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    しおり
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    しおり
    溶けて、流れて お前の手はいずれ汚れるのだろうな。
     その予言じみた言葉を残したのは、旧知と言える間柄の男だったと記憶している。会話の前後は覚えていない。ただ、そう的外れでもない文脈の中で言われたことだろうと予測は出来た。彼は基本として余計なことを口に出す性質ではなかったし、突飛な事を言い出したとしても、やがては一つの理論としてまとめるだけの頭があった。
     いつだったか、何百年も前にそれを本人に伝えたことがある。まだ知り合って間もない頃で、相手の美点を見出すことが必要とされていた時分だった。幾つかの褒め言葉を彼へ贈れば、彼は笑うでもなく、しばし眉を潜めた後で形ばかりの礼を告げた。こちらの思いを無碍にする気はないと示すかのように。今にして思えば、その理知とも言える素養は、紆余曲折の果てに手をとった主に拠るもので、素直に受け取るには複雑なものがあったのだろう。妖精の感覚においても随分と長く付き合いが続いた現在では、つまり百以上の年月を指すが、決してそのような事を口にはしないし、例え口にしたとして、彼は顔の筋を作り忘れたのかと錯覚するほどの表情で礼をいうことができるだろう。彼らの関係は時に従い層を重ね、少しばかり姿を変えている。その大凡は彼らがそれぞれに変わったためであった。
     変化。変容。変質。この世界では、誰も一所に止まることなどできない。変わり続けるより他にはなく、故に、いつか、自分の手が汚れるという仮定を不快には思わなかった。これまで記憶の隅に埋めていたのは、そのせいだと考える。不快なもの、不都合なものほど記憶に残そうとするのが生命を構築するものの一つである。
    「虚淮、」
     名を呼ばれて顔を上げた。目の前を赤い煙が横切る。それから、見慣れた洞窟の岩肌の輪郭を捉える。己の棲家ではないものの、訪れない日の方が珍しい場所。虚淮は二度瞬いた後で声の出所へ両目を向けた。
    「風息、どうかしたの」
    「火の側に長くいて大丈夫か」
    「焚き火程度で溶け落ちるほど脆くはないよ」
    「それでも、こんなに近く、火にあたるのは珍しいから」
    「そうだね……」虚淮が風に煽られ、舞い散った火の粉の破片を指先で押し潰した。「考え事をしていたせいだ」
     考え事。風息が虚淮の発言をなぞりながら、焚き火を囲うようにかざされていた木の枝を一つ取り上げた。鋭く削られた先が鳥か、小動物か、握り拳ほどの塊を刺し貫いている。「食う?」「私は物を食べない」「知ってる」彼は気を悪くした様子もなく焼き色のついた肉にかぶりついた。
    「考え事って?」
     咀嚼もおざなりに彼は問いを続けた。飲み込みきれなかったためか、言葉を発したためか、口の端から油が垂れ落ちる。虚淮は隣に座る風息の顔へ指を伸ばし、その頬へこびりついた油を拭いとった。
    「昔、私の手は汚れると言われたな、と」虚淮は指の腹に浮かぶ不似合いな光沢を眼前に広げて見せた。
    「誰だ、そんな事を言ったのは」
    「お前の知らない者だよ」
    「なぜ、そんなことを?」
    「どうしてだったかは、とんと覚えていない」
    「覚えていないことの一部を、突然思い出せる?」
    「彼とは意味もなく時間を過ごすから、覚えておくのが難しいんだ」
    「難しい」風息は再び虚淮の言葉を繰り返しながら肉へ歯を立てた。そうすることで何かよいことでもあるのだろうか。虚淮は浮かび上がった疑問に心の内で笑いをこぼした。
     彼は虚淮の内心を知らぬまま「虚淮にとっては、俺とのことも覚えておくのが難しい?」と尋ねた。
    「そんな事はないよ。風息と過ごす時間は私にとって、きっと、重要だったから」
     重要。一体何が。言葉を放ちながら、そう考える。舌は思考に構わず回り続け、一人でに言葉を紡いでいく。
    「どんな瞬間だって覚えている」
     何が大切なのだろう。風息のことは確かに大切な弟分と言える。流れ行くままに訪れた森で偶然に出会っただけの幼い妖精ではあるが、今でもこうしてこの森に居座っている理由は彼がいるからに他ならない。故郷から離れた己に、もう一度故郷と呼びたいと願える場所を与えられたことは虚淮にとって大きな変化だ。けれど、それだけか。
     何かを忘れているような気がした。
     或いは、未だ知らないのか。 
     この存在が、いずれ大きなものとなる。予感のような胸のざわめき。
     今度は頬についた肉のかけらを指で払い、虚淮は「ゆっくり食べなさい」と言った。思考はその瞬間に打ち切られる。もう一度考えようという気にはならなかった。
