あのころ傭兵団の砦に新しい仲間が増えた。
クリミア宮廷騎士の兄が二人の弟を連れて団の長に頭を下げて頼み込んでいた。長男は同じくクリミアの騎士だった副長のつてでこのグレイル傭兵団の長を頼ってきたのだ。
離れて暮らしていた次男と三男は、腹違いの兄弟だった。父親が他界し、二人を育てていたのは三男の母だったが、暮らしに困り二人を置いて消息を絶った。そして母方が騎士の家であった長男はクリミア宮廷に仕えていたが、二人の面倒を見るために傭兵団を頼ってきたのだ。二人を預けてからまだ数年宮廷に仕えるが、後に傭兵団へ入団することになっている。
「おれはボーレ。よろしくな!」
複雑な境遇ながらも溌剌としている次男は、長の子たちへ元気よく挨拶をする。
「おれはアイクだ。よろしく」
「わたしはミスト。…よろしく、ね!」
二人の子供がそう返した。
「ボーレはアイクと歳が近いな。アイク、砦のことを教えてやれ」
長であり父のグレイルがアイクにそう諭した。アイクはこくりと頷いた。
「わたしもっ、わたしも教えるよっ」
ミストがそう訴える。
「ははっ、そうだな。ミストはヨファと歳が近いぞ。まあ、二人揃って教えてやるといい」
グレイルは三男のヨファのことを指し、そうミストに言ってやった。
「はーい」
ミストは明るくそう答えた。
「ねえねえ、ボーレ、どっからきたの?」
「おかあさんどんなひと?」
「すきな食べ物は?」
たどたどしく、しかし元気な声で立て続けに質問をしてくるミスト。ボーレは弟の世話で年下の子供には慣れていたが、女の子というものは特におしゃべりなものなのだと思った。
「ああ…もう、うるさいな~」
質問にはひとつひとつ答えていたが、それをついに口に出して言ってしまった。それを耳にしたミストは眉間にシワを寄せて不機嫌そうな顔になった。
それを背後からじっと見ていたのがアイクだった。ボーレはアイクもまた不機嫌そうな顔をしているのを見て、気まずくなった。
「あ、ああ…おまえら、そんな顔、すんな…」
ボーレにはこの光景が妹をいじめる奴を許さない兄、の図に見えた。アイクが睨みをきかせてくる。
「あ、そう、そうだ。ミスト、ヨファと遊んでこいよ。おれ、アイクに訓練のこと聞くからさ」
小さな子供であった彼らだったが、ここは傭兵団であるため、日常の雑用の他に剣術などの訓練もするのだ。ミストとヨファは特に幼いなどという理由で除外されているが。
「ふん…わかった。いいもん、ヨファとあっちに行ってお花つんでくるんだから!」
そう反抗的な口調でミストは言い捨て、走って去っていった。
「はあ…。なあアイク、おまえの妹うるさくないか?」
ミストの姿が見えなくなるとボーレはそうアイクに問い掛けた。
「まあな」
「な、なんだよ。なんで睨むんだよ」
問い掛けには同調してくれたのに顔が笑っていない。ボーレはそんなアイクにたじろぐ。
「別に睨んでない」
端的にそう返ってくる。妹に比べてずいぶん無愛想で口数が少ないと思った。
「そっか、それならいいや…」
ボーレは胸を撫で下ろし、そう返した。
「それはそうと、本当に訓練のこと教えてくれよ」
ボーレがそう持ち掛けるとアイクは頷き、訓練場としている開けた場所の方を指差す。
「こっちだ」
「おう!」
二人は小走りでそこに向かう。
「これだ」
訓練場に向かう途中、物置からアイクは訓練用の剣を取り出してきた。構えて一振りする。
「おーっ、それがおまえのか!」
興味津々といった様子でボーレはそれに注目する。
「貸してくれっ」
ボーレが手を差し出すとアイクはそれをさっと手渡す。
「ははっ、軽りぃ!」
力任せにぶんぶんと振り回すボーレ。
「おれ、薪割りとかして斧使ってたんだぜ。それに比べたら軽いぜ!」
「そうか」
アイクは淡々とそう言い、ずるずると何かを引っ張り出してきた。そしてそれをボーレに手渡す。
「おやじの斧だ。これなら強いぞ。ウルヴァンっていうらしい」
「おーっ! カッコイイ、すっげー強そう」
目を輝かせてボーレはそれを持ち上げようとするが、全く持ち上がらなかった。
「ふんぬぬぬぬ…!」
引きずることもままならない。ぴくりとも動かなかった。そしてちらりとアイクを見やる。
「ちなみに、これを勝手に持ち出したらおやじにものすごく怒られるぞ」
さらりとアイクがそう告げるとボーレは思わずぱっと斧から手を離した。
「ばっ、バッカヤロウ! 戻せ戻せ」
そう言われてアイクは再びずるずるとウルヴァンを引きずって元の場所に戻した。それを見てボーレは眉をしかめる。自分より背が低く細いアイクがこの重い斧を引きずりながらも運んでいるのを見て「どうなってるんだ」とでも言わんばかりだった。
「はあ…危ない危ない。しかしおれはおまえと違って斧を使いたいな。いつか強くなったらその斧を使えるようになりたいぜ」
そう宣言するボーレをアイクはじっと見つめる。
「なっ、なんだよ。おまえの父ちゃんのものだからダメとかいうのかよっ。おまえは剣を使うんだろっ」
ボーレのその言葉にアイクは頷く。
「そっか。だよなっ。よし」
「ボーレはおやじを倒すんだな。おやじより強くなったらそれ、使っていいって言ってたぞ」
ボーレは思わず首を激しく横に振った。
「おれもいつかおやじより強くなるぞ。ボーレ、おまえには負けない」
拳を作りアイクはそう言い放った。
「なんだとー! おれだっておまえに負けないぞ! おれのほうがおまえよりいっこ上なんだぜ」
そういいボーレは拳を固め、構えをとる。アイクも合わせて構える。
「………」
アイクはじっとボーレを睨みつけると、急に表に出た。
「逃げんのかよ!」
ボーレが叫ぶ。
「こっちのほうが広い」
そう言い、アイクは訓練場に向かった。
「…ちょっと、あなたたち! 何やってるのよ」
慌てた様子の女性の声が聞こえてくる。彼女が目にしたのは、訓練場で取っ組み合いをしているボーレとアイクの姿だった。
ちょうどボーレがアイクに馬乗りになって掴みかかっていたところだった。
「ボーレ! 女の子をいじめちゃだめでしょ」
その言葉にボーレはぴたりと動きを止める。その隙にアイクは抜け出して起き上がり、ボーレに頭突きをする。
「!!」
目から火花が出る勢いだった。
「…っ、いってぇ…」
