髪とピアスと昔、ピアスをつけると失恋するなんてジンクスがあった。今思えば失恋なんて誰もがするもので、たまたまピアスをつけている人が失恋を立て続けにしただけではないかと思う。
そう言えば失恋したら髪を切るなんていうのもあった。髪なんてみんな切るものなのに。
そんな恋愛ごとでいちいち騒いでくだらない。
私はそう思って誰とも恋愛などせず生きてきた。
そんな私が、恋をしてピアスをつけた後に失恋して髪を切った。
桜が3分咲きほどになった横浜で、私はアパートを見つけて働くことにした。ハケンライフを通して仕事を探してもらいすぐに気になる仕事を見つけた。
貿易会社の経理部で、期間は3ヶ月。面談では髭を生やした社長が延々と自慢話をしていたが私は無視してただ座っていた。結局雇われることになり平日の9時から5時まで働いている。
アパートはワンルームの4畳で5万円もした。下宿ばかりしている自分にとっては少し痛い額ではあるが、しばらくカンタンテには戻れない。
ハケンライフにも、私の行方を問い合わせる電話があったらしいが、一ツ木さんには個人情報だから絶対に教えるなと念を押してある。
なぜなら、私は何も言わずに突然仕事を辞めて部屋を出てきたからだ。
「ただいま」
つい癖で挨拶をしてドアを開けてしまうが、そこには誰もいない。4畳だけど何もないので特に狭くは感じない。少しの荷物とロフトのベッドが私のプライベートだ。
夕飯を適当に作って食べ、シャワーを浴びて、簿記のテキストを開く。しばらく経理の仕事はしていなかったので復習も兼ねて問題を解いていく。
すると、テキストの中にこんな問題があった。
『田中商事の純利益は…』
漢字は違えど、『しょうじ』という言葉に反応してしまう。私は首を振って頭から追い出そうとした。
だけど、あの人は今頃どうしているだろうか、私のことを探しているのだろうか、そんなことを考えてしまった。
気分転換に散歩でもしようとテキストを閉じてアパートを出た。外はまだ賑やかで、少し歩くと飲み屋街がある。その前を通るとサラリーマンたちが賑やかに歩いている。
スーツを身につけた男性たちを見ると、また思い出す。いつもスーツを身に纏い明るく強く振る舞っていたあの人を。
どこもかしこも思い出すものばかりだ、なんで早く忘れさせてくれないのだろう。イライラした気持ちが募り、アパートに戻ろうとUターンする。
そしてふとコンビニのあたりで、窓越しに映った自分の姿を見た。
いつのまにか髪が伸びて胸の辺りまで来ている、ストレートパーマもしばらくかけていなかったせいか毛先が跳ねてボサボサだった。
そうだ、この3ヶ月は忙しくて髪の手入れなんてすっかり忘れていた。そしてその見苦しい髪をとくようになぞった。
「春子、きれいだよ」
髪の毛がギターの弦のように、声を出していく。優しく撫でながら私を愛してくれた人の声を。この髪にはあの人の優しさや愛が滲み過ぎている。
気がつくと駆け出してアパートに戻って、引き出しからハサミを取り出し無心で髪を切っていた。
早く忘れたい、もうあの人のことを思い出す要素を全部消してしまいたい。
しばらくして髪をゴミ袋に片付けてシャワーを浴びた、鏡に写った私の髪は肩上5センチまで短くなっている。そして髪の隙間から耳たぶが見えた。ピアスの穴はいつ間にか塞がりかかっている。
きっともう、このまま何もなかったように消えてしまうのだろう。きっとそうであって欲しい。
『大前さん、東海林さんがずっと大前さんのことを探しています。せめて一言だけでもいいので連絡してあげて下さい』
1ヶ月後にこんなメールが届いた、送り主は里中主任だ。せっかく忘れようとしているのに、なぜ蒸し返すような事をするのだろう。
確かに何も言わずに消えたのは悪かったと思う。けれどあの人が私を必要としていないのなら、今すぐにでもいなくなる方がいいと思った。あの人は私の全力の思いを受け取ってくれなかったのだから。だけど、もしあの人がもう一度私と一緒に生きたいと思ってくれるなら…そんな堂々巡りを1ヶ月続けて、私はもう一度名古屋へ行くことにした。
休日に日帰りで新幹線で向かった。横浜の仕事もあるのでとりあえず話だけしようと思い往復切符を買って指定席に飛び乗った。
鞄の中にはあの人からもらったピアスを入れている、もしももう一度やり直したいと言うのなら、塞いだ穴を再び開けよう。ひとさじの希望を持って私は富士山を眺めながら西へと進む。
名古屋へ着き、あの人の家に向かうと心臓がキュッと締め付けられるような痛みがきた。不安と期待でタクシーの中でも複雑な顔をしていた。
そしてマンションの前につき、中へ入ろうとエントランスに向かうとー。
目の前には、あの人と隣に知らない女性がいた。
手元に目をやると、手を繋ぎ指には光る輪がかけられている。その輪はあの人の左手にもついていた。
私は何かの間違いだと思い、後をつけた。ショッピングモールへ向かう2人はずっと手をつなぎ笑顔が絶えずに見つめあっていた。
そして、女性が1人になり椅子に腰掛けている様子を伺っていると、鏡を落としたように見えた。
話しかけるチャンスだと思い、近づいてそれを拾った。
「落ちましたよ」
「ああ、ありがとう」
「おきれいですね、お顔も、指輪も」
「ありがとう、この間入籍したばかりなの」
「そうですか……どうぞ、お幸せに」
私は一礼してその場を去った。
名古屋駅近くの川沿いの公園でしばらく泣いていた。人目など気にせずに。
私が苦しくて眠れない夜に、あの人はもう違う相手と気持ちよく眠っていたのだろう。
そう思うと悔しくて辛くて私の3ヶ月は何だったのかと恨めしい気持ちが芽生えてきた。
あんな人のことでずっと悩んでいるなんて馬鹿らしい。私はもう恋愛なんてしない、好きになっても裏切られてしまうなら、もう誰も好きになんてならない。
もう一生ピアスなんてつけない。
まだ脳裏に真新しいシルバーのリングが焼き付いていた、ピアスの穴よりももっともっと大きな輪。私はその輪に入れなかった。
鞄からピアスを取り出して、思い切り川に向かって投げつける。ぽちゃんとあっけない音を立ててそれは川底へと沈んでいった。
私は新幹線に乗るために名古屋駅へと歩き始めた。