    「私のような身体と違って、お前は食事から活力を得ることができる。無駄にするのはもったいない」
    「この鳥、俺が獲ったんだ」数秒をかけて口内につめた肉を飲み込み、風息が言った。「空を飛んでいるところを、初めて」
    「修行の成果だな」
    「虚淮は? 鳥を獲ったこと、ある?」
     自身よりいくらも幼い妖精の言葉に目を閉じる。焚き火の爆ぜる音に紛れ、唇の端で微笑みを作ってみせる。
    「いいや、ないよ」
     夜風の隙を塞ぐ森のざわめきの中に埋もれた言葉を拾い上げ、風息は胸を逸らした。「今度、獲ってきてあげる!」
     串に刺さった鳥は骨にこびりついた肉を残すばかりだ。虚淮はよく食べたと彼の頭を撫で、それから必要ないよ、と返した。
    「私に臓腑の類がないことは知っているだろう。無闇に生命を獲ってはいけない。お前が食べる分だけに留めなさい……力があるからと、必要以上に物を手に入れても、結局は無駄にするだけなのだから」
     風息は虚淮の角を見上げ、それから大きく頷いた。
    「虚淮に言われたことなら、俺もぜんぶ覚えておく」
    「いい子だ」
     頭を撫でながら、虚淮は唇をそっと緩めた。
    「そうだ、」串を火の中へ放り、風息が言う。「その時に見つけたんだ」
     彼は懐の内から一輪の花を差し出した。傍で小さな薪を得た炎が俄かに勢いを増し、一際大きく赤色を揺らめかせた。
    「リンドウと言うんだって」
     炎の眩さで、前が見えない。
    「綺麗だろう」
     掌に、花びらの柔らかな側面が乗せられる。感覚だけが、そこに。胸の内から取り出された一瞬、正しく瞬きの刹那に見えた影一つでは、本当に花であるかも分からない。それでも、虚淮はこの手渡された贈り物が花であると知っていた。
    「あげる」
     風息が笑った。
    「虚淮」
     眩しい。
    「□□□□□□□、□□□□□」
     何も、見えない。



    「それで君は、一体何のために龍游を襲ったんだね」
     投げかけられた問いに、虚淮はまず瞬きを落とし、次に自ずと湧き上がる微笑みを抑えようと奥歯を噛んだ。そのような事を今更聞かれるとは思わなかったからだ。予期せぬ衝撃を得た思考は、不釣り合いな感情をもたらすことで平衡を保とうとする。氷で再現した身体は表情の自由度では肉を持つ身体に及ばず、幸いにも、問いを投げた相手に虚淮の微笑が伝わることはなかった。
    「何か言ったらどうか」男が続けた。
    「てっきり、ここにいる皆はもうご存知かと」虚淮はそう言いながら、周りを見渡した。
     館の奥に作られた、罪ある妖精を捕らえるための空間。氷雲城。その一室にある大部屋の中央に、現在、彼は立たされている。
     檻から出されているものの拘束された身であることには変わりはなく、手枷に加え、彼の立つ足元から腰元までを柵に囲われていた。顔を晒させる目的か、上半身にかけて視界を遮るものはない。代わりに木目が見えぬほど多彩な術を織り込まれているようで、目で読み取れるものだけでも指で触れた瞬間に電気を流すもの、意識を奪うもの、思考を読むもの、と多岐にわたっている。彼をこの場所へ押し込んだ妖精が柵を開く一瞬に見せた躊躇いは、実に正しいものだったのだろう。不用意に触れれば、次の瞬間にあらゆる術がその身を襲う仕掛けが整然と組み上げられていた。
     部屋の方はといえば、天井は高く作られながら窓は一つもなく、その点も息苦しさを助長している。目の前には館の運営に携わる者たちが一列に座っていた。示し合わせたかと疑いたくなるほどに眉間に寄せたしわが並ぶ。その反対側、背後には見物客と呼ぶべき妖精たちが幾らか足を運んでいるようだった。尤も、この部屋に入ってから背後を向いたことはないため、どれほどの妖精が訪れているのかは分からない。
    「先からずっと黙ったまま、何を分かってもらえると言うんだね」男が虚淮を睨み付けた。俄かに腰を浮かせている。
    「私たちの望みは、もう知られているでしょう」
     虚淮は答えながら、眼前にいる男を見た。しわのない濃いグレーのスーツ。執拗に撫でつけた白髪混じりの前髪。鼻先に乗せられた金属縁の眼鏡。その他男を構成する物を見やりながら、妖精には珍しいタイプだと考えた。否、妖精であるとも限らない。少なくとも虚淮の知る限りでは、権威や力を装飾で示したがる傾向は、人の方によく見られるものだ。館が人の社会と通じている以上、この場に人がいてもおかしくはない。既に明らかになっているものを幾度も検めようとするのは、この男が人であるからではないかと考える。細かなことに執着するのも、どちらかといえば人に多い性分だろう。
    「今一度、説明を欲すると?」男が人であると仮定したところで虚淮の姿勢は変わらなかった。抑揚を抑えつけながら尋ね返す。男は眼鏡の縁を触りながら虚淮を見下ろした。