くらくらとしながらボーレは呟いた。そしてすぐにアイクに目をやる。
「ティアマトさん、何言って…」
ボーレの頭の中に大量の疑問符が沸いているようだった。
「アイクは女の子なの、優しくしてあげて」
「ええええーっ!?」
二人は訓練場をあとにし、小川の方へ歩いていった。
「ここで魚をとるんだ。釣竿はシノンがよく作ってるぞ」
年上の団員の男のことを指し、そう説明するアイクだった。そんなアイクをじっと見つめるボーレ。
「おれはあまり釣りは得意じゃない。こっちの方が早い気がする」
そう言ってアイクは靴を脱ぎ、裾をめくると川に入っていった。
「おいっ」
ボーレは思わず、そう声を出してしまう。弟もこうして予測不可能な動きをするため、条件反射的に心配をしてしまう。
それをよそに、アイクはそのまま中腰でじっと固まっている。無意識に拳を握りながらボーレは息を飲んでそれを見ていた。そして突如アイクが動く。ボーレはそれに反応してびくりと動いた。口数が少ないくせにかなり予測不可能な動きをする奴だと思った。
「よし」
川から上がってきたアイクの手には一匹の魚があった。
「っていうか手で取ってるし!!」
そう突っ込まずにはいられないボーレだった。
「これをシノンといるときにやると魚が逃げるっていうからできないんだ」
アイクは魚を地面に置くと、足を投げ出してそのまま座り込む。
「なにやってんだ」
「足を乾かしている」
なんて行き当たりばったりな奴なんだろうと思った。
「…あのさ」
「なんだ?」
「おまえ、女なのか?」
「そうだ」
そしてしばしの沈黙。
ちらちらと横目にボーレはアイクの容姿を見やる。
短く切られた髪。擦り切れた地味な色の上衣。きゅっと上がった眉。
それだけを見ると男とも女ともはっきり言えない。しかし、その口調や活発さは男児のようだった。それでも本人は女児であることを否定しない。
「…悪りぃ、便所どこだ?」
さまざまな思いを去来させたが、ボーレは急に尿意におそわれた。そう問うと、アイクはある茂みを指差す。
「おい、そっちは単なる茂みだろ」
「いつもシノンはあっちでしてるぞ。近いからって。釣りしてる途中にいちいち戻るのが面倒って言ってた」
アイクは実例を出しそう示した。
「そっか。じゃあいいか」
そしてその茂みに向かう。
「おい、なんでおまえも来るんだよ」
「おれもしたい」
ボーレがスボンを脱ごうとしていたとき、アイクがすっと茂みに入ってきた。アイクもズボンを脱ごうとする。
「ちょ…っ」
「おれも立ってしたいな…」
しゃがみ込み、アイクがそう呟く。
「おやじなんかすごい遠くに飛ばすんだ。面白そうだ。ボーレ、おまえはどれくらい飛ばせるんだ?」
「うーん、こんくらい」
それをじっと見つめるアイク。
「おお、でもまだシノンより飛んでないぞ。がんばれ」
「くそーー!」
「終わりか」
「…もう出ないぞ」
脱力したようにボーレはそう呟く。
「おれは、これだけはおまえに勝てないな。悔しいぞ」
そう言いながらアイクは立ち上がりズボンを履いた。
「あ、あのな………」
そう呟くボーレの頬が紅潮していた。
「あ、そうだ。おれがここでしたって言ったらティアマトに怒られるから黙っててくれ」
「わ、わかった……」
そこでようやくアイクを女なのだとはっきり認識したボーレだった。その夜、ボーレはなかなか寝付けなかったという。
長男が騎士団を退団して傭兵団入りした。
「みなさん、ボーレとヨファがお世話になっております。私は先日までクリミア宮廷に仕えておりました長男のオスカーと申します。傭兵団の仕事は戦闘から家事までさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします」
物腰柔らかな男だった。
「こちらこそ。頼むぞ、オスカー。聞くところによるとその料理の腕は達人級だと」
グレイルがそう期待の眼差しを向ける。
「そこまでかどうかはわかりませんが、家では料理も仕込まれておりました」
オスカーはこの場では言わなかったが、貴族階級の者は毒殺を避けるために自ら料理を嗜む者が多いという。グレイルはその事情も察していた。
「宮仕えではありましたが、私が得意なのは家庭料理です」
そう、にこやかに話すオスカーをミストがじっと見つめていた。
「おりょうり、教えてね」
そう見上げながら話しかけてくるミストにオスカーは優しく微笑む。
「ああ、いつでも教えるよ。君はミストだね、よろしく」
こくりと頷くミストの隣にいたアイクもじっとオスカーを見つめている。
「どうしたんだい? 君はアイク、だよね」
「…あんた、目はどこだ?」
アイクはオスカーのその細い目のことを指して言った。
「ぶっ、あっはっはっは! 兄貴の、目! 糸目! そうだ、見えねえし!」
それがツボに入ったボーレは大声で笑い出した。
そんなボーレをよそに、オスカーはアイクに話し掛ける。
「よく見てごらん。ちゃんとあるんだよ」
「本当だ」
二人はじっと見つめ合った。それを見てボーレが眉をひそめる。
「アイクは目が大きいね。女の子だからかな?」
オスカーのその言葉にアイクはその目をさらに見開く。ボーレはそれに増して驚きの表情になった。
「あっ、兄貴! なんで分かるんだよ! こいつが女だなんて」
「ボーレ、おまえはアイクが男の子だと思っていたのかい?」
「だって、だってこいつ…」
ボーレは大袈裟な身振り手振りで訴える。
「男は言い訳をするものじゃないんだよ、ボーレ」
オスカーはただその一言を返し、ボーレの肩にぽんと手を置く。ボーレは落ち着き、静かに頷いた。
「オスカー、よろしくな」
アイクが手を差し出す。
「よろしく。困ったことがあったら相談してね。私も砦のことでわからないことがあったら聞かせてもらうよ」
「わかった」
握られた手の感触は少し骨張っていて大きく、温かかった。アイクの頬に少し赤みが差していた。
その日の夕食はオスカーが支度することになった。
「本当、助かるわ」
仕込みの終わった夕食の快い香りの中、ティアマトが皿を並べていた。今まで食事の支度は男所帯なため、ティアマトが中心に行われていた。
「はあ、オレもちっとは解放されるな」
