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    鬼の眠る間に密談 気が付けば、雨はすっかり止んでいた。
     雨雲が過ぎ去ったわけではない。藍忘機の足が局地的な雨をもたらした暗雲の外へ出たというだけのことだ。それでも三重に纏った着物はしとどに濡れ、長く作られた裾が身体に張り付いて不自然な皺を演出している。水分を含んだ重い頭で来た道を振り返れば、乾いた地面に一本の筋が生まれていた。その一部だけ変色した跡を目にし、藍忘機はカタツムリが通った後のようだ、と頭の隅で考えた。
     渦巻を乗せて緩慢に進む生き物が面白く思え、後ろを追いかけたことがあった。まだ修行らしい修行も始めていない、幼い頃の記憶だ。一刻の間眺め続けたところで、蔵書閣の裏手から、入り口にも辿り着くことが出来ず、どうしてこんなに愚鈍であるのかと不思議に感じたことを思い出す。
     鈍いままで何を守れるというのか。
     背負った殻では己を庇うことしかできないというのに。
     幼い彼はその在り方に憤りを感じ、小さな生き物の通った跡を指で拭い去ってしまった。一刻かけてでも進んだことを明かす、その軌跡を。
     その時皮膚にまとわりついた粘着の奇妙な感触まで思い出そうとし、彼は思考を止めた。その粘度がどれほど意味のあることか。今は腕の中に抱えたものを離さないことだけが重要。それは思考にさえも上がらない決意。その意志は彼の内側で渦巻き、溶岩のように溢れ出している。水に濡れ、霊力の回復など二の次のまま、重鈍な足取りが止まることはない。藍忘機は行き先を考えることもなく、また一歩分、影を伸ばした。
     突然、前方の藪が揺れた。
     瞬く間もなく一つの影が飛び出し、向かい側の藪へと駆けて行く。兎か、何かしらの小動物か。
     打ち破られた静寂に、意識よりも速く足の動きが止まった。反動で重心が僅かに傾ぐ。平衡を保とうとした腕が前に伸び、抱えていたものが溢れ落ちる。それを庇おうと身を乗り出し、瞬間、姿勢を戻した。
     血色の悪い掌が、意識を失くした者の身体を支えていた。
     大きな掌は蜂のような機敏さでずれ落ちた身体を受け止め、藍忘機の腕に押し戻す。一連の動きを終えると安堵を隠さず息を吐き、それから、藍忘機の姿を視認する。俄かに二、三歩後退り頭を下げた。
    「含光君」丁寧な拱手を見せる。
     温寧、温琼林、鬼将軍。三つの名前が頭の中に浮上する。藍忘機は抱え直したものの顔を見やり、その後で眼前の青年の方へ視線を向けた。
    「温寧」
     青年が掲げていた腕を解き、姿勢を正す。弦のような背筋に反して、視線は左右に揺れ、眉は控えめに押し下げられている。口元は何を言うべきか迷っているのだろう、曖昧に開かれたまま、言葉の発せられる素振りはない。
     藍忘機は瞬きの間にそれらを認識すると、元のように緩慢な歩みを再会した。二人の影が、無言のまますれ違う。三歩前進し、四歩目を踏み出したところで、温寧が結んでいた口を開いた。「含光君、」
     足を止め、しかし、振り向かない。その背に向かい、温寧がゆっくりと言葉を続けた。
    「追手は雨で引き返しました。暫くは、安全です……だから、その、」
     首を僅かに曲げる。辿々しい言葉とは裏腹に、力強い視線が藍忘機の双眸を捉えていた。
    「手当を」
    「不要」
    「ご存知でしょう、霊力による治療は霊脈を通して治癒力に働きかける。相手の許容量を超えていれば術者が徒に疲弊するだけです」書物を読み上げるような調子で温寧が言う。
    「無理のない範囲だ」
     端的な答えに、青年は否定も肯定もせず、無言で小さく微笑んだ。何かをおし隠すような、控えめな仕草だった。
