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    しおり
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    しおり
    変わり行くもの、変わらざるもの 杯が掌から落下した。陶器が床と衝突し、破片と飛沫が散乱する。しかし、宴会場にいた人々の耳目を集めたのはむしろ不躾な響きよりも音もなく立ち上がった黒衣の青年だった。
     彼は向けられた視線を意に介すことなく悠然とした素振りで前に進み出ようとし、中途半端に持ち上げた足をその場と下ろした。
    「魏嬰」
     視線を落とせば、掴まれた右の手首が見える。
    「魏無羨」
     視線を上げれば、胸の前には鞘へ収められたままの剣が一振り。
     自身の歩みを引き止めるものを交互に見やり、彼は軽く微笑みを浮かべた。人好きのする、どこか慕わしげな、この場にはおよそ似つかわしくない穏やかな笑み。反して引き止める二人の頬は隠されることもなく強ばっている。
    「藍湛、」魏無羨が唇を尖らせながら言った。表情を取り繕うだけの余裕があると示すように。「江澄」
     左右に座した二人が無言のまま彼を見据える。およそ三秒。
     先に手を引いたのは江澄の方だった。眉を顰めながら鷹揚に剣を退け、わざとらしくため息を落とした。紫衣の上に乗せられた首が余所へ向けられた後で、ようやく藍忘機が手首を離す。魏無羨は掴まれていたそれを軽く捻り、もう一度微笑んでやった後で、正面を向いた。
    「姚宗主、今、なんと?」
     瞬間、笑みは霧散した。地を這うような声音が品のある賑わいを見せていた一室を沈黙にうち沈めていく。部屋の片隅で奏でられていた器楽の調べは息を潜め、中央で舞を披露していた踊り手たちは顔を俯けながら壁際へと押し下がる。誰一人として口を開くことはない。嵐の前の静けさ、或いは肉食獣が獲物を見定めるまでの瞬間に似た静謐だけが漂っている。彼は、己が作り上げた空気であれば当然、不気味なまでの沈黙を気にすることなく漫然と部屋の中を見回す。再び斜向かいに座る男へ視線を向けた。男は唇を戦慄かせながら手元の杯を覗き込んでいた。額には俄かに汗が滲んでいる。
    「ああ、いや、別に……」唇を戦慄かせながら、姚宗主は左手で二度ほど空を煽いだ。
     何を示している仕草だろうか。彼は小首を傾げ、しかし目線は逸らさずに男へ続きを促した。
    「魏先生にも、実のところ子のお一人くらいいらっしゃるのでは、と」
     話の始まりは宗主の一人が後継の話を持ち出したことだった。血筋を重んじる傾向の強い世家において、そういった話題は珍しいことではない。各世家の中には当人や子息に見合った、それは自らが選ぶ者だと示すための手段でもあったが、相手を探そうとする者も多い。時節に際して行われる会合が一種の交渉の場として機能をしている手前、よくある話題とさえ言える。そうした話題の枝葉はやがて後継に纏わる話となり、盛んに世辞が交わされるものだった。
     それは、この場においても同じこと。話を弾ませた宗主たちの矛先はやがて、沈黙を貫いていた歳若い宗主らへ向かい始めた。はじめは江氏宗主たる江澄、続けて聶氏宗主の聶懐桑。宴の度に繰り返されるやり取りに、前者はその暇はないと跳ね除け、後者は知らぬ存ぜぬを押し通す。彼らの変わり映えのない答えに不満を覚えた宗主の一人が、やがて好奇を抑えないままに「夷陵老祖はどうであるのか」と呟いた。過去の所業について幾らかの見直しがされたと言えど、邪道を修め詭道を開いた天才であることには変わりがない。世の中における畏怖の対象であると同時に力への羨望を抱く者も少なからず存在する。つまり、良くも悪くも好奇の的になりやすい。その「夷陵老祖」ついて人より詳しいのだと示すように、当人が口を開くよりも早く、姚宗主は幾つかの噂を披露した。或いは、大人しく座っていた彼の存在を忘れていたのかもしれない。仙督の客人としてのみ世家との関わりを保ち続けている彼は、滅多なことでは公的な場に顔を出そうとはしなかった。
    「そう、まずはそんなことを言った」彼は人差し指を立てた。「その後は、なんと?」
    「昔、魏先生が……その、よく女性に声をかけているとの噂もあったし、何より、」姚宗主は目を逸らしたまま細々と呟いた。「乱葬崗には、温氏傍系の女がいたはずだ、と」