そう呟きながら盛り付けを手伝うのはシノンだった。いつも面倒だと文句を言いながらも、盛り付けまできれいに行っていた。味にはうるさい方である。
「シノン、基本的には当番制なのだからこれからもあなたが用意する日はちゃんとあるのよ」
「ちぇっ」
ティアマトがそう釘を刺すと少し落胆したようにそう舌打ちするシノンだった。
「おれも、手伝う」
アイクがじっと鍋を抱えるシノンを見つめている。
「あーっ! いらん、いらん。邪魔だ。てめぇにやらせたらぐちゃぐちゃにするじゃねえか」
面倒だと文句は言うわりにこだわりの強いシノンであった。
「…シノン、やらせてあげてくれないか?」
そう穏やかにオスカーが諭した。その言葉にしばし動きを止めて怪訝そうな顔をするシノンであったが、オスカーのその細い目で見つめられると、何かはねつける気が失せた。
「ほらよ」
鍋は渡さずにトングだけを手渡す。アイクはそれを受け取り、シノンがすでに盛り付けたものを参考に鍋の中身を並べていく。
「こんなに肉を盛るな! てめぇ、自分でそれ食う気だろ!」
「そうだ」
「アホか! この意地汚いガキめ! てめぇはこれでも食ってろよ」
シノンはアイクからトングを取り上げ、多すぎる肉を戻し、香り付けの月桂樹の葉をあるだけ盛った。
「いらん」
そう言いアイクは手で葉をつまみ鍋に戻す。
「手で触って戻すんじゃねえ!」
シノンはそう語気を荒げて言うとアイクの頭を殴る。アイクは不機嫌そうな顔で頭を摩った。少し瞳に涙を溜めている。
「まあまあ」
その間にオスカーが割って入る。
「アイク、いいかい? 料理はみんなの分を考えて作っているんだよ。ちゃんと皿には同じだけきちんと盛らないとだめなんだ」
「わかった、すまん」
オスカーに優しく諭されるとアイクは素直に納得した。
「でも、手伝ってくれようとしたその気持ちはありがたいよ。ありがとう」
オスカーのその言葉にアイクは目を見開き、口をきゅっと結んで頷いた。
「…ケッ」
シノンが舌打ちする。
その光景を見つめていたティアマトは笑みを漏らした。
「ハラへったー! メシ! メシ!」
外で遊んでいたボーレがドタバタと音を立てて食卓まで駆けてきた。
「今日はなんだ? うまそう!!」
盛られている料理に思わず手を伸ばそうとするボーレ。
「ボーレ!」
鋭い声がボーレをその場に釘付けにする。思わぬその声にびくりと反応してボーレは動きを止めた。
「きちんと食卓に揃って座ってからにしなさい。あと、手を洗うように」
ボーレの目線の先には、見開かれたオスカーの糸目があった。普段は開かれることのないその目が開かれているのを見て、顔が引き攣った。
(恐っ!)
そしてボーレはオスカーの言うことに従って手を洗ってから着席した。もう一度兄の方を見ると細い目でにこやかに笑んでいた。
「いただきます!」
傭兵団の全員が卓を囲み、食事を開始した。
「わあ、うめぇ! やっぱ兄貴のメシうめぇ!」
ひときわ大きな声でボーレがそう感想を漏らしていた。
「ボーレ、落ち着いて食べなさい。でも、そうね。オスカーの料理は本当、美味しいわ。肉も柔らかく、味がよく染み込んでいて、それでいて臭みが消えていて…」
ティアマトがボーレを諭しつつそうしみじみと語る。
「おいしい!」
ミストが満面の笑みでそう言った。その横でアイクは黙々と平らげていく。ボーレと同じくらいの早さだ。そして二人の皿が空になる。もうそれで終わりと思いきや、卓の中央の鍋の中にはほんの少し、皿に盛りきれなかった分の肉があった。
「ずりぃ! それおれも食おうと思ってたんだ!」
「うるさい、おれのだ」
「よこせっ」
アイクがさっとその肉を取ると、ボーレが抗議する。そしてアイクの皿に置かれた肉をさらおうとする。
「やだっ」
「なんでおまえばっかり食うんだよ!」
次第に喧嘩が始まろうとしていた。これはよくある光景だ。いつもはそこでティアマトが注意をするのだが
「ボーレ、やめなさい。それはアイクにあげなさい」
オスカーがそう口を出してきた。
「なんでだよ! 兄貴!」
「今日は、アイクが手伝いをしてくれたんだ。ここは傭兵団だからね。働いた者は多くの報酬が得られるんだよ」
そう筋が通った諭し方をされると手を引くほかなかった。それを見てティアマトとグレイルが納得したように数度頷いた。しかしシノンが何か言いたげな顔をしている。
(ケッ。こいつ、てめぇの分の肉をてめぇで多く盛ろうとしやがったくせに…)
シノンが何を言いたいのか察したティアマトはシノンを卓の下で小突き、黙っているように、という合図を送った。
(台無しにしないで、シノン)
無言の圧力に屈したシノンは顔を引き攣らせながらグラスの水を一気にあおった。
そんなやりとりをよそに、アイクは食べる権利を手に入れた肉を口にする。
「オスカー、うまかった。ありがとう」
食べ終わるとそう端的な言葉を発する。その大きな蒼い瞳で少し上目づかいに。赤みが差したその頬は林檎のようだった。それを向かい側から目にしたボーレはしばし見とれた。
そんな自分に気付いたボーレはがたんと音を立てて椅子を起ち、自分の分の食器をそそくさと流しへ運んでいった。ガチャガチャと音を立てていて危なげだ。
「よかったよ、喜んでもらえて」
にこりと微笑むオスカーと可愛らしく頷くアイク。
「ごちそうさまっ!!」
流しに食器を置いたボーレはそう大声で言い捨てて外へ駆けていった。
「なーんだありゃ」
シノンが呆れたような口調で言い放つ。
「うーん、ボーレも食い盛りだから足りなかったか。貧乏傭兵団ですまんな。肉はなるべく多めに狩ってこないとな」
グレイルが申し訳なさそうにそう呟いた。
「そうですね、ガキどもに食われてとても足りないんでオレももっと気張って狩ってきますよ」
そう、シノンが変な笑みを浮かべながらグレイルの言葉に応えていた。少し、鼻から笑いの息を漏らしている。
それを見てティアマトが一つため息をついた。
(グレイルは本当にこういうことに関しては鈍くて駄目ね…。そしてシノン、余計なことしないでね)
何本目かの薪が真っ二つになった。ボーレは新たな薪を切り株に置き、斧を振り下ろす。
「うわっ」
手元が狂い、置いた薪を外し、斧が切り株に刺さる。
