第七話*This is for my sake.
私はそのあと、しばらく眠れずにずっと自分の頭の中でぐるぐると答えの出ない問題を考えてしまった。眠りについたのはそれこそ数時間経ったあとだったと思う。
朝起きるとアルミンは当たり前のように、何食わぬ顔をして身支度をしているし、私もその話題を出していいのかわからずずっと口を閉ざしていた。それから今日は先に出勤時間を迎えるアルミンを見送り、私は家のベッドの上で横たわる。
昨晩あまり眠れなかったことが災いしているのか、少し気分が落ち込んでいる。このまま今日は休んでしまおうかとも思ったが、そんなことよりもアルミンが抱える問題をどうしたらいいだろうと思考はまたそちらへ向いた。
次第に一人で抱えるにはあまりにも知識が足りないことに気づきを得て、私は携帯端末を握った。こんなことを相談していいのだろうか……と逡巡をくり返すが、どうにか突破口を見つけたい気持ちも大きかった。
決心はついていなかったが、時間が有限だということもあり、そろそろと私の指は通話ボタンに向かっていく。えい、と勢いに乗ってそのボタンを押し、スピーカーボタンに続く。
呼び出し音が鳴っている間も、果たして私は本当にこれを誰かに相談していいのか、できるのか、と身構えてしまった。呼び出し音が長引くほど、緊張感が増していく。
『もしもしアニぃ?』
通話したと同時にあまりにも能天気で軽快な声がしたので、私は安堵のような拍子抜けしたような、よくわからない感情の動きを経験した。
「……ヒッチ」
しかしまだ拭いようのない特大級の緊張感は持っており、『どうしたの? 暗い声で』と返したヒッチに息を呑むように言葉を向けた。
「その、あんたに……相談するか迷ってることが……あるんだけど」
私は頭の中にぐるぐるしているままを教えた。あわよくばヒッチに相談してよと言われ、その口実を得ようとしているみたいだと自らを推し量る。
だがヒッチは思いのほかつまらなそうに笑って、『いや、それ私に言う?』と呆れて見せた。
しかし私が次に何かを形にするより先に、
『当ててあげましょうか。この間の王子様のことでしょ?』
彼女の目論見通り図星を当てられてしまい、私は無様にも「……えっ、あ……そ、の……」と狼狽えてしまった。……そうだった、私としたことが。ヒッチにアルミンのことを相談するのはこれが初めてではないとわかっていたはずなのに、どうして言い当てられたことにこんなに動揺してしまったのか。
それなのにヒッチはほとんど声色を変えず、まるでしつこい男でもあしらうように話題を進める。
『はいはい、で、どうしたの? 今ならマルロもいるし、何かあるなら聞けるよ』
えっ、とまた予想外の言葉に驚いていると、ヒッチの話し声の後ろから「何を聞くんだ?」と聞こえた。もちろんマルロの声でだ。
当然これからの話を異性であるマルロにまで聞かれるのは本意ではなく、私は慌てて「いや、ま、マルロには……!」と断りを入れていた。
いいや、そもそも私はまだ、これを誰かに相談すること自体を決めきれておらず、ヒッチに話せるかすら怪しい。
「それに、その……ちょっと……相談しづらいこと、なんだけど……」
『うん?』
きょとんとした無邪気な相槌に押されて、私は結論を出した。
「やっ、やっぱりなんでもない! こっちで考える!」
こんなこと、やはり相談できるはずがない。性生活の事情なんて、どれだけ勇気を固めたところで羞恥心に負けてしまう未来しか見えなかった。
私はろくにヒッチに返事をさせず、自分からかけたくせに自分から切っていた。
端末が終話を表示していたことに深すぎるほどに安堵して、同じくらい深くため息を吐いた。
……やはり、これはどうにかして自分の力で考えよう。投げ出しそうになっていた携帯端末を握り直して、私はゆっくりと顔を上げた。
――自分でどうにか考えようと言ったところで、いったい何をどうすればいいのだろう。私個人では知識不足であると自認したばかりだった。