     藍忘機は再び前を向いた。足を止める前と同じ、寸分も変わらない速度で歩き出す。青年は間隔を保ちながらその後を着いて歩く。視線だけで一度振り返れば、数を増やした軌跡が目に入った。彼もまた雨の中、どこからか自身たちを見ていたのだろう。それならば、すぐに接触がなかったのはなぜか、と考える。ずっと着いてきていたのならば金麟台での騒動も目にしていたはずだ。温寧という人間について、藍忘機の知る情報は世間の噂に少し毛を足した程度だ。黙ったまま後ろに続く青年の機微を見とることは、およそ不可能だった。
     背後の気配から目を逸らし、前方へ視線を向ける。
     金麟台から続く山道は抜けたのか、平坦な森が続いていた。道を外れた先から水の流れる音が薄く反響している。耳を澄ませば、実体は見えないがさほど遠くもないと分かる。生い茂った木々をかき分ければ存外近くにあるのかもしれない。耳に意識を傾けたまま、双眸で空を仰ぐ。青空に茫洋と浮かぶ星影が目に映る。頭の中ですぐに方角と時刻を割り出す。金麟台を離れてから、とうに二刻も経っていた。
    「…………追手は」呼吸に紛れ込ませながら、藍忘機は呟いた。
    「大雨の上、手負が相手だから、深追いする必要はないと。沢蕪君が差し止めました」
    「兄上が?」
     温寧が頷いた。「多分、藍二公子のために」
     己のためとはどう意味か。逃げる時間を稼ぐためか、もしくは、大事ではないと印象付けるためか。
     そこまで考え、彼は瞬きで推測を打ち消した。兄の性分は十全に理解している。兄が己の性質を把握しているのと同様に。彼は藍忘機の横顔から、その冷えた表情の下に浮かぶ混乱を見抜いたのだろう。大階段の頂と麓に別れてなお。弟の動揺、守ると決めた者が目の前で害された瞬間の衝撃を正しく汲み取った。追手が来ないように差し向けたのは、何も弟が捕らえられることを憂慮したわけではない。只人が何人追って来ようと藍忘機にとって無意味なこと。必要なのは、安定。何に傾いても手を離すことのできないものを抱えて歩くための落ち着き。或いは冷静。彼を救うことだけに必死になり、熱を帯びた思考回路を冷却する必要があったのだと自覚する。
     彼の兄による目論見は正しかった。己の状態を検分できる程度には、彼の視野は取り戻されている。
    「ずっと、隠れていたのか」藍忘機は振り返らずに尋ねた。
    「はい、本当は助けに入りたかったですが、あそこで私が出て行っても魏公子の立場は悪い方に傾くでしょう」温寧は落ち着いた口調で答えた。「それに、藍二公子もいらっしゃいましたから」
     冷静な分析だと藍忘機は内心で評価した。大梵山にて彼を呼び寄せたことが懐疑の種になったことからも、夷陵老祖と鬼将軍は今尚強く結び付けられている。金麟台で温寧が助太刀に現れれば、夷陵老祖が過去と変わらず鬼将軍を使役し仙門に害を成そうとしていると、言い寄らせる理由になる。それは推測と呼ぶにも容易すぎる予測と言えた。
     状況への理解。敵と味方の力量差。どれだけの人間が剣を向けるかを予測する観察眼。鬼将軍として恐れられるだけの腕力はともかく、人間としてはどこか茫とした印象のある青年は愚かではないらしい。藍忘機は素直にそれを認めた。思えば温寧は岐山において最上の医師と呼ばれる程に聡明であった人間の弟だ。周りにいる者が際立っていたとして、彼自身が愚鈍であることにはならない。むしろ、並の者と比べれば頭の回転は格段に速いようだった。
     黙り込んだ藍忘機に気兼ねするように、温寧は小さく口を開いた。「藍二公子、」一方で口調は固く、確たる意思を窺わせる。
    「魏公子の傷を手当てさせてください」
    「……傷口は塞いでいる。霊力も流し続けている」
     端的な返答に、温寧は首を縦とも横とも言えない角度へ傾けた。
    「私には薬があります。隠れている合間に見つけた薬草で作った、即席ですが。少なくとも魏公子には、今、必要なものの一つです」
    「他には、何が?」
    「憔悴していない含光君でしょうか」温寧が微笑んだ。「藍二公子にも休息が必要かと思います。大丈夫、追手はありません」
