大嫌いだよ「おめでとう」「おめでとう」と周囲から上がる声。花びらやライスシャワーが舞う中、僕はただ静かにレッドカーペットを歩く二人を見ていた。今日はフロイドと監督生だった女性との結婚式。招待状をもらって初めて、二人が結婚することを知った。クラスメイト達とも十年ぶりに顔を合わせる。式の前日、アズールから聞いた話では、結婚の話自体は学生時代からあったようだが、監督生が「まだ早い」と先延ばしにしていたらしい。二十七歳での結婚。それがフロイドと僕をはっきり分けた年であり、瞬間だった。
幸せそうな笑顔でフロイドがすぐそこまで歩いてきた。青緑色の髪は黒いメッシュも一緒にオールバックにして、真っ白なタキシードを着ている。似合わない。何一つ、あいつに似合わない。そんな彼の隣には真っ白な花嫁衣装に身を包んだ笑顔の監督生。その後ろでベールを持っているのは蝶ネクタイをしたグリム。見たくない。おめでたい席で何故か、そんなことを思って、目を逸らした。
「イモガイちゃん?」
「おめでとうございます、フロイド」
「まさか、お前が一番に結婚するなんて、思いませんでしたよ。おめでとうございます」
いつの間に隣にいたのか、タキシードに身を包んだジェイドとアズールがフロイドに祝いの言葉を贈る。それを受け取って照れくさいような嬉しいような表情を浮かべるフロイドとアズール達と笑い合う監督生。その光景を見ていると、何故か呼吸ができなくなるような気がして、地に足が付いていないような気がした。おかしいな。ここは海の中じゃないのに。不安になって手を組んで握り込むと、驚く程冷えていて、背中を嫌な汗が伝う。今日は晴れているけれど、そこまで暑くも寒くもない。だからこそ、二人はこの日を選んだのだろう。
フロイドは幸せそうな笑顔のまま通り過ぎ、僕はその後ろ姿を黙って見ていることしかできない。祝いの言葉どころか、何一つあいつに伝えられなかった。もうフロイド達は扉の開いた車に近いところまで進んでいる。フロイドは新郎だというのにいきなりカリムと一緒にダンスなんて始めるから、ジャミルやエース、かつての一年生達が困惑して、監督生がおかしそうに笑う。行くなら早く行ってくれ。どうしても、僕は晴れ姿のフロイドを見ることができなくて、俯くしかない。でも、これが最初で最後かもしれない。そう思うと、最後の最後にちらりとフロイド達を見た。
「ばいばぁい」
そこにはこちらに振り返って手を振るフロイドの姿。僕だけに向けられたものではないけれど、その姿を認めた瞬間、「待ってくれ」と叫びそうになった。喉まで出かかった言葉を無理矢理飲み込む。恥を晒すな。もう決まったことだ。今更、僕の出る幕なんて無い。もうあいつは、監督生の――。
いつの間にか、僕は一人引き出物を片手に自宅の前にいた。どこをどう通ったのかも全く覚えていない。気が付いたら、自宅に着いていた。脳裏にいつまでも残っているのは、フロイドの最後の別れの言葉で、彼の晴れ姿も周りの歓声も、何もかも覚えていない。ただ、ずっと僕の脳裏では彼の「ばいばぁい」がエコーのように響き続けている。のろのろと鞄から玄関の鍵を出して、鍵穴に差し込む。その時ふと、人の気配を感じて鍵を回さないうちにエレベーターがある方を振り返った。丁度、下から上ってきたエレベーターが停まり、よく見知った顔が出てきた。今一番会いたくない人物でもある。
「……ジェイド」
「こんばんは、サミュエルさん。お邪魔してもよろしいですか?」
相変わらず嘘くさい笑顔を浮かべる同級生に、ここで断れば更に面倒なことになると思い、僕は大変不本意だが、家に入れることにした。一体、何が目的で僕の後なんかつけてきたのか。学生時代からこいつだけは苦手でなるべく距離を取っていたのに、何故今になって僕の家になんか来るんだ。
「……入りなよ」
「ありがとうございます。お邪魔しますね」
玄関扉を開けて促すと、口では邪魔すると言いながら当然のように靴を脱いで奥へ入って行くジェイド。邪魔だと思うのなら、いっそ帰って欲しい。見ると、ジェイドも式の帰りだったらしく、手には僕と同じ引き出物が提げられている。ますますこいつの行動が不可解で、思わず首を傾げる。ジェイドに続いて僕も自分の部屋に入る。玄関に入ると食事を摂るテーブルと椅子、その奥にキッチン、隣に洗濯機があって、向かいにはバスルームに続く扉。奥には扉を仕切りとして挟んで居間と寝室がある。そんな狭い家が僕の家だ。ジェイドは何を思ったのか、キッチン傍のテーブルに座り、勝手に紅茶を淹れて引き出物の箱を開けている。益々奴の考えが分からず、僕はそのまま疑問を口にした。
「何のつもりだ? ジェイド」
「だって、サミュエルさん。お一人では食べきれないでしょうから」
そう言ってジェイドが箱から出したのは、とても一人分ではないであろう分厚いバウムクーヘンだった。きっと監督生が選んだのだろう。あいつが選ぶとは思えない。自分が持って帰って来た箱の中身もこれなのだろうと思うと、乾いた笑いが込み上げてきた。ジェイドに怒る気も失せて彼の向かいに座る。無言で小さなフォーク一本で食べ始めるジェイドの姿をぼうっと視界に収めながら、僕も何となく箱を開ける。予想通り、そこには一人で食べるには大変であろうバウムクーヘンが入っている。それを無言で箱から出し、暫し見つめる。ふっと、吹き出すような笑いがこぼれた。
「バウムクーヘンって、もう少し考えろよ」