    「風息一派の行動理由ではなく、こちらが聞いているのは、君個人の動機だ……それに、何だ、罪人であるのならもう少し態度をだね……」
    「残念ながら、私は人ではないよ」
     男が俄かに額を赤く変える。隣に座っていた見知らぬ妖精が見かねたのか、スーツの袖を引き、何かを囁いた。男は一度大きく息を吐いた後で、握りしめた拳を静かに机へ打ち付けた。それから、黙ったまま席に腰を下ろす。
     沈黙が場を覆う。
    「虚淮」
     突然背後から名を呼ばれ、虚淮は初めて首を背後へ向けた。
     壇状に組まれた無機質な長椅子の殆どが強ばった表情を浮かべた妖精で埋まっている。声のあった方角へ目を向ければ、身体の大きな妖精が一人。その影から、二つの団子髪が突き出している。顔は見えない。傍聴席に座るものが誰であるのかを知るには、しかし、それだけで十分だった。
    「哪吒」
    「しょうもない意地を張らずに言ってやれ」
    「貴方に指示される謂れはないが」
    「どうせこの期に及んで新しく話すことなんざねぇだろ。それなら、何でもいいから少しくらい喋っておけ。せっかくの機会だ」
    「……一理ある」
    「百理だろ」
     哪吒はそれだけ言うと再び口を閉した。トレードマークと称する髪型が前に座る妖精の背後に隠れ消える。本当は見物客としての姿勢に徹するつもりだったのかもしれない。それでも声を発したのは、彼が正直な性分であるためか。虚淮と彼の間には、捕らえた者と捕らえられた者という関係性しか存在しないために、それ以上には考えることは難しく、元よりその必要はなかった。
     虚淮は口を閉し視線を戻した。一列に並んだ妖精たちの顔を見る。館の運営に携わる以上、虚淮を捕らえた執行人のことを知っているのだろう。中には息を詰めたような顔をした者もいる。
    「故郷に帰りたかった」虚淮は彼らの様子に構うことなく、一言を投げた。「改めて言う必要なんてないさ。ただそれだけだ」
     仲間たちは何と答えたのだろうか、と思った。脳裏に道を同じくした者の顔が過ぎる。阿赫、叶子。天虎。そして洛竹。彼らは一体何のために、戦ったのだろう。
    「それ以外には、ないのか」
    「それ以上が、必要な理由でも?」
    「だって、虚淮、貴方の故郷は……」一番端に座っていた妖精が呟いた。
    「随分と、私についてよく知っていますね」唇を動かした妖精の言葉を遮り、彼は言った。「だけど、それは今の私ではない」
     前を見つめ、しかし、誰に告げるわけでなく。
    「私は虚淮」
     遠い空の先にあるものへ言い聞かせるように。
    「龍游の、虚淮だ」
     天井のその先を見据え、彼は言い切った。
    「もう二度と、変わらない」
     大部屋が沈黙で満たされる。虚淮が召還されてからの時間において無駄な口を叩く者はいなかったが、その形ばかりの無音とは異なる、呼吸さえも潜められた沈黙。ただの一言で場の全てをうち鎮めた虚淮は、微動だにせず、代わりに「終わりでいいか」と尋ねた。「この場で何を言ったところで、私に課せられる罪と罰は変わらない。ならば、もう言うことはない。後は氷雲城で時を待つだけだ。心霊系の妖精たちによって私に危険はないと判断されるまでの、膨大な時を」
     誰も答えない。
     沈黙。
    「風息のためではないのか」
     部屋のどこからか、声が聞こえた。虚淮はそれまで震えることさえなかった双眸を見開いた。静かすぎる空間では、音の響きを捉えることは却って難しい。首を動かし、ぐるり、と部屋の中を見渡す。誰もが、口を閉ざしている。物言わぬ人形に囲まれているような錯覚。
    「私のためだよ」誰からの問いかも分からないまま、虚淮は答えた。
    「私は彼と出会って、私になった。ならば彼のある場所こそ私の故郷。私は私の故郷のために力を奮った。あの健やかな力を取り戻すためなら、何だって抱えてやれる。彼が傷付いても、私はもう一度、あの子に笑ってほしかった」
     そう、結局のところ、自分は己のために彼の影に従ったに過ぎない。虚淮はそう思考し、隠すことなく笑みを浮かべてみせた。 
    「私に鳥を獲ったことがあるかと尋ねた時のように」
     あの時、私にくれたもののような。
     美しく、健やかな姿を。
     取り戻したかった。
    「そうだ、あの時」虚淮は呟いた。沈黙の中で、自分の言葉も曖昧に溶け消えていく。言葉が音になっているのかさえ分からなかった。「何をくれたのだったのだろう」
     顔を上げる。眼前に並んだ顔が奇妙に歪み、捻れて見えた。天井から吊り下げられた電灯が瞳孔に重なっているせいか。
     眩しい。
     炎の揺らぎよりも均一な光が、却っていつかの炎を思い起こさせる。
     虚淮は天井へ手を伸ばした。
     一瞬の目眩。
     足元が崩れ落ちる。
    「あ、」
     地に足をつけるための氷が、その一息で溶け出し。
