一年越しの感情
天と地の戦いのあと、僕たちパラディ島のエルディア人四人はかろうじて地鳴らしを凌いだ南部マーレ政府に保護されることになった。実質はマーレ軍の管轄下に置かれることになり、僕たちの身柄はそこに寄せる形となる。元々マーレ軍の戦士隊の一員であった、ライナー、アニ、ピークもしばらく行動を共にしていたが、レベリオ区脱出エルディア人の〝保護先〟が決まった段階で、――アニは退役した。もう争いに関する一切との関係を断ち切りたいとのことで、レベリオ区脱出エルディア人と……いや、彼女のお父さんと暮らす道を選び、マーレ軍の新設本部を去っていった。
ちなみにだが、兵長もこの段階で静かに暮らしたいと語り、ガビやファルコたちとともにマーレ軍を離れた。
レベリオ区脱出エルディア人は〝保護〟されたが、実際には未だに〝収容〟の色のほうが濃いらしいと耳に挟んだ。表向きには『エルディア人への差別をなくしましょう』という風向きに変わりつつあったが、そんなにすぐ拭えるほどその概念の根は浅くなく、差別はまだ続いているということだ。……無理もない、世間一般にとっては『島の〝エルディア人〟』にあんな恐怖と苦しみを経験させられた直後なのだから。――良い悪いの話ではなく、その心も理解できるという話だ。
とにかく、天と地の戦いから一年が経とうとしていた。アニがマーレ軍を去ってから――僕たちが会わなくなってからも、ほぼ一年と言う年月が過ぎている。
明日は天と地の戦いの一周年追悼式典が執り行われることになっており、僕たち『エレン・イェーガーを討った英雄団』はその式典に招待されていた。どうやら僕に当時をふり返って、二・三話をしてほしいらしいのだ。
だがしかし、僕個人としてはほかにも、この式典に対して前向きになれることがあった。
「――あ、アニ!」
「……あ、アルミン……?」
そう、この式典の特別話者として、僕がアニを推薦しておいたことだ。彼女がそれを受けてくれるかどうかはわからなかったが、僕はその少ない可能性に縋った。……どうしても、僕はアニに会いたかった。
そして今日、式典会場の隣に開設された関係者用宿泊施設の受付前で、僕はアニと約一年ぶりに顔を合わせることが叶ったのだ。
彼女は少しも変わっていなかった。美しく切れ長の瞳に、光を泳がせる繊細な髪……僕は一目アニを見たらその場で『ああ、アニだ』と心の深いところで実感していた。
「アニ、来たんだ!」
思わずためらう彼女に駆け寄った。慌ててここまできたのだろうか、頬がほのかに紅潮していて、とてもかわいいと思った。潤った柔らかそうな唇も、恥ずかしそうに伏せたそのまつ毛も……、その光景によって僕の内に湧き上がるすべてのエネルギーが心臓の鼓動に換算されていく。――僕はこんなにアニが好きだったんだと再確認して、そうしたらあっという間に、また触れたくなって……僕は、アニとまた唇を重ねたくて仕方がなくなっていた。こんな唐突に、こんな聞き分けもなく。キスしたい。アニに、触れたい。
――ああもう、考えるな。
そう思ったことをアニからも、自分からも隠すように、急いで思考を振り払った。
「ま、まさかあんたも来てたとはね」
「あはは、何言ってるの。マーレ政府主催の式典だよ。いるに決まってるじゃないか」
「まあ……そうだね……」
僕から目を放して受付に向き直ったアニの耳が見えた。アニは耳の先まで真っ赤になっていたのだと意識に入り、またドキリと心臓が跳ねる。……もしかして、アニも僕に会えたことが嬉しいなんて思ってくれていたら……どうしよう、僕にとってもこんなに心躍ることはない。
――ちらり、と脳裏を過る、あの日の船上の思い出。アニの隣に座って、アニに僕の気持ちを伝えた……あのとき。僕はあのときのまま、いや、あのとき以上に緊張していた。アニともっと話したい。アニとの時間を取り戻したい。気持ちを伝えたい。そして――触れたい。
情けないことに、もう僕の頭の中はそれでいっぱいだった。
「あとでさ、その……部屋に行ってもいい?」
あ、とまたあの日と重なる。確か、あの日甲板の上で逃げるように去ろうとしたアニに、そう言ったんだっけ。
アニもそれを思い出していたのかわからない。彼女はまたふらふらと目を泳がせて、
「……好きにすればいいんじゃないの」
一年前と同じように、そう素っ気なく僕に返した。
