あなたのためなら 江戸川乱歩の誕生日。前日の坂口安吾の誕生日と同じように上手い口実に使われて、前日と同じような大宴会が開かれた。夜も更け、後片付けと酔い潰れた文豪達を何とか部屋に帰して、静音も眠りに就く時間になっていた。しかし、そこでふと、思い立ってしまう。今日は乱歩と二人の時間を設けられなかった。
「会いたいな……」
自室へ続く廊下を歩きながら、ぽつりと零した独り言。文豪達の部屋が続く階だが、今は皆眠っている筈だ。当然、今ここには自分一人しかいないのだから、誰も聞いている訳がない。静音はそう思っていた。
「おや。誰にでしょう?」
背後から聞こえた声に、びくりと肩が震えた。慌てて振り返ると、そこには自室の扉を開けて、ひょっこりと顔を出している乱歩の姿があった。今はいつものシルクハットとマントは付けておらず、上着も着ていない。非常にラフな恰好だ。恋人の姿に少し緊張すると共に、じんわりと嬉しさが込み上げてくる。
「なんだ、乱歩さんでしたか。脅かさないでください」
「それは失礼しました。今からお帰りですか?」
ほんの僅かな期待を込めて静音が頷くと、乱歩はにっこりと微笑んで一度部屋の中に引っ込んだ。今日は流石に構ってもらえないかと落胆しかけた時、帽子とマントに上着を纏った、いつもの姿の乱歩が部屋から出てきた。自室の鍵を掛けてこちらに歩み寄って来る。
「しずさん、いけませんよ。こんな夜更けに女性一人で出歩くなどと、悪い狼に食べられてしまうやもしれません」
まるで子供に言い聞かせるような口振りの彼に、静音は思わず静かに笑った。昼間とは呼び方が違うが、これは乱歩が二人きりの時にしか呼ばない愛称だ。
「そうですね。悪戯好きな狼さんに食べられちゃうかもしれません」
「エエ、エエ。ですから、紳士なワタクシがお部屋までお送りいたしましょう」
「でも、いいんですか? 乱歩さんも今日はお疲れでしょう?」
嬉しいが、今日の主賓に送らせるというのは、何だか悪いような気がして、静音は思わず確認する。それを聞いた乱歩は少し瞠目して、すぐにむっと眉を寄せた。その子供っぽい表情が可愛らしくて、また口元が綻ぶ。
「おや、自分の恋人を送ってはいけませんか?」
「いいえ、嬉しいです。では、お願いします」
静音が片手を差し出すと、乱歩はその手に自分の手を重ね、きゅっと軽く握って歩き出す。普段の彼より小さい歩幅に、静音は彼も自分と同じ気持ちなのだと悟った。離れたくない。特務司書である静音はいつも書類仕事に追われているし、乱歩は第一会派の一員として、図書の浄化を積極的に行っている。殆どの時間を仕事に集中しているので、会話は事務的な雰囲気が強く、プライベートで会える時間はあまり多くはない。最近では、海外図書の浄化業務も入ってくるので、尚更二人きりになれる時間は無かった。しかし、もう少しで今彼女が受け持っている仕事の終わりが見えてきたところなのだ。
「あの、乱歩さん」
「何でしょう? しずさん」
「もう少しで、今私がやっている仕事が片付くんです。なので、その……」
「時間ができるのですね?」
「はい。それで、できたら、お休みを頂いて、どこか二人で旅行に、行きたいな……って」
こういった誘いをするのはほぼ初めてのことで、途中から恥ずかしくなってしまった静音は語尾がしょぼしょぼと消えてしまう。が、乱歩にはしっかりと届いていたらしく、またにっこりと微笑んだ。
「ええ、もちろん。アナタとならどこでも楽しめそうです。どこに行きましょうか?」
「行き先なんですけど、前に乱歩さんが行ってみたいって言ってた温泉街はどうですか?」
おずおずと提案する静音に、乱歩は一瞬固まった。確かに彼女の前で、あの温泉街に行ってみたいと言ったことはある。だが、恋人と二人きりで温泉宿に泊まって自制が効く程、乱歩は人間ができていない自覚はあった。そのことを果たして、この司書は理解しているのか、忠告も含めて確認してみようと口を開く。
「そうですねぇ。確かにそこも良いのですが、いいんですか? しずさん。ワタクシと二人きりで温泉となると……相応の覚悟を持って頂きたいのですが」
ぴたりと歩みを止めて、乱歩は静音の目をじっと見つめる。最初はよく分かっていなかった様子の彼女も、その熱い眼差しの意味を汲み取り、赤面したかと思うと、途端にしどろもどろになって俯いてしまった。
「あ、えっと、あの……か、考えていませんでした」
「すみません」と謝る静音に「イエイエ」と言いながら、乱歩は彼女の頭を撫でる。恥ずかしそうにもじもじしている彼女だが、嫌がる素振りは無い。その姿を見て、もう少し時間が掛かるなと乱歩は考えていた。
ふと、顔を上げると、いつの間にか彼女の部屋の前に着いていた。楽しい時間はあっという間だ。
「おや、もう着いてしまいました」
「え? あ、ほんとだ」
「しずさんも今日は疲れたでしょう? もうお休みになられた方が良いですよ」
軽く静音の背を押して、乱歩は彼女の部屋の扉を開ける。静音も素直に中へ足を踏み入れた。
「はい。ありがとうございました、乱歩さん」
「こちらこそ、本日は盛大なパーティをありがとうございます」
乱歩と別れ、自室へ入ろうとした静音は、何か思い出したように小さく声を上げて歩き出していた乱歩を呼び止めた。
「はい、何でしょーー」
乱歩はそれ以上、言葉を紡げなかった。優しく静音の両手で頬を包まれたかと思うと、そのまま下を向かされ、彼女の唇が触れたからだ。普段の彼女からは考えられない、大胆な行動に乱歩は咄嗟に反応できなかった。
「……しずさん」
「きょ、今日はお誕生日おめでとうございます。あの、その……お、お休みなさいっ」
真っ赤な顔でそれだけ言うと、静音は慌ただしく自室に入ってしまった。
ぽつんと残された乱歩は、先程キスされた場所に触れる。唇のすぐ横。おっちょこちょいな彼女らしく、きっと唇にしたつもりでいたのだろう。恥ずかしがり屋でちょっと抜けていて。でも、彼女のそんなところが愛しい、と乱歩は思う。
「さて、明日から本気を出さねばなりませんねぇ」
彼女の仕事が少しでも早く終わるように、自分にできることをしなければ、と彼は珍しく意気込みながら、帰路についた。