反応を楽しんでいるのだなと思った。けど見つめられると上手く視線を逸らせなくて、まるで吸い寄せられていくようだった。その海の水面のような、きらびやかな瞳に見つめられるだけで、じりじりと熱が滾っていく。
私はおかしくなってしまったのだろうか。それともアルミンがけしかけているせい? わからないが、高校のときはこんなにいつもドキドキしていただろうかと記憶を探る。思い出せない……アルミンのことが大好きだったこと以外は、どんな風に感じていたかなど、今は思い出せなかった。ただただ目の前のアルミンが私を見つめていて、それだけが理解できることで……。
「ふふ、もう、アニったら。顔真っ赤だよ。かわいい」
へにゃり、とアルミンが唐突に笑顔を崩した。それこそ昔みたいに無邪気に笑って、そして私の頭をわしゃわしゃと撫でてくるものだから、一気に私の中で苛立ちが顔を出した。……この男は、やはり私の反応を見て楽しんでいたのだと解った。
「う、うるさい。あんた相変わらずひねくれてるね」
撫でるアルミンの腕を払いのけて、わざと呆れたようにぼやいてみたのだが、アルミンにはあまりダメージにはならなかったらしい。
なんとも楽しそうに「それはどうも」と流されて、私は「褒めてない」と釘を刺すことしかできなかった。なんだか変な感じではあるが、これは確かにアルミンだ、と妙な実感を得ていた。
とりあえず私たちはピザの後片づけをして、ゴミをキッチンに運んでまとめたり、と少しキッチンにいた。使ったコップを洗って、シンク周りを綺麗にしていたときだった。話の流れは明日も仕事だとかなんとか、そんな感じだったと思う。
布巾を水で洗っている私の横に立っていたアルミンが、「今日は家のことを片づけてきたんだ」と切り出した。そこから何を続けるのかと聞いていたら、
「君さえよかったら、また泊まってもいいかな」
アルミンがさらりとそう提案してくれた。
私はこの提案を受けて、内心舞い上がっていたり動揺していたりだったのだが、そんな気持ちもすべて押しのけて、ひとまず「うん。いいよ」と冷静を装って答えた。
舞い上がっていたのは言わずもがな、この後もずっと側にいられることに対してだが、動揺していたのは、私が思っていたことが駄々洩れだっただろうかと焦るような気持ちからくるものだった。確かめる術はなく、アルミンも平凡なことのように「よかった」と会話を進めていく。
「君は明日早番?」
「あ、いいや。確か遅番」
先ほど確認したのだから間違いない。
私は最後に自分の手を洗ってタオルで拭いていた。
「そっか。じゃあ僕先に出ないといけないからバタバタするけどいい?」
「うん。別に構わない」
「そっか」
淡々と会話を進められて安堵していたのは、もしかしたら私だけではなかったのかもしれない。気を抜いてしまったのか、そこまで交わすと唐突に沈黙に飲まれてしまった。
私はアルミンがここに今晩いてくれることで思考はいっぱいで、沈黙になったことはわかったが、すぐに話題が見つからない。二人でなんとも言えない目配せをしてしまい、
「……あ、ああ、でも、まだ八時半だね。寝るまで何しようか」
慌てて話題を絞り出してくれたのはアルミンだった。こういうとき、アルミンのこのコミュニケーション能力にはいつも頭が上がらない。こうやってすぐに会話を思いつけるのは一種の才能だと思う。
「え、映画でも見る?」
そう付け加えたアルミンの言葉を聞いて、はた、と私は思い出したことがあった。アルミンが『映画』と言えば、あのころは『アニメ映画』のことを指していたからだ。
「あんた、アニメは? まだアニメとか見てるの?」
寒いキッチンの中で、アルミンと向かい合わせに立って尋ねた。アルミンはその問いが意外だったらしく、
「あ、うん。そりゃまだ見るけど」
と不思議そうな声色で教えた。なぜ私がこれを尋ねたのかが解せない様子だ。
私はこのキッチンでの用事が片づいたことを思い出して、廊下に歩み始めながら会話を続けた。
「あんたの家に遊びに行けばよかった。そのほうがいろいろ楽しかったかも」
