そして、深く沈む 前編 こんな筈じゃなかった。私はただ、この不安を取り除いて欲しかった。ただ、それだけだったのに。
ナイトレイヴンカレッジに迷い込んでから一年が過ぎようとしていた頃、オンボロ寮の自室で泣くことが増えた。漠然とした不安からなかなか寝付けない日が続いた。いつになったら元の世界ひいては家に帰れるのか。先が見えなくて、不安と恐怖で胸がいっぱいになる。苦しい。辛い。誰か助けて。帰りたい。心ではそう思ってもエース達の前では必死に隠した。絶対に言えない。彼らを悲しませたい訳じゃない。折角、こんな私を頼ってくれているんだから、期待に応えないと。絶対に、言う訳にはいかない。
ずっとそう思ってきた。でも、もう限界だ。故郷を思い続けることに疲れた。楽になりたい。楽に……。
モストロ・ラウンジのVIPルーム。そこにはオクタヴィネルの寮長アズール・アーシェングロット、副寮長のジェイド・リーチ、ジェイドの双子の片割れフロイド・リーチの他に監督生の姿があった。初めて聞く彼女の真実に、三人は暫く顔を見合わせ、黙っていた。
「つまり……」
徐にアズールが口を開く。
「貴女はこの世界とは違う別の世界の人間、ということですか?」
「……はい」
「…………ふーん、だから色々世間知らずだったんだぁ、小エビちゃん」
「俄には信じがたいですが、言われてみればそんな節はありましたね」
言いながらジェイドとフロイドは彼女の両脇に座り、ジェイドは足を組んで何事か考え出し、フロイドは監督生の頭を撫で始めた。
「小エビちゃん、辛いことたくさん耐えてきたんだねぇ。良い子良い子したげる~」
普段なら、非常に気分屋で何が不機嫌のスイッチになるか分からない彼には恐怖しか感じないが、この時ばかりは弱った心に彼の言葉と手の温もりがじんと染み渡り、監督生は思わず涙を一筋流した。
「監督生さんにはお世話になりましたし、折角こうしてポイントも貯めて来てくださったのだから、僕らが尽力して差し上げねばなりませんね、アズール」
「ええ、もちろんです。貴女は前に僕が稀代の努力家だと言いましたね? 流石に貴女を元の世界に帰す、なんて大がかりなことはできませんが、慰め程度の物は差し上げられますよ」
そう言ってアズールが取り出したのは、一本の薬瓶。中には水色の液体が入っている。彼は目の前のテーブルにそれをことんと置く。
「これは夢を自在に操る魔法薬です。故郷のことを思いながら寝る前にこれを一口飲んでください。夢を見ている間だけですが、故郷の風景や友人達、家族に会えますよ」
「夢……現実じゃないんですね」
「仕方ありません。何でも願いを叶えるとは言っても所詮、僕達はまだ学生の身分。大がかりな魔法にはそれなりの物が必要になる上に、成功するか分かりません。今はこれが精一杯なんですよ。悔しいことですが……。そして、この薬にはちょっとした副作用があります」
副作用という単語に、監督生は身構えた。
「副作用、ですか」
「ええ。思う通りの夢を見せる薬ですから、精神的に不安定になったり、幻覚を見たりする可能性があります。夢と現実の区別が付かなくなったりもするかもしれません。あくまで可能性の話ですが。そして、この薬は変身薬の側面も持っています。頭の中で想像したことを現実に投影するという意味です。それで、どうします? 今回は対価は請求いたしません。僕がオーバーブロットした時の借りはこれで精算しますから」