    「よかった。俺の聞き間違いじゃない」魏無羨が指先で宙に円を描きながら言う。軽い口調に反して、視線は固く、逸らされることはない。「つまり姚宗主は、子を成すようなことがあったのではないかと仰られたわけだ」
    「あ、いや、ただの噂で……」
    「噂?」
    「あの、それは、」
     再び口籠る宗主の姿を鼻で笑い、彼は首を振った。「ああ、別に言わなくとも結構だ。それくらいは想像がつく」
     魏無羨は一人立ち上がったまま、周囲を見渡した。宴会の空気はどこまでも重く沈み、先の見えない池の底を覗くかのような顔が並んでいる。気を使うような視線よりも、場を乱す者への控えめな嫌悪、もしくは困惑が滲む者たちの方が多い。一方でその眼差しを直接ぶつける者はいない。なるほど、人間の性質とは一朝一夕には変わらないものであると、魏無羨は静かに息を吐いた。
    「お前たちは生涯知ることもないだろうが、あの場所は誰もがその日を生きるために生きていた。老人も、子供も、等しく生き延びるための協力者だった。加えて、記憶が確かなら、乱葬崗は俺の死後に随分荒らされていたという話だが」
     姚宗主は周りの宗主らへ援護を求めて視線を彷徨わせながら、虚勢じみた笑いをこぼした。弱々しいそれは魏無羨にまとわりつく気迫を打ち払うには足りず、ただ広い空間へ響き渡った。誰もが息を吐くことさえ恐るほど、凍りついた静寂だけが名残のように漂っている。
    「ああ、違う違う」恐怖、あるいは忌避の渦巻く空気を吸い込み、魏無羨は俄かに頭を振った。
    「別に怒ってるわけじゃない。俺についてなんと言おうと、噂を立てようと構わないし、それは勝手にしてくれ。だが誇りを持って生きた人間、つまり既に死んでいる人間に対して勝手な噂を立てることが義に適うのか? それに姚宗主が話題にしたことは互いにとって……控えめに言えば、あまりいい記憶じゃないのではありませんか?」
     最後の言葉だけを問いかけに変えて彼は言った。あくまで互いを思っているのだと知らしめるような丁寧な口調だった。夷陵老祖の評価が揺れているように、乱葬崗の討伐もその評価は不明瞭なまま、是非の判断を避けることは暗黙の了解となっていた。
     苦い顔を浮かべるばかりの姚宗主は、返事を寄越す代わりに曖昧に頷いた。藪を突いて蛇に噛まれたことを後悔しているのだろう。少なくとも今は、彼に対しては、何も言いたくないのだと言わんばかりに手元の杯をいじり回している。男の曖昧な態度を一秒だけ眺め、魏無羨は目端に込めていた力を抜いた。話は終わりだと示すつもりで、両手を軽く広げる。そのまま身体の向きを変え、自席から離れた。
    「魏嬰」
     狂いなく並んだ机の隙間をすり抜けようとした矢先、手首が再び捕らえられる。誰の手であるかを確かめるよりも先に呼び慣れた名が口をついて出た。
    「藍湛」
    「どこへ」
    「外の空気を吸いに行くだけだ。この場に俺がいても良いことはない」
    「付き合おう」
    「藍湛」やや間延びした言い方で魏無羨が言った。「まさか、この場で仙督が席を外すって?」
    「構わぬ」
    「構うだろ」
    「構わぬ」藍忘機が繰り返す。
    「仙督として構わなくても、お前、周りは構うだろう。第一、俺は今回末席に呼ばれただけの人間だ。それを連れだと言い張って傍らに席を用意させた挙句、ただの連れでしかない俺に付き合って出て行くのか?」魏無羨が軽く息を吐いた。「含光君、いつからそんな我儘になった?」
     藍忘機は唇を結び、真っ直ぐに魏無羨を見据えた。手首は依然として掴まれたまま、離される気配もない。魏無羨は至極真面目な表情の男へ自ずと微笑みを向けると、空いている手で無為に鼻先を擦った。「あのなぁ、」
    「含光君」
     二人の他に誰もが口を閉ざしている中で、雷に似た鮮烈な声音が空気を裂いた。魏無羨が言いかけた言葉を飲み込み声の方へ視線を向ければ、顔を背けたまま口の端を歪めた江澄の横顔が目に留まる。彼は向けられる視線に気付きながら、却って不服を押し隠そうともせずに言葉を続けた。
    「その男はこういった宴会を中座する趣味があるだけだ。出て行きたいなら勝手にさせては如何か?」
     藍忘機は声の主を見やることもなく、言葉を返す素振りも見せず、ただ魏無羨だけを見据えている。
    「江澄の言う通りだ。それに知ってるだろう? 俺はこういう場に長く座っているのが苦手なんだ」
    「…………」