そのときボーレの脳裏に浮かんでいたのは先程の兄の笑みとアイクの顔だった。
ボーレはしゃがみ込んで割れなかった薪を手に持ち、無心で切り株に何度も叩き付けた。やり場のない感情をぶつける。
「ボーレ」
背後から声がする。ボーレは慌てて立ち上がり振り返る。
「あ、兄貴っ! おれ、ちゃんとやってるって! 薪割りとか…! だから肉食わせろよなっ!」
手にしていた薪を切り株に置き、もう一度斧を構える。そして振り下ろす。
「訓練もまじめにやってんだ。おれも強くなってちゃんと傭兵になるんだっ」
薪はきれいに割れ、斧が深く切り株に刺さる。
「…わかってるよ。おまえは頑張っている」
オスカーの静かな声が響く。
「ときには喧嘩したっていい。私はあまりおまえと喧嘩もできなかったな。アイクとはいつもあんなふうなんだろう?」
その言葉にボーレはこくりと頷く。
「おまえはそうやってアイクと過ごせばいいよ。一緒に大きくなればいい。でも女の子だってことは時々、忘れないであげて」
「時々……」
ボーレはオスカーの言葉を受けてさっと思いを廻らせる。
「たまにあいつ、女だったんだっていうときがあって…。ついてねえの見ると思い出してびっくりするっていうか」
独り言のように呟くボーレ。
ともに用を足すときに見るそれ、風呂に入るときに見るそれ。
そして兄が彼女に向けて言った言葉。「女の子だから目が大きいのか」ということ。よく見ると長い睫毛と相俟って人形のように愛らしい顔立ちだった。ほんのり頬が赤くなったときは増して。
「あわわ、今のナシ! ナシな! 聞かなかったことにしてくれっ」
ボーレの顔が耳まで赤くなっていた。
「わかった。また、そういうことも気になったら相談するんだよ。ちょっと他には相談しにくいこともあるだろう」
そう言い、オスカーはボーレの肩を叩く。
「…あのさ、兄貴」
「なんだい?」
「兄貴がこっち来てくれて、よかったよ」
俯きながらそう呟くボーレ。
「おやじが死んでからおれ、あの女嫌いだけど頑張ったんだ。ヨファがいるのに逃げていったあの女が嫌いだ。おれたち、捨てられたんだ」
彼は自分と弟を置いて出ていった義理の母のことを吐き出すように言い捨てた。
「ここはみんな優しい。厳しくもあるけどあそこにいたときよりいい。絶対にいい。でも、でも…」
次第に涙声になっていく。オスカーは何も言わず再び数度彼の肩を叩く。
「私はおまえたちと一緒だよ」
オスカーのその言葉に涙腺が決壊したボーレは声を上げて泣き出した。
しばし、その場から動けなくなっていた少女が一人。
夕食の片付けのあと、ボーレの姿を何気なく探していたアイクだった。
彼女はちょうど、オスカーがボーレに相談してくれ、と言ったあたりからその場に遭遇した。何となく、立ち入ってはいけないものを感じたのでその場に入っていくことはしなかった。ちょうど、二人からは見えないところにいたので、その場に留まって様子を伺っていた。
そして、彼女も自分を慕ってくる妹のことを思う。きょうだいというのはかけがえのないものだと、そう感じた。
そういえば、ボーレには父親も母親もいなかったのだ。ミストが
「おかあさんどんなひと?」
と質問したときに一瞬見せた哀しげな顔。それでも彼は
「おれ、かあちゃんいねーんだ。いたらきっとティアマトさんみたいじゃないか」
と明るく返していた。
次の日──
いつものようにアイクもボーレも勢いよく夕食を平らげていく。そして二人とも足りないと訴え、卓の中央の配膳がなされていない残りのものを見つめていた。
(またやってやがる…このガキども)
シノンが微妙な笑みを浮かべながらそれを見ていた。
「今日はおれも薪割り手伝ったんだ」
「おれだって水汲みしたぞ」
オスカーの提示したおかわりの条件をクリアした、と思っている二人はそう言い合い、睨み合う。
「えいっ」
アイクが一足先に手を伸ばし、肉を取った。
「くそっ!!」
そうボーレが悔しげに声をもらすと、それはボーレの皿に置かれた。
「やる。食え」
目の前に置かれた肉とアイクのその言葉にボーレは驚きのあまり固まった。
「あ、あ、アイクが…肉を…!」
「食わないのか? ならおれが食うぞ」
アイクが鋭い目線で睨むように見つめてくる。
「い、い、いや、食う! 食うぜ!」
ボーレは慌てて肉を口に放り込み、勢いよく噛み、飲み込んだ。
「うっ!!」
慌てて飲み込むように食べたため、喉に詰まらせた。
「ぶわっはっは! バーカ!!」
シノンが大笑いする。が、すかさずティアマトの肘鉄がシノンに入る。
「はい、ボーレ。落ち着いて」
オスカーが水を差し出した。ボーレはそれを受けとってごくごくと飲む。
「はーっ…」
ようやく落ち着いたボーレは胸を手で押さえながら息を吐き出した。
「ごちそうさま」
そんなボーレをちらりと見つめるとアイクは席を立って食器を流しに片付ける。ボーレも席を立って食器を持ち、流しまで行く。
「…ありがとうな」
ボーレがそう礼を言うとアイクはじっと見つめながら頷いた。その見開かれた大きな蒼い瞳と林檎のような頬が忘れられなかった。
まだ実戦には出られないが、真剣を扱う訓練をするなど、一人前の戦士の仲間入りへ少し近づいてきたころ。
「147、148、149、150…!」
決められた回数の腕立て伏せを終えるとアイクはその場にばたりと倒れ込むように伏せた。
「149…150…」
同じくボーレも倒れ込む。
このほかに腹筋、背筋、などの基礎鍛練もすでにこなしている。
「つーかれーたー…」
床に伏せながらボーレがそう声を出す。
ここはボーレとヨファの部屋である。二人は訓練場での訓練が終わったらいつもここで自主的に基礎鍛練を行っていた。
「こんな地味なことより組み手のほうがずっといいぜ…」
ボーレはあまりこれが好きではなかった。しかし
「じゃあおれのほうが先に強くなるからな」
そう言ってアイクが黙々と鍛練をするので、対抗心から怠けずにこなすことになる。
「でも、最近筋肉ついてきた気がするぜ」
起き上がり、ボーレは力こぶを作ってみせる。子供の腕なのでまだ細いが、鍛練の成果は着実と表れていて、小さなこぶができた。筋肉の筋も見える。
アイクも対抗して力こぶを作るも、ボーレほどこぶができない。腕もボーレより細い。