なるほど、と監督生は納得した。それなら、こちらに物理的な損は無いように思える。副作用が気になるが、それでも夢とはいえ、もう一度家族や友達に会えるなら彼女に断る理由なんて無かった。
「……そういうことなら、有り難く受け取ります」
「では、こちらの契約書にサインを」
どこからともなく取り出された『黄金の契約書』に監督生は、固まった。前回の事件のこともあるので、警戒してしまう。その様子を察したアズールは、安心させようとにっこり笑った。一切、邪気の無い笑顔だ。
「ご心配なく。この契約書の内容自体は受領書のようなものです。確認して頂いて構いません」
言われて改めて契約書の内容を確認すると、確かに自分の不利になるような条件も書かれていない。本当にただの受領書に近い。安心して監督生は『黄金の契約書』にサインをした。
「ふふ。ご契約ありがとうございます。では、この魔法薬を差し上げましょう。大事に使ってくださいね」
「ありがとうございます。これで……みんなに会える」
ぎゅっと薬瓶を監督生に握らせ、アズールは微笑む。少しでも彼女の慰めになるのなら、労力は惜しまないと彼は思っていた。
「良かったねぇ、小エビちゃん。嬉しい?」
「はい。これで少しは不安が解消されそうです」
「良い取引をしましたね、アズール。監督生さん、また何かあればどうぞ、モストロ・ラウンジにお越し下さい。僕らは貴女なら、いつでも力をお貸ししますよ」
「本当にありがとうございました。今度何か改めてお礼をしたいです」
「いえいえ。これは正式な取引ですから、お礼なんていりませんよ」
それでも何か礼をしたいと言う監督生を、アズールは気にするなと見送る。扉が閉まり、ぱたぱたと彼女の足音が遠ざかる。その音を聞きながら、双子は嫌な笑みを浮かべた。
「ふふふ……アズールも人が悪い」
「ね~。小エビちゃん、きっとびっくりするよぉ~」
「ふふ。何のことやら、僕には全く分かりませんね」
言葉とは裏腹に、三人は勝利を確信した如く、ほくそ笑んでいた。
※
これでみんなに会える。お父さん、お母さん。友達に。
就寝前、ベッドに入った監督生は、アズールから貰った薬瓶を持って考えていた。アズールの魔法薬学の腕は疑っていないが、彼女はそれでも何だか少し怖くなった。夢の中だけでもと思ったのは事実だが、同時に現実に戻れないのではという恐怖もあった。一番良いのは現実で家族や友人達に会うことなのだから、中毒になる可能性や眠ったまま戻れない可能性に不安になるのは、当然といえば当然だ。しかし、ここで二の足を踏んでいても始まらない。成るように成れ、と開き直って薬を一口飲んだ。
「ヴぇッ……!」
あまりの不味さに自然とそんな音が口から出る。その薬の味を例えるなら、腐ったイカとピーナッツバターを混ぜたような味だ。変に甘い。歯を磨いたばかりなのにと思いつつ、蓋を閉めてベッドサイドに置く。横になると、すぐに眠気がやって来て監督生は身を委ねた。
翌朝、目が覚めると監督生は、非常に充実した気持ちになっていると自覚した。夢の中で自分の家に帰り、土産話として家族にこの世界のことを語り、食事を共にして自分の部屋で寝る夢。たったそれだけだったが、ひどく楽しかった。顔にも出ていたのか、寝起きのグリムに指摘される。
「お前、なんか今日は朝から嬉しそうなんだゾ」
「そう? ふふふ。良い夢見たからかな」
「夢ぇ? そんだけで機嫌が良くなるなんて、単純なやつ」
「いいの。とっても楽しかったんだから」