夕食の席では、皆が久々に会うアニを囲った。僕はこの隠しきれぬ下心を抱えていたこともあり、その輪には上手く入れなかった。僕だってアニと話したいのにという子どもじみた嫉妬もあったが、反対に、僕はこのあとアニの部屋に行って二人きりで過ごすんだという淡い期待もあり、そのどちらかでせめぎ合っていたように思う。
夕食のあと、待ちきれず早速とアニが割り当てられた部屋に向かった。狭く圧迫感のある廊下はあのときの船内を思い出させる。地面が揺れていないことだけは救いだった。
目的の部屋の前に到着し、僕は逸る気持ちを緊張感に抑えられながら、そこで深く深く呼吸をする。
アニとキスがしたい――まだ頭にはそんな不純な欲で溢れていたが、ちゃんと自分に言い聞かせた。あくまでアニの意思を尊重しなくてはだめだ。……あのとき、例え彼女が僕の気持ちを受け入れてくれていたとしても、今もそうとは限らない。そこを見誤っては取り返しがつかなくなるのだから、それを肝に銘じた。
最後にもう一度だけ深呼吸をして、僕はアニの部屋の扉をノックした。そこからアニの了承の声が返ってきて、僕はまた思い切って扉を開けた。
右手と右足が同時に出るようなヘマはしていないと思う。けれども相応の緊張を引き連れて、僕はアニの部屋に踏み入った。
彼女は狭い部屋をさらに狭く感じさせる二人がけのソファに座っていて、そこからじっと僕の行動を観察するように見ていた。
この部屋でほかに腰を下ろせるところもなく、僕はなるべく不自然さを感じられないように彼女の隣にこの身を置く。
沈黙が襲いかかってきたが、そうはいかない。僕はアニと会ったら話そうと思っていた話題をいくつか準備していて、は、とそれを思い出した。
「その、お父さんとの暮らしぶりはどう?」
まずは当たり障りのない話題から入る。
僕も気になっていたものだから、別に時間稼ぎや誤魔化しのための話題でもなかった。――ずっと帰りたかった人の元へ帰って、アニはどうしているのだろうと気になっていた。幸福だろうか、しんどい思いを、していないだろうか。
ただアニは深く考える様子もなく、
「どうって……まあ、普通」
表面を撫でるだけのような返事をした。……今はまだ、それくらいしか僕に言えることがないのだろう。深く掘り下げることを我慢して、僕はアニに笑いかけた。
「そっか。君はあまり変わってないね。元気そうでよかったよ」
そういうと、アニは少し間を空けて俯いてしまった。それはどういう心の動きだろうと見守っていると、淡々と今の収容所――ではなく、保護区域での暮らしぶりを聞かせてくれた。
僕の耳にも入っていたように、やはりというのか、エルディア人はあまり地域でも歓迎されていないそうだ。
レベリオ区のときはまだエルディア人とマーレ人との間に壁があったので、その中にさえいれば安全ではあったが、現在はそう言った壁が存在しないため、人々の憎しみを肌で感じるのだと言っていた。
そうか、残念なことに、そこではまだ上手くいっていないらしい。僕たちの道のりも長いなと話を聞きながら胸が痛んだ。
お父さんとの暮らしは、まあまあ思っていたよりも平凡だと頬を緩めていた。お父さんが自分でアニをここまで強くしたのだから、アニに手を上げられなくなったのは彼の自業自得だと少し皮肉っぽく笑った。――いや、そもそも手を上げようとしないから、初めは少し慣れなかったけれどもと付け加えた。
そうやって少しずつ会話によって緊張が解されていく。今にして思えば、始めはぎこちなさがあった会話も、時間が経つにつれて打ち解けていったようだ。
ちょうど話題が落ち着いたこともあった。僕は言葉を改めて、アニに向き合った。
「実はさ、僕が今回この行事に君を推薦したんだ」
一番伝えたかったことの突っかかりとして、僕はそこから始めた。
アニは少し思考しているようだった、思い当たる節があったのだろう。
「……道理で。おかしいと思ったんだ。軍にとってはあんたさえいれば満足だろうにって。ましてや、ジャンやコニーもいるし、戦士隊ならライナーやピークも。なんで今さら私? って思ったよ」
そうして、してやられたとでも言いたそうに、小さく笑って視線を落とした。僕と目を合わせないようにしているのか、そのあと、その視線は低空飛行を続けた。
「ごめん。迷惑だった……かな」
訝しみながらも、今回の軍の要請を受け入れてここに来てくれたアニだ。僕はこの質問でアニが嫌だったことを尋ねたかったのではなくて、本当はどうしてそう思いつつも引き受けてくれたのか、その心が知りたかった。そうだ、これは期待だ。もし……もし、アニも心のどこかで『僕に会えるから』と思っていてくれたなら、なんて、そんな都合のいいことを考えてしまっていた。
