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「はい、それでは皆さん、よろしいですか」
――最悪の朝だった。
朝食の食卓を囲っているところに、この自立支援施設の施設長であるローデリヒ・エーデルシュタインが、食卓の横に立った。背筋をピシっと伸ばし、まるで模範であるかのような姿勢で、飯にフォークを伸ばしていた俺たちを見下していた。
「本日からこちらで一緒に生活し、学んでいく仲間を紹介します」
いつもは朝食が終わり授業の直前に現れる教師らだが、この『新しい仲間』の到着が思っていたよりも早くなったらしく、俺たちは自由なはずの時間を窮屈に過ごすはめになる。……と言っても、監視の目が緩和されるだけで、こいつらとの飯は元々まずい。
「あれ……ロヴィーノくんはいらっしゃらない……まあ、いつものことですね。えー、改めまして、お二人にも昨日お話しましたが、本日から新しい仲間が加わることになりました。今回入所します彼も、色んな事情でこちらに来ています。仲良くしてください」
メガネをくいっと押し上げたかと思うと、今度は美しい姿勢を崩さぬまま廊下の方へ振り返り、「では、どうぞお入りなさい」と指示を下した。
廃校の一部を改装して作られているこの施設。古く湿った木製の扉が横にスライドした。教師の一人であるサディク・アドナンがまずは現れ、廊下に手を伸ばした。腕を掴まれ、まるで補導されるようにダイニングに踏み込んだまだ幼い少年のような顔立ちを見て、俺の心臓が大きく飛び上がった。突沸した憎悪が、トンカチを持って俺の身体を殴り抜いた。
「はい、じゃあ、自己紹介でもすっか?」
指示を出したサディクに、やる気のないじっとりとした視線を傾け、今度は食卓の上の食事に視線を置いた。決してここにいる『仲間』と視線を交わすつもりのない態度。……はっきりと向けられない顔だったが、俺の憎しみは間違っていなかった。
「初めまして――」
――ホンダ、キクだ。
「――と、申します」
やる気のない態度のまま、浅くペコリと頭を凹ませた。
「ええっと、菊くん。他になにか言うことは?」
「……いえ、特に……」
俺は目の前が真っ赤に燃え上がり、ぐつぐつと腹の煮える音でローデリヒが話していたことも聞き取れないほどだった。
俺の向かいに座るイヴァン・ブラギンスキをローデリヒが手で示し、ようやく本田菊はそいつと目を合わせた。二、三言葉を交わしたことは理解ができ、続いて、その示す手が俺を向いた。
「で、こちらが、アーサー。アーサー・カー」
ダンッ!!
食卓の上の皿が跳ね、グラスが揺れた。じんじんと手のひらに痛みが伝い始めたが、そんなことには構っていられなかった。本田菊と視線が当たった瞬間、俺の腹のそこで圧力を溜めていた憎しみ、怒りが爆発した。気づいたら俺は、そのまま本田菊の胸ぐらに掴みかかっていた。
「クソ野郎ッ! 死んじまえェッ!」
「ちょ、アーサー!?」
「おいおい、どうした?」
冷静なサディクが俺を本田菊から引き剥がして、抱え上げた。
呆けている本田菊の前に、ローデリヒが庇うように立つ。
「離せクソ教師!」
「先生にそんな口聞いていいのかい、もやしちゃん」
「誰がもやしだゴリラオヤジ! 老け顔!」
暴れる俺をよそにサディクはローデリヒに指示を仰ぎ、ローデリヒはため息を吐いて「仕方ないですねえ」とぼやいた。
「では、今日はアーサーくんからカウンセリングにしましょう。サディク先生、連れて行ってもらえますか。ロヴィーノくんは私が起こして来ます。……ですのでイヴァンくん、菊くんは一旦君に任せます」
「えぇっ」
「エリザベータが彼の朝食を準備していますから」
イヴァンの頼りなさ気な声が耳に残ったが、俺はさっさとサディクに担がれて廊下に出たため、そのあとどうなったのかはよくわかっていない。
廊下に出るやいなや、ひんやりとした空気に包まれた。眼前を覆った深い緑の景色にも、俺の身体のなかの熱は収まらず、ひたすらにサディクの上で暴れまくった。サディクは「元気だな」と楽しそうに笑っていたので、なおさら腹が立った。
そうして俺は、見慣れた部屋に連れ込まれた。
だんっ、と乱暴に降ろされた一人掛けのソファの上。目の前には、いつもの間抜けな髭面。……いや、いつもより間抜けな、髭面だ。
「ちょ、ちょっとアーサー? どうしたの?」
サディクがまだ退室もしていないというのに、俺は目の前の髭面の胸ぐらを、本田菊の代わりに掴みあげた。一応着用しているだけの白衣も一緒に掴み込む。
「おい! 今すぐあいつの転所の手続きをしろッ! さもなくばお前をあいつの代わりにブチ殺す!!」
サディクがまた俺を制する体勢に入るが、フランシスがそれを止めた。
この施設のカウンセラーであるフランシスは、俺がここに入所するよりも前からの腐れ縁で、顔見知りだった。
背後でガラガラと扉の閉じる音がし、サディクが退室したことがわかる。
「ちょっと待って、落ち着いてアーサー。どうしたの」
冷静な口ぶりがなおさら苛立たせる。
だが、こいつの髭面を見ていたら、確かに殴る相手が違うと気づいた。こいつを殴っても、収まる気がしない。
乱暴にその胸ぐらを投げやって、俺はフランシスの向かいのソファに腰を落とし込む。
「俺の親父の会社! 蒸発したこそ泥! の! 息子だ!」
当然今日から『本田菊』という新入りが来るのを知っているフランシスに、未だに冷静になれずに最低限の情報を与えた。
間抜け面はこわばる様子もなく、「え、あ、そうなの? よく覚えてるねえ」と流した。その態度にさらにさらに腹が立ってしまい、「あったりまえだ!」と力任せにサイドテーブルをぶん殴った。
「忘れろって百万積まれたって無理だ!」
「わかったわかった、落ち着いて。ほら、彼にも色々と事情が」
「どんなだ! 俺が納得する立派なやつか!? 言えねえだろ! 言えねえよな!?」
ゲシゲシとフランシスの椅子を蹴りながら、煽るように返事を促す。
「それは彼の個人的なところになるからね。とりあえず落ち着こう? それとも鎮静剤使っとく?」
「うるっせえ! お前の節穴には俺が暴れる動物みてえに映ってんのか!」
「うん、残念ながらね」
静かに肯定したフランシスは、俺のカルテに何かをさらっと書き込み、静かにため息を吐いた。
「わかったよ。じゃあ今からお兄さん、この部屋から出るから好きにして。ただし十五分ね」
フランシスは言葉通りに、それ以外は何も言わずに部屋を出て行った。
初めてこんな対応をされて俺は少しだけ戸惑ったのが正直なところだ。
好きにして、ということは、おそらく好きなだけ暴れろという意味だとは思うが。……この質素で閑散としたカウンセリング室内を見渡わたしてみても、そこは質素で閑散としたカウンセリング室には変わらなかった。
ここには三人分のカルテを置いてある、他には何も入っていない棚と、変形できる一人掛けソファが一脚、小さいサイドテーブルが一つ、フランシス用の机と椅子が一対。こんなもんしかない。本当にどうにか暴れようと思ったら、カルテを一枚一枚引き破るか、ソファのカバーを食いちぎるかくらいしか方法がないではないか。
……結局俺は何もしないまま、暴れたいほどの衝動はサーッと収まった。だが腹を賑わせている怒りや憎しみは、確かにまだそこで疼いている。――本田、菊。やつのじっとりとした視線が意識の奥に蘇る。
――そもそも俺と本田菊の因縁はもう四年もの月日を遡る。
俺の父親は国内でもそこそこ名の通った会社を持っていた。俺はその一人息子として期待され、将来も約束されていた。誰からも信頼され、その人望で会社を大きくした親父を俺は誇りに思っていたし、人間としての目標にしていた。
そんな父が取り分け信頼していた従業員がいた。真面目で堅実、確実な仕事ぶり。申し分ないその男を讃え、親父はそいつを右腕のように慕った。
――そいつが、本田と言った。……菊の父親だ。会社が軌道に乗ってすぐくらいに雇われ、それからの急成長期を親父とほぼ同じ目線で見届けた人物だ。
しかしその本田は親父からの信頼をほしいままに、悪事を企んでいるだけだったんだ。
ある朝から突如として出社しなくなった本田という男。家族からも行方がわかっていないと連絡が入った。訝しみながらも、親父は信頼していたので連絡があるまではと待った。だがすぐに、親父は本田の裏切りを知ることになる。会社の支払いや決済をしようと銀行へ赴いた際、会社の運用資金から従業員のための蓄えなど、一切の口座、取引などは解約され、金という金がほとんど何も残っていなかったのだ。
照会すると、解約などの手続きは全て『ホンダ』名義で行われていたことがわかり、署名の筆跡も全て一致したとのことだった。すぐに本田家へ連絡した。しかし本田の妻はあまりの事態に発狂してしまったらしく、俺と同い年で当時まだ十四歳になったばかりの息子、菊が菓子折り一つ持って詫びに来ただけだった。
俺はそのとき、初めて菊の姿を見た。そしてそれ以降は一瞬足りとも忘れなかった。
既に会社の運営が立ち行かないことが確実のものとされ、対応できる状態になかった父の代わりに、菊の対応は母がした。俺もそこには立ちあうなと言われ、影からこっそり菊を見ていただけだった。
何かを言って頭を下げた本田菊に、母は受け取った菓子折りを投げ付け、声を張り上げていた。
「あなたのお父さんのせいで! ……あなたたちのせいで! ご迷惑ぅ!? ご迷惑だなんて!! そんなことで収まる問題だと思ってないでしょうね!? 死んで詫びなさい!!!!」
父の苦労の結晶であるこの会社。父の夢がどんどん膨らんでいくのを一番近くで見守っていた母からすれば、当然の対応だった。菓子折りだと。俺だって怒りに狂いそうだった。母は抵抗しない菊にずっと罵声を浴びせていた。殴るような鈍い音も聴こえた。俺は自業自得だと思った。
それから数日もしない内にこのニュースが全国に広がり、親父は人を見る目がなかったんだ、落ちぶれた社長だと揶揄されることもあった。
どうしようもなくなった父は次第に病み、酒と暴力に溺れるようになった。俺だろうが母だろうが、構わずに拳や蹴りを入れ、また髪の毛を引っ掴んで振り回したり、人体でできることはだいたい何でもやられた。その頃からか……俺も外に出れば向けられるバカにしたような目線も、憐れむような目線も、全部我慢ができなくなり、外で暴力沙汰を起こすようになった。そしてそれらをもみ消すくらいには小賢かったので、かたっぱしからもみ消した。
唯一の救いは、当時十歳だったいとこの双子の存在だった。名前をアルフレッドとマシューと言う。双子が遊びに来ると、親父はこれ以上の醜態を晒したくないのか、家内で暴力を振るわなかった。俺も純粋な二人と接すると、荒んだ精神が凪ぐように落ち着いた。
……だが、本当の事件は会社倒産の二年後に起こった。
遊びに来ていた双子と俺が、ボードゲームをしていた。俺は十六歳になっていて、双子は十二歳になっていた。
……前後をはっきりとは覚えていないのだが、遊んでいる俺たちのところにやってきて、父は純粋な十二歳のその澄んだ瞳の前で、自分の首を掻っ切って自殺をした。
しばらく放心していた俺たちに対し、母はすぐに絶叫を響かせて気を失った。その絶叫を聞いたご近所さんが通報してくれたとの話だが、詳しくは覚えていない。
その事件は俺たち親子だけではなく、遊びに来ていた十二歳の双子をも変えてしまった。マシューはそのショックから言葉が話せなくなり、アルフレッドはそれ以前のことを思い出せなくなってしまった。
俺の母親も、俺の手に負えないほどに病んでしまい、結局俺はアルフレッドたちジョーンズ家に引き取られた。……言葉を話せないマシューと、それ以前のことを覚えていないアルフレッド。このジョーンズ家にとって明らかに有害で邪魔な異物となった俺は、それ以前にも増して、外で全てを発散するようになってしまった。そうして半年くらいでもみ消せないほどの事件を起こしてしまい、家庭裁判にかけられることとなり、これまでの俺の人生の経緯が加味され、最終的にこの施設への入所が決定した。
俺についてはここまでが波乱万丈、あとは『ゆかいな仲間たち』との共同生活の話となるわけだが、どうやらアルフレッドとマシューはそれ以降も一度大変な目に遭ったようだ。
二人ででかけているときにマシューが不良の中坊たちに絡まれ、だが助けに入った少年のために証言することができず、助けてくれた少年が冤罪で少年院に入ることになったとかなんとか。
俺には全部電話越しにしか伝わらなかったので、ぼんやりとしか知らない。
――我に戻って拳を握った。やはり静かに滾る憤りや憎悪が、確かに俺の腹の底に渦巻いている。
そう、それもこれも、全部全部、今の状況を作り出した全ての元凶は、あの本田って東洋人なんだ……クソ。本田さえいなければ、父は病むことも、ましてや双子の前で自殺することもなかった。本田さえいなければ、俺だってこんなところに収まることもなかった。本田さえいなければ、アルフレッドとマシューだって……!
また本田菊の顔を思い出す。あの一家さえ、俺の人生に踏み込んでこなければ……!
――トントン。
古臭い建物の、鈍いノック音が聴こえた。返事も返す前からガラッと横へずれ、むかつく髭面が覗いた。
「どう? 落ち着いた?」
しれっと問いかけるそいつは、俺の表情で既に回答を得ていたのか、「……ああ」と答えるころには既にドアを全開に押し広げていた。
「はぁ、よかった。あんなアーサー久しぶりに見たね」
「……いっつもあんなんになってたまるか」
「そうそう。暴れる度に君の価値が傷つくよ。もっと気」
「気楽には無理だ」
言われんとした言葉にまた苛立って、遮ってやる。フランシスは俺の向かいの椅子に腰を下ろし、再び俺のカルテを開いた。それでいて言葉を続けた俺の目をしっかり見逃さない。
「俺はあいつを許さない。俺だけじゃねえ、アルやマシューの人生を狂わせたのもあいつらだからな……!」
フランシスの視線がカルテに降りる。
「……あいつ『ら』ってねえ、実際実行したのはあの子の蒸発したお父さんでしょ。そこを一緒くたにしたら、」
「うるっせえ! お前にも話しただろ! 親父は俺たちの目の前でその首掻っ切って死にやがったんだぞ! わかるか? 白い壁をザーッと染めていく真っ赤な血液が壁で跳ね返って、俺たちまで真っ赤だ。しかもそいつがまだ生暖かい。それを一番浴びちまったいとこの双子は、一人が言葉を失くして、もう一人は思い出を失くしちまったんだよ! 元凶であるあいつらを許せるわけもねぇだろ!」
強く迫るとこちらへ身体を寄せた。
「うんうん。本当に気の毒だったとは思うよ。……でもそれはやっぱり、菊の父親の話であって菊の話じゃない。自殺を決意したのも、その方法を選んだのも君のお父さんだしね」
何ともブレのない視線でご尤もな正論を突きつけられる。……だが、そんなことを言われても。なら俺は何を憎んで生きていけばいいんだ? 実行犯である本田という男の行方が知れない今、俺は一体何に怨み辛みをなすりつけて、この場に立っていればいい?
「くそ! だまれ! もうお前に用はねえよ! 次のやつ呼んでくるからそこで片付けでもしてろ!」
俺はそれ以上の正論なんか聞きたくもなく、耳をふさぐ代わりに急いでそのカウンセリング室から飛び出した。室内から「あ、アーサー!?」と聴こえたが、構う必要もない。そのあとフランシスがぼやいた「……いやあ、この荒れ方は酷いな」という言葉については、全くもって聞こえていなかった。
フランシスのところから逃げ出た俺は、憤りと共に憂鬱な気持ちを発展させながら、次のカウンセリングの順番であるイヴァンを目指す。
この自立支援施設は、過去に色んな理由で犯罪に手を付けてしまったり、非行に走ったりと、自分では正常な生活を取り戻せない子どもの自立を支援する施設である。取り分けここは十五歳から十九歳まで、と幅を絞っているため、現在の入所者は三人だ。……いや、今朝入ったやつを含めると四人になったわけだが。
俺が施設に入る前からいたロヴィーノ・ヴァルガスは、言葉遣いは悪いくせにビクビクといつも怯えたような態度を取る、よくわからないやつだ。毎日のように寝坊をし、そして昼寝もとり、いつも寝ているイメージしかない。……手癖が悪く、欲しいものを見つけるとすってしまうからここにぶち込まれたんだと、本人は言っていた。
そして俺が一年半前からここに入り、俺の半年後くらいにイヴァン・ブラギンスキが入所して来た。こいつは入所当時、重度のアル中だった以外は詳しいことは話さないので、何をどこでどう過ごしてきたやつなのかはさっぱりわからない。ただ常にヘラヘラニコニコとしている様は不気味で、あんまり関わりたいタイプではない。……ロヴィ―ノが睡眠で席を外しているときは、この一年間はずっとこいつと二人だったので、苦痛に感じることも多かった。
そして、今朝入所してきた野郎で、四人となったわけだ。
この施設では当たり前のように通信機器は禁止された。その代わり、公衆電話は無料で使える。……おそらく盗聴器付きである。まあ、聞かれて困る話もないのでいいのだが。二日に一回、意味があるのかないのか、授業の前にフランシスのカウンセリングを皆が受ける決まりで、本来ならば古株順である。だが先述した通り、寝ていることの多いロヴィーノは、よく最後に回される。……そうだな、あとは、月に一回、教師やスタッフ引率のもとで課外授業と称して、街へ遊びに出る日が設けられている他、一週間に一度は入所者で家事を担う日が設けられていたりと、規則の多い施設である。家事については、基本的にはエリザベータ・ヘーデルヴァーリという女性スタッフがやってくれる。……こいつもまた手強い。
「……で、菊くんはどうなの〜?」
ダイニングの扉の前で立ち止まった。
先ほどのローデリヒの口ぶりから察するに、まだ本田菊は朝食を摂っていなかったようだし、それにイヴァンが付き合ってやってるのだろう。はっきりと聴こえたイヴァンの問いかけに、本田菊のじっとりとした声がボソボソと何かを告げていた。
……本田菊を表する際、じっとり以外の言葉が浮かばないのは、俺に限ったことじゃないはずだ。
面倒だが、思い切ってダイニングの扉を開いた。
「おいイヴァン」
「わぁ、アーサーくん、お帰り」
「次てめえだ」
ダイニングテーブルに歩み寄る。本田菊が俺の顔を一目だけ確認して、慌てたように俯いて顔を逸らした。その動作でまた苛ついてしまい、俺もあえて食卓に視線を向けた。エリザベータが手で縫ったキルトのテーブルクロスに、焼きたてだったテーブルロールと、ベーコンエッグが乗った真っ白の皿。それにレタスしか入っていないようなサラダボウル。質素な朝食だ。見てみれば案の定、本田菊はまだちまちまと朝食を摂っていた。……そういえば、俺も朝食の途中だったことを思い出した。
「良かった、アーサーくん普通に戻ってるね。鎮静剤でも使ってもらったの?」
「使ってねーよ」
本田菊の隣に座っていたイヴァンが「ほんと?」とからかいながら席を立つ。何がそんなに楽しいのか、じゃあ行ってきますと笑顔を残して立ち去った。
空気が止まったような沈黙の内に、俺は本田菊のつむじを観察した。顔をあげる様子もなく、黙々とテーブルロールをちぎっては口に入れ、ちぎっては口に入れ、とくり返した。俺と視線を合わせることを断固として拒否しているつもりなのか、まるでこのダイニングには本人しかいないような態度を取りやがる。……だめだ、こいつのこと、因縁云々よりも、生理的に受け付けねぇかもしれねえ。
くっだらねえ。
チッ、と舌を打った。
「死んじまえ」
踵を返して、俺は自室に向かう。もちろん本田菊が俺を引き止めるはずもなく、ダイニングから出た。ちょうどそこへローデリヒに説教をかまされながら、ロヴィーノが大あくびをかいて廊下を歩いてきていた。
カウンセリングは終わったのかと問われたので、終わったからここにいんだろ、と思いながらも、授業の予習がありますので、と穏便に済ませようと歩みを進める。
「アーサーくん、」
ローデリヒに呼び止められる。
「あなたは今日から、菊くんと寝室を共同で使いなさい」
「……はあ?」
柄の悪さが全面に出てしまったが、俺は混乱から問い返した。
「ですから、もともと当施設には寝室として準備された部屋は二人部屋が三部屋しかないのはご存知ですね。今までは入所者が三人だったので一人部屋としての使用を許可していましたが、今日からは本来の二人部屋に戻っていただきます」
「ちょ、ちょっと待て! でもそれ別に俺とじゃなくていいだろ!?」
「口を慎みなさい。お下品ですよ」
「だけど! なんで俺なんですか!? イヴァンでも! そいつでもいいだろ!?」
治めていた苛立ちがまた襲い、俺は拳を強く握って抗議した。それもそうだ。他にも二人部屋を一人で使っているやつらがいるのに、なんで寄りにも寄って俺なんだ……!
「……今朝のあなたの反応を見て、私が決めました。これはペナルティのようなものと思ってください……他者と上手く関わることを学ぶのが、この施設の一番の目的ですよ」
俺がはっきりと「クソ」と吐き捨てたことにはあえて気づかないふりをして、ローデリヒは「それでは失礼しますよ」と、改めてロヴィーノを誘導してダイニングへ入っていった。
自室に着いた俺は、両手を床に突いて項垂れたい気持ちでいっぱいだった。実際そんなことはしない。全盛期だった親父なら、そんなことしない。……未だにあの頃の親父は俺の中で目標だった。そう考えたときに、今朝、初見時の本田菊に跳びかかって以降のことは、親父の紳士的なところとはかけ離れていたかな、と頭を過る。……だが、その原因が他でもない『本田菊』だったのだから、親父はきっと許してくれるだろう。
そういえば、本田菊は俺が誰なのかを知っているのだろうか?
ふと浮かんだ疑問符で、少ない記憶の中を巡る。……もしも本田菊が俺のことをあの『カークランド家』だと知っていたなら、今日のような態度を取るだろうか……?