「ふーん。それより朝飯食いに行くんだゾー!」
「はいはい。まずは顔洗おうね」
たった一夜でこれだけ気持ちが変わるのだから、無くなるまで飲み続けよう。そう思いながら、監督生はグリムを抱えて上機嫌に洗面所へ向かうのだった。
〇゜。
アズールから魔法薬をもらって半月が経とうとしていた。ここのところ、夢にノイズのようなものが入るようになった。
昨日は友人達と映画を観に行く夢だったのだが、映画の内容が妙なものだった。水の中を延々映していた。きらきらと陽の光が差し込み、水面の影が時折揺らめいているような、何でもない海の中を撮ったような映像。画面の中央から時々、こぽりと水泡が昇っていく。そんな映像がずっと続いているのだった。鑑賞後にそれとなく友人達に聞いてみると、そんな映像は入っていなかったと言う。魔法薬にも消費期限のようなものがあるのかは分からないが、何かしらの不調が出ていることは明白だった。一瞬、アズールの言っていた副作用が頭を過ったが、すぐに打ち消す。一度気にしてしまったら、あの楽しい時間は二度と味わえない。気にはなるが、今のところ大した影響は無い。魔法薬が半分を切ってから無意識に焦って神経が過敏になっているのではないかと監督生は考えた。夢は体調や精神状態に影響されるとも言うからだ。
「もう少し、様子を見てみよう」
それからも監督生は毎日魔法薬を服用した。薬が一口ずつ減っていくにつれて、水に関する夢を見ることが増えた。あの映画の夢から始まり、土砂降りの雨の中を友人達と一緒に急いで帰る夢。次は友人宅の水槽を見に行く夢。次は水族館へ行く夢。そして、最近見た夢は家族と海水浴に行く夢だった。ここまでくると、流石の監督生も妙な予感がしてきていた。本当にこのまま薬を飲み続けていいのだろうか。もやもやとした、畏怖にも似た不安が胸に広がる。今のところ、現実と夢の区別がつかなくなったり、幻覚を見たりはしていない。ただ偶然が重なっただけとも取れる。まだ心のどこかで、アズール達を信じていない自分がいるのだろうか。
「でも……」
就寝前のベッドの中で、監督生は悩んでいた。一度、服用するのを忘れて眠ってしまったことがあったが、その時は故郷の夢を見ることは決して無かった。それを思うと、飲まずにはいられない。家族に会いたい、友人達と何気ない日常を過ごしたい。魔法なんて無い、ごく普通の日常を――。
今度の夢は海水浴の夢の続きだった。「遊んでおいで」と両親に言われ、監督生は弟と一緒になって海に入った。まだ弟は小さくて上手く泳げないから、彼女が手を繋いで泳ぎの練習をさせている。まだ慣れないバタ足で四苦八苦している弟は本当に可愛らしい。年が離れているから尚更、彼女にとっては可愛い弟だった。
「ねえちゃん、もっとゆっくり」
声変わりもしていないあどけない声で弟が言う。その要望に監督生は応えて手を引く力を弱める。
「はいはい。頑張って」
ばちゃばちゃと飛沫が跳ね、照りつく太陽光を浴びながら彼女は幸せを噛み締めていた。そうだ、帰ったら弟にたくさん話をしてあげよう。ナイトレイヴンカレッジであったことをたくさん。
その時だった。今は遠いあるべき日常に思いを馳せていた彼女は、真横から大きな波が迫っていることに気が付かなかった。
「ねえちゃん!」
「え……」
気付いた時には既に波に飲まれ、海中できりもみ状態になっていた。どちらが上か下か分からない。息ができない。このままでは死んでしまう!
