あなたとワタクシのプレゼント交換 司書は悩んでいた。二月に入り段々暖かくなってきた頃、バレンタインに文豪達へ配るチョコレートについて悩んでいた。原因はただ一人の文豪江戸川乱歩にある。常から奇をてらい、手品の種や殺人トリックを考えている彼は普通という観念を嫌う傾向にある。そんな彼に贈るチョコレートはどんな物が良いのか、司書は悩みに悩んでいた。普通のチョコレートを普通に贈っては「安直ですね」などと言われて笑われてしまうかもしれない。司書の中の乱歩はそういうイメージだ。どうしようどうしようと悩んでいるうちにバレンタインは明日というところまで来てしまった。とにかく彼の分は一旦後回しにして、他の文豪達の分を作ってしまおう。幸い今日は休館日だ。そう決めると、司書は厨房を借りて作り始める。
湯煎でチョコレートを溶かす。市販品でも三種類くらい混ぜたら、美味しいのではないかという素人の考えで、ちょっと高い板チョコを買って来た。適当に手で砕いてボウルに入れ、湯の上でくるくる溶かす。あんまり高い温度ではいけないと、本に書いてあった。どうしてなのかは忘れてしまったが。じりじりと溶け始めるチョコレートを木ベラで弄っていると、司書の胸にも同じように苛立ちが募る。何故か乱歩の顔がちらつき、よく分からない焦りが出てきた。じれったくなる気持ちをぎりぎりのところで抑えつけながらの作業は、なかなかにストレスを感じるものだと司書は思った。
「これ、お湯入れた方が早く溶けそう」
口に出すというのは、恐ろしいもので、そう言えば、それが正しいのではないかと思えてくる。ちょっと。ほんの少しだけ。そんな言葉が彼女の胸を擽り、行動へ駆り立てる。ちょっとだけなら大丈夫だよ。そんなあどけない悪戯小僧の声が聞こえた気がした。聞こえてくる言葉のままに、チョコレートに湯を入れようとボウルを傾けたその時、制止の声が割り込んだ。
「ちょっと待った」
思わぬ音量と人の声にびくりと肩が跳ね、ボウルから手を離す。目を上げると、カウンター越しに志賀直哉が立っていた。どこか白けた表情の彼に、司書はしまったと思った。
「今、お湯入れようとしただろ。……まったく、そんなことしたら風味が飛んじまう上に、固める時苦労するだろ」
言いながら、志賀は厨房に入って来る。作ったチョコレートは司書から文豪達に渡す物だ。彼の手を煩わせるようなことはしたくないという罪悪感と、誰かの助言が欲しいという縋りたい思いと僅かな期待が入り混じる。しかし、隣に立った志賀は意外にも腕組みをして彼女の手元を見ているだけだった。
「あの……志賀先生?」
「武者に言われてな。志賀はアドバイスだけして手を出すなって。俺だって、そのくらいは弁えてるっての。あんたの手作りだしな」
「武者先生らしいですね」
困ったように笑う志賀を見て、ここに来る前に怒り顔の武者小路実篤に叱られる彼の姿を想像し、司書は笑みを零す。それに少々むっとした志賀は司書の背中を叩き、作業を再開させる。
「い、痛いです。志賀先生」
「悪ぃ悪ぃ。流石に大人気なかったな。で、今回はどんなチョコを作るんだ?」
「たくさん作るので、あまり手の込んだ物はできないんですけど......。カップチョコにして色々なトッピングをしようかと思ってます。......ちょっと安直ですかね」
「そんなことねぇよ。こういうのは気持ちが大事だろ。カップに入れるんなら、ちょっと柔らかくした方が良いな」
自信を持てと励まされて元気づく司書だが、乱歩のことが頭から離れない。こうしてチョコ作りを開始すれば、何か良いアイディアが浮かぶと思ったが、未だ何も思いつかない。彼に贈る物を考えれば考える程、分からなくなってくる。冷蔵庫から生クリームと蜂蜜を持って来た志賀に司書は訊いてみた。
「そんなの本人に訊けばいいだろ。駄目なのか?」
生クリームと蜂蜜を火にかけ始めた彼から案の定の答えが返ってきた。彼女も考えなかった訳ではない。しかし、直接訊くのはあまりしたくない。司書は普段驚かされている分、意趣返しをしたいのだ。それに、ここで他の人に頼ったら負けた気がするというのもある。それというのも司書は乱歩と知恵比べをしている面々が密かに羨ましくて、自分も参加できたらと思っていたが、経験の浅い自分では相手にならないだろうと思った結果がこれだった。少しひねくれた行動だろうかとも思ったが、今更後に引けない。そんな胸中をぽつりぽつりと吐露すると、頷きながら聞いていた志賀はふふっと笑いを漏らした。生クリームをかき混ぜる手は止めていない。