     唇を結んだままの男を嗜めながら、魏無羨は彼の双眸を覗き込んだ。視線が絡まり、二秒。手首を覆っていた圧力が離れていく。強い力ではなかったものの長く掴まれていたせいだろう、血が巡り出し指先に微かな痺れを走らせる。感覚を確かめるように一度手首を回す。彼は今度こそ机の群から抜け出した。
     部屋に詰め込まれた無数の人間は、彼から目を逸らしながらもその動きを見逃すまいと視線だけを向けていた。蛇を警戒する蛙に似た視線。それらから逃れるように背丈の何倍にもなる大きな扉を手で押しやり、一人分の隙間へ身を滑り込ませる。一瞬、部屋の中を振り返れば、白皙の横顔が歪みなく正面を見据える姿が目に入った。

     宴会場の外は先までの息苦しさと打って変わっていた。人手のほとんどが宴会に駆り出されているためか、廊下には人影一つ見当たらない。魏無羨は足の向くままに進路を決めると、初めて訪れた屋敷の中を大股で歩き始めた。五大世家、今は四家に数を減らしたが、それらの屋敷に比べれば質素な造りが主人の力を示している。元々小さな世家で、清談会の主催者になるのも初めてだったという。少しでも家の良さを見せたいと、悪名の払拭されきらない夷陵老祖にまで声をかけたのだろう。尤も本来ならば出る必要もない場へ気紛れに参加をしたのは、この土地の酒が有名だったからにすぎない。それでも、招待されておいて結局は場をかき乱してしまったことに、少しばかり申し訳なさを覚えている己も存在した。酒を味わうこともなく席を立ったのは、その僅かな罪悪感のせいだった。
     雲深不知処のような壮大さとも、蓮花塢のような華やかさとも違う。金麟台のような絢爛さとも不浄世のような無骨さとも違う。目に驚きはないものの、清潔さを取り柄にした廊下を進む。日の差し込む角度がよく計算されているのか、程よく溶け込んだ陽光が暖かい。漫然と道なりに歩いて行けば中庭に面した吹き抜けへ突き当たった。そのまま欄干に腰をかけ、丁寧に切り整えられた庭木を見上げた。
     柔らかな風に枝葉の影が揺れ踊る。
     雲深不知処の数百、数千に上る木々の騒めきとも、蓮花塢の水面を滑り行く流れとも異なる。
     心地のよい囁き。
     目を閉ざし、音に身を委ねる。
     微睡。
     瞼の裏で、光の粒が明滅する。
     魏無羨はその繰り返しを眺めた。時には赤、時には緑と色彩さえ不規則に出現と消失を繰り返す。ただそれだけのことであったが、宴会場で繰り返される無意味な、世辞と愛想ばかりに覆われたやり取りよりはよほど有意義だ。少なくとも、光を眺めている間に新しい法術の着想を三つほど得たし、その内の一つは確実に実用化することができるだろう。
     前方向から足音が聞こえてきた。瞼を持ち上げて音の方へ視線を向ける。欄干から腰を下ろし、柱に背を預ける。柔らかな日差しが、いつの間にか、鋭角より突き刺さる斜陽に変わっていたことに気が付いた。
     廊下の影から白い布が現れる。続けて足音の主の身体が角を曲がり、現れる。彼の姿を目に止め、滑らかに足を止めた。
    「魏嬰」
    「藍湛」魏無羨が背を伸ばした。「宴会は終わりか」
    「最低限の責務は果たした」
    「それは何より」
    「お前は、こんなところで何を」
    「んー、まあ、適当に歩いてたらいい感じの庭があったから眺めてた」
    「招待に預かったとはいえ他家の屋敷だ。好きにうろつくものではない」
    「はいはい、仙督様は真面目だな」
    「……部屋に」魏無羨から目を逸らさず、藍忘機が言った。「酒を用意してある」
    「酒?」
    「宴では口にしていなかった」
    「ああ、まあ。楽しむ前に退席したしな……まさか、藍湛。わざわざ酒を用意させたのか? 俺のために?」
    「この地の酒が楽しみだと言っていたが、違ったか」
     藍忘機の言葉に、魏無羨の口が開いたまま停止した。つまり、驚いたのだ。
     目前の男が己の発言を覚えていたことに対してではない。
     死に別れ、奇跡と呼ぶべき再会を果たし、共に過ごすようになって数ヶ月にもなれば、藍忘機という男は恐ろしく記憶力が良いのだと理解をしていた。そして、その優れた記憶力は己に対してより熱心に収集を行なっているのだということも。彼は己がかつて、時には死別する前に零した些細な一言でさえ容易に掘り起こす。当人自身も覚えていないために嘘か誠かを見抜くことはできないが、彼の言葉を疑う理由も魏無羨の中には存在しなかった。
    「蓮の実も用意してある」無表情のまま、藍忘機が付け足した。