「そうか」
やつは俺がアーサー・『カークランド』であるということに気づいていないんだ。……だがあいにく、それをわざわざ教えてやる気にもならない。この俺の前で、これからお前がどれだけの恥を晒していくのか、楽しみじゃねえか。
俺は飾っていた家族写真や、大事にしていた親父の会社の社章の入った額縁など、それらを手際よく片付けた。絶対に気づかせてやるもんか。散々俺に恥を晒し尽くして、そうして気づいたときに、改めて全てのことを後悔すればいい。
服や毛布、日用品もまとめた。もちろんのこと、俺は本田菊と寝室を共同で使うことを了承したわけではない。ダメ元でイヴァンに声をかけて、むしろイヴァンと部屋を共同で使わせてくれないかと交渉してみようと思っている。誰であろうと、本田菊と寝泊まりを共にするよりはマシだからだ。
ある程度片付け終わった部屋を見渡す。そこで壁掛けのカレンダーが残っていたことに気づいた。それも取り外していると、ぐるぐるとマーカーで印をつけた日付が目に飛び込む。次の日曜日を強調している。
『アル、マシュー』
添えられていた名前に少し気が緩む。半年ぶりに、アルフレッドとマシューが遊びに来てくれるのだ。
この施設は少年院や刑務所ではないので、個人的にローデリヒに事情を話し、許可をもらえれば外からの面会は許されていた。
俺がここに入所したと同時期にマシューが例の中坊に絡まれるという事件に遭ったため、精神的な回復を含めて、初めて面会に来てくれたのがそのおよそ四ヶ月後くらいだった。それからはしばらく頻繁に来てくれていたのだが、ある時『マシューと頑張ってることがある』とアルフレッドが告げて以来、ぱったりと来なくなった。寂しかったが、二人の事情も知っていたので、深くは追求せず、大人しく次の連絡を待った。そうしてようやくアルフレッドが『また会いに行けそうだ!』と連絡を寄越してくれたのが、先週の話である。何かを成し遂げたんだと電話口で騒いでいたのだが、詳しいことは会ったときにと焦らされたので、俺はアルたちが来るのを心待ちにしていた。
――早く会いてえ。早く会って、少しでもこの淀んでいる体内の汚れを流したい。
最後に見た二人の顔を思い浮かべ、期待に胸を膨らませていると、唐突に本田菊の俯かせた陰湿な顔が浮かんだ。ぞわぞわと毒蛇でも伝ったのではと思うほどの悪寒が、背骨の間をざわつかせる。
「あ”ー……くそ!」
――ガチャ
ちょうどそう呟いてカレンダーをベッドに投げ出したとき、隣の部屋の扉の開閉音が聞こえた。その部屋を使っているのはイヴァンだ。
俺は早速イヴァンに部屋を共同で使わせてもらえないかと交渉しに行くことにした。……既にまとめ終わった大荷物を抱えて。初めこそイヴァンは拒否をしていたが、今度の課外活動の際にウォトカを一瓶どうにかしてやると交渉すると、渋々と了承してくれた。
その次の日の朝だった。
二日連続で『珍しく』ローデリヒが朝食の席に現れた。てっきり俺と本田菊が乱闘を起こしていないか監視に来たのかと思いきや、徐ろに口を開いた。
「みなさん、おはようございます。君たちにまた嬉しいお知らせがあります。実はもう一人、ここへの入所が決まった方がいます。早速明日から来ます」
昨日と同じように清く正しく美しくといった姿勢を保ったまま、ローデリヒは話した。だが、何が『嬉しいお知らせ』だ。ちっとも嬉しかねえ。
「またかよ。ここも賑やかになって最高だな。こんな広い建物に対して人数が少なくて寂しかったところだからよ」
如何に俺がそれに対して後ろ向きかを伝えるべく、そう皮肉ってやると「そういう言い方はおやめなさい。仲間が増えるってことですからね」とローデリヒが釘を刺した。
「そうだな。昨日入ってきた仲間くらい社交的なやつだったら大歓迎だぜ」
本田菊に対して声を荒げてやると、
「……アーサーくん、うるさいんだけど」
イヴァンが輝くような笑顔で割って入った。興味深げに問いを続ける。
「そんなに菊くんが嫌いなの?」
「ああ、大嫌いだね。さっさと盗みでもなんでもはたらいて、少年院でも刑務所でも行けってんだ。ここよりは快適だと思うぜ」
何に反応したのか、本田菊はピクリと肩を震わせ、少しだけ顔を上げた。それでも黙ったままで朝食を進めている。……気に食わねえ。俺も視線をそっぽに向かわせる。
「もう、やめてよう。朝食がまずくなるでしょ。菊くんも反論すればすっきりするよ?」
「前半はその通りだと思うけど、後半はだめね」
「エリザさん」
この施設で唯一の女性の声が聞こえ、一同がダイニングの奥に設置されている簡易キッチンの方へ顔を向けた。エリザベータはエプロンで手を拭いながら、もう一皿余分な皿を持って現れ、俺の隣の空いた椅子に腰をかけた。……なるほど、余分な皿はエリザベータ自身の朝食らしい。
「ご飯はどうかしら。朝食は楽しい気持ちで食べないとね。ねえ菊くんはさ、いつも朝ごはんは何を食べてたの?」
何故か本田菊は俺と目を合わせ、そのまま押し黙ってしまった。また自分が苛立ったのがわかる。
「ん? 好きなものとか」
改めてエリザベータが質問を押すと、ようやくその視線はエリザベータ本人に向かい、かと思えばまた底辺を彷徨って、小さく「……好きなもの……なんでしたっけ」とふざけた回答を吐き出した。
俺の怒りのパラメータは早くも限界で、思わず力強くフォークをテーブルに置いてしまった。ガンッと音が上がり、引っ込みのつかなくなった俺は、その衝動のままに席を立った。
「俺、授業の準備してくるわ」
「……そう。じゃあ、ロヴィーノくん起こして来てくれる?」
「知らねえよ」
今の精神状態の俺に無理難題を押し付けやがるエリザベータにも腹が立ち、また昨日と同じように自室へ向かった。ただし今日はいつもと違う。使い慣れた俺の部屋のドアを開けると、見覚えのない荷物で溢れていて、反対に俺のものがほとんどなくなっていた。
……そうか、昨晩から俺はイヴァンと同じ部屋を使っていたんだ。
本田菊に振り回されているように錯覚して、さらに重たい怒りが渦巻いて蓄積していく。この蓄積されたものは、本田菊への嫌悪感に変換されていく。もう持ち物を見るだけでも腹が立って仕方がなかった。
本田菊が入所して二日目の朝を迎えた。何事もなく無言の朝食を終え、珍しく起きて来られたロヴィーノが、フランシスのカウンセリングに向かった。自分の番が来るまで部屋で待っていようかと思い、廊下に出ようとしたところ、間一髪のタイミングで先に扉が開かれた。
図体のでかい教師のサディクが「お? 揃ってるか?」と笑った。
――そうか、今日も新入りが来るのか。
とっさにそれを思い出した俺は「ロヴィーノがもうカウンセリングに」という旨を伝えたが、「構わない」との返答が寄越されるだけだった。改めてダイニングの椅子に座らされ、サディクの後をついてダイニングに入ってきた男の顔を見て驚いた。見覚えがあった……と、言うには生ぬるく、何度か拳も交えた相手だった。その風貌、忘れる方が難しいというものだ。
だがそいつは俺よりもイヴァンを先に見て吹き出し、不思議に思った俺がイヴァンを見れば、イヴァンもそいつを見ながら驚いたような顔をしていた。……おそらくこいつら二人とも顔見知りだ。
「なんだあ、お前ら知り合いか? まあいいよな。はい、では、昨日ローデリヒ先生が伝えていたと思うが、新入りだぞ。はい、自己紹介」
雑にそう投げたサディクの横で、その男は未だに笑いが治まらないらしく、
「ギ、ギルベルトッ、バイルシュミット……です、ひぃっセセ、笑い止まんねえっ」
半分腹を抱えるようにそう言った。
――そうだ、そうそう。名前もやはり聞き覚えがあった。
この緊張感の欠片もない態度にはサディクも非常に困った様子で、後頭部をかきながら「色々言おうと思ったけどまあいいや。自由に歓談楽しめ」と伝えて、さっそうとダイニングを後にしてしまった。
「イッ ヴァッ ンッ じゃねえか!」
扉が閉じるや否や、ギルベルトはイヴァンに駆け寄って「面白え」とさらに笑っていた。
「最近見ねぇと思ったらこんなところにいやがったのかよ!」
「もう何ぃ? 君うるさいよギルベルトくん。久しぶりだねぇ」
はた迷惑な笑い声に対して、あからさまに嫌味を伝えるように眉間に皺が寄っている。
そのあとギルベルトは何の気なしに俺を盗み見た。イヴァンの隣に座っている本田菊より、向かいに座っている俺のほうが見やすかったからだろうが、ギルベルトは俺を見るなり、また同じように吹き出した。
「し か も! ゆ、ユナイテッド学園の剛毛眉毛のアーサーまでいやがるじゃねえか! ヒー何だここ! 笑うしかねえぇ! ケッセセセ!」
引き続き腹を抱えてめっぽう楽しそうに笑っているギルベルトに対して、「誰が眉毛だ誰が!」と反論してやると、今度はイヴァンが楽しそうに「剛毛はいいんだ」と笑いやがった。
ちなみにこいつがさっき言ったユナイテッド学園とは、俺がここにぶち込まれる前に通っていた学校の名前だ。……俺ですら忘れていたというのに、よくもまあ、そんなこと覚えてやがる。
「お前も見ねえと思ってたら、こんなところに収まってやがってたのか、笑ってやるぜ、ケーセセセ!」
いつまでも止まらない笑い声が、段々と苛立ちに変わっていく。俺は意識してその感情を抑えつける。
「またうぜえのが来た……」
「ん? なんか言ったか? ケセセ」
ようやく笑いの勢いが弱まったらしく聞き返されたが、俺はボリュームを上げ、
「おめえが入所して涙がでるほど嬉しいっつったんだよ」
と返してやった。
「そうかそうか! 俺様もだぜアーサー! これから仲良くしような!」
テーブル越しに頭を乱暴に撫でられる。いっそう腹が立った。……なんだこいつ、昔からこんなにバカっぽかったか?
「そして……」
ギルベルトの声が続いた。それまで我関せずだった本田菊の顔を覗き込む。
「ん? やっぱな、こいつは知らねぇ顔だ」
本田菊は目を逸らすことなく、ギルベルトの珍しい瞳の色を見つめ返していた。
「ギルくんが知らないってことは、ここらへんの子じゃないってことだね」
イヴァンの声かけで体勢を元に戻したギルベルトは「そうだな」と笑った。別にどうでもいいことだが、ギルベルトの楽しげな雰囲気に当てられて本田菊まで楽しくなってしまうのは色々と腑に落ちず、「放っておけ」と角を立ててやった。
「そんなやつ話す価値もねえ。どうせジャパニーズ・ホラーみたいな目つきで睨まれるだけだ。くっだらねぇ東洋人、感じ悪りぃ」
一気にダイニングの空気が止まり、静かになった。……途端に自分の発言に跋が悪くなったが、これぞ本来の食卓の姿だ、と自分の中だけで虚勢を張ってみる。
だが俺の言ったことには全くもって興味もなさそうに、ギルベルトは「ふーん」とぼやいてから、本田菊の肩に手を置いた。
「名前は?」
釣られるように顔をあげるものの、昨日のエリザベータからの質問と同じように、答える気配は薄かった。イヴァンもその様子を見守っている。
さてどうするのかと見ていると、今度はギルベルトは目線を合わせるように姿勢を低くし、強めの口調で本田菊に問うた。
「な ま え」
威圧的にも見えたそれだが、本田菊は観念したように「……本田菊と申します」と答えた。……言えるじゃねえか全く。
途端にギルベルトはさっきまでの笑顔を取り戻し、
「菊か! 菊な! よろしく! ギルベルトだ! ってさっきっから言ってっか! ケセセ!」
また楽しそうにおしゃべりを始めた。
改めて始まってしまったうるさい笑い声に、うんざりした気持ちになる。そうなると、自然にため息の一つも出ちまうもんだ。見れば本田菊も、大層つまらなそうにどこかを見ていた。とりあえずギルベルトのアホさに当てられて楽しむということはなさそうだ。……一体何を見ているのだろう。
ガララっと音を立てて、ダイニングの扉が開く音がした。一同が同時にそちらへ顔を向けた。
「おい、アーサー……さん、お前の番だぞちくしょう」
全員の視線に一瞬だけ怯んでいたが、そういえばフランシスのところにいたロヴィーノが戻ってきたようだ。次の順番である俺は席を立った。ギルベルトが自己紹介している声を背中に受け、ようやくこの喧騒から逃れられたのかとホッと胸を撫で下ろす。昨日も一昨日も、毎日見ている深緑の景色に、久々に癒やされた実感を抱く。
「新しい子とはどう? うまくやっていけそう?」
フランシスのテリトリーに入り、向かいのソファに腰かけるや否や、フランシスはいきなりそう問うた。
俺は今朝久々に会った強烈な印象の持ち主を思い出した。
「自信を持ってうまくやっていけねえって言えるぜ」
「それは頼もしい」
皮肉で返してきやがった。
それに寄るところか定かではないが、突然また理不尽な苛立ちを思い出して、身を乗り出して傾聴を勝ち取る。
「ていうかな、なんであんなうるせぇだけのやつがここにいるんだ。あのギルベルトって野郎、俺がここ入る前にしょっちゅうぶつかってたやつだぞ。まあ、どうせゲームとかの万引きくり返して捕まった鈍臭野郎だろうけどな。というか、そんなこと言い出したらもっと謎なのはあっちのデカブツだよ! いつもニコニコヘラヘラしてるくせに、一体なんでこんなところにいやがんだ。アル中だった以外はまるで人畜無害じゃねぇか」
「えっと……お兄さんは、菊とはうまくやっていけそうかって聞きたいんだけど」
マジレスの上に苦笑をされて、納得がいかずに腕を組んだ。本田菊とかいうやつのことは考えたくもないし、思考の片隅にも置きたくない、というのが俺のスタンスだ。
「はあ? 菊って誰だ? 知らねえな」
「本田菊。一昨日入った新入りくん。アーサー、現実を見て」
まあ、もちろんそれを許してくれるはずもないのはわかっていたわけだが。
今日も一人楽しくなさそうな本田菊を思い出してしまった。……楽しくなさそうなのは願ったり叶ったりだが、どうにもあの鬱々とした空気が許せない。くそう、腹が立つ。
「……はぁ、ここは最低だ。あのコソ泥ジュニアが入所したのが運の尽きだ」
そうごちってやると、フランシスは開いていたカルテに何かをまた書き込む。
「はい、アーサーの考えていることはよくわかった、ありがとう」
ペンを置いて、俺を見やる。
「だけどね、ここに入所してくるくらいだから、みんな色んな事情あるからね? 外見や偏見での決め付けよくない。菊についてもね」
「お前はもっとカウンセラーっぽくしゃべれよ」
「しゃべり方はどうでもいーの。聞いて伝えるのが第一」
「フン」
俺なりに譲歩してやった結果、鼻を鳴らして反抗心を剥く。何一つとして納得してねえよと伝えるつもりだったが、フランシスはそれどころじゃないらしく、何かを思いついたように息を吸った。
「そう、例えばイヴァンのこととかさ、気になるならギルベルトに聞いてみれば? 前からの知り合いっぽいし!」
どうしてフランシスがそんなこと知ってやがんだとは思ったが、問うほどの興味は湧かず、
「慣れ合いはごめんだ」
と吐き捨ててやる。お手上げとでも言いたいのか、「……うーん……そういうのの形成も、一応ここの目的の一つなんだけどねえ」とやんわりと俺に告げる。もちろん聞かなかったことにする。
「ところでさ、菊と同室になったんだろ? どう?」
確認しておきたかったのか、唐突にまた問われた。どうして俺に本田菊の話題を振り続けるんだ。もうこれは刷り込みかもしれない。本田菊のことを考えると、また苛立ちが湧いてくる。もちろんのこと、本田菊と寝泊まりを共にする気もさらさらない。フランシスに嘘を吐く必要もなく、
「……イヴァンに無理言ってそっちに泊まってるぜ。俺に本田菊との共同生活は無理だ。気が狂う」
「そう……」
少し残念そうに漏らされた。
「でもよくイヴァンがそんな面倒なこと許したね……って、おい、もしかして」
どうやら俺が条件につけたウォトカのことを察したらしい。
「……知らね」
「はあ……。あのねえ、アーサー? 彼も落ち着いてきたとは言え、一応治療中だからね? 勝手な真似しないでよ?」
「だったら、本田菊を転所させろ」
「全く……この子は……」
まるで反抗期の我が子を持て余しているかのような口調に、ざまあみろと満足する。次にまた本田菊の話題を振られる前に、と、勝手に立ち上がった。次呼んでくるからな、また明後日な、と断りを入れ、カウンセリング室から逃げ出した。
「……全く、本田菊、本田菊って。勘弁してほしいぜ、クソッ」
そう零しながら角を曲がると、少し先にその『本田菊』が居た。
俺は驚いて思わず足を止めそうになったが、何とかそのまま歩き続けた。おそらくさっきの悪態は聞こえていたのだろう。本田菊はそのじっとりとした視線で俺を睨みつけながら、こちらへ歩いてくる。何か文句でもあんのかと声をかけてやろうと思っていると、その視線は外される。まるで肩透かしそのものを食らったような感覚に陥り、苛立ってしまい、すれ違いざまに舌を打ってしまった。……だが後悔はない。
反応を見てやろうと振り返ったが、本田菊は振り返ることはおろか、戸惑った様子すらなく、一心不乱に歩いて行った。……あれは寝室の方だ。
「……胸糞悪りぃ」
また悪態を零して、イヴァンがいるであろうダイニングに強い歩調で向かった。
ダイニングの近くの廊下に差しかかると、
「それにしてもお前がこんなところにいたなんてな。連絡取れねえって嘆いてるやつらいっぱいいたぜ!」
ギルベルトのやかましい声が響いてきた。廊下でも聞こえているということは、少し扉が空いているのだろう。そのやかましさと相まって、こんなところまで届いているようだった。
「まぁ、ここは通信機器禁止だからね」
イヴァンの声も続く。
俺は何の気なしにその内容を聞きながら歩いた。
「いやぁ、ほんとそれ助かる! 自分で切らなくても縁を切ってくれるんだからよぉ!」
「そんなに縁を切りたい人いっぱいだったの?」
「あったりめーだ! もう女という女は懲り懲りだ!」
「君ならいつかそうなるって思ってたよ」
何やらまたアホっぽい話をしている。
ギルベルトの野郎とは、よく夜も夜中に出くわしていた。確かに本人の話通り、近くに女がいることが多かった気はしている。……大人の女だ。思い出しながら歩を進める。
「でも悪いのは勘違いしていたあいつらだぜ!? 俺様は付き合うつもりもねえし好きでもねえよって言ってたのに勝手に貢いでさ、そんで他の女と遊んでたら殺しに来るんだぜ!? おっかねえ! やべえ!」
「君、ホストクラブとかで働けばよかったのに……」
「何言ってンだお前、まだ年齢がダメだろ」
「そんなの言わなきゃわかんないよ」
「……あ、」
「君ってほんと素直というか単純というか」
「ま、もういいんだよ! 女はもういい!」
ちょうどそこでダイニングの前に到着する。話題のキリも良さそうだったので、案の定開いていた扉に手をかけて、無遠慮にそれを広げた。
「昔話で盛り上がってるところ悪りぃが、イヴァン、お前の番だ」
その部屋の中を見渡せば、ロヴィーノもエリザベータもおらず、イヴァンとギルベルトの二人だけだった。どうやら昔懐かしの話題で盛り上がり、時間を忘れていたんだろう。あくびをしながらめんどくさそうに部屋に帰るロヴィーノが安易に想像できる。
イヴァンは素直に「じゃあ後でね」と廊下へ出て行った。
この先、このギルベルトとおしゃべりするか、自室に戻るかで悩んでいると、ギルベルトが俺の腕を引っ張った。まるでそこに座るように促しているようだったので、渋々そこに腰を下ろす。今までイヴァンが座っていた椅子はまだ生暖かく、それがイヴァンの体温だったのかと思うと少し心地悪かった。
「あのさ、部屋割り。俺様がイヴァンと同じ部屋になっちまったんだけどよ。お前が今イヴァンと部屋使ってんだろ? どうすんだ? 俺様はどこに寝ることになるんだ?」
イヴァンと会話をしていたときの楽しそうな表情はどこへやら、ギルベルトは大真面目にそんなことを問う。だが、確かに大事な問題だ。
「……はぁあ、面倒だな。ロヴィーノは代わってくれって言っても嫌がるだろうしな……」
睡眠が何よりも大切だと豪語するロヴィーノが、安眠を妨害する頼みを聞くはずもないのだ。かと言って、やはり俺が本田菊と寝泊まりすることは天地がひっくり返ってもありえない。……ということは、本田菊とギルベルト、もしくは本田菊とイヴァンが一緒になるのが、妥当なところだ。……俺中心で考えると。
黙り込んで考えていると、じっと俺を見る視線を感じた。気づいた俺も、ギルベルトを見やる。どうかしたかと促す前に、ギルベルトは口を開いた。
「……なんでお前あんなに菊のこと嫌いなの? 元々の知り合い?」
うわ、また本田菊の話題だ。俺はうんざり通り越してげんなりして、もう話す気力も湧かない。適当にかわすことにした。
「……知らねえよ。ただ見るからに陰湿で暗雲としてて、おまけに教養もなさそうだろ。そういうの、俺苦手なんだ」
「ふーん」
今朝ほど聞いた、全くもって興味を持てないことを隠す気もないような、ふんわりとした相槌をギルベルトは打った。聞いておきながらその態度は癪に障り、嫌味ったらしい表情を浮かべ、
「まぁ、お前のその教養のなさそうなところは好きだけどな。見下し甲斐がある」
冗談交じりにそう言ってやった。すると、それをよほど真に受けたのか、ギルベルトはあまつさえ心配しているかのような面立ちで、「お前ってほんと変わってねえな」と教えた。
「さっき菊のこと感じ悪いって言ってたがよ、俺様からしたら、お前の方がよっぽど感じ悪りぃぜ。お前と同室になるくらいなら菊となるわ」
ギルベルトのその言葉は、何故か大きな衝撃となって俺の中を貫通した。意表を突かれるとは、寸分も違わずこのことだと思った。
……俺よりも、あのコソ泥の息子である本田菊がいいだと? あのじっとりとした陰湿の化身のような、本田菊が? ……こいつ正気か。
「そ、そうかよ。俺だってお前みたいな低脳な女ったらしはごめんだ」
悔しくてそう言ってやると、ギルベルトは首を傾げる。
「女ったらし? ああ、さっきの話聞いてたんだな? 言っとくけど、俺様は女と寝たことねえし、好きになったこともねえよ」
躊躇いなくそう宣言したギルベルトを、初めて少し怖いと思った。思わず身を引き、
「ま、まじかよ。やっぱお前は菊と同室になれ。襲われたら敵わん」
そう言うと、今度はギルベルトが意表を突かれたように目を丸めた。
「……はあ!? そ、そういう意味じゃねえよ!! 男とも寝たことねえよ!!」
高らかに宣言される。……なんだこいつ、やっぱりただのバカか。
先ほど湧いた悔しさが、どうでもよくなった。
「ってことはお前は童貞か。入所初日から童貞宣言するやつも珍しい」
「……何々ー? 面白そうな話してるねー?」
ガララとまた扉が開く。
「イヴァン、もう終わったのか」
真っ先に反応したのはギルベルトで、イヴァンもいつもの楽しそうな笑顔で歩み寄った。
「うん。菊くんが終わったら、次はギルくんだからね」
「俺様も受けるのか」
「当たり前だよ」
話の内容からして、イヴァンは既に本田菊を呼びに行ったあとなのだろう。いつも俺が座っているところに腰を下ろした。……俺が本来のイヴァンの席に座っているためだ。
「で、何の話?」
改めて興味津々と言った様子で、イヴァンはテーブルに肘を突いた。
俺はギルベルトが童貞かどうかの話題が楽しいとは思えず、蒸し返す気にもなれなかったので、「そんなことより」と流れを奪った。ギルベルトも異論はないらしく、俺の話題を見守る。
「ギルは菊と同室になりたいらしいから、お前の部屋をこのままお前と使わせてくれ」
そう、俺はどちらかというと、こちらの問題の方が気が気ではなかったので、真っ先にイヴァンに交渉を持ちかけた。
「えぇー、折角ギルくんと同室になったんだから、君が自分の部屋に戻りなよ」
出た。言うと思った。イヴァンは変なところで拘るタイプのやつだと知っていたので、どきりと不安が襲う。なんとしても、イヴァンの了承を勝ち取らねばならない。
「……そ、それだけは勘弁してくれ……ほら、な? 例の約束もあるだろ」
やつの好物をひけらかす。最悪の場合は一瓶から二瓶に増やしてやる手も考えないこともない。
「どうするギルくん?」
しかしイヴァンは何故かギルベルトに判断を煽った。俺は少しホッとする。変なところで拘るイヴァンはともかく、先ほど俺よりは本田菊を選ぶと言ったギルベルトは、そこを拒む可能性が低いためだ。
案の定ギルベルトは、
「別に俺様はお前と一緒がいいなんて駄々捏ねねえよ。こいつと一緒にならなきゃなんでもいい」
「よし! じゃ決まりな!」
すかさずそう声を捩じ込んだ。
「アーサーくんはほんとわがまま治らないねえ。まぁ、すぐ手が出るのが治ったのはよかったけど」
呑気にイヴァンはそう続けていたが、もはや本田菊との同室を免れた俺にはそんなことはどうでもよかった。好きに言ってくれ。そんな寛大な心持ちの中、イヴァンが「あ、そういえば一昨日は手が出てたなあ」とぼやいていたが、やはり気にはしない。
「ケセセ、そりゃお前に手を出したところで逆にボコられるからだろ」
だがギルベルトのその言葉は聞き捨てならねえ。
「うるせえ! お前は怖くねえんだぞギル」
そう凄んでやると、今度はなぜかイヴァンが「ふふ」と笑みを挟んだ。
「アーサーくんそれはやめたほうがいいよ? ギルくんも結構強いからねえ」
「ケセセ、そういうこった。俺様は強くなってるぜ!」
「……ッチ。最高の共同生活だな」
皮肉で締めてやったところに、本田菊が現れてギルベルトが呼ばれた。その歓談は解散との運びを経た。
それから数日は、穏便に日々が過ぎた。
俺がイヴァンと、ギルベルトが本田菊と寝室を分けることで、俺と本田菊との接点は最小限に抑えられ、俺はようやく落ち着ける時間が増えた。
そして今日は日曜日。ついに待ちに待った、いとこであるアルフレッドとマシューが面会に来てくれる日だ。俺は朝からそわそわして、玄関の外にあるバルコニーで二人を待った。
この施設は森の中にある。街からそう離れているわけでもないが、バスもなく、少々長めの散歩道にはなっている。外に出られない身としては、緑に囲まれていることもあり、まぁ悪くない場所だと思える。だが、会いに来る二人にしてみれば、少し面倒ではあるだろう。
とにかくカウンセリングも授業もないので、今か今かと二人の姿を探して待っていた。
約束の午前十一時前ごろか。整備された林道に、一人のティーンエイジャーの影が現れた。俺は目を凝らす。その人影も俺の姿を捉えたのか、大きな動作で手を降ってくる。
――あれはアルフレッドだ。
俺もバルコニーから身を乗り出して手を振った。その人影はダッシュを始める。……どうやらマシューはいないようだった。てっきり二人で会いに来るのかと思っていた俺は不思議に思いながらも、エリザベータにガシャガシャと正門を開けてもらっているアルフレッドを、内門から見守る。
正門から俺の待つバルコニーがある内門までエリザベータに案内され、嬉しそうにアルフレッドはひょこひょこと走ってきた。
「アル!」
「アーサー! 久しぶりなんだぞ!」
アルフレッドは容赦なく俺に抱きつき、嬉しそうに一人で騒いでいる。
俺はというと、もうそれほど身長が変わらないことに気づいてしまった。半年ぶりに会う成長期のアルフレッドは、一回りも二回りも大きくなっていた。声変わりも始まっている。その成長がなんとなく嬉しくて、俺は思わず表情を崩してしまう。
「ところでアル。今日はアルだけなのか?」
興奮を落ち着けるように肩を持って問う。……まだ少しだけアルフレッドのほうが身長が低い。
「そうなんだぞ。ごめんよアーサー。マシューはドクターから外出禁止を食らっちゃったんだ」
「そうなのか……状態がよくないのか?」
「うーん……無理をさせすぎちゃったんだぞ……」
申し訳なさそうにアルフレッドは話した。『無理をさせすぎた』ということは、
「ああ、電話ではしゃいでた『成し遂げた』なんとかっつうやつか?」
そう思って再び問いを投げかけると、アルフレッドは忙しなく、今度は喜びを伝えるように表情を明るくした。
「そうなんだぞ! 聞いてくれるかい!」
バルコニーで話し込むにはまだ少し肌寒く、俺はアルフレッドの肩を持って室内へ誘導した。面会の際に何回か訪れている談話室へ向かっていたので、途中からアルフレッドが先頭を歩く。
「もちろんだ。夜も眠れねえほど気になってたからな。何しでかしたんだ?」
いたずらっぽく笑ってやる。
進行方向に背中を向けていたアルフレッドは、廊下の絨毯にバランスを崩しかけたが、それすらも楽しそうに笑った。
「あはは! すごいことなんだぞ! マシューは頑張った! でもまあ、それでマシューに無理をさせすぎちゃって、外出禁止になってしまったから……手放しで喜べなくなってはしまったんだけどね……」
またアルフレッドが反省するように肩を落とした。忙しい弟だな、と思っているところで談話室に到着した。三人がけのソファが置かれているので、そこに座るよう促す。
「……まあ、先に聞かせろ」
ソファの真ん中に座ったアルフレッドが、顔を上げて息を吸った。
「それがね! マシューを暴力事件のときに助けてくれた人がいただろう!? その人の冤罪を――」
突然アルフレッドは息を止めた。かと思うと今度はそれを大きく吸って、目を見開いて……どこを見ているのかと視線を追うと、それはまっすぐに廊下に伸びていた。
「――って、菊っ!?」
そう叫びながらアルフレッドは廊下へ向かって駆け出した。目当ての人物を見つけたのか、さらに追うように走っていく。
俺の位置からは見えなかったが、アルフレッドの声がいっそう張り上げられた。
「菊! やっぱり菊じゃないか! ここで何をしてるんだい!?」
「え、あ、アルフレッドさん!?」
俺はそこでなされている見えない会話に、脳内の処理が止まっていた。
アルフレッドが腕を引っ張ってこの談話室に連れ込んだのは、『ホンダキク』だった。俺は何が起きているのかさっぱり理解ができず、ただ唖然とその光景を見ていた。
アルフレッドに腕を引かれる本田菊は、仕方なさそうに笑って、でも嬉しそうに笑って……そう、笑っていた。笑っているのだ。あの、あの陰湿なじっとりとした表情であるはずの、本田菊は、どこにもいなかった。きらきらと輝いて、どうしてそんな風に笑えるのかと聞きたくなるほどに、
――本田菊の表情から、突如として笑顔が消えた。理由は明白だった。……俺と目があったからだ。
「菊だー!! わー!! こんなところにいたのか! アイミストユー!!」
そんなことには気づかずに、アルフレッドは談話室に引き込んだ本田菊に力強い抱擁をくれてやり、俺と久しぶりに会ったとき以上にはしゃいでいる。
「って、ちょっと待てアル! お前こいつを知ってんのか!?」
俺は驚きの余り二人に駆け寄り、アルフレッドを本田菊から引き剥がした。
抑えきれない喜びでも掲げるように、飛び跳ねそうな勢いで俺に大げさに教えた。
「知ってるも何も! マシューを悪いやつらから助けた人なんだぞ! アーサーは知らなかったのか!?」
――え?