「へへっ、おれのほうが鍛えられてんな」
「くそっ」
悔しげにそう声を漏らすとアイクはおもむろに上衣をめくり胸を出す。
「ここはどうだ。おやじが言ってた、ここも大事な筋肉だって」
胸筋のことを指して言う。
「へっ、ここも固くなってきたような気がするぜ。前より重い斧持っても筋肉痛とかにならなくなってきた」
ボーレも胸を出して見せる。アイクは自分の胸と比べて満足のいかない顔をする。
(何か違う…ボーレのほうがおやじに近い…)
おもむろにアイクはボーレの胸を触る。
「どうだ! おれはムキムキになってガンガン戦ってやる!」
少しずつ鍛えられてきた体を誇示し、ボーレはそう宣言した。
「なーんだ、おまえはあまり鍛えられてないな!」
そう言ってボーレがアイクの胸を触る。
「…痛っ」
アイクは短くそう声を漏らし、反射的にボーレの手を払った。
「なんだよ、鍛え方が足りないな! 筋肉痛か?」
「…ボーレ、おまえは痛くならないのか? 鍛練しすぎで痛いのか。最近、うつぶせに寝ると痛くて…」
アイクは上衣を下ろし、胸を押さえる。
「いいや、おれはそんなことはないぞ」
ボーレは首を横に振る。
そして、アイクは剣の訓練中もずっと胸に痛みを感じていた。それで気が散り、ボーレとの組み手で負ける率が高くなったり、グレイルからの指南のときに隙を突かれるのが早くなった。
アイクは自分の鍛練不足だと思い、胸の痛みのことは誰にも言えないでいた。
この日も不調のまま訓練を終え、ボーレとの自主鍛練のあと、風呂へ向かった。時間と薪と水の節約になるからと子供達は二人一組で風呂に入ることになっている。ボーレとアイクは訓練と自主鍛練の時間上、一緒に入ることになっていた。
「はーっ、今日もおれはよくやったぜ。早く実戦に出られるようになりたいな。おまえより早く出られそうだな」
このところ、組み手でアイクに勝つことが多くなったので自信がついているボーレだった。
「くそっ」
アイクが悔しげに声を漏らす。
「そういや、おまえ、胸が痛いのまだ治んねえのか?」
「ああ…。なんか、前より痛い。動いたら特に」
そう言って湯舟から上半身を出して見せるアイク。
「ん?」
ボーレは何か違和感を感じる。そして思わずアイクの胸を掴み、揉む。
「やっ」
アイクはびくりと反応して、いつもとは違う声を出してボーレの手を払った。
「はあっ!?」
払いのけられた手をじっと見つめるボーレ。その手には確かに柔らかい感触があった。そしてアイクのその鼻に掛かったような甲高い声。抑揚に乏しく淡々と喋る低めのトーンの声がいつもの彼女の声だったが、それとは明らかに違った。
彼女もそんな自分の声に驚いたのか、無意識に手で口を押さえていた。
「な、なんでもない」
アイクはくるりと後ろを向いて湯舟に肩まで浸かった。
「あ、ああ。じゃあおれが先に体洗うな」
そう言ってボーレは湯舟から上がり、綿布で体を擦りはじめた。
(…これって、これってもしかすると…)
手の平の感触を思い出す。ほんの僅かにだが感じたその弾力。
(やべぇ…)
ざっと桶の湯を頭から被る。
(これっておっぱいじゃねえか!!)
そして体を洗い終わったボーレはアイクと交代する。ボーレは湯舟に入るとすぐに後ろ向きになった。しばし、そのまま悶々と思い返す。そのままやり過ごそうかと思ったが、気になりちらりと彼女のほうを見る。
ちょうど後ろを向いている。視線には気づかないだろうと思い、彼女の体を眺めてみた。
(う…、やっぱこいつ女だ)
まだ幼いながらもその腰の線がなだらかで、自分とは異質なものだと彼は思った。やわらかそうな臀部を見つめると触りたいという欲求すら沸いてくる。
(なんで、こいつの…っ)
見慣れているはずのそれだった。しかし、今までになかった乳房のふくらみを知ると、途端に意識させられる。
(う、な、なんだこれっ)
ボーレは自分の下肢に異変を感じた。
「よし、終わったぞ。ん? どうした、ボーレ」
「…なんか…でかくなっちまった…」
「本当だ。おまえ、そこも鍛えたのか?」
アイクは興味津々でそこへ手を伸ばす。
「べ、別に鍛えてねえけど…」
「そうか。でもここもおやじのに近くなってきてんだな。いいな」
アイクにそこへ手を触れられて、ボーレは体が硬直した。そして目線が彼女の乳房へいってしまう。見慣れたはずの胸板だったはずが、乳頭もつんと立っていてなまめかしい。
「あ、あああ…あの、さ」
「なんだ、ここ。固いな」
「うあっ」
きゅっ、と握られて思わず変な声が出る。
「ったく、や、やめろって」
「すまん」
そう言われてアイクは素直に手を引っ込めた。
「あんまり長風呂してるとあとがつっかえてるって怒られるからそろそろ出ようぜ」
「ああ」
ボーレがそうぎこちない口調で提案すると二人は風呂場をあとにした。
その夜──
寝台に横たわり、布団を頭まで被ってボーレは悶々としていた。上下段になっている寝台の下段には弟がすやすやと眠っている。
(あいつ…胸が痛いって言ってんのって、おっぱいが揺れてるからじゃねえのか…)
そう思うと、組み手のときに胸の痛みが気になっているような顔が思い出される。途端にその表情がなまめかしく思える。
(う…! ま、まただ)
下肢に異変を感じる。思わず手を下穿きの中に入れてしまう。
(なんだよっ、これ…。ちんちん固てぇ…)
そして、先程彼女に触られたことを思い出す。そのとき見た彼女の小さな乳房。
(あーっ! どうしよう、むずむずする)
下穿きの中に入れていた手を動かしてむず痒い感じを解消してみようとする。
(はあ…や、やばい)
その刺激が次第に快いものだと気付く。こうなると止まらない。彼女のやわらかそうな臀部と丸みを帯びた体の線、そして直に触られた手。あのままずっと触られ続けていたらどうなっていたことか。それを想像しながら手の動きをいっそう激しくする。そしてそれが強まって快感が頂点に達する。
「はあ……っ…」
荒くなる息を整える。胸がどくどくと鳴るのを感じる。
(ど、どうしようっ、これ……)
達したときに吐き出したものが手の中に溜められている。
(そういえば最近、朝起きたら漏らしてるのかっていうときがあったけどこれと同じなのか…?)