ふと、手に握られている携帯端末に気づく。……あ、そうか、インターネットで調べてみれば、同じようなことに悩んでいる男女の意見や対策が見られるかもしれない。
閃いてから行動に移すまではすぐだった。
携帯端末のブラウザを開いて、『勃起しない 対処』などで検索してみた。少し恥ずかしくて通常ウィンドウで検索する勇気がなく、プライベートウィンドウで検索するという怯えぶりだ。何から隠れようとしているのかわからないが、なんとなくそうした。
肝心の検索結果はなんとも期待はずれのものばかりだった。多くの結果が医療機関への誘導ページで、つまりは病院を勧めるような内容だったのだ。
……ということは、私もアルミンに病院にかかるように助言すればいいのだろうか。私が考えていた解決策とはかなり乖離していた。……だが、検索結果がこう言った内容で溢れているということは、一番建設的な対処法なのだろうと納得しようともした。
ブン、と振動とともに音が鳴る。同時に画面の上部にメッセージが現れた。そのメッセージにはヒッチの名前が添えられていて、『口で言いづらいなら、メッセージで相談乗るよ?』と記されていた。
私はすぐさまその通知を叩いて画面を切り替える。しかし返答はすぐには入力しなかった。
――先ほど断念した通りだ。こんな個人的なことを相談してもいいものかと二の足を踏んだのだ。
ただ先ほどの期待はずれの検索結果を見るに、ほかに当てがないことも痛感している。何か〝私にできること〟を見つけたい。それを、すぐにレスポンスのもらえる誰かや何かに相談したい。――今の私の頭の中はそれでいっぱいだった。
ぎゅ、と端末を握り直す。そうして私は、おずおずとメッセージの入力を始めた。
『勃たないって』
ひょこ、と動作をつけて画面に根づかせたのは核心だ。一番に言いづらいところを言ってしまおうという魂胆だが、そこに『既読』と文字が付与されただけで、緊張感と羞恥心でどくどくと心臓が脈打ち、心なしか部屋の中も温度を上げた気がする。
ヒッチからすぐさま返事があったが、『ん?』と詳細を促すものだったので観念してさらに羞恥を上乗せしていく。
『セックスするとき。勃たないらしい』
『まじで』
『うん。どうすればいいと思う?』
ひょこひょことメッセージの応酬は進んだ。私が助けを求めてもその勢いは削がれることはなく、
『それって気持ちの問題だって聞くし、アニがしてあげたら?』
とヒッチから届いた。
う、と身構える。……それは、既に昨晩試みていたからで……それを言わなければ次の助言は出てこないだろうかと考えが巡った。
小さく呼吸をして、私は意を決する。ここまで話しておいてこれを隠しても仕方がないので、『もう、試した』と簡潔に打ち込む。
ヒッチから『わお』と鬱陶しい相槌が届いたので、それをすぐに追いやるように『どうしたらいい?』と改めて助言を求めた。
ここで少しだけ間が空く。その分だけそわ、と気持ちが焦った。それからまたひょこ、とヒッチからのメッセージが届けられた。
『本人は原因をわかっているの?』
また核心を突くような問いに怯む。そう、原因は確実に私にあって、
『たぶん。てか、私のせい』
それも包み隠さず伝えた。『そうなんだ』と深く感嘆するような言葉が返ってきて、何か咎められるだろうかと力んでしまったが、
『まあ、えっちな下着とかつけたりして煽ってみるとか?』
とんでもない爆弾を携えてやってきたメッセージに、思わず目を丸くしてしまった。
――え、えっちな下着!?
『そうそう、精力剤とかも試してみたらいいんじゃない』
続け様にさらに追い討ちをかけられる。
――精力……剤!?
どれもこれも自分ではまったく思いもつかなかったものばかりで、ただただ感服したという気持ちになった。……ヒッチの発想力に驚く日がくるとは。
しかし驚いて返事をできないでいると、またしばらく間を空けてから、ひょこ、とメッセージが顔を出す。
『勃起不全は病院で治療できる』
いきなりの堅い口調と既知の情報に訝しむと、
『って、マルロが』
と続いたので、さすがに今回は深く息を吸うほど衝撃を受けてしまった。ま、ま、マルロに言いやがった! ヒッチ!