     崩壊。
     身体の向きが崩れ、倒れていくのが分かる。支えられない。身体を固めることができない。顔だけを動かし、虚淮は部屋の中を見た。
     誰もいない。
     人も妖精も、ただの人形に成り果て。
     彼らの頭に咲いた紫の花だけが、虚淮を見下ろしていた。



     肩を揺さぶられ、目を開けた。炎の赤に二度瞬きを落とした後で、濃い紫の輪郭が己の顔を覗き込んでいることに気が付いた。
    「大丈夫か?」
    「……風息」
     息を吐きながら、眼前にある名を呼んだ。風が静かに流れていく時の音によく似た名前だ。ゆっくりと呼吸を繰り返せば、彼の名を呼んでいるのか、ただ息をしているだけなのか、分からなくなる。
    「私は、眠って?」
    「疲れたのなら、部屋に戻った方がいい」
    「大丈夫だ」
     短く返された言葉に、風息は「そうか」とだけ返し、浮かせていた腰を再び下ろした。左手に持った椀をあおり、膝の上に抱える。日頃はしなやかに伸ばされた背筋が、炎へ身を寄せるように丸められていた。洞窟の岩壁を赤く照らす炎は煌々と灯りながらも、辺り一体を照らすには不十分だ。少し外へ目をやれば、視界は簡単に暗闇の中へ紛れ込む。薄暗いそれから逃れるつもりか、風息は真っ直ぐに炎を見つめていた。その背の奥に、肩を寄せ合い眠る二人の仲間の姿が見える。手から零れ落ちたのだろう椀がすぐ側に転がり、丸い影を作り出している。
     虚淮は立ち上がり、傾いた椀を地面に置き直した。
    「行儀が悪い」
    「二人を運んでやろう」風息が椀を置きながら言った。
    「火は消す?」
    「いいや……虚淮さえよければ、あと少し付き合ってくれないか」
    「かまわないよ」
     虚淮が答えを返す。風息があからさまに息を吐く。胸を撫でおろしたことを誤魔化したいのか、小さく頷くと天虎の腕を肩へ回した。強い揺れを与えてはいけないと、慎重に背に乗せる。虚淮も地面に伏したままのもう一人を抱え上げ、己よりも幾らも大きな身体を軽々と背負う姿を見上げた。
    「お前が洛竹の方でよかったのに」
    「バランスの問題。俺の方が背は高いからな」
    「確かに、随分と大きくなった」
     小声で言葉を交わす。風息が少し頬を緩ませた。それを見て、己の頬も緩んでいると知る。もしくは虚淮が笑っていたから、彼も笑ってくれたのか。灯りに慣れた視界にあって、輪郭は曖昧に線を引かれる。はっきりとは見えないその微笑が、ひどく懐かしかった。ただ一つの責も、怒りも、自嘲もない、心の底から自ずと湧き出た笑み。
     彼は出会った頃からよく笑う妖精であったことを、不意に思い出した。笑い、怒り、泣き、それを真っ直ぐにぶつけることが得意だった。幾度となく虚淮は彼の泣き言に付き合わされたし、怒りのまま向けられる無数の枝を叩き切り続けたこともあった。恐らく、未だ虚淮の方が腕が立つ頃だったのだ。いつから、彼の笑みに複雑な色が織り込まれるようになったのだろう。この島を見つけてからも、少なくなったと言えど、無垢に笑っていることもあった。それなのに、なぜ懐かしいと思えたのか。懐かしいと、感じたのは誰か。思考の隅で問いを投げる声がする。虚淮は記憶を振りきるように頭を上げた。
    「虚淮?」気の揺らぎを感じたのだろう、風息が呼んだ。
     彼は変わらず、微笑を浮かべている。虚淮は先を行く男の背を追い洞窟の外に一歩足を踏み出した。視界が一度に暗く沈む。代わりに夜空は眩いほどに明るく、天上を見上げれば星の光が銀色の渦を巻いている。
    「龍のようだ」
    「本当に。昔は龍游でもこんな具合に星空が見えた」
     星空へ近づこうとでもしたのか。風息が天虎を抱えたままで一足に岩を飛び上がって見せる。その後ろへ続きながら、虚淮は目を覚さない弟分たちに小さく溜息を向けた。
     彼らは火を焚くために使用している洞窟の近くに、皆好きなように寝床を置いている。虚淮は少し距離のある池の側を好んでいたが、洛竹と天虎は島の中でも指折りの大きな木の上と、根の隙間に分かれるだけだった。風息は木の根元に辿り着くと、入り組んだ根の中に生じた大きな空洞を覗き込んだ。藁屑か敷き詰められている上に天虎を転がし、首を二度回す。小気味良く響いた音を聞きながら虚淮も樹上へ飛び上がり、細い枝を編んで作った網状の敷物へ、抱えていた身体を横たえさせた。寝息の乱れないことを確かめてから、一息に枝を飛び降りる。風。それから衝撃。地面に着けた足から舞い上がる埃を手で払う。風息が手の中に伸ばした枝を消し、降ろしてやったのに、と笑った。
    「生意気」
    「昔、木の上から落ちて左足を折っただろう?」
    「あれは誰かが、鳥に攫われた挙句に木の頂上へ取り残された花の妖精を見つけて助けてやってくれと泣いたせいだと、そう記憶しているけれど」
    「あの時はまだ子どもだった。今だったら虚淮に頼らなくても、自分で助けてやれるさ」