ボーレはそろりと起きだして水場まで静かに歩いていった。手を洗い、戻る途中で兄の部屋から明かりが漏れているのに気付く。そして話し声が聞こえる。
「…なあ、いいか? オスカー」
「何だい? アイク」
アイクがオスカーに相談しようとしているようだ。アイクがこんな時間に起きているということは、皆が寝静まったころを見計らったのだろうか。
「おれ、最近…剣の鍛練の調子が悪いんだ。基礎鍛練もちゃんとやってて鍛えてるのにボーレみたいに筋肉つかないし、肉も食べてるのに」
思い詰めたような顔でアイクはそう訴える。
「おやじが肉食って鍛えたら強くなるって言ったからやってるけどあまり大きくならない」
そう言い、背伸びしつつ見上げてくる。
「オスカーのメシ、うまいから前よりもっと食ってるけど、何かもっとでかくなれるメシあったら頼む」
オスカーはにこやかにアイクの話を聞いているが、胸中は複雑だった。
「わかったよ、アイク。なるべく、鍛練のあとに食べてもおなかいっぱいになるようなご飯を作るよ。でも、君が大きくなるのはもう少し先だから焦らなくていいんだよ。それと、君は女の子だからボーレみたいにはならないよ」
オスカーのその言葉にアイクはショックを受けたのか、目を見開いて固まった。
「そ…そうか……」
肩を落としてうなだれるアイク。
「でも、大丈夫だよ。女の子でも強くなれないことはないよ。ティアマトさんだって立派な騎士だったし、今もこの傭兵団の中では団長の次に強いから」
それを聞いてアイクは顔を上げる。
「だよな、うん。よかった。おれも立派な傭兵になるんだ。鍛練もあきらめないでやる。でも…」
アイクは上衣の裾をめくって胸を出す。
「ここ、鍛練のとき、痛くて…。おれの鍛え方が足りないのかって思っておやじに言ったら怒られるかなとか……」
それを見てオスカーはさっとアイクの手を解き、裾を下ろした。
「アイクは悪くないよ。誰も怒らないから大丈夫。でもね、ここは…治療のとき以外、男の人に見せたら駄目だよ」
その言葉にアイクは首を傾げる。
「それはティアマトさんに相談してみなさい。きっと鍛練のとき、痛くないようにできる方法を教えてくれるよ」
解決方法があると聞いて、アイクは顔を輝かせた。
「わ、わかった!」
そこでボーレは慌ててその場を立ち去る。
(やっぱな、ありゃあ、おっぱいだよな…)
「はーっ、今日もきつかった! よし、腕立て伏せも終わりっ」
そう言ってばったりと床に伏せるボーレ。アイクも同様に休憩していた。二人は今日もまた、こうしていつものように日課の鍛練をこなしていた。
「そろそろ風呂にいかないか?」
しばらく休んでいた二人だったが、アイクが起き上がりそう持ち掛ける。
「いいや、今日は兄貴と入るっ」
「なんでだよ」
「いいからっ、おれはおまえとは一緒に入らないぞ」
「…なんでだ」
ボーレは思わずそう拗ねたように訴えてくるアイクの胸を見てしまう。
「おれは男だ、おまえは女だ、だからだ」
その言葉にアイクは眉を歪めた。
「…わかった」
そう言い、アイクは部屋を出ていった。その様子を見てボーレはひとつため息をついた。
子供二人でちょうどだった浴槽は、大人と子供が入ると少し狭い。それにボーレは子供とはいえ大きく成長してきた。
「おまえ、背が伸びたな」
「へへっ、そうか? おれも肉たくさん食ってでっかくなって鍛えて早く一人前になるんだっ」
オスカーがボーレの背中を流しながらそう言うとボーレはそう嬉しそうに返した。
「はは、おまえもアイクと同じこと言ってるな」
オスカーは軽く笑った。
「あ、あいつもか…」
ボーレは少し言葉を詰まらせながらそう返す。
「あいつ…あの、その」
「うん、わかってるよ。お互い、そういう歳になってきたんだ。それでも今までと変わりなく接すればいいよ。でも、わかっていると思うけどある程度の線引きは必要だからね」
その言葉でボーレはすっと胸を軽くした。そしてひとつ相談をしようと思った。
「あ、あのさ…」
「何だい?」
「おれ、あいつと一緒に風呂入ってるときあいつの胸とか腰とかケツとか見てここが立っちまったんだ…。それ思い出したりしてもそうなって、いじってたら何か漏らしちまって…。どっかおかしいのかって思ったんだけど…」
ボーレは下肢を指してそう疑問を口にする。オスカーは何かを思ったのか数度頷く。
「ボーレ、今はどうだい?」
「いや、別に…」
「なら普通だよ。女の人の裸を見てそうなったんだからね」
普通、というその言葉に安堵を覚えると同時に「女の人」という言葉にはっとしたボーレは口元をきゅ、と結んだ。
「兄貴もおっぱい見たらそうなるのか?」
「そりゃあ、私も男だからね」
兄のその言葉に笑みが零れる。少しくだけたようなその口調がより自分と近く感じられて嬉しかった。
「よかった、兄貴もか。でも、おっぱいはでかいほうがいいよな」
「アイクは大きくなると思うよ」
オスカーのその言葉にボーレは噴き出した。
「な、なんであいつのっ…」
「おまえはアイクが好きなんだろう?」
「ちがっ…違うっ」
そのころ。
「あ、あの」
「なあに? アイク」
ここはティアマトの部屋。ちょうど敷布を変えたりしているところを見計らってアイクはそう声を掛けた。
「こういうことはティアマトに聞くといいって言ってたから…」
少し恥ずかしそうに切り出すアイク。
「言ってみなさい」
ティアマトは膝を折り、彼女の目線になって優しげな口調でそう問い掛けた。
「鍛練のとき、ここが痛い。うつぶせで寝てるときも…。おれの鍛え方が足りないのかって思ったんだけど」
アイクは自分の胸を指してそう訴える。ティアマトは彼女の服の上からそっとそこに触れる。
「ごめんなさいね…気付いてあげられなくて…。あなた、胸が大きくなってきたのね」
ティアマトがそう言ってやるとアイクは自分の胸元を見る。
「…何か、動いたときに痛くて、気になって…調子が悪くて、おやじに最近隙が多いって言われたんだ」