「志賀先生、私真剣なんですよ」
「ふっ……悪い。……うん。いいんじゃねぇか。そういうの」
尚も笑っている志賀に、顔を顰めて怒る司書。何がそんなに可笑しいのか、志賀は小さく笑い続ける。少ししていい加減悪いと思ったらしく、笑みを引っ込めてチョコ作りを再開しようと言い出した。
「誤魔化しましたね」
「いいじゃねぇか。それより俺達全員に配るんだろ? さっさと作っちまおうぜ。ああ、チョコは半分溶けたら湯煎から外してくれ」
未だ納得していない司書だったが、彼の言うことも一理あると思い、一旦気持ちを落ち着かせて作業を再開する。既に半分ほど、溶けたチョコレートに温めた生クリームを投入し、素早く混ぜる。
「別に」
「はい?」
「別に、あいつにそういう気は無いんじゃないか? あんたを仲間外れにしようとか、そういうのは」
「いえ、それは私も分かります。乱歩先生はそういう人ではないですから」
「俺から見れば、乱歩のあの態度は…………」
「あの態度は?」
「…………いや、やめておく。それより、混ざったからカップに入れるぞ」
「え。そこで切られるとすごく気になるんですけど、あの、志賀先生?」
それにそれもう私じゃなくて志賀先生が作ったチョコですよねと言う彼女に構わず、志賀は用意されたカップにチョコレートを流し込む。尚も司書が話しかけると、彼は集中しているから話しかけるなと言い、沈黙した。言われてしまったのでそのまま黙って待っていると、カップに注ぎ終わったらしく、志賀は顔を上げて司書を見た。その目にはさきほどまでの真剣さは無く、優しい色を湛えている。
「はははっ。何度も悪いな。確かに、これだとあんたが作ったチョコじゃなくて、俺が作ったチョコになっちまうな」
せめて冷蔵庫に入れるのは、あんたがやってくれ。そう言って苦笑する志賀につられて司書も些か引きつった笑顔を作る。バットに乗ったカップチョコを冷蔵庫に入れて志賀と別れた。
体良く時間を作らされたような感じはするものの、これで乱歩に贈るチョコレートを考える時間が出来た。残された時間もあまり無い。用意できる物なんてかなり限られてくる。自分の行動の遅さに情けなくなってきて、いっそ贈り物自体止めてしまおうかとさえ思った司書は、その考えを振り払うかのようにかぶりを振る。彼一人にだけ何も贈らないというのは、それこそ酷いことではないか。そう思い直すと、また頭はチョコレートのことを考える。ふと、思ったのは別にチョコレートに限らなくても良いのではないかということだ。最近はチョコレートだけでなく、時計やアクセサリーを贈る場合もあると聞く。
「あ、そういえば……」
範囲を拡大して考えてみれば、乱歩がいつも肌身離さず持っている万年筆のことを思い出した。そろそろもう一本買おうか悩んでいるとも言っていた。しかし、そこでまた例の弱気が働く。文豪達は、否文豪だからこそ万年筆にもこだわりがあるのではないか。特務司書の給料などたかが知れている。あんまりにも高級な物は買えないだろう。
「もし、断られたりしたら......」
そう思うと、否が応でも気持ちが落ち込む。しかし、同時に司書はこうも思うのだった。
「もし、乱歩先生が私が送った万年筆を使ってくれたら......」
堪らなく嬉しい。声に出さずに言うと、顔が熱くなる。今まで彼にはたくさん贈り物をしてきたというのに、彼が自分の贈った物を使ってくれていると考えるだけで顔から火が出そうになる。これはもしや――――。
「ち、違うよ! バレンタインだから! バレンタインだからそう思うだけ。な、何とも無いから! 他の先生と同じだから!」
思わず、廊下でそう叫ぶ。厭に響いた自分の声に驚き、口を押えて慌てて周囲を見回す。幸い、彼女以外に人影は無かった。ばくばくと煩い心臓を深呼吸で落ち着かせながら、司書室へ入る。鍵をかけると、全身から羞恥心が溢れ出るような気がした。司書室に人はいないが、居た堪れなくて熱い頬を冷やそうと両手で顔を覆う。
「うー......」