必死に藻掻いて藻掻いて、やっと水面から出ることができた。少し喉に入った水を吐き出しながら、監督生は辺りを見回す。弟の安否が何より心配だった。しかし、周りを見ても弟どころか、陸すら見えない。彼女は沖に流され、どことも知れない場所に置き去りにされていた。足は付かない。周りに人影らしいものも無い。指針となる陸の影も無い。暫く立ち泳ぎをして分かったことはそれだけだった。必死に弟の名前を呼んでも返事は無い。恐怖が、彼女を支配した。
「いや…………いやぁああっ!」
衝動に突き動かされるまま、無我夢中で泳いだ。とにかく陸だ。陸の影を追うしかない。泳げ、泳げ、泳げ泳げ泳げ! 泳がないと死んでしまう! 手で水を掻くも、まるで鉛のように重い。いくら泳いでも前に進んでいる気がしない。恐怖で気が狂いそうだった。背後でざば、と何かが水面から飛び出した音がする。本能的な危機感だけで弾かれたように、彼女はそちらを見た。
「ひっ……!?」
視線の先、彼女から三メートル程の位置に二つの頭が海面から半分突き出ていた。よく見ると、それは彼女にとってひどく見覚えのある顔だった。青緑色の髪に黒いメッシュ。左右で異なる色の目。あの双子だ。人魚の姿ですぐそこにいる。目が合った。直感でそう思った瞬間、二人の目がにいと細められた。
はっと目が覚めた。窓の外は未だ暗闇に包まれている。時計を見ると、真夜中を指している。嫌な時間に起きてしまった。監督生はついさっきまで見ていた夢の内容を思い返す。あの目。あの目を思い出すだけで恐怖の余韻が全身を蝕む。何よりも怖かった。あの二人には悪いが、もうモストロ・ラウンジには行けないと監督生は思った。次にあの二人と会えば、この夢が現実になりそうで怖かった。なのに、どうして無性に弟の行方が気になってしまうのだろう。所詮、夢なのに妙な焦燥感に駆られてしまう。あの後、弟は助かったのだろうか。もう一度、あの薬を飲めば……。
「…………」
飲めば、あの双子にも会うような気がした。嫌な予感が強くする。でも、飲まなければ弟に会えない。考えに考え抜いて、監督生は決意した。もうこれで最後にしよう。残りの薬を全て飲んでしまえば、明日から悪夢を見ることも無い。最後に弟を助けて終わりにしよう。
「これで、最後……」
そう決意すると、不思議と恐怖は薄れ、勇気が湧いてくる。瓶の蓋を開け、その勢いのまま残りの薬を全て喉に流し込んだ。あの地獄のような味に耐えながら、また横になる。吐き気を抑えながら、彼女はまた眠りに就いた。
そこは依然として海の真ん中だった。周りを見渡しても、あの双子の影は無い。急いで弟を捜さなければ。今度は冷静に、彼女は前へ泳ぎ始めた。何となくその方向に陸があるような気がした。さっきまでとは打って変わって、水の抵抗をあまり感じなくなっていた。少し不思議に思ったが、弟を捜す方が大事だ。ばしゃばしゃと音を立てて前進する。
そうして、必死に泳いでいると漸く陸が見えてきた。家族と一緒に来た砂浜が線のように見え、小さくオレンジ色のブイも見える。彼女は少し安心して泳ぎ続けた。体が軽い。ここまで来ると、もう殆ど水の抵抗を感じない。まるで、魚になったような気分だ。
ブイに近づいて来ると、そこには可愛い弟の姿があった。ああ、良かった。やっと見つかった。弟はその細い腕で、必死にブイにしがみついて沈まないよう堪えている。合流したら、たくさん褒めてあげなければ。きっと凄く怖い思いをしただろうと、監督生は胸に安堵と不思議な余裕を感じた。
「おーい」
呼びかけながら近づいて行く。弟は彼女の声に気付いたのか、こちらを見た。今にも泣き出しそうな顔から一転して、ぱあっと表情を輝かせた。
「ねえちゃん!」
やっと弟と合流し、その小さな体を抱き締める。温かい。胸に顔を埋める弟の温もりを確かに感じた。
「ねえちゃぁん……こわかったよぉ」
「ごめんね、一緒に帰ろう」