    「医者の知見か」
    「医者を名乗るには未熟です」
     藍忘機は瞬き一つだけを返すと、道に沿って進んでいた足を藪へと向けた。そのまま草木を踏み分けて横道へ逸れた。突然進路を変えた彼の様子に、温寧が首を傾げた。
    「近くに川がある」
    「川?」
    「処置ならばそこで」
     短く告げられた言葉に温寧は大きく頷いた。

     獣道とさえ呼べない藪の中を抜ければ、予測通りに川へと突き当たった。川幅はさほど広くない。どこかに流れる本流から分たれた一筋なのだろう。穏やかな速度で岩の狭間をすり抜けていく。下流の河原と異なり石が堆積していないために、木々がすぐ側に生えている。枝葉の隙間から降り注ぐ影が水面の頭上へ被さり、無秩序に反射した。
     藍忘機は抱えていた者を川から少し離れた木の幹へもたせかけた。不自然に傾いだ頭の位置を慎重に直し、背後に佇む青年を振り返る。一歩左に逸れ、正面を譲る。意図を正しく汲んだのだろう、温寧は控えめに頭を下げてから彼らに近付いた。懐に手を入れ、掌大の小瓶を取り出す。
    「補気丹です」目の前へ差し出しながら、彼は続けた。「少ししかないけれど、気休めにはなります」
     眼前に差し出された物を一瞥する。黙ったまま小瓶を受け取ったときには、既に視線は倒れている者へ戻されていた。所有者を変えた小瓶の形を指で確かめ、懐へしまう。
     青年は言葉をそれ以上重ねることはなく、地面に膝をついた。傷を確かめるように脇腹を見やり、すぐに懐から別の小瓶と、小さな麻袋を取り出した。先に小瓶の蓋を取り、傷口に近付ける。指先で慎重に傾ければ白い粉末が零れ落ちた。塊にならないよう、傷口に振りかけていく。「化膿止めと凝血草です」隣に佇む男へ説明する。口を動かす間にも手は麻袋から数枚の葉を取り出していた。草の汁を滲ませるために一度揉み込んでから、深緑の葉で傷を覆う。傷の面積に足りなかったか、慌てて二枚、三枚と重ね合わせる。ようやく傷口を覆いきると、手拭いか何かだろう、草臥れた布を巻き付ける。
     無駄のない、しかし、どこかぎこちない手つき。
     彼は手拭いを二度結んでからそっと顔を上げた。
     無言。
     倒れた者が目を覚ます気配はない。
    「傷以外に問題はないか」藍忘機が尋ねた。
    「はい。藍二公子が霊力を注いでいたからだと思います」
    「目を覚さないのは」
    「……随分、ご無理をされていましたから」
    「無理?」
     温寧は誤魔化すように口を塞ぎ、首を振った。「ああ、いえ、何でもありません」治療したばかりの傷口へ視線を逸らす。
     倒れている者について、藍忘機は他者よりもよく理解している自覚がある。それでも彼が語ろうとしない事に触れることはできない。ただ一点、彼がそれを打ち明けることはないという確信だけがあった。自身が背中の傷について、彼に告げることを拒んだように。決して、自ら明かすことはないだろう。
     藍忘機が温寧へ顔を向けた。言葉の意味を追求しようと口を開きかけ、しかし、その唇は別の言葉を響かせた。視線が他所に向けられる。
    「兄上」
     川の下流から黄金色をした蝶のような形が近付いた。言伝を運ぶ式の一種だ。術に漂う気配を確認し、周囲を浮遊する金色へ手を差し伸べた。三秒、目を閉じる。蝶の輪郭が弾け、光の粒へと変わる。それらは俄かに空間を輝かせると瞬く間に溶け消えた。
     光の名残が全て消え去ると、藍忘機は地面に倒れている身体を再び抱え上げた。川沿いの道を先よりも確かな足取りで進む。
     後に続く者を一度だけ振り返った。向けられた視線に眉を下げ、一瞬足を止める。しかし少しばかり距離が開けば、彼はまた歩き出した。
     しばらくは着いてくる気なのだろう。そう推測する。同時に如何に対処すべきかを考えた。彼に対して幾らか印象の修正は行われたが、大凡の人物像に変わりはない。藍忘機が着いてくるなと言えば、彼は文句も言わずに姿を消すだろう。理由を問いもせず。今、口を閉じたまま歩いているのは、単に何も言われていないからだ。