さらに混乱を呼ぶ。
「ま、待て待て! 俺知るわけねえし! てか、その話は、マシューが証言できなくて助けた人は少年院にいるって話じゃ……!?」
「さっき言いかけてたけど、マシューは証言したんだぞ!」
――『マシューは証言した』
次なる混乱が降りかかる。マシューはしょうげんした? つまり、それって。おい。
「……ま、マシューしゃべったのか……?」
「ああ、しゃべったさ! 俺には何を言ってるのかわからないときの方が多いんだけどね! 菊とはコミュニケーション取れてるぞ!」
「……え?」
俺は本田菊を見やった。真偽を確かめたかった。本当にアルフレッドが言っている『菊』は、この『本田菊』であっているのかという確認だった。だって、この『本田菊』が……マシューを……?
無言の俺にただ審議にかけられている本田菊も、また黙ったまま俺の結論を待った。
「どうかした、アーサー?」
先にしびれを切らしたのはアルフレッドで、俺の腕を揺さぶった。
我に返った俺は、アルフレッドの肩を持ち、大して変わらない目線を合わせる。
「……ま、マシューは菊ともしゃべるのか……俺とはまだ口きいたことないのにか……?」
「ああ! それどころか、まだママやパパとも口きけないんだぞ! 俺と菊だけだ!」
この驚きをどう処理していいのか、さっぱり俺にはわからなかった。一体どういうことなんだ。混乱と動揺が同時に押し寄せ、俺はふらふらとソファに縋るように座り込んだ。
「ちょ、ちょと待てアル……初めから頼む……」
頭を抱えて懇願すれば、
「だから!」
アルフレッドも俺の隣に腰を下ろした。
「菊の冤罪を立証するために、マシューと二人で頑張ったんだぞ! 菊が退院する日に、マシューは菊ともおしゃべりできたんだ!」
「……え……」
寝耳に水にもほどがあるだろう。そうか、アルフレッドがはしゃいでいた『成し遂げたこと』とは、本田菊の冤罪の立証だったのか……。
「あの……アーサーさん」
今度は本田菊がそろそろと歩み寄り、「なんだ」と返事をした俺に、立ったまま声を落とした。
「失礼ですが、アーサーさんはアルフレッドさんとマシューさんとは……?」
見上げる。俺がマシューの恩人を知らなかったように、こいつも俺に対する判断に困っているのだ。
「……いとこだよ」
観念して教えてやる。
「でも何年かは一緒に暮らしてた」
「菊! アーサーがいつも話してた兄貴なんだぞ!」
アルフレッドが説明を付け加える。
……そうか、いつも俺の話をしていたのか。一体どんな話をしていたんだよ。
「そ、そうだったんですね。いつも聞いていたお兄さんがこんな近くにいらっしゃったとは」
本田菊が俺に向けた視線が、少し責めているように感じてしまう。この施設にこいつが来てからの俺自身の態度が思い出され、途端に跋が悪くなる。……だって、誰が思うかよ。冤罪で少年院にいると思っていた弟の恩人が、こんなところにいるなんて。
考えることを一旦止めた。
本田菊の気配が動き、アルフレッドの隣に腰を下ろしたようだった。……どうやらアルフレッドが誘導したようだ。
「……その、お前とアルたちはよく会ってたのか?」
未だに項垂れていた顔を控えめに上げて、アルフレッド越しに本田菊に問いかけた。
「はい、その、よく面会に……」
――『面会』。その言葉で何故か改めて実感する。そう、こいつは少年院にいたんだ。
「ああ、そうか。そうだよな。冤罪で少年院にいて、マシューたちが立証できるように頑張ってたって……じゃあ、お前が……」
――お前が。お前が、マシューを助けたのに少年院に入れられていたやつだったのか……? それはお前の話だったのか、『本田菊』。
なんとも言えない感情が身体の中で爆発して、もうなんて言葉を吐けばいいのかわからかった。
「アーサー! 菊! もう、難しい話はよしてくれ! それより俺、学校の体育祭でかけっこ一位になったんだぞ! すごいだろ! ヒーローになれる!? なれるだろう!? というかこれはもうヒーローだね!」
アルフレッドが隣ではしゃいでいる。俺はそれどころじゃなかったが、
「あはは、はいはい。アルフレッドさんは皆のヒーローですね。リレーに出るようになったら、みんなもそれを実感されると思いますよ」
「リレー! 俺もそれ狙ってるんだぞ!」
楽しげに返す本田菊の声に、もっと感情が揺さぶられた。
先ほど衝撃を受けたほどの笑顔が、またそこにはあって。あんなにつまんなそうな顔を願っていたのに、そこに掲げられた笑顔は驚くほど眩しくて……。その慈しむような笑顔に、どうしてか、泣きたいほど身体の中がざわついた。
結局アルフレッドが帰るまで、俺は満足に相手もしてやれなかった。頭の中はあんなに憎悪の対象だった本田菊でいっぱいで、これからどう本田菊と接していけばいいのかという問いが、俺を拘束して放さなかった。
アルフレッドはとくに俺の異変に言及はしなかった。……本田菊もだ。
その晩、俺はイヴァンと共用している部屋で、ベッドの上でひたすらに一人で悶々と考え込んでいた。
思考の奥底に潜れば潜るほど、俺の葛藤は大きくなっていった。……だって、あの『本田菊』だぞ?
俺の親父の会社を潰して、俺たち家族だけじゃなく、アルフレッドの記憶やマシューの言葉を奪った、あの本田の息子だ。許すべきではないその人物が、まさか当のマシューの恩人で、しかも、少なからず一年はマシューを助けたことで少年院に入れられていたわけで……。どの側面をどう切り取って、俺は『本田菊』という人物を判断すればいいのか、ぐるぐると螺旋階段を駆け下っていくようにドツボにハマっていく。しかも、一向に答えは出ない。
つい先日、じっとりとした視線で俺を睨んでいた『本田菊』と、本日アルフレッドを慈しむように笑っていた『本田菊』が、どうしても同一人物とは思えなかった。……くそう。あまりの結論の失踪具合に、苛立ちの方が勝ってくる。
――トントン
自室の扉を伝ったノック音が、俺の意識を取り戻す。イヴァンは今、シャワーに行っているので、とりあえずそれ以外の誰かだろうということで、「誰だ」と言葉を飛ばした。
「アーサーさん。私です、本田菊です。……少しお話しませんか?」
ドア越しのぼんやりとした声が、そう誘った。俺はまだ出ていなかった問題の結論を急かされているように錯覚して、心臓に早鐘のように鼓動が打ち付け、冷や汗を滲ませた。その声色から思い出したのは、あの陰湿な方の、俺の家族の人生を片っ端から台無しにした方の、本田菊だった。
「……勘違いするな。今日はアルがいたからお前と馴れ合ってやっただけだ。お前が嫌いなことは変わってねえよ。消えろ」
そう伝えた。
そう、今までの俺はこんな態度だったはずだ。マシューを守った恩人だからと言って、こいつの親父が殺した人数には敵うわけもない。……そう、これでいいんだ。
自分を落ち着かせるようにそう言い聞かせていると、少し間を置いてから、本田菊はボソリと零した。
「……そうですか」
俺の判断が正しかったのかわからないが、その本田菊の呟く声色を残念そうだと思ってしまった。そしてそれは容赦なく、俺の中に罪悪感を叩き込んでくる。一気に俺を締め上げる。
……いや、これで正しかったはずなんだ。また何度も自分に言い聞かせる。何度も自分を肯定してやる。たった一つの善行が、全ての罪を掻き消すことはできない。そう。これでいい。本田菊への対応は、これでいいんだ。
次の日は月曜日で、フランシスのカウンセリングの日だった。
俺は昨晩叩きこまれた罪悪感から一睡もできず、ぐるぐると転げ落ちた螺旋階段の下で、助けを求めて喘いでいた。藁にもすがりたい気持ちになっていた俺は、朝食で本田菊と顔を合わせるのも億劫で、結局朝食すらパスしていた。
そんな俺を見たフランシスは、第一声でこう告げた。
「あれ? 今日はえらくしおらしいね」
しおらしいで片付く問題じゃねえんだよクソ髭が。
「何かあったの?」
俺は悪態を吐く気力すらなく、ソファにため息を漏らしながら腰を下ろし、「菊がさ」と言葉を始めた。
「お、何か進展あった?」
「菊が……マシューの恩人だった……」
当然、こいつにもマシューの話はしていた。だから知っていて当然ではあったが、こいつの目の動きが途端に腑に落ちたような、合点がいったような感情を見せた。
それを見つけた俺は怒りがまた突沸し、
「!? て、てめえ! 知ってやがったな!?!?」
もうないと思っていた気力をフル稼働して、フランシスの胸ぐらにまた掴みかかっていた。
「な、何でそうなるの!? 菊の経歴を見てもしかしてとは思ってたけど、事実確認したわけじゃなかったから!」
……まあ、ご尤もなんだろう。
俺は力なくその胸ぐらを手離し、改めてソファに深く座り込んだ。
「……お、俺、これからどう菊と接すればいいんだよ……っ」
一晩中俺を悩ませた葛藤を、ようやくフランシスに吐き出してやることができた。それだけで、何故か言葉と一緒に眼の奥が熱くなって、視界がぐらぐらと揺れだした。
フランシスが小さく息を吐いた。
「アーサー」
「んだ」
「昨日アルが来たんだろ? アルはどんな顔で菊と接してた?」
見てみると、髭面はぐにゃりと歪んでいた。観念して、俺は目に溜まった水分を拭った。
「……楽しそうだった。……し、嬉しそうだった」
昨日の様子を思い出す。だがそれには、忘れてはいけない問題がつきまとっているのだ。
「で、でも、それはアルがもっと前のこと忘れちまってるから……!」
絞りだすと、フランシスはしばし何かを考え込む。
「うーん……。ではアーサーくんに問題です」
「……ふざけた問題だったらぶっ飛ばすぞ」
「そんなことしたら鎮静剤使うからね。まあ、まず聞いて」
「なんだ」
フランシスは机にカルテとペンを置いて、身を乗り出して指を組んだ。下向き加減だった俺の視界に入るよう、下から俺を見上げるように注目を促す。
「じゃあ、そうだねえ。こうしよう。一度だけ悪さをしたネズミが居ました。はい、想像して。その悪さは、街に疫病を流行らせるというもので、そのネズミの子ネズミも苦しみました。……ちなみにその子ネズミは一度も悪さをしたことがないよ」
俺の反応を確認している。
ネズミだ子ネズミだと、俺を何歳だと思ってやがるんだ。だがおかげで少し涙が引いた。
「で、ある日、お父さんのしてしまったことで街の人から批難を受けていた子ネズミは、逃れるために行き着いた川辺で、溺れている子リスを見つけて助けました。状況わかる?」
「ああ」
「よし。じゃあ、ここからが問題ね。さて、この場合、親リスは助けたのが疫病を流行らせたネズミの子だったと尚も批難する? それとも大切な子リスを助けてくれてありがとうって感謝する?」
何の捻りもない喩え話。何が目的なのかもわからない。俺は一つ一つの配役をわざわざ俺の周りに当てはめ直して、こいつの言ってほしかったことの、敢えて逆を言う。
「……疫病の被害が大きすぎる。批難したい」
「……そう」
当然こいつの真意が俺に伝えわっていることも知れている。その上で俺が出した答えに対して呟かれた言葉は、少しばかりの寂しさを含んでいるように感じた。
「じゃあ、それが今のアーサーの答えでいいんじゃない」
体勢を戻して、背もたれに重心を預けた。
俺はそれに対しては何も返事ができなかった。こいつは初めから言っていた。『ネズミが流行らせた疫病』と『子ネズミ』を切り離して考えろと。知っている。実は薄々そうするべきなのでは、とも思っていた。でも、やはり『子ネズミ』を恨んでしまえるほどに、『ネズミ』が憎いのだ。
「……よく考えてね。お父さんが流行らせた疫病、本人が助けた子リス。どちらがより彼自身の評価に近いと思う?」
改めて問いかけられる。不安定だった決意が揺らぐ。
あんなに嬉しそうなアルフレッドは、久しく見ていなかった。……増して、あのマシューが、本田菊のためにしゃべったんだ。
今度はフランシスが欲しがっていた回答だとわかっていたことも手伝い、改めてこう結論を下した。
「……子……リス」
絞りだすようだった。
だがその下した結論を喜ぶわけでもなく、フランシスは引き続き寂しそうな声色で諭した。
「まあ、お兄さんはそう言ってほしいとは思ってるんだけどね。でも、まだアーサーの中で割り切れないんなら、それでもいいとは思うよ。自分の気持ちを偽ってても苦しいだけだし」
……苦しいとは……? 今の状況を指すのではないのか?
「どうしていいかわからない今が一番苦しい」
そう素直に教えてやる。
「うん、そんなときはね、その時々の気持ちを大事にしたら?」
「は?」
意味を促すと、少しフランシスの声色に明るさが戻った。
「例えばさ、菊を目にしたときに『しゃべりたい』って思えばしゃべればいいし、『死ね』って言いたいって思えば、そう言えばいい」
「そんなんでいいのかよ」
「いいよ。アーサーのことはアーサーしかわからないからね」
あまりにも潔く肯定されるので、逆に少し本田菊を気の毒に思った。俺の気分一つで『死ね』と言われて、それでは理不尽だろう。……ハッ、と俺の中に何かがすとんと落ちて、きれいにはまった。
フランシスは続ける。
「ただ、もう十八歳になるアーサーくんに覚えておいてほしいのは、菊にも感受性があるってこと。誰かに『死ね』って言われたら『死ななきゃいけないのかな』って気持ちになるし、逆に『ありがとう』って言われたら『生きててよかった』って思えるよ」
そのとき浮かんだのは、つい昨日こそ目にした、アルフレッドと共に笑っている本田菊だった。恨み辛みをぶつける俺には陰湿にしか見えず、だが本田菊に感謝の念しかないアルフレッドの側では、生き生きと笑っている。
……そういう……ことなのか……? ……アルフレッドの前でだけ本田菊が輝いて見えたのは、アルフレッドという眼鏡を通していたから?
「だから、みんなの味方のお兄さんとしては『死ね』って言いたくても『ありがとう』くらいに留めておいてくれたら嬉しいんだけどね」
ふと我に返る。浮かんだ本田菊の笑顔のせいかわからないが、何故かとても気持ちが軽くなっていた。故にフランシスの言葉の矛盾に気づけた俺は、早々にツッコミを入れた。
「相違ありすぎて詐欺だ髭」
「まあまあ。とにかく、まだ気持ちが決めきれないんなら、そんなときこそその時々で適当に。別に人間の感情なんて一貫している必要もないし、一貫してる方が珍しいし。一貫してたらお兄さんみたいな人は必要なくなっちゃうし」
「今でもその必要性は甚だ疑問ではあるがな」
得意の小馬鹿にしたような笑みを浮かべてやる。フランシスは何故だか嬉しそうに笑った。
「お、言ったね。余裕出てきたじゃん? お兄さんとのお話でちょっとはすっきりした?」
素直にそう認めてやるのは癪だったので、「そうだな。その髭面が面白くてどうでもよくなった」と言ってやると、フランシスは大真面目に「そう。髭の手入れをこまめにしてた甲斐があったよ」と返してきた。
「じゃあ、イヴァン呼んでくる」
この部屋に入る前の自分が嘘かのように軽い足取り。俺はそれに驚きつつも、髭面にそう告げて部屋を出ようとした。
「……アーサー」
「なんだ」
「菊はとってもいい子だよ。どうか彼の境遇の評価をしないで、彼を見てあげて」
そんな念を押されなくても、俺はもう十分に何かに気づけた気がしている。フランシスには言葉で返事はせず、手のひらでまたなと告げて、カウンセリング室の戸を閉めた。
この時間帯ならばおそらくダイニングで談話中だと思い、俺は菊と対面したらどうしようという、少しドキドキした気持ちでイヴァンを探した。……今、菊に会ったら、俺はどうしたいだろうか? 昨晩よりはマシな対応ができそうだ。
「やぁ、アーサーくん。今朝の君、顔が死んでたからちょっとおもしろ……ん、心配していたんだけど。復活できたみたいだねえ。フランシスくんは本当に優秀なカウンセラーだね」
案の定ダイニングにいたイヴァンに順番を告げると、こう言われた。一緒にいたギルベルトにも笑われたが、その場に菊とロヴィーノはいなかった。
イヴァンがカウンセリングに向かったことを確認すると、唐突に空腹を自覚した。きっと目の前に並ぶ空の皿のせいだろう。俺はエリザベータを探して、朝食の残りがないか尋ねることにした。施設内を徘徊して、目的の達成を目指す。
角を曲がったところで、向こう側から歩いてくる人影に、また胸を鳴らしてしまった。
……菊だ。何かを手に持っている……白い布……? それは一体何なのかとの問いをきっかけに、二、三会話ができないだろうか。昨晩の対応についても、軽く謝罪を入れたい気持ちだった。
しかし菊は近づくに連れて頑なに視線を逸らした。話しかけないでください、と聞こえてきそうなほどのその頑固さに、俺は間抜けにも立ち止まったまま菊を見送るはめになってしまう。あとから思ったが、突っ立ったまま菊を見送った俺は、端から見たらどれだけ滑稽だっただろうか。
でもどうしてもその手に握られていた白い布が、その意外と細っこい指先が、気になって仕方がなかった。……その白い布は、どことなくエプロンのようだった。
それからまたしばらくして俺は本来の目的を思い出し、エリザベータを探す旅を再開した。瞼の裏に残ったままの、頑なに視線を逸らす菊の姿。……そりゃ仕方のない対応か……。
その後エリザベータを無事に発見した俺は、朝食の残りの有無を尋ねると、付いて来なさいと、またダイニングに連れられた。そこの奥にある簡易キッチンでいつも朝食を作っているエリザベータなので、そこでまた何かを準備してくれるのかと思った。
ダイニングに着くと、既にキッチンの方からカチャカチャと食器を扱う音が聞こえていた。エリザベータは何も気にせずにキッチンに入っていったが、俺は訝しんでそちらを覗いた。……するとそこに、菊がいた。白いエプロンのようなものを身につけて、踏み込んで行ったエリザベータに挨拶をしていた。……てか、おい、待て。お前がやってるそれは、もしかしなくとも皿洗いか?
