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    風息伝説とその実在における真偽について 水色の風が吹き抜けた。それが錯覚であるということを私は二秒かけて認識した。風の正体が龍の伊吹などではなく、気圧の高低により発生する運動であるということは遠い昔に明かされている。尤もこの知識でさえも既に古典的と呼べるものであるが、専門外の知識などこの程度のものだ。そうであっても風に色がつかないということを確認する分には役に立つ。おおよそのところ空が青すぎたために空気もまた青く見えたのだろう。或いは周囲を緑に囲まれていたからか。
     森林。そのような言葉を連想する。この場を維持する自治体の名称区分においては遺跡とされているが、何を遺しているのかさえ分からない勢いで草木が茂りを見せる。当然、本物の植物だ。バーチャルとの違いは幾らもないような思えたが、視覚による色彩という面では実像の方が幾らか不確かにも感じられる。それこそ現実であるという証拠である。
     この場所を訪れるのは、初めてのことではなかった。映像記録を含めれば、五度は訪れたことがあると言える。しかしこの空間に満ちる印象を思えば、テクスチャを再現されただけの映像に価値があるとは考えられない。
     遺跡は一つの巨木から始まり、その周囲に広がる緑の群れからその身体を成していた。中心に据えられた木の何物にも脅かされることなく伸びた姿を大きいと端的に表すことは可能だ。事前に取り寄せた資料に繰り返された「大木」という言葉を思い出す。しかし、大人であっても五、六人は必要だろう円周や見上げてなお先の見えない枝葉の繁りは、物理的な大きさよりもむしろ存在としての偉大さを感じさせた。根本には沈黙する古い建物たちを、当然それでさえ当時であれば十分に高層建築と呼ばれたであろう高さを持っているが、それらを内から破るように聳え立っている。中には枝に引き裂かれ宙に浮いている物もあった。
     何もかもが雄大。
     絵画のような静的さと、英雄像のような歴史を抱え持つ生命。
     かつてそれを信仰した人間がいたのだろう。瓦解しながらも形を残す建物の足元に、小さな祠が建てられている。木と、それから建造物と比較すればあまりに微小。
     私は遺跡を真っ直ぐに見据え、それから道の端にまで迫り出したコンクリートに触れた。もう何十年も前に、ヴァーチャルな空間で石や植物のテクスチャを細かく再現する技術は開発されている。それらは直接触れるよりも、脳神経へ直接届けられる分緻密な感覚を知ることができる。しかし百年以上の時を過ごした生命の、その威圧は直接目にしなければ分からないものなのだと、そう実感する。圧倒や畏れという感情自体が個々によって大きくデータを異にするものだからか。映像ではなく実像でなければ、感じ取れない生。緑の気配を濃く湛えた空気を深く吸い、代わりに肺に澱んでいた息を吐き出した。
    「誰?」
     背後から突如として声をかけられる。私は反射として背骨を震わせた。他に誰がいるとも思っていなかった為に、心臓が大きく脈を打つ。反してゆっくりと振り返れば一人の青年と呼べる見目の男が道の真中に立っていた。どの道からやってきたのだろう。冴え冴えとした静寂の中で足音を聞き逃すとは思えないが、確かに男が一人存在している。
    「えっと、」私の方からすれば、青年こそ見知らぬ誰かである。しかし、かけられた声音にはそれを問うための隙がなかった。
    「どうしてここに?」男は続けて問う。返事があるかどうかは重要ではないのだろう。
    「私は、この遺跡に関する調査をしている者です」
    「何のために?」
    「仕事でしょうか」
    「仕事」男が繰り返した。「人のようだ」
    「どれだけ文明を発展させようと、人間は仕事から解放されません。それが人間の基本的な行動意志ですから」
    「つまり、貴方は人」何を確認したのか、青年は小さく頷いた後で祠を指し示した。「遺跡とはこれのことか?」
    「この空間、全体がそう呼ばれています」
     私は簡単な返事をしながら、青年の姿を観察した。尤も意図したというよりも、目を惹かれたという方が正しい。物珍しい服装をしていたためである。現代では多くの人がシャツやズボンを好む傾向と比較して、彼の衣服は装束と呼ばれるものに近い。伝統的とも言える服装。具体的にどういった地域のものかは分からない。漠然とこの国のものだろうと思考する。
    「……随分変わったと予想していたけれど」
     青年が道から外れ土を踏んだ。根を覆う土、その土に芽吹く小さな芽を庇うような、鹿に似た、静かな足取り。彼はそのまま真っ直ぐに麓まで歩き進むと、古く掠れた木肌に掌を当てた。
    「遺るものだな」
    「この辺の方ですか」私は尋ねた。話しかけられたからと言って、私は見知らぬ誰かへ積極的に話しかけるようなことはない。沈黙を持て余したせいだろう。
    「……そうだよ」
     青年が三秒かけてゆっくりと振り返る。聞こえていたのかと、今更のように考えた。
    「昔からここにいたが、暫く離れなければならなかった」
    「そうですか……その、よければ、ですが」私は巨木を見上げながら、口を動かし続けた。「この木にまつわることについて、何かご存知ではないですか」
    「どうして?」
     どうして話さなければならないのか。
     どうして知っていると考えたのか。
     青年の短い問いではどちらであるかは分からない。私自身でさえ、なぜそのようなことを言ったのか分からずただ曖昧に言葉を続けた。
    「数日間、この遺跡について色々な方から話を聞いて回っています。本当は昨日で最後だったけれど、もし貴方が何かをご存知なら……例えばここで生まれ育った人にしか伝わっていない昔話のような、」
     一度言葉を切る。
    「風息伝説のような」
     青年の口から小さく息が漏れた。笑みにしては控えめな、蔑みにしては覇気がない。その微かな吐息に揺られた髪が光を跳ね返す。私はそこで初めて青年の髪が、自然にはない薄い色彩をしているのだと気が付いた。人や獣の色味にはない、氷のような薄色。或いは人の方が不自然で、彼の持つ色の方が本当の自然なのかもしれない。
    「長く離れていたから……話せることはないよ」
     青年はそこで言葉を切り、はっきりと私の方を見た。木の根が盛り上がっているせいだろう。さほど背の高いわけではない青年が私を見下ろしている。その双眸は光を透かし、いやに鋭く思えた。
    「代わりに貴方が話してくれないか」
    「私が?」
    「さっき、これについて調べていると言っただろう。その話を……私が来られなかった間にこれを渦巻いたものを知りたいんだ」
    「私が調べていたの、本当に影のような話でしかありませんし、お話しすると言っても……」青年の望むような話はできないと示すつもりで、私は言った。
    「構わないよ」青年は木の影を振り返り、それに向かい微笑んだ。「ただ、この場所がどう扱われていたのか知りたいだけだから」
     静かな笑み。私はその沈黙に押し流される具合に、言葉もなく頷いた。



    「こんにちは」
     看板も何も掲げられていない入り口に立つ私を出迎えたのは一人の男性だった。白髪を蓄えた頭に袖の広い上衣。四角に近い眼鏡をかけた男は私をゆっくりと眺めた後で手を差し出した。握手のつもりだろう。今ではすっかり廃れた文化だ。人と接触する必要はないし、手を繋ぐことで見出される意味もない。私と同じほどに見える男性の古めかしい仕草に、暫しためらい、私は差し出された手を軽く握り返した。「お招きいただき光栄です」
    「こちらこそ、遠方のところをお越し頂きありがとうございます。私はここの管理を取り持っている潘靖と申します」
     潘靖はそう言いながら手を離し、空いていた方の手と合わせて胸の前で開いて見せる。
    「ようこそ、龍游へ」
     彼は一言、そう言った。
     その伝説について調査をしようと思い至ったきっかけは、実に些細なものだった。第一に、丁度その頃は一般、つまりその道の研究者ではない人たちへ向けた本を出版したばかりで、余裕があった。余裕というのは時間と、それから金銭のゆとりという意味である。
     研究者の仕事というものは金に繋がる物と、全くそうはならない物の二つに分けられる。尤もそれで飯を食わなければならない以上、二者から選り好みをすることは難しく、私は過去に調べ尽くされた一時代の資料をまとめる作業を二年ほどかけて行った。本来であれば半年の仕事で済むはずだったのだが資料の数が多く、結局それだけの年月を要した。誰にも想定外だったが、しかし、その間に出版社からコラムなどの小さな仕事はもらっていたのだから文句をつける筋はない。出版社としては本を出す前に私の名を少しは売っておくつもりだったのだろう。何にせよ、少なくとも私はこの時、自由に仕事を選べるだけのが元手あったのである。
     第二にこの伝説には、研究すべき余地がありながら、ほとんど真っ新の状態で残されていた。先行される研究がほとんど存在しないというのは、現代においてはひどく珍しい。起源がおよそ二百年前というごく近い年代であることが理由の一つだろう。私自身、X氏からこの話を聞かされるまで件の伝説について耳にしたことはなかった。