「うん……一緒に帰ろうね、小エビちゃん」
その声を聞いて、監督生は弾かれたように弟を引き剥がそうとした。しかし、振り払おうとした手を掴まれ、引き寄せられる。ついさっきまで弟だと思っていた目の前の人間は――
「あは。やっと捕まえたぁ」
「フロ……イド、先輩…………」
リーチ兄弟の片割れである、フロイド・リーチという人魚に変わっていた。逃げなくちゃと頭では分かっていても、掴まれた手がそれを阻む。
「放して! 放して下さい!!」
「いいけどぉ、その姿であいつらのとこに戻んの?」
フロイドはにやにや笑いを浮かべながら、下を指す。当然、監督生には彼が何を言いたいのか分からない。彼の指さす先、自分の下半身に彼女は目を滑らせた。
「小エビちゃんがいいなら、放してあげてもいいけど。でも、それじゃあもう陸には戻れないねぇ~」
彼の言う通り、彼女の足はいつの間にか無くなっていた。否、もっと正確に言えば、彼女の足は一つになり、魚の鱗に包まれ、尾ビレに変容していた。
腹の底から絶望の悲鳴を上げて彼女は目覚めた。筈だった。しかし、実際には掠れた空気のような音しか出ておらず、それどころか呼吸すらままならなかった。喉が引きつって声が出ない。まるで首を締め上げられているような感じがして、呼吸をしようとパニックになり、無我夢中でのたうち回る。遂にはベッドから転げ落ちた。グリムの慌てたような声が聞こえるが、今の監督生はそれどころではない。呼吸ができない。いくら空気を吸おうとしても、喉の奥でせき止められているかのように体内に入っていかない。息ができない。苦しい。足が痛い。このまま死ぬのかと思ったその時、扉を蹴り開けて何者かが入って来た。
「ふなっ!? お、お前ら、どうしてここに!?」
「こんばんは、監督生さん。もう大丈夫ですよ」
「こんばんはぁ、小エビちゃん。アザラシちゃん」
入ってきたのは、ジェイドとフロイドだった。夜中だというのに二人とも寮服のままだ。疲れて暴れることを止めた監督生を素通りし、ベッドへ近づいたジェイドはシーツを取ったと思ったらそれを監督生の体に巻き、抱き上げた。
「では、参りましょう。監督生さん……いえ、僕らの稚魚さん」
「早くしないと、小エビちゃん死んじゃうからねぇ~」
「何なんだゾ、お前ら! そいつをどうするつもりなんだ!?」
グリムの問いには一切答えず、ジェイドは監督生をしっかり抱え込むと、部屋の出口へ向かう。
「フロイド、少しグリムさんの相手をしてあげなさい」
「はぁ~い。軽く絞めちゃっていいよねぇ?」
「好きになさい」
それだけ言ってジェイドは部屋を後にし、残ったのは未だ状況がよく分かっていないグリムと嫌な笑みを浮かべているフロイドだけとなった。
「そこ退け! そっくり兄弟の片っぽ! あいつがいないと、おれ様この学園にいられないんだゾ!」
「は? 知らねーし」
先に飛びかかり、炎の魔法を放つグリムに、フロイドは氷の魔法をぶつける。両者の魔法は相殺された。かのように見えた。
「ふなっ!?」
間髪入れず飛んできた氷の礫に、グリムは為す術無く腹を打たれ、壁に激突してしまう。
気絶したのかグリムはそのまま床に落ち、動かない。フロイドは魔法を一発撃ったように見せかけて、実は二発撃っていたのだった。
「はぁい、おしまい。じゃあねぇ、アザラシちゃん」
グリムが気絶したと見るや否や、フロイドも部屋を後にする。ジェイドが向かった先は既に分かりきっていた。
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訳も分からず、監督生はジェイドに抱えられ、珊瑚の海に連れて来られた。もう魔法薬が無くても苦しくない。シーツが取り去られた彼女の下半身は完全に尾ビレになっている。闇の鏡を通った先では、既に人魚姿のアズールが待っていた。
「ふふふ。ジェイド、よくやりましたね」