    「蓮の実まで!」耐えきれない、と魏無羨はついに吹き出しながら繰り返した。「それは姑蘇から?」
     藍忘機が頷いた。「持ってきた」
    「ここに集まった人間誰に尋ねても信じないだろうな、まさか、含光君が酒のつまみを持参しているなんて」
    「私の物ではない、お前の物だ」
    「細かいことは良いだろう。お前が用意したことに変わりはない」
     藍忘機はその言葉に納得したのか、それとも下らなさを覚えたのか、それ以上言葉を重ねることはしなかった。代わりに一人ゆっくりと歩き出す。傾いた日がちょうど彼の姿にかかり、白い衣が赤く染まる。
    「藍湛!」
     柱から背を離し、黒衣が一足跳びに彼の横へ並んだ。名前を呼ばれたことで、藍忘機の顔が向けられる。何事か、と問うやうに口の端が微かに歪んでいる。魏無羨は鼻の先を指で擦り、そして、瞬きを二度繰り返した。
    「ああ、うん、何でもない」唇の両端を持ち上げて、完璧な微笑みを作る。「部屋に戻ろう」
     その隙のない笑みを三秒ほど眺めた後で、藍忘機が口を閉ざしたまま頷いた。

     仙督のためにと用意された客室は慎ましやかながら、部屋の隅まで何度も手入れをしたことを伺わせる清潔さに満ちていた。指の腹で机の上を撫でたところで、埃ひとつ舞うこともない。花器に生けられた花は水々しさを湛え、仄かに甘い香りを立ち上らせている。
     先に部屋へ入った藍忘機は机の前に腰を下ろし、側に並べられていた浅黒い色の甕を取り上げた。机の上には杯と茶碗が一つずつ置かれている。迷うことなく杯だけを取り上げ、彼は酒甕の栓を開けた。巻物の紐を解く時と変わらない、丁寧な仕草。魏無羨は向かい側に座り、その様子を眺めながら口の先で小さく息を吐いた。
    「何だ」藍忘機が手元を乱すことなく尋ねた。
    「いいや。含光君は酒を用意する姿さえも一種の気迫があるなぁと思っただけだ」
     ちょっとした儀式のようだ、と揶揄うように笑う。向けられた言葉に表情一つ変えず、藍忘機は酒甕の中身を器に注ぎ込む。沈黙の中で、陶器から液体が溢れ出す小気味良い音が軽妙に響いた。目前の男の機嫌のようだと考え、口に出そうとしたところで、杯が差し出される。魏無羨は微笑みを浮かべてから、艶やかな器を受け取った。
     酒は落下の衝撃を残したまま、僅かに水面を揺らしていた。鮮やかな赤色が波を打つ。無骨な甕からは想像もつかない鮮やかな色彩。水面に渦巻く運動の名残が収束するのを待ち、魏無羨は器を鼻先に近づけた。
    「果実酒か」
    「この辺りでよく採れるものだと言っていた」
     酒に関する返答があるとは考えていなかったのだろう、魏無羨が意外だと言わんばかりに瞬きを落とした。
    「栽培しているのではなく、自生したものを使用するそうだ。だから毎年出来に差が生まれる。良いものができればその一年は祝福され、悪いものができれば来年の成功を祈り精進する」
    「今年は?」
    「よく出来たと言っていた」
     その言葉を待たず、魏無羨は器を一息に傾けた。受け止めきれない雫が端から溢れ、胸元を汚す。透き通った赤に濡れた口元を手の甲で拭い、彼は一言「上手い」と言った。
    「そうか」空いた杯を酒で満たしながら、藍忘機が呟いた。
    「……そんな顔で見るな」注がれた酒を、今度は自ら揺らしながら眉を顰める。
    「どんな顔だ」
    「睨めっこで子供に向けたら一秒と持たず泣き出されるような顔」
    「お前は何か言いたそうな顔をしている」
     杯の中身を半分ほど飲み干し、それから、魏無羨は「よく見てるな」と口先で笑った。
    「無理に尋ねる気は無いが、」
    「お前に尋ねられて嫌なことはない」
     答えないことはあるが、と続けながら彼は藍忘機の手元に置かれた酒甕を奪い取った。杯に残った半分をそのままに、甕に直接口をつける。その不作法に文句はおろか表情一つ動かさず、それは藍忘機という人間からは考えられない寛容さであったが、懐から取り出した手拭いで口元から溢れた酒を拭おうと腕を伸ばした。魏無羨はされるがまま眼前の男の行動を眺めていたが、やがて、伸ばされ腕を押し留めると再び酒甕を傾けた。今度は一滴も溢れることはない。大人しい飲み方をする。
    「今日は思い出してばかりの一日みたいだ」
    「何を」
    「昔を」
    「……それは、つまり、」単語を一つ一つ区切りながら、藍忘機が言った。「乱葬崗か」