きっと私のつまらない家とは違って、映画やアニメが山ほどあっただろうし、そもそもあのころだってフィギュアを筆頭にファンアイテムがたくさんあって、部屋の中を見ているだけでも忙しなかったのを覚えている。……今のアルミンの部屋は、いったいどんな風なのだろう。
けれど私の後についてリビングに踏み入ったアルミンは、「やだな。僕の家はそんなに……」と言いかけ、何かを思い出したように「あ」と声を零した。
「いや、まあ、ちょっと変わってるかも、だけど……」
「やっぱり変わってるんだ」
問い詰めてみると、「まあ、少しね」と観念して認めた。その〝少し〟が果たしてどんなものなのだろうと気になり、つい頬を綻ばせてしまった。
「……ねえ、お父さんとは、どうしてるの? まだ、連絡取ってる?」
ドキ、と嫌な鼓動が打った。
どうしてそれが気になったのかわからないが、思いもしていなかったところから疑問を投げかけられ、私の中の記憶の断片が浮かび上がった。冷や汗をかくような不快感が背筋を伝い、「あ、うん。元気、だよ」と誤魔化したが、とても居心地が悪かった。
本当は父が今元気なのかどうかはわからない。いかんせんもう八年近く連絡も取っていないのだが、これをアルミンに言うべきか否かは少し悩む。
とにかく私は余計な気を散らさないように、目の前のソファに意識を集中させた。先ほどまで自分が座っていたほうに向かう。
「……そっか。それなら、よかったけど」
何かほかに意味でも含んでいるのか、アルミンは少し重たげにそう言った。
とにかく話題を変えたかった私は、
「……う、うん。……アルミンのご両親は」
同じ質問をアルミンに返してみる。
「僕?」
二人で一緒に腰を下ろしながら、アルミンだけが答えた。
確かアルミンもそんなに両親と仲が良かったわけではないと思い出したのは、質問を言い切ってしまってからだ。そういえばアルミンはおじいちゃんっ子だったはずだと遅れて思いついた。
「はは、僕はほとんど連絡取ってないからわかんないや。訃報がないから生きてはいるんじゃないかな」
そうやって軽く笑って流すものだから、私の中でもそんな感じでよかったのかと後悔が浮かんだ。私は父が元気であるとアルミンに嘘を吐いてしまったのだから。けれど、今さら『それは実は嘘だった』と撤回する意義も見いだせなかったので、私の中にはもやもやしたものが残っただけだった。
ソファに座ってしまってから、アルミンがどこかほかのところへ視線を泳がせ、ちらちらと私の顔を覗き見る。
「……君、その、お父さんとあんまり仲良くなかったからさ、心配してたんだ」
またしても、どきり、と嫌な動悸がした。まるで指を差されて咎められているような、そんな気持ちの悪さが襲った。
私の記憶が正しければ、確かアルミンには私と父のことは話していなかったはずだ。なのにこんなに気にさせてしまっているのはよほどなのだろう。
「そうなんだ。……うん、まあ、問題ないから」
そう、少なくとも今は。
私は父に……なんと言おう、〝理不尽な〟育てられ方をされた。父は本当は格闘家になれる息子が欲しかったのだから、私が生まれたことはさぞ絶望的だったのだろう。そんな父に耐えられなくて、母は私が小さいときに出て行ってしまったのだが、それで目を覚ますこともなく、父の横暴な〝教育〟は続いたのだ。
私が大学を早期にやめたのは、父から行方を眩ませるためでもあった。確かに性には合わなかったが、それは父が私に格闘の道に進ませるために選んだ大学だったので当たり前だった。私は勝手に大学をやめてやって、勝手に引っ越しをして父に行き先を伝えないまま今に至っている。
ぐらり、と視界が遠のいた気がした。押し込めたはずの思い出に浸りすぎて、少し頭がくらくらしたようだ。
「そっか。なら、もうこの話は終わりだね」
「うん」
アルミンが明るく声をかけてくれたので、その眩暈からなんとか我に戻り、何も思い出さなかったふりをする。
……父とのことはアルミンには言ってないし、これからも言うつもりはない。こんなことを言って、余計な心配や負担をかけたくないからだ。
「まあ、とりあえず映画でも借りに行ってみる?」