「……どうだろうね」
アニは曖昧にしか答えなかった。
「でも、なんで私なんか推薦したの?」
「え……。そ、それは……」
本当はずっと尋ねてほしかったことだった。アニが僕にこれを尋ねることを目標に切り出した会話だというのに、いざそれを突きつけられると、狼狽えてしまった。――ここだ、ここで、言うんだ。僕はアニに、また、言うと決めた。
「……あ、会いたかったからだ。……アニに」
たちまち顔が熱くなった。きっとあのときと同じように顔が真っ赤になっているだろう。あのときと同じ言葉だ、アニにこの本意が伝わらないはずがなかった。
アニのことをずっと見ていることはできなくて、何かに気づいたように目を見開いたアニから目を背けてしまった。それをも誤魔化すように、重心を後ろに改めて身体を落ち着ける。……心臓がバクバクと騒いでいる。アニはどう受け止めたのだろう……ちゃんと、受け取ってくれただろうか。
沈黙が少し続いたので、僕は気になってアニを盗み見てみた。するとそこにいたアニも、僕と同じように顔を真っ赤にしていた。今日の昼過ぎに見たのと同じ、耳の先まで赤くなっていて、また……かわいいな、とか、思ってしまった。僕と目が合わないようにすれ違った視線が、彼女がどれだけ意識してくれているかを物語っている。
「……そう」
アニは、それだけを静かに返してくれた。
これは気まずいというのか、お互いが意識を敏感にしていたせいで、また言葉に詰まってしまう。僕はここで男を見せるんだアルレルト、と自分を鼓舞して、意を決して顔をアニのほうへ向けた。
「……その、本当なんだ。君に会いたくて、だから主催側に君を推薦した。……会えてよかった」
逸らしたくて仕方がない視線を、それでもアニと繋げて放さないように意識した。ぐつぐつとアニの瞳の中にも、確かに熱が滾っているのが見える。……目を放さないようにしていた僕は、いつしか、見惚れて放せなくなっていた。
先に動いたのはアニだ。ふらりとまた視線が泳いで、
「そうだね。……まあ、私もときどきさ、あんたの顔思い出してたよ。元気かな。健やかかなって」
この狭い部屋の天井を仰いだ。
アニから時々でも僕のことを思い出してくれていた事実が聞けて、僕は単純にも嬉しくなってしまった。
「そうなんだ。ときどき思い出してくれてたなんて、うれしい」
それが例え三ヶ月に一度きりのことでも……そうやって、僕のことを気にかけてくれていたなんて、なんて幸福なことだろう。嬉しくて、その喜びを嚙みしめるように、僕もアニと一緒に天井を仰いだ。そこには安っぽい小さなシャンデリアが設置されていた。
今度は独り言でも零すように、アニが柔らかく言葉を紡いだ。
「うん、ときどきね。……三日に一度くらい」
アニの言葉に不意を突かれてしまった。僕は思わず失笑してしまい、
「えっ、思ったより頻繁だった」
嬉しさが込み上げるままに頬を緩ませてしまった。
三ヶ月に一度でも嬉しいと思ったのに、まさか、三日に一度だなんて……反対に少し照れてしまった。そんなに思い出してくれていたのかと、嬉しさと一緒に愛おしさが湧いて、思わずまた横目でアニのことを見てしまった。……そしてアニは、静かに笑っていた。
――ああ、好きだ。アニが、どうしようもなく好きだ。キスがしたい。
また脳裏を駆け抜けた欲望を振り払って、僕は会話を改めることにした。いや、本当はそんなに改まってもいなかったかもしれない。僕の頭の中にはずっとあの船上でのできごとがこびりついていて、それが離れてくれなかった。
「……明日はさ、ついにあの戦いから一周年なんだなって、感慨深いよ」
「そうだね」
本当は今の僕には、明日の追悼式典もそこで任されているスピーチも、何も重要ではなかった。この時間が、この時間だけが、僕には今、大切だった。ちゃんとアニに気持ちを伝えて――あわよくば、アニにまた触れて、触れられて……また、アニにこの気持ちを受け入れてもらえるのではないかと欲をかいた。
「ということはさ、」
だから、本当に伝えたかったのは、明日が感慨深いなんて話ではなかった。
「ぼ、僕が君に『会いたかったから』って伝えたのは、ちょうど一年前なんだね」
――僕がアニに、初めて自分の気持ちをはっきりと伝えた日。それが、ちょうど一年前の今日だった。