     X氏というのは、担当編集をしていた出版社の人間である。彼は龍游の出身で学生時代に史学を学んでいたという。自信家の人間にありがちな、自分を聞かせることに苦痛を伴わない男のようだったが、端から仕事に乗り気でなかった私へ向け、ひどく同情したような顔で「せめて良いものにできるよう努力しますから」と言ったことを覚えている。実際、半年の中途半端な成果で完成させてくれと言われた私に一年半もの時間をくれたのは彼の努力であっただろう。こういった点から私はX氏を信用できると判断しているし、仕事が区切りを迎えた時に彼から「次は何を研究するのですか」という問いにも素直に返事をした。
    「決めてない。けど、暫くは過去の研究をなぞるだけの仕事は勘弁だ」カメラの前で私はわざと溜息をついた。通話に使うためのレンズには感覚までも伝えるだけのスペックはなく、必要としたこともない。代わりに大袈裟な仕草が求められる。
    「ですが、大概の歴史や伝承はもう大体調べ尽くされています。何十、何百年前のもので調べられていないものは少ない……僕が研究を諦めた理由です」彼も大きく眉を顰めたが、彼と直接の会話をしたことがないためにそれが彼にとってオーバーかどうかを判別することは不可能だった。
    「人はどんどん進んでいく。歴史もその度に折り重なるけれど、過去は何度洗っても過去のままということだね」
    「はい。焼き直しには限度があるという、私の見方です」
    「新しい、ここ百年近いものはコンピュータが仔細に記録しているから研究の余地はない」
    「つまり、もう調べられる空白はほとんどありません」彼は誰に対しても容赦のない話し方をした。発言の多くには彼の思い込みが見られたが、己の考えを相手にまで求めようとはしなかった。
    「だけど、私は研究以外することがないからなあ」
     私の言葉にX氏は微笑み、実は、と続けた。
    「龍游に、私の出身地なのですが、誰も知らない伝承が幾つもあるのです」
    「誰も知らない、とは」
    「少なくとも私の周りにその伝説の詳細を知っている人はいないし、研究史という研究史もありません。誰に聞いてもその伝説がどのようなものか、覚えていないという」
     伝説という形、枠だけが残されたものだと彼は言った。
    「ただ一つ、名前だけが伝説として残っているのです」
    「どのような?」
    「風息」
     彼は知っているかと尋ねるように、首を傾げた。
    「風息」溜息と間違えたのかと思われるほどに細やかな音を繰り返す。「聞いたことがない名前だ」
    「そうでしょう」
    「君はなぜそれを?」
    「祖父が、史学者でしたが、遺したメモリィに調査録が残っていたのです。取り掛かってすぐ、事故で亡くなり、研究は引き継ぐ人もおらず……そのままにしていました」
    「……研究がほとんどされていないものは本当に未発見であるものと、研究の価値が低いものに分けられる。研究すべきだと君が思う理由を尋ねても?」
    「龍游に一つの遺跡があります。観光地としても知名度はないに等しい、マイナな遺跡です。その遺跡もまた、なぜ作られたのか、分からない。約二百年前に現れたことは分かっていますが、反対に言えばそれ以外は何一つ不明。風息という名の伝説はそれ以降から発生したと祖父は残しておりますから、恐らくそれと関係する……」彼は一度息を吸い、それから変わらない調子で続けた。「確かに存在するはずなのに中身が見えない。それならば当然、中身が気になるものでしょう?」
    「なるほど。確かに興味を惹かれるものはあるね」
    「よければ後で祖父のメモリィを転送します。研究に使うかはお任せしますし、もう活かせるものもいないのですから、処分もお好きにしてください」彼はそう言ったきり、今の仕事の話へ舵を戻してしまった。
     この数日後、メモリィが本当に彼から送られてきた。想像していたものよりも分量が多く、幾らか時間をかけて中身を一読し終えた。メモリィには遺跡の映像も残されていたために、バーチャルでその場を歩き回りもした。資料よりも、むしろその建物、或いは空間に心を惹かれたようにも思う。どちらにせよ、それから間もなく、私は伝説の調査を始めていた。時間はあったし、X氏から話を聞いた時には既に、中身のない伝説の正体というものへの興味が確かに根を張っていたのだ。
     遺跡の管理者である相手とコンタクトを取れたことは、ほとんど幸運に近かった。市に登録された場所であるからといって市が直接管理をしているわけではない場所も多くある。加えて、観光という文化が廃れた昨今ではかつて登録されたものが名前だけ残されている場合も多い。市へ小さな遺跡や建物の調査を申し入れた結果、登録はされているが市では何もしていないので勝手にしてくれというひどく曖昧な返事を寄越されることには慣れていた。市の返答がなんであれ資料さえあればどうにかなる事は経験の内から知っている。龍游のホームページに記されたメールアドレスへ遺跡についての問い合わせを送るのは、仕事の合間、五分で済む。とにかくやってみてから考えればよい。その程度の簡潔さで、私は市へ連絡を取り、そして思わぬ返事から龍游へ赴くことになったのである。曰く「遺跡についての資料を有しているので、直接来られるのであれば調査に協力する」という。メールでは難しい理由があるのか。そうも思ったが、特別に断る理由もまた見つけられなかった。
     龍游までは研究室のある町から電車で六時間。二百年前にはどこかの国で時速五百キロメートルも出すことの可能な乗り物を開発していたそうだが、遠い昔に廃止されたらしい。人の移動が少なくなった今では却って移動手段は退化したようだ。尤も輸送技術は変わらず進化しているようであるので、単純に人を動かすことへ使うエネルギィが節約された結果なのだろう。
    「公園の中はご覧になられましたか?」
     前を歩く男が僅かに振り返りながら尋ねた言葉で、私は思考を現実へと押し戻した。
    「公園?」
    「あなたの言う、遺跡のことです」
    「ああ、ええ……」
     四方を覆う緑の群。光の渦。風の抜ける心地と、絶え間なく揺れ動く枝葉のざわめき。そういったものたちを瞼の上に再現す。思い出すという行為である。頭に取り付けたメモリィに記憶を収めることで、思い出すまでもなく、感覚を再現することは可能だ。それをしなかったのはただ惜しかったからか。或いはメモリィという存在を忘れていたのかもしれない。それでも電気信号は眩く私の神経を走り、肌の上を粟立たせた。
    「素晴らしい場所です」私は記憶を蘇らせながら、端的に答えた。他に言葉が見つからなかった。そも言葉とは人の発明であり、万物を表せはしないと諦める。「あの建物はコンクリートでしたね。今から二百年ほど前に使われた素材だ」
    「建築にご興味がおありですか」
    「古い建物には、少し。興味の範囲という意味で、当然、専門外ですが」
    「古い、というのであればここは木造ですから、なお古い様式を残していることになりますね」
    「本当ですか」
     辺りを見渡し、私はそっと壁に触れた。潘靖は振り返らないままで「それは土です」と言った。冷えた感触が指の腹を伝う。触れただけでは素材までは分からず、意味もなく頷いて見せた。指で壁をなぞりながら廊下を進む。反対側の壁には会議室であるのか、同じ色形をした扉が等間隔に並んでいる。無機質な空間。役所という言葉がよく似合う風貌だが、ここは龍游の役所ではないと事前のやり取りで知らされていた。あくまでこの遺跡を管理するための事務所だという。
     二つの足音だけが規則的に響く中で、不意に、二つ先の扉が乱雑に開かれた。
    「お? 客か」
     続けて声。張りのある明瞭な響きに、場違いにも肉声だなと思考した。
    「哪吒様」潘靖が足を止めた。
    「珍しい……館長自らご案内とはな」「哪吒様も珍しく会議に出席されていたようで」「うっせぇ。時間に間に合わないから欠席するって言ってんのに龍游からで構わないので参加してくださいってなんだよ。俺がいようといまいと大差ねぇっての」「哪吒様のお顔を見たかったのでしょう。貴方はいつも色々な場所を飛び回られる」「お、嫌味か? やるか?」
     哪吒というらしい人物が、大きな金の輪をつけた腕を振り上げる。潘靖は笑いながら眼鏡のつるを押さえるとはっきり首を振った。
    「お客人の前ですので」
    「客人?」
    「ええ、はい。お客人です」
    「ああ……なるほど。うぜぇくらいに理解したわ」
     哪吒が腕を下ろす。胸の前で両腕を組み、そのまま私たちの横を通りすぎた。すれ違う一瞬、私の方を一瞥し、何も言わずに廊下を歩いていく。潘靖も突然口を閉ざした彼の様子に構うことなく再び歩き出した。無言のまま二、三歩を進め、私は耐えきれずに口を開いた。
    「さっきの、彼は」
    「お気になさらず。あの御方は誰に対してもあのように振る舞われますので」
    「ああいえ、それは別に気にしていませんが……珍しいと思っただけです」
    「何がでしょう」
    「今時、生身で人と会うことの方が少ないですから。この短い時間に二人もの人に会ったことが珍しい。それだけの意味です」説明とも言い訳ともつかない言葉を溢す。
    「我々は貴方と比べれば幾分も古い生命です。科学が発達して、人は無駄な開発をやめた。開拓をやめた。衣、食、住、全ては最小限のエネルギィだけで生産されるようになった。その世の中は数百年前の姿よりは穏やかですが……」彼は顔を伏せながら呟き、すぐに顔を上げた。「失礼。独り言です」
    「接触というのは無駄が多いので、削除されがちなのでしょう。しかし人と会うことが全てバーチャルに置き換わるのはもう少し先、具体的に言えば私よりも若い層が増えてからになる。珍しいと言ったのは失礼でした。申し訳ありません」