アルミンが人差し指を立てて、少しわざとらしいまでに楽しそうに提案した。少しその態度には違和感を抱いたが、先ほどの〝眩暈〟でそれどころではなかった私は、「うん、行ってみようか」と返して二人で身支度をした。
そのあと、アルミンの車に揺られて映画を借りに行った私たちは、アルミンがおすすめだという一つのドキュメンタリー映画を借りて帰った。我が家にはこんじんまりとしたテレビはあれど、大型のそれやメディアデッキなどと贅沢なものは存在しないので、私の画面の小さなパソコンで鑑賞する。先ほど二人でピザを食べたローテーブルにパソコンを設置して、二人でぎゅうぎゅうに身体を寄せ合ってソファに座り、画面を覗き込んで内容を追った。
映画を一本も見てしまえば、もう寝るにはちょうどいい時間だ。
元々今日は泊まるつもりで来ていたアルミンは自身の寝間着も持ってきていて、二人で電気を消して、また狭い私のシングルベッドに潜り込む。昨晩同様にその大きな腕の中に迎え入れてくれて、私は蘇った心地よさに深い呼吸をくり返した。
「……アニ、」
静まり返った部屋で、アルミンがまた私の頭にキスを落とした。それがどういうわけか、私には誘われているように思えて、思わず顔を上げてしまう。
それを見たアルミンがぱちくり、と瞼を瞬かせた。その様子が見えるくらいにはもう暗闇に目は慣れていた時分だった。
少しの間見つめ合ってしまったのだが、私が顔を上げた理由を察したのか、はたまた同じように〝誘われた〟のか、アルミンは今度は、ふらりと私の唇にキスを落とした。
そしてそれが、まさに合図となった。
「んっ、あに……ッ」
アルミンがキスをしてくれたことで火がついた私は、ぐっと自分の顔をアルミンのほうへ寄せてしまった。唇が深くで繋がり、
「あるっみん……! っふ、」
アルミンも抱いていた私の身体を自分のほうへ寄せる。
私たちは我を忘れるように互いの唇を貪った。密着した身体がまたびりびりと甘く痺れて、触れ合うところを増やすように、互いの脚まで絡め合った。ぎゅっと背中が抱かれ、そして撫でるその手のひらが刺激的で心地がいい。そうだ、今朝欲しかったのはこれだと頭に浮かび、やはり気持ちがよかったと正解に悦んだ。
「あるぅ……みん……っ」
「あにっ、あにっ、あにっ」
吐息に合わせて舌が行きかう。疑似的なそれを経験するように出し入れされるざらつきが、身体を芯から震えさせた。気持ちがいい。もっと、もっと触れ合いたい。もっとアルミンの側に行きたい。もっと、もっと。
願えば願う分だけ、身体が勝手にアルミンにすり寄っていく。心地がよくて太ももまで擦りつけあった。じりじり、じりじり、と熱烈な甘さが身体を脈打って伝っていく。頭が、意識が膨張していくような、ふわふわとした感覚に支配されていく。
「あぁ……ッは、」
服の中に手を入れていいだろうか。アルミンの背中に直に触れたい。私の中に欲求が突沸して、またアルミンにも触れられたい願望が湧き上がった。アルミンのシャツを、めくり上げたい。直に触れて、その体温に触れて――、
「……ん?」
「……はあ、あに……、」
気づけばアルミンが私の唇を解放していた。私の背中を抱き寄せる力も緩められて、二人の間に先ほどより少しの余裕ができていた。
「……アニ、好きだよ」
ちゅ、と額にアルミンの唾液まみれの唇が触れる。私は何が起こっているのかわからず、必死に茹った頭を回そうとした。
――今朝と同じだ、私は閃いた。アルミンは、ここでこの行為をやめてしまうらしかった。
「好きだよ、アニ。お休み」
キスができないように、今度は顔をアルミンの胸板に埋める形で抱き寄せられる。
私の鼓動はこんなにも早く脈を打っているのに。こんなにも身体中に甘さが溢れて、触れてほしくてもどかしいのに。アルミンは浅い息をくり返しながら、必死に自身を落ち着けようとしているようだった。
本当はやめてほしくなかった、ここで。もっとアルミンのなかに入り込んで、もっとアルミンを全神経で感じたかった。