「……そっか。そう、なるね」
アニがやけに思いを馳せるように呟くものだから、耐えられずにアニをまた眺めてしまった。彼女は少しこそばゆそうな顔をしていて、わかりにくいくせにわかりやすいんだから、とまた慈しむ気持ちが笑みとしてこぼれそうになる。
あのとき僕は気持ちを伝えて、そして、泣き出してしまったアニを抱きしめて、我慢できなくなって……そう、必死だった。あんな風にアニに触れたこと、今でも鮮明に思い出しては身体が熱くなるときがある。あの触れ合いは僕にとっていろんな意味で特別だった。
「……あのときのこと、今は少し、懐かしいというか、切ないというか……申し訳ない気持ちもあって」
「……うん」
「君に、無理やり触れたこと」
そこまで言うと、ハッとアニが明らかに呼吸を乱した。「いや、まあ、」と切り出そうとしたので、僕の言葉を訂正しようとしてくれたのだとわかった。
「あ、うん。そういう意味の無理やりではなかったのはわかってるよ。そうじゃなくて……君は泣いててさ、僕も泣いてて。必死だったんだ」
自分の手のひらを見下ろす。あのときの異常な精神状態は、きっとこの先には経験しないものだろう。見たこともない多くの人々の命がこの手に委ねられていて、逃げ出したいけど、逃げ出せないこともわかっていて、死にたくないけど、死ぬかもしれないとも思っていた。だから――、
「エレンと対峙して死ぬことになったときに、思い残すことがないようにしたくて、もう死ぬかもしれないと思って、だから、必死で……」
「……うん。あの状況じゃね」
その穏やかなまでに静かな声で、アニは僕を受け止めてくれた。
あのときの僕の行動を咎めないでいてくれる。それは彼女の持つ優しさなのかもしれないし、あの状況で求め合ってしまった共犯者としての意識がそうさせているのかもしれない。……いずれにしても、僕のあの行動を否定しないでいてくれることは、僕の中では大きな意味を持っていた。
僕はあまり強くなりすぎないように意識をして、アニを見ないようにした。
「……その、でも、気持ちは今も変わってないんだ」
今の精いっぱいの告白をアニに渡す。けれど、耐えきれなくなるのはすぐのことで、
「……って、言っても、いいかな……?」
僕はアニの答えを窺うように彼女のほうへ視界を向けた。
アニは呆れるでもなく「変な聞き方」と半ば茶化していたけれど、今はそれを拾う余裕はなくて、アニの手に触れたくて仕方がない衝動を何とか押さえ込んでいた。
「君は三日に一度僕を思い出してくれたと言っていたけど、僕は君を思い出したりしなかった。忘れたことがなかったから」
「……うん」
もう茶化すことはなく、アニのまっすぐな眼差しが僕へ返ってくる。きらきらとして、美しくて……まるで昼間の晴れの空のように燦々と愛おしさを散りばめた瞳。
「……アニ。今日会って実感した。僕はやっぱり、君が好きだ」
今度こそ、はっきりと僕は気持ちを伝えた。アニはひどく動揺したようにそのきれいな瞳を泳がせて、みるみる内にまた身体中を紅潮させた。アニが僕を意識してくれているのがわかり、そのしなやかな身体の中で脈を打っているであろう鼓動さえも聞こえそうだった。――ああ、かわいい。好きだ、アニ、好きだ。頭の中に飽きもせずそれが湧き溢れた。
「……君は? 君の気持ちは、変わった? それとも、あのときのまま……?」
俯いてしまったアニの顔を覗き込む。早く返事が欲しくて、僕はついせっつくように問いを重ねてしまった。
「……の、ノーコメント……」
「……ええ、それは、困るな」
アニが僕のことを考えて顔を赤くしてくれていることから、答えは一目瞭然のように見えた。けれど彼女はそれをはっきり言いたくないという。……彼女がそういう性分なのもわかっているから、僕には彼女があのときのまま、僕を受け入れてくれるのではないかとすぐに結論に至った。
彼女に触れたい衝動は限界に来ている。僕はどうしても、今、この瞬間にアニに触れたかった。――触れたいなんて生易しいものではなくて、キスをして、抱きしめて、アニの心も身体もすべて奪いたかった。こうなるとこの衝動はかなり手ごわい。
僕は必死にそれを落ち着けようと自分に言い聞かせてはいたものの、雲行きはそうとうに怪しかった。
「アニ、実はさっき会ったときからもう、ずっと君とキスがしたくて……。……しても、いいかな……?」