     謝罪を口にすれば、潘靖は変わらず笑みを浮かべたまま構いませんと返した。
    「そういえば、」決まりが悪くなり、私は話題を変えようと言葉を続けた。「先程、館長と呼ばれていましたが」
    「別の職場での肩書きです。ここを管理する役割も無関係ではありませんが、何にせよ、私は幾つかの役職を持っています」
     どうかお気になさらず、と彼は続けた。館長という言葉からは博物館や資料館を連想させる。遺跡の管理者という肩書きから、可能性として遺跡や伝説を取り扱う資料館でもあるのではないかと考えたが、潘靖はそれ以上何も言おうとはしなかった。恐らくこの場所とは無関係なものなのだろう。彼は黙ったまま三と書かれたプレートを貼り付けた扉の前で足を止めていた。ドアノブを掴み半分ほど扉を引いている。どうぞ、という言葉に従い中へ入った。彼も後ろから入ったようで、天井に設られた電灯が微かな摩擦音と共に灯された。
     部屋の中にはローテーブルが一つ置かれていた。長方形の、木製の机だ。アンティークかもしれない。その長い方の辺を挟むように二つのソファが用意され、壁際には棚。そして花瓶が一つ。活けられている花は生花だろう。造花の方がメジャーではあるが、この場所は世間と比べてレトロな様式を好むらしい。反対側の壁には何もなく、白い壁が広がっている。天井を見やれば、電灯を避けて吊り下げられている小さなレンズが目に入る。投影用のカメラだ。プロジェクタを利用した映像の再生もまた、かなりレトロな代物である。映像を視聴するものが一堂に会していることが前提になるが、そういった文化は百年以上も前から廃れ始めていた。前時代の風景を残す景色に私は暫し部屋を眺め回し「昔の設備ですね」と言った。
    「人の時代は移り変わりが早い。もちろん現代の設備に合わせた部屋もありますが、貴方の用向きを考えてこちらにご案内させていただきました」
    「百年以上も前の物が使えるのですか」
    「紙は千年前の物でも使えます。それと同様です」
     彼は私に座るよう促し、机の隅に置かれていた黒い箱を持ち上げた。掌に収まるほどの大きさで、表面には凹凸が並んでいる。恐らくカメラのリモコンなのだろう。潘靖が慣れた手付きで幾つかのボタンを押す。続けて天井から微かな電子音が響き渡った。
    「さて、」白い壁に光の形が映される。「ご希望の資料は遺跡についてでしたね」
    「はい。できれば、あの遺跡が作られた経緯を知りたいのですが……」
    「これが百年前の遺跡の映像です」彼がリモコンを触れば、真白だった壁に一枚の写真が映し出された。彼は映像と言ったが、静止画だ。
     大きな木。引き裂かれたコンクリートの建物。足元には小さな祠。今と殆ど変わらない。一点、看板の文字だけが鮮明だった。
     カメラは三十秒ほど同じ写真を映し、やがて別の画像を映し出した。同じほどの時間静止し、また次の画像へ。撮影された角度はほぼ同一。ただし、次第に画質は悪くなっているようだった。ノイズがあちらこちらに残っている。かなり古い写真なのだろう。写真が変わる。やがて、今の姿とは少しばかり違いが見られるようになっていた。足元に祠はなく、代わりに、写真の手前にベンチの背が半分ほど写っている。
    「百五十年前の写真です」潘靖が説明する。「この頃までは公園として親しまれていました」
    「人が当たり前に外へ出ていた時代ですか」私は呟いた。百五十年前と言えば、私の生まれた頃からさらに、私の年齢分の時間を遡ることができる。
    「人間の歴史であっても、およそ二千年、現在ほど内に篭る時代はありません」
    「人がヴァーチャルな空間を容認したことで、しかし、土地の奪い合いは消滅した。自然を切り拓く必要もなくなったために、環境問題という部分も解消されています。エネルギィの問題は今も開発が続いていますが、それだって未知を探求しようとする人間の在り方でしかないのでしょう」
     写真が移り変わる。次の写真には、ベンチに腰を下ろす人の姿があった。
    「この年に公園としての機能は停止されました。尤も閉鎖されたわけではありませんが」
    「遺跡として登録されたのは?」
    「申請上では大体九十年前です」
     潘靖がリモコンのボタンを二回押した。壁いっぱいに映されていた写真が左に寄り、空けられた空間に別の映像が投影される。当然静止画だ。写真とは異なり、黒い枠と文字だけの画像。左端には二一七三年と記されている。その隣に名称と書かれた欄が一つ。
    「風息遺跡」
     思わず、その名を口にした。X氏に聞かされた伝承がそのまま遺跡の名になっているとは考えもしなかった。つまり、驚いたのだ。驚くという感情は未知によって引き起こされる電気信号である。ここ二年ほど縁のなかった感覚。研究をしていれば多かれ少なかれ予想外の出来事や思考に巡り会えるが、編集という作業では難しい。胃の底が騒めいている。その落ち着きのなさこそ、気が沸き立っている証拠。私は自ずと頬が緩むのを感じながら、もう一度「風息遺跡」と繰り返した。
    「風息公園と呼ばれていたので、その名残でこの名称が付けられました」潘靖は私の方を見やりながら言った。
    「公園の時、すでに風息という呼称があったのですね」
    「はい」
    「何か書類は残っていませんか? その、百年以上前から風息という名が残っていたという証拠は」
    「当時はまだ紙を利用していたため、現在までに全て紛失されています」
    「風息という名がなぜ用いられたのでしょう」
    「……私の口からは推測を申し上げるわけにはいきません」潘靖が言った。どこか確信を秘めた口調。少なくとも彼は由来を知っているのではないかと思わせる口ぶり。
    「この土地には幾つかの伝承がありますね」私は話題を変えた。
    「どんな土地にも。人が住まう場所であれば」
    「しかし、この土地には奇妙なことに、ここ二百年で発生した伝承が存在する。二百年前といえば、クラシカルなタイプですが、コンピュータが存在し、インターネットによる通信が当然に行われていた時代です。伝承や伝説というものを残すには些か進歩しすぎた時代に。一つではなく複数の形で伝説があったという形跡があります」私のX氏から送られたデータをメモリィに読み込みながら話を続けた。
     例えば、二百年前ではこういった生体に組み込む様式のコンピュータは実用化されていなかっただろう。尤もこのようなメモリィでさえもオフライン、或いはローカルネットワーク下での使用しか許可されていないが、しかし二百年前というのは、記録媒体にも潘靖の操るような、端末を必要としていた時代だ。今とは大きく異なるだろう。それでもこの国に住む殆どの人間が端末を所有していたことは記録に残っている。
    「記録を残す人が多い時代であったためか、詳細という意味で統一された伝説ではありません。話の内容自体は失われ、伝説があったという外形だけが残っている……それらを繋ぐものが風息という名前のようなのです」
     まるで「風息」と言う名前そのものが伝説であるかのように。私が付け足せば、彼は「なるほど」と一度頷き、首を画面へ向けた。
     書類の横で、遺跡の写真が次々に変わっていた。少し目を離した内にも幾らか時を遡り、写真の中には人影がいくつも見られるようになっている。彼の言う公園として開かれていた時代なのだろう。五枚ほど同じような景色が続き、それから、今度は再び誰もいなくなる。代わりに工事に用いていたのだろう、大きなシャベルやクレーンを付けた車が隅に写っていた。公園を整備している最中か。あの車は恐らく大きな岩などを動かすために使われていたものであろうとあたりを付ける。
     写真が変わる。
    「あ、」
     公園が消えた。否、周りの緑ごと消えている。
     ビルの群れ。
     写真の角度が違う。地面の、平行な場所から撮られたものではない。もっと高く、ビルの宙空から撮られたものだろう。中途半端な高さがあった。画素も粗い。
     画面が消える。カメラの光が落とされたのだ。隣に佇んでいた画像も消えている。もう、壁しか残されていない。潘靖が手にリモコンを持ったまま、こちらを見ていた。
    「終わりです」潘靖は言った。「資料はこれだけしか残っていません」
    「この写真は一年に一枚、撮られていたものですね」私は尋ねた。
    「はい」彼が頷く。
    「では、最後の一枚も、一年前のものであると考えてよろしいのでしょうか」
    「記録上は」
    「つまり、遺跡は一年で作られた?」
    「記録上は」彼は繰り返した。「作られた、ということさえ正確かは判りませんが」
    「風息と呼ばれる理由は……公園時代から、そう呼ばれていたと言うことは何かしら無縁ではないはずです」
     私は頭の中に展開させていたメモリィのスイッチを完全に落とし、そのために頭を押さえるようなポーズをとらなくてはいけなかったが、何も映らなくなった壁を見やった。白い壁に染み付いた残像が瞼の上に広がり、再現される。
    「風息という人物は、存在していたのではないでしょうか」
     言葉を溢す。それと同時に幻、或いは記憶の中にある木々が揺らぐような錯覚を感じる。
    「資料には、全く」彼は断言しながら一度壁を見やり、僅かに目を細めた。「私はいわば役人のようなもの。資料にないことを勝手にお話しできる立場ではありません。特に、風息については」
     なぜ。そう問いかけようとした私に掌を向け、彼は続けた。