「アーサーくんが朝食をって言ってたから」
すうっとエリザベータの声が聴覚に吸い込まれた。それとほぼ同時に、菊はこちらに気づいて、そして目線がかち合った。慌てて逸らしたのは俺の方だ。
菊の口元がまた小さく動いたが、皿洗いの水音に掻き消されて、俺には聞こえなかった。エリザベータがそれにふふふ、と上品に笑いをこぼし、菊は返事を返さなかった。
一体何を話したのだろう。ずっと二人の様子を見ていたが、ついに解明はできなかった。
後に、一人で遅い朝食を摂っていた俺に付き合い、ダイニングで話し相手になってくれたエリザベータに、菊のことを尋ねた。
俺たちで手分けして家事をする日は、週に一日は決められている。それは土曜日だ。しかし今日は平日であり、つまりは当番でもないというのに、なぜ皿洗いをしていたのだろうか。
回答は至って簡単だった。家事全般をずっとしていた菊は、むしろ何もしていない時間よりは、そういうことをしている時間の方が好きだと話したという。先ほど着ていた白のエプロンーー東洋のエプロンで割烹着というらしいーーも自前だとか。話しぶりからして、エリザベータは菊のことをめっぽう気に入っているらしいことがわかった。
俄然、菊に対する興味が湧いた。
アルフレッドもマシューも、エリザベータも……それだけじゃない、少し関わっただけのギルベルトでさえ、菊のことを好いているようだった。俺がバカみたいに嫌悪感と憎悪で菊を塗り固めるのに必死になっていたとき、他の全てに菊はどう見えていたのだろう。
菊本人に『あなたはどんな人ですか?』と聞くわけにも行かず、俺は周りから情報を集めることにした。
ある日はふと廊下で出くわしたギルベルトを呼び止め、
「おいギル、お前寝る前に読書とかするのか? やけに静かだけど」
「ああ、してるぜ」
「き、菊は?」
「菊? ……あぁ、あいつもしてるけど?」
「どんなのを読んでるんだ?」
とさり気なく聞き出したり。
またあるときは、課外活動で菊と同じグループになったイヴァンに、約束のウォトカを渡す際、
「ところでイヴァン、菊のやつ、俺について何か言ってたか?」
「ええー? 言ってないけど?」
といった具合だ。
いつの間にか俺の思考の中心に、菊は立っていた。授業のとき、どの授業に興味があるのだろうか。飯当番のとき、どんな料理を喜ぶのだろうか。自由なとき、何を率先してやるだろうか。……寝るときの服装は? 風呂の入り方は? 好きな色、場所、匂い……好きな人は。
「なあアル」
アルフレッドが面会に来た、何度めかのときだった。
「なんだいアーサー」
俺は菊がエリザベータたちと買い出しに行っていることを知っていたので、談話室でアルフレッドに質問をした。
「アルは菊のどんなところが好きなんだ」
そういえば聞いてなかったなと、これも好奇心の一つだった。
アルフレッドはその話題に喜び、元気な笑顔を浮かべた。
「菊? そうだなあ。暖かいから落ち着くね! 静かでかっこいい! 優しいし! あと、しゃべり方は柔らかいし、でもマシューを守ったくらい強いし! まるでママとパパが一人にまとまったみたいだ! ……ってマシューが言ってた」
「マシューかよ」
オチに笑ってやると、アルフレッドはなおも楽しそうに、「でも俺もそう思うんだぞ!」と声を張った。
「菊は一緒にいると安心する人ナンバーワンさ! 俺はママの次にだけどね!」
「じゃ、ナンバーワンって言ってるのはマシューか」
「そうだぞ!」
ーー『パパとママを一人にまとめたみたい』
あれから何度か見かけた割烹着姿の菊を思い出す。言い得て妙というか、柔らかい雰囲気も持っているが、しっかりとした芯も持っていて、なぜかその言い回しに納得してしまった。
「あー、なんか菊と会いたくなったんだぞ! マシューも会いたがっていたけど、まだ外出の許可が出ないんだ!」
「そうか。残念がるだろう」
「でも俺が菊の話をすると喜ぶんだぞ! アーサー、菊を呼んできてくれないかい?」
突飛なリクエストが飛び出したが、この流れから薄々察してはいた。俺はアルフレッドが残念がるのをわかっていたので言いにくかったが、観念して教える。
「ああ、悪いが、今はエリザとギルと買い出しに行ってる」
「そうか、残念だ……」
「まあ、もう少ししたら帰ってくるだろうけどな」
元気付けるために肩を叩き、
「アル、もっと家や学校の話を聞かせてくれよ。ガールフレンドはいないのか?」
と話題を繋いだ。菊が帰ってくるまで、アルフレッドが退屈しないよう。楽しい気持ちのまま、菊との時間を迎えられるよう。
玄関の外のバルコニーで菊を待ちたいとのアルフレッドの申し出があり、もうすっかり暖かい季節になっていたので、好きにさせることにした。そうして読み通り、アルフレッドが学校のマドンナの話をしているときに、エリザベータ率いる買い出し組が帰所してきた。俺が何を言わずともアルフレッドを見つけた菊は嬉しそうに立ち寄り、自然と会話が弾む。
俺はというと、弾んだ会話を邪魔しないよう、何も言わずにその場から退席した。玄関のところで改めて二人の様子を見ようと振り返ると、やはり誰と一緒にいるよりも楽しそうに笑っている菊がいる。
少しの寂しさが指先から伝い、肺の辺りが痺れたような気がした。初めて経験する感覚だというのに、懐かしさのような切なさを自覚する。
結局俺はその二人の楽しげな光景から目を離すことができず、しばらく二人をそこから見ていた。……いつも人伝に感じる菊の暖かさは、一体どんなものだろうか。なおさら知りたくなった。……今日、思い切って本人に話しかけてみようか。大丈夫、何か話題に困ればアルフレッドやマシューの話をすればいい。
そう自分を励ました俺は、その晩、早速風呂から上がった菊を廊下で発見して……正しくは待ち伏せて呼び止めた。
「お、おい、菊」
「あ、アーサーさん……?」
訝しげに菊は立ち止まった。間に誰も立たずに会話したのは、もしかしなくても初めてなのでは、と、身構えてしまった。
「そ、その、」
お前と喋りたいと上手く切り出せず、考えていたはずの言葉が散開していく。
「す、少しくらいなら、話をしてやっても……いいぞ……?」
控えめに提案した。そう、自然だ、至って自然なはずだ。突然お前に興味が湧いたわけではないぞ、と上手く伝わる言い方だったはず。あくまでお前が話したいなら、という選択肢もばっちり用意できた。
しかし菊はただ困惑したように眉をひそめ、
「え? あ、はい……え? いや……別に……」
と寄越した。
「じゃあ、そこに座ろうか、」
返ってくるであろう言葉をシミュレートして疑わなかった俺は、座れるところに誘導しようと次なる言葉を既に準備していた。……のだが。
「って……ええ!? 別に!?」
思わず身を乗り出して問い返してしまう。
「はい、その、わざわざ私のことを嫌ってらっしゃるアーサーさんのお時間をいただくのも忍びないかと……」
言いにくそうに本人の腕をさすりながら、「アルフレッドさんですか?」と、遠くから覗き込むような仕草で問われた。
そうだ、アルフレッドが仲良くしろと言ったことにすれば、菊もあるいは……? そう目論みを持ってそのままそれを利用する。
「え、あぁ、そうだ! アルがな、もっと菊と仲良くしろって!」
菊は笑顔を浮かべた。
「なら、お気になさらないでください」
驚くほどに冷めた笑顔だった。
「人間には得手不得手がありますし。私もあなたはどちらかと言えば不得手の部類ですから」
「……え……」
あまりにもはっきりと言われるものだから、俺はそれ以上なんと繕えばいいのかわからず、狼狽えてしまった。その間に菊は「では失礼します」とよそ行きの会釈を押し付けて、凛とした空気のまま立ち去っていった。
俺の頭の中は真っ白になってしまった。おかしい、こんなはずでは、と自問したがーー
ーー『死んじまえ』
ーー『消えろ』
どう考えても当然の結果だった。
「ケ、ケセセ……」
茫然と立ち尽くしていると、独特の笑い声が耳に入った。振り返れば同時にギルベルトが俺の肩に腕を回し、さらにケセセセと笑う。
「お、お前、マジで笑える、お前、やせ我慢隠せてねえぞ、ケッセセ」
それはもう、傷心中の俺に大爆笑を浴びせるという悪魔のような所業を、易々とギルベルトはやってのけたのだ。
ヤケクソで死んじまえと零そうと口を開いたとき、フランシスの顔が浮かんだ。
「……ギル、『ありがとう』」
「ケセセ! 良いってことよ! ケーセセッゲホッゴホッ!」
ギルベルトはしばらく俺のために、むせながらも現状を笑い飛ばしてくれやがった。
それからの俺に余儀なくされたのは、引き続き遠くから菊を観察する日々だった。いつからこんなに菊にご執心になってしまったのか、自分でもわからないところが最高に笑えるよなと他人ぶってみる。だがどうしても、顔を合わせてはよそよそしい会釈で牽制される日々は、堪えるものがあった。
菊は俺の前でなければ、なかなか楽しそうにしていることが増えた。それと同時に、俺の中の菊に対する興味や関心は尋常じゃないほどに膨らんでいく。菊が笑み一つ零せば、それは何によってもたらされたものなのか追求したくなる。耳に入らない菊の言葉の分だけ、自己嫌悪を呼ぶ。菊の全てを知りたくて、全てを欲するようになった。
……正直なところ、『本田』に対する恨み辛みを唱えていた自分は死んでしまったかのように、その感情はとんと顔を出すことが少なくなっていた。
「お前、最近頻繁に来るな?」
ある日、すっかり定位置になってしまったバルコニーで、俺はアルフレッドと話していた。あるときからそのバルコニーにローデリヒがベンチを設置してくれていたので、暖かい季節では緑を眺めながらくつろげるという、申し分ない設備になっていた。
「だって菊もいるからね!」
「くっ……」
屈託のない眩しい笑顔が咲く。未だに俺は菊とは何の進展もないというのに、アルフレッドは図らずしてその距離感の近さを見せつける。アルフレッドが抱く菊を仰ぎ見る気持ちも、菊がアルフレッドに許している領域も、どちらにしたって悔しく思うほかない。
「なあアル」
だがそれもそのはずなのだ。俺にはまだ知らない菊の側面も多い。今日は、ずっと気になっていたことをアルフレッドに尋ねようと思っていた。
「なんだい? また菊のことかい?」
からかうように笑われた。十四歳の少年にまで見透かされている事実に焦り、「な、なんでそうなるんだよ!」と強く反論したが、それは「何を言ってるんだい?」とさらにアルフレッドの笑いを誘っただけだった。
「アーサーがそういう気持ち悪い声だすときは決まって菊の話なんだぞ! 今度は何が知りたいんだね!」
「じょ、上等じゃねえか……」
「ああ、君の弟だからね! それくらいわかるさ!」
ベンチから垂れ落ちている足をブラブラさせて、得意気に構えていた。
俺は紳士的にことを受け流すことにして、軽く咳払いを挟んだ。
「で、アル」
「なんだい」
ずっとアルフレッドに聞いてみたかったこと。
「お前と菊が初めて会ったときのことを教えてくれないか」
問いを理解するや否や、アルフレッドの勢いが一気に弱くなった。こうなる可能性は考えていたのだが、いざそれを目前にすると、聞いてよかったものかと不安になる。……なんと言っても、アルフレッドと菊の初対面といえば、マシューが巻き込まれた暴力事件の現場だったはずだからだ。
「……それは、菊がマシューを助けたときのことかい?」
「……いやか?」
その話題が如何にアルフレッドにとって負担になっているかを確認しようと、俺は隣に座るアルフレッドの澄んだ瞳に投げかけた。
「……い、いやじゃないさ。菊との大切な出会いだからね」
言葉と違い、逸らされた視線からは、何か後ろめたそうな気持ちが垣間見える。
「じゃあ、ぜひ聞かせてくれ」
後ろめたいなら気づかれたくはないだろうと思い、俺はそのまま先を促した。
「えっと……アーサーがママからどう聞いてるかわからないけど、」
頼りない声色だったが、アルフレッドはしっかりと切り出した。
「あの日は、突然家に帰らなくなったアーサーを、二人で探そうって家を出たんだ」
――!? え! いきなり知らねえ情報だぞ! 俺は必死に動揺を隠して、黙って先を聞いた。
「で、日が暮れて、そろそろ諦めて帰ろうかって、俺が先にトイレを済ませてくるから待ってるんだぞって、駅でマシューをおいて……」
「……うん」
どうやらアルフレッドはそのシーンを一番悔いているようだ。マシューを一人で待たせてしまったことを。
切り替えるようにまた息を吸って、アルフレッドは俺の目をしっかりと見た。
「それが終わって出たら、マシューがどこにもいなくて。一人でアーサーを探しに行く勇気がなくて、本当は外出しちゃだめだったマシューに一緒に来てくれってお願いしたのは俺だし、だからマシューに何かあったらと思ってすごくびっくりして、急いで探したんだ」
そのときの切実さを思い出しているようで、前のめりにアルフレッドは訴えた。
「そうしたら、駅の裏の公園の、立ち入り禁止が貼ってある林の前のフェンスに人が集まり始めてて、俺はそれがマシューに関係あるって思った。人をかき分けてそのフェンスを越えて、林の中に入ったんだ」
「うん」
「そうしたら、そこに血だらけの鉄パイプを持った菊だけが、ゼエゼエと肩で息をしながら座り込んでて、あとはみんな倒れてて」
短い息継ぎが入る。その隙に俺も息を飲んだ。
真っ暗な林の中、おそらく少し離れた公園の街灯がやんわりと照らすだけだろう。そんな暗闇の中で、鉄パイプを握って息を荒くしている人がいれば、周りに横たわる人の山がなくても、それは恐怖に値するだろう。
「その中にマシューがつけてた反射材が見えて駆け寄った。マシューは既に気を失ってて、俺も初めは菊がやったんだと思って、怖くて怖くて仕方がなかったから、急いでマシューを担いで逃げようと思った。そうしたら、後ろから菊が話しかけてきたんだ。声は震えてたけど、はっきりと『君、その子の家族ですか』って」
「おう」
「怖かったぼくは返事ができなくて、振り返るのもできなくて、でも菊は話を続けたんだ。『お腹を殴られているから、病院ではしっかり検査するように』って。それを伝えたあと、どさりと倒れる音がして、振り返ったら、菊も気を失ってた」
それに対しては相槌を打てなかった。
俺は自分のためにだったが、たくさん喧嘩もした。その上で、ぶっ倒れるまで乱闘することが、どれほどのことかと思い出す。……菊は、当時まだ面識のなかったマシューのために、そこまでしていたんだ……。感心とも詫びとも取れる情動が、俺の反応を阻んでいた。
「そこに倒れていたガイズは十人くらいいたんだぞ! 一人で全員やっつけたなら仕方のないことだったんだ! で、そのあと警察が来て、菊も一緒に連れて行ってしまった! 俺はそのあと、マシューと一緒に病院に行ったから、菊がどうなったのかわからなかったんだけど、次の日に警察が訪ねて来て、菊が悪者になってるって聞いてびっくりした! ワァイ? なんで!? 違うって話したんだけど信じてもらえなかった!」
そこまで一息で言ったのではと思えるほど、勢いよくアルフレッドはしゃべりきった。間が置かれたので何かを言わねばと思い至ってはいたが、「そうだったのか……」とぼやく以外に言葉が見つけられない。……何故なら、俺の頭の中を占めていたのは、不安とも取れる漠然とした疑問だったからだ。――暗い林の中で、菊は一体何をしていたのだろうか。ざわざわと居心地悪く、胸騒ぎをかき立てている。
「だから悔しくて、ずっとマシューに菊に対する証言だけでいいから、なんとか、手記でもいいからなんとか! って。一緒に練習したりしたんだぞ!」
俺に会いに来ることも控えていたほどだったので、よほど二人で頑張ったのだろう。俺にはその努力がどんなものだったか想像もつかない。
それからアルフレッドはしばらく言葉と思考を隠した。
今またマシューが外出禁止とされているということは、菊のために証言できるようになるまで、相当な負担がかかったのだろう。しかしそれもアルフレッドとしては、マシューを無理に連れ出さなければ必要なかったはずだと思っているに違いない。……さらに辿れば、アルフレッドにその決断をさせたのは、間違いなく俺なのだ。……俺がヘマをやってこんなところにぶち込まれるなんてことにならなければ、アルフレッドはそもそも俺を探しに出ようとも思わなかったわけだから。
「ごめんね、アーサー」
二人で黙っていたが、思い出したようにアルフレッドが呟いた。
「でも君のせいじゃないんだぞ。俺が勝手にアーサーを探しに行くって言い出したから」
何に対してかを問う前に、答えは提示されていた。……やはり考えていたことは合っていたらしく、俺に対して『アーサーを探すために二人で出た』と教えたことに、謝罪しているのだ。……十四歳のくせに、一体どこまで考えてんだこいつは。
「……ああ。お前も悪くねえよアル」
乱暴に頭を撫でてやる。
「全ての元凶は……」
言いかけて、急いで口を瞑った。
全ての元凶は――
今までは躊躇いなく言えていたことだが、唐突に浮かんだ菊の笑顔に邪魔された。
――全ての元凶は、たくさんの人生を狂わせた、あの本田という男。
「どうしたの?」
憎悪が浮かび、漏らさぬよう必死に腹の底に押し留めた。久々に思い出した手に負えないほどの情念。
「なあ、アル」
「なんだい? まだ菊の話かい?」
「そうだよ、ちったぁ付き合え」
「オウ……理不尽なんだぞ」
不貞腐れたような表情のアルフレッドに、俺は大人気なく意見を求めた。
「お前さ……もしな、もしだぞ? もし、菊の親父さんが、昔はたくさんの人の人生を狂わせた人だったと知ったら、今と同じように菊を尊敬できるか?」
つい先程までは大した問題ではないと思えていたのに、あの頃のような憤りが蘇っていた。……もちろん今更菊に対してというものではないが、アルフレッドにそう問いかけたのは、少し前の俺自身への問いかけに近かった。
だがアルフレッドは少し前の俺とは違った。
「なんだい? アーサーは変なことを言うね。それは菊のパパの話であって菊の話じゃないだろう? そんなこともアーサーにはわからないのかい?」
今のアルフレッドと同じ年の頃の俺ならば、真っ先に菊の存在すら否定していただろうに、アルフレッドは当たり前のようにそこを切り離していた。少しばかりの焦燥を覚え、俺はアルフレッドに追撃を放った。
「じゃあもし、その親父さんが……例えば、俺の大事ないとこの思い出を奪った人だったとしても……?」
「……あ、アーサー……?」
何の話をしてるんだい? その目が訴える。
初めて見るほどの怪訝そうな表情は、俺に正気を取り戻させた。
「あ、いや、悪い、今のは忘れてくれ」
「アーサー?」
自分が二年前より以前の記憶がないのを、アルフレッドはもちろん自覚している。つまり、俺の言わんとしたことも察したはずだ。だがそれを踏まえた上で、アルフレッドは俺の様子を伺った。突然沸いて突然冷めた激情に、俺はまんまと流されてしまい、そしてアルフレッドは幼いながらにそれを察していた。
必要のなかった負担をアルフレッドに与えてしまったことに気づいた俺は、自己嫌悪で頭を抱える。少し間があり、俺の頭にアルフレッドの手のひらが優しく降りてきた。
「アーティー、君は俺より子どもだね」
「……っるせえ」
「……考えてもみなよ。俺は例えばパパが誰かを傷つけたとして、それを俺が責められるなんてまっぴらごめんだぞ。それはパパが勝手にやったことだからね」
いつもと変わらない調子だったので、俺は表情を確かめるべく、アルフレッドに視線をやった。いっちょ前にアルフレッドは大人びた笑顔を浮かべやがった。……言っていることもやっていることも、アルフレッドの言うとおり、俺のほうがよほど子どもだ。先ほどのような焦燥感ではなく、今回は単純にしてやられたという敗北感を味わった。
「そうか……そうだよなあ……」
だが一層のこと、この完敗ぶりは清々しかった。
その晩、夕飯もシャワーも、就寝の準備も全て終わらせた後のことだ。
俺はイヴァンと共用している部屋のベッドの上で、ただぼんやりと今日アルフレッドに言われたことを考えていた。イヴァンは机に向かって、何かを楽しそうに書いている。
隣の部屋から、ギルベルトの笑い声が聞こえてきた。物思いに耽っていた俺でも気づいたので、かなりやかましい感じではあったが、それ以上に、ギルベルトが笑っているということは、その場に菊も居て笑っているのだろうと想像した。一体何を話題にあんなに盛り上がっているのだろう。今はどんな顔で笑っているのだろうか。
「楽しそうだなぁ、いいなぁ」
そうごちったのはイヴァンだった。
俺は特に何もせずにクッションを抱いていたので、そのままイヴァンの方へ視線を上げた。
「ねえアーサーくん」
ちょうど呼びかけて来たイヴァンに、俺もそのまま「なんだ」と短く返事をした。
その大きな身体を俺の方へ傾け、
「君、そろそろ自分の部屋に戻りなよ」
イヴァンは諭すように提案した。
元々イヴァンはギルベルトと同室になりたかったような口ぶりだったので、ギルベルトの笑い声でその気持ちが昂ぶったのだろう。だが俺の思い浮かべたことといえば、『どちらかと言うと不得手な部類ですから』と煩わしげに告げる菊の顔だった。
「……嫌だ」
菊は俺のことを嫌っている。菊は俺が同じ部屋になることを望んじゃいない。……これ以上距離を開けられるのは避けたいので、俺はイヴァンの申し出を受け入れることはできない。……こんなにも嫌われている自覚があるのも、何やら悲しいものだ。
無意識に視線をイヴァンの足元に落としたら、大きなため息が吐かれ、イヴァンが椅子から立ち上がった。
「そんな顔するくらい菊くんが好きなら、ごめんねすればいいじゃない」
今まで使っていた本を本棚に戻すため、部屋の中をうろつきだしたイヴァンが言う。
だが俺の返せた反応とは、「……は?」という一声だった。……一体この図体ばかりでかい男は、何を言ったのだろうか。理解できないことを隠しもせず、俺はイヴァンからの答弁を待った。
イヴァンのしっかりとした眉根が窮屈そうに寄る。
「……なに? 菊くんが好きなんでしょ? 君わかりやすいから、ギルくんだって気づいてるよ?」
苛立つままに責めたような言葉。……考えたこともなかった。そう、考えたこともなかったのだから、そんなはずはないのだ。俺は慌てて反論した。
「……え、は、なに!? 俺、菊のこと好きって話になってんの?!」
「違うの? それとも自分だけ気づいてなかったパターン?」
冷静に返される。声は依然として少し苛立ったままだ。
……おい、待て。待ってくれ。
俺は多分に狼狽える。……確かにここしばらく、俺の思考の中心に誰がいたかと問われれば、それは菊である。だが、それが好きなどと……いや、待て、それを否定することも、時期尚早ではないのか。
「ああ、もう、ぼく鈍感な子は嫌い。めんどくさい。自分の面倒くらい自分で見てよね」
最後までイヴァンの突きつけた現実に反応ができないまま、イヴァンは部屋のドアに手をかけた。それだけ言い残してどこへ行くのだろうと目で追っていた俺に、「ぼくらが加勢するのは、これが最後だからね」と告げて、手招きしながら廊下へ出た。何が始まるのかと、俺は急いでその指示に従う。
絨毯が敷き詰められた廊下に出ると、イヴァンが笑い声を響かせていた菊とギルベルトの部屋――本来は菊と俺の部屋――のドアを力強くノックしていた。
「んだ。おう、イヴァンか」
ドアを開けてギルベルトが柄悪く対応したが、イヴァンはどことなく上機嫌な様子で「ギルくん、菊くん、ちょっといいかな」と二人も廊下に誘いだした。
狭い廊下にほぼ成人した男性が四人、ぞろぞろと並び、イヴァンはギルベルトの腕を引っ張った。俺と菊が隣合わせに立つことになったので、お互い微妙に距離を測ってしまい、気まずくなる。そうして再び全ての依頼主であるイヴァンを見やれば、何かをボソボソとギルベルトに耳打ちしていた。
それが終わるとギルベルトは悪巧みをするように笑い、小さく頷いて見せていた。俺と菊は尚もそれを見守り続けた。……が、次の瞬間。
何かを言おうと口を開いたギルベルトの顎を奪い、イヴァンはギルベルトの唇に吸い付いたのだ。
驚きに目ん玉を落としそうになったが、二秒ほどで二人は離れた。どうやらそれはギルベルトにも不意打ちだったらしく、口を放すと同時に「ぶへらっ」と色気の欠片もない吐息を吹き出し、そのままゲホゲホと咳き込んだ。咳き込みのせいか羞恥のせいか、顔を真っ赤にさせ、必死に落ち着こうとしている様子のギルベルトを、イヴァンはまるであてつけのように抱え込み、自らの肩にその顔を埋めてやった。それから俺に向けて、この上ないほど幸せそうに笑いかけた。
「ごめんね、ぼくたちこういう関係になっちゃったので、お部屋返してね、アーサーくん」
語尾にハートマークが付きそうなほどに浮かれた声色だった。驚きのあまり息をすることすら忘れていた。菊の反応を盗み見すると、やはり菊も二人のことは知らなかったようだ。突然のカミングアウトに二人して困惑した。
「えと、その、」
「じゃ、二人仲良くね!」
何故かそう念押しして、イヴァンはギルベルトを強引にその部屋に引っ張りこんだ。
イヴァンらが扉を閉めたその部屋には、寝具から勉強道具まで、未だに俺の私物で溢れているはずだ。だが、とてもじゃないが、今はそんなことを申告できるような雰囲気ではなかった。
俺と菊は見合わせた。突然のことに菊は青ざめていた。よほど衝撃的だったのだろう。……いや、そんなの俺も同じだ。あいつらは仲がいいなぁと常に思ってはいたが、まさかここまでとは。
放心していた俺たち二人のもとに、その部屋のドアの向こうから「話が違うじゃねえか!」とギルベルトの怒号が聞こえた。イヴァンから不意打ちを食らったあとの、死に場所を探すような表情のギルベルトを思い出してしまい、少しおかしくなる。菊もそう思ったらしく、俺が耐え切れずにプッと吹き出すと、口元を隠すように部屋に入っていった。
俺も観念して本来の俺の部屋に入る。
音を立てないようにドアを閉めて、久しぶりに自分の部屋を見渡した。まだ俺の私物がないからか全く自分の部屋という実感はなかったが、服をハンガーにかけている菊の後ろ姿を目に入れた途端、何か恐ろしいまでの衝動が湧き上がったのを感じた。
……どうすっかなあ、イヴァンの言う通りかもしんねえ。
本人の身長よりも高いハンガーラックにハンガーをかけようと、菊が腕を上げた。その背中のラインに釘付けになる。わかっていたが、目が離せなかった。頭がボーッとする。
「……何やってるんですか。もう電気消しますからね」
我に返るといつの間にか菊はこちらに振り返っており、機能停止していた俺に向かってめんどくさそうに告げた。そのまま俺の返事を待つでもなく、自分のベッドへ潜り込む。
「あ、おう、悪りぃ」
「ついでに電気、消してください」
俺は慌ててギルベルトのベッドへ潜り込もうと一歩踏み出したが、菊の指示に気づいて部屋の主電灯を切った。スタンドライトがまだ光っていたので、それを頼りに布団に潜る。
それ以降は一言も交わさないまま、完全に消灯された。このまま眠れる気が全くしない俺は、案の定菊と同じ空間にいることにそわそわして、いつ眠りにつけたかも覚えていないほどだった。
「ん……」
次の朝、俺はいつものように小さく身動いだ。
だがいつもより開きの悪い瞼に困惑し、それでも眩しく朝日が照らす室内をぼんやり眺めた。……目の前に見覚えのない人影。……俺の同室であるイヴァンにしては小柄なその背中は、着替えるために上半身が剥かれていた。
――!!