途端に羞恥が最高潮に達し、もう手遅れだとわかっているのに、『マルロには言わないでって!!』と我慢できずに送ってしまった。
ドドドとまた心臓が予想外の動揺に激しく脈を打った。
それなのにヒッチときたら、
『だって隣にいるんだもん。すごく親身になってるよ』
などと白々しく送ってくる。――いやいや、マルロが親身になってくれているかどうかは問題でなく、ここでは〝男性である〟マルロにまで個人的な事情が知られてしまうのが恥ずかしいのであって――、
『とにかく。試せること、色々試してみたら?』
勢いだけで思考が嵐のように渦を巻いている中、いやに冷静なヒッチのメッセージが届いた。
そりゃ、あんたたちはそこまで深く気にしていないでしょうが。
私は意識的に深呼吸を挟んで、必死に自分を落ち着けた。
ヒッチに相談しようと思ったのは私だ。解決策について、何かしらのレスポンスが欲しかったからで……そして、望み通り得られたではないか。――病院を勧める、以外で私ができそうなこと。
自分を落ち着けたあと、改めてメッセージ画面と向き合う。あくまで冷静に『わかった。ありがとう』と打ち込み、その会話を終わらせようとした。
だが締めくくりを打ち込んでいる最中、またひょこりとメッセージが飛び出してきた。少し長めのメッセージに目を通す。
『あ、あと、気持ちの問題なんだから、最中ネガティブなこと言っちゃだめだよ!』
突拍子もなく送られてきた内容だったため、思わず首を傾げてしまった。どういう意味だと疑問符を抱いたところ、
『いやとか無理とか。あんた言いそう』
ヒッチがメッセージを付け加えた。
あ、なるほど、とようやく自分の中で意味が通じる。――つまり、セックスしている〝最中〟に気をつけるべき助言だった。
しかもそれはなんとなく当たっているような気がして、胸がざわついた。〝最中〟などと経験したのは八年前が最後で、自分がどんな言葉を吐いていたかなど爪の先ほども覚えていないが……自分の性格から察するに、とてもではないがストレートに心の内を言ってしまったりしなかっただろう。……むしろヒッチが言う通り、思ったことは秘めがちだ。
『反対に、どんなことを言えばいい?』
ヒッチ先生に質問を投げかける。言わないほうがいい言葉だけでは塞がれそうなので、念のため聞いてみたのだが、
『そりゃあんた。気持ちいいとか。かっこいいとか。男が言われてテンション上がることだよ』
しれっとそんな内容が返ってきたので息を呑んだ。
『……わ、わかった』
そう送り返してはいたが、内心でまた少し身構えてしまった。……これはまた自分の性格の話になるが、そんなことを素直に言えるとは到底思えない……いや、でも。言わなければ、アルミンのためにも。
締めくくりの挨拶を送り合ったあと、私は決意を新たにしていた。――なんとしてでも私がアルミンをなんとかする。その責任感に押されて、私は次に取るべき行動を考えるのだった。
*
時計を見やる。経過した時間を見て身構えて、私は今日買ったばかりのとっておきのアイテムを握りしめた。ぐっと腹に力を込めて、自宅の脱衣所に向かう。
――私は結局、ヒッチとのメッセージのやり取りのあとにアルバイトの時間が迫っていたことに気づき、慌てて家を飛び出した。それからアルバイトの暇な時間を使って何をしたか。――私は、最寄りのアダルトショップを検索したのだ。そんなに大きな町でもないが、幸いにしてアダルトショップなる店は存在していたようで、私はヒッチに相談したときからずっと抱き続けている、腹を括るような気持ちのまま、この店に行くことを決意した。……インターネット通販だとまず店舗からどれを選んでいいのかわからないし、さらに自力で商品を絞り込むのは不可能だと思ったので、人のいる実店舗に目星をつけたのだ。あと、即刻持ち帰ることができるし。
今日は遅番である私は通常通り勤務をすると、退勤がアルミンよりも遅くなってしまうので、昼過ぎに早退するという暴挙に出る始末だった。――私が人生で〝アダルトショップに行くために仕事を早退する〟なんてことを経験するなど、昨日のこの時間ですら思いもしていなかったことだろう。自分の必死さを思うと微妙な心持ちになるが、これは私がなんとしてでもなんとかしたい問題なので、気を強く持つ。というか、アルミンのためにと思えば、身体の奥底から気力が漲った。