    「これ以上、私からお見せすることはできません。代わりにこの土地に長く住まう者を紹介してしましょう……元より風息については、彼らの方がよく知っているでしょうから」
    「彼ら、とは」
    「電話番号をお教えしますから、お訪ねになるかはご自身でお決めください」潘靖が席を立つ。話は終わりなのだろう。
    「あの、」私はつられて腰を上げながら声を出した。「この資料をいただくことはできませんか」
    「残念ながら」
    「何か、理由が?」
     希望を出せば提示はするが、決して他人の手には渡さない。データにして送らず、直接赴くように言ったのはそのためだったのだろう。潘靖は私の疑問を瞬き一つで飲み込むと、すぐに軽い笑いをこぼした。作られた笑みではない。不意に沸き起こったと思わせる、整合のとれない笑みだ。私の問いが予想外だったせいか。
    「実は、この写真、我々も借り受けてるに過ぎないのです」
    「え?」
    「とある者の私物なんです。だから、彼の許可なしに勝手にお渡しはできない。見せるくらいなら肯首してもらえますが、複製して人手に渡すとなると、絶対に頷きません」
     潘靖はそう言いながら扉を開けた。「電話番号は貴方のメールアドレスにお送りします。数日で破棄されるように設定をしますが、個人情報ですので、お取り扱いにはお気を付けて」
     私はただ頷き、彼に頭を下げた。促されるままに扉を抜け、一人で廊下を歩く。潘靖は部屋に残ったままだった。振り返り、もう一度だけ頭を下げる。
     現実で頭を下げるのは何年ぶりだろうかと考えた。現実に身体を動かしているという意識。それは生きている実感の一つとも呼べるかもしれない。
     生きている。しかし、生とは何だ。ヴァーチャルの中でも、私たちは生きている。最近では死者を仮想化し、対話を行う人も増えた。大抵は過去の対話の再現だが、新たな発言をさせようという試みも少なくない。そうなると、生きている時の発言と死んだ後の発言と、どう区別すべきかという問題が現れる。死後の発言はプログラム制御されたもので、真に本人の言葉ではないとする見方は今も根強い。一方で、生きている間の発言もまた脳という処理装置によるプログラムに近い、教育という手法で導かれた可能性が高い、といった考え方もある。やがて、何が生命を生かすのかという問いになり、曖昧で、世間の意識として容易に答えを出せない方向へ流れ出してしまうのだ。
     何が生きて、死んでいるのか。どのような状態を生と呼ぶのか。
     肉体の有無。或いは思考の維持。それだけか。
     生というものは種々に形を持ち、存在する。語られ、継がれることで他者に認識され続けることもまた、ある種の生命であるとされることだってある。
     それでは伝説として、その肉を、骨を無くしながらも、名前だけは残っているものはどうか。風息という名を思う。
     今も彼は生きているのだろうか。



     潘靖からのメールは二日後に到着した。私は龍游に唯一残っていた宿に部屋を借り、連絡を待っていた。研究室へ戻ることも考えたが、往復の手間を考えれば宿泊という選択をした方がコストが低い。単純な金銭の問題だけだなく、体力という面も加味した計算である。
     メールには先日の礼と、二つの電話番号が載せられていた。名前はない。それさえ本人から聞けと言うことだろうか。電話番号の下には「私の紹介であると伝えて構わないが、必ずしも話に応じてもらえるかは不明だ」という旨が付け加えられていた。全体として、数字以外は曖昧な文面である。
     試しに電話番号をインターネットで検索した。一つ目の番号を調べると一つのホームページが表示された。フラワーショップという文字が目に入った。花屋らしい。サイトを開けば、予約についてや季節の花という文字が見られる。直接に販売を行っているようだった。珍しい、と思う。販売される植物の殆どは大きな建物の中で作られる。そちらの方が温度や天候への管理に対して合理であるためだ。二、三有名な会社のロゴを思い浮かべる。個人で営まれる花屋というものは、とっくに廃れていると考えていた。正しくはそのような存在が思考にさえ上ったことがない。だから、珍しいと感じたのだ。
     龍游という土地を訪れてから度々、同じことを思っている。もしかすると、研究室の近くにもそういった店はまだ残っているのかもしれない。私の視野が狭いだけという可能性は大いにある。龍游という都市の外観も、人口も、生活様式も、多くの都市と著しい差はない。それだのに、時折、時代の影を残しているように感じてしまう。恐らく、伝説というものを通してこの土地を見ているせいだろう。
     メールを受け取った時には既に夕方を回っていたため連絡はせずに、番号だけを控えた後でメールを削除した。もう一方の連絡先も検索してみたが、そちらは特に関わりそうな結果はなく、似た数字の羅列を持つサイトが見つかっただけだった。個人用の番号であれば不思議はない。
     次の日、私は昼になるのを待ってから電話をかけた。音声だけの通話というのは久しぶりである。コール音が繰り返しを始め、これはレトロなまま変わりがないが、六回目に単調な響きがぷつりと途切れた。回線の向こうに微かなノイズ。それから「はい、□□□フラワーショップです」という声が続く。
    「突然ご連絡して申し訳ありません。私は龍游の遺跡を調査している、」幾らか回りくどく名乗ろうとした私の声を遮り、電話向こうの声は「ああ、貴方が」と言った。
    「潘靖さんから聞いています。連絡先を教えたと」
    「そうでしたか」
    「それで、俺にどんな御用でしょう」
    「龍游に残る伝説についてお詳しいと伺いました。お話を伺えませんでしょうか」
    「……伝説?」彼は疑問符で答えた。
    「私は便宜上、風息伝説と呼んでいます」
     電話の向こうで空風が吹いた。もしくは、呼吸か。
    「どうして?」
    「え、」
    「どうして、調べようと?」
    「興味があるからです」私は素直に答えた。それ以外に特別な理由、或いは目の前にある謎を解き明かさねばなるまいという使命感、そういった感情ではない。「風息というものは、果たして何であるのか」
     それは、何であったのかさえ不明瞭な存在が、ただ伝説があったという形だけを残していることへの興味。
    「風息というものは、生きているのか」
     伝説という形で生き続けるものを明かしてみたい。私は頭の内で耐えず燻り続ける意識を拾い上げながら言った。
    「…………そう、ああ、なるほど、」電話口の声が籠る。口に手を当てているのかもしれない。「分かりました」
    「えっと、それは」
    「明後日でしたら、午後……三時くらいであれば時間が取れます」
    「でしたら、メールアドレスをお教えいただければ、会議室のコードをお送りします」いくつかの会議用のアプリを思い浮かべる。「何のアプリがよろしいですか」
    「いえ……その、できれば、直接お会いしたいのですが」
    「直接?」
    「パソコンも、電話も店の物しかないので……難しいですか? 龍游にいらっしゃらない?」
    「いえ、まだ龍游には滞在しています。問題はありません」
    「よかった」
    「ところで場所は、龍游には詳しくないので、どこに行けばよろしいでしょうか」
    「公園、あ、いや、遺跡の側にあるお店はどうでしょう」彼はそう言いながら立て続けに店の名前を告げた。私は言われた名前を復唱し、それからもう一度「問題ありません」と返した。
    「それなら午後三時に、店で」
    「分かりました」電話口には伝わらないと知りながら、頷きを落とす。「急なご連絡にも関わらず、ありがとうございます」
    「いいえ、」
     彼が答える。長い礼が必要な時は今でないと、私は失礼しますと言いながら電話から耳を離した。指が電源を落とす。
    「……のためだから」
     瞬間に聞こえた音を聞き返そうと端末を耳に戻した。
     回線が途切れる。
     沈黙。
     三秒を数えた後で私は端末をテーブルに置いた。何かを言っていたように聞こえたが、本当に言葉であった確証はない。音声は始終どこか強ばった声をしていたが、決して無作法な相手ではなかった。告げるべきことであれば、電話口で引き止められていたはずだ。最後の音は彼の独白、或いはノイズの類であったのだろう。そう思考を結び、レコーダから先の会話に紛れ込んだ雑音だけを削除した。
     息を吐き、端末へ目を向けた。暗く沈んだ画面の上にはデジタル表記の数字が四つ並んでいた。緊張していたせいか、電話を始めてから十五分も経っていないことをはじめて認識する。まだ昼間と呼べる時間。机の片隅に置いた、すっかり忘れていたものだが、カップを手に取る。お昼前にホテルのサービスを利用して運んでもらったコーヒーだ。中身はとうに湯気をなくし、黒々とした表面の上へ俄かな油を浮かべている。とても飲もうという気にはなれない。仕方なく立ち上がり、部屋の壁に備え付けられたタブレット端末からホットコーヒーを注文する。香りよりも苦味ばかりを優先したインスタント品ではあるが、どこまでも埋没する思考を相手にしなければならない時、つまり仕事中にはうってつけの鮮烈さがあった。
     机ではなくベッドに腰を下ろし、背を伸ばす。自ずと丸まっていたのだろう、身体の筋が伸ばされていく。時折、弾けるようにして、骨が小気味良い音で鳴った。二分も経たずに部屋の扉が叩かれたため、起き上がり、入り口へ向かう。配送用のロボットに乗せられたマグカップを手に取る。蓋によって湯気具合は窺えないが、陶器から伝う熱が、十分な温度を蓄えていると示していた。温かであるというだけで画一されたカップの白い曲面が滑らかに見え、私はそこで少し可笑しくなった。人間の生活は機械的な正確さに満ちていきながら、ひどく曖昧な感覚は未だ失われていない。