衝撃と共に俺は現状を思い出した。そうだった、昨晩ギルベルトと部屋を替えたのだった。つまり、目の前で着替えをしていたのは、あの菊だった。何たる不覚。不意打ちに素直に興奮してしまう。しかしこれでも紳士を目指している俺は、何か見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて布団をかぶった。
「ん?」
その小さな動きで俺が覚醒していることに気づいたのか、菊の声が漏れる。着替え見ちまった悪りぃ、と自己申告をするのか、それともこのまま狸寝入りを続けるのかと判断を迷った。
その間にも菊の足音が俺の方に向かう。
「もう。ギルベルトくん?」
あ、菊も俺だってことを忘れてる。
「そろそろ起きないと朝食に、」
俺の握りこんでいた布団が軽く剥がされ、そこに少し困ったように笑う菊の顔が覗いた。
「遅れます……よ」
菊の顔は消えた。
「……かぶせ直すこたぁねえだろ……」
「すみません、あなただということを忘れてました」
ギルベルトだと思い込んで布団を剥がしに来た菊は、俺と認識するやいなや、改めて布団をかぶせ直したのだ。だから文句を言いながら今度は自分で布団を剥ぎ、「奇遇だな、俺もだよ」とベッドに起き上がった。……一瞬視界がぐらついた気がする。
「私、先に朝食行ってますね」
そそくさと菊は部屋のドアに向かう。俺の返答など全く聞く気のない菊に、慌てて会話を成立させるように返事をした。
「おう、気にするな。後から追う」
やはり俺の返答などどうでもよかったらしく、菊は早々に部屋を後にし、この空間は静まり返った。朝日に透かされた埃が舞っているのが見える。
俺は寝起きの朧気な思考で、ギルベルトこの野郎め、と悪態を吐いていた。
思い出したのは布団を剥がれた際に見せていた、困ったような、でも全部許しているような、菊のなんとも愛おしい笑顔だった。
――ちくしょう、いつもあんな起こされ方してたのかよあの野郎。ずるい。くそ。
これも全て自業自得なのもわかっているが、だからこそ色んなことが悔やまれて落胆に繋がった。
しばらく俺はベッドの上でそのままボーッとやり過ごし、改めて呼びに来たギルベルトとダイニングへ向かった。
今朝もエリザベータが準備してくれた、質素な朝食と向かい合うが、何やら食欲をこれっぽっちも感じない。
「アーサーくん、お目覚めはいかが? 本来の自分の部屋もいいもんでしょ」
何か他所でおしゃべりをしていたイヴァンが、唐突に同意を求めた。俺は斜め前に座る菊を見やり、「あ、あぁ……」と曖昧に返事をした。俺には一瞥すらもくれない菊に、何やら拍子抜けをする。
「俺様は寝起き最悪だったけどな」
話題を奪い取るようにギルベルトが口を挟んだ。
「起きたらいきなり目の前にイヴァンがいるんだもんよ。ホラーだホラー」
「ちょっと待ってそれひどくない? ラブロマンスの間違いでしょう?」
「は? お前何言ってんだ。ホラーかスプラッタ!」
わいわいと何か騒いでいる。……そうか、昨日こいつらにカミングアウトされたんだっけか……。気持ちがなおさらげんなりしてしまう。心なしか胃の中から何かがこみ上げるような感覚が……
「……あれ? まだ寝ぼけてる?」
耳には届いているはずなのに、上手く反応が返せなかった。
「アーサー! おい? お前大丈夫か?」
今度はギルベルトの声がする。やけに心配そうなその声色が気になった。
「え、あ、わり……なんか頭がボーッとして……」
「……え、アーサーくん? もしかして風邪引いた?」
きっとキッチンから会話を聞いていたのだろう。エリザベータが俺に駆け寄り、何の遠慮もなしに額を触った。そうして呟いたのが、「……風邪ね」の一言だった。
なんだ俺はアホか。自分でも熱があったことに気づかなかった。
エリザベータの勧めで今日は授業など一切を休むことになった俺は、ふらふらと自室に連れ込まれ、そしてベッドの中に放り込まれた。同室だからということで、菊が俺に肩を貸してくれたのはわかっていたが、お互い終始無言だったし、俺はそれどころではなかったので、よくわからないままに全てが終わっていた。次第に意識と同時に視界もぼやけだして、いつの間にか一眠りしていた。
目を覚ました俺は、改めて現状がどうなっているかを理解する。
……くそう、なんだよ。菊と同室になった初日から、何意味わかんねえことしてんだ俺は。格好悪い。
だが意識は未だにぼんやりしたままで、俺はやんわりと部屋の中を眺めた。視線の先には、菊の私物が置かれている。ここでは一番小柄なサイズの、コートやら洋服、例の割烹着とやらもハンガーラックにかかっている。昨晩見惚れてしまった後ろ姿を思い出しては、いやいやとその残像を消す。
気を新たにまた部屋を見渡すと、机にはペン立てなんかが置かれ、伏せられた写真立ても目につく。……俺は本当に菊と同室になっちまったんだな。本来ならばずっと菊と同室であったはずなんだが、今更実感して照れたような心地になる。
のそりと起き上がった。ふらふらと覚束ない足取りながらも、菊の持ち物のスペースに歩み寄る。
深く考えずに、その伏せられた写真立てを手に取った。
――三人が並ぶ家族写真。未だに童顔である菊だが、さらに幼い顔をしている。そして包むように笑っている中年の男女。
三人家族だったんだな、と冷静に考えようとした俺の脳みそを差し置き、俺の心臓はドクンと波打った。……その中年の男の顔を見て、憎しみを思い出したからじゃない。むしろ「こんなやつだったか?」と思ってしまったことに、衝撃を受けたのだ。俺はあの憎悪に心を燃やした相手を、これっぽっちも覚えちゃいなかった。あまつさえ、思い出せば怒り狂っていたというのに、今はその人物だとわかっていても、何とも思わないのだ。
「あ、あいつも一人っ子か」
わざと意識をそむけるように、全く違う言葉を吐いた。そっと写真立てを伏せ直す。
――コンコン
唐突にドアがノックされ、俺の肩は大きくビクついた。
もしこれが菊で、しかも何の前触れもなく立ち入られていたらと思うと、今度はそれに責め立てられ、打つ脈が早くなる。
「アーサーさん、お加減いかがですか」
しかしノックに続いた声は、間違いなく菊のものだった。
俺は慌てて布団に潜り込む。
「あ、ああ、今はかなり身体も軽くて調子もいい」
白々しく答え、菊が自室にもノックをして入るほど控えめなやつでよかったと、心底安堵した。
扉の向こうの声は続いた。
「それは怖いですね、通常微熱よりも高熱のほうが身体が軽く感じるものです。入りますよ」
「勝手にすればいいだろ、お前の部屋でもあるんだから」
強がってそう言ったことも知らずに、菊は「はい失礼します」とドアを開けた。手には深いスープ皿を持っており、近くまでそれを持ってきた。皿の位置を低くして、中身を見せてくれたが、ほくほくと湯気が上がっているそれには、ドロッとしたものが入っていた。
「エリザさんからのお届け物です」
「……なんだこれ」
「病人食ですよ。甘んじて受け入れてください」
「お、おう」
菊はそれを俺の机の上に置いた。
「こちらに置いておきますね」
「あ、ああ……」
「では私はこれで」
何を惜しむでもなく、菊は部屋から出て行った。いそいそと閉めたドアの音がやけに響き、唐突に虚しくなる。
……もし俺がギルベルトだったら、『ご自分で食べられますか?』くらいは気遣ってもらえただろうか。あまつさえ『食べさせてあげましょうか?』など。……一人で妄想して悲しくなった。……これはさすがに凹むぜ菊。
なんとなくまた食べる気になれず、俺はベッドの上でもだもだと傷心を抱えた。
ガチャリ、と響いた音が俺の耳を刺し、俺は目を覚ました。
傷心のままに俺は、また寝落ちていたらしい。目が合った菊が「あら、起きてらっしゃったんですか。お返事がなかったので、てっきり寝てらっしゃるのかと」と言いながら、今度は湯気が立ち上るトレイを手に持っていた。
「アーサーさんお夕飯です……って、あなた、お昼ごはんに手を付けてないじゃないですか」
呆れたように菊は責めた。机の上の、冷えきったスープ皿を見下ろしている。
そうか、もう夕飯の時間になってしまっていたのか。全く気づかなかった。エリザに悪いことをしたなと思いつつも、
「あ、ああ、悪い。やっぱり気分が悪くてな、食べられなかった。エリザにも謝っててくれ、せっかく作ってくれたのにって」
菊が新たに運び込んだ夕食に目眩がしそうだった。既に食べられる気がしない。
何やら無言で菊はトレイを俺の机に置いた。冷えきった方のスープ皿を菊自身の机に移動させ、トレイを置き直すと、今度は俺のベッドの横に椅子を動かし、そこに腰を下ろす。
「おい、菊?」
「……今回だけ特別ですからね」
「ん?」
「起き上がることはできますか?」
お皿を一つ、菊の大きくない手のひらの中に収めて、スプーンを構えた。……どうやら食べるのを手伝ってくれるらしい。俺はそんな対応をしてもらえるとは思わず、慌てて「あ、ああ、それならできる」と、その場に起き上がった。我ながら調子のいいやつ、と思ったが、そうも言っていられない。
「昼夜と続けて作ったご飯が空にならなくては、エリザさんが可哀想です」
内心、そっちかよと思いながらも、菊のその優しい心に感銘を受ける。
フーフーとスプーンに乗った食事をその息で吹かし、「なので、本当に特別ですからね?」とまた念を押した。
「ああ、聞いた」
俺が返答すると、そのスプーンが俺の口元に寄る。素直に口に含んだ瞬間、その飯の味よりも、菊の口元に意識が行ってしまった。熱にのぼせた脳みそで、今口に入った食料は、菊の肺を経由した息が吹きかかっていたのかと、よくわからない実感をした。色んな意味で嚙みしめる。
それからしばらくお互い言葉は交わさなかったが、菊は俺の口の動きをよく見て、急かすわけでもなく、じっくりと俺の食事に時間を割いてくれた。
落ち着く。ひどく、落ち着く。そのまま溺れてしまいそうなほど。
――『まるでパパとママが一人にまとまったみたいだ!』
唐突に俺の記憶の中のアルフレッドが笑った。予期せず視界が波打つ。
……ママもパパも、もうそんな存在がこの身から離れてどれくらい経つだろう。最後に誰かから感じた父性や母性とは、一体いつの、誰からだろう。唐突に込み上げた哀愁や物懐かしさが、俺の目の奥を燃えたぎらせた。切ない。懐かしい。せつない。視界は見る見る歪み、どうしようもなく涙を溢れさせてしまった。
お皿から顔を上げた菊がスプーンを構えたあと、俺が泣いていることに気づいて目を丸めた。
「あ、アーサーさん? どうされました? お加減悪く、」
「違え」
泣き顔なんざ隠しようもないので、俺は潔く教える。
「違えよ。なんかちょっと、色々思い出しちまって」
鼻がズズッと鳴ってしまう。紳士的とは遠く離れていたが、菊がそれを気にしている様子もなかった。
「……そう……ですか。熱が出ると涙腺緩みますよね。はい、口を開けてください」
無関心なんじゃない。きっと優しさから、この涙について追求しないんだ。そんな気がした。
俺の泣き顔を認めた瞬間から、何故か菊の周りが暖かいもので包まれたように錯覚した。それは俺の口にスプーンを運ぶその動作にも共通して、何故か菊から漏れ出す温もりを感じているような気がする。……これが、いつもアルフレッドやマシューが感じている、こいつの優しさなんだろうか。暖かさなんだろうか。……菊をこんなにも愛おしいく感じてしまう。
「アルがな、言ってたんだよ」
「……はい」
鼻を啜る間を縫って言うと、菊も丁寧に相槌を返してくれる。
「菊はパパみたいであり、ママみたいだって」
「……なんですか、恥ずかしい」
照れるように苦笑した。そんな表情も、愛おしかった。
「いや、なんか……すごくわかった気がする」
「……アーサーさんにわかられても、これっぽっちも嬉しくありませんがね……」
少し迷惑そうにそう言われる。まあ、確かに同い年の同性に父性母性を感じると言われても、そりゃあ嬉しくないだろう。だが仕方ねえだろ、俺は感じてしまったんだから。
「うるせえよ」
悪態で返したが、本当に伝えたかったことは、ここからだった。
「……菊、マシューを助けてくれてありがとうな」
お前の親父さんはたくさんの人の人生を狂わせて壊したが、お前はその優しさで、たくさんの人を救っているって、不思議なことだ。
大真面目に言った俺に対して、菊は呆れたように吐息を混ぜ込み、
「……なんですか、熱に浮かされてるんですか。お体の状態を早く治してください。そうしたらそのお話はちゃんと聞いて差し上げます」
と拒否の姿勢を見せた。
「上等じゃねえか」
俺の感謝したい気持ちが、熱によるものとして信用したくないんなら、さっさと治してやろうじゃねえか。治して、恥ずかしくて赤面してしまうほど、真正面からありがとうと伝えてやる。俺は深くそう誓って、菊に介抱してもらいながら夕食にがっついた。
夕食が終わると、菊はもう寝てくださいねとトレイを持ち、主電灯を切って部屋から出て行った。泣いたことも手伝い、確かに瞼は重たかったのだが、それでも食事の直前まで寝ていた俺はすぐに寝つくことはできず、しばらく菊に想いを馳せた。
ここ最近ずっと菊中心の生活をしていたし、イヴァンに好きなんじゃねぇかと指摘されたときも、違和感よりも馴染む感覚の方が強かった。つまり俺は菊に好意を寄せていたのだと、今さら自覚したわけだ。だが、それにしも。……不本意ながら泣いてしまったとき、これ以上ないほどに菊が愛おしく、すがって泣きたい衝動を抑えるのに必死だった。こんなにも強く求めてしまう衝動を、今まで知らずに生きていたことに素直に驚かされている。
部屋を出る直前の、主電灯を消しながら「お休みなさい」と呟いた菊が思い出される。……好きだ。菊が、好きだ。好きで好きでたまらない……。苦しいなどと女々しいことは言いたくないが、実際に菊を想うとどうしようもなく泣きたくなった。
それからしばらく菊への思いに翻弄なれながら、俺はうつらうつらと深い眠りに落ちていった。
熱は次の日のお昼過ぎには下がっていた。なんてことはない、やはりただの風邪だった。だが、大事をとってその日一日は部屋で安静にしていた。
回復した健全な頭で考えれば考えるほど、昨日菊に告げたマシューについての感謝の言葉は、改めて伝えるのは難しく思われた。今さらな気もしたし、改めて伝えるには一度めよりもタイミングを掴むのが大変そうだなと思った。……結局は口に出すことができたのは、菊に言われたように、熱に浮かされた結果だという気もしている。
ベッドでだらだらしながら菊の机の方を見やる。昨日の写真立てを意識的に思い浮かべた。……今まであれやこれやと勝手に菊のことを詮索してきた俺だが、まだ菊がアルフレッドたちと出会う前のことは知らない。菊の親父さんのことでうちに謝罪に来て、次にアルフレッドたちと出会ったあの夜の林に至るまでの経緯を、俺は知らないということだ。……何故その晩、菊は例の林にいたんだろう。
その答えを本人に面と向かって問う勇気も無神経さも持ち合わせておらず、いっそのこと菊に対するこの興味関心を捨て去ることができればいいのにと投げやりたくなった。
さらに次の日、俺はもう全快したことを確信して、朝食からの全過程にしっかり参加することにした。……しかし今度は、菊が顔色を悪くしてしまった。あからさまにきつそうだったが、本人はそんなに大したことではないし、何より授業を取り戻す方が大変だからと、授業には参加する姿勢を見せた。朝食はすっ飛ばしたくせに、授業には出るというのだ。俺は止めたが、そんなことには聞く耳を持たなかった。
始めはそれでもなんとか授業を聞いていた菊である。だが案の定、時間が経つにつれて菊の体は机に沈んでいき、誰が見てもこれは続行不能だろうとの判断が下されるほどになっていた。一昨日の俺同様、同室ということで、肩を貸してやることになった。……尤も、自室までの道中、菊はふらふらと心もとない足取りだったが、俺が肩を貸そうとするとそれは酷く嫌がった。
「全く、みなさん大げさなんですよ。ほら、こんなに足取りしっかり歩けているんですから」
俺に対して文句を垂れる始末である。
「お前はそれをしっかりと呼ぶのか。すげえな。アル中のイヴァンの方がまだマシだったけどな」
「ひどい」
ようやく目当ての部屋に到着する。俺の肩は借りないくせに、全体重を壁に預けていると言っても過言ではない菊を見守りながら、俺はドアを開いた。
ほら入れよ、と口ではなく手を使って誘導したが、ドアからベッドまでのあと数歩の距離も、菊はきつそうに歩いていた。
「あー、アーサーさん……恨みますよ……絶対あなたのが移ったんですから……」
伝っていた壁がなくなったので、俺がさり気なく腕を持ってやると、それは素直に掴み返してきた。やはりとても辛いらしい。
「え、ああ、悪いな? 今日は休んでろよ」
「悔しいですがそうせざるを得ません……ああ、今日の昼食楽しみにしていたんですが……」
「はは、お前、いつも思ってたけどほんと食い気だな」
軽く笑ってやると、ようやく到着したベッドに手を突いて、「うるさいですよ」と悪態を吐かれた。そのまま体勢を落とし、そこに転がり込んでいく。落ち着いたことを実感してから、ようやく掴んでいた俺の腕を放した。ベッドカバーを菊の下から抜き出し、無意識に楽な体勢を求めていたのか、身体を丸めていた菊の上に布団をかけて――
――ふと手元が止まる。視線も止まる。……釘付けになる。
力なく投げ出された菊の腕。布団をかけるために、事故的に視線が乗っただけの菊の手首に、大きな傷が浮いて見えた。いわゆる浅い傷が無数にあるリストカットと呼ばれるやつではなく、太くしっかりとした傷が一本、まるでその存在を主張するように、力強く跡を刻んでいた。
唐突に二年前の、血しぶき噴き出る光景が目の前を掠める。動揺して声が出ない。まして、動くことすら叶わなくなってしまっていた。
「アーサーさん……? 授業にお戻りください。私はもう大丈夫ですから」
「……え、ああ、」
菊の落ち着いた声が俺の意識に入り込んだ。辛そうに浅い息をくり返しながらも呟かれたそれに、俺は非常に感謝した。まるで意識がどこかへ飛んでいき、行方不明になったような感覚だったからだ。
布団をかけるために低くしたままの体勢で、俺は引き続き動き出した。だが一番隠してやりたかったその手首まで布団を引っ張るのは不自然だったので、菊の手首は隠せないままだ。
明確に取り戻した意識の中で思い耽る。知りたくもなかった。菊の手首にそう言った傷があることを。それは、己の精神を安定させる目的でやってしまうような、そういうものではないことは明らかだった。……死の決意。どう見てもその傷は、それが伴わない限りは残せないものだ。
――暗い林の中で、菊は何をしていたのだろう。
いつかこの胸を騒がせた漠然とした不安が、また顔を出して揺さぶってくる。
そのとき、菊の腕がすっと動き、掛け布団の下に隠れた。その行動はあまりにも不自然だったため、俺は菊の表情を確認しようと視線を上げた。そこで待っていたのは、気まずそうに口元を歪める菊だった。……俺がその傷を見てしまったことが、もはや知れてしまったらしい。熱によるものか目が赤みがかり、いつもより水っぽくなっていた。
二人して黙り込む。ドッドッドッドッと緊張感が心臓を叩き散らし、その上でこの先どうするんだよ、と責任感が迫ってくる。体勢を低くしたまま動けなくなっていた。菊にも俺の感情が吐息と共にかかってしまいそうなほど、近く思えた。そしてかくいう菊の抱く動揺や緊張感も、俺に感染しそうなほどだった。小刻みに瞳を踊らせて、そこに俺を釘付けにし続ける。瞬きもしないその目玉が、どんどんと水気を増していく。
「……菊」
「な、なんですか」
「……お前さ、」
頭が真っ白だったからこそ、唯一浮かんでいた疑問を紡いだ。
――「お前、マシューを助けたとき、その林で何してたんだ?」
途端に堰を切ったように、菊の目から涙が吹き出した。俺が一昨日、菊の前で流したような、絞りだすようなものではなく。まるで次から次へと湧く生命力のような、ヒリヒリとした痛みを伴う、そんな涙だった。
俺はむしろ抱いていた不安を否定して欲しくて問うたようなものだったので、この菊の反応にはどうしていいか見当もつかずに狼狽えてしまった。
「あ、わ、悪りぃ、ただの好奇心だ! べ、別にお前のことなんかこれっぽっちも興味ないしよ! ……って、あれ? ん?」
興味ないから言わなくてもいい、そのまましまっておいてくれていい。そう伝えようと思ったのに、興味ないと言いつつただの好奇心だとか、自分の動揺具合がその言葉から推し量ることができて悲しくなる。もうひたすらに落ち着け、と自分に言い聞かせる。一昨日泣いている俺にあんなに冷静に対応した菊のことを思い出して、なんて自分は不甲斐ないのだろうとまで思ってしまった。
動揺のせいで言葉を疎かにしていると、菊はもぞもぞと掛け布団を引き上げて顔を隠した。
ハラハラと狼狽えながらも、菊が止められないその涙の理由に思いが巡る。どうしてこんなに必死に泣いているのだろう。『その林で何をしてた』という問いかけで、一体どんなことを思い出したのだろう。
「す、すみませんっ、アーサーさん、どうかお気に、なさらず……熱があるときはッ、ダメですね……涙腺が緩くなりっ……恥ずかしい、ですし、どっか行ってください」
声が飛んだり跳ねたりしながらも、菊は必死にそう訴えた。
そのあとも布団の下から「く、う」と嗚咽が漏れている。
……どっか行けなど、そんなことができるはずもなかった。……菊を泣かせてしまった俺が、菊の何かをえぐってしまった俺が、どうにか埋めなければならないんじゃないか。……菊に大丈夫だよと、どうにかして。
俺は菊のベッドに腰を降ろして、菊が握り込んでいた掛け布団に手をかけた。
「……菊、」
その泣き顔を必死に隠そうとしている弱々しい手に構わず、布団を剥いで、嗚咽を漏らすその唇を迷いもなく塞いだ。
「んんっ!? ぇっ、」
驚いた菊はとっさに俺の胸板を押し返し、声を上げて抗議した。
「ちょ、あ、アーサーさんっ!? びっくりして涙が止まっ、」
また菊の唇を塞いだ。
押し返してきた腕を掴み上げ、力任せに菊を押さえつけて、その上で菊の柔らかい唇をこの乱暴な仕草で塞いだのだ。
柔らかい唇。熱く濡れる声。心地よかった。どうすればいい。自問するが遅く、制御が効かなくなっていた。抵抗してくる菊の腕から、自分が何をしているのかうっすらとだが自覚はできる。されど、自分を止められない。一度重ねた唇から走った衝動が俺の脳髄を支配して、無理矢理に菊の中に舌を押入れた。
「ぇ、っはぁ、放しっ、」
抵抗しようと足をジタバタさせていることにも気づかない。熱で弱っていることをいいことに、
「アー……さぁさ、んんっ む、ぁッ……!」
俺は勝手にその行為を続けた。こんなこと誰としたこともないのに、本能に従うように無意識だった。
体温のためか、菊の口の中は猛烈に熱く、一緒に溶けていけそうだった。思っていたよりも厚みのある舌を測るように、その周りを自分の舌でまさぐる。上下左右のどこにも愛で残しがないよう、ひたすらに這い回らせた。
……って、んうっ!?!?!