意味の無い音が微かに口から出る。乱歩が自分の選んだ物を使う。一度考え出したら、もうそれしか選択肢は無いような気がした。それに周りがチョコレートをもらっている中、一人だけ違う物だったら流石の彼でも驚くだろう。こうなれば、もう覚悟を決めるしかない。一頻り赤くなる頬と緩む口元と死闘を繰り広げ、漸く落ち着いた頃には夕暮れになっていた。
慌てて出かける支度をして館長に許可をもらい、図書館を出る。街へ続く大通りを全速力で走り抜け、路面電車に飛び乗ってから財布の中身を確認した。相変わらず悲しいほどに少ないが、何とかなるだろう。もう夕方だというのに車内はなかなか混んでおり、座れたのは幸運だったと司書は思った。ガタゴトと揺れる振動に身を任せていると心地よく、ここまで走ってきた体には揺り籠のようで、直様睡魔が襲ってきた。寝ては駄目だ。今日は一人で出かけているのだから。そうは思ってもただ揺られているだけだと、どうしても眠くなる。鞄を盗られやしないかと心配で、握っている手に力を込めた時だった。ふわり、と甘い匂いがした。ふと顔を上げると、ちょうど一人の女学生が乗って来るところだった。その子の持っている白い手提げ袋から微かに甘い香りがする。この子も明日誰かにチョコレートを贈るんだなぁと思うと、司書は微笑ましい気持ちになると同時に、唐突に乱歩の顔が浮かんだ。またしても熱くなる顔を俯いて隠した。
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路面電車から降りて商店街を歩く。前に通った道順を思い出しながら、目的の店を探す。偶然見つけた店なので、その時は中に入らなかったが、一目で文房具店だと分かる看板が出ていた筈だ。
「あ、あった」
店の場所を思い出すのに少し難儀したが、司書は無事に見つけられた。その店は本当に狭く、小ぢんまりとしていてうっかり見落としてしまいそうだ。その佇まいは、まるで両側の店にぐいぐい押されているようにも見える。前に通りかかった時、店の外からちらりと見てみたが、店は小さくともなかなか良い物を揃えているなという印象だった。入口の硝子扉を開けると僅かにきぃ、と軋んだ音を立てて開いた。入口のすぐ傍のカウンターでは小さな老婆が穏やかな笑みを浮かべ、一礼して迎えてくれた。司書もそれに倣う。通路は狭く、棚には所狭しと色とりどりのペンや鋏などが並び、壁収納には茶色や白の紙に包まれた用紙などが天井近くまで積まれていた。圧巻の光景に、司書は思わず感嘆の溜め息を零す。しかし、すぐぼうっとしていた気を引き締めて万年筆を探す。早く買って帰らないと、暗くなってしまう。少し奥の方にあった万年筆のコーナーを見つけると、足が止まる。万年筆にすると決めたは良いものの、どんなものにするかはまだ決めていなかった。棚には様々な色と軸の万年筆が並んでいる。特におすすめの商品が目立って置かれている訳ではなく、色も太さもばらばらの万年筆が雑多に差し込まれている。この中から選ぶなど、司書には難しいような気がした。それだけ沢山の万年筆が並んでいる。店番の老婆に何か助言をもらおうとちらりとカウンターの方を振り返る。だが、彼女の願いは届かず老婆は眠りこけているようだった。少し待ってみても起きる気配は無い。仕方なく、司書はまた大量の万年筆と向かい合った。司書は万年筆に特別詳しい訳ではないが、素人の彼女が見ても並んでいるものは品があって可愛らしいものから美しいものまで様々あり、どれが良いのか迷ってしまう。
「乱歩先生には、どれが良いのかなぁ……」
ぼやきながら視線を巡らせていると、ある一本が目に留まった。滑らかな黒の中に深い緑が煌めくものだ。試しに手に取ってみると、思った通りのつるつるとした手触りが迎えてくれる。が、これではないと彼女は直感した。何故そう思ったのかは分からないが、乱歩に贈るペンはこれではないと確信に近いものを抱いたのだ。その後も何本か試してみたが、一向にこれだと思える物が見つからない。ただただ時間だけが過ぎていき、段々司書は焦り始めた。いくら他の文豪達とは違う贈り物をしようと思っても時間がかかり過ぎる。そろそろ決めなければと泳がせる視線の先にまた一本のペンが留まった。手に取ってみる。