    「……お前の頼みであれば左足の一つや二つ惜しくないということだよ」
     星灯の下を並んで歩く。背に抱える荷物がないために、風息は僅かに軽やかな調子で地面を蹴っていた。交わされる言葉も、心なしか軽い。会話を続ける内に洞窟へ戻れば、勢いを弱くした焚火の温度が肌を包見込んだ。星明かりに慣れた視界が再び眩む。虚淮は、いつの間にか定位置となっていた、炎から離れた丸太の上に腰をかけた。
    「こっち、座って」風息が火のそばに座り、隣を叩いた。龍游において最も強くあった者にしては幼い仕草。それでも腰を上げ、焚火に最も近い場所へ座り直す。近くなった気配に、肩を並べた妖精が小さく息を吐いた。
    「氷を火の側に置くと?」
    「この程度じゃ溶けないんだろう」炎の揺らぎを目で追いながら風息は言う。虚淮も彼の視線をたどり、炎を見た。赤く、風が吹き込むたびに根本から大きく舞い踊る。木が爆ぜると同時に飛び出した火の粉は虚淮の指先に触れると、すぐに灰へと姿を変えた。
     暫くの間、どちらも口を開こうとはしなかった。木の燃える軽やかな音と炎の揺らぐ気配だけが空間を満たしている。
    「虚淮、」
     風息の西風に似た声が、自然の中に混ざる。虚淮は炎から目を離し、彼の鼻筋を見た。
    「……見つけたんだな」
     目的語もなく、虚淮は返した。この島へ拠点を移してからの目的など、改めて確かめる必要もない。
    「ああ」風息が殆ど呼吸のような声で言う。「明日、会いに行くよ」
    「私は……不要か」
    「阿赫には連絡している。館に勘付かれるのは避けたいから、動くのは俺と彼の二人だ」
    「了解した」背を伸ばしたまま虚淮は続けた。「……話はそれだけ?」
     隣の男が微かに身動ぎ、膝の上に組んだ指を己の額に押し当てた。それから身をかがめ、赤い波に鼻先が触れるまで近付き、吐息で炎を揺らす。
    「洛竹と天虎には、まだ言わないでおいてほしい」
    「なぜ?」
    「子供だったんだ、領界を持っている者が」
    「洛竹と天虎には一先ず相応に接してもらいたい、と?」
    「俺は最悪を覚悟している。だから心の底からは向き合ってやれない……どんな形になっても俺が彼を利用することには、変わりないから。言い訳は、しない。だからこそ、始まりの時くらいは彼を心の底から望んで、助けてやりたいと示せる者がいてほしい。それがどんなに卑怯なことでも、それくらいは、せめて……」
    「万一を考えれば洛竹の種が必要だ。伏せられるのは、ほんの一時だぞ」
    「それでも、頼むよ」
     虚淮は風息の唇が震える様を見つめながら頷いた。そうする他に出来ることはない。
    「領界、か」一度口を閉し、代わりに囁くような声音で呟きを落とした。「貴重な力だな」
    「……今を逃したら、後はない」
    「お前の力と同じ、貴重な力だ」
    「そうだな。持ち主が少なく、力が強い」風息の鼻先で炎が揺れる。笑ったのだろうか。「だから恐れられる」
    「生まれついたものを否定することは誰にもできない」
    「……館の奴らには伝わらない道理だよ」
     握り込んだ拳を開き、宙へ翳す。大きな手の、その甲に浮いた骨が、木の根のように盛り上がっている。
    「だけど、これを使うか決めるのは、俺なのに」
    「確かにそれは恐ろしい力と目されるだけの理不尽な強さには違いない」虚淮ははっきりと言った。「反して自然から気を集めて生きるように、他者の力を借り受けることは摂理に等しい……お前はそれをよく知っているだろう。必要なものを、必要な分だけ、頂いて生きるのが生命だと。ならば、それをよく考えて使いなさい」
    「使うべきか?」
     風息が呟く。ほとんど、自問に近い声音。
     虚淮の指が手の甲を包む。温もりが氷の内に染み込み、溶け出すのではないかと錯覚する。
    「お前の持つ力だ。それを振るう権利は、誰にも奪えないものなのだから」
     風息が黙ったまま虚淮の方を見る。表情は判然としない。炎の影が濃すぎるせいだ。ただ、己の手はひどく冷たいのだろうと考えた。
    「ごめん」風息が頬を薄く持ち上げる。「こんなことを、話すべきじゃない」
    「風息」
     名前を一度。その先に続けるべき言葉が見つからないまま、虚淮はもう一度息を吐いた。「風息、」
    「虚淮は優しいから」
    「……優しくなんかない。私はお前を止めてやることも、手を引いてやることもできない」
     風息の臨もうとしている願いは、大きな賭け事だ。一か八か。成功する未来も失敗する光景も見えないほどに不確定な夢。深き淵へ身を投じようとする者の手を引いてやる方が、正しいと言われるのだろう。虚淮は、しかし、共に身を投げようと決めた。とうの昔に、その覚悟は根付いていた。それが風息のためではなく自分の願いのためだと、彼は理解している。理解しているからこそ、彼はたとえどのような道に差し掛かろうと、黙って従い続けたのだ。弟分だった妖精の助けになる道に背を向け、力を奮う事を選んだ。
