オペレーション・モラトリアム 殴りかかってきた相手の腕を掴み、捩じりあげて、動きが止まったところでその顔面に一発。間抜けにも片手で自分の顔を覆った馬鹿の腹に靴底を埋めて蹴り飛ばした。
反射的でも相手の間合いで視界を覆うなんざ、好きにしてくれと言っているようなものだ。
植木鉢に沈んで土まみれになった男を鼻で笑う。雨だろうが砂だろうが目を閉じるなと叱咤する師匠の幻聴は無視する。
おぼえてろ、と古典的な捨て台詞を残してあとの三人は逃げ出した。伸された一人もコンクリートをのそのそ転がって起き上がり、ふらつきながら退散。
おとといきやがれ、とでも返してやるべきか? 数秒迷ったが、迷っているうちに連中の姿は路地に消えた。
「──ハッ! 腰抜けが」
行き場を失くした衝動は吐いて捨てた。ちったあ憂さ晴らしできるかと思ったが、期待外れもいいとこだ。
ポケットに手を入れる。
そこに、
「すごいじゃないか」
後ろから、突然の賛辞と拍手が寄越された。
背後には建物があるだけだ。オレはもったいつけるようにゆっくり振り返り、相手を睨みつけた。
そいつはドアを背にして立っていた。オールバックの白髪に褐色の肌をした、見た目は三十代くらいの男。袖をまくった白シャツと黒ズボンと、腰に巻いているのはエプロンか?
── 略 ──
馴れ馴れしい初対面の男に話すことはない。
「見世物じゃねえぞ」
睨みつけて一言。
男は飄々と肩をすくめただけで、それどころか呆れた
表情をした。
「そう言われてもな。ここは私の店で、店先でやかましく大立ち回りをされては顔くらい出すさ」
ここ、と言われた男の背後に目を向ける。
壁に埋まったドアの横、男の自己紹介でもするようにかかった黒いプレートには金色の文字で〝
PUB〟と綴られていた。
「そりゃ悪かったな」
言い分は、まあわからなくもない。鼻先で
不良にケンカされちゃあ通報するか、巻き込まれないように祈るかだ。ほとぼりが冷めてから出てくるのも有りだが、わざわざ声をかけてくる気は知れない。
素直に謝ったオレに、そいつは片眉を上げた。
「名前は? 私はアーチャーだ」
「……ランサー。ランサー・クー・フーリン」
「よろしく、ランサー」
アーチャーと名乗った男は、今度は右手を差し出した。
「…………」
オレの両手はポケットに入ったまま動かない。
アーチャーはまた白眉の片方を上げて、口角を吊り上げた。手はそのまま。
「男とは握手をしない主義か? それとも、これが何かわからないか」
「馬鹿にするな」
「結構」
きつく握って離す。
握り潰してやるくらいのつもりでいたが、男の力も同じくらいに強かった。
傍目からはガッシリと固い握手を交わしたように見えただろう。
見物客は猫一匹いやしないが。
「それで?」
手を離すなり、滑らかに切り出された。
「これは売り物だったわけだが」
男が片足を引いて差した先では、無残に割れた鉢植えが──鉢植えはデカい陶器だった──、その中身を、地面にぶちまけていた。たっぷり詰まっていた土と、埋まっていた球根が覗く。花は潰れて、茎は折れていた。
さっき蹴り倒した野郎のクッション代わりになったわけだ。わざとではない。
男を見る。
「……、あー」
微笑まれた。穏やかな微笑などでは決してない。
なるほど。どうやらこいつは怒っているらしい。
見た目では特に怒り狂ったように見えないが、滲む気配には覚えがある。オレが口ごたえしたり怠けたりしているときに師匠が背負うものとそっくりだ。
── 略 ──
「疲れた……」
モップを杖代わりに持ち、椅子に座る。
「おつかれ」
アーチャーはカウンターの向こうから
労いの言葉をかけてきた。その手には布巾と皿が覗く。
拭き終わったら重ねて、次の一枚を取りあげる。陶器の立てる控えめな音がよく聞こえた。つい一時間前とはまるで違う。耳を塞ぐほどの騒々しさではなかったものの、やはり人の気配と
話声はそれなりにうるさい。