照れてしまい、半分蹲ったような状態のアニに尋ねていた。彼女の反応がどういうものになるのか予想すらできないほどに余裕をなくしていた。ただただアニの返事を待って、僕はずっと、この渇きにも似た渇望を押さえ込もうとしている。
アニは少しだけ顔を上げた。
「……またあんたは、いちいち聞くんだね」
「だって、アニが嫌だったらしたくないし」
率直にその理由を述べてやると、アニはまたちらりとだけ目を泳がせたが、そのまますぐにその瞼を下ろした。それからふにゃふにゃと歪み放題だった口元を「……ん、」と尖らせて、僕のほうへ突き出した。
当然そのアニの大胆な行動に意表を突かれてしまった僕だ。情けないことに「えっ、あっ、」とおろおろしてしまい、反対にアニに「は、恥ずかしいから……っ、するなら早くして」と促されてしまった。
何一つ抵抗することなく、アニが僕の願いに応じてくれたことに、言葉にならないほどの歓喜が身体に湧き上がり、先ほどまで埋め尽くしていた衝動にとって代わった。
「あ、うん。ごめん」
雰囲気も何もないまま、僕はアニの肩に自分の手を添えて、そしてアニの無抵抗な身体を抱き寄せた。ふうわりとその唇が触れる、重なって、柔らかくて……僕は一年前のことをまた思い出してしまった。この感触が懐かしいが、それでも新鮮で……アニの匂いが近くにある。心の動きがわかるような、微細な鼓動が伝わってくる。
ただ唇を触れ合わせているだけだというのに、その行為は僕の頭の奥、脳みその芯までもびりびりと感電させた。甘ったるい痺れだ、吐息が漏れそうになる。ずっと待ち望んでいたアニに触れて、媚薬のようなものが身体中を廻っているのがわかる。このままこの柔らかく愛おしい口を暴いてしまいたかったが、それは何とか踏みとどまった。きっとアニもそこまでを想定してなかっただろうと思ったからだ。何とか理性が働いた。
僕はキスを許してくれたアニを、そっとした手つきで解放した。アニはその行為が終わったのだと理解した途端に、慌てて顔を背けて口元を押さえた。自分から唇を差し出してくれたのも、おそらく照れ隠しだったのだろう。ちぐはぐな行動に思えたが、少なくとも彼女が嫌がっていないことを知れて僕は泣きたいくらいの喜びを抱いていた。
――ああ、好きだ好きだ好きだ。
僕の頭に溢れていたものが加速した。
「ねえ、アニ」
「……なに」
「……その、一年越しの続き……みたいな感じになっちゃったんだけど……。僕の、恋人に、なってくれませんか?」
思い切って言った。僕は、ついに言ったのだ。……順番が間違っていないかと冷静になりそうになったが、それくらい余裕がなかったのは事実だ。僕はこんなにも求めて止まないアニを、確固たるものにしたかった。キスなんかでは足りない。欲望が次々に重なっていく。
しかしアニは僕の提案を聞くなり、膝を抱えて、今度は本当に蹲ってしまった。僕と目を合わせないようにしているのか、ひどく考え込むようにどこか足元を見ていた。
そうして長い長い思案ののち、
「…………い、いやだよ」
「えっ」
「い、今は遠くで暮らしてるし、今日だって一年ぶりだし、……そ、それに、今さらあんたと一緒になって、私、そんな……」
アニの結論が僕を殴りつけた。アニのことが好きだと叫びたいほどの衝動が、あっという間に焦燥感に変わろうとしている。そうなってしまえばまた動揺してしまうことはわかっていたので、そうならないように先回りして何とか自分に落ち着くように言い聞かせた。
とりあえずアニが途切れさせた言葉を最後まで確認すべく、僕は平静を装ってアニを促した。
「……うん、なあに?」
蹲ったままの体勢をアニは変えなかった。眺めていた足元もだ。アニは思い詰めたような眼差しで、どこか僕ではないところを見ていた。
「……やだよ。これからどうなるかもわからないのに」
その思い詰めた眼差しを見て、僕はあることに気づいた。というか冷静さを取り戻したのだ。――彼女は、僕のキスを嫌だという態度は見せなかった。今並べている理由もそうだった。僕が彼女の恋人として相応しくないとか、彼女が僕に対して想いがないとか、そういう理由ではないのだ。
つまりアニは……何に怯えているのだろう。
「アニ、ちゃんと顔を見て?」
僕はアニにそう促してみた。僕とちゃんと視線を繋げて、その本心をしっかりと見出してほしかった。先ほどからの彼女の態度で、僕はその本心に多少ないし信頼があったからだ。
僕に顔を上げてと言われたアニが、渋々とそうした。アニの口元が不満げに歪められていることをここで知る。
