微睡の朝※ご注意
女司書固定名出てます!
司書室の窓から差し込む朝日に照らされながら、駒米静音はクローゼットの整理をしていた。さすがに物が乱雑に押し込められている様子を見て、腰の重い彼女も動かざるを得なかった。徹夜明けで妙な昂揚感に突き動かされたとも言う。心の中で「私寝てない!」宣言をしまくる異様なテンションの中、黙々と片付けていく。一種異様な雰囲気を醸し出しながら作業をする彼女の目の端が何か見覚えのある物を捉えた。洋服と布の山の奥、少し腕を伸ばせば触れる程度の距離にそれは突き刺さっていた。精一杯腕を伸ばして取り出してみると、それは一枚の賞状が入った額だった。中の賞状には大きな字で「特務司書任命状」と書いてある。
「あ……懐かしい」
懐古の念から思わず零れた一言だった。ところどころメッキが剥がれてしまった額縁に触れていると、その指先をなぞるように思い出が蘇ってくる。一つ一つを辿っていくうち、不意にここに初めて来た時のことを思い出した。
♦♢♦
彼女がこの帝國図書館にやって来たのは丁度一年前のことだ。趣味の洋裁に係る費用をもっと増やしたいという思いで働きに出ようと決意したはいいものの、まだ学生の身分である彼女にまともに働いた経験は無かった。最初に思いついたのはカフェで女給として働くことだった。給料は完全に歩合制だが、他の職に比べたら悪くはない。それにカフェと言っても近所の家族向けの小さい店だ。銀座にあるような高級な店でも無ければ、新宿のアンダーグラウンドな店でもない。それでも、彼女の父は許さなかった。「女子大生がそんなところで働くものじゃない」とお叱りを受けてしまった。過保護な親だと思う。それに加えて「第一、お前に接客は無理だよ。喋るの下手なんじゃ、客に逃げられる」と母に言われてなるほどと納得したのは記憶に新しい。後はどこかの会社に転がり込んで事務のアルバイトをやらせてもらうか。しかし、事務の仕事は大変につまらないと友人が溜息交じりに愚痴を零している姿が浮かんだ。給料もあまり良いとは言えないらしい。よし、やめよう。彼女は楽しみながら仕事をしたいタイプだった。そうなると、自然と役所などでの事務補助なども対象外となる。そこまで思い至った彼女ははた、と気づいてしまった。
「……え? もしかして、仕事無い?」
そうなってしまう。書生という手も浮かんだが、彼女にそういった伝手は無い。求人雑誌を手に道のど真ん中で立ちすくむしかできない。思えば、周りの友人達はそのくらいのアルバイトしかしていなかったような気がする。先程、思い浮かべた友人も嫌々言いながら未だ続けているし、顔の良い子は大半がカフェの女給。将来の夢を見据えて書生として作家や俳優の家に住み込みで働いている子も少なくない。中には資格を取って大学卒業と共に就職を目指すなんていう子もいる。
「どうしよう」
私何も考えてなかった。大学一年の春。駒米静音は己の無計画さに打ちひしがれ、とぼとぼと家へ帰ることしかできなかった。
家に帰るとまっすぐ二階の自室へ上がり、ベッドに沈む。持っていた求人雑誌と肩掛け鞄がだらしなく落ちていった。それらを視界の端に捉えながら、悶々とした気持ちを寝て忘れようと瞼を閉じる。俯せのままだと苦しい上に眼鏡が傷つくので、仰向けになろうと寝返ると、足に冊子の角が当たった。角の部分だけが当たっているというくすぐったいような少々痛いような感覚が嫌で、渋々上体を起こして冊子を手に取った。薄紫色の和紙でできた表紙には「資格のすゝめ」と厳めしい筆文字で書かれている。大学から贈られた資格の一覧が載っているものだ。この冊子が手元にやってきた当時と同じようにデスクへ投げようとした時、ふと思い至った。割の良いアルバイトが禁止されてしまっている今の状況では、最早遊ぶか資格を取るしかない。そう思うと、何だか自分一人だけ損をしているような気がしてくる。こうなったら今のうちから就職に有利な資格を取っておいて、高時給のキャリアウーマンになってやると半ば自棄になった彼女は冊子を開いた。掲載されているのは「司法書士」や「公認会計士」など、一覧表の中で難しそうな名前がずらずらと並んでいる。その上、字が小さく細かいせいで早くも彼女の決心は崩れ始めてしまう。それでも、少しは簡単そうなものもあるだろうと一縷の希望を持ってページを捲る。難しそうな名前の資格は早くも飛ばし、取れそうな資格を見つけては説明を読む。文字を追うことは得意な方の彼女だったが、こういった説明というものはどうも面白くない。次第に苛立ちが募る中、ある名前が彼女の目に留まった。