黒の中に深い藍色と角度によってその部分が僅かに虹色にも見える軸のペンだ。キャップを取ってみると、金のペン先には植物の蔦の紋様が刻まれている、なかなか洒落た物だった。これだ、と司書はまたしても直感した。彼に贈るのはこのペンしかないと思った。ひょいと値段を見てみると、思ったより高い値段が書かれている。一瞬躊躇したが、時間もあまり無い上に彼女は自分の直感を信じることにした。ペンを持ってカウンターへ向かうと、流石に老婆も目を覚ましていたようで、司書が差し出したペンを受け取ってにこりと微笑む。何か含みがあるように思えたが、あまり気にせず司書もつられて微笑んだ。
会計を済ませて外に出ると、日は傾き、空の端が薄紫になってしまっている。早く帰らなければ、皆に心配をかけてしまう。買った万年筆をしっかり握り締め、元来た道を戻る。マフラーとコートを羽織って来たが、まだ肌寒く、吐く息は白い。司書はぶるりと身震いすると、家路を急ぐ。商店街にはいつの間にか露店が出ており、一風変わった物が売られている。何人かの露天商の前を通りかかった司書の目に可愛らしい箱が飛び込んできた。それは木で作られた箱のようで、白と薄茶のラインが交差し、チェック柄を作っているものだった。
「わぁ、可愛い」
司書が思わずそう零すと、商魂逞しい露店商人が黙っている筈は無い。色の黒い青年が熱心にその箱について説明を入れてくる。彼の説明を簡潔に言うと、この箱は寄せ木細工の仕掛け箱らしい。実際に彼が開けて見せてくれたのは表面の模様がパズルのようになっていて、これが鍵の代わりだそうだ。開けてみると、中は二重底になっていて物を隠せるらしい。こういった物を乱歩は好んでいたなと思い至った司書は、さきほど買ったペンの大きさのことを考えていた。彼が見せてくれている箱よりその隣の箱の方が入りそうだ。
「あの、その隣のを下さい」
気が付けば、そう口にしていた。
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帝國図書館に帰って来た司書は、マフラーとコートを司書室にあるコート掛けにかけると、早速明日の準備に取り掛かった。と言っても、さきほど厨房の冷蔵庫を覗いてみたが、志賀と共に作ったカップチョコは一人分を除いて無くなってしまっていた。多分に志賀が気を利かせてくれたのだろう。その証拠にラッピングの包み紙やシールも残されていた。今日は夕食を遅めに摂ると言っており、プレゼントを包むくらいの時間はある。買って来た物をデスクの上に並べて裁縫箱を取り出してくる。ちょっとした飾りを付ける為だ。裁縫箱の中から紙と白と黄色のフェルトを三枚出して、簡単な型紙を作り、その通りにフェルトを切っていく。手縫いで三つずつ花を作って裁縫箱を片付けると、買って来た箱とペンを取り出す。寄木細工の箱の一枚目の底板を上げてペンと一種類の花飾りを入れ、元に戻してカップチョコともう一種類の花飾りを入れた。もちろんチョコには、志賀が残していったラッピングセットを使っている。来年はちゃんと勉強して、チョコレートを作ろうと思いながら箱を閉じ、表面を適当にずらして鍵をかける。かしゃかしゃと涼やかな音を立てて箱は密閉された。ちょうどその時、司書室の壁にかけてある呼び鈴が鳴り、夕食の時間を知らせる。
「ちょうど良かった」
そのまま手に持っていた箱を引き出しにしまい、司書は食堂へ向かった。
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夕食と入浴を済ませ、髪を乾かした司書は宿舎を出て図書館に戻って来ていた。明日の準備をする為だった。事前に志賀に残りのチョコレートの行方を尋ねたが、あんたは明日配ってくれればいいとだけ言われ、分からず終いだ。彼女の手元には乱歩への分だけが残される形となり、司書という立場としては少々複雑だが、致し方ない。明日の予定を整理し、デスク周りを片付けた彼女は少し休憩しようと一つの窓にかかっているカーテンを開け、椅子に座って窓の外を眺めた。司書室は暖房が点いているが、夜も更けた外は寒々しい夜気が重く漂っている。今夜は月が出ていないせいか、いつもより闇が濃く見えた。風に吹かれて中庭の木々がざわざわと揺れる。その様を見ていると、何か怖いような気がして、司書はカーテンを閉め、掃除に取りかかった。