     頬を引き攣らせた顔で、頷きを一つ落とした。微笑みにも、苦笑にも見える複雑な表情。或いは、そのどちらでもあるのかもしれない。目の前の男にはどちらに映るのか、と魏無羨は考える。己は、どちらのつもりで表情を作り上げているのだろうか、とも。
     乱葬崗という土地の話を魏無羨は進んで語らない。正しくは語ることができない、と言って良いだろう。幸いなことに、それが楽しい記憶でないことは明らかであり、その話を聞きたがる者は滅多にない。彼が当時の記憶を話さないことについて訝しむ者もなく、口を閉ざしたところで問題もない。
     しかし、何も当時の記憶に蓋をするためだけの沈黙ではなかった。
     人生で最も過酷な日々。
     汚辱と泥濘で耐えるように息をするだけで精一杯だった日々。
     けれど、それだけではない。そこには彼の守った者と彼を守ろうとした人々がいた。打ち捨てられた場で、息を殺して生きていた者たちの心は、あの場所にいた彼らだけのものだ。誰であろうと、己の全てを見せた知己が相手であろうと、あの日々だけは分かち合うことができないという確信があった。理解を示し、共感を覚えることはできるかもしれない。しかし、理解を求めているわけではない。共感など、最も無意味。かつての過酷さと温かさは彼にとって唯一と言える、誰にも委ねることを許さない記憶。
     すなわち、今を生きる己では、容易に立ち入ることのできない記憶である。
     あの時の自分は、もう死んでいる。ここにいるのは新たな自分。昔と今は、魏無羨の中で連続してはいない。
    「宴会でお前が怒ったのも、」藍忘機が静かな口調で尋ねた。「そのためか」
    「……まあ、そうだな」
     喉奥から絞り出すような声が響く。白皙の男のまなじりが細められた。
     不意に、藍忘機が卓上へ手を伸ばした。酒甕、花器、その他何のために置かれているのか分からない装飾、そう言った物々の中から迷わずに杯を選び取る。器の内に半分ほど残されていた赤色が俄に波紋を広げていく。魏無羨がその手を押さえるよりも早く、彼はそれを喉奥へ流し込んだ。
    「…………」
    「藍湛!」魏無羨が双眸を見開いた。「酒を飲むなんて、一体、どういうつもりだ」
    「明日には残らない」
    「杯にたったの半分だからな。いや、違う、そうじゃなくて」
    「酒ではない」黒目を微かに漂わせた藍忘機が、ゆっくりと続ける。「記憶だ」
    「それも知ってるって。一体どういう風の吹き回しだ」
    「思っていることを言えばいい」
    「……それは、つまり、」魏無羨が酒甕を手の中で揺らした後で酒甕を机の上に戻した。「安心しろってこと?」そのまま頬杖をつく。向かいに座る男が頷く様子をを眺め、やがて、瞼を伏せた。
    「宴会で温情とのことを言われて腹が立ったのは、別に下衆な邪推をされたからじゃない」喉奥から迫り上がるような低い声で、魏無羨は語り始めた。「そういうことを思ってる奴がいるだろうとは想像ができるし、根も葉もない噂だ。わざわざ腹を立てるほどでもない。ただ、彼女の矜持を面と向かって貶められて黙っていられるほど俺は甘くない」
    「矜持?」半ば茫洋とした瞳で、藍忘機は魏無羨を見据えている。大人しく座っているのは、魏無羨の話を聞くことが、彼にとって今最もしてやりたいことであるからだろう。
    「乱葬崗では夷陵老祖が温氏を率いてたと語られるが、温氏をまとめていたのはずっと温情だった。姉だから、一族の長だからじゃない。元々誰かに頼ることを良しとしない性質だったんだろう。彼女は全部一人で背負って、守ろうとして……俺さえも数に入れていた。驚くべきことに」
    「……お前もだ」
     零された言葉に魏無羨は眉をわざとらしく寄せた。反応に迷ったと言わんばかりの表情。誤魔化しのつもりか、酒を一口流し込み、再び口を開いた。
    「俺たちは対等で……そう、確かに同じだった。守るべき数十人の一人か、救うべき数十人の一人か、せいぜいその程度の違い。彼女は俺が特別だから頼ったわけでも、命を差し出したわけでもない。ただ、そうすべきだと判断したから、そうした。今ならそれが分かる。その在り方の強さも。それを世人の尺度で測られ、不当に決めつけられるのを見過ごすことは、誇り高い人間への侮辱に加担するようなものだろう。俺は何と言われても、もう気にならない。だけど彼女はすでに故人だ。どうしてそれを、馬鹿にし、貶められる? 温氏ならば何を言ってもいいと、女だからというだけで男に縋ったのだと言うのはこれ以上もない侮辱だ。当人を知りもしないくせに、どうして碌な人間ではないと決めつけられる?」