彼の姿を見た途端、監督生は掴みかからん勢いで詰め寄ろうとするも、背後からジェイドに押さえ付けられてしまう。
「約束が違うじゃないですか!! こんな……こんなひどいこと……!!!」
「ひどい? 人聞きが悪いですね。契約書をちゃんとお読みになられましたか?」
彼の蛸足によって、目の前に例の契約書が広げられる。もう一本の蛸足で示している部分にはこう書かれていた。
この契約に関して起こりうる全てを受諾し、下記の物品を受領いたします。
「この“起こりうる全て"というのは、貴女の下半身のことも入っていますよ。ちゃんと副作用のことも僕はお話しましたし」
「え、あ……」
「言ったでしょう。あの魔法薬は確かに思う通りの夢を見せます。しかし、その代償として外部から精神的な干渉を受けやすい上に、変身薬の側面も持っている影響か、かなり確率は低いですが、体の一部が変化してしまう」
アズールの言葉を引き継いでジェイドが答える。
「そこで、アズールは考えました。貴女が服用した日と同じ日に同じ魔法薬を飲むと、どうなるか。僕とフロイドで一つ実験をしてみよう、ということになったんです。この一ヶ月の間、あの薬を服用していたのは貴女と僕らしかいませんでしたから」
「かなり不味かったけどねぇ~。小エビちゃん、よっぽど運が悪いんだねぇ~」
いつの間にかフロイドも合流していた。三人の人魚に囲まれ、監督生はいよいよ逃げ出せなくなってしまった。怒りと悲しみが沸々と内から湧いてくるのを感じる。そんな彼女には一切構わず、話は進んでいく。
「オレ達、小エビちゃんのこと気に入っちゃったから、助けてあげたんだよね。ね~、ジェイド」
「ええ、フロイド。僕らは悩んでいる人を放っておけませんから。貴女が元の世界を恋しく思って毎日泣いていると聞いて、僕らは逆転の発想をしたんですよ。ね、アズール」
「ええ。そうですね、ジェイド。貴女の悩み、それはナイトレイヴンカレッジに身を置いていたからあった悩みです。いつ元の世界に戻れるかも分からない。そんな不安から、貴女は苦しまざるを得なかった。僕達の大事な友人がそんな辛い思いをしているのは、とても心苦しいことです。ですが、ご覧下さい。ここ珊瑚の海ではその心配は一切ありませんよ。何せ、貴女はもう二度と陸へは戻れないのですから」
監督生にとって、それは死刑宣告も同然だった。しかし、そんな事実をすぐに認めることなんてできない。まだアズールは何か喋っているが、まるで頭に入ってこない。
「……つき」
「はい?」
「嘘つき! 確率が低いなんて絶対嘘に決まってる!! あなたが運任せでこんなことする訳がない! 帰して! 私をカレッジに帰してよぉ!」
「何を言うかと思えば、この僕を嘘つき呼ばわりですか。監督生さん、貴女は確かに全てのことを承知の上であの薬を受け取った筈ですよ?」
「そして、今日貴女はこれで最後にしようと思ったのでしょう? だから、一口ずつという約束を守らずに全て飲んでしまった」
「あは。小エビちゃんってほんと面白いよねぇ~。オレらから逃げられる訳無いのに必死に逃げちゃってさぁ~。それに、もしそうだったとしてもぉ、その
尾ビレでどうやって帰んの?」
心底面白そうにくすくすと笑いながら、三人はありのままの事実を口にする。残酷なまでに次々と突きつけられる現実に、監督生は涙を流すしかできなかった。もう抵抗する気も起きない彼女をジェイドは抱き寄せ、フロイドは頭を撫でて、アズールはその頬に手を添えた。
「ああ、泣かないでください。監督生さん。許して欲しい、なんてことは言いません。僕達も貴女に恨まれる覚悟でしたことですから」
「僕らは貴女と関わっていくうちに、どうしてもその身が欲しくなってしまったのですよ」
「うんうん。お詫びに不自由はさせないよぉ。ず~っと一緒にいようね」
「ね、僕らの稚魚さん」そう口を揃える三人に、監督生は涙を流して口を閉ざすしかなかった。