そこに犬がいるんですが百音の、最初の気象予報士試験受験まで、あと1か月。まだ合格の眼はないものの、まずは一度受験して、試験に慣れることも肝心、できるところまではやることも肝心、と、椎の実での勉強会は粛々と菅波によって進められていた。
とはいえ、根を詰めてリズムを崩すものでもない、と、気づけばルーティンになっていた休憩時間もそのままに。椎の実ブレンドの珈琲でひと息ついたところで、それぞれの明日の予定に話題が飛んだ。
「そういえば、明日、越菱というあたりに初めて訪問診療に行くことになりました。普段に回る場所より少し離れていますし、戻るのが遅くなるかもしれません」
菅波の話に、百音は、わかりました、とうなずく。自分の仕事はもとより、単につきあわせているだけの菅波が仕事をおろそかにするようなことがあってはならない、とは、この勉強会をする上での大前提である。
「まだ、そちらのほうは全然行ったことがないので、道も拾いながら行くことになるから、できるだけルートは確認しておこうと思ってるんですけどね」
続く菅波の話に、百音がふむ、と首を傾げた。菅波が言うエリアは確かに登米夢想から近いというわけではないが、米麻町森林組合が管理を委託されている山の一つでもあり、百音は何度か足を運んだことがある。百音は立ち上がって、先ほど菅波が休憩後のために拭き上げたホワイトボードの前に立ち、マーカーを取り上げた。
「こごからだと、えっと、前の道を出て…」
と、ぶつぶつといいながら、なにやら線や図を描きだし、どうやら地図なのか?と菅波は適温になった珈琲をすすりながらしばらくその様子を黙って見守る。1分ほどして、描けた!となにやら満足気な百音がマーカーを置いて、じゃーん、という効果音でもついてそうなジェスチャーで、菅波にホワイトボードを見せた。
どうやら登米夢想と思しき建物から、縦横無尽に線が伸び、犬の絵や寺の絵が所々に描かれている。楽しい雰囲気ではあるが、どこが最終的な目的地なのか、また、それに行きつく道順と思しきものもよくわからない。
「あの…これは…?」
「越菱までの地図です!」
「これが…ちず…」
事前に自分で調べてあたりを付けた脳内地図との乖離に、菅波は必死に共通点を探すも、かろうじて登米夢想が分かるだけである。
「あの、永浦さん」
「はい」
「説明を求めてもよいでしょうか」
菅波のおそるおそるの問いに、菅波に教えられることがある、と百音は腕まくりの勢いで、もちろんです、とホワイトボードを指さした。
「これは登米夢想です」
「それは分かります」
「で、登米夢想を出てですね、あの前の道をこっちに行きます」
「こっち、とは、駐車場を出て右ですか、左ですか」
「右です」
「分かりました」
で、2個目の信号をこっちに…と百音の指が線をなぞるが、『地図』上に信号の絵は一つもなく、こっちに、と曲がって見せた線は途中で途切れている。途切れていることに気づいた百音が、ひょいっと線を継ぎたして、話を続けようとする。
「そしたら、こごにいつも吠える犬がいるので、気を付けてください。先生、犬に吠えられやすいから」
「車に乗ってたら大丈夫だと思うのですが…」
「でも、先生ですし…」
それから、こごの…と百音の話が続くが、何度か角を曲がっているはずが、『地図』上の位置関係が整合しないように思える菅波はとにかくそれが気になって仕方がなく。
「説明を遮って申し訳ないのですが」
菅波が挙げた右手に、百音が、はい、なんでしょう、と答える。
「この地図…北はどっちですか?」
おそるおそるの菅波の問に、百音は、きた…とつぶやきを漏らす。
「北、ですか?」
「はい。地図なので…」
菅波の言葉に、百音からあー、という言葉が漏れ、百音はしげしげと自分の描いた「地図」を見、そして菅波を見た。
「どっちですかね?」
描いた本人に分からないものが、説明を聞く側に分かるわけもなく、菅波は分からないですね…。と答えるのが精いっぱい。うーん、分かりやすいと思ったんだけどなぁ、と首をかしげる百音に、菅波も、何が分かりやすいと思ったんだろう、と首をひねる。