    「つまりお前は、温情の代わりに怒っていた」
    「それは、どうだろう」
     そんな資格があるのだろうか、と頭の片隅で呟く声があった。
    「……乱葬崗の日々は、大切だったか」
    「苦痛と同じくらいには」魏無羨は素直に頷いた。「大切にするしかなかった、というだけだったのかもしれないけど……ああ、でも、乱葬崗で過ごしていた時に温情が言っていたっけ。誰かを好きにならなくても、大切なものがあれば十分だと。だから俺も、そうだったのかもなあ」
    「今は?」
    「好きっていう言葉はよく分からないし、大切に思う者っていうのも分からなくなった。それでも、」魏無羨が鼻先を指で弾いた。「たった一人、特別にしたいと思える相手がいる」
    「そうか」藍忘機が頬を緩めた。「お前がお前として彼女の矜持のために怒りを見せるのは、親しかった者として当然だろう」
     己に向けられた悪意に怒りを返せない者たち。
     ならば誰が、その怒りを語り得るのか。
    「俺に、あの時を語る資格はあったと思うか?」魏無羨は尋ねた。
     魏無羨にとってかつての記憶は、忘れ去ろうにも酷く、忘れ難いほどに温かい。
     だから、決して忘れないように。
     誰にも全てから切り離された自分にさえも、触らせないように。
     大切な記憶を守り抜くために。
     鍵をかけ、道を閉ざした。
    「もう、俺の居場所じゃないのに」
    「無論」柔らかな口調で藍忘機が答えた。酔いが回っているのだろう。質問の意図を理解しているのか、ただ眼前の男を肯定するためだけの返事であるのか、魏無羨には区別ができなかった。向かい合った男が驚くほど酒に弱いことは承知していたし、現に会話ができているとはいえ、相手が確かに酔いの最中にあることは定まらない焦点が語っている。
    「何かを大切に思う形は一つではない」
     だからこそ、彼は魏無羨の望むものを容易に差し出してみせる。
    「それでいいのか」掠れた声音が落とされた。その裏で、安堵の色を写した吐息が溢れ落ちる。「ああ……うん。そうだ、今の俺にできることはそれくらいだな」
     嘘偽りなく、大切な人たちであった。それでも、彼らは全て過去の物だ。温情は温情として生き抜き、魏無羨は魏無羨として、今を生きている。もう同じではない。手にした果実酒も、かつて味わった芳香とは色も、香りも、何一つ重ならない。
     すべての物事は変わり行く。
     いつまでも、複雑な記憶の扉を開けておく必要はない。
    「藍湛」魏無羨はそう考え、唇で三日月を象った。「もう、大丈夫だ」
     二つの瞼を一瞬だけ閉し、ゆっくりと持ち上げる。頭の中で、錠の落ちる低い音が鳴り響いた。

     *
     乱葬崗の夜は静寂とは程遠い形をしていた。伏魔殿の周囲は人が暮らせるほどに開かれたものの、山の大部分は依然として魑魅魍魎の跋扈する危険な土地であることに変わりはない。彼らの怨嗟の声までを遮断する術はなく、その低く鬱々とした嘆きは伏魔殿にまで届けられる。元々風の強い土地でもあるのか、生い茂った枝葉の摩擦と重なれば、さながら嵐のようだ。とても安心して眠れる場所とは言い難い。霊となったものの声であるために、術の一つも操れない温氏の人々には届かないことだけは幸いと言うべきか。それでも魏無羨の耳には、寝台にいようと、外にいようと、彼らの声が滝のように絶えず流れ続ける。耐えられる夜は寝台で目を瞑りやり過ごし、耐えられない時は起き出して陳情を歌わせる。それ以外にこの場所で過ごす術はなかった。
    「魏無羨」
     己の名を呼ぶ声に、魏無羨は屋根の上で投げ出していた背を持ち上げた。それから笛を口元から外し、視線を下方へ向ける。微かな星影に浮かび上がる輪郭は声音から想像された通りの人物で、魏無羨は驚きを見せずに片手を振った。「温情」
     彼女は話しかけたきり、唇を結んだままで屋根の上に寝そべった魏無羨を見据えていた。ほとんど睨みつけているに違いない、と日中の振る舞いから想像し、魏無羨は静かに吹き出した。
    「何か用か?」
    「……そっちへ上がっても?」
    「屋根に持ち主はいない」
     温情は「そう」と平坦に呟き、日頃の足取りより幾分も軽く地面を蹴った。彼女の身体が宙に浮かび上がり、正確な弧を描いて屋根の上に降り立つ。医者を名乗る彼女もまた修行を積んだ仙門の人間であるということを、魏無羨は思い出した。