菊の腕から抵抗する力が抜けたときだった。俺は唐突に我に戻り、自分の口を菊のから引き剥がした。自分からしといて「はぁっ」と吐息が漏れるほどには、性急な理性の復活だった。目の前にいる菊に対して、冷汗がじっとりと頭皮に滲み、背中にも伝う。……お、俺は一体……今……!?
「……あ、アーサー……さん……ッ」
名前を呼ばれたので焦点を合わせると、まだ俺に腕を押さえつけられている菊が、親の敵でも見るような目つきで見上げていた。どきりと胸が弾み、腹の底の欲望が滾る。ぎらぎらと涙を蓄えて揺れている瞳。力任せにかき乱された口周りは、どちらとも判断のつかない唾液でてかてかと照り輝いている。頬は発熱のせいもあるのだろう、真っ赤で、酸素不足による細かい呼吸の反復が、さらに俺の衝動を刺激してくる。
「……はぁ……はぁ」
呼吸をくり返したのち、ごくりと唾液を飲み込んだのがわかった。俺は気がつき、慌てて菊の腕を解放した。跡が残りそうなほどに強く抑えつけていたそれが、焦るようにその顔を覆って隠す。
隠せていなかったその目尻に水分が集まり、どんどん体積を膨らませていく。淡い光を反射させ、俺の視線をまた釘付けにした。やがてそれは流れを取り戻し、次から次へと菊の柔らかそうな肌を伝って、その艶やかな髪の毛と枕を濡らし始めた。
「あ、え、その……これはっ……」
「……くっ……うっ……!」
悔しさからか噛み締めた唇の隙間、言葉にならない唸り声が漏れる。顔すら見せないように張られた予防線が菊の嫌悪感を伝え、ぞくぞくと背中が凍る。
取り返したのつかないことをしてしまったことは、すぐにわかった。激しく動揺した。これは正気に戻るのは無理だと諦めてしまうほどに。無言のまま、俺は菊に何を伝えることもせずに、逃げるように廊下に直行した。
カーテンの閉められていた自室から廊下に出て、そうかまだ昼飯もまだの時間だったんだと気がついた。窓から差し込む太陽の光が眩しく、俺はその場に腰を落として頭を抱えた。
――やっっってしまっっっっったぁぁああああああ〜〜〜!!!! これ確実にアウトのやつだろ!? 舌入れたか俺!? 入れたよな!? しかも病人にな!!?
ぐるぐると頭の中を巡るつい先程の残像たちに、まるで四方から攻め込まれているように絶望する。
もう駄目だ。もう無理だ。取り返しがつかない。菊にはもう、受け入れてもらえない。……なんでそもそもキスをしてしまったのか。――後悔と共に思い返せば、菊が涙を流し始めたときにはもう、理性などなかったように思う。そう気づいて、自分に対して悪寒が走った。こんなにも理性が効かない自分に、恐怖すら抱く。
……それもそうだ。親父の会社が倒産してこの方、この身に起こる全てのことは元凶があの本田という男だと信じて疑わなかったし、だからこそ、少しでも気に食わないことがあれば、それを他人にぶつけてきたのだから。今更理性なんてものが働くはずもなかったのだ。
改めて失意の底に自らを沈める。なんと無駄で悲しい四年間だったのだろう。アルフレッドもマシューも……いや、それだけじゃない。俺と菊を並べたときに、菊の側に居たがるやつらの判断は、残念ながらこれ以上ないほどに正しいのだ。そして俺も、その『菊の側に居たがるやつら』の一人になってしまった。
自室のドアの前で屈み込み、しばらく俺は頭を抱えていた。すると唐突に背後のドアが開き、ドキッと肩を震わせた俺をよそに、また乱暴にドアは閉じられた。今、俺の背後のドアが隔てる部屋には、当たり前だが菊しかいない。……つまり、まさか俺がここで屈み込んでいるなどとは思ってもいなかった菊が、俺を発見して通行を諦めたと。そういうことだよな……?
俺はさらに自己嫌悪に陥る。
菊はもう『邪魔だからそこをどけ』と俺に言うだけのことでも、避けたいと思っているのだ。……いや、してしまったことを考えれば当たり前だ。誰が菊を責める。むしろ、順を追わなかった俺を、世界中が責めればいい。
いや、待てよ。
俺はふとひらめいた。
むしろここで何も交わさないままでいる方が、こじれるのではないか? 今、まだ背後に菊がいるこの状況の内に、言ってしまえばまだ鉄の熱い内に、ちゃんとした行動を取らねばならないのではないか。少なくとも、悪意はなかったことだけでも伝えるべきだ。
思い直した俺は、急いで立ち上がった。一度躊躇ったら何もできなくなると思い、考える前にドアノブを捻っていた。開けた目前の光景のその真ん中に、俺は菊の姿を捉える。何をしていたのか、こちらに背中を向けて立っていた菊。大きく肩を震わせて、ぎゅっと縮こまるように体が強張るのがわかった。
「菊、その、さっきは悪かった」
まだドアノブを握ったままで、部屋にすら入っていなかったが、そんなことは意識の範疇ではなかった。急いで伝え、それからようやく部屋に入ってドアを閉めた。
だが当然だ、菊は返事を寄越さなかった。……無視を極め込む。
「お、お前の気持ちもわかる。悪かった」
なんとか会話を成立させたくって、俺は菊に歩みを進める。
途端に菊は振り返り、強い視線で持って俺に怒鳴りつけた。
「近寄らないでください!」
一歩下がったが、そこには机があった。……二人部屋とは言え、そう広くはない部屋だ。まるで怯えた動物が逃げ場を求めるように、ちらちらと自身の足場を確認していた。
「菊、話を聞けって」
俺はまた菊に一歩だけ近づく。
「聞きたくありませんっ! あなたの話なんか!」
俺は足を止めなかった。
他に逃げ場が思いつかなかったのか、菊はなんとか距離を取ろうとベッドの上に登り、よろけながら急いで壁に縋り付いた。いくら不安定なベッドの上だからと言っても、その覚束ない足使いは俺に菊が発熱していることを思い出させる。
「おい、大丈夫か、ふらふらしてんじゃねえか」
とうとうベッドの脇に並ぶ。不安定な身体を支えてやろうと手を伸ばすと、「私に構わないでください!」と拒否するように叩かれた。
菊はさらに逃げるように壁を伝い、
「お願いですから……! もうどこかへ行って……!」
もつれる足取りで、必死にベッドの上を移動しようとする。
見ていて危なっかしくて、俺は急いでベッドに乗って菊の手首を捕まえた。その側からまたよろける。今の状態の菊を捕まえるのは至極簡単なことだったが、それでも抵抗を止めなかった。
往生際悪く暴れる菊をどうにか落ち着けたくて、また菊を押さえ込む。
「はっ、放してください……!」
今度はベッドにではなく壁にだったが、俺に正面を向かされた菊は、また先ほどのことを思い出したように、抵抗しながらも目尻に涙を浮かべた。
……なんと怯えた表情だろうか。それでいて決して恐怖に屈せず、俺を睨み続けている。その表情がたまらなく愛おしかった。愛おしくて愛おしくて、守ってやりたくて、愛でてやりたくて。
――あぁ。
思ったときには遅く、俺はまた性懲りもなく菊にキスをしていた。だが今回は、一つだけ、大丈夫だよと告げるためのキスに留めることができた。
反応を見るために、瞼を上げる。
菊はどんな表情を俺に見せるよりも先に、その場に身体を落とした。マットレスが揺れる。手首を持っていただけの俺は簡単にそれを手放し、追うようにそこに腰を下ろした。目線を合わせるころには、菊はその両手でまた顔を覆ってしまっていた。……結局、キスのあとの表情はわからないままだ。
「菊、さっきは驚かせて悪かった」
できるだけ柔らかく話しかけた。だが菊は覆った手のひらをどけることなく、
「……嫌です。怖いですアーサーさん……こわい……」
ボソボソと声を吐き出していく。
「悪かったって、菊が嫌ならもうしねえ」
「信じません。さっきから嫌と申しているのにやめてくれません」
「う、それは確かに……」
余りの説得力のなさを証明されてしまった。
それでも、俺は決して菊を傷つけたくてそうしたわけじゃない。愛おしくてたまらないだけなんだ。
「ごめん、これから先はもうしねえ」
「……否定します」
「菊、頼むから。こっちを見てくれ」
少し声色を強くした。それでも菊は依然と顔を覆ったままで、首を左右に振ってみせた。
「……わかった、じゃあそのままでいい」
観念したのは俺だ。菊と並びたいなら、変わらなければならないのは圧倒的に俺の方だとわかっている。だから引くことにした。
菊からの返事はなかったが、この至近距離で聞こえていないということもないので、俺は勝手に「ごめん、菊、」と、自分の言葉をぶちまけ始めた。
「お前に惚れちまってどうしようもねえみたいなんだ……最初はあんなにお前に酷いこと言ってたのに、調子がいいのはわかってる。でも、お前の本当の価値に気づいたんだよ……菊」
見えていないのはわかっているのに、必死にその顔を覗き込もうとする。あわよくば、その鉄壁を崩してくれないかと期待する。
しかし菊の回答は何とも現実的だった。
「……嬉しくありません」
口も手で覆っているのでくぐもっているのだが、構う様子もなく、菊は冷淡なまでの声色で続けた。
「あなたのように、他者に評価を押し付けるような人間を、私はクズだと認定しています」
中々に辛辣な言葉に怯む。
――他者に評価を押し付ける……。菊の言っていることはすぐに理解できた。『どうせジャパニーズ・ホラーみたいな目つきで』、『くっだらねぇ東洋人』、『感じ悪りぃ』……よく知りもしない菊に、勝手にそういうレッテルを貼った俺は、今度は性懲りもなく『本当の価値』などと抜かしているのだ。飛んだ上から目線に、己のことなのに鼻で笑ってしまえそうだ。……これは確かに、菊にクズと呼ばれても仕方がないと、俺は深く納得してしまった。
それでも……例えそうであったとしても、なんとか現状を修復したかった。だが、もう何をどう伝えればいいのかもわからくなってしまい、他に手立てもなく、ただ力なく「菊」とその名前を零した。
それから間が空いた。
顔を覆ったままの菊を前に、もう交わせる言葉もないのかと、じりじりと絶壁に追いつめられていくような毒気に怯えた。そんなときに菊が息を吸ったものだから、会話が続くのかと安堵した。……現実として菊が続けたのはそんな生易しい言葉ではなく、
「名前、馴れ馴れしく呼ばないでください」
と吐き捨てるような忠告だった。
「次に無理に私に触ったら、叫びます。大声を上げます。そうしたら、ただちにギルベルトくんやイヴァンさんが飛んできます」
ああ、そうか。もう本当に、修復できないのか。俺はもう一縷も希望を見出せないことを、ここでようやく理解した。……それを菊に責めることはできない。今の一連の出来事で、俺はどれだけ自分が愚かだったかを十分に理解したのだ。……最低だ。全て俺が悪い。
「あ、ああ……わかってる。もうしねえって。悪かった」
諦めたことを伝えるため、俺は菊のベッドからのそりと降りた。
顔を覆ったままの菊は、
「話が済んだら出て行ってください。熱が高くてどうにかなりそうです」
と嘆いた。もう既に部屋のドアの付近にいた俺が「……わかったよ。氷枕とかいるか?」と付け加えると、「そういうのやめてください。あなたからの優しさは嬉しくありません」と機械のように返ってきた。
改めて突きつけられた現実に屈服し、
「……わかった。しっかり休めよ」
と自室を後にした。
部屋を出たあとは、軽く記憶が飛ぶくらいには絶望した俺だった。考えなしに犯してしまった過ちも、指摘されるまで気づけなかった引け目も……これまで自覚していなかった菊への劣情も、全てが俺にのしかかった。
それから俺を待っていたのは、菊による『完全無視』の日々だった。どう考えても俺が原因を作ってしまったので、甘んじて受け入れた。どこかに怒りをぶつけることもできず、悶々と毎日を過ごす。
止むを得ず話しかけないといけないときに、他のやつらの前で「なぁ、き……あ、いや、本田」と呼び変えたことで、「上手く行かなかったのかよ」と笑われたりもした。……主にギルベルトから。本当にあいつは傷心中の俺の傷口に塩を塗るのが好きらしい。
なりふり構っていられないと思い、フランシスにも相談をしてみたが、「お兄さん、そういうの本領!」と意気込んでいたわりに、菊に対して即効性のありそうなアドバイスはほとんど出なかった。
とどのつまり、今の関係をどうにかしたいのであれば、菊に『クズではない』と思い返してもらうしかないのだと、フランシスはこう結論づけて諭した。
今までこの身に起こった全ての責任を転嫁し、自分では忍耐を怠っていた俺に対して、自分を変えるチャンスをくれているのだと思うようにした。……こっちは何かの本の受け売りだ。久しぶりに読み返したときに、余りにも現状にぴったりだったので、一節を書き記したメモをお守りのように持ち運んだ。
それから一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、そういえば最近アルフレッドから連絡がないなあと気がついた。これも状況に慣れて余裕を持てるようになったということだが、それは喜ぶべきか悲しむべきか迷うところである。
最近では早ければ翌週、間が空いても二週間以内には遊びに来ていたアルフレッドが、ここ一ヶ月ほど連絡を寄越していない。別にアルフレッドから現状についての打開策とか、菊の機嫌取りとか、そういうのを期待していたわけではない。ただ、そういえばしばらく顔を見せない弟たちは元気にしているのだろうかと頭を過ぎった。
俺は内門の玄関付近に設置された公衆電話で、アルに電話をすることにした。時間を見計らい、学校が放課したあと、そして夕飯の前ほどの時間にかけることにした。
電話を使う許可をもらい、俺は直ぐさま受話器を握り、ダイアルを押した。すっかり手に馴染んでいる数字の配列は、見なくても打ち込めた。しばらく呼び出し音が鳴る。……ガチャリ、とすっきりするほどの機械音が聞こえ、呼び出し音が雑音と入れ替わった。
『はい、ジョーンズ!』
第一声ですぐにアルフレッドのものと識別できたので、「アル、俺だ。アーサーだ」と通るように少し大きめに話した。
『おお! アーサー!? 君ってエスパーかい!?』
「はあ?」
『ちょうど君に電話しようと思ってたところなんだぞ!』
「おう? どうした? お前最近顔見せねえじゃねえか」
いつも以上に高い張りでアルフレッドははしゃいでいた。元気そうで何よりだと嬉しく思いながら、マシューはどうしているんだろうかと気になり、先に話題に出そうかとも思った。だが、それは必要なかったようだ。
『それがだねアーサー! 実は今さっきの検診でマシューの外出許可が下りたんだぞ!』
アルフレッドの続けた言葉を聞いて、俺は心から高揚した。
『ただし行き先は菊のいるところ限定だけどね!』
今度はその言葉にぶん殴られる。アルフレッドの無邪気な声色にも物言いにも、詫びを入れたいような心持ちになってしまう。
「あ、あのさ、アル。それって……」
『そうさ! 君たちのところに会いに行くぞ! 菊にも伝えておいてくれ! 早速今週の日曜日さ!』
基本的に人の話を聞いているようで聞いていないアルフレッドは、俺がうろたえている間にガチャ切りをしやがった。
……生命線が絶たれたかのように立ち尽くす。
どうしよう。アルフレッドやマシューに、どう現状を説明しよう。サーッと血の気が引くのがわかった。俺のやってしまったことで、菊と双子たちの絆に傷なんかつけちまった日にゃ、俺はどうすれば……。
打開策は何も浮かばないまま、刻一刻と時間だけが過ぎ去る。
アルフレッドもマシューも、さぞかし楽しみにしていることだろう。……待てよ。日曜日って何日後だ? 俺は急いで職員室を覗き込んだ。
「おや、アーサーくん。電話は終わりましたか」
カレンダーを一直線に見ていた俺に、ローデリヒが投げかけた。カチャッと小さな音を立てて、コーヒーのマグをソーサーに収める。
そもそも今日は何曜日だ。動揺のせいか、突然わからなくなる。
「ああ、終わった。今度の日曜日、また面会に双子が来たいって。いいか?」
未だその壁掛けのマス目に釘付けの俺に合わせるよう、ローデリヒもそれに歩み寄った。
「日曜日? 急ですねえ。……わかりました」
急、というローデリヒの言葉で思い出した。そうか、今日は金曜日だ。……なんてことだ。アルフレッドたちが来るまで、実質二晩と一日しかない。その間に、俺の存在自体を全否定している菊に、この事実を伝えねばならないと。
職員室から出て、俺は一人になれる場所をと考えた。思い至ったのは、談話室である。面会が許されているのは日曜日だけなので、普段は他に使う人はいない。一人になれる貴重な場所の一つなのだ。
そこに到着して、案の定、誰もいない談話室のソファに腰を下ろした。ドアの付いていないこのスペースなので、存在を隠すために電気は点灯せずにソファに腰を下ろした。頭をもたげる。どうしようどうしようなどと考えたところで、結局はきちんと菊と向き合って、せめてアルフレッドたちはと話を付けるしない。しかし問題はタイミングだ。俺を避けているのか菊は、ほとんど司書のいる図書館か、エリザベータのいるダイニングで手伝いをしている。……つまり、二人きりでゆっくり話せるのは、夜の寝る前、寝室のみになる。
最終的に俺は、その晩、お互いがベッドに入ってから話すことにした。こうなったからには、失敗したときよりは余程か自分を保てるようになったつもりではいる。けれども、もし久々に菊と会話できたとして、俺がまた変な気を起こさないよう、念を重ねることにしたのだ。お互いがそれぞれのベッドに入ってしまえば、距離があるので視覚に支配されることもないし、平静を保てる。
消灯してからしばらくはいつ切り出すか、切り出して大丈夫だろうかと、一人でそわそわした。深呼吸をして、マシューの顔を思い浮かべる。会えるのならば、俺だってすごく久々だ。いい雰囲気で会わせてやりたい。
「……なぁ、本田」
勇気を固めて、それをなんとか言葉として絞り出した。
「起きてっか?」
流れを止めぬように意識して続ける。
しかし菊からの反応は一切ない。身動ぎ一つ起こさないのが、頑なになっていることを思い出させる。
「って、返事しねぇんだったな。まぁ聞くだけ聞けよ」
虚しくなりながらも、俺は諦めずに言葉を紡いだ。
「マシューがな、ようやく外出許可出たって。早速だが明後日、お前に会いに来るんだとよ。……お前がそういう態度取るのは理解できるが、頼むから双子の前だけは友達のように振舞ってくれ。二人が不安がる」
そこまでで俺は言葉を止める。聞いているなら、それこそ身動ぎ一つでもしてくれればいいものを、その気配は一切ない。
「……本田?」
もしかして本当に寝ているのか? そう思って俺は布団を剥いで、身を乗り出して菊の方へ目を凝らす。それでも暗闇の中では、一切わけがわからず、特に意識せずに俺は菊のベッドの脇へ歩いて行った。
それにも何も反応がない。これは……本当に寝ているんだ。
一気に肩から力が抜けた。思わず安堵して、深くため息を吐いてしまった。その無防備な寝顔を眺める。安らかなその寝息に、こちらまで安心感を覚えてしまう。……触れたい。くそう。衝動を抑え込む。菊とまた、ちゃんと会話をして、笑い合いたい。できることなら全てをやり直したい。……それができないから、今こうやって奮闘しているわけだが。それも、いずれ菊が必ず振り向くという保証もないのだ。また何度目かもわからない後悔に痛めつけられる。
その場に座り込み、しばらく菊の寝顔を眺めさせてもらうことにした。普段は絶対に許してくれないこの距離は、菊への想いを掘り返して俺にぶん投げてくるようだった。……だが、その愛おしさは、とても心地よかった。
――ドガッ!
「んなっ!?」
次の朝、俺は頭に響く鈍痛で目を覚ました。
「どうしてあなたはそうなんですか!?」
何かを怒鳴られた気がして、待てよ、ここは一体どこだ、と、頭を押さえて右見左見してしまった。目の前には見慣れた柄と生地の布。……ベッドカバーだ。普段よりもものすごく下からの目線であることに気づき、俺は顔を上げた。そこでようやく視界に入ったのが、真っ青になって身を引く菊だった。……どうやら俺は、菊のベッド脇で寝落ちてしまっていたらしい。
手に枕を持っていた菊を見て、そうか、その枕で俺を殴りやがったんだなと思ったところ、もう一度それを大きく振りかぶった。……って、ちょっと待って!? それ普通の羽毛の枕じゃなくて、菊が持参したそばがらとかなんとか言うやつが入ってる枕だろ!?