アルバイトを早退したあと、私はマスクにサングラス、しかもその辺で買った安物の帽子まで被り、顔がわからないようフル装備を済ませた。……そう、いざ行かん、目的はそのアダルトショップだ。その店舗でヒッチの言う通り、人気の〝えっちな下着〟と店員お勧めの精力剤というやつを購入した。マスクにサングラスまでしているというのに、それでもこの羞恥は計り知れず、私は帽子を何度も深く被り直してしまった。この手にある〝中身の見えない買い物袋〟を意識するだけで消えてなくなりたいくらいだったので、不審者さながらに落ち着きなく見えていただろう。店員が「これおまけです」と何かをその袋に突っ込んでいたが、それが何なのか直視することすらできなかった。
ともあれ、自転車の元に戻ると、その〝買い物袋〟を慌ててリュックサックに押し込み、私は傾き始めた夕陽を背景に家路を急いだ。
そうして家に着いた私は、カウンターの上に持ち帰った〝中身の見えない買い物袋〟を置いた。そこに立ったままそれら購入したもろもろのアイテムを取り出し、拾い上げて眺める。……特に、これから着用しようと思っている〝えっちな下着〟をだ。着るのも脱ぐのも大変そうなその下着を眺めて、丸々と息を飲み込んでいた。……いや、勢いで買ったはいいが、私は本当にこれを着るのかと考えてしまったのだ。……しかし、ええい、とまた気力をかき集める。私がなんとかできるならそれに越したことはないはずで、私がアルミンをこの問題に追い込んでしまったのだから、これくらいの努力はして然るべきだと自分に言い聞かせた。
それから、カウンターの脇に置いてある時計を見やる。時刻を見ると、もうアルミンの退勤時間は過ぎていて、ハッと慌てて携帯端末をリュックのサイドポケットから取り出した。アルミンから今日ここに来てくれることについてのメッセージが入っているかもしれないと思ったからだが、案の定メッセージは届けられていた。しかも五分も前にだ。
『今日、早退したの? 大丈夫? 具合悪いのかな? このまま君の家に行くよ。いいかな?』
メッセージにはそう記されていた。どうやら退勤時に私の姿が見えなかったのが気になったのだろう。もしかすると同僚に私はどうしたのかと尋ねたのかもしれない。
それにしてもいつもは一度家に帰って身支度を済ませてからここへやってくるので、その内容に少々意表を突かれた。……アルミンの真意はいったい……? 早退した私を心配しているのだろうか。
とにかく私は『もちろんいいよ』と返事をして、アルミンから『ありがとう。じゃあ向かうね』とのメッセージを確認したのち、携帯端末をカウンターに置いた。またちらりと時計を見やる。……アルミンが図書館からここへ車で来たとして、十分くらいかかるだろうか。
私の中で、鼓動がやたらと早く脈を打っていた。
この下着に着替えておくなら今しかない。アルミンが来てからでは、恥ずかしくて『着てくる』なんて絶対言えないだろうと予想するのは容易いことだった……ましてやアルミンに『そんなことはしなくていい』なんて言われてしまったら、なおさらだ。つまり、私は今、ここで、この下着を身に着けておくしかないのだと、動揺のような諦めのような、そんな居心地の悪さを抱いていた。
しかし、改めて時計を見やる。経過した時間を見て身構えて、私は今日買ったばかりのとっておきのアイテムを握りしめた。ぐっと腹に力を込めて、脱衣所に向かうに至る。
その下着のパッケージの女性の着用例を見ながら、無心でそれを身に着けていく。黒の総レースであるそれは、どこがどこなのか解読するところから始まるくらい、私にとっては難解だった。……アルミンはもういつやってきてもおかしくない時刻だろう。この奇妙で不思議な下着を正しく着用できているか疑問に思い、何度もそのパッケージを確認するが、どうやらこれであっているようだ。
そこで玄関のチャイムが鳴った。私はドキリと肩を震わせて顔を上げる。よもやこんな下着姿のまま出迎えるわけにもいかず、どうしようかと周りを見回す。
チャイムを鳴らしたのはきっとアルミンであるはずだと高を括り、
「えと、入ってて」