粗方司書室の掃除をした後、喉の渇きを覚えた司書は食堂に向かっていた。暗い廊下には彼女のスリッパを履いた足音だけが響く。ぱたぱたと小走りで食堂に辿り着くと、そこには背の高い人影があった。驚いて立ち止まる司書に、その人影は芝居がかった仕草で会釈をする。
「こんばんは。司書さん」
乱歩だ。いつもの装いでそこに立っていた。
「な、なんだ乱歩先生だったんですね。お、脅かさないでください」
「フフ......申し訳ございません。イエ、しかし、ワタクシも少々驚きましたよ。司書さんはこんな時間まで一体何を?」
一瞬司書はどきりとした。乱歩宛のチョコレートを思い出したからだった。否、この状況では思い出さざるをえない。司書は恥ずかしいような後ろめたいような感じがして、どういった理由を挙げようか逡巡した。
「あの、私は明日の予定を組んだり、司書室の掃除を......」
意図せずに言い訳がましくなって、情けないような心持ちがした。別に疚しいことをしていた訳ではないのに、何となく素直に言うことははばかられる。どう言えば言い訳がましく聞こえないのか必死で考えている司書の心情を知ってか知らずか、乱歩は食堂の扉を開け、電灯を点けて「どうぞ、お先に」と促した。
「あっ、ありがとう……ございます」
「イイエ。廊下は寒いですから、何か温かい飲み物でも淹れましょう。アナタも喉が渇いているでしょう?」
「え。どうして……」
口に出してからしまったと司書は思った。その理由は少し困ったような笑みを浮かべる乱歩が続ける。
「おや。この冷え込みようでは空気も乾燥していることでしょう。ワタクシはてっきりそう思ったのですが、違いましたか?」
「い、いいえ。そうですね。私も喉が渇いて……」
いつもよりおどおどしてしまう司書を椅子に座るよう促し、乱歩は厨房へ消える。小鍋で何かを煮始めたようで、コンロの前に立っている彼の手元から湯気が上がった。
「え。あの、乱歩先生。私、水でいいですよ?」
「いけません。冷水では体を冷やしてしまいますよ。もうすぐですから、お待ちになっていて下さい」
そう言われては待つしかない。言われた通り大人しく待っていると、「どうぞ」という声と共にカップが置かれた。中身はホットミルクのようだ。電子レンジがあるのにわざわざ鍋で煮立ててくれたこのマメな男に、司書は礼を言って口を付けた。優しいミルクの風味に混ざって何となくアルコールの苦味と甘い風味がした。
「お酒と、何か甘い......」
「ああ。蜂蜜とブランデーを少々入れておきました」
ちょっとした悪戯です、といつもの悪戯っ子の笑みを浮かべる乱歩に司書も小さく笑い声を立てた。先程までの惨めな気持ちが簡単に溶けて消えていく。
「そういえば、乱歩先生はこんな時間まで何をしていたんですか?」
「おや、事情聴取ですか? フフ……そうですねぇ。ワタクシは今度、新しいトリックをお披露目したく、励んでいましたよ」
彼の得意なもったいぶった言い方だが、新しい手品のことらしい。
「こんな時間まで練習してたんですか?」
「エエ。何せ今度のものは少々手こずるものでして」
そう言ってまた嬉しそうに笑う乱歩。今夜の彼は機嫌が良いようだ。
「じゃあ、楽しみにしてますね」
「エエ、エエ。楽しみに待っていてください。渾身の出来ですから。それで、アナタは明日のバレンタインの準備ですか?」
「はい、そうで………………へあっ!?」
酒が入って少し酩酊していたせいもあるだろうが、司書は簡単に白状させられてしまった。思わず上げた奇声が反響する中、彼女は顔を赤らめ、閉口してしまう。彼女の思わぬ大声に一瞬、目を丸くした乱歩はまたあの悪戯っぽい笑みを浮かべて司書の方へ一歩詰め寄った。
「ほほう。図星ですか、司書さん。顔が赤くなっていますよ」
「あ、赤くなってなんかないです! こ、これはその……お、お酒が入ってるから」
我ながらなんて下手な言い訳だろうと司書は思った。その様子を見て尚も乱歩は笑みを崩さず詰め寄り、司書と肩が密着する。
「そうですか、そうですか。では、そういうことにしておきましょうかねぇ」