ただ、僕がそのままアニの眼差しを覗き込むから、アニもおずおずと視線を合わせてくれた。その瞳は揺れていた、何かを迷っているように不安定にふらついていた。彼女は何度も僕と視線を合わせては、動揺で逸らし、そしてまた戻ってくるという動きを何度もくり返した。そして最後は耐えられなかったのか、そのまままた顔を伏せてしまった。
「あ、あんたに、溺れてしまいそうだから。い、今も、頭がくらくらするし。その、なんか、上手く判断ができない」
やはり、僕の見当通りだったことが理解できた。アニは僕が嫌いとかそういうことではなく、今二人を取り巻く環境に後ろ髪を引かれていたらしいのだ。僕に溺れてしまうことが心配だと言うアニに……僕は、咎めることなんてできるはずもない。そもそも僕がこんなにアニが好きだという衝動に、いや、アニ自身に、溺れているというのに。
「――それは悪いことなの?」
そうやって尋ねてやると、ようやくアニは顔を上げる気配を見せ、同時にはあっと大きく息を吸った。
「良くないでしょ! こんなときに私たちだけうつつを抜かして、浮かれ足で踊って。まるで、あのときみたいに……!」
促されて思い出したのは、それこそ一年前の光景だった。甲板の上で、進行する地鳴らしの蒸気を背景に告白をした僕。そしてそれを受け止めないようにしていたアニ。
「……何やってんだろうって、感じだね」
だから、アニがそれを言う前に、僕がセリフを奪ってやった。アニはそれを聞いて、自分でも思い出を実感したようで、「……そう……」と力なくぼやいて俯いた。……だが、それは本当にアニの本心なのだろうか。僕にはそれが疑問だった。……いや、本心に違いはないのだろう。けれど、そうではなくて……もっと深い、欲望の部分で、彼女は僕を求めてくれているのではないかと希望と打算が拭えない。
「……そっかあ。アニの気持ちはわかったよ」
「……うん」
「でも、諦めたくないって言ったら?」
まさか僕が彼女に反対すると思っていなかったのか、アニはぱちくりと何度か瞬きをした。これから僕が何を言うのかまるで見当もついていないのが、そのきょとんとした可愛らしく無防備な表情から窺える。
きっとアニは間違っていないのだと思う。こんなときに、恋人だとか浮かれている場合ではないのだろうし、それは傍から見てもそう思われるのだろう。……けれど、僕も間違っているのかは、まだわからないと思った。
「――世界がこんなだからこそだよ」
僕は俯いたアニに子守唄でも謡うように聞かせた。
「一番大事なものは、忘れたくないから」
「……一番大事なもの?」
アニが素直に顔を上げて聞いてくれたから、僕もまっすぐにアニを見つめた。この温かな気持ちが伝わるといいなと願う。
「……人を――誰かを、愛するということ」
そう、アニを愛していたいということ。この柔らかくて温かな……それでいて強かにしてくれる、力を与えてくれる、そんな感情を、僕は知ってしまったから。……それはきっと、この世界のこれからでも、大事な気持ちになっていくと思わずにはいられない。
「僕がこの世で一番、愛していたいのは君だから。君のことを、どうしようもなく、愛したいから……」
またどうしても触れたかった気持ちを押さえて、さらりとアニの髪の毛に指を通した。柔らかくてくすぐったい、愛おしい人のそれだ。
アニはぐっと眉根を寄せて、また俯いてしまった。耳の先までまた真っ赤になっている。
「……バカ」
「あれ? 照れた? 嫌じゃない?」
尋ねてもアニは返事をくれない。それどころかさらに身体を縮こまらせて、まるで何かを必死に保とうとしているようだ。
彼女の反応が待ちきれなくなった僕は、また覗き込むように身体を屈めた。
「アニ、またキスがしたいんだ」
そう言えば何か反応を示してくれるかなと打算したが、けれどアニにはそっぽを向かれるだけだった。僕は仕方なく顔を離して、ふう、と一息吐きながら天井を見上げた。
「……あんたさ、初めからこのつもりで私を推薦したの?」
下から声がして、僕は改めてアニのほうへ視線を向けた。彼女は膝を抱いたまま、僕を訝しむように見上げている。
「えー……五分五分かな。君と何か進展できたらいいなとは思っていたけど、僕の中で決まったのは今日君を見てからなんだ。僕は君にちゃんと気持ちを伝えようって」
顔を上げたまま高らかに宣言してやった僕だが、アニの咎めるような視線は止まない。僕の真意を見透かそうとしているのかもしれない。