私は脱衣所からそう叫んだ。
アルミンは未だに律儀にチャイムを鳴らしてくれるが、早い段階でこの家の合鍵も渡していたので、待たせるよりはいいと思ったのだ。案の定、玄関のほうから「わかった」とアルミンの声で聞こえて、がちゃりと金属音の擦れる音が続く。開錠されて、アルミンが玄関を開いた気配をドア越しに感じた。とっと、と廊下を下る足音が聞こえる。
私はふと、タオルをしまっている棚に目が留まる。普段着ることはないが、以前ヒッチにもらったので置いてあったガウンを手にする。下着のまま出るわけにはいかないのだから、これを上に着ておこうとそれを眺めた。前開きのガウンで、これは脱ぎやすそうでぴったりだ。
それを急いで羽織り、前の紐を結ぶ。
鏡の前に立ち、今一度身だしなみを確認して、私は深呼吸をした。今日は上手くいかないかもしれないが、小さくても一歩になれば、と自分に言い聞かせて、脱衣所の扉を開く。
廊下に出ると、アルミンは私が先ほど置きっぱなしにしていた〝中身の見えない買い物袋〟の前に立って、その中にあった唯一の商品――つまり、精力剤を手に持ち、不思議そうにそれを眺めていた。しまった、といきなり失態を叩きつけられたように焦るが、立ち止まるわけにもいかないので、そのままアルミンの元へ歩み寄る。
私の気配に気づきゆっくりと顔を上げたアルミンが、なんとも言えない微妙な面立ちで私へ視線を向けた。
「……これは?」
冷静というよりは、少し冷ややかに感じるほどの声色で放たれる。
そこから感じ取った異様な空気感に驚き、ドクドクと焦りは加速した。……アルミンが、怒っている? いや、呆れているのか。
眼差しも心なしか冷たく見えて、私は慌ててアルミンに教えた。
「……その、精力剤って、やつ……アルミンに」
それは見ればわかるんだけど、と言いたげな困惑した表情になり、「……えと……」とまたその精力剤に向けて視線を落とした。先ほどから収まることなく脈打つ鼓動が、早く何かを言えと私をせっついてくる。……明らかにアルミンの反応は芳しくなく、余計なことだったかと焦りが止まらなかった。
「その、アルミン、病院には行った……? 勃たないの、病院で薬もらえるって」
何か言わなくてはと思った末に出てきたのは、検索結果でもっとも多かった助言だった。どうして咄嗟にそんなことを言ったのか自分でもわからないが、私は一刻も早く安心したかったのだと思う。
アルミンは精力剤を持ったまま腕を下ろし、かと言って私とも目を合わせることなく、
「……あ、ううん……行ってないよ……」
落胆したような声色で言った。それから私を一瞥して、
「行くほど、セックスしたいってわけじゃ、なかったし……」
じりじりとその失望したような眼差しで私を眺めた。それに私が耐えられるわけがなかった。
私は落ち着きなく自分の髪の毛に触れながら、それでもなんとか視線をアルミンに集めようと自らの視線と格闘した。
「そ、その、たっ、勃たなくなったの、私のせいだと思うし、何かしたいと思って……病院、行きたくないなら……その、それで……」
どこかへ泳いでいこうとするこの視線を、ちらちらとアルミンに向け直す。どんな反応か気になる気持ちもあるが、どちらかというと逃げ出すなという自分への指示でもあった。
アルミンの瞳が微かに揺れているのがわかる。それを見て、私には漠然とした〝嫌な予感〟が走っていた。もしかしたらアルミンはこれを執拗に気にされるのが嫌だったのかもしれない。
「……アニ。……あのね、僕さ、」
重々しく、そして心なしか少し哀しそうに開かれたその口を見ていられなくて、
「ごめん、その、どうしてもアルミンとセックスがしたいとか、そういうわけじゃなくて、」
私は割って入ってしまった。
しかもヒッチに禁じられていた『ネガティブなこと』を言ってしまっただろうかと考えが走って、
「いや、そうなんだけど、」
慌てて自分の言葉を訂正した。その上で、
「でも、アルミンに悪いことしたなって。何かしたくて……」
それを付け加えて、なんとかアルミンの抱いたであろう落胆を払拭させたかった。
けれどそれを言ったところでアルミンはにこりとも笑うことはなく、ただ静かに私の様子を見ていた。
「た、試してみるだけでいい。一度試してみて、うまくいけばいいかなって」