けれど、それを私が言えるはずもなくて……私はどうしてここでやめられたのかわからず、半ば混乱したような意識の中でアルミンがくり返す呼吸を数えた。――これも、私を大事にしているから、なのだろうか。付き合い始めた男女が互いの身体に触れるのに、さすがに二日目では早すぎるのか。わからない、わからない。そして、そんなこと今はどうでもいいとさえ思えてしまう。
呼吸の浅さからアルミンもしばらく落ち着かないのがわかっていたが、もっと欲しいと言い出せなかった私は、ただただその腕に抱かれて、アルミンの判断に満足した風を装うしかない。
私たちは二人してぎらぎらと興奮したまま、互いに寝たふりをしながら、しばらく時間が過ぎるのを待つ羽目となったのだった。
***
それからもアルミンは毎晩のように私の家に泊まりに来てくれた。私が側にいてほしいと思っていることをわかっているようだった。
お互い仕事のあとに少しの間だけ解散して、夕飯の時分になるとアルミンが私の家にやってきた。それから一緒に夕飯を食べて、それぞれで浴室を使い、それから毎晩飽きもせずに一緒にベッドに入った。
その先の行為も、ほぼ日課となりつつあった。
頭が甘さでいっぱいになるような熱烈なキス。服の上からもどかしく触れ合う肌と絡ませ合う脚。……まるで触れられていないところから急かされるように、種類の違うびりびりとしたもどかしさが溢れ、毎晩毎晩もっと触って欲しいと願わずにはいられなかった。――それはつまり、アルミンは毎晩毎晩、舌を絡め合う行為でやめてしまうということだった。お互い満足なんてしていないことは、こんなにも明白だというのに。
とある晩、私は意を決して、そして勇気を振り絞って、アルミンの手を自らの胸に誘導した。この先に進んでしまおうと伝える代わりに、もっと触れて欲しい意思表示をしたつもりだった。
それでもアルミンは、そこで重ねていた唇を放し、いつものように「アニ、好きだよ」と囁いてからやめてしまったのだ。
「今日はもう、寝ようか」
「え……っ」
「だって明日も早いしね。無理は良くないよ」
「無理って別に……、」
「じゃあ、お休み」
そうしてそんな素っ気ない会話を交わしたあと、またぐっとアルミンの胸元に私の頭を埋めるように抱き寄せられて、それからさらさらと私の頭を撫でられる。……本当に毎晩のことだった。
どうしてアルミンが頑なに先に進んでくれないのかは、未だにわからない。何かはわからないが、その行為の何かに対して違和感を抱くのはおかしいだろうか。アルミン以外の男を知らない私には何が〝普通〟なのかわからないが、それはともかくとして、そろそろもっと触れてほしかった。……もっと深くまで、私の身体の、奥深くまで。
私はぎゅう、とアルミンの身体を抱き返しながら、この行き場のない熱をどうすればいいのかと必死に悶えていた。
その次の休みの日、私は思い切ってもう一歩を踏み出すことにした。行動で示してもだめなら、口で言うしかないと思ったのだ。
このときはアルミンが自宅から持ってきてくれたアニメ映画を見終わったタイミングだった。アルミンが再生を止めてから少し内容について感想を交わしたあと、それもひと段落したときだ。
私にムード作りも流れ作りもできるはずがなく、それでも必死に今行くか、ここでいいか、と考えて、私はここで攻めることにした。
「アルミン、あのさ」
ソファに座っていた身体の正面を、アルミンのほうへ傾ける。片方の足がソファに上がるが、今はアルミンを正面から見て、この気持ちを伝えたかった。
「うん、どうしたの」
改まった私を見て、アルミンは繕うように笑った。きっと私の眼差しが真剣だったからだろう。
場を和ませてくれようとしたアルミンには悪いが、私は恐る恐るにその手を握り、
「……私、その、先に進んでも、いいかなって……思ってるんだけど……、」
渾身の誘い文句を口にした。
「先に……進む……?」
だが唐突すぎたのか、アルミンは何の話なのかいまいち理解していなかったようだ。……確かに、アニメ映画の直後に身体を重ねる話をされるとは思わないだろうけども。