     一人考えながら、岩を一つ踏み越える。傾いだ身体をしっかりと抱え直し、藍忘機は再び背後へ視線を向けた。
    「温寧」
    「はい」返事をした後で、温寧は首を傾げた。目の前の人間が己に話しかける理由が分からないと言うように。
    「魏嬰を連れて雲深不知処へ戻る」
    「沢蕪君からのご連絡ですか?」
     投げられた疑問符に、藍忘機は頷きを返した。その仕草に温寧は安堵の息を吐き、小さく「よかった」と呟く。視線は覆い隠されたばかりの傷口に向けられている。どこまでも素直な表情だった。
    「君は中に入れない」藍忘機が言葉を飾ることもなく告げた。
    「もちろん、分かっています」
    「だが、雲深不知処の周囲の森は広く深い。ここ辺りよりは身を潜めやすい」
    「……つまり、」温寧が両眼をゆっくりと見開いた。「近くまではお供してもいい、と?」
     無表情を湛えたままの双眸が一度瞬いた。青年は感謝しますと微笑んだ。「あ、でも、」
    「何か?」
    「魏公子には、私がついて来ていることを黙っていていただけないでしょうか」
    「何故」
    「きっと、私がこの事に関わるのを、あまりよく思われないので」
     藍忘機は微かに首を傾げ、しかし、何も言葉を返さなかった。

     歩いている間に日が暮れた。斜陽の名残が空を薄紫に染めている。西の空はまだ仄赤く、東側には銀色の輝きが瞬きはじめていた。月はまだ姿を見せていない。人家のない山中は木々の輪郭が黒々と道を覆い、地面との境目を曖昧にしている。枝葉の網目から差し込む星影だけが砂に反射し、微かな道筋を示していた。
     峠を二つ越え、北に向かう。金麟台から雲深不知処まではひどく遠いという認識はなかったが、人の足で、あまつさえ街道を避けて行くとなれば、常よりも時間がかかる。現に未だ、雲深不知処の裾野に広がる森にさえも辿り着けていない。このまま歩き続けたところで、帰り着くまでに何日を要するかも分からない。
     藍忘機は僅かに歩幅を広げながら、それでも丁寧に歩を進めた。時折空を見やり北辰の位置を確認する。見知らぬ山中を歩く唯一の手掛かりだ。
     とにかく今は北へ向かう他にはない。幸いにして姑蘇の裾野には四方へ伸びた支流が広がっている。それらの源は全て同一。雲深不知処の冷泉から湧き出した流れだ。藍氏に生まれ育った者であれば、水中に潜む冷気を読むことは容易い。つまり姑蘇の流れとさえ出会えば道を知ったも同然、後はそれに従い歩けば良い、と彼は考えていた。ひたすらに場を離れるという意思だけがあった時よりも格段に冷静と言える。休みなく歩き続けているのは、つまり、彼にとってこの程度の疲労は問題がないからにすぎない。背後に続く青年も道連れとなった者が只人ではないと知っているからだろう、再び休むように告げることはなかった。
     左手に流れ続ける川が角度を変えた。水音が俄かに勢いを増す。
     別の方角へ続く、支流との合流点。
     広がった川幅を目で測るようになぞり、藍忘機は川縁へ近づいた。乾いた岩に倒れた者を持たせかけ、水中へ指を浸す。
     一つ、二つ。脈を合計で七つ数え、ようやく彼は指を離し、水気を払った。近付いた、と呟けば、川から離れたまま佇んでいる青年が小さく頷いた。藍忘機も川辺から距離をとり、歩みを再会する。
    「この川を上がって行けば辿り着く」
    「それは、良かった」温寧が安心からか、大きく息を吐いた。「遠いですか?」
    「明日の朝には着く」
    「夜通し歩いて、ですよね」
    「そうだ」
     遠くで犬が遠吠えを上げた。山々の隙間に反響した鳴き声は奇妙に間延びし、どこから聞こえているのかを曖昧にさせる。野犬だろうか、まさか、狼ではあるまい。藍忘機は数秒考え、腕の中にいる男の顔を見下ろした。意識がなくとも反射的に拒むのか、眉が僅かに顰められている。犬が怖いのだと打ち明けた時の姿を一瞬脳裏に描く。その自在な手足を目を閉じたままの現実と比較すれば、自ずと苦みが胃の底から迫り上がった。
