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    w/x-ssまとめ1「傘」2「願い事」「失敗」3「雪」4「焚き火」「幼少期」5「金丹」「手を繋ぐ」6最終話の行間捏造ss1「傘」 雨にも種類がある、と初めて認識したのは随分昔のことになる。湖に彩られた地から山深くの仙境を訪れた時、彼は初めて雨という現象の差異を目の当たりにした。彼の故郷、それは記憶に残る中で最もその語に近接しているという意味であるが、長く暮らしている土地では、大抵の場合大きな雨粒が一つ一つの形を成して天から降り注ぐ。それらは一斉かつ不規則に水面を叩き、日頃は清廉な湖に喧騒をもたらした。つまり、それが彼にとっての雨であり、山深くの土地で降られた絹糸のような雨は、彼にとって一つの衝撃として印象付けられた。その時からだろう。雨に今いる場所とは別の場所を思い起こさせるがあると気付いたのは。
     雨は午後になって降り出した。陽が昇り切る前の晴天と、乾いた風からは考えられないほど突然の来訪だった。雲深不知処では珍しい、嵐のような雨。戯れに窓から手を伸ばせば、すぐに掌の窪みに水が溜まる。天からあふれ出した洪水。一連の滝。それらが茫洋と大気を埋めつくしている。
     彼は暫くの間そうして雨粒を遊ばせ、不意に立ち上がり、部屋を出た。傘は持っていない。噎せ返るほどの湿潤が全身を包む。水の香りが鼻孔を埋め、あっという間に地面から跳ね上がる泥が足を汚す。そして、水の中にいるのではないかと錯覚させる、息苦しさ。魏無羨はそれらを一挙に認識し、しかし、気にすることもなく裏山へ続く道を上り始めた。
     彼は雨が嫌いではない。当然、晴れている方が都合のいいことは多いが、雨そのものを嫌ってはいない。雨になると憂鬱さを露わにする人間がいることを知ってはいるが、自分はその類の人間