「永浦さんは、地図を読むのも苦手なほうですか?」
「そう、ですね。つい、地図をまわしちゃったりします。あの、父もそうで、そんなとこばっかり父譲りなんです」
百音の父親の話が出るものの、登米夢想で遠目に1回だけ見かけただけの人物の記憶は、なんか柄のシャツを着ていたな、という程度のものであり、そこから広がるほどの話題もない。それ以上に、菅波の注意は一か月後に向けられていた。
「あの、来月の気象予報士試験の受験会場のことなんですが」
「はい。もちろん、一番近い仙台にしました」
「会場の場所や行き方も、具体的に把握していますか?」
聞かれた百音は、あいまいにうなずき、こういう風にあいまいにうなずくときは永浦さんが完全には分かっていない時だ、と菅波ももうすっかり理解している。
「定禅寺通り沿いだってことは分かってるんで、後で調べようと思ってました」
菅波のうっすらと眉根の寄った表情に、これは何を考えているかちゃんと説明しないとややこしくなるやつだととすっかり理解している百音が言葉を足す。
百音の釈明に、分かりました、と端的にうなずいた菅波は、とりあえず、明日は犬に吠えられないように気を付けるので、残り、問題集の続きをやってしまいましょう、と話をたたんだ。はぁい、と百音が返事をして着座し、残りの珈琲に口をつける。入れ替わりにホワイトボードの前に立った菅波が、イレイサーを手に取った。
大きなストロークで百音が描いた『地図』を消そうとして、ふと手を止め、チノパンのポケットをひっくり返しながらスマホを取り出し、手早くホワイトボード上の『地図』の写真を撮った。飛び出たポケットごと、スマホをねじ込み、何事もなかったかのようにホワイトボードを消した菅波は、さて、加速度の問題ですが…と説明に入っていき、百音も問題集の当該ページを開いて話を聞き、勉強会はいつもの流れに戻ったのだった。
そして、翌日。
午後の訪問診療に出た菅波は、昨日百音が描いた『地図』を脳内で照合しながら、カーナビの指示に従って車を走らせ、道中にとてもよく吠える犬がいる、ということ以外、ほぼ何も合っていない、という事実を確認した。むしろ何がどうなったらああなるのか、もう少し知りたいぐらいだ、と思いつつ、菅波は的確にルート上の目印と交差点名を確認しながらハンドルを切る。
そしてその翌々週。
間に菅波の東京勤務週を挟み、月曜の勉強会に椎の実に着いた百音が菅波から渡されたのは、1枚のA4用紙だった。用紙には、手描きの地図が描かれている。
仙台駅から定禅寺通り沿いの気象予報士試験会場までの道順が、適度な情報量にサマリされていて、普通の地図にルートを引いたものよりも迷いようがない地図である。見つけるべき目印も、それぞれ間違いようがない明確なもので、おおよその所要時間まで書かれている。
百音が地図の右側を見ると、登米から乗るべき高速バスの時間と、仙台についてからの移動案とタイムライン(地下鉄利用ケース、仙台駅から徒歩ケース、さらには高速バスが遅れた場合のタクシー利用ケースまで)が目に入った。
「あの、先生、これは…?」
「先週、東京への帰りがけに、仙台に寄って確認してきました。仙台の水族館に行くついでがあったので。この間、永浦さんに教えてもらった越菱への『地図』と実際の越菱までの道を照合して、永浦さんがどう道順や方角を把握しきれないのか、ということが分かったので、それを踏まえてまとめています。これなら、永浦さんも迷わないかと」
菅波の言葉に、百音は、試験にそこまで備えるものなのか…と感心しつつ、ありがとうございます、と頭を下げた。
試験当日。
サヤカ邸の出がけに立て続けに菅波から届いたメッセージに憤慨しながら、高速バスに乗って仙台に着き、試験会場を目指した百音は、菅波の地図の正確さと分かりやすさに驚いたものだった。試験会場までストレスなくたどり着けたことで、試験の内容に集中が向く。あぁ、試験を受けるって、こういう準備も込みなんだ、と百音が理解し、とはいえ試験に奇跡は起きない、ということも理解した、そんな受験一回目の出来事であった。