    「温寧、」口に広がる苦悩を飲み下し、藍忘機が口を言った。
    「はい」名を呼ばれた青年は素直に返事をした後で首を傾げた。
    「魏嬰が目を覚さない内に、尋ねておきたいことがある」
    「……なんで、しょうか」
    「窮奇道でのことだ」
     温寧が双眸を見開いた。動揺を鎮めるように、両手が衣の裾を握る。彼の様子を一瞥し、しかしそれに構うことなく藍忘機は言葉を続けた。口内が酷く痺れている錯覚。今黙り込めば、二度と口を開くことはないだろう、と予測ができた。
    「あの時魏嬰は、鬼将軍を操り損ねたのか?」
    「……推測があるのですね」
    「再会するまでは、魏嬰の暴走かと考えた。しかし、今は、」
    「魏公子を疑う心はない、だから、別の原因があるとお考えなんですね」
    「そうだ」
    「……あの時、私が暴走した瞬間ですが、魏公子の笛とは異なる旋律が聞こえました。陳情の響きは悲しく、哀れみを湛え、私に力を与えます。だけど、あの時の音は違った。あれは言葉にならない悲痛ではありませんでした。性格無比な冷徹。心のない音階……操られる側の感覚なので、上手くお伝えできないのですが。何か別の音がその隙間に入り込んだ。ですが、それが私の暴走の原因だと言い張る資格は私にはありません。ただ、私を統べる音律とは別の音律があったことは、確かでしょう」
     温寧は落ち着いた口調で言った。光を反射しない黒目が左右に揺れている。過去を振り返りながら話しているには滑らかな言葉。彼は目覚め、自我を取り返した後から何度も振り返り、話すべきことをなぞっていたのかもしれない。ただ、それを話すべき時が来た瞬間、目の前にいる人物が想像と異なっていた。言葉を選ぶ仕草はそのせいだろう。
     歩き続ける二人の間を、鼠が一匹、走り抜けて行った。
    「それでは、」藍忘機がゆっくりと言った。「魏嬰のせいではないのか」
     温寧は口を閉じたまま、視線を上へと向けた。時にも季節にも関わらず、天上で輝き続ける白銀の点。どの星にも連らない孤高を見つめる。そのまま深く息を吸い、吐き出される呼気に紛れて「分かりません」と呟いた。
    「もし私を操った第三者がいたとしても、結局、私が金公子を殺したことは変わらない。そして私を剣として鍛え上げたのは魏公子に他なりません」
     道具を利用した者。
     道具そのもの。
     道具を作り上げた者。
     罪の根本はどこにあるのか。
    「姉上が昔言っていました。病で死ぬ人の死因は病気と看做されるけれど、本当は違うと。病をもらう偶然、病に耐えられなかった身体、病を治せなかった医者、そんな幾つもの要因があって、ようやく人は死ぬ。だから治せなかったとしても、悔やまないのだと」
    「それでも、魏嬰に悪意も誤りもなかったことは確かだ」
     藍忘機は腕に抱いたものから目を逸らさずに呟いた。会話を続ける二人の間ではなく、口を閉じたままの三人目に囁きかけるように。
    「私の話がなくとも、藍二公子は信じられていたでしょう?」温寧が空を見上げたまま言った。
    「無論」
    「それなら、なぜ尋ねたのか、お聞きしてもいいですか」
    「…………、」藍忘機は軽く目を伏せ、すぐに正面を捉え直した。「魏嬰は私に、当時のことを話そうとしない」
    「それは……その、言おうとしないのは、」
    「了解している。彼にとって触れるには難しい記憶なのだと」
    「藍二公子にも同じような場所があるのですね」
     藍忘機は何も言わず、微かに視線を後方に向けた。
     肩。その向こうにある、背。己では見ることのできない場所。白い着物が、いつの間にか乾いていることに気が付いた。