     視界の端にある炎が小さくなっていることに気が付いた。焼べた木材がほとんど燃え尽きている。それでも眩さは変わらない。いつか二人きりの洞窟で見た火に似ている、そう思った。あの時はまだ二人だった。龍游に茂る森の真中で、飽きもせず肩を並べていた。思い出す必要さえない、明瞭な記憶。
    「だけど、」風息が表情を変えずに言う。「側にいてくれた」
     過去形。どうしてだろう。己は今も、彼の側にいる。風息と出会ってから、虚淮が彼の元を長く離れたことはない。それを、どうして。まるで終わったことのように話すのか。湧き出した問いに答える言葉はなく、虚淮は無為に重ね合わせた手を握りしめた。
    「大丈夫。私は今も、お前の側にいる。すっかり大きくなってしまったから、何もしてやれないけれど。それくらいの願いは、叶えてやれるよ」
    「……ありがとう」吐き出した先から言葉が息に消える。「そうだ、」
     重ねられた手を離し、懐へ。「さっき見つけたんだ」中から取り出した物を、もぬけとなった虚淮の掌へ握り込ませる。
    「あげるよ」
     柔らかい、そう感じた。いつか感じたことがあると思い出す。虚淮は正体を知ろうと掌を開こうとし、やがて、指が動かないことに気がついた。
     動かせないのではない。
     指がない。掌も、腕も。既に溶け出し、残っているものは柔らかな感触のみ。
     己から溶け出した水の中に、曲線が見えた。
    「あの時の、」
     呟く。
    「あげる」
     風息が囁いた。
     炎が眩しい。ただ一点の光に目が眩み、周りは影にのまれていく。
    「虚淮、ごめん」風息の声がした。
    「どうして」
    「虚淮を傷つけた……小黒と同じように」
     小黒とは誰だろう。己がどこにいるのか、判然としない。離島、森、いくつもの焚火が脳裏に閃き、思考を妨げる。
    「痛みを感じない、その言葉にずっと、甘えてきた」
    「お前の気にすることじゃない」虚淮は口を動かした。本当に言葉となっているのか、確かめることはできなかった。「私は、この傷さえも忘れたくないんだよ……お前との時間であれば。たとえ、どんなに痛くとも、覚えていたい」
     風息の姿がどこにあるのか分からず、虚淮は代わりに曲線を探した。視界は水の膜に浸されたように朦朧とし、感覚はすでに遠ざかっている。見えているのかさえ不明瞭。溶け出している実感だけがある。
     構わない。そう思った。このまま溶け落ちて、水になろうか、と考える。水はただ自然のままに流れて同じ道を巡る。何千年も続く、一貫した運動。流れ続けるものも、永遠に続くのであれば停滞と意味は変わらない。留まれば、変わらずにいられるだろう。そう望む心がある。変化も、変容も恐ろしくはない。人も、妖精も、何もかも変わらないではいられないのだと知っている。変わらないものは自然ばかり。雨水が川を流れ、海へ溶け、雲へと昇るように。木々が何百という年月に呼吸するように。
    「変わりたくない」
     虚淮は漠然と願った。
     生命ある限り、二度と、変わらないもののために。
    「側にいたい」
     深い森の、緑を湛えた香りが鼻先をくすぐる。目は眩み、視覚で捉えることはできない。ただ脳裏に豊かな故郷の景色が蘇る。鏡のように透き通った泉。その周りには苔むした岩が転がり、やがて乾いた砂になる。その上を小さな足跡が彩っている。緑は探すまでもない。あちこちに繁り、少し開けた日向で古い杉の木が陽を求めて葉を伸ばしている。
     いつか、遠く昔に言われた言葉を思い出す。忘れないように、記憶の中へ大切にしまっていた言葉。丁寧に隠しすぎて、取り出すことさえ難しくなっていたのだと、今更のように気が付いた。
    「側にいてくれて、ありがとう」
     豊かな森の景色。その中央に大樹が一つ。コンクリートを裂き、鉄筋を折り伏せ。ひたすらに天へ向かう。
     生き生きと伸びる枝葉を見た。



     目を開ければ、真白の世界に倒れていた。その正体は丸い大きな雪。空から絶え間なく降り注ぎ、地面に落ちては広い土地を白く変えている。横たわっているために、視界は天上の灰色を映す。しかし、背中にその気配がある。虚淮は未だ宙に在る白い花を掴もうと腕を伸ばした。
     花が突然動きを止める。
     揺らめき落ちていたはずの塊を正しく掴めば、指先によく知った温度が広がった。背を起こし、辺りを見渡す。白く、雪と氷ばかりが続く世界。他には何物も存在しない。息を吐けば、白い霞がたちまちに氷の粒へ変わる。風景に等しく、冷たい場所。此処はどこだろうかと考え、次に時間のことを思い出した。しかし、直ぐにその思考は流れていく。代わりに降り頻る雪を止めた。寒くはないが、肩に降り積もることを楽しむ心持ちにはなれなかったからだ。