「明日も同じ時間に来てくれ」
座ったままぼんやり眺めていたオレは、言い渡された内容を数秒遅れて理解した。
椅子から立ち上がり、カウンターに近づく。
視界から白髪頭が消えた。カウンターテーブルに片腕をつき、しゃがんだアーチャーを覗く。
視線に気づいた男が顔を上げた。床に膝をつけたまま。
「なんだ、もう
音を上げるか?」
まだ一日目だぞ、と言う。食器を持ち上げて棚にしまう。
「
違えよ」
オレは否定してから問うた。モップをカウンターに立てかける。
「そういや期間を聞いてなかったと思ってな」
いつまで続ければいいのか。
この男は最初に『当分のあいだ』と言った。本来の目的は弁償だ。全額なら、時給分で割れば必要な日数がわかる。
アーチャーは手元に視線を落としたまま、そうだな、と答えた。
「君が飽きるまで」
「馬鹿にしてんのか」
「すぐ喧嘩腰になるのはよくない癖だな」
白い頭がやれやれと横に動く。
立ち上がり、厨房へ。
「馬鹿になどしていない。あの鉢の価値から考えれば、君が完済するまでにかかる時間は五年ほどだ」
「五年」
「君の年齢でそれだけの期間を拘束するのは、さすがの私も忍びない」
「…………」
オレはむっすりと口を閉じた。
五年間。軽い犯罪で捕まったほうが早く解放されるんじゃねえかと思う。
「だから『飽きるまで』ってか」
ため息を吐く。アーチャーの恩情はありがたすぎて涙が出る。
「自分の不始末だ、自分で決めるといい。靴下の履き方もわからない幼児ではあるまい」
「いちいち腹立つ言い方しやがる」
皮肉を言わなければ息ができない体質か?
「ランサー」
呼びつけられて、また何か言われるのかと思ったが。
「コーヒーは自分で取りに来てくれ。それと、マカロニとライスのどちらにする」
「は?」
顔を出したアーチャーからいきなり二択を迫られた。
「ミートソースが余ってね。グラタンにするか、ドリアにするか。まあ、どちらもホワイトソースは即席だが」
具の違いだよとわかりやすく説明される。
「どうする?」
── 略 ──
今日は昨日と比べて客の出入りがなかったおかげで疲労感よりも充実感のほうが濃い。夜の湿った空気を深く吸い込む。
見上げた先にはちょうど街灯が突き出ていた。薄汚れていても眩しい明かりのせいで星は見えない。
立ち止まって尻ポケットから煙草を出す。咥えて火をつける。
煙を吐きだして、
「…………」
爪先を左へ。
店から寝床まではそう遠くない。たらたら歩いているうちにすぐ着く距離だ。だから横道に逸れた。少しばかりぶらつきたい気分だった。
煙草を離す。乾いた舌を縮ませる。
曲がった先の道では隙間なく建物が続く。閉じられた窓と扉は排他的な雰囲気を隠しもしない。そそり立つ壁のようだがしかし、廃墟とは違い、人の気配は感じられた。
煙と歩く。
店にいるあいだはその忙しさから他所事を考える暇がない。終わってからの今は、心地よい倦怠感で思考が鈍い。
棘を抜かれた気分だ。今はそこらに落ちている喧嘩を買う気も起こらない。──だがまあ、買い取る気はないが、売りつけられたら別だ。
通りの先で足を止めた。
「よお、オレに何か用か」
行き止まりはちょっとした広場だ。バスケットゴールのネットが揺れる。
光源は、
角にある街灯ひとつしかない。振り返って明かりを背負うと、現れた連中の顔が見えた。
覚えようとして憶えたわけではないが、知った顔だ。相手は三人。ついこのあいだ殴り飛ばしたひとりもいた。
「話があるなら声をかけろよ。シャイってガラじゃあねえだろ」
しかし学習能力がないのか、酒か薬でも入っているのか。この前から進歩がない。せめて人数を増やすぐらいはしたらどうだ? 警棒を持ったぐらいでどうにかなると思っているならお笑いだ。魔法の杖でも手に入れたつもりか。
警棒を指す。
「バナナを取るなら棒よりも踏み台を用意したほうがいいぜ」
オレの安い挑発に、三人ともが殺気立った。
── 略 ──