     歩きながらコーヒーへ口をつけた。想定通り、火傷しそうなほどに熱い。苦味さえ感じられない。運ぶまでの道のりで冷めないよう計算されているのか、ここで使われている機械がレトロなのだろう。半分ほど飲み干し、蓋をする。喉を過ぎ、胃まで煮立つような錯覚。反して思考がはっきりと整えられていく。
    「さて」わざと一言漏らした。少なくとも自分にとってはこうした出力が切り替えに有効である。それから、テーブルの前へと座り直し、端末を手に取った。
     記録した電話番号、二つある内のもう片方を再生する。
     コール音。
    「もしもし、小黒です」
     数えるまでもなく、すぐに電話口から声が聞こえた。若い男の声だった。もちろん姿が見えているわけではないので、空想に過ぎない。思えば先の彼も年寄りとは想定し難い声をしていた。伝承をよく知るものと言えばある程度の老人であると思い込んでいたために、今更のような驚きを覚える。
    「はじめまして。私は龍游の遺跡を調査している者です」言葉はゆっくりと喉を登った。「潘靖氏から連絡先を教えていただいたのですが」
    「ああ、なんかそんなメールが来てたかも」彼は呟くと、それで、と言った。「僕に何の用ですか?」
    「貴方が龍游にある伝説に詳しいと聞きまして、お話を伺えればと」
    「龍游?」
    「ええ、はい」
    「龍游に伝説なんてあったかな」
    「風息伝説と、私は呼んでいます」
     電話先で男が小さく「ああ」と言葉にも満たない音を零した。
    「風息ね、随分、懐かしい名前だ」
     僅かに言葉へ力を貯めるような言い方だった。
    「ご存知なのですね」
    「むしろ、貴方の方が風息のことをどこまで知っているのかが気になる」
    「この二百年ほどで発生している、龍游にある実体のない伝説の共通点という程度です。また遺跡と同じ名前を有しているという点も把握はしています」
    「ああ、それ。全部風息の名が一人歩きしただけの流言だよ」彼は言い切った。「日照りの夏に雨風をもたらすのは風息のおかげ、地震が起これば風息のせい……貴方の言う形のない伝説って、こういうののことでしょう?」
    「ええ、はい」私は答えた。具体的な中身を知っているわけではなかったが、話を止めるほどのことでもない。
    「あの頃の人は予測のつかないものを彼のせいにしてた。だけど、この二百年で社会も大きく変わって、自然を予測するくらいどうと言うこともなくなった。例え予想外のことが起きたとしても、大抵のことは取り返しがつく。危険にさえならない。人間は長く自然と関わりを絶ってきたけど、二百年かけて、繋がりはますます希薄になった。そう言った変化が形ばかりの風息と言う名を忘れさせたんだろうね……人からすれば不要になったというわけ」
     まるで見知ったような話しぶりだった。誰から聞いた言葉だろうか、と考える。人の平均寿命が百年を大幅に越えたとしても、二百年を生きている人間はいない。未来には残るだろうが、現在最も長寿であるとして公表されている人物は百三十歳の、大陸の反対側に住まう人であった筈だ。
    「貴方は風息というものをご存知なんですか」私は僅かに頭に上った疑問を片隅に置き、彼に尋ねた。彼の言葉が誰のものであれ、それは瑣末な問題である。
    「今は公園の名前でしかないよ。いいや、遺跡に名前を変えたんだっけ」
    「それでは、当時の人々はただの公園の名をわざわざ用いたのでしょうか」立て続けに問いを投げた。「風息という名が付けられた理由とは、一体」
    「逆だよ。風息というものに縁があるから、あそこが風息公園と呼ばれたんだ」
    「あの大木に関係が?」現在遺跡として登録されているものは、あのコンクリートを断ち裂いた巨木。それだけである。周りに広がる森は付属物にすぎず、それでも、一体として作り上げられたような感じを覚えるために巨木のみならず全てが遺されているのだろう。何にせよ、遺跡とされるものがあの木一つであるのならば、少なからず無関係とはいえないはずだった。
    「…………。でも、………………それが…………。風息は………」
     青年が何かを答える声に、ノイズが混ざる。二秒、三秒。十まで数え、私は一度端末を耳から外し、画面に記された話中の文字を確かめた。電波の問題ではない。再び耳を傾ければ、曇りない声が再び鼓膜を揺らす。通信は良好のようだ。
    「事象の記憶は消せても、物事に対する印象までを取り消すことは難しい。記憶とは脳に記された信号だけど、印象とは内面の反射、或いは反応だからね。人はあれを見るたびに訪れた嵐への畏怖の印象を繰り返す。だけど人は代謝が早いから、不必要な反応はすぐに消失されてしまう……変化への対応が得意なのは人の美徳だけれど、それは忘れっぽいことと、大きくは変わらない」
     彼は私の様子には気が付かなかったのだろう、淡々とした調子で話を続けていた。
    「風息の木を見たことがある?」
    「はい」
    「どうだった?」
     遺跡の姿を思い出す。
     細かな疣が俄かに浮かび上がり、皮膚に凹凸を作る。風と緑と土の、むせ返るような香りが鼻の奥に再現される。光は絹糸の細い表面にはしる一筋の光沢に似た滑らかさで私の網膜を突き通す。コンピュータの再現よりも不正確で、鮮明さだけを切り取った錯覚。
    「美しいと思いました」
    「そう」彼はそれだけしか返さない。
    「風息伝説とは、かつてあった噂のようなものを実体付けるための機能であるということでしょうか」私は話を戻した。
    「そうだよ。実際のところ、彼は何もしていない。少なくとも、ここ二百年においては」
    「まるで風息という存在がいたようにお話されますね」
    「いたよ」
    「え、」
    「僕のいう風息と貴方の思う風息はきっと、違う。少なくとも僕の中には風息がいたし、記憶という意味ではまだちゃんと、側にいてくれる」
    「それでは、形のない伝説たちと変わりません」
    「変わらないんだよ。だって、今この時、風息は存在しないんだから。何に彼の名を使うか……僕の場合は過去の記憶だけど、そういう違いでしかないんだ」
    「実在するかしないかは問題ではないと?」
    「少なくとも、僕にとっては」貴方にとっては分からないけれど、と続ける。「木の下に作られた祠だって、大分前に、勝手に置かれたものだ。雰囲気に合うからと言う理由で遺されているだけ」
    「貴方はそれでいいのですか?」
    「何が?」彼が尋ねた。
    「仮に、貴方にとって風息と呼ぶべき存在がいて、それが無数の他者によっていいように扱われている。正しく風息というものが伝わらない現状を許していると?」
    「別に。正しさだけが全てじゃないし。風息のために何を許すとか、許さないとか、それこそ僕が決めることじゃない」
     半ば吐き捨てるような勢いがあった。一呼吸置かれた後で、こんなこと言ってすみません、と呟かれる。形ばかりの謝罪だった。電話口が微かな溜息を拾う。私はその言葉に何を返すこともできず、沈黙するばかりだった。無用な、研究の上では何の導にもならない質問であったことを詫びるべきか、考える。しかし、言葉を交わす二人のどちらもが謝罪しては、この会話そのものをあべこべにしてしまう。
     迷っている間に、電話の向こうで再び口火が切り落とされたために、耳を傾けることに意識を向けた。機会を逸した言葉は、二度と語られないだろう。
    「貴方の言う風息伝説について言えることはそれだけだよ。本当のところ、そういう噂が流れていると聞いたことがあるだけで、詳しいわけじゃないんだ。龍游を離れて長いから」
     彼は早口になっていた。無礼を誤魔化したいのか、もしくは、電話を終わらせたいのか。
    「また、お電話か、メールをさせていただきたいのですが」
    「ううん。すみません。本当に、これ以上は話せないし、話したとして何にもならないから」
    「そうですか…………」
    「お力になれたか、分からないけれど」
    「他者の私見を得ることも、研究には有効です。その点以外でも、貴方のお話はとても参考になりました」
    「そう、よかった。それじゃあ、」
    「ありがとうございます」
    「どういたしまして」
     古来から変わらない、礼のあり方だ。
     その言葉を最後に通信が途絶される。端末が完全に沈黙するよりも前に耳から離す。首を曲げた拍子に、骨が鳴った。ずっと傾けていたからだろう。私は端末へ繋がれたレコーダの録音をファイルに保存した後で、一度首を回した。やはり、骨が鳴る。この首が生物であるという証。どれだけ機械技術が発達しても、結局、人間の身体が機械に置き換わることはなかったという例証とも言える。それは生体、つまり人工細胞の製造や天然(人工に反する言葉としてであるが)の身体を維持する技術に重点が置かれたからだろう。私の骨は生まれた頃から私の内に埋め込まれた物のままであるし、これらが全て機械に置き換わることは好ましいとは思えなかった。多くの人間も同じだろう。人はこう言った面だけは奇妙なほどに不変だ。
     先の会話を精査しようとしたが、保存されているのであれば急ぐ必要はない。やや疲労を感じる思考の筋を解すように遊ばせながら、机の端に置かれたカップへ手を伸ばす。蓋の乗せられた白い陶器はすっかり冷たくなっていた。