……僕の真意。ふと、自分の中に渦巻く焦りのようなものに光が当たった。どうして今になってアニを恋人にしたいなんて思ったのか。……それはもちろん、アニに触れたかったという衝動はあったが、そんな一時的な欲求のためにそう思ったわけでもなかった。
僕は自分の中にある、醜い感情の存在に気づく羽目となった。
上げていた顔を下ろして、僕も先ほどアニがやっていたように足元を見つめる。敷き詰められた絨毯が目に入る。
「……ごめん、かっこ悪い話をするとさ」
僕はアニにはちゃんと話そうと思った。
「例えば今君が住んでいる街で、僕じゃない誰かと君が一緒になってしまうなんて、絶対嫌だから……その、ごめん、これは独占欲みたいなものなのかもしれない。君に約束させて、僕が安心したいだけ。……ごめん」
言いながらあまりの自分勝手さや不甲斐なさに嫌気が差して、思わず前のめりに肩を落としてしまった。膝に腕をついて手を組み、ああ、みっともないなと自省した。
「……いいよ」
「え?」
けれどアニから予想だにしなかった肯定の言葉が届く。その肯定は何に向けられたものなのかすぐにはわからず、僕は急いでアニの視線を確認してしまった。
アニは力を抜くように伸びをして、強張っていた身体を解しながら教えた。
「恋人になるならないは、まだ、よくわからないけど……」
ぴたりと、僕の眼差しとアニのそれが繋がる。
「あんた以外の誰かに靡かないことは、約束するよ」
それから、アニはそのきらきらした瞳で僕を射止めた。釘づけになった僕は、彼女の観念したような微かな笑みに心を奪われていた。
「…………いつも、あんただけを、想ってる」
「……んん、」
変な声が漏れてしまったのは、そう笑いかけてくれたアニに制御の効かないほどの愛おしさが溢れてしまったからだ。転げ回りたいほどに好きだと実感して、僕は今ここで裸踊りでも始めてしまいそうなほど、アニの愛らしさに正気を奪われそうになってしまった。完全に僕の理性が試されている。
そんなこととは露ほども知らないアニは首を傾げるが、そんな動作もまるで誘っているようで激しく悶えてしまった。
――ああ、キスがしたい。アニをこの両腕の中に捕まえて、心も身体も奪ってしまいたい。
また強烈な衝動に背中をドン、と押されていた。
僕はアニを囲うように身体を寄せて、
「キス、していい?」
彼女の瞳と僕の瞳を繋げて、それはもう吐息がかかるくらいの距離で、アニに言い寄った。合図があれば立ち所に触れてしまえる距離だ。
アニは瞳を揺らして熱を滾らせるばかりで何も言わなかったが、唇を触れ合わせたのはアニのほうからだった。
ネクタイを引かれて影が重なるまでこの身を寄せられた僕は、触れ合ったときは驚いたものの、すぐにその柔らかさに懐柔される。
もう触れ合わせるだけのキスでは満足できなかった。けれどそれはアニも同じだったようで、僕はアニの頬をこの手で包み込んでから、その魅惑的な唇を暴いた。
「……んっ、はあ、」
「は、あにっ……ん、」
舌が絡み合う。ざらりとした感触が心地いい。一年ぶりに味わうアニの唾液の味が、あっという間にまた僕の脳みそを熱くしていく。びりびりと甘い痺れが鼻の奥から頭蓋骨の中を突き抜ける。
「はあっ、あにっ、すきだ」
「あふ、みん……っ」
アニの口からも取りこぼした唾液と一緒に熱を含んだ吐息が漏れる。
あのとき、あの状況だから必死だったと先ほどは言ったが、今もお互いに必死だったと思う。一刻も早く、もっと深くに触れ合いたくて、何度も角度を変えて互いの唇を貪った。
アニにもっと触れたい、深く、深く、もっと密接に触れたい。
――トントン、と部屋の扉がノックされた音が耳に入った。
それを理解すると同時にドアノブが捻られた音が続いて、僕たちは慌てて互いを引き剥がした。
「アニちゃん、今いいかな?」
まだ顔を覗かせるよりも先に声が届き、それが誰だったのか瞬時に理解した。
「ぴ、ピーク?」
「あのさ、アルミンの居場所知らな――って、なに、ここにいたの」
「え、あ、そ、その……」
どうやらそこから顔を出したピークは、今まさにアニの上に覆いかぶさっている僕を探していたようだった。
そのなんとも言えない眼差しが咎めるように降り注いでいるような気がして、一気にこの空間を居心地の悪いものに変えてしまった。
「あのね、お取込み中のところ悪いんだけど、長官が探してたよ~。見つからないって困ってたから、ほら、行くよ」