「何? ……特務司書?」
それが彼女と帝國図書館との出会いだった。
あの直後、本屋へ駆け込んで参考書を読み漁り、必死になって勉強した。合格通知が届いた時はやり遂げたという達成感と充足感で満たされたことは忘れない。
「まぁ、そのすぐ後にこうして勤務することになるとは思わなかったけれど」
「ほほう。なるほど、そうだったのですか」
すぐ隣から聞こえてきた耳慣れた声に、静音は恐る恐るそちらを見やると、声にならない声を上げた。そこには興味津々とした顔をしている助手江戸川乱歩がいた。白いシルクハットの鍔にちょっと手をやった格好で彼女の手元を覗き込んでいる。特に疾しいことは無いが、静音は思わず手にしていた書状を背中に隠した。それを目敏い乱歩が見逃す筈は無い。
「おや。何故、隠すのですか? 何か疾しいことでも?」
「あ、ありません! ら、乱歩先生こそ、こんな朝からどうしたんですか?」
「いえ、ワタクシはただ、アナタがまた睡眠を摂らずに何かしていると思っていたので、様子を見に来ただけですよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべる乱歩に静音は言葉を詰まらせた。彼の言う通り、彼女は徹夜をして仕事を片付けた後、部屋の片付けにかかってしまったのだから、弁解すらできない。
「おやおや、図星のようで」
黙ってしまった静音を見て、乱歩はにんまりと笑みを深くした。決まりが悪くなった彼女は誤魔化す為に咳払いを一つして話題を変えることにした。
「あの……それで、私はもうこのまま業務を務めようと思うんですけど――って、乱歩先生? 何ですか?」
話の途中で彼女の手を取った乱歩はすたすたとソファへ近づいたかと思うと、クッションと毛布をどこからか出してきてセットし、彼女をそこに寝かせた。あれよあれよという間に寝かされる体勢にされてしまった静音は唖然として口を半開きにしている。眼鏡がずれてぼやける視界に、はっと我に返ると乱歩に抗議をし始めた。
「私は大丈夫です! もう朝になっちゃってるんですから、仕事をしないと!」
「そうですか。では……」
それだけ言うと、シルクハットとマント、上着を素早く脱いだ彼は彼女が抵抗できないよう肩を抱き寄せ、腕を押さえ込んでソファに横になった。予想だにしなかった行動に顔どころか全身を真っ赤にさせる勢いの彼女に、乱歩は密かに笑った。
「こうしてしまえば、休む他無いでしょう?」
「う、うぅ……ぐぐ」
敵わないと思いながらも一応抵抗してみたが、案の定乱歩の拘束が解ける気配は微塵も無い。早々に諦めて静音は彼の言うことを聞くしかなくなった。大人しくなった彼女を見てまたくすくす笑う乱歩。抵抗して疲れたのか呼吸を整えている静音は、そんな彼を見て顔を顰める。
「申し訳ありません。強硬手段を取らせて頂きました」
「あのっ、こんなところ誰かに見られたら……」
「ああ、その点についてはご心配なく。先程鍵をかけておきましたから」
しれっと安心してお休みなさいと言ってのける乱歩に静音はもう何も言えなかった。彼女の頭には無かったが、他にも言うべきことはある。付き合ってもいない男女が同じソファで寝るという行為は如何なものかという点と、司書室に予め鍵をかけて侵入して来る乱歩の周到さという点であるが、微睡んでいく彼女の頭には一切浮かんで来なかった。
早朝四時の出来事である。