「警察だ! そこで何をしている!」
──声が、ビルの壁に反響した。
三人のうち、手を出してこなかった一人が最初に逃げ出した。残された二人も後を追う。
オレはその場に留まった。来た道から走ってくる気配を睨みつける。
果たして警察は現れた。
「大丈夫か?」
アーチャーだ。腰に巻いたエプロンがなく、
上着を羽織った格好をした。
どう見ても警察ではない。
「ケーサツはどうしたよ」
「さあ? いたのか?」
とぼけた返事を鼻で笑う。
ずいぶんタイミングのいい登場だ。つけていたのかと問えば、
「場所を変えよう」
アーチャーは答える代わりに背中を見せた。ついてこいと。
── 略 ──
アーチャーが隣に座る。男一人分の体重を追加された座面が少し沈む。
テーブルに置かれた菓子からは貰いものの気配がした。
ビスケットと綴られた気取った蓋が開けられる。
オレは遠慮なくビスケットをいただいた。
「で? ヒーローよろしく駆けつけて、部屋に連れ込んで、何が目的だ」
助けられるほど弱かねえ。雇い主ってだけで勝手に保護者面されても迷惑だ。
睨むオレに、誤解があるようだが、とアーチャーは前置きを入れた。
「君を見つけたのは偶然だ。そもそも、近づくまで君とはわからなかった。私はただ喧嘩を仲裁しただけだ」
「『警察だ』って?」
「公権力は叫ぶだけでも有効だ。覚えておくといい」
すました顔で嘯き、カップを傾けた。これだから食えない野郎は厄介だ。
アーチャーがその長い足を組んだ。
「君のほうこそ、さっきの彼らは? 友人にしてはずいぶんと過激なじゃれあいだったようだが」
「報復だろ」
復讐と言うには粗末な、突発的なやり口だった。
アレに計画性があればもっと仲間を集めたに違いない。武器を持ち歩いていたのはオレにやられたからか、ただの趣味かは知らねえが、状況が変われば結果も変わるとでも思って仕掛けてきたのだろう。学習能力のない。
「気になってはいたんだが……。君、普段はどうしてるんだ?」
どう、と問われたオレは片眉を上げた。咀嚼したビスケットを紅茶で流す。
「アンタのとこで働いてる」
「その前だ」
「寝てるな」
起きるのは昼過ぎだ。
「ひとりか?」
「…………」
当てずっぽうの問いには無言を返す。
アーチャーは特に追求しなかった。ソファの革が体重の移動を受けて控えめに鳴いた。
「この街に来たのは最近だろう。君の身なりからして、流れ着いてきたというわけでもあるまい」
「なんだ、オレは尋問でもされてんのか?」
「そういうわけでは」
意外にも、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
それに絆されたってわけじゃあないが。
「あててみろよ。ベラベラ自分語りするようなナルシストじゃあないんでね、アタリハズレぐらいなら答えてやる」
オレは顎先で続きを話すよう促した。
アーチャーがその手に持ったカップをテーブルに置く。少し上体を引き、改めてひとを観察した。
探偵のように腕を組む。顎に手を当てて考える。
「……そうだな。喧嘩慣れしてはいるが、チンピラというわけではない。それなりの教育を受けてきたんじゃないか? 己の気性もよくわかっている。親御さんは相当厳しかったのだろう。……おそらく、ここへは留学で、出身はイギリスか──」
「アイルランドだ」
最後はオレから被せて終わらせた。
よくわかったな、と言ってやれば得意げに口元を緩くする。ガキみてえな顔しやがって。
毒気が抜ける。
「アンタの推測は、半分正解だ」
肩をすくめた。ソファの背もたれに寄りかかって足を投げ出す。
厳しく躾けられたがその相手は親じゃない。それと、ここに来た名目は留学だが、強制だ。オレに拒否権はなかった。
「犬の
躾け直しみたいなもんだ」
「その割には、リードはついていないようだが」
「放任主義なもんでね」
「なるほど」
ひとつ頷く。
「自由に散歩をしていたところ、いつのまにか縄張りを荒らして吠えたてられた、と」