けれど私はそれくらい切実だったのだ。もっとアルミンに触れて、もっとアルミンの側に行きたくて……もどかしくてもどかしくて。この数日、数週間、ずっともどかしくて仕方がなかった。
だから私はまだいまいち理解できていなかったアルミンに、
「……その、つまり」
ちゅ、と不意打ちで唇を奪ってやった。ただ触れるだけのかわいいキスだったが、キスのあとに見つめてやると、アルミンはようやく悟ったように「……アニ?」と控えめに名前を呼んだ。
態度で伝わらないなら、口で言うしかないと思った私だったが、『先へ進みたい』と伝えて、これ以上なんと言えばいいのかわからなくなった。そんなにはっきりと『〝セックスで〟先に進みたい』と伝えるべきだろうか。それは、あまりにもはしたなくないか。アルミンに幻滅されないか。――アルミンは敢えてまだ手を出さないようにしているようでもあり、もしかすると私たちにはまだ早いと思っているのかもしれない。
けれど、私たちは早いも何も、もう二十代も後半で……。
「……その……」
ぎゅ、と握っていたアルミンの手をさらに強く握り込んだ。それを引き寄せるように心臓の近くに抱えて、そうしてまたアルミンの無防備だった唇を奪う。
ちゅ、ちゅ、と触れ合わせる度に吸着音が微かに鳴って、始めは驚いていたアルミンも徐々にそこに意志が見え始めた。
「……んっ、あにっ、ん、」
「あるみぃ……ンっ」
何度も何度も触れ合わせるだけの口づけを重ねていたら、何回目かのときにアルミンが薄らと口を開いて私の唇を捕まえるように食みついた。
まんまと私は捉えられて、その柔らかい唇に絡め取られる。
「んっ、ンンッ」
「……ふ、」
アルミンの身体が寄り、舌がまた深くまで進入してくる。……気持ちがよくて、漏れる吐息が抑えられない。
いつものように身体中に甘やかな痺れが走り、びりびりと肌の表面をくすぐる。触ってほしい、アルミンにこの手で、もっと、触ってほしい。
私は先日やったように、抱えていたアルミンの手をまた自分の胸の膨らみに被せてやった。自分でやったくせに触れてもらったことに身体が悦んで、不意に「ぁ、」と声が漏れる。少し恥ずかしかったが、もはやキスによる吐息なのかは区別つかなかっただろう。
「はあっ、あるみんっ、んん」
「あ、あにぃ……ッ」
今度はアルミンのもう片方の手も探して、反対側の胸の膨らみに触れさせる。もちろん好きに握ってくれていいと思っているのだが、アルミンの手はそこで被さっているだけで、特に何もされなかった。まるで流されないぞという強い意志すら感じる。――だから、それはどうしてだろう。
そしてまた、アルミンはゆっくりと唇と一緒に身体を放した。
「……アニ、好きだ」
「……う、うん」
いつもと同じ流れだ。今度は何と言ってやめようと切り出すのかと思いきや、
「……その、そろそろ夕飯の支度をしたほうが、」
そんなこじつけのような言い訳を述べた。
やはりだ、やはりアルミンは意図的にこの段階で行為をやめている。いや、わかっていたことだが、どうしてそんなに頑ななのか、それは本当に必要なのか、私も躍起になっていた。
「――今日もここでやめるの?」
アルミンの目をしっかりと覗き込む。今日という今日はその真意を明らかにしてもらうと強く願っていた私と、そんな私をどう宥めようかでおそらく思考していたアルミンとで、しばしの間見つめ合った。
今この瞬間にも、私の身体はその視線に熱せられて、早く触れてと懇願しているようなのに。
……そこで、アルミンがついに、観念したような深い嘆息を吐いた。
「……あの……ごめん、アニに、言い出せなかったことがあって……」
その言葉を聞いて、ようやく私は答え合わせをしてもらえるのかと察したが、同時に『言い出せなかった』という部分に身構えてしまった。
私はいったい今から何を激白されるのだろう。少し……と言わずかなり怖気づいてしまい、聞きたくないとまで過ぎった始末だ。
だがアルミンは続けた。
「……実はあれから、僕……誰かとセックスするとき、勃たなくて……」
「……え?」
私はアルミンの白状した内容に、思考が一時停止した。……えっと、勃たない……? えっと?
