女子大生、死を覚悟す「は?」
目を開けると、そこは夜の街だった。雨が降った後のようで、辺りには霧が立ちこめていた。明かりは外灯しか無い、石畳でできた街道に取り残されていた名前は状況を理解できず、暫し呆然としていたが、すぐにここに来る前のことを思い出す。
今日は散々な一日だった。朝は遅刻するし、課題のレポートは前の日にやっておいたのに持って行くのを忘れてしまうし、それが原因で低い点数を付けられてしまうし、夜遅くまで起きてレポートを仕上げていたから授業中に寝てしまい、注意されて恥ずかしかったし、昼食のお弁当に箸を付けるのも忘れてしまったし、食堂の割り箸が丁度切れていて、結局コンビニで買うことになったし、バイトでは客の注文を取り違えてしまい、お冷やを溢してしまったりして店に迷惑を掛けてしまった。とにかく今日は何をやっても駄目な一日だった。だから、今日は早めに寝ようと布団に入った筈だ。とすれば――。
「ああ、なんだ。これ、夢かぁ」
妙に納得できた。でなければ、こんな奇妙なことが起こる訳が無い。頬に当たる雨の匂いを含んだ冷たい風が妙に現実味を帯びていたり、自分が立っている地面から靴越しにひんやりとした石の感触が伝わってきたりするのも全部夢だ。時折、顔に当たる細かい霧の粒子も夢だろう。それにしても、突拍子も無い夢だなぁと名前は暢気に考えていた。霧の中に浮かぶどこか西洋風の建物が並んでいる光景は、不気味ながらも夢らしく幻想的でもあった。映画のワンシーンのようで、名前は映画女優になった気分だった。どうせ夢なら思い切り楽しんでしまおう。そう思い、彼女は街を散策してみようと歩き出した。この光景は深夜なのだろうか。いくら歩いても人っ子一人自分以外の人間を見かけない。今日の夢には特に登場人物というものがいないのだろうか。そんなことを考え始めた時、少し遠い外灯に照らされた場所に出し抜けに男が一人、現れた。
最初に見えたのは革靴。白と黒の上品なデザインで、随分洒落た物だ。次に見えたのはワインレッドのスラックスとグレーのベストと上着、その上に羽織られた細かな刺繍が施されたワインレッドの外套。最後に見えたのは綺麗に切り揃えられた銀髪と口髭、ワインレッドのシルクハットに金のモノクル風の眼帯という英国紳士を彷彿とさせるような老人だった。立ち振る舞いから本物の紳士なのだろうという印象を受ける。しかし、その老人からはどこか不気味で只者ではない空気が漂っていた。
一瞬、怯んだ名前だが、ここは夢の中。ともすれば、何も恐ろしく感じることは無い。この老人も所詮は自分の夢の中の登場人物だ。でも、夢の中だとしても、失礼なことをしてはいけないと思い、名前は「こんばんは」と挨拶をした。
「Good evening,お嬢さん」
ネイティブな発音の英語に面食らい、まごついていると、徐に老紳士は腰に提げている革のポーチから何か煌めく物を取り出した。
「え?」
目の前で老紳士が何かを手に持って大きく振りかぶっている。殆ど本能的に老紳士の手元に目が吸い寄せられ、唐突に理解した。手に持っているのは、ぴかぴかに磨き上げられた銀のナイフ。
「ひっ!?」
ぞわり、と背筋に寒気が走ったと同時に反射的に体が動いた。頭を抱えて縮こまり、回避する。自分の頭に振り下ろされる寸前で何とか避けることができたらしく、前髪を風が撫でただけだった。
「おや、残念。折角、良い色をしていたというのに」
慣性の法則で名前の後方に進んでいた老紳士が彼女へ振り向き、そんなことを言う。訳の分からない発言と突然の凶行に未だ彼女が背後を振り向いたまま動けないでいると、老紳士はもう一度ナイフを構えてゆっくり近付いて来る。逃げなきゃ。そう思いはするが、足が動かない。今の回避行動ですっかり腰を抜かしてしまったらしい。逃げる素振りを見せない彼女に、老紳士はいくらか不思議そうに小首を傾げた。
「逃げないのですか? 今まで出会ったお嬢さん達は皆、ウサギのように逃げ回りましたのに」
「……な、な、なん、なん、なん、で……」
恐怖で舌が痺れて上手く話せない。足が動かないなら、言葉で対抗するしかない。そう判断して何とか声を掛けてみるものの、老紳士の足は止まらない。それにしても、この老紳士は厭にゆっくりと小さな歩幅でにじり寄って来る。わざとだろう。相手がこちらを下に見ているうちに何とかこの場から逃げ出さなければ。もうここが夢の中だとか、そんなことは名前には関係無かった。本能が生きようとしていた。
「なん、で。こんな、こと。する、んですか……?」
がくがくと全身が震えて歯がかちかちと鳴る中、言えたのはそれだけだった。その言葉を受けて、老紳士はぴたりと歩みを止める。丁度彼女のすぐ目の前だったというのもあるだろう。二人の視線がかち合う。我ながら、なんて稚拙な足止めだろうと、名前は頭の片隅で思ったが、生憎それしか出てこなかったのだから、仕方ない。老紳士は地面にへたり込んでいる彼女と目線を合わせるように屈み込み、彼女の頬を手袋をした手で撫で上げた。
「How come.そんなことを問われたのは、初めてですね。では、あなたのお土産に少しお話しましょう。皆さん、命の危険が差し迫ると……凄く良い色に染まるのですよ」
にたり、とこれ以上無い程の不気味で恍惚とした、一種の神聖さすら感じる笑みを浮かべる男に、名前は言葉を交わしたことを心底、後悔した。真っ先に逃げるべきだったのだ。今更逃げようと身動ぎしても、遅すぎた。「Oops」の声と共に男の手は頬から彼女の首へ伸ばされ、締め上げられる。急にせき止められた呼吸に掠れた音が口から出た。そのままゆっくりと地面から吊り上げられ、ますます首が絞まる。
「ああ、良い色だ。久しぶりですよ。やはり良いものですね」
ちかちかと視界に光が瞬く。ああ、もうだめだ。ここで死ぬのか。……死にたくない。まだ何も成していない。やりたいことも、まだ沢山あるのに。
「ぐっ……あ……じに、じにだ、ぐな……」
どんどん暗くなる視界の中、体から力が抜けていく。無意識に男の手に添えられていた自分の手が、だらんと下がった。
はっと息苦しさに目が覚めた。慌てて飛び起きると、頬や首に汗が伝う。まだ春先だというのに、全身熱くて汗でびっしょり濡れていた。枕元に置いてあるスマートフォンを見ると、まだ深夜だ。取り敢えず、シャワーを浴びようと布団から起き出し、名前は着替えを出して浴場に向かった。
「はぁ……それにしても、嫌な夢、だっ、た……」
脱衣所で服を脱いでいる中、何気なく見やった鏡に釘付けになり、言葉を失った名前は代わりに小さく悲鳴を上げた。そこには自分の首に、まるで掴まれたような指の跡がくっきりと映っていたからだ。
「おや」
少女が全身の力を失うと、まるで霧のように掻き消えてしまった。初めから何も無かったかのように後には何も残らなかった。首を絞めた形のままの手を戻し、ぐっぱと握ったり、広げたりする。亡霊だったのだろうか。そんな非現実的なことを考えて、男ジャック・ザ・リッパーは一人笑った。
「残念です。……ですが、次は逃がしませんよ」
うっそりと笑みを深めて、男は何事も無かったかのように歩き去り、暗闇に溶けていった。