    「乱葬崗で、魏嬰は、どうだった」
    「どう、というのは?」
    「苦しんでいたか?」
    「悲しそうな時もありましたし、心から楽しそうな時もありました。悲しみの中でも何かを楽しもうとし、楽しみの底にはいつも悲しみがありました。多分、誰もがそうだった。乱葬崗というのはそういう場所でしたから……だけど、魏公子はいつも私たちを気にかけて、外の世界を気にかけて、明るい未来を願っていました。それだけは公子の中に突き通った心です。たとえ、矛盾していたとしても」
    「そこに彼自身はいない」
    「そうですね」
    「温寧、君は魏嬰を兄のように慕っている」
    「はい」
    「それならば何故、自己を蔑ろにする彼を許せる?」
    「私に許す資格があると思っていますか?」温寧が首を振った。「姉上に守られ続けた私に、どうして魏公子の自己犠牲を咎められましょう」
     ゆっくりとした口調で温寧は言った。丸められていた背が、僅かに伸ばされる。藍忘機は青年の姿を眺めやり、かつて彼の横に立っていた女性もまた、同じように背を伸ばしていたことを思い出した。意識に上がることは殆どなかったが、よく似た姉弟だったのだろう、と考える。脳裏で、臆することなく伸ばされた背が見慣れた黒い着物の影に重なった。
    「……魏嬰が君を気にかける姿は、温殿とよく似ている」藍忘機が呟いた。
    「そう、思いますか?」温寧が意外さを隠さず、目を見開いた。「姉上に似ている、と」
     正面を向いたまま、藍忘機はそうだと言った。他人を気にかけ、それには当然のように己も含まれていたが、手を貸す男の笑みが瞼の裏で再生された。十六年、座学に訪れていた頃まで遡れば、さらに数年を加算する年月の地層。その中で褪せることなく形を保ち続けている記憶を掘り起こす。陰りのない笑みが鉱石の内で屈折した反射のように幾重にも折り重なった。
    「かつてとは違う」
    「……私には同じように思えます」
    「何故」
    「魏公子は昔から私を気にかけてくださった。一人の人間として扱ってくださったのは姉上の他に、公子だけです」
    「だから温殿への態度と同じように……弟のように、振る舞うのか」
    「不誠実だと思われますか」温寧が僅かに口の端を上げた。自嘲の色を仄かに漂わせる。「十分良くしてくださったのに。未だ公子の後ろに隠れ、力になれないでいるのに」
    「魏嬰の側を離れても、彼はそれを許すだろう。その方がいいとさえ思っている」
    「それでも、力になりたいんです」
    「……彼が君の姉だからか」
    「恩人だからです」青年は二秒かけて瞼を閉じ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。「受けた恩に報いる。それが大梵山温氏の掟です」
    「温氏」藍忘機が繰り返した。どこかぎこちない響き。舌に馴染んだ悪名ではない、ただ一つの門家を示す名としてその名を呼ぶ。「君は未だ、温氏か」
    「もう私しかいません。ですから、もう一族とは言えないでしょう。私がそれを望んだとして、私はただの鬼将軍。魏公子の刀。それが今の全てです」
     温寧の言葉に、藍忘機は小さく口を開いた。息を吐き、それから唇を強く結ぶ。背後からついて歩く温寧にはその仕草は映らなかったのだろう。彼は一度間をおくと、何事もなく言葉を続けた。
    「だけど、魏公子は違います。公子が私に向けてくださる気遣いが姉上の影ならば、それはいつか、解放されなければいけない。魏公子は信じるものを……きっと、もう、お決めになったのでしょうから。夷陵老祖でも、私たちを庇った無頼漢でもない、魏公子として選び取ったものがあるはずです」温寧が藍忘機の輪郭をはっきりと捉えながら言った。
    「信じるもの……」