「アイツらにはたまたま目をつけられただけだ」
喩えとしちゃあ間違いではないが、
癇に障る言い方だ。
── 略 ──
「他人の醜聞などに興味はないが、君の話に関心がないと言ったら嘘になるな。もちろん、無理に聞き出そうとは思わないが」
アーチャーは口元を緩くした。
素直に認める。それが、話すよう強いるよりも効果的とわかってやっているなら見事なもんだ。パブのマスターよりも探偵か詐欺師のほうが向いている。
「人殺しになるところだった。だから頭を冷やすために海の向こうに飛ばされた」
原因は、そうだ。アーチャーが言い当てたとおり。
殺してしまいそうだった。仲間を罠に嵌めた連中全員を、一人ずつ、この手で。
── 略 ──
「罠に嵌められたのは君ではない。君の友人だろう」
「ああそうだ。連中は直接じゃあ何もできねえ、姑息な腰抜けどもだ」
「その友人は不運だったが、そこまで怒る理由が君にあるのか?」
「卑怯な手を使いやがった連中を許してやるほど、できた人間じゃないんでね。性根の腐った奴らをビビらせてやるぐらいカワイイもんだろ」
「復讐か」
「アンタも止めるか? 『馬鹿なことをするな』ってか」
オトナに言われた
文句を、オレは笑いながら吐き捨てた。
アーチャーはカップを取り上げた。舌を湿らせてから低く答える。
「復讐は何も生まない、その考えには同意するさ。だがおそらく、私の考えは君の言う〝オトナ〟とは違う」
────
「復讐とはつまるところ憂さ晴らしだ。『おまえのせいでこんなに酷い目に合った。だからおまえも同じ目にあえ』とね。人間である以上、この思考はやむを得ない。──だが、
生産的ではない」
────
「酷い目に合わされたとき。そのあとにすべきは〝同じ行為を繰り返させないこと〟だ」
────
「
現代は司法社会だ。罪は法によって裁かれ、罰せられる。相手のやったことが『悪だ』というなら、弾劾し、罪を明かし、償わせなければならない。そして、それが正しいプロセスだ」
────
「法は理想だが、完璧ではない。取りこぼされる悪も大勢いる。だが問題の本質は、罪に問われないことじゃない」
目を伏せる。アーチャーは自身の両手を見た。骨の浮いた拳が開く。手のひらには何もない。
見逃される問題の、その本質は。
「──己の所業を悪と自覚せず、改心せず、同じ悪を繰り返すことだ」
罪を認める/責められることがなければ、機会があるごとに再演される。
止める手段は法か、私刑か。
「復讐によってそれが叶うならば結構じゃないか。『酷いことをしたとわかりました、もうしません』とね」
そうして最後は片目を瞑り、ふざけた調子で肩をすくめた。
── 略 ──
昼過ぎに店に来て、ブランチを食べて開店準備をして、客の相手をしているうちに閉店だ。もう何年も繰り返してきたように感じる毎日はしかし、まだ半月も経っていない。
「今日のメシは?」
だというのにオレは──オレの腹は、すっかりこの男の
料理に慣らされてしまっていた。店を閉めたあとの賄い飯を期待して腹が減るようになったほどだ。
カウンター奥に立ったアーチャーが思案する。
「今日はポトフと、オムライスにでもするか。芋だけでは足りないだろう」
「足りねえな」
こちとらまだ成長期の若造なもんで。そう言ってやったら笑われた。
「少し待て」
言い置いて、
白髪が厨房に入る。
「…………」
腹の底がくすぐられる。その口元が穏やかに上向いている様を見てしまった。言葉にされなくともわかる。うれしい、と滲む。
────
仲間を集めて店を襲う。その可能性を考えた。次は窓ガラスを割られるだけでは済まないかもしれない。
アイツらにとっては復讐だ。そして復讐とは、つまるところ憂さ晴らしだ。我慢する理由がなければ行動する。誰も彼もが悪を罰するわけじゃない。
──連中を野放しにしたままでは戻れない。
「オペレーション・モラトリアム」本文抜粋