何を考えているのだろう。まだ少し揺れているその瞳から、その頭の中でいろんな思考が巡っていることだけはわかった。――そうか、これは。……如何に私が空回っているのか、それをどんな風に伝えればいいのか、きっとそういうことを考えている。そうに違いなかった。
私は気づかずに前のめりになっていた重心を元に戻して、
「……ごめん、迷惑だった……らしいね」
急いでアルミンに背中を向けた。――落胆したのはアルミンだけではなかったからだ。
……私はこう、どうしてこんなに空回りをしてしまうのだろう。ここへ来て今の状況を冷静に見ることができて、私は腹の底から込み上げる、はらはらとした不安定な不快感を押し留めようとしていた。アルミンが私の望む反応をしなかったからと言って落ち込んでいる姿を見せるのはよくないと思ったが、それにしてもガウンを留めている紐を見下ろしてこの滑稽さに深く気分は沈んでしまった。
がさり、とビニール袋の擦れ合う音がする。私が〝中身の見えない買い物袋〟を置いたところから聞こえていたこともあり、一応少しだけ振り返り、その動作を確認しようとした。
「……今回だけ。今回だけ、試してみるよ」
アルミンがその精力剤を箱から出して、その箱をビニールの上に置いた音だったとわかる。中から出てきたのは、エナジードリンクと変わらない、暗い色の小瓶だった。
「え? あ、うん……」
アルミンが取ったその行動に驚きつつも、かしゅりと瓶の蓋が開かれた音を確かに聞く。それを勢いよく口に宛て、アルミンはまるでためらいなくそれを口に含んだ。
……アルミンは、私が準備したものを飲んでくれたのだ。
あんなに嫌そうだったのにそうしてくれたのは、間違いなく私のためだとすぐにわかって、私はガウンを留めていた紐を急いで解いた。アルミンが一度だけ、私の試みに乗ってくれると言うのだから、私だってためらっている場合ではない。
留めていた紐が解かれたガウンは前が開き、私はそれをそのまま床に落とした。露わにしてしまった自らの〝えっちな下着〟姿に、強烈な逃げ出したい欲が湧き上がるが、何とか唇を噛み締めて耐えた。
喉仏を見せながらその小瓶から薬剤を飲み干したアルミンが、顔を下ろして小瓶のラベルを見下ろす。まだ私には気づいていないようだ。
「これ、ちょっと辛いっていうか、なんとも言えない……って、あ、ぁアニ!?」
私を見た途端、何故かアルミンが声を上げた。……もちろん私にはアダルトショップで人気の〝えっちな下着〟を着用している自覚はあるのだから、恥ずかしさを抱きながらもそれをアルミンに見てもらうためにそこに立っている。必死に羞恥に耐えている。
「……その、こういうのも、効果ある、かもって……」
いや、恥ずかしくて身動ぎしたい気持ちを必死に抑えるという無様を晒している……と表現するのが正しいだろうか。それなのにアルミンは思いのほか、床に落としたガウンを慌てた手つきで拾い上げて、
「まっ、待って。ちょっと、ちゃんと着て。いくら何かしたいからって、もっと自分を大事にしなきゃ」
そう言って覚束ない手つきで私の肩に改めてそのガウンをかけた。それから慌ててそっぽを向くものだから、
「……あ、アルミンは、こういうの、あんまり好きじゃなかった……?」
恐る恐る尋ねた。この下着が人気とは言え、それはあくまで大衆の話であってアルミン自身がどうかなどとは聞いてみなくてはわからない。
私はわざと、そろりとガウンをまた半分開いて見せたが、アルミンは頑なに顔を背けたままだった。――やはり急いでガウンを被せ直したことを考えると、どちらかというと〝見ていられない〟気持ちのほうが大きかったのだろうかと察した。
今度は諦念が襲って、またガウンを羽織り直そうとしたのだが、そこでアルミンの顔が観念したように私のほうへ向いた。明かりに照らされてようやく気づいたが、アルミンは顔がすっかりと紅潮していたのだ。……ま、まさか精力剤の効果がこんなに早く出始めるなんて、と驚いていた私に対して、
「そりゃ、嫌いなわけないけど……」
アルミンはゆっくりとした足取りで私のほうへ寄った。