くすくすと笑う彼に彼女の頬は一層赤くなる。異様に耳に響く自分の心臓の音に限界を感じていると、まるでそれを読んでいたかのようにすっと乱歩は身を引いた。驚く彼女に構わず、乱歩は壁掛け時計を見、口を開いた。
「もうこんな時間です。司書さんもそろそろお休みになられた方が良いですよ」
「え? あ……」
見ると、時計は零時を指している。もう日付が変わったのだ。「では、おやすみなさい」と言ってさっさと立ち去ろうとする乱歩に、司書は声を掛けていた。乱歩が振り返る。不思議そうにこちらを見る彼の瞳が一瞬だけきらりと光ったような気がした。
「何でしょう?」
「あの……あの……乱歩、先生。ちょ、ちょっと待っていてください。渡したい物が、あって……」
「ほう。ワタクシに渡したい物があると? はて、一体何でしょう?」
「と、とにかく! ここで待っててください! す、すぐ戻って来ますから」
わざとらしくとぼける彼をすり抜け、司書は大急ぎで司書室のデスクから例のプレゼントを持って戻って来る。食堂へ戻ると、カップは片付けられ、乱歩は自分の席に戻って待っていた。司書が入ると、こちらへ顔を向ける。
「司書さん、そんなに息を切らして……。よっぽどワタクシに渡したいのですね」
「あ、あの……これ」
乱歩の言葉にまた頬が熱くなるが、何とか耐えて司書は彼の前に箱を差し出した。息を切らせているせいなのか、緊張しているせいなのか分からないが、震える手で差し出された寄せ木細工の箱を受け取り、乱歩は興味深げに箱と司書を交互に見遣る。
「これはこれは。仕掛け箱のようですね。今ここで開けてもよろしいでしょうか?」
「は、はい」
箱をカウンターに置いて表面の模様を動かし、カチカチと嵌めていく。そのよどみない手つきに、司書は自分の心までもが暴かれていくような錯覚を受けた。が、すぐさまその思考を追いやる。これではまるで変態のようだと思ったからだ。次第に買った時と同じ模様が出来上がっていき、とうとう鍵が開いた。ゆっくりとした手つきで乱歩が箱を開けると、そこにはカップチョコとマーガレットの花飾りが入っている。
「これは、生チョコのようですね。ありがとうございます。この飾りは司書さんが?」
「は、はい。チョコは、私、上手く作れなくて。その……」
「良いのですよ。来年を楽しみにしています。おや? この箱、もしかして二重底ですか?」
「あ、はい。乱歩先生、こういう仕掛けが好きだと思ったので。あ、でも……」
「フフ。嬉しいですよ。さてさて、一体何が入っているのやら」
チョコと花飾りをそっと退かして、一枚目の底板を外す。現れたのは藍色の万年筆と小さな三つの薔薇の飾り。驚いた表情で固まる乱歩に、司書は慌てて弁明した。
「あの、あの、ちゃんとしたチョコを作れなくて、でも、乱歩先生には何かプレゼントをしたくて。い、色々考えたんですけど、も、もし、使ってくれたらなって思って……」
「司書さん、どうぞこちらに」
耐えきれずに謝る司書に、乱歩は我に返って彼女を手招く。今にも泣き出しそうな表情の司書は、渋々といった様子で座る。本当は今にもこの場から立ち去りたいのだろう。しょげて俯く司書に乱歩はまず礼を言って、次に目をつむるように言った。言われた通りにすると、今度は口を開けるように言われて、その通りにする。はむ、と何か少し硬いものを咥えさせられた。驚いた司書が目を開けると、間近で乱歩の涼やかな瞳に射られていた。口に入れられた物を人差し指で軽く押さえている。
「一か月後、ワタクシはアナタにお礼の品を差し上げるでしょう。特務司書であるアナタの助手として。しかし、今夜のこれは文豪と司書という関係ではなく、ワタクシが個人的にアナタに差し上げる物です。どうぞ、受け取ってください」
そう言って指を離し、可愛らしい箱を取り出す乱歩。その中には色とりどりのマカロンが入っていた。司書の口に入れられたのもその一つだろう。一口噛むと優しい甘さと爽やかな香りが広がった。口から放してみると、青色のマカロンだった。
「あ、ありがとう、ございます……?」
「フフフ。では、司書さん。おやすみなさい」
よく分かっていない司書を置いて、乱歩は今度こそ食堂を出て行った。乱歩が苦心した物と三本の薔薇とマカロンの意味を司書が知るのは、それから八時間後だった。