    「それで、こんな夜更けに何の用だ?」
    「……これ、」温情が立ったまま、森の方へ顔を向けた。「止められないの?」
    「驚いた」魏無羨が素直な口調で言った。「聞こえてたのか」
    「ええ。風のような雑然とした響きで、貴方と違って一つ一つ何と言っているかまでは分からないけれど」
    「俺に聞こえるものが分かるのか?」
    「私は医者です。貴方の状態くらい一眼で分かるし、その状態で平然としている理由の推測なんて、風邪を診るより容易。後は少し乱暴な思考だったけれど、貴方の反応を見る限り正しかったみたい」
    「かまをかけた?」
    「それが分からない者で医者を名乗る人はいない」
     彼女は魏無羨を見下ろしながら、おもむろに唇の端を持ち上げた。「ただ原理には、そう、興味があると言える」
    「残念、法術の範疇だ」
    「つまり貴方の領分」温情が眉を顰めた。「できることがないことくらい、分かってる」
     魏無羨は返事の代わりに軽く肩をすくめて見せた。彼女の言葉が嫌味ではないことは確かだったが、それでも、今の状況において法術を領分としている事実は重みを持ってのしかかる。温情もそれを理解しているのだろう。「現実として、という意味だけど」と言い訳のように付け加えた。
    「血を吐けるなら、診てあげられることもある。怪我をしたら、変わらず治療します」
    「気にしなくていい」魏無羨は口先だけで微笑んだ。「それから、これのことだが」言いながら人差し指を立て、宙に円を描く。「今はちょっと難しいな」
    「そう」温情が端的に頷いた。
    「結界を強くすれば声も届きにくくなるけど、そうすると出入りが面倒になる」
    「面倒って?」
    「具体的には俺以外が食べ物を探しに行けなくなる」
     彼女はその言葉にもう一度頷き、後から小さく首を振った。「無理なことなら構わない。休んでいるところを邪魔してごめんなさい」
     踵を返し屋根から飛び降りようとした彼女を、魏無羨が呼び止めた。
    「温情、」
    「何?」
    「時間はかかるけど、乱葬崗の怨念を少しずつ鎮めることならできるぞ」
    「貴方の負担が大きい」温情が言い切った。「人が暮らせば気が生まれる。中和なら、勝手に起きるでしょう」
    「自然に期待したら何十年もかかる」
    「そんなことにかまけているなら、阿寧のために力を使って」
    「……念のための確認だが、これを聞いてるのは君だけか?」
    「ここにいる温氏の皆は、気を捉える修行さえしていない只人」
    「つまり、自分だけが我慢をするなら問題ないと」
    「貴方も同じでしょう?」
    「全部一人で背負う気か」
    「それ、貴方にだけは言われたくないのだけれど」温情が額に皺を浮かべた。
    「ああ、まあ、それは、お互い様ってことで」
     彼女は無言のまま魏無羨を一際強く睨め付ける。彼は逃げるように視線を暗闇に向けた。数秒の沈黙。その隙を塗り潰すように波が強く押し寄せた。
    「なあ温情、」笛を掌で弄びながら魏無羨が沈黙を破った。彼女は瞬きで言葉の続きを促した。
    「人はなぜ、他人を好きになると思う?」
    「……話を変えたいわけ? それ、私に尋ねて意味がある?」
    「同じような思考をした人の意見は重要だろう?」
    「同じ?」温情はそう繰り返し、隠すこともなく溜息を吐いた。「そもそも、質問の内容から意味がない。答えるに値しません」
    「意味?」今度は魏無羨が繰り返した。
    「好きになるという行動を理解している人に聞きなさい」
    「師姉に聞いたことがある」
    「彼女はなんて?」
    「そんなことも分からないなんて、一歳だって……どう思う?」
    「どうも思わない。不必要なものを、いちいち気に留めたりしていられない。けれど、それを必要とする人のことを否定はしません」
    「江澄が、君に好意を向けていたことを?」
     温情が俄に目を見開き、それから目を伏せた。「それが?」
    「何故なのか、考えただろう」
    「どうして?」
    「つまり、当たり前に考えるものじゃないか?」
    「貴方は考えなさそうだけど」
    「人を好きになったことは?」
    「ない。それを未熟に思ったことも」
    「……好きになってみたい人がいたことは」
