アナザーストーリー 12020年、東京丸の内。
ビジネス街の一等地に大きく聳え立つビル、それは大手食品会社S&F。
その建物へと風を吹かせながら歩いてくる女が1人。
ベージュのポンチョを纏い、颯爽と向かうその様はまるで木枯し紋次郎のようだった。
その女の存在に気がついた社員の1人がぽつりと呟く。
「あれって…まさか噂のスーパーハケン、大前春子か?」
その言葉を訂正する様に隣にいたもう1人の社員が
「違うよ、結婚して東海林春子になったんだよ」
そう、東海林春子は今日からまたS&Fのハケンとして働くことになったのだ。
ー話は1週間前に遡る。
人事部にいた東海林次長は営業部の成績がここ数年思わしくない事に、頭を悩ませていた。
「賢ちゃんの部署の奴ら…やる気ない奴が多いんだよなぁ。賢ちゃんもリーダーってガラじゃないし」
パソコンの画面を見ながら呟きため息をつく。
「東海林次長、内線1番に営業部からです」
すると横にいた女性社員に話しかけられて、はっと我に返り受話器をとる。
「はい、人事部東海林です」
「東海林さん、里中です。実は急にハケンの子が辞めてしまうことになって…」
「またか!?そこの部署はハケン切りでもする奴がいるのか健ちゃん」
「いや…男ばかりの部署だしね、あと大きな声では言えないけど……部長がね」
東海林の頭名の中に小太りの部長の顔が浮かび上がった。確か宇野部長と言っただろうか。ハケンや社員などをイビっている典型的なパワハラ社員だ。
己も昔はそんな感じだったので強く言えないが、あの人のは単に自分の気分次第で態度を変えているので、人事部でも頭を悩ませている。
そんなことを考えていたが今は電話中だとスイッチを切り替えた東海林は
「じゃあまたハケンライフに依頼しないとな、俺がかけて見るわ」
そう言って電話を切ろうとした東海林を引き止めるように里中は大きな声で
「待って!あのさ…こんなこと言うと怒られそうだけど……大前さんを呼んでもらうっていうのはどう?」
「え……とっくり!?」
そんなやりとりがあった後、春子は面談をしにこのS&Fに再び足を踏み込むことになった。
もちろん、東海林とも一悶着あったがそれはまたの機会に話そうとする。
「13年ぶりですね…」
春子は太陽が反射する窓ガラスを眩しそうに見つめながら、正面の入り口からエントランスへと向かった。
面談には里中と東海林、そして部長が立ち会うことになった。
そして春子をエントランスでハケンライフの近が待ち受けて一緒に面談室へと向かった。
「大前さ…東海林さん、久しぶりですね」
「…一ツ木さんから担当を引き継いだんですね」
「僕はハケンから社員になりましたよ、子供が大きくなるとお金がかかるもんで…東海林さんのところはどうですか?」
「プライベートな事は一切話しません!」
「相変わらず冷たいですねぇ、東海林次長も大変だ」
エレベーターはいつの間にかスピードを落として到着階へと停止した。
「じゃあ行きましょうか」
「この人が伝説のスーパーハケンねぇ…」
宇野部長がジロジロとものめずらしそうに、春子を眺めていた。
その隣にいた里中は嬉しそうに
「この人のおかげで僕は社長賞を取れました」
そう言うが、部長はあまりいい顔をせず、怪訝そうな態度で
「本当にそうなのか?そんなにすごい人には見えないが…」
宇野部長の態度に苛々しつつも東海林は窓際の席で黙ってその様子を見守っていた。自分は人事部で口を出す権限はない。
そんな心配もよそに春子はいつものように氷のような表情のまま、宇野部長を目で捕まえるように睨み
「私を雇って後悔はさせません!!お時給の分はしっかり働かせて頂きます!!」
馴染みのあるセリフを一気に吐き出した。
「さすが大前さん…いや、東海林さんですね」
里中が言うと近も一緒に明るく
「うちの東海林春子は特Sですから、心配ご無用ですよ!」
2人からの声を聞いて宇野部長も納得したのか、腕組みをしながら
「まあ…2人がそう言うなら、明日から働いてもらおうか」
という言葉と同時に東海林はホッと胸を撫で下ろした。
「お前、相変わらず態度がデカいんだよ」
風呂上がりの東海林は冷蔵庫からビールを取り出し、テーブルでパソコンのキーボードを打っていた春子に向かって言った。
「ハケンは最初が肝心です、あの部長の前で遠慮していたら舐められると思ったからです」
「…まぁ、一理あるかもな。でも普段からあんな態度じゃクビにされるぞ」
「そうなればそれで構いません」
「それじゃお前を呼んだ意味がないんだよ!賢ちゃんも今大変なんだ、お前にサポートしてもらってうちの営業部の成績を上げてほしいんだよ」
「わかっています、そしてあなたも営業部に移動したいのでしょう?」
東海林は図星を突かれて黙り込んだ。今は人事にいるが本当は営業部や昔いた企画部など、クライアントと直接関わる仕事をしたいと思っていた。
名古屋の子会社から旭川支社に飛ばされ、ようやく本社に戻れたと思えば広報部や人事部に回されていた。もちろん仕事自体はやりがいもあるし楽しい、だがどこか少し物足りなさを感じながら日々を過ごしている。
そんな東海林の本心に春子はとっくに気がついていたようで、キーボードを打つ手を止めて、椅子を回して東海林のほうへと向けた。
「私がまたS&Fで働くのはあなたのためです、だからあなたも死に物狂いで働いてもらいます」
微笑みながら春子が言うので、東海林は昔名古屋に春子がやってきた時のことを思い出した。あの時もこんな笑顔で俺のために働くと言ってくれたー思い出すと感慨深い、東海林は気がつくと目が潤んでいた。
「ああ、頑張るよ!」
いつもより低い声で、紐をキュッと絞めるように春子に宣言した東海林は、右手を伸ばし握手を求めた。
だが春子はその手をペシッと払いのけて
「ハエがカッコつけないで下さい」
照れ隠しなのはわかっていたが、気の短い東海林は
「誰がハエだ!!俺はカッコいいんだよ!!」
またいつもの喧嘩が始まってしまった。
ところが、隣の部屋から泣き声が聞こえ喧嘩は中断された。
「ママーいっしょに寝てー」
ベッドから降りて泣いている少女に春子は
「よしよし、さくら。ママもうすぐお仕事終わるから、一緒に寝ようねー」
優しい声であやす。
そしてベッドにはもう1人子供が寝ていた。
息子の大地は泣き声にも気がつかずスヤスヤと眠っていた。
「さくら、パパと寝るか?」
東海林がさくらに話しかけると
「うん、パパでもいいよ」
涙を拭きながら答えたさくらをみた東海林は
「よし、じゃあすぐ寝るからちょっと待っててな」
空の空き缶をゴミ箱に捨てて、歯を磨きに洗面所へ走る。
「じゃあさくら、パパがくるまでママと絵本見ようか」
「うん」
春子はさくらを抱き抱えてリビングに向かう。
東海林と結婚して子供を産んで、春子は仕事を何年か休んでいたじきがあった。
事務の仕事は出産前からご無沙汰だ。
だから正直少し不安も感じていた、昔のように完全無欠でやっていけるのかと。
だが、引き受けたからには全力でやりたい。そして子育ても手抜きせずに2人の子供と大事な時間を過ごしたい。
そんな思いを抱えながら春子は明日からの仕事に備えて12時過ぎには就寝した。