そして瞬時に思い返したのは私たちが初めて身体を重ねたときのことで……、そのときは、何も問題はなかったはずだった。
「もうちょっと、どうにかなるかなって思ってたんだけど……」
また深くため息を吐きながら、アルミンは自嘲気味にごちった。
その気まずい沈黙の中で、私は待てよ、と自分の思考の中の引っ掛かりを捉える。
もし、私にもわかる時期のことで『あれから』と言っているのだとしたら……?
私は閃きと共に衝撃に打たれ、ハッと浅く息を吸い込んだ。
「あれからって、もしかして……」
「うん……。アニと初めてセックスしたあとから、誰かとそういう雰囲気になっても萎えちゃって……上手くいったことがない……んだ……」
アルミンは目を合わせようとせず、どこかをじっと見ていた。
「はは、情けないよ……」
「……え、それって……」
はっきりと言うことを避けていたようだが、これが私のせいでないと断言できる人はいないだろう。
……いやいや、これは私のせいだ、これは確実に私のせいだった。何故ならアルミンはずっと、本人のセックスが下手だったせいで振られたと思っていたのだ。私がろくに振った理由を言わなかったから。――確かに、振られるほど自分のセックスは下手くそだったのかと思ったら……こうなってしまっても責められない。
ドッドッドッと心臓の鼓動が激しく殴りつけてきて、私を責め立て始めた。
わ、私だ。私があんな自分勝手なことを……したから……。最低だ、私はどん底まで真っ逆さまになったような気分を味わった。
だからアルミンは、これまでも私との触れ合いを途中でやめてしまっていたのだ。
私の中には『私が責任をとってどうにかしなければ』『どうしたらいい』とそれだけが頭の中にぐるぐると回転していた。人一人の人生に大きく影響を及ぼすことだろう……アルミンの口ぶりからして、私のほかにそういう雰囲気になった女性がいたが、うまくいかなかったという感じであるのは否めない。
私は、どうしたら……?
あまりの罪悪感に目頭が熱くなりつつあったが、それをぐっと堪えて私は再びアルミンの注目を煽った。
「ひ、一人でやるときは……勃つの?」
尋ねると少し驚いたように私を見返した。
「……うん、まあ」
その答えを聞いて、私は決心した。
〝二人でやるセックス〟では勃たないが、〝一人でやれば〟勃つのだから、きっと私にできることがあるはずだ。
「……じゃあ、やったげる」
「えっ」
「アルミンは、何もしなくていい」
「え、アニ!?」
もう私の頭にはそれしかなかった。当然これまでその行為をした経験はないが、そんなことを言っている場合でもない。
私は罪悪感と責任感に飲まれたままソファを降り、アルミンの部屋着の緩めのボトムを引っ張りながらTシャツを捲り上げた。
「ちょっと、待ってアニっ。いや、ほんとにっ」
アルミンは焦って抵抗してきたが、私はそれどころではない。……だって、私のせいなのだ。想像もつかないが、きっとこうなってしまう自分を責めたりしたこともあっただろう。私なんかより百倍も上手くいきたい女性もいただろう。……けれど、それもこれも、すべて私のせいだったのだ。――考えたらまた、罪悪感の波がこの瞳に押し寄せて、じわりと眼球を熱くする。
「いやだ! やるから!」
私を止めようとするアルミンの手を掴んで、私は力強くアルミンを睨みつけてやった。その困惑した顔を見たら、なおさら視界が歪んだが、そんな恥などもうどうでもいい。
「アニ……、」
ようやく諦めてくれて、アルミンの手から力が抜ける。私は先ほどの続きでその行為を試みた。
けれどそれは、上手くいかなかった。どうにかしたいという気持ちはあったのに、どうにもならなかったのだ。
「あ、あに……ごめん、もういいから」
私の頭を掴んだアルミンが、放すように促してきたのがわかった。
「でもっ」
納得がいかなくて、放しながらアルミンを見上げる。これでは、何の助けにもなっていない。結局その結果を私は、変えられなくて。