――ドゴッ!
「ってぇって!」
はっきり覚醒する前にこの仕打ち。青ざめたその表情から菊の考えていたこともわかるが、重ねて振り上げられたので、
「おいやめろよ! ち、ちげえって! わ、悪かった!」
先ほどの痛みを擦っていた手で、そのままその枕を奪い取った。なんつー凶器だ……。
身を乗り出して抗議する。
「お前に伝えねぇといけねぇことがあったんだよ!」
菊はまたさらに身を引いて、ベッドから逃げるように降り、
「だからって、近寄らないでくださいと言っている私のベッド脇で寝ているなんて恐怖です!」
昨晩予め用意しておいた、本日用の私服を鷲掴んだ。そのままそれを抱え込むように胸に抱き、一直線に部屋のドアの方へ向かったので、俺は慌てて後を追う。
「今日こそはローデリヒさんに直談判をしてきます!」
出された名前を聞いて、俺は一層焦った。ここで菊を部屋から出したら、いよいよ大騒動だ。そうなれば話を聞いてもらうどころか、最悪の場合、本当に菊か俺かの転所騒動になってしまい兼ねない。
「部屋割りをどうにかしてもらわないと私の貞操が……っ!」
ドアノブに手をかけた菊の、反対の腕を間一髪で奪い上げた。手にしていた菊の服が床に散らばり、引かれるように菊自身も振り返った。
「本田」
その光景を冷静に見下ろし、菊は冷めた視線で俺を批難する。
「……大声を上げますよ?」
ハッと胸を突かれる。批難しながらも、わざわざそこで一呼吸を置いてくれたことに驚いた。つまり事情を話す猶予が与えられたのだと気づき、俺は簡潔に教えた。
「マシューが明日、お前に会いに来る」
――菊の批難めいた視線が、ふわりと緩んだ。
「……マシューさんが?」
強張っていた菊の全身から、余計な力が抜けていくのがわかった。そのせいで、俺も菊を掴んでいた手が緩む。気づけば渾身の伝達になっており、俺こそ身体を強張らせていた。
その雰囲気からもう大丈夫かと、ゆっくりと手を放す。
「おう、ようやく許可が出たんだと」
「……そうですか……」
何かを考えるように呟いた菊は、そのあと小声で「嬉しい」と控えめに頬を綻ばせた。
――って、またそういう顔しやがる! 慌てて目を覆いたくなった。
だが内心で悶えているなどと知られるわけにもいかず、俺は必死に平静を装う。
「俺とも会ってくれるだろうが、医者的にはお前に会わせるのが目的らしいからな……その、マシューをよろしく頼むよ」
「……アーサーさん……」
久々にその声が俺の名前を紡ぐ。唇が、その言葉の配列を象る。ドクドクとした力強い脈が、俺を内側から目眩がするほどに叩きつけてくる。そんなことだけで嬉しくなってしまい、俺は取り返しの付かないほどに菊に入れ込んでいる自分を改めて知った。……どうしようもねえな、と思った。早くまた普通に会話してもらえる関係に戻りたい。
思った瞬間に、もう一つ菊に伝えておきたいことを思い出した。
「あと、お前のその態度もわかるが、双子の前ではやめてくれると助かる。……その、二人を不安がらせたくないんだ」
控えめにリクエストすると、菊は何も言わずにただ何かを思慮していた。
それから菊の態度が少し変わった。完全無視だったのが、そっけなさを残しつつもちゃんと対応してくれるようになった。警戒網を解くことはなかったが、それでもがっちりと守りに入られていた期間よりは、よほど優しく思えた。
ちゃんと伝えることができた自分を誇らしく思いながらも、態度を変えてくれた菊にも感謝の念を抱く。好きじゃないと公言していた相手に舌を入れてのキスをされて、あまつさえ惚れたなんか言われた日にゃ、菊じゃなくても完全無視の体制に入るだろう。それなのに、菊はその鉄壁を崩してくれたのだ。きっかけをくれたマシューたちにも頭が上がらない。
さて、そのマシューらが訪れる日となった。
その日は朝からそわそわした。俺がというよりは、菊のほうだが。いつもより遅い朝食の後、菊は忙しなくエリザベータの後片付けを手伝っていた。それを終えてからも、面会の約束の十一時まではまだ相当に時間がある。
俺が部屋で読書をしていると、そわそわと動き回っている菊が、部屋に戻ってきて顔を覗かせた。俺は時計を見やる。十時半だった。
俺を見るなり、気まずくなるのが嫌なのか、すぐに頭を引っ込めた。
「本田」
ドアが閉まりきる前に、本を机の上に置いて呼びかけた。ドアを閉める動作が止まる。
「そろそろ玄関で待っとくか?」
余裕を見せるようにゆっくり歩み寄ると、菊はドアを開けて小さく頷いてみせた。そのしぐさにぐっと腹に力が入ってしまい、途端に挙動が不自然ではないかが気になった。
そのまま二人で玄関の外へ出て、それからも無言でまた林道を眺めた。
気まずくて会話ができなかったのではなく、明らかに菊は久々のことに緊張をしていた。……そして俺はそれを隣で眺めながら、可愛いやつだなと自分を保つので精一杯になっていた。……我ながら良い訓練方法だと思う。……一つ間違えば、地獄に逆戻りだがな。
「あ……!」
菊が誘われるように身を引かれた。それに気づいて俺もその先を見た。……待ちに待った人影が二つ。
前を走っていた方が、いつものように大きく手を振っていた。後ろから付いてくるもう一つの人影は、思ったよりも元気そうだった。前方の俊足に困惑しながらも、必死に付いてきている。俺たちが待っていることに気づいていたのか、エリザベータもすぐに職員室から出てきて、アルフレッドが正門に到着する前から、その開錠を始めていた。
「アーサー!」
内門も開錠すると、アルフレッドが真っ先に俺に飛びかかってきた。違和感を感じながらもしっかりと抱き止めると、視界の先で菊がマシューと目線を合わせて会話しているのが目に入る。暖かそうに抱擁をしていた。……そうか、アルフレッドはマシューに気を遣ったのか。アルフレッドと挨拶を交わしながら悟った俺は、ならば俺もその意図を汲んでやらねばと思った。
「本田、アルと散歩してくる」
そう呼びかけてアルフレッドに目配せをすると、アルフレッドは嬉しそうに笑った。異論はないようなので、二人で中庭の方へ歩き出す。半ばスキップになりながらアルフレッドは突き進み、楽しそうに立ち止まった。
「俺はしばらく菊を独占していたからね! 今日はマシューに譲るんだぞ!」
聞いてもいないのに教えたのは、俺がアルフレッドの意図を正しく理解できていたからだろうか。そう思うと、何やら俺まで嬉しくなる。……今頃、菊とマシューは楽しく再会を祝えているはずだよな。
「あー、俺も早くマシューの声聞きたい」
そういうとアルフレッドは「期待はできないぞ。まだ両親とも会話できていないからね」と教えた。菊と会話できるようになったと聞いたときは少しだけ期待したのだが、そうか、と少し肩を落とす。……いや、それよりもまず、元気な姿を見ることができただけでも嬉しいと思うべきなんだろう。
「それはそうと、」
隠せない落胆を持て余していると、アルフレッドが唐突に顔を覗き込んできた。
「アーサーは菊とはうまくやってないのかい?」
その問いに思わず吹き出した。
「は、はあ!? どういう意味だお前!」
「え、いや。今まで菊って呼んでたのに、本田になってるなあって思ったんだぞ」
その観察眼には恐れ入る。
「……お前察し良すぎて怖えよ」
「ははッ。だから伊達にアーサーの弟してないんだぞ!」
楽しそうに続けるアルフレッドは、何故そうなのかとは追求しなかった。その代わり、これまでのマシューとの特訓の話や、許可が出た経緯を滔々と語ってくれた。
時計をちらちらと見ていたアルフレッドだったが、聞けばマシューの外出に関しては医者から細かく制限が出されているとのこと。その一つに、マシューの負担を考えて、ドア・ツー・ドアで三時間以内に収めろ、との指令が出ているらしく、アルフレッドはその厳守に追われていると話した。……今度こそ、マシューへの過度な負担を避けたいのだろう。
ドア・ツー・ドアで三時間と言うと、実質この施設での滞在時間はそう長くは取れない。一時間と少し経ったくらいにはアルフレッドは帰らねばならぬ旨を菊に話していた。
俺はマシューがしゃべっている姿を一目見たく、少し遠目から三人のやり取りを見ていた。ローデリヒがバルコニーに設置したベンチに三人で腰掛け、菊はマシューと話すときはきっちりとマシューの目を、アルフレッドと話すときはアルフレッドの目を覗き込んで、柔らかい眼差しを直接送り込んでいた。応えるようにたどたどしく口を開閉するマシューを見て、感慨深く思う。
最後にアルフレッドが手招きしてくれたので、俺は三人の元へ急いだ。アルフレッドに「もう帰るんだぞ」とアナウンスされ、俺と菊は二人で双子を見送った。
エリザベータが正門を施錠したあとも、しばらくそのバルコニーから二つの人影がなくなるのを見守り続けた。そうしながらも俺は、隣に並んでいた菊にそれとなく意識を向けていたのだけど。いつまでも嬉しそうにマシューたちが溶け込んでいった景色を眺めている。その横顔がまるで俺の世界では浮かび上がって見えて、特別に燦々と存在感を放っていた。……ずっとこの横顔を見ていたいと思ってしまうのは、罪のないことだろう。
「アーサーさんが羨ましいです」
「ん?」
今だ景色を眺めながら、菊が俺に話しかけた。よほどマシューに会えたことが嬉しかったのだろうかと詮索してしまったが、やはり菊は楽しそうにその笑顔を向けている。
「いとことは言え、あんなに可愛い弟さんが二人もいらっしゃるなんて」
だが、やはりここで見惚れているなどと悟られるわけにはいかない。しっかりと表情筋を緩めぬように意識して、「ああ、そうだろ?」と自慢気に返してやった。
「でも、正直悔しいぜ。マシューと会話できるようになったのが、後から現れたお前だったんだからよ」
深く考えずにそうごちると、菊は先程までの笑顔を少しすぼませてしまった。菊自身が何を思ったのかわからないが、俺はそろそろ色んなことを冷静に分析できるようになっていたので、自嘲も含めて菊に笑ってやった。
「まぁ、俺は自分のことで手一杯でこんなところにぶち込まれたんだから、当然の結果といえば当然の結果ではあるんだが」
「……その、アーサーさん」
俺の話には特に反応は示さず、さらに固くなった表情で菊は注目を願った。俺は「なんだ」と短く相槌を打ち、対する菊は視線を足元に転がしてしまう。
「どうして……。どうして……マシューさんは言葉を……?」
絞りだすような問いかけに、俺は驚きを一つ覚えた。……菊は知らないのか。考えても見ればそうだ、確かに本人たちには聞きづらいことではある。
本当はこういうことをペラペラ話すのは気が進まないが、その問いが菊からのものということもあり、包み隠すことはしなかった。
身体を菊の方へ傾け、軽く息を吸った。俺の話を聞く菊の眼差しも、真剣そのものだった。
「……俺の親父がな、やつらの目の前で、その首掻っ切って死にやがったんだ」
菊は眼球を零しそうなほどに目を見開いた。眉間に深く皺が寄る。
「すごい光景だったぜ。アルも普通に見えるだろうけど、あれでそれ以前の記憶がないんだ」
重苦しくなりすぎないよう、軽い口調で言い切ったが、受け取る側の菊にはやはりズシリと届いていたらしい。話を聞くために俺に戻されていた視線も、また重力に負けて地べたに落としていた。
「そうだったんですか……」
呟いた菊はとても辛そうで、話したことが正しい行いだったか疑われた。……一体その優しい思考の中で、どこまで二人の痛みを感じ取ったのだろうか。揺れる菊の瞳は、やはりどうしても俺には愛おしくてたまらなかった。
ここで会話を終わらせたくなく、俺はこの件に関して他に言うことはないかと、頭の中を巡らせた。そして辿り着いた、俺自身の懸念。言わなくてもよかったものだが、菊の優しさを求めて、その懸念たちはするすると俺の喉を通り抜けていく。
「その原因になったやつは今でも憎いけど、最近は正直それも薄れてきてしまって、ちょっと怖かったりもする。そいつと再会したとき、俺はそいつであることすら認識できないんじゃないかって」
実際菊の机上の写真立てを盗み見たとき、俺は菊の親父さんはこんな人だったっけ? と思ってしまったのだ。とどのつまり、人間の記憶とは持続はしない、どんなに自分がそれを望んだとしても。……たくさんのことが頭を巡り、耐え難く口を閉ざした。
「……それでいいですよ」
ポツリ、菊が囁いた。まるで内緒話をするような、淡く優しげな色調の声だった。
「憎しみなんて持ち続けても疲れるだけで、アーサーさんご自身の幸福には何にも繋がりません。……一番の復讐は、忘れてやることです。きれいさっぱり忘れて、そして笑って暮らしてやることです」
――口元、目元、その音を発している全ての部位に、釘付けになった。
……確かにそうだ。……一生恨み続け、一生頭の片隅に置いておくなど、人生の無駄遣いもいいところじゃないか。そんなことよりも、意味のあることで世界は溢れている。そう、俺が菊の側にいたいと嘆願してしまうように。
そう語った菊の横顔を見て、俺はまたざわざわと胸騒ぎを呼び起こされる。それがこちらを向いたかと思うと、正面から見えた菊の瞳も、同じように何かを悲願しているように見えた。
――菊も、忘れたいと思っているのか? どんな鬱々とした事実でも忘れ去り、そして幸せに暮らしたいと。……途端にまたふわふわとした柔らかな痺れが身体を通った。その親愛に満ちた存在を抱きしめられたなら、どれほどまでに気が楽だっただろうか。
簡潔に言えば、脳内で響いていた欲とは単純に、やべえ、抱きしめてえ、という何ともシンプルなものだった。そしてその欲望と理性とを戦わせて行動を起こせなかった俺に、菊は苦虫を噛んだように笑いかけた。
「……持論です、すみません……」
「なんで謝るんだよ。どこかの髭面より本職っぽいぜ?」
からかってそう言ってやった。だが本心だった。なんて素敵な持論だろうと思った。
「なるほど、双子がお前に懐くわけだ」
その思いを精一杯この言葉に詰め込んだ。双子のことは愛おしく、だが菊のことはこの上ないほど愛おしく思い、敵わず破顔一笑していた。
菊は少し焦ったような造作でそっぽを向き、口を尖らせて愚痴を零した。
「……尤も、ここにいる彼らの兄にすら懐かれているわけですけど。それに関しては私の汚点です」
「はあ!? 汚点!? お前言いすぎだろそれは! 泣くぞ!」
必死にそう訴えると、菊は楽しそうに「ふふ」と吐息のような笑みを漏らした。
「さぁ、さて、そろそろ中へ入りましょうか」
区切りをつけた菊が、玄関に向けて振り返った。俺はできることなら、ずっとこの空間を壊したくなかった。そんなことはできないとはわかっているのに、思わず「……本田、」と呼びかけながら、菊の腕を掴んでしまった。
その瞬間、再び犯してしまった過ちに対する焦りからか、全身の毛穴が開ききったように錯覚するほど、大量の汗を大噴出した。菊はその腕を捉えている俺を上から下まで、それはそれは見落としのないように丁寧に、数回と言わずたっぷりと確認した。
気まずくなり何も言えなかった俺に、菊は試すように目を覗いてきた。
「……もう二人はいませんから、触ったら大声出しますよ」
言われたことで血の気が引き、じっとりと滲んだ汗が鬱陶しく絡みつく。俺はとにかく急いで「悪かった」と伝えながら、その手を解放した。そうしたことで菊の中の不安は取り除けたかと、確認するようにその顔を盗み見た。
……俺の勘違いでなければ、菊はうっすらと微笑んだような気がした。
その晩になった。アルフレッドとマシューが帰ってから、みんなより少し遅れて昼食を摂り始め、先に食べ終わった俺は部屋に戻った。アルフレッドたちが来るので、日曜日という今日に予定を何も入れていなかった俺は、久々に読書でもと目論んだ。
昼食のあと、菊は部屋には戻って来なかった。この施設には先述した図書館や個室の勉強部屋などもあるので、どこかで何かをしているのだろう。誰かとすれ違えば『菊を見なかったか?』と聞いていた俺だが、さすがに今日はそんな気にはなれなかった。
シャワーを終え、寝る準備も万端でベッドに横になった俺は、就寝時刻になるのをただぼんやりと待っていた。
――今日、会話の終わりに微笑んだ菊を思い出す。あれはどんな意味を持っていたのだろうか。ああいう顔をされると、期待しちまうじゃねえか。……菊は、今何を思っているのだろう。
コンコン。
部屋にノック音が響いた。菊は自室であることとは関係なくノックをする不思議なやつだ。つまり、このノックも菊の可能性があり、俺は短く「おう」と返事をした。カチャリ、と優しく開いたドアから覗いたのは、やはり菊だった。丁寧にドアを閉じているところに、俺は思わず話しかけてしまった。
「今日はどこ行ってたんだ」
問うたあとに、昨日からアルフレッドとマシューのことでよく会話をしていたけど、そういえばその前は無視をされていたんだっけ、と頭を過る。果たして今回は返事が返ってくるのだろうか。
「今日は勉強部屋にいました」
思ったよりも早く、その返事は戻ってきた。
俺は驚いて身を起こしてしまった。見れば菊はゆっくりと本人の机の方へ歩いて行き、持っていた数冊のノートをそこに置いた。まだ寝る準備を終えていないのか、昼間のロングティーシャツにスウェットという、なんとも軽い装いのままだった。
「アーサーさん」
菊がこちらに顔を向けた。
「おお、どうした」
今度は俺に対する返事ではなく『菊からの呼びかけ』だったことに虚を突かれる。……返事だけならまだしも、菊から語りかけるなんて……ど、どういうことだ……? 俺は高揚に胸が踊って、菊が俺に伝えようとしていることを全身で持って傾聴する。
「私もあなたにこれっぽっちも興味はないんですが、好奇心で伺いたいことがあります」
「……お、おお?」
真顔で言われたので突っ込めなかったが、それは俺への嫌味かと、心のなかでは一刺し入れていた。……言葉があの日と同じだ。
垣間見えた菊の遊び心に安心し、おおらかな気持ちで続きを待った。
しかし当の菊は、何かを迷うように、控えめに口を開いた。
「あなたはどうしてここへ……? 初めはその粗暴さから補導されたことがきっかけと思っていたんですが、果たしてそうなのでしょうか……?」
――なんと。菊が俺に興味を持っている。いや、違うか? 正しくは好奇心らしいが、内容はどうあれ、反応を示さない手立てはなかった。
「まぁ、概ね間違っちゃいねえよ」
簡潔に答えたが、まだ言葉を許されているようだった。
「……お前が言い訳を聞いてくれるなら、生前、親父が酒と暴力に取り憑かれてた時期があって、自分で上手く消化できずに外に向けて吐き出していたんだ。親父が死んでからは、いっそう荒れたぜ。当時通っていた学校のセンコーをボコったのがまずくて、ここに収まっちまった間抜けなんだけどな」
己の行いの愚かさは、もう十分に理解しているつもりだ。だからそれをわかってることを主張するように、最後に自嘲を貼り付けた。
だが菊はその甲斐なく「……そうだったんですね」と小さくぼやくだけだった。……問うてきたわりには上の空のように感じ、俺は菊が何かを待っていることを察した。無意識なのか、先日知ってしまった傷のある手首を、反対の手で隠すように擦っている。
「……本田は?」
なんとなくそれを待っている気がしたので、そのまま問うた。俺が知りたかったということもある。
菊は小さく苦笑して、
「……やはり聞かれますよね」
と零した。
言葉とはちぐはぐな態度に首を傾げる。
「嫌なら答えなくてもいいけど、お前のそれ、まだ気になってる」
そう念を押してやると、菊は肩の力を抜きながら、本人のベッドに腰を下ろした。
「……ごめんなさい」
険しい表情で呟かれたそれに、意味を求め「どうした」とさらに問いをかぶせた。
本人としては観念するという心持ちだったのか、言いづらそうに教えてくれた。
「……本当は、私も話を聞いてほしかったんです。回りくどいやり方をしてすみません」
いちいち謝罪を挟む菊だが、俺はとうとうその謝罪の必要性を見いだせなかった。
「今日、マシューさんやアルフレッドさんのお話を聞いて、それから悶々としてしまって、本当はフランシスさんのカウンセリングまで持って行こうと思っていたんですが……抑えられなくて」
菊にしては珍しく言い訳じみたそれは、俺を少し悲しくさせた。俺が菊の話を聞くことを迷惑がると思っているのだろうか。だとしたら大きな間違いだ。俺は俺を抑えられるようになったとは言え、未だに思考の中心は、菊の全てを知りたい、なのだから。
「……気の利いたことが言えるとは思えねえが、それでお前がすっきりするんならいいぜ」
安堵したのか「ありがとうございます」と少し無理に笑ってから、話を始めた。
「……全ての元凶は、父が大きな事件を起こして蒸発してしまったことだったんです」
いきなりの話題で、俺は心臓を大きく波打たせた。
――『父が起こした大きな事件』
これは間違いなく、俺の親父の会社での事件のことだ。それを伏せていることに少し違和感のようなものを感じたが、俺はそのまま黙っていた。
「父のことなのでこういう他人行儀な言い方は心苦しいのですが、被害に遭われたご家庭には、私が謝罪に行きました」
ぼんやりと思い出した。……学ラン姿の菊。俺の母親に、罵声を浴びせられていた……菊。
「当たり前ですが酷くご立腹されていて、たくさんの罵声や仕打ちを受けました。今思うと、それくらいのことで済んだのは本当に幸福だったのですが、当時は何故父のしたことで私がこんな目に遭わなければならないのか、と父に対する怒りで煮えたぎっていたのを覚えています」
――『俺は例えばパパが誰かを傷つけたとして、それを俺が責められるなんてまっぴらごめんだぞ』
脳裏にアルフレッドの声が引用された。それはそうだ……なぜあのときの俺は、それが当然の仕打ちだと思ってしまったのだろうか。当時の菊に対しての後ろめたさとか、不甲斐なさとか、そうったものが途端にまた自分の中で弾けて、消えてしまいたいほどに後悔した。
と、思ったところで、菊が項垂れるように頭を抱えた。その手で顔を覆ってしまい、まるで何かから顔を隠すようだと感じた。
「世間を大変賑わせた事件でしたから、連日連夜のマスコミ攻撃に疲れ果て、母は精神を病んでしまいました。……それがしばらくして落ち着いてからでは、私ももう学校に行く気力も根気も持てず、病んだ母と二人で隠れるように生活していました。生活費をどうしていたかは、未だにわかりません」
俺は見えるはずのない菊の顔を見ようと、必死にその項垂れた頭を目に留めた。
「ですが、それも三年ほど経ったとき、」
小さく息が吸われる。
「母は自殺しました」
親父の会社が倒産してから三年……というと、ちょうど俺がこの施設に入所したくらいの時期にあたる。
「目の前にぶら下がる母の遺体を見つけたとき、私は震えが止まりませんでした」
隠していた顔から手が離れ、
「怒りにです」
震えるように、視線はどこでもないところに向けられていた。いつの間にか悪くなっていたその顔色に、見入ってしまった。
「……『どうして私を連れて行ってくれなかったんですか』と、まだ生きていたなら、殴りかかっていたかもしれません」
緩やかに紡ぎ上げられる思い出でも、確かに呼び起こされている憎悪が伺えた。……菊でもそんな表情をしてしまうのかと怖くなった。
「それから行き場もなかったので、一度手首を切ってみました。……そのときの醜態がこちらです」
諦めたように潔く、先日俺に目撃された方の手首を握る。