    「お前の手は、いつか汚れるのだろうな」
     不意に風が運んだ言葉に、虚淮は二度瞬きを落とした。この空間に己しか存在していないことは、誰よりも彼自身が理解している。ここは彼の認識が全てを覆う場所だった。
    「お前は痛みを感じないくせに、大事だとする物への愛情が深い。その容赦のなさは美徳だが、危うい。向かう先が無くとも、或いは道の裏側へ続いていたとしても、お前は躊躇なく踏み出せるのだから」
     どこかで聞いた言葉だと考える。この場所は過去も未来もない。全ての空間と時間から離れ、絶対として虚淮に重なり続ける世界だ。物質と同じように、記憶も保管され得る。これはその一つだろう。どこに置いたのか忘れてしまっただけのこと。
    「私には、それほど恋しく思う者はなかったよ」
     虚淮が一人呟いた。現実にどう答えたのかは覚えていなかった。
    「秩序は、お前を相手にするには脆すぎる。しかし、お前が傷を得ないことはない」
     記憶はレコードを再生するように、淡々と流れ続ける。虚淮も構わずに言葉を繋げた。
    「ただ、譲れない想いがあっただけだ」
     それは信頼だったろう。
     それは執着だったろう。
    「その傷はお前の滑らかな手を汚したまま、癒えることはない」
     それは愛だったろう。
    「ああ、なるほど、」虚淮は空を見上げた。身体が浮き上がる。或いは、落下しているのか。「お前はそれをよく知っていたんだね」
     思えば彼が時を共にする仙人も傷を背負った者だった。だから知っていたのだろう。よく似た寂しさを見続けているからこそ、虚淮の踏み出す先を見据えていた。それを直接に伝えたのは、彼の優しさだ。虚淮も、彼も、互いの間に流れた記憶を留めない。だからこそ必要があれば取り出せるように、不要であれば埋もれたままであるように、彼は言葉を残しておいたのだろう。
    「そう。この傷を癒すつもりなんて、最初からないんだよ」
     目を閉じる。
     全てが終わったと知った時から。変わることを拒んだのではない。失くしたくない物が、あっただけのこと。
    「だけど、直らないものならば、怖くはない。町も人も妖精も、変わっていく中で変わらずにいられるのなら、」
     目を開く。
    「私は、また流れていくだけだ」



     視界が歪んでいた。
     川の中に溶け出した時に似た風景。光と影が無秩序に跳ね返り、空間を歪ませている。しかし、流れはない。出口のない池の中であっても風は渦を作り、水は常に流動する。その微かなざわめきが、ここにはない。水槽に張られた水のように停滞した、退屈な沈黙だけがあった。ただ揺蕩うばかりの神経を意識すれば、本当にガラスの壁が四方に張り巡らされていると分かる。氷を纏わない身体には境目もなく、指を伸ばす必要もなかった。
    「起きたか」男の声がした。
     虚淮は双眸、水に融解した身体では直接の器官とは呼べないが、物を見るための神経をガラスの奥へ向けた。
    「諦聴?」
    「そうだ」
    「どうしているの?」
    「偶然」
    「そう」虚淮はそれだけ言うと唇を閉し、やはり口のないために水の震えとしか表れなかったが、直ぐに唇を開けた。「あれから、どれくらい経っている」
    「二年と、三ヶ月」
    「それしか?」
    「これだけ経っている。館の妖精が頭を抱えていたぞ……連れて来た途端に溶けてしまうから、どうすればいいか分からないって」
    「それで諦聴を呼んだのか」
    「いいや。私は館には直接関わらないから……一年くらい前に様子を見にきたらお前が大きな水槽に溶け出していたので、それから数ヶ月おきに顔を出していただけ。館の者には生命はあるのだからほっておけと伝えておいた」
    「……笑っただろう」虚淮が睨む。水面から小さな波が立ち、波紋を広げた。「私の姿を見て」
    「館の妖精があまりに困惑していたからな」
    「困惑でも何でもすればいいさ」
    「どうして、目覚めようと?」諦聴は顔色を変えずに尋ねた。虚淮の感情の方向には興味がないのだろう。何を嫌い、疎もうと彼と虚淮の間に流れる関係には影響を及ぼさない。
    「眠っている間に、色々思い出した……風息と龍游にいた頃のことや、あの島へ身を寄せていた時のこと。捕らえられて、話をさせられる夢も見たよ。現実か、未来か、分からないけれど」
    「悲しみと向き合うために必要なのは時の連続性ではないよ」
    「それから、」
    「それから?」
    「諦聴に言われたことを思い出した」
    「私が言ったこと?」
    「私の手は汚れる、と」
     諦聴は首を捻り、それから小さく「記憶にないな」と呟いた。
    「そうだろう。私だってお前に言ったことなんて覚えていない」