「ふふ、ありがとう。ほんと、大丈夫」
そうやって優しく笑いかけてくれるアルミンの瞳は哀しそうにも見えて、またしても罪悪感が私にのしかかってくる。そんな優しい手つきで頭を撫でるのをやめて。私はまだ何もできていないのに。
身なりを整え始めたアルミンを見ていたら、は、とまた閃く。それが上手くいかないなら、もっと自慰に近い環境にすればいいのではないか。
「じゃあ、私の身体好きに触っていいから。自慰してると思って」
「いや、それは……っ」
またしてもアルミンは抵抗しようとしたが、私は先ほどよりもよほど強引にアルミンの手を私の胸に押しつけた。むにゅ、と指先が私の膨らみに食い込むくらい、強く、誘導した。
「……っ、ほら、触っていい、から」
もっと触りやすくするためにこの身体もぐっとアルミンに寄せた。必死に訴えた、私はどうしてもアルミンをなんとかしたかった。……この罪悪感に耐えられなかった。
「アニ……」
ふわり、とアルミンの手が意志を持ったことがわかり、私はゆっくりと強制していた自分の手を放す。
するとそれからアルミンは私の様子を窺うように、そろりそろりと優しく包むように触れた。そうしてそのまま、ほんの少しの間だけアルミンはそこを触っていた。
けれど、またふと手を放して、
「……あ、アニ……やっぱり、僕はいいから」
「……でも、」
「ほんと、ごめん」
手のひらが私の顔の前に突き出された。これは本当にもうやめてくれという仕草なのだとわかり、またぐっと腹の底から罪悪感が込み上げた。自分への苛立ちとか、何もできなかった落胆とか、様々なものが湧き上がって、身体を引く以外に何もできなかった。
それなのにアルミンは身体の正面を向こうに向けながら、
「……失望、させた……かな……情けないな……」
苦虫を噛み潰したように笑う。それのせいでまた私の中の感情が突発して、
「ち、違うっ! そう、じゃなくてっ」
私が悪かったのだと伝えようとしたのに――自分をそんな風に責めないでくれと伝えたかったのに、
「アニ、僕はアニが好きだから。大好きだから」
傾けた身体のまま、ぎゅ、と抱き寄せられた。
じわ、とまた視界が歪む。目頭が熱くなって、水気を帯びていく。
違う。これはぜんぶ、私のせいなのに。私のせいなのに。私が、なんとかしなくてはいけないのに。
最後にアルミンはとんとん、と私の背中を叩いて、それからゆっくりと立ち上がった。
「さあ、夕飯の支度でもしようか」
そうしてまた、いつものように何事もなかったかのように伸びをした。
私はそんなに器用になれなくて、アルミンの腕を引っ張った。そしてその瞳を覗き込んで、「……ごめんなさい。本当に」と許しを乞うていた。
……こんなに大好きなアルミンを苦しめて、本当に私という人間はどうしようもない。アルミンに愛してもらう価値なんて、本当はないのだろう。……それでも私はアルミンに側にいてほしくて、だから、その腕を捕まえた手を離せなかった。
「えっ、違うよ。やだな……僕の問題だよ」
けれどこれまで通りあっけらかんとしたアルミンはそう笑って、私が捕まえたほうの手を反対に握られ、それからそれを持って立ち上がるように促された。
こんなことをした私を、どうしてまた好きになったと言えたのだろう。まだ、優しくしてくれるのだろう。私には本当に理解ができなくて、いつアルミンのほうから『やっぱりこの関係をやめよう』と言われるのかわからなくて、怖くて仕方がなかった。
それをわかっているようにアルミンは、キッチンに行く間も、行ってからも、ずっと私の手を握っていてくれた。……こんなにどうしようもない私にも、とめどなく優しくしてくれる。そんなアルミンが愛おしくてたまらなかった。私が何としてでも、どうにかしてあげなくてはと深く深く思った。
>第七話*This is for my sake.