それから改めてはだけて見せたこの下着姿に、アルミンは呆けるように眺めていた。――いや、これは……気に入ってくれているようだとわかり、私はほっと一息つきたいくらいに安堵した。瞼を下ろして深く呼吸をしてしまったほどだ。
「……キス、していいの?」
アルミンがゆっくりと私の頬に触れた。驚いて瞳を上げるとアルミンの眼差しには既に熱がこもり始めていて、それがじりじりと私のことを見ている。私はせっかく吐いた一息をまた捕まえて、ぐっと身体に力が入ってしまっていた。
「うん、いいよ」
もうこれ以上アルミンを落胆させないよう、しっかりとアルミンの眼差しを見返しながら言った。
「すごく、触りたいけど、いい……?」
頬に触れていた手がしっとりと私の首を下り、それからそろりと肩を撫でた。
「……うん」
アルミンに私のすべてを明け渡すように、少し両方の手を広げて見せる。それを見たのか見ていないのかわからないが、刹那アルミンが目を細めたと同時に、ゆっくりと唇を奪われる。三回ほど軽く重ねてから、もうよく馴染んだ舌を押し込んできた。そして私もそれに必死に応える。
「……ん、アルミン……っ」
「はぁっ、アニ……、」
それと同時に、アルミンは初めて、自らの意思で私の胸に触れた。レースの生地と一緒に私の胸のふくらみを握り込むアルミンに、私は身を捩ることしかできない。――ずっと、何度も触ってほしいと思っていたところに触れられて、背筋に震えるほどの甘さが走った。
「んっ、ある……みんっ」
それが心地よくて、私は無意識に身体をアルミンに寄せる。するとそれに呼応するように今度はアルミンが私の腰に手を回して抱き寄せ、二人の身体を密着させた。それから私の尻たぶに手のひらが乗り、胸にやっていたのと同じように、気持ちよさそうにそこを揉み始める。
そうして私たちはもう一度だけ、上手くいけばいいと願いながら、この行為を試みていった。
――すべてが終わったあと、私たちはまだ息も絶え絶えながら、しっかりとお互いを抱きしめ合っていた。……そう、今回私が画策した作戦は、何とか上手くいったのだ。アルミンは無事に最後まで完遂することができた。
繋がらなくなった私たちは隣り合わせに横になり、アルミンが身体を傾けて私のことを見つめる。私もそれを見つめ返して、言葉を必要としない〝情だけ〟の会話のようで、この空間そのものが愛おしかった。……いつまでも終わらなければいいのに、と思った。
「アニ、大好きだよ。アニ」
「うん」
汗を含んで湿る私の髪の毛に優しく触れて、それからその指先で頬も触れられる。
「……今日、試してみて、よかった」
アルミンはようやくわかるくらいに小さく微笑んでいて、それを目にしたときに気乗りしないように困った表情を作ったアルミンを思い出した。……よかった、何とかそう思ってもらえるような結果になって。……私が、ただ空回っただけでなくて……、
「……うん、よかった」
昨日から私の根底に常にあった罪悪感や責任感のようなものが、ようやく少し和らいだような気がする。私も頬を綻ぶのを押さえられなくて、わざと目を伏せながらそれを隠そうとした。アルミンはそれをも見守るように、深く呼吸をしていた。
――そのあと、アルミンは便所に行くと言い出して、ベッドから起き上がって廊下へ消えていってしまった。……おそらく、精力剤の効果が切れるのを待っていたのかもしれない。……わからない、すべて憶測だ。
始めはアルミンの帰りを待ちながらうとうとと寝落ちてしまいそうな私だったが、唐突に自分が身に着けている〝下着〟について思い出して、私も今のうちに着替えておこうと――いや、もうどうせならシャワーでも浴びておこうと、便所にいるアルミンに声をかけて浴室に入った。
やはり脱ぐときも大変だったが(一か所レースが破れてしまった)、なんとかそれを洗濯かごに収めることができ、私は無事にシャワーを浴びることができた。
私が寝室に戻ったあとも、アルミンはまだ戻っていなかった。真新しい気分でベッドに横になると、睡魔はすぐに襲ってくる。
深く満たされたような心持ちと、温かなベッド……いつしか私はうとうとと意識を手放しては取り戻してをくり返し始めていた。
アルミンが戻ってきたとき、私は〝手放す〟のステージにいて、「アニ?」と声をかけられたことで意識を取り戻した。
「……あ、ごめん」
「ううん。ぜんぜんいいよ。疲れたよね」