    「そうか」諦聴は軽く頷き、それがどうしたのか、と尋ねた。
    「どうもしない。ただ、思い出しただけだよ」
     諦聴はもう一度「そうか」と呟く。いつからかひどく控えめな表情を浮かべるようになった頬が微かに緩み、唇は確かに弧を描いている。安堵。そう呼ぶに相応しい微笑。細やかな笑みにつられるように、虚淮も顔の筋を動かそうとし、すぐに己の姿を思い出した。水の中にあっては表情一つ作ることもできない。外へ出なければ。そう思考する。水中へ広がっていた霊質の糸を束ねていく。絹糸を紡ぐように、丁寧に。水槽の前に立つ者の言葉が正しければ二年も行使していなかった術であるにも関わらず、呼吸よりも容易に気を操ることができている。そう実感する。むしろ、以前よりも自在。なぜだろうか。生命の芯へ流れ込む気が収縮し、次の瞬間には凍り付いていく。瞬く間に固まっていく氷が人の身体を模した四肢を伸ばす。
     やがて、薄氷のような爪が水槽の縁にかけられた。
     生物の肌よりもいくらか青白い顔が水面からゆっくりと浮かび上がる。
    「見事なものだな」
     諦聴は久方ぶりに整えられた虚淮の顔を見やり、微笑を浮かべたまま目を合わせた。虚淮は諦聴の言葉に応えることはなく、水槽から上半身を持ち上げた。続けて足を水槽の外へと出し、ガラスの縁に腰をかける。精霊魚の気配を辿ろうと息を吸い込み、すぐにこの場所が牢の最奥であることを思い出した。
    「それじゃあ、私は行くよ」
     諦聴がそう言いながら背を向ける。次の瞬間には既にいつもの仏頂面へ戻っているのだろう。そういった切り替わりを瞬時に行うことができるのだ。
     彼は分岐のない廊下を二、三歩進み、一度振り返った。少し離れた場所に浮かぶ表情からは、やはり、笑みが消えている。
    「そうだ」彼が檻の前にいた時と同じ大きさの声音で呟いた。
    「写真」
    「写真?」虚淮が繰り返す。
    「土産として持ってきていたんだ。全部ベッドの上にあると思うから、気が向いたら見て」
     諦聴はそれだけ告げると、今度こそ振り向かずに廊下を歩いて行った。突き当たりで左に曲がれば癖のある髪が見えなくなる。足音さえも届かなくなった頃に、ようやく虚淮は部屋の中を見渡した。水槽の影に一つ、ベッドが置かれている。木製の、台にただ布を何枚か重ね敷いただけのそれは、ひどく簡素な様相をしていた。その薄汚れたシーツの上に、確かに、幾らかの紙が無造作に置かれている。
     虚淮は水槽の縁から床へと飛び降り、ベッドの方へと近付いた。石でできた床の感触が足の裏から伝う。久しく感じていなかったその硬さに、徒らに足を踏めば、打ち付けられた踵に微かなひびが走った。痛みはない。代わりに今ここにあるものが現実なのだと実感する。失くしたものは失くされたままに。残された生命だけが息をする世界。
     虚淮はベッドの上に散乱した写真を一枚手に取った。
     大きな木が一つ。
     軽く眺めやり、次の一枚へ。次、また次と手を伸ばす。どれも大きな変化はない、同じ場所から撮られたのだろう角度で、大樹が写されている。これらを残した彼はただ一枚ずつの写真を重ねていったのだろう。下に行くにつれ、空の色が淡く変わる。時の経過に逆らえず、写真の色彩が僅かに滲んでいる。それでも季節が移り変わっていることは理解できた。
     春の若葉に揺れる影。夏の夕立に聳える幹。夕暮れに溶け出した枝葉。雪に覆われた木の根。全て、そこにある。虚淮は悲しみを整理するまでの二年の姿を捲り、やがて小さく息を吸った。氷の身体であれば、本来不要な行為。それを真似ることに意味を感じ始めたのはいつからだっただろう。
    「…………風息」
     吸った息を吐き出すと同時に言葉がこぼれ落ちる。
     最後の一枚。
     青々とした空の中に立つ緑の木。まだ周りにはコンクリートの破片を残しながら、既にその場所が自然の姿へ還ったのだと分かるほど柔らかく、勢いに満ちた繁り。
     その大木の根元に一輪の花が咲いている。
     紫の、曲線。
    「リンドウ」
     花の名を呼ぶ。いつか、遠い昔、或いは極めて近しい記憶の中で、彼がくれた紫の花。ようやく思い出した、花。季節も知らずに彼の足元へ咲いたリンドウの姿を眺め、虚淮は静かに目を閉じた。
    「風息」
     廊下の奥から足音が近付いている。彼の目覚めに気が付いた妖精たちが駆け付けているのだろう。虚淮は写真を伏せて、ベッドに戻した。
    「ずっと、お前の側にいるよ」
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/11 0:12:50

    溶けて、流れて

    #LXH
    別サイトからの移転です。
    初出:2021年1月29日

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