そう思い詰めたようなアイクの様子にティアマトは、自分がいてよかったと思った。
(やっぱり男親って気付かないものなのかしら…)
もっとも、グレイルは特に無頓着な性格なのだが。それはある意味アイクにも遺伝しているのかもしれない。
「仕方ないわね、あなたのお父さんはそういうことに気付かないんだわ。でも誰も悪くないのだから気にしないのよ」
ティアマトのその言葉にアイクは頷いた。
「ちょっと待っててね。鍛練のとき、動いてても痛くならないように胸を支えておく方法を教えるわ」
そう言ってティアマトは長めの晒布を用意してきた。そして、アイクに上衣を脱ぐように促す。
「そう、手をちょっと上げてて。少し苦しいかもしれないけどこれで巻いて締めておくの。特に鍛練のときはきつめにやっておかないと緩んできちゃうから」
その言葉通りティアマトはアイクの胸に晒布を巻いて締めていく。アイクはじっとその様子を見つめる。少し苦しそうな顔をする。
「はい、ちょっと動いてみて」
アイクはその場で飛んだり跳ねたりしてみる。そして辺りを走り回ったり、剣を振り下ろしたりするような動作をしてみる。
「どうかしら?」
ティアマトにそう聞かれてアイクは自分の手を胸に当てる。
「…痛くない」
そして凄い発見をしたような顔でそう呟いた。
「よかったわ。これで集中して鍛練ができるわね」
優しげに微笑むティアマトに向けてアイクはこくりと頷いた。
「でもちょっと苦しいな…」
アイクは苦しそうな顔を見せて手を上衣の中に入れ、胸に巻かれた晒布を弄る。
「それはちょっと…慣れるしかないわね。もっと胸が大きくなってきたらまだ苦しくなるかも」
「えっ…やだな。あまり大きくならないほうがいいな…」
そう困ったような顔を見せるアイクをティアマトはぎゅっと抱きしめた。
「確かに戦いになったら邪魔かもしれないけど、大きくなっても嫌だとか思わなくてもいいのよ。あなたのお母さんもこうやってぎゅってしてくれたはずよ」
抱きしめられてちょうどティアマトのふくよかな胸に顔があたる。
「…そうなのか、わからないけど…」
母親の記憶がおぼろげにしかないアイクはそう呟くが、ティアマトに抱かれたまま背に腕を回し、そのぬくもりを感じた。ティアマトはその様子にいとおしさを感じた。
「あなたも、好きな人にぎゅっとしてあげてね」
アイクはそのまま小さく頷いた。
翌日──
早速、ティアマトに教えてもらいながら胸に晒布を巻いたアイクは、胸が固定され動きやすくなり、隙が軽減された。
「うわあっ!」
組み手でアイクに隙を突かれたボーレが声を上げる。
「…はあ、おまえ、急に動きがよくなったな」
「おまえはなんか隙が多くなったな」
「う、うるせぇっ」
アイクの動きが機敏になったのもあるが、ボーレの集中力が下がったのもあった。ボーレはアイクの胸元が気になり、ついそこに目がいってしまった。
(なんか、おっぱい小さくなったような…)
会話しながらもちらちらと見やる。
「なんだ?」
「そういえばおまえ、胸痛いの治ったか?」
「ああ。晒し巻いたら痛くなくなった。固定されるかららしい」
そう言ってアイクは自分の胸元を押さえる。
「…見せないからな」
「見ねえよ!」
アイクがそう言い捨てるとボーレは顔を赤くして反論した。
「でもこうするのはいいらしい」
アイクはボーレをぐっと引き寄せてぎゅっと頭を抱いた。
「なっ! なんだ!」
「ティアマトのまね」
そうぶっきらぼうに言い放つアイク。
「だったら…おっぱいは大きいほうがいいぞ」
「そうだよな」
その様子を遠目に見ていたシノンは薄く笑いを浮かべてそのまま立ち尽くしていた。
(何、乳繰り合ってんだあいつら…)
今は持ち主のいない斧を手にし、彼女は物思いに耽っていた。
「よお、アイク」
「…なんだ、ボーレか」
「なんだ、じゃねえよ。それにしてもえらいことになっちまったな」
ボーレはここに至るまでのことを指し、そう言った。
まさか大陸中の者が女神により石化され、もうひとりの女神と直接対話し、それとともに対峙しようなどと誰が思うだろうか。ここまでくると夢か現実かすら解らなくなってくる。
もうひとりの女神──「負の女神」より啓示を受け、力を授かった彼女は女神の将として「選ばれし者たち」の指揮を担う。
これから対峙する「正の女神」の手により昼も夜も無くなってしまったこの世界。それでも炎は燃える。炎は煌々と彼女を照らしていた。
その手にある斧は彼女の父が得物としていたもの。
三年前に討たれ、父は他界していた。そのときまで手にしていたものだ。その後、墓標となっていたが、女神の啓示によりこの場所へ手繰り寄せられてきたガリアの獅子王により彼女に渡された。
「それって、ウルヴァンだよな」
「…ああ」
ボーレの問い掛けにアイクは心ここに非ず、といったように返す。
「ったく、しっかりしろっ。聞いてんのか?」
「ああ」
炎が隈どる彼女は、どこか遠く離れた存在に見える。直接、女神から力を授かったというのだ。各国の重鎮すらその力の元、集結している。
三年前も大陸全土の規模の戦争に身を投じ、その総指揮も担っているのだ。傭兵団としては、彼女の父が他界してから彼女が団長となっていた。
「どんどん、どんどんでっかくなっちまってなあ」
ボーレは両手を広げ、その大きさを身振り手振りで示す。
「しまいにゃ、女神さまと喋ってな、もうひとりの女神さまをなんとかするようにって頼まれちまってからにして。倒れていたお姫さまを助けたってとこからおれはびっくりの連続だけどよ、それが全部おまえにかかってるってのがまた」
大陸全土規模の戦乱──のちに云うクリミア戦役においては、偶然クリミア王女を救出したところから雇用関係が発生し、団長である彼女がその流れで総指揮者となった。
三年が経ち、爵位を返上した彼女は再び傭兵団単位で仕事をしていたが、その依頼による流れで再び戦乱へ身を投じていた。
その戦乱は女神の裁きにより中断される。そして、再び行われるであろう裁きを止めるべく石化を免れた者たちが選ばれし者として、正の女神の膝元である「導きの塔」へ潜入する。