    「もし貴方にそういう人がいたとすれば、」突き放すような口調で彼女は続けた。「それが貴方と私の違いね」
    「……なるほど」
    「誰かを好きにならなくても、私には乱葬崗で生きる皆や、誰よりも大切な阿寧がいる。それに勝るものはないし、だから私はできる限り彼らを守らなきゃいけない。それが私の全てで、私には何一つ、不足も欠落もない」
    「その言い方だと、守るべきものに俺も含まれてる」
     笑いながら、魏無羨が言った。手の内で回されていた陳情が動きを止め、温情の方へ突き付けられる。温情は向けられた笛の先端に臆することなく、呆れたように鼻先で息を吐いた。
    「阿寧を預けることが、どういうことか分かってる?」
    「……それは、つまり?」
    「家族でも一族でもないけれど。今は、貴方が仲間であることに間違いはない。数に入れるには十分な理由です、少なくとも、私にとっては」
    「温氏の医者は厳しいと聞いていたが、なるほど、意志が明確だ。厳しくもなれる」
    「それ、貴方には言われたくない」
     数時前と同じ台詞を、温情は再び口にした。先よりも柔らかく、丁寧な口調。彼女はそれきり口を閉した。屋根の縁に近寄ると、予備動作もなく飛び降りる。魏無羨は座ったまま、僅かに前方へ屈むと遠くも近くもない距離に立つ存在を見下ろした。
    「魏無羨」見下ろされていることに気付いているのか、頭上を振り返らずに彼女は言った。「私たちは貴方を受け入れるけれど、貴方が私たちと同じである必要はない。それも貴方と私の違いの一つだから……それは忘れないでおきなさい」
     温情はそう言い放つと歩き始めた。寝泊まりをするために作られた小屋とは反対の方向だ。
    「どこへ?」魏無羨は返事の代わりに尋ねた。
    「どうせ眠れないのだから、阿寧の側に」
     顔の横にかかった髪をはらいながら、彼女は洞の中へ入っていく。その背を見送り、魏無羨は再び屋根の上に寝転がった。
     同じである必要はない、という彼女の言葉が頭を巡る。
     温情と己はよく似た人間である。その感覚は漠然と理解していた。例えば己の命よりも大切な家族の存在であるとか、弱っている存在を無視しきれない心であるとか、そういった部分は確かに類似していると言える。だからこそ金丹の移植手術などという大それた頼み事をすることに躊躇いはなかったし、彼女が引き受けることは彼にとって賭けにすらならない未来だった。彼女が金麟台で彼に助けを求めた時もまた同じだったのだろう。誰に頼ることもできない者同士。それを知っていれば手を差し伸べるも、縋るも、変わらない。自分を救うことと同義。ただ偶然と呼べるのは、あの場で二人が出会ったことだけか。
     しかし、その偶然こそ全て。
     彼女は目前に転がった運を逃さなかっただけのこと。そしてそれは夷陵で、目の前に岐山において最高の医者たる者がいる機を逃さなかった自分も同じことだった。
     同様、同質、同義。
     彼女は一族全てを背負い孤立し、
     彼は家族全てを捨て去り孤独。
    「同じ必要はない、か」魏無羨は嵐へ紛れ込ませるように呟いた。
     魏無羨は温氏を守るために再び乱葬崗へ身を落とした。つまり、彼女なりの気兼ねなのだろう。この場所で全てを背負い、孤独であるのは自分だけで良いという意志。
     即ち、彼女の矜持か。
     身体を横たえたまま、宙を仰ぐ。手入れのされていない木々の枝が昼間に差し込む陽光を奪い合うように編み込まれた森と、その遥か高くに聳える闇だけが視界に映る。この怨嗟の煙る土地では、月はおろか、星影さえも僅かにしか届かない。
    「いつか俺が変わったとして」誰にともなく声を落とす。闇夜の中で彼の声を聞くものは、揺れ動く枝葉と携えた笛が一つ。この夜に交わされた言葉を知っている者もまた同じく、彼らのみ。「この時は、今、確かにある」
     苦しみも、誇りも。誰にも譲ることのできない現実。
     そうだろう、と指先で笛の表面を撫でる。陳情は傍に置かれたまま黙し、何も語ることはなかった。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/11 0:15:58

    変わり行くもの、変わらざるもの

    #CQL
    別サイトからの移転です。
    初出:2021年11月23日

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