     二日間の空白があったので、龍游への滞在を延長することにした。幸いにもほかに部屋を利用する客はおらず宿泊日を伸ばすことは容易であったし、研究に必要なデータは全てクラウド上に保存していた。インターネットにさえ繋げられれば、どこにいようとアクセスができる。加えて新たに得たものを整理する時間も必要だった。やるべきことは多い。企業などから支援を受けている時には、大抵こういう自由はない。取り扱うものは、さほど重要なものでなくとも、未公開の秘匿データとして見做される。ローカルからの持ち出しを許可されないのだ。私が集め、組み上げた資料でさえも儘ならない。何が重要で、何が本当にしまっておくべきことなのかを決めるのは私ではないらしい。当然、不便であっても仕事である限りは我慢がきくし、ほとんど外出をしない中で特別に不便を感じることは滅多にない。それでも、こうした事態にはきっと少なからず不満を感じただろうと推測した。感情とは直面するまで不確かなものだ。幾らでも推測は高い精度で行えるが、それ以上に揺らぎが多い。ランダムな力が働きやすい。だから予測することはあまり意味があることではない。とにかく、今は不満ではないという点だけで十分だった。
     主に行っていたのは龍游に住む、もしくはかつて住んでいた人からのメールを確認していくことだった。これらは私が龍游を訪れる前に、インターネット上で情報を募っていたものである。こういった手法で集めた情報には真偽が確かめられないものが多く研究には使えないが、とにかく手がかりがほしかった。このために取得したアドレスのメールフォームを開けば、予想よりも多くの情報が寄せられていた。少しだけ安堵する。まだ、過去の染みみたいに、役立たないものを研究する価値があるのだと知らせてくれる心地になる。それでも悪ふざけだと一目で見抜けるものや、千年以上も前からあったであろう、古い伝説の話が多かったが、中には風息と名のつく伝説についての話を送る者が幾らか存在した。めぼしいメールへ返信を行い、情報の詳細を確認する。数人からは直接チャットで話を聞くことができた。想像通り風息というものを具体として知っている者はいなかったが、祖父母の時代から龍游にいたという人がほとんどであるという数字を得ることができた。
     話を聞いた一人には、祖父が環境活動家をしていたのだという人もいた。まだ、自然の保護や整備をしようという意識のあった時代だ。祖父から風息という名前を聞かされたことがあると言う。尤も幼い時分であったために覚えていることはないそうだ。代わりに彼は一枚の写真を添付してくれた。メールには論文への掲載を許可するための条件が幾つか書かれている。その下に「祠ができた時の写真だと思います」という一文があった。
     写真には複数の男女が祠の前で整列する容が写っていた。揃いのシャツには龍游自然保護グループの名前がロゴのような形で描かれている。画質は粗く、細かな部分までは再現を施さなければ判別が難しい。本物は恐らく印刷物なのだろう。共に送られた裏面を写したデータには「××××年、風息遺跡前にて。祠移設記念」という手書きの文字が残されていた。あの祠は、どこからか移されたものであるのか。二百年よりもずっと古い、本当に神としてものを崇めていた時代の名残を再利用したのかもしれない。祠と呼ぶ以上は元の祠自体も風息と関連がある可能性も高い。つまり、風息という伝説の起源はは二百年よりも遡られることになる。或いは、全くの無関係か。
     過去を調べていると、こういった事態に直面することは少なくない。ある時代まで遡れば十分であったはずなのに、さらに奥にまで道が続いていた。トンネルを抜けた途端に、新たなトンネルが続いていた。そんな呆気なさがある。人の歴史は点を繋いでいるのではなく、連綿と続く流れなのだと突きつけられる。こういった場面に遭遇すると手応えと同時に途方もなさを感じるのが常だった。
     細々とした情報と思考をまとめ上げている内に、二日はすぐに消費された。元より熱が入ると時間の経過に鈍くなる傾向が強い。目の前の課題で視界が埋まり、他のことへ割く思考回路が減る。もう少し脳の処理機能を上げれば良いのだろうが、記憶媒体以上のものを頭に入れることには抵抗があった。私もそう言った点では比較的古い人間だと言える。約束の日が訪れていると気が付けたのは全くリマインダのおかげであった。
     二時間ほど仮眠をとり、それから服を着替えた。ホテルを出た時には十分に時間があったけれど、初めて行く場所であれば丁度いいくらいだろう。ターミナルに向かい、遺跡へ向かうバスに乗る。客は私以外にいない。平日という時間の影響だ。人は時間と空間に囚われなくなったはずだが、暦というものを正確に進め続けている。その一方で、もう何千年も前から同じ暦を使い続けているのはどうしたわけだろうか。決まった形の方が安心だと思うのは錯覚で、人は絶えず動いていたがる生き物だというのに。時間だけはもう何千年も同じまま、地層のように積み重なることを許している。エンジンの振動に身を預けながら、茫洋とそんな思考を巡らせた。そう、振動も未だに存在する。どれほど微細になっても、物質として存在する限り、摩擦からは逃れられない。摩擦は熱と振動の源だ。
     アナウンスが停車場の名前を読み上げた。遺跡に一番近い場所だ。顔の横に取り付けられたボタンに指を近付ける。それだけで、スピーカは停止する旨を吐き出した。非接触式のセンサだ。何百年か前に起きたパンデミックの時に広がった形式らしい。熱に反応させることで機能している。熱。私が物質であるという証か。
     車が止まったので私は立ち上がり、バスを降りた。日が微かに傾き始めている。眩しさに目を閉じれば、瞼の裏に燐光が浮かび上がった。暫く目を瞑り、ゆっくりと開く。どこにでもあるような二車線道路が目の前に広がっている。その向こうには異彩を放つ緑の群れ。もう少し陽の角度が低ければ、黒く見えただろう。人気のない路地に立ったまま、端末で店の名前を検索する。ホームページはないが、地図アプリ上に名前が登録されているようだった。バスの通る道から、二つ裏道に入っていく必要がある。随分と人目から離れた店だと思い、マップの上で周囲を調べれば、遺跡の裏手からは一本道であると知ることができる。昔はそちらにも入り口があったのかもしれない。バス通りの方が、店からは裏手にあたるのだ。
     端末の案内に従い路地を曲がる。時折、道端に猫が現れた。野良猫だろう。珍しい。大抵の猫は人の姿を捉えると瞬く間に立ち去ったが、中には気負うことなく欠伸を続けるものもいた。特別に構うつもりもなくその横をすり抜けて歩く。二分も歩けば目的の通りにたどり着いた。
     腕時計を見る。二時五十八分。おおよそ三時だと結論付け、私は既に見えている看板の前に立った。一度息を吸う。微かに土の香りがしたような心地。きっと気のせいだろう。
     扉の前に立ち、二、三秒静止した後で取手の存在に気が付いた。引き戸だ。自動ドアでない建物を久々に見たような気がする。自分の手で扉を引けば、内側に取り付けられていたベルがけたたましく音を立てた。まるで見知らぬ者の侵入を防ぐような喧しさに、肩を縮ませる。カウンタの奥に立つ初老の男が私を一瞥し、無言のまま顔を伏せた。店内にはカウンタに向き合うように、席が一列に並んでいる。その反対側には四人がけのテーブルが二つ。一番奥のテーブルで扉を背にして腰をかけている二人の客の他に、客はいない。彼だろうか、そう思った瞬間に一人が振り向いた。
     私は反射的に頭を下げた。向こうも、頭を下げる。恐らく、彼だ。席に近寄り自分の名前を告げれば、彼もまた予め知っていたように頷きを返した。向かいの席を手のひらで示す。座った途端に店員の男がやって来たので、コーヒーを頼む。この店が何の店であるのかは分からなかったが、コーヒーのおかれていない店はあまりないと考えた。向かいに座る二人の前には既に白いカップが並んでいる。
    「えっと、」通路寄りに座った、青年のような見かけの男が曖昧に口を開いた。「わざわざ来てもらって、すみません」
    「いえ、こちらこそ突然ご連絡してしまい……」私はそう言いながら、彼の横に座る男を見た。もう一人もまた、青年のような見かけをしている。しかし、茶色の髪を穏やかにまとめた彼とは異なり、黄色の髪は短く、顔の余白にタトゥを刺している。「そちらの彼は?」
    「弟です。風息のことなら一緒にいた方がいいと思って……ああ、そういえば俺の名前もまだ言っていませんでしたね」
     彼はこめかみを掻き、そこで初めて小さく笑みを見せた。
    「俺は洛竹。こっちが天虎」
    「洛竹さんに、天虎さん」それぞれの方を見ながら繰り返せば、天虎が正解だと言うように頷いた。そのタイミングで店員がカップを運んで来た。ホテルのインスタント製品とは異なる香りが鼻腔を埋める。マグカップから伝う熱も、せいぜい指先を温める程度の柔らかさ。私は黒い液体を一口だけ飲み下した。店への礼儀のつもりだった。
    「早速ですが、風息伝説についてお聞きしたい」私はカップを置いた手で端末のレコーダを起動させながら言った。
    「風息伝説、ね」洛竹が呟いた。「どんな?」
    「私は風息伝説を、無数の伝承、或いは言い伝えが一つの系統へ集合したものであると考えています。また、」
     私は一度言葉を切り、続きを話すべきか思案した。私自身が考えたことではなく、未だ確信には満たない部分であったからだ。
    「また?」天虎が前髪の隙間から私を見た。