    「私は江公子……今は江宗主ですね。彼のように魏公子についてよく知っているわけではありません。だけど、決めたことは絶対に他人に委ねず、絶対に曲げない人だと言うことは分かります。とても真面目で、情け深いことも……姉上がそうであったように。だから、何もかも自分で背負ってしまう人が少しでも背を預けること、同じ世界に立っていると認めること。それがどれほどのことかは分かるつもりです」
     藍忘機は軽く目を伏せ、それからゆっくりと開いた。
    「どれほどのことであっても、私は魏嬰のために身を尽くす。それだけだ」
     とっくになされていた決意を確認するだけの独白。腕の中で静止していた身体が、角度を変えるつもりか、僅かに蠢いた。双眸は閉じたまま、一方で呼吸は平坦に繰り返されている。
     生きている。
     閉じた唇から、肺に溜まった空気を吐き出す。胃の底にのしかかる岩を溶かしていくような感覚。つまり、安堵か。足の指先まで血が巡り、体温が上がっていることを自覚する。
     俄に視界が明るく染まった。
     東の空を見やる。
     稜線を縁取る朱の一閃。
     しかし空の大部分はまだ藍色の天蓋に覆われ、星の煌めきが賑わいでいる。明るく見えたのは、不安に曇っていた世界が晴れたためだろう。藍忘機は道の中央に落ちた枝を最も小さな動作で避けた。視線は空へ向けられたまま。夜明けは近い。目的地も、また然り。
    「間もなく雲深不知処だ」藍忘機が短く呟いた。
    「はい」温寧が足を止めた。「それでは、私はこの辺りの森に身を潜めます」
    「……一里ほど山を上ったところに今は使われていない炭焼き小屋がある」
     東へ続く道を指で示し、昨今近付く者はない、と続ける。温寧は三度瞬きを繰り返した後で慌てたように頭を下げた。鬼将軍と名高い姿であっても人目に付かなければ安寧は得られる。それでも、未だ目を覚さない男が再び山を降りる時にはきっと、影から見守るように着いてくるのだろうと予測した。少しばかり距離のある場所を示したのは、倒れた男の意思を汲みたいと願うにすぎない。背後に佇む青年がどれほど強靭な人間であっても、男にとっては争いから遠ざけられるべき者である。そして藍忘機にとって何より尊重すべきものは彼の意思の他にない。
     藍忘機は腕の中を見下ろした。呼吸は整い、頬には血の気が戻っている。
     この世界で唯一、道を共にすることを許された。
     理解していたはずの事実が、現実の重みとなって両腕を伝う。
    「礼を言う」藍忘機が言った。
    「え……?」
    「魏嬰が語らないことを尋ねた」
    「……その、魏公子が語らずとも、藍二公子はお気付きになったことでしょうから」言葉を選ぶように温寧が答えた。「それに……いえ、何でもありません」
     藍忘機は噤まれた言葉の先を問うこともなく、温寧に背中を向けた。まだ遠く、しかし姿を表した瓦の屋根を見上げ、一歩足を進める。唇はとうに結ばれ、再び開く気配はない。
     温寧もまた口を閉ざし、その場で背筋を正した。真っ直ぐに両手を掲げ、胸の前で指を組む。肩の水平を保ったまま、頭を下げる。深く、一礼。それから獣道さえない藪の中へ消えていった。
     気配の消えた山道を、藍忘機は一度だけ振り返った。
     乾いた砂の上につけられた足跡は風によって流されている。地面にあるものは長く伸びた影が一つ。人間が二人。ただそれだけの世界。藍忘機は冷えた流れに導かれるように、再び正面を向いた。
     静寂を彩るように梢のさざめきが森の中を満たしていく。東の稜線から差し込む黄金の洪水が、白い着物に覆われた背を斜めに染め上げていた。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/11 0:17:17

    鬼の眠る間に密談

    #CQL
    別サイトからの移転です。
    初出:2021年12月11日

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