「ええ、全くです。サミュエルさんはともかく、僕には少々足りませんからね」
お前きっと式場での料理も食べていただろうとは思ったが、口には出さない。その代わりにバウムクーヘンを一口食べる。僕が食べ始めると、それまで黙々と食べ進んでいたジェイドが手を止めてじっと見つめていたかと思うと、口を開いた。
「引き出物のお菓子には意味があるそうですよ。…………バウムクーヘンはこのように年輪が多い物にちなんで『夫婦関係が末永く続くように』との意味が込められているそうです」
「何が言いたい、ジェイド」
がっ、と指に変に力が入ってしまい、皿に罅が入る嫌な音がした。それを見たジェイドは「これは失礼いたしました」と言っていつもの全く困っていない顔で続ける。
「困りましたね。僕はただ、引き出物の意味をお教えしただけですのに」
「…………頼んでない」
「しかし、サミュエルさんは何か、怒っていらっしゃるご様子」
「……別に、怒ってない」
「でしたら、そのお皿に入った罅はどういうことなのでしょう。危うく割ってしまうところでしたね」
嫌な男だ。僕の何かを知りながら、それを僕自身の口から言わせようとしている。昔からこいつのこういうところが嫌いだ。どうせアズールに弱みを握ってこいとか言われて来たのだろう。
「アズールも心配していましたよ。サミュエルさんとは昔からのお付き合いですし、損得勘定は……少しありますが、ああ見えて彼も心配しているんですよ」
「……どうして」
「僕達、幼馴染みじゃな……」
「どうして、お前らはいつもそうなんだ。いつもいつも勝手に人を巻き込んで、勝手に振り回して、昔からそうだった! お前らは…………あいつは……あいつばっかり、先に行って、そっちから近付いてきたくせに、勝手に幸せになって…………僕のことなんか、置いて……」
ぐす、と鼻を啜る。いつの間にか僕の頬は濡れていて、涙が幾筋も伝っていた。フロイド・リーチなんか、嫌いだ。僕に付きまとって、僕を勝手に陸に連れ出して、きっと僕と一緒だったらもっと楽しい、なんて、言って……。
「イモガイちゃん。友達いねぇから、オレが来てやってんじゃん」
いつか聞いたあいつの言葉を思い出す。それを皮切りに次々と今まで忘れかけていたあいつの言葉を思い出す。なんだよ、今更。結婚したくせに。僕のことなんか放って行ったくせに。
「いいんですか」
「……なに?」
「これで、本当に良かったんですか? サミュエルさん」
紅茶を飲み、真っ直ぐ見つめてくるジェイド。今更、それを僕に言うのか。性悪め。もうバウムクーヘンを食べる手は完全に止まっていた。まだ少し残っている皿にフォークを置く。紅茶にも手を伸ばす気になれなくて、僕はただその水面を見つめた。
「今更、僕が言ってどうにかなるものじゃないだろ。あいつはもう、監督生のものなんだ」
「そうですか。……移り気なウツボと違って、貝類はある意味一途ですからね」
「……嫌味を言いに来たなら、帰ってくれないか」
「そうは言いますが、あなた、僕が来なかったら、これ。捨てる気でいたでしょう?」
これ、とジェイドが指したのは、引き出物の箱。図星を突かれて、言葉に詰まる。昔から、こいつにだけは何もかも見透かされているような気がして、居心地が悪かった。僕が黙っているのを見て、ジェイドは「勿体ないですから、僕が食べますよ。今日はそのために来たんです」と嘯いて僕の分のバウムクーヘンに手を伸ばす。その様を視界に入れた途端、僕は殆ど無意識にその手を掴んでいた。急に手首を掴まれていくらかジェイドは驚いたようだった。俯いたままでいたせいで、彼の表情は見えないが、声の調子からそうだと思った。
「サミュエルさん?」
「………………これは、僕が、食べる」
ああ、フロイドもそうだったなと今更ながらに気が付いた。この双子やアズールは、僕が話し出すのを根気強く待っていてくれた。僕が話すのが苦手で、いつも言葉を選ぶのを分かっていて、それでも、「面白いから」っていう理由で、待っていてくれた。他人と積極的に関わろうとしない僕を、いつもあいつは引っ張っていってくれた。でも……でも、それももう、無い。僕の方から、あいつの手を放してしまったんだ。
ジェイドの手から少ししか切り取っていないバウムクーヘンを奪って、僕は何もかも飲み込むように、言葉すら吐き出さないようにフォークで雑に切って頬張る。もう忘れよう。あいつへの感情は。もう何もかも終わったんだ。夢中で食べている僕に何も言わず、ジェイドは薄く微笑んで紅茶のおかわりを淹れる。こんな時までこいつの淹れるお茶は美味くて、それが益々憎たらしかった。大嫌いだ。フロイドも、ジェイドも。ぼろぼろ涙を零しながら、僕は無様に無我夢中で食べきった。
全て平らげてもどこか満たされた気なんてしないままの僕を置いて、ジェイドは席を立つ。箱や食器類を片付けて、最後に一礼した。
「では、僕はこれで失礼致します。……サミュエルさん、また一緒に仕事ができることを祈っていますよ」
それだけ言い残して、ジェイドはさっさと出て行った。僕の返事も聞かずに、ただ自分の名刺だけ黙って置いていった。そこには「モストロ・ラウンジ」の名前。懐かしいその名前と共に、一瞬だけ寮服を着たあいつと自分の姿を思い浮かべた。お互いに「似合う」と言って笑い合った。すぐに現実に返り、その名刺に、捨て台詞のように一人呟く。
「……冗談じゃない」
その言葉は誰にも届かないまま、虚空に消えた。