    「話を聞いた中には、風息伝説はただの自然現象を語るため、これは昔から見られる自然起源説としての在り方に近しいですが、風息という名がそのポイントに使われたただけのものであると語る方もいました」
     洛竹が一度カップに手を付けた。白く丸い取手を持ち上げ、口は付けずに受皿へ戻す。天虎は机の下に両腕をしまったまま、洛竹の方を見やった。
    「……正しいよ」洛竹は言った。「貴方が調べている二百年の内に作られた風息の伝説は、ほとんど意味がないんだ」
    「意味がない、とは」
    「だって、その名前の中に風息は存在しないから。人が、何となく覚えている印象に使われるだけ……それも結局ほとんど忘れられて、今はただ風息の名前だけが残ってる」
    「お詳しいのですね」
    「……俺たちはずっと、ここにいるから」
     洛竹が言った。複数形。彼の先祖のことだろうか。見たところ、彼は青年と呼ぶに相応しい外見をしている。まだ二十か、そのくらい。
    「どなたかお知り合いに、風土に詳しい方でもいらしたのですか?」
    「ううん……まあ、そんなところです」
    「家族」天虎が呟く。洛竹はそれに小さく頷くだけで、言葉を重ねようとはしなかった。沈黙が流れる。この店は音楽をかけない趣向なのだと、今更のように気が付いた。
    「それでは、風息伝説の中身について何かご存知ではありませんか?」仕方なく、話題を変える。
    「嵐とか、水害とか、そういった記録だよ。今はもう、あそこに風息はいない。自然の横暴から、人の傲慢から森を守るものはもういない。何を祈ろうと、そこにあったものはただの自然現象です」
    「風息という存在があったとお考えですか」
    「もちろん」洛竹が言った。「貴方の考える存在とはきっと、違うけれど」天虎が横で首を頷けている。無口なのだろう。
    「違う、とは?」私は尋ねた。
    「多分、これはもう資料も何もないことだから研究にはならないと思います」
    「構いません。お教え願えないでしょうか」
    「二百年前よりも、もう幾らか前の時代に、この土地に住まう人の間で風息と呼ばれる者が出てくる伝承があったそうです」どこか懐かしむような声音。「人の間の話で、俺たちが直接に知っていたわけじゃないけれど」
    「それは、本当ですか」
    「はい。どこにでもあるような、土地に根付く昔話ですが。もう、覚えている人はいないと思います」
    「既に消失されているということですね」
    「ええ……まあ。きっと」曖昧に唇を動かしながら彼は言った。私は俄かに机の上へ乗り出していることに気が付き、姿勢を正した後でカップを一度手に取った。厚い陶器のおかげか仄かな温かみがあった。
    「……それでは、貴方以外に、それを覚えている方はいらっしゃらないと」
    「俺も、そういうものがあると人から聞いただけで、」
     私は頷きながらレコーダに触れ、録音が機能していることを確かめた。貴重なものを無くしたくはない。インターネットに接続されない以上この場でバックアップを取ることは難しいが、一先ず、今の記録がなされていなければ話にもならない。
    「それでは、あの祠について……祠が移設された経緯については何かご存知でしょうか」
    「結構前に、山の奥に残っていたものを移したと聞きました。それだけです……人が勝手にやったことだから、詳しくは」
    「そうですか」祠に関しては市に管理されている物であるのだから、潘靖に尋ねれば何かしら返答があるはずだ。落胆はない。
    「あ、でも」洛竹が壁の方を向きながらこぼす。視線を辿れば天虎のすぐ横に備え付けられた窓が一つ。ガラスの向こうからは遺跡の木々によって作られた影が盛んに差し込んでいた。「あれは、本物だったっけ」
    「本物?」
     洛竹は私の問いには答えず、窓からカップの内へ視線を戻した。独り言であったのか。二秒ほどカップの中を見つめ、それから私の顔を見る。もう質問はいいのか、と言った表情だ。
    「最後に一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
    「どうぞ」
    「仮に、風息呼ばれる存在がいたとして」私は語頭を強調しながら言った。「貴方はそれが、今も生きていると思いますか」
     言葉の中に、伝説の中に名前を残すだけの存在。名前という概念から成り立つ存在であれば、私たちはそれにもう一度出会うことができるだろう。前時代の形ではなくとも、いつの時代であれど噂や伝説は人の口を行き交っている。
    「さあ」天虎が口の端を曲げる。
    「何を信じるかでしかない」洛竹が隣りを見やり、小さく笑った。「結局は、それに尽きるんです」
    「貴方たちは、風息を信じていますか」
    「もちろん」
    「当然」
     二人は揃って頷く。私は端末の上で回転する歯車が止まるまでを確認してから、カップの底に残ったコーヒーを飲み干した。
    「ご協力、ありがとうございます」
    「いいえ。協力になったとは思いませんし」
    「なぜ?」
    「貴方は、風息の何を調べたかったんですか?」洛竹は私の質問には応えず、代わりに問いを投げた。「風息という伝説の正体? それとも、それがこの土地にあったという証?」
    「私は、」
    「それとも、ただ風息を知りたかった?」
    「さあ、どうなんでしょう」私は息を吐いた。「私はただの研究者ですから。興味があって、且つ、まだ研究の余地があれば取り組む。それが仕事です」
    「仕事」天虎が繰り返した。
    「ええ、はい。仕事だから、それなりの結論があれば論文にする。その結論に価値があれば金が付く。価値は何も、未来にだけつけられるものじゃありません。今回はたまたま縁あって、調査をしましたが、何か論文のテーマになるかもしれない、その手がかりを探しに来たかっただけなのかもしれない」
    「つまり、風息でなくともよかった」
    「突き詰めれば、そう言えるでしょう」
    「伝説と同じですね」
    「え?」
    「貴方の調べている伝説の中身は、別に風息でも構わなかったものたちばかり。そして、貴方自身も」洛竹は席を立った。天虎もそれに続く。「だけど、それでも風息という名前を選択した」
    「偶然ですが」
    「潘靖さんが調査を許している時点で、完全に忘れさせる気はないだね」洛竹は天虎の方を向きながら言った。天虎が唇を結んだままで唸り声を一つ上げる。その仕草に小さく頷き、洛竹は私へ視線を戻した。「ありがとうございました」
    「こちらこそ……今後、調査を続ける場合、またご連絡しても?」
    「その機会は、きっと、ありません」断定。何の予感か。彼はそう言い切ると机に紙幣を置きながら出口へ近付いた。
    「そうだ、」
     扉に手をかけ、振り返る。
    「まだ龍游に?」
    「明日には戻ろうかと」
    「それなら、お帰りになる前、その最後に公園へ行くといいと思います」
    「それは、なぜ」
    「そこに風息がいるから」
     光。ドアベルの音。二人はそう言い残すと扉を押し開き、姿を消した。店員は何を言うこともなく、カウンタの奥で皿を並べている。
    「お会計を」私は言った。もうこの店に留まる意味はない。或いは、この町に。
     店員が顔を上げる。無言のまま机に置かれた紙幣を指さし、再び顔を伏せた。ここに置いていけということだろうか。生憎と紙幣やコインを持ち歩く主義ではなく、仕方なく店主へ向けて端末を振った。
    「これでお願いします」
    「充分だ」店主は的確な言葉だけを告げる。顔を上げることもない。
    「え?」
    「その金で。他の品を頼むのなら、別だけど」
    「あ、いいえ、これで失礼します。ごちそうさま」短い言葉に急かされるような心地になり、私は慌てて店を出た。
     傾きかけた日はもう地平に近く、ビルに遮られ千々に裂かれた光が瞳孔を刺す。針のような眩しさに反して、朱々とした光を受けた遺跡は暗く、大地を飲むように浮かんでいた。青空の下にあるよりも明瞭さを増した輪郭は己の存在を誇示しているのか、迫りくる暗闇にさえ溶けることがない。
     遺跡に行こうかと考え、一人、首を横に振った。先の青年は帰る前と言った。まだ、早い。一度通った道を辿り、大通りへ戻る。バスはまだしばらく来ないようであった。仕方なく待合室に腰を下ろす。ホテルに戻ったら、帰りの列車を予約しなければ、と考える。龍游から研究室のある州へ向かう列車の本数は多いとは言えない。尤も列車というもの自体、かなりレトロな移動手段だ。バスもまた然り。それでも二百年前にはこれらがまだ使われるとは思われていなかっただろう。もっと便利になって、或いはより高度な技術が生まれると考えられていたに違いない。私もまた、遠い未来にはもっと世界が変わるという漠然とした思考を持っている。それと同様だ。確かにその思考は正しく、百という年月で暮らしの在り方はある程度変化している。しかし、細部はどうだ。結局のところ、バスも電車も、もっと過去から行われていた農耕だって手段が変わったところで、依然、存在する。変わったのは寿命か。ここ数十年の間に、人間の寿命は百年程度ではびくともしなくなった。これから先は二百年くらい平気で生きる人間ばかりになるだろう。それでも、いつか死ぬことには変わりがない。そのサイクルの途上から抜け出すことはないだろう。だからこそ彼に。名前を、或いは印象という概念を灯火のごとく繋ぎ続ける風息というものに、願いたくなるのかもしれない。過去の人々と、今の私に、何の違いがあるというのか。不意に、そう思った。