そう言ってアルミンは私を抱き抱えるように隣に寝転がり、背中側からしっかりと腕の中に私を収めた。そんなことをしたら寝落ちてしまうではないか、と頭の中で抗議をしていたが、心地がよすぎて振り払うなどできもしない。とりあえず私は回してくれた腕に自分の手を添えて、些細だけれど抱き返しているような気持ちを味わう。
「……ごめん、アニ」
私の後ろから、思い切ったようにアルミンが切り出した。当然この流れで何を謝罪されるのか、本当にこれっぽっちも見当がつかなかったので、何も言わずに聞いていると、アルミンは少し落ち込んだような声使いで続けた。
「本当は嘘を吐いてたことがあるんだ」
「……また?」
「……あはは。ごめん」
「うん、なあに」
これまでアルミンだけでなく、私だってたくさん嘘を吐いたというのに、今さらそんなに気に病むことはあるだろうかと楽観的に考えてしまった。それで先を促すと、アルミンは勿体ぶったように呼吸をするだけの間を設け、
「本当は、病院には何回か行ってた」
静かにそれだけを告白した。
「……そうだったの」
「でも、薬を飲むことに抵抗があって。そこまでしてセックスしなくていいかなって……さ」
「うん」
アルミンの気持ちを聞いて、やはり察した通り、今日の私の画策はアルミンにとって〝余計なお世話〟だったのだろう。それをアルミンがおおらかな心で受け止めてくれて、だから何とか上手くいったようなものだった。……やはり、空回りしたことには変わりなかったのかと、私も少し気持ちが沈むような感覚を持ったが、
「まあ、それだけだけど」
アルミンがこれまでよりも軽い口調でそれを告げてくれたことで、私も少し気持ちが戻った。――確かに、聞かされて嬉しい内容ではなかったけれど、アルミンの正直な気持ちを教えてくれたのは喜ばしいことだった。
「……そっか。教えてくれて、ありがと」
今度は私が軽さを意識してそう返すと、アルミンも「うん」と相槌を打ちながら、私のうなじに自分の顔を埋めているようだった。ぎゅうとまた抱きしめる腕に力が入り、私は嬉しくて、今顔が見えてなくてよかったなと思った。顔筋がすべて緩み切っていた自覚があるからだ。
***
この日を境に、アルミンは〝セックス中に勃たない〟という問題を克服してしまった。何とも呆気ないものだったと本人も驚いていて、――さらに、もう二度と精力剤などというものは買ってくるなと口酸っぱく言い聞かせられた。……どうやら自身を制御できなくなるような感覚が、少し怖かったらしい。理性的でいたいアルミンらしいとは思ったので、今のところその言いつけを破る予定はない。
例の〝えっちな下着〟については、特別な日以外の着用は禁止された。……特別な日は着てもいいらしい、もしかして気に入ったのだろうかと見当をつける。――ただ、それに関しては今度は私の勇気が固まるかどうか、何とも言えないところなので、次回着用する予定はやはりない。
私たちは図書館司書と図書館併設喫茶店の店員を続けながら、互いへの情をゆっくりと、ときに少々激しめに、深めていった。それからも空回ることもしばしで、いつもアルミンがそれを受け止めてくれる。私にとってはとても心地のいい関係だった。
しばらくはアルミンが私の家に通う、半同棲生活を続けていた私たちだが、マルロとヒッチが籍を入れるとの報告を寄越したくらいの時期から、二人で暮らす新居へと移ったのだった。
おしまい
(次ページにあとがきあります)
あとがき
いかがでしたでしょうか。
大変長らくのお付き合いありがとうござました!
かなり遠回りしましたが、無事にハッピーエンドを迎えました( ´ ▽ ` )
一応このお話は次の番外編をもって連載終了となります。
最後までよろしくお願いします〜!
(本格的なあとがきもそちらの番外編で書きます♪)
もしよろしければこの作品のご感想などいただけますと、次回作へのモチベにもなりますので、
よかったらweb拍手もしくはマシュマロよりお願いします……^^
※もちろん番外編読んでからでも……♪
web拍手
※拍手だけだと何を読んでいただいたのかわからないので、よかったら作品名だけでも入れてくださいませ〜
マシュマロ
ご読了ありがとうございました♡