「そうだな、いろいろあったよな。ここまで来た以上、やるしかないな。親父がいたらこの状況をどう思うんだろう」
アイクは立ち上がり、ウルヴァンを手にし、少し広い場所に出て構える。そして数度素振りをし、手近な岩を砕いた。もう一度構えて深呼吸をする。
「やっぱそれはいい斧だよな。すっかりおまえもそれがしっくりくるようになっちまって」
上背が高く、骨格も完成され、美しい筋肉をつけて逞しく成長した彼女。戦士として大陸有数の強さを誇る。卓越した戦闘能力、そして将としての統率力。それらを漂わせる風格が滲み出ていた。
彼女は元々、剣の道を歩んできたが、斧の扱いも習得していた。
「そうか、それを使いたかったんだな」
ボーレは彼女が斧の鍛練を積んだのは父の形見を扱いたかったからと指して言う。
「ああ。親父より強くなったら使ってもいい、って言ってたからな。いつかそうなりたいと思っていた。しかし直接認めてもらうことが叶わなくなった…これが墓標となった以上、もうずっと」
アイクは蒼い瞳を伏せて想いを馳せる。
「でも、獅子王さまが…団長が持って行けって言った気がするって言ってただろ。そんで、こうして持ってきてくれたと。おまえ、漆黒の騎士だって倒したんだし使ったっていいんじゃねえか?」
漆黒の騎士とは彼女の父の仇だった。それは三年前彼女が敵討ちを果たしている。
「そうしたいところだが…俺にはこれがある。さすがに両手に持って戦えない」
アイクはウルヴァンを地に置き、脇に置いておいた金色の刀身を持つ大剣を手にした。
「だよな、ラグネルもあるもんな。しっかしそいつもたいそうでかいぜ。ほんとに、昔…ウルヴァン引きずって持ち出してきたころからおまえって…女だってこと忘れそうになるぜ」
軽く笑いながらボーレはぽんとアイクの肩を叩く。彼のその背は彼女の父親くらいにはなっただろうか。隆々とした筋肉が成長の証だ。
「…懐かしいな。勝手に持ち出したら怒られるんだけど、いつか持ってやるってこっそり触ってた。あのころ…そうだ、おまえがやってきて組み手の相手ができた」
ふっとアイクの表情が緩やかになった。それを見てボーレも口元を緩める。
「なあ、アイク」
「なんだ?」
「砦に帰ったら何したい?」
ボーレのその問いにアイクはしばし間を開ける。
「…オスカーの料理を食いたい」
「そうだな、兄貴のメシ食いたいな。そんで、おまえと肉の奪い合いをするんだ」
二人はその光景を思い返し、顔を見合わせて笑みを漏らした。
「そして、風呂に入りたい」
「いいな。行軍続きだとなかなかゆっくりできなかったし」
そう言ってボーレは伸びをする。
「…ボーレ。また一緒に風呂入らないか?」
アイクは小首を傾げながらそう問い掛ける。薄く笑みを湛えたその口許。ボーレは目を見開いて固まった。しかしその視線はしっかりと彼女の胸元に向けられる。
甲冑を外し、晒布も緩められているその胸は豊かな山を作っていた。胸筋が鍛えられているのでその撓わな乳房は形よく上向いている。
「なっ…何言ってんだ、おまえ……」
顔を火照らせながらボーレはそう返す。
「まあ、砦の風呂は狭いから無理か」
さらっとさらにそう返すアイクの顔はいたずらな少女のようだった。
「…ば、ばっか、おま…っ」
からかわれているのかと思った。そして目の前のこの逞しい幼なじみは確かに女なのだと思った。
(本当に、でかくなったよな…)
昔、兄が予言したことが当たっていると思った。
「なあ、ボーレ」
「なんだ?」
もう一度呼び掛けられる。少し上目遣いで。相変わらず大きな蒼い瞳はよく見ると長い睫毛に隈どられて魅惑的だった。鼻筋もすっと通り、整った顔立ち。その言葉が紡がれる唇はふっくらと柔らかさを帯びているように見える。艶やかな色を湛えていた。
二人の間に流れる静寂。
「…おまえに、やる」
そして彼女の言葉で静かに動き出す。
ボーレは生唾を飲み込んだ。数度瞬きをし、その唇を見つめ、彼女へ手を伸ばす。
──と、渡されたのは武骨な斧。
「あ……」
ボーレは手渡された斧を握り、立ち尽くす。
「これはおまえが使え」
手にしたのはウルヴァン。ずっしりと重みを感じる。
「どうした? 何がおかしい?」
行き場のない衝動が彷徨う。ボーレは顔を赤くして引き攣り笑いをした。
「べっ、別に! っていうか、いいのか? おれ、漆黒の騎士を倒したわけでもねえし、団長にこれを使ってもいいかって聞いたこともない」
そんなボーレをじっと見据えるアイク。そこに漂うのは先程見せた少女のような可憐な雰囲気ではない。
「ボーレ、今の団長は誰だ?」
彼女は威厳を込めてそう問いただす。
「…おまえだ」
ボーレがそう答えると彼女は深く、静かに頷いた。
「期待している。しっかり働けよ」
その口調は生前の彼女の父のものによく似ていた。
「はは、まかせておけって!」
大仰に張り切った様子を見せ、ボーレは勢いよくウルヴァンを振りかざし、構えた。
「…ありがとう」
ぽつりと呟かれるその言葉。ボーレはそれに気付くと斧を下ろし、彼女の方を向いた。
「何か、どんどん現実感がなくなっていくところだったんだ。おまえと話していたらこれは確かに現実なんだって思えた」
アイクは自分の手を見つめ、そう呟く。
「ああ、嘘みたいな話だけど今、こうして現実に起きている。さっさと女神さまをどうにかして…おれたちは帰るんだ」
ボーレは導きの塔を指差し、そしてアイクへ目配せをする。
「ああ」
それを受けたアイクはつかつかとボーレの元へ歩む。
「だから死ぬなよ」
アイクはぎゅっとボーレの頭を抱き寄せ、己の胸に沈める。
「死ぬな、絶対に死ぬな」
力強く抱きしめられ、ボーレはやわらかな山の上で窒息しそうになった。そして彼女のその言葉に悲痛なものを感じる。この斧の持ち主が辿った末路を思うと増して。
「わかった、わかった」
これが愛しいと想う気持ちだということに気付くのはもう少し先の話だった───
─了─