     瞼が反射的に閉ざされる。取り止めのない思考を巡らせていたために、自分に向けて光か近づいていたことに気が付かず、ヘッドライトを直視してしまったのだ。バスは自動音声の案内に続けて扉を開いた。招かれるままに中へ入り、ソファに座る。形ばかりのクッションではあったが、待合室のベンチよりはましだった。行きと同じ、乗っているのは私一人。
     走り出した車体が伝える振動に肩を揺らしながら、私は遺跡を振り返った。空はいつの間にか真暗に染まり、銀色の光を降らす星々が天上に揺れている。そのうちの半分がノスタルジィを重んじる人々のために投影された映像であることを、私は三歳の時から知っていた。過去から届けられた光は、とうに消え褪せている。それでも、地上から見上げた空に違いなど見られなかった。



    「これだけです」
     私は数日の調査をの様子を話しながら、隣に立つ男を見ていた。彼は双眸を開いたままで上空を眺めている。木の、そこから伸びた枝葉の数を数えているのかと勘違いするほどの強い視線。時々、つまらないのだろう、と思った。無理もない。私自身、調査の内容だけ掻い摘むほどまとめられてはいなかったし、ただ私が過ごした数日を聞かせているに等しい。
     喫茶店で聞いた話までを語ると一度呼吸を置いて、これで終いです、と言った。男はようやく顔を真正面に戻すと、短いな、と返した。
    「二百年分の話かと思った」
    「二百年も話が残っていればよかったんですがねえ」
    「そんなものがなくて安心したよ。人に使われるだろうとは思っていたけれど、細かな仕事が好きな奴らで助かった」
     どう言った意味だろう。私が首を傾げれば、彼はぞんざいに手を振りながら再び枝葉の網を仰ぐ。「気にしないで。どうせ肝心なところは消えてしまう」
     ほとんど言葉にならない感嘆だけを息に混じえて返す。彼は枝葉を見上げたままで、それにしても、と続けた。
    「世界は随分変わったな」
    「そうでしょうか」傾げたままの首を戻しながら答える。長くてこの場所を離れていたと青年は言った。今の口ぶりでは龍游どころか世俗からも離れていたような感触がある。一体どれほどの間、彼はここにいなかったのか。何か宗教の修行、もしくは収監、そう言った単語が浮かび上がった。宗教は廃れてはいないものの、かつての時代からすれば衰退の一途にある。それでは牢屋に留められていたのか。この穏やかな風貌の青年が。
    「それでも人はいつまでも変わらない」彼は小さな祠に近寄り、その上に腰を下ろした。「またこんなものを引っ張り出して。ここにはもう、誰もいないのに」
    「その祠についてご存知なのですか」
    「知っているとも。随分と前に、人があの子のために作った物の一部だ」因果なことに、と続けながら彼は祠の角を指で辿る。触れることで何をか知ろうとしているような、丁寧な仕草だった。
    「あの子?」
    「風息だよ」
    「風息?」私は彼の言葉を繰り返した。「それは、」
    「お前たちのいう風息という言葉の前から、ずっと風息はここで生きていたから」
     歯の隙間から降り注ぐ光りがアメーバのように溶解する。
     目眩。
    「今は?」
     私は眩む視界の中で尋ねた。立っているのか、座っているのかさえ不明瞭。
     言葉だけが、輪郭を保っている。
    「この木はただの抜け殻だ。もちろん、それさえあの子の残した物であるのだけど……あの子自身の心はもうここにはないし、霊もとうに流れて消えてしまった」
    「どこへ」
    「宙へ」
     青年が笑う。
     光。
    「風息は、存在しますか」私は尋ねた。
    「この世界のどこにもいないよ」
     青年の表情は変わらない。碧暗い影が白い視界の中で存在を示すように揺れる。大きく。波のように。夏に嵐を待つ午後の大気のように。飲み込まれて行く。錯覚。
     或いは、本当に飲まれているのかもしれない。ここは大きな腹の中であるという空想。
     しかし、一体誰の?
    「そして、どこにだっている」
     風息。
     名前が聞こえた。青年の声だ。私へ話しかけているのではない。既に、青年は私を見ていない。
    「長い間待たせてすまなかった」
     風が吹く。強く、髪を揺らす。私は堪らず目を瞑る。
     水色。
     視覚で捉えることのできない風が、瞼の裏で不可思議な色彩を放つ。
     脈を三つも数えない内に、暖かな空気が隙間なく空白を埋め尽くし、目を開いた。
     まず網状に降り注ぐ陽光。それから緑の柔らかな群れと、よく乾いた枝の黒が目に入る。
     本物の、森。
     葉の隙を縫うように空を見上げた。途端、晒された額の上に雫が一つ。続けて二つ、三つと皮膚を打つ。
    「雨」
     私はその単語を声に出した。それから、言葉がいやに広く響いていることに気が付く。青年がいない。辺りを見渡してもそれらしい影はなく、文字通り煙のように消えていた。首を傾げる。肩には無数の雨粒。今朝確認した天気予報では雨の確率はないと断定していた。予報、予測。人間がわずか数日ばかりの未来を測る損ねなくなって久しい。何年、何十年ぶりと言えるだろう。
     次第に勢いを増す雨に、私は堪らず走り出した。服や髪が皮膚に張り付き、身体を動かしにくい。不自由であるというのに、それでも、不快感はなかった。定められた予測から外れてやったという愉快ささえある。つまり、自由を感じている。私は自ずと頬を緩めていた。荷物が濡れてしまうことだけが気にかかったが、特別に濡れて困るものもないと思い直す。鞄を抱え、バスの停留所へ続く道をめいいっぱい走った。息が上がる。雨は冷気を神経に伝えるが、体内に沸き起こる熱には却ってちょうど良い。こんな運動をしたのは、いつぶりだろう。生まれた頃から、したことがなかったかもしれない。
     遺跡の出口で一度だけ振り返る。
     もう、誰もいない。
     黙したままの大木と境目を無くした薄氷色の雨だけが、そこにはある。



    「そういえば先生、論文を拝見しましたよ」
     ある日、X氏との通話の中で彼は突然に告げた。彼の勤める出版社からまた小さな記事の依頼をもらったので、その打ち合わせをしている最中だった。
    「論文?」
    「ほら、□□□という雑誌に載せられた、龍游の」
     私はその名前を聞いた後で、ああ、と唸り声を返した。雑誌の名前よりも、龍游という名前のせいだった。随分と懐かしい気持ちになる。あれからあの場所を訪れたことはない。調査もあれ以来、行うことはなかった。何にせよ、もう、一年以上も前のことだ。
    「先生にしてはかなり抽象で、ロマンチシズム的でしたね。私のような素人には面白いものでしたけれど」
    「データが足りなかったからね」
    「でも、現地に調査へ行かれていたでしょう?」
    「行ったよ。色々話を聞いて、資料を集められたはずだったけれど、研究室に戻ったら全部壊れていたからね……」
     調査から戻り、手に入れたデータを整理しようとした私は、持っていたはずのデータが全て消失されていることに気が付いた。バックアップに上げていたはずの物も、自動的にバックアップを抽出するシステムが仇となったのか、大元と同じ状態になっていた。音声データはノイズばかりを残し、何一つ手元にはなかった。仕方がなしに、残っていたメモリィのデータと、記憶を頼りに簡単な文章を作り上げたことを思い出す。研究を取りやめるという選択肢もあったが、どうにも何かを残しておきたいという意思があったのだ。メジャな学術誌にはとても掲載されない内容だ。論文というのも気が引ける。幸いにも知人の懇意にしている小さな雑誌が掲載を引き受けてくれたために、世に出すことはできた。X氏が挙げたのはその雑誌である。
    「壊れていた?」彼は眉を顰めた。「珍しいですね」
    「原因は分からないけど、もしかしたら帰りに雨に降られたせいかもしれないなあ。修復は少々高く付くようだったから、諦めてしまったよ。君には悪いけれど、まあ、遊び半分みたいなものだったから」
    「いえいえ、それは構いません。それに、記事は本当に面白かった。続きは調査されないのですか」
    「もう十分だよ」
     私の書き残した夢みがちな仮説も、遠い未来においては風息伝説という枠を成すのだろうかと考える。曖昧で、形のないものはこうして不意に甦り、長い時に埋没し、いつか少しだけその頭を見せるのだろう。誰も、覚えていないように。そして、決して忘れ去られないように。
    「君もすぐに忘れるさ」
     この一年、あの研究を振り返ることはなかった。まるで消失されたデータのように。たまたま彼の言葉で記憶の一端が復元されただけのように、曖昧。
     X氏は「そうですか」と言いながら、既に仕事の概要を示した画像を写し出していた。思考回路を切り替える。声を出す代わりに首を回す。一瞬、画面から外された視界の角に窓が映る。
     今日は晴れ。
     あれから、天気予報は一度も外れていなかった。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/11 0:13:58

    風息伝説とその実在における真偽について

    #LXH
    別サイトからの移転です。
    初出:2021年2月27日

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