「……でもそんなにことはうまく運びませんでした。深く切ったつもりでしたが、やがて血は止まり、ふらふらした程度で死には至らなかったのです。……絶望した私は、どうしたら死ねるのだろうと、いっそ身投げでもしようかと、あの晩、有名な絶壁のある『あの林』に居たんです」
……そうか。
「……マシューか」
思い当たったので、俺はすぐに確認した。
倒産後から三年、俺が入所云々の時期ということは、マシューが不良集団に絡まれたのも、同じ時期だということだ。
菊の顔色が少し和らいだ。
「はい。私は身を投げるその現場すら見る前に、マシューさんと中学生くらいの男子の集団に気づき、サビだらけで置き忘れられていた鉄パイプを見つけて、一心不乱に少年たちをなぎ倒していました」
ずっと菊を見守っていた俺の視線と、菊の視線がようやく交わされた。
「……そこからは、おそらくアーサーさんもご存知のお話だと思います。少年たちが団結して、私がマシューさんに暴行を加えるように強要しようとしたと証言して、私だけが少年院へ収容されることとなりました」
全くもってそんなことは知らなかったが、菊が他者からの不当な評価を異常なまでに嫌うのは、この辺も原因になっているのだろうと思った。……いや、言ってしまえば、己の父により植え付けられた評価が、全ての根源にはあるのだろう。
――『他者に評価を押し付けるような人間をクズと認定しています』
だが、今となっては、それも仕方のないことだとわかる。俺をクズと嫌ったのだって、至極当然のことなのだ。……また申し訳なくて仕方がなかったが、だからこそ、埋め合わせるように愛おしさも感じるのだろう。
「それからしばらくして、マシューさんが改めて証言してくださったお陰で退院できるようになりました。私には身寄りもないし、中学生の集団を鉄パイプで全滅させたことには変わりないからと、ここへ」
少し和らいだ顔色は、さらに優しく綻びた。……ここへ来たことは菊にとって負担ではなかったということだろうか。そんな風に笑って、辛くはないだろうか。
その笑みの答えを俺は次の言葉で知る。
「……マシューさんを助けられたことは、本当に、人生で唯一の誇りです」
ただ他人からの負の評価に怯えていた菊に、正の意味を持たせた出来事。菊が綻ばせたその笑顔は、他の負の中から生まれ出た分、特別に美しく見えるのだ。
「……ああ、すげえよ」
通った理不尽な人生の果て、こんな風に笑っていられるのは、本当に奇跡だと感心してしまう。
喜びを噛みしめるような言葉は、止むことを知らなかった。
「おしゃべりもできないのに、面会日に会いに来てくださるマシューさんが、私にとってどれだけ励みになっていたか……増してマシューさんがいらっしゃれないときも、必ずアルフレッドさんが来てくださっていましたので、少年院にいたというのに、人生で久々に生きた心地を味わいました」
心地よくその言葉を聞いていた俺の視界で、菊が身動いだのがわかった。焦点を合わせると、俺の顔を覗き込むように見ていた。
「……だから、よくアルフレッドさんから聞いていたお兄さんが羨ましかったです。そして、会ってみたいと思っていました」
目を細めて、まるで俺の感情を透かして見られているようだった。
その表情の意味するところを、俺はまた理解しようとしなかった。ただ勝手に変な期待をして、ドクドクとした脈が、この身全てで菊を欲しているのを自覚させる。だが、これは無意識にせよ何にせよ、菊に試されているのだと己に釘を刺す。
相変わらず平静を装い、菊の寄越した言葉の『見えている部分』に対してだけ、返答した。
「……こんなクズだったけどな。悪かったよ、同じくらい天使じゃなくて」
それがよほど意外だったのか、口をすぼめて驚いていた。また笑顔をそこに掲げ、「いえ、」と切り出す。
「それでも、アーサーさんは変わったと思います。ちゃんと変わっていかれてると思います。私の意見を尊重しようとしてくれているところとか、私あんなにあなたに酷いことをしていたのに……」
菊の言う『酷い』こととは、おそらく俺に対する『完全無視』のことだ。だがそれは、俺がとった『酷い』行動の結果なのであって、それについて菊に気の毒がられるのは、逆に腑に落ちなかった。慌てて「それは俺に原因があったし」と取り繕うと、菊はまた嬉しそうに綻ばせた。
その穏やかな表情のまま一つ呼吸が置かれたかと思うと、
「そんなアーサーさんは、不器用ですが――」
目を見張るしかなかった。
「――かっこいいですよ、とても」
時を止められないことをこんなに惜しむことはあっただろうか。そこに咲いていた菊の花は、今まで見る何よりも、目眩がするほどに輝いて見えた。――菊。菊。泣きたいほどに、愛おしい。
その姿に放心して、無意識に「……本田……」と零した俺に、菊はその表情を保ったまま、
「菊で、いいですよ」
と続けた。
それが決定打だった。俺の心臓を殴りつけて、まるで意識を失くしたように全てがふわふわと浮かんで見えた。俺はもう、菊に触れなければならなかった。……足に体重を感じる。俺は今、立ち上がって歩き出している。大丈夫、菊の表情は強張っていない。浮くような意識の中、何故か確信があった。
「菊」
そう呼んでも構わないと言われ、待ちきれずに声に出した。
――菊。きく。口に馴染むこの配列は、それすらも愛らしい。
「あ、アーサーさん……?」
しっかりと見据えた俺は、座っている菊にゆっくりと歩み寄り、手を差し出した。
「手首見せろ」
「え……」
戸惑われる。
「いいから、手、貸せよ」
少し強めに言ってやると、おずおずとその手を差し出した。
袖をずらして、その傷をこの熱を含んだ空気に晒してやる。
「これがそのときの……」
盗み見るように傷から菊へと視線を動かすと、
「はい、恥ずかしいので余り見ないでください……」
少し照れたように他所を向いていた。
その表情の緩みに、期待してしまう。菊が俺に許した領域を、勝手に測って高を括ってしまう。
「この傷、きらいか?」
「…………私の醜態の結晶のようなものですので……」
手を引っ込めるでもなく、俺に握らせたまま無抵抗に構えている菊。誘っているようにしか受け取れないのは、都合がいいのだろうか。
その誘いに乗って菊の腕を引き、その傷に唇を寄せた。
「ちょっ、アーサーさん!? 何を……っ」
その五センチ以上にも及ぶ大きな傷跡に、優しくキスを落としていった。
……菊が醜態の結晶と名づけていたこの傷は、俺にとっては菊が死なずにここにいる証拠である。それは、こんなにも愛おしくてたまらない菊の一部なのだ。……それに幾度キスを落としても、菊は小さく声を漏らすだけで、その腕を引くことはなかった。
その行為を止め、目線を合わせるためにさらに距離を詰める。困った表情で見返す菊に、
「……いやなら、叫んでもいいんだぞ」
そうしないことを確信した上で、試すように指示をしてやった。
きまり悪く菊の口が閉じられる。どう反応すべきか迷っているようなその表情は、たまらなく艷やかだった。
「……っ」
俺のために閉じたその口に、躊躇いなくかぶりつく。何の抵抗もないことを改めて確認する。余韻を残すようにゆっくりと放しても、やはり押し返されるどころか、悩ましげに「アーサーさん……」と名前を呼ばれるだけだった。
――その声、いやなわけないよな。
ゴーサインだと勝手に解釈し、無抵抗の菊の肩に手を置いた。少し力をかけてやると、されるがままにその身をベッドに沈める。
俺の真下に横たわる、軽い装いの菊。どうしていいのかわからない戸惑いや、されるがままの羞恥、それらに顔を強張らせ、俺の顔を見ようとはしなかった。……だが、抵抗もしない。真っ黒の髪の毛の間から覗く、奥ゆかしい首筋。釘付けになった俺は、また誘われるようにそこに唇を落としていった。ぎゅっと菊の瞼が閉じる。その上からしっかりと隠すように、頼りない手が覆った。
漏れる悩ましげな吐息を聞きながら、俺は菊を愛で続けた。
翌朝、俺は目を覚ましてまず違和感を覚えた。
いつもの天井なのに、いつもの天井ではない。……そうか、位置が違うのか。
そこで腕の痺れに気づき、流れで肩に乗る重りにも気づく。
「――!?」
俺は思わず息を止めた。そうだ、忘れていた。いや、寝ぼけていたの方が正しい。思い出した。全部。心臓に悪い。
動揺した俺はこの状況をどうしようかと、周りを見回した。――菊が俺にしがみつくように寝息を立てていた。……昨晩も思ったが、菊の黒髪の艶はずるい。そしてその隙間から漏れる、あどけない寝顔も。
唐突のことで焦ったが、落ち着いたらこの上ないほどの幸福感を味わった。――あんなに欲した菊が、今この腕の中にいる。なんと、なんと、贅沢なことだろう。幸福などと生易しいものじゃない。贅沢だ。
喜びを噛み締めていると、さらにさらにと浮かぶ欲望が、腹の下の方に集結し始めたのがわかった。……おいおい、勘弁してくれよ。朝だということもあり、俺は自分の身体の反応に呆れた。この状況でそれはないだろう。紳士たるもの、こんな盛んになっているところを見せるわけにはいかない。
惜しむ気持ちがなかったわけではないが、菊の頭を肩から下ろし、まずはベッドに起き上がった。
よれたシーツで思い出す。
昨晩、組み敷いて堪能したその肌の艶。味。感触。全てがまだこの全身に残っている。残念なことに結局は俺も菊も男同士で何をどうしていいかわからず、それ以上ことを進めることはなかった。だが貪るようにキスをして、俺が一方的にああだこうだと愛を押し付け続けた。
驚いたのはそのあとだ。どうしようもないから今日はとりあえずこのまま寝入ろう、そう抱き合っていたときに、突然菊が号泣を始めた。その涙と一緒にこぼれ落ちた言葉は、生に対する喜びと、頑張った自分への褒美のようだと語っていた。……そんなことを言われたら、なおさらどうしていいかわからないじゃないか。むしろ菊とは比べ物にならないくらい自分に甘く生きてきた俺にとって、菊は贅沢すぎる代物だとそのときに思った。本当にこのまま触れていていいのだろうかと、縋る菊を抱きしめながらしばらく悶々とした。
だが、そこに菊はいる。俺がベッドから起き上がった際、お行儀よく身動ぎして、枕を掴んで満足した。……なんだよ、かわいいやつ。
俺は思わず頬を綻ばせ、自分の下腹部に集中した欲を思い出してため息を吐いた。
自分の引き出しからハンカチを適当に取り出して、早々にバスルームに向かう。
そうして紳士である準備を整えた俺がまた自室に戻ると、ベッドの上で菊が放心するように座っていた。俺を探していたのか、などと、また自分に甘い妄想をしてしまい、たった今処理してきたばかりの欲望を思い出した。
菊がこちらへ振り向く。俺が先に呼びかけようと思ったのに、
「おはようございます、アーサーさん」
照れたように笑うので、俺はまた心臓を矢で射抜かれたような衝撃を受ける。
心臓に……悪い……。息もままならないほどにときめいていたのだが、ここでだらしのない顔を晒すわけにはいかず、俺は何事もなかったように歩み寄った。
「おお、おはよう、菊。よく眠れたか」
「おかげ様で」
「そうか、それはよかった」
「はい、ありがとうざいます」
ベッド脇に立つ俺を、まっすぐに見上げている。
――俺が貪った唇はそれなんだよな。舌先に残る味は、その肌のものなんだよな。実感して、昨日までより余計に菊への愛おしさが増していることを理解する。
少し腫らした目元に視線が留まる。昨晩泣きながらに語られた、菊自身へのご褒美であるという言葉を思い出した。……また聞きたい。菊が、俺を受け入れて、いや欲してくれている実感を。また、俺なんかでいいのかと、躊躇いたい。贅沢だと、深く深く溺れたい。
「……なあ菊」
俺は菊のベッドに腰を下ろした。堅めのマットレスがゆっくりと沈む。
「昨夜のあれ、俺はどう受け止めたらいいんだ?」
あんなことまで許されていたので本当はわかっていたが、白々しくも問いかけた。言葉で、教えてほしい。
「昨夜の……?」
「おう。俺がキスしても嫌がらなかったし、ほら、褒美だって」
「……そ、それは……」
ぽっと菊の頬が蒸気したかと思うと、直ぐ様またその手で顔を覆ってしまった。捉えた一瞬の照れ顔もかわいかったが、ちゃんと口にしてくれるまで逃がすつもりはなかった。
顔を覆って隠してしまった菊を促すように名前を呼ぶと、菊はそのままさらに背中を丸めた。
「……だめです、そんな目で見つめないでください。観念します。あなたに絆されました。こんなに性格悪いし粗暴だし、わがままで自分勝手、しかも諦め悪くて聞き分けもないのに、」
口早に言って済ませようとした菊を止めるよう、また無理やり手首を掴んで顔から放した。出てきた肌は真っ赤に色づき、必死で俺の視界から逃れようと下を向く。
「……きーくー?」
覗き込んだ。
「も、もう勘弁してください。ほんと、ドキドキとうるさいんです、心が。眩しく霞んであなたが見えない」
……くそ、なんだこの可愛い生き物は。まるでタコみたいに真っ赤に茹で上がった、何とも言えないブサイクなその照れ顔が、あんまりにも愛らしくて困った。それ以降口を真一文字に閉じていたが、ここらで勘弁してやることにする。
「……菊」
俺は改めて唇を重ねた。菊が今口にしたことが真実であると誓わせるようだ。
触れるだけのキスのあと、菊はようやく顔を上げる。夢を見ているのではないかと思えるほど、幸せの内に視線を交わす。
「……でも、そろそろ朝飯の支度しねえとな。呼びに来ちまう」
「はい」
俺はベッドから立ち上がり、着替えを出そうと自分の引き出しの方へ向かった。
「あ、アーサーさん、落としまし」
言葉の途中で菊が停止した。
引き出しの前で腰を下ろしていた俺は、何があったのかと振り返り、ぎょっとした。
菊が手に持っていたのは、先ほど俺が使ったハンカチ。……それには、親父の会社の社章とともに、『アーサー・カークランド』との刺繍が施されていた。……何周年かの記念のときに、母親がくれたものだったと、青ざめた菊を見て思い出した。
「ん? ど、どうした菊、ああ、ハンカチ落としたか? 拾ってくれてありがとう」
ここで狼狽えてはいけない。警鐘が脳内でがなる。何事もなかったように振る舞おうと心がけ、茫然自失の菊からそれをさっと奪い返した。
「えっと……」
既に背中を向けていた俺に、菊の力ない声が届く。
「あ、アーサーさん……は、その……ファミリーネーム……」
声が震えている。これは……まずい。激しく動揺している。そうか、俺はまだ言ってなかったのかと痛感させられる。
それでも普段通りを意識するため、俺はわざとらしい笑顔のまま会話を続ける。
「……あぁ、そうだよ、言ってなかったかな。……カークランドだ」
ベッドの上に座ったままの菊が、酷く怯えたのがわかった。小刻みに震えだし、俺はそうなって初めて、平静を装ってる場合ではないこと気づいた。慌てて「おい、大丈夫か?」と体勢を低くする。
「……そ、そんな……あ、アーサー・カークランドさん……? わ、わ、わ私はてっきりアルフレッドさんたちと同じジョーンズさんかと……」
「……アルたちは俺の母方のいとこだ」
受け入れられない事実に打ちのめされたような、不安定に揺れる瞳で、菊がこちらを見やった。だが、残念ながら、俺が『アーサー・カークランド』であることは変えようのない事実だ。今にも崩れ落ちそうな菊が心配で、顔色を確認するために近づくと、すくっと立ち上がった。何も言わずに早足で歩き出して、どうやら部屋のドアへ向かっているのだとわかる。……また逃げようとしているのだ。
「ちょっと菊! 待て!」
焦りを隠せずドアの前で乱暴にひっ捕まえると、「すみません! ごめんなさい! 本当に!」と癇癪を起こしたように声を張った。俺が何を言うよりも先に逃げられないと匙を投げたのか、菊はまたうずくまるように、その場で腰を落とした。放した両の手で、また自分の顔を隠してしまう。
「そんな……カークランドさんって……じ、じゃぁ……自殺したアーサーさんのお父さんは……!? と、ともすると……あぁ、あ、アルフレッドさんもマシューさんも……あぁ、あぁあ!? ……ああ、私としたことが……すみません……もう、本当に、ごめんなさい」
「菊、落ち着け」
目線を合わせるために俺は屈んだというのに、菊は相変わらず顔を見せようとはしなかった。まるで俺の言葉も届いていないかのように、その手の隙間から漏れ出す悲痛の叫び。
「よ、よもやあなたがカークランド家とはつゆ知らず……もうどうしていいかわかりません。こんな、こんな……こんなふてぶてしい顔を晒していたなんて」
「菊! 落ち着けって! 顔を見せろ!」
「……できません……」
「お前、なんでそんなすぐ顔を隠すんだよ!」
自分で尋ねておきながら、俺はハッとした。……そうか。マスコミだ。初めの事件の際、マスコミ攻撃がなんとかと言っていた。おそらく写真などもたくさん撮られたのだろう。きっとそれが原因で、いつも都合が悪くなると顔を隠すんだ。
そう理解はしたが、納得はできなかった。
「……いやです」
くぐもった声に腹が煮え滾った。
――俺はマスコミかっての!
「ッ! 見せろって言ってんだよッ!!」
力まかせに菊の手首を奪い、いつかのようにまた無理矢理に唇を重ねた。
――俺はお前が欲しくて仕方なくて、お前も俺に絆されたって言ってたじゃねえか! なんでマスコミと同じ扱いされなきゃなんねーんだよ!
煮えた腹のまま、乱暴に口を放した。
――ばしんっ!
突然しなやかな痛みが俺の頬を打った。
驚いた。驚いて「菊、」と名前を呟きながら見ると、菊はその目に溢れんばかりの涙を溜めて、俺を睨んでいた。……しまった、またやってしまった。
つつつと一筋、涙が菊の頬を下った。大きく息を吸い、
「あなたは頭がおかしいんですか!? でなければ私をからかっていたんですか!? 復讐ですか!?」
「え?」
「だって、まさか私の名前を聞いても、私が本田菊だと聞いても! あの事件の本田の息子だと気づかなかったわけではありませんよね!? なのに何で!? 理解できません! 放してください!!」
まだ掴んでいた方の手首を、振りほどこうと乱暴に動かした。だが俺は反射的にそれを強く握り直して抵抗する。
ようやくここまで来たんだ、ここで、
「放してたまるか! だいたい放したらお前はどこに行くんだよ! ……宛でもあんのか!?」
勢い任せにそう怒鳴りつけてしまい、菊は一層涙を溜め込んだ。視線と一緒にそれまでの激情を落として、喉を震わせた。
「……どこにも……行く宛は……ありません……!」
そんな悲しすぎる現実を思い出させたかったわけじゃない。俺が言いたかったのは、どうせ行く宛もないんだという楽観だ。諦めにも似ていたかも知れないが、憎いことは忘れて幸せに笑ってやるのが、お前の復讐なんじゃなかったのかよ……。
俺は菊の落としてしまった情を追うように、
「じゃあ、ここでいいじゃねえか」
静かにごちった。
色々考えたが、とどのつまりは菊を引き止めたかっただけだ。
「それもできません……」
頑なに抗議される。それでもダメなのだ。俺はこの愛おしい手を、放すわけにはいかない。どうやったら、この気持ちが伝わるのだろうか。復讐なんかじゃない、ただただ菊が欲しいというこの純粋な欲は。
「お前が俺の行動を頭がおかしいと思うならそれでいい。俺は頭がおかしいから、お前がどこかに行っちまったら、」
――悲しい? いや、違うな……
「その、なんだ……」
――寂しい? それも違う。
「そうだ、ええっと……」
――もっとこう、この強欲を伝える言葉は?
「俺は……」
――お前が好きだ? 足らねえ。足らねえよ、そんな言葉じゃ。
この胸の中の甘く苦しい渦を上手く表現できなくて、俺は頭を抱えた。隣で「ふふ」と小さく笑う声が聞こえ顔を上げると、菊は涙を溜めたまま困ったように笑っていた。
「……ここは、バシッと決めるところでしょう」
そう指摘され、何故かとても恥ずかしくなった。
「……わ、笑うなよ。『好き』だけじゃ、『お前がいなくなったら寂しい』だけじゃ、足りる気がしねえんだよ」
恥ずかしさを誤魔化すために、口を尖らせて教えた。それから意表を突かれたような菊の瞳を、まっすぐに見据えてやる。この視線からだけでも、俺の身体の中の苦しみが伝わればいい。しばらく菊も俺の視線を受け止め続けた。
それがふ、と緩み、同時に表情も少しだけ和らぐ。
「ここでそういうこと言うんですか……」
気恥ずかしそうにしていたのはむしろ菊の方で、具合が悪そうにそっぽを向く。
その先の反応を待とうと見守っていた俺に「……アーサーさん……」と呼びかけられた。握ったままだった菊の手が離れ、礼儀正しく菊の膝の上で反対の手と組まれた。
まるで欲しいものを上手に強請ることができない子どものように、
「こんな私を許してくださるんですか……?」
俺を盗み見た。
その言葉で俺はようやく気づいた。菊の根本にはまだ、父親からの評価が根付いているのだと。俺はとうにそこを切り離せたというのに、肝心の菊はまだそこに縛られていたのだと。
なら、俺が教えてやる。
「許す? 何をだ? 俺を引っ叩いたことか?」
そう、俺と菊との間に、もはやその他誰も一切関係ないということを。
「……い、いえ……ですから、それは、」
「じゃあ他には思い当たらねえな」
その瞳に溜まった涙を零さないくらいの優しい動作で、俺は菊を引き寄せた。またためらうことなく、キスをくれてやる。
その行為がやはり信じがたいのか、ん、と小さく声を漏らしながら俺に逆らおうとした。だが、その腰を強く抱き直してやると、また昨晩のように、戸惑いながら肩に手を置いた。そう、それでいい。
これでわかったか。お前が愛おしいんだ、たまらなく。手放せと言われてももう無理だ。俺が夢中になれるのは、もうお前しかいねえんだよ。
ーーその後、部屋のドアの前で深く愛で合っていた俺たちを、いつまで寝てんだと呼びに来たギルベルトに目撃されることとなる。それ以降ギルベルトは、しっかりと入る前にノックするようになった。
おしまい
(次のページにあとがきあります。
余韻もへったくれもないので、しばしこのページで待機されてください笑)
あとがき
い、い、い、いかがでしたでしょうか?
アーサーくんの魅力も、本田さんの魅力も、うまく引き出せてたでしょうか!?
普段朝菊ちゃんはほとんど触れないんですが、今回ちゃんと二人と向き合ってみて、なんだお前らこんなに可愛かったのか……ってなってます(真顔)
実はリクエストをいただいたお友達に「むしろ致していいよ!」とアピールされていたのですが、致すまでに至りませんでしたすみません。笑。
白状すると菊ちゃんの顔を隠す癖を利用して、目隠しプレイに持ち込みたかった感あるんですけど、さすがに無理すぎました(^ν^)
誰か書いていいですよ♡笑
私のは流れが合わなかった……また朝菊書く機会があったら、もっとアーサーくんを変態にしたいです!(宣誓)
本編には詰め込みたいことをけっこうあれやこれやと詰め込んだのですが、あとがきで真面目なこと書くの苦手マンで……。
ところで、池ぽちゃを中心とした番外編も書きましたので、よろしければキャプションをご参照ください!
このお話の少しあとの朝菊ちゃんも登場します! どうぞ♡
島国領の方がこれをお読みになって、少しでも池ぽちゃにご興味お持ちいただけると本望です。
(ここまで頭の緩い池ぽちゃは逆に珍しいですが、本編の朝菊とのバランスでこんなことになっただけです笑。
本当にずるずると引きづり込まれる素晴らしい沼となっております/清々しい笑顔)
どうぞその検索ボックスに「露普」もしくは「イヴァギル」と入力して大海へお飛び込みくださいませ……。
こんなにも長い作品をご読了いただき、ありがとうございました!!