声色はいつもの調子と変わらないので、僕とアニは見合わせてしまった。どうやら咎める意図は特になかったらしい。
それでも気まずさが拭えるはずもなく、僕はよそよそしくアニの上から身体を退けて、
「え、あ、うん。ごめん、わざわざ。今行くよ」
そしてネクタイを整えながら立ち上がった。
おそらくどうしようもなくだらしない顔をしているだろうことは自覚していたけれども、それをなんとか引き締めてアニのほうへふり返った。またね、と言うつもりで手のひらを見せたが、僕自身が惜しさで泣きそうだったので彼女の反応は直視できなかった。
「はあい。じゃあね、アニちゃん、また明日」
「あ、ああ」
アニの気の抜けた返事をそこに残して、僕はピークとこの狭い廊下へ出た。ピークがあまり音が立たないように優しく扉を閉める気配を感じて、ひどく落ち込みそうになる。
そうして二人で圧迫感のあるこの廊下を渡り始めた。
一年越しのアニとの夢のような時間を邪魔されたことに悔しさを感じていなかったわけではないが、それよりも絶対に後ろを歩いているピークにいろいろと勘ぐられているのだろうと身構えてしまった。鋭い観察眼を持ったピークのことだ、あんなあからさまな現場を見られては、もうどうも言い訳なんてできないだろう。間違いない、絶対に何か言われるだろうと、はらはらしてしまった。
「……閣下はお手が早いのですね」
ほらきた。僕は自分に答え合わせをして、なんとか踊らされないように自分を保とうとした。
「あっはは、手が早いだなんて。一年待ったんだから遅いくらいだよ。……いや、もっとか」
「あら意外。案外すんなり認めるのね」
後ろからの声は止まない。興味津々と言いたげなその軽い声に返した。
「君に隠したって仕方がないだろう。現にもうばれてるし……頼むからほかの人には言わないでくれよ。特に長官!」
「あら、私はそんなに野暮じゃないよ。でも、そうね、また今度ゆっくりお話聞こうかしら」
僕の背後から、うふふ、と楽しげだが品のいい笑いが聞こえてくる。酒の肴にでもされるのだろうな、思う存分にいじられるのだろうな。さまざまな可能性を瞬時に思い浮かべてしまい、
「あはは、なんだか怖いなあ」
ついつい本音を漏らしてしまった。
「こう見えてアニちゃんは妹みたいな存在なんだから、泣かせたら怒るからね?」
ピークはそれを何の気なしに言ったのだろう。だけど、それは僕の中でも明確にしておかないといけないことだったので、僕は釘を刺すように立ち止まった。
そしてピークに身体を向けて、しっかりと明言してやった。
「……僕が泣かせるのは、幸せの涙だけだと誓うよ」
僕の宣誓を聞かされたことに驚いたのだろう。ピークははたはたと瞬きをくり返して、それからまた品よく笑った。
「わお。期待してますね、閣下」
茶化すような返答とも言えなくもなかったが、僕はとりあえずまた歩き始めた。彼女の言葉で気になるところがあり、それを言及するかどうか少しだけ迷って苦笑を漏らしてしまう。
「あのさ……だから、こういうときだけそう呼ぶのやめてくれないかな。しかも閣下なんて、まだ駆け出しだよ」
そう、ピークは僕をからかうときにやたらと『閣下』と呼びたがるのだ。それもこれも、主にパラディ島へ向けたマーレを含む連合国の外交大使団のリーダーに僕を据えたいと、長官に打診されたことから始まったことなのだが……日々一生懸命業務をこなす僕を面白がっているとしか思えない。
「身が引き締まるでしょ、閣下」
「……もう」
ほらまた言った。そのあともピークとの雑談は少しの間続いた。
廊下を歩いていると、小さな窓が目につく。窓の外はすっかり夜も耽っていて……早くアニの元に戻りたいなと思ってしまった僕だった。
長官の部屋まで道のりは遠い。
おしまい
あとがき
みなさん、いかがでしたでしょうかー!
ハッピーアルアニバーサリー!!
せっかくなら131話にまつわるお話にしたいなと思い、今回このような形になりました^^
彼ら、一度身体を重ねてしまっていますからね……おそらく猛烈にお互いのこと意識してしまっていたんではないかと思います。
かわいいね。
このときに二人がお付き合いを始めたかどうかはご想像にお任せします!笑
これからも大変な道のりを歩むであろう二人ですが、見守らずにはいられません( ;∀;)
それでは改めましてご読了ありがとうございました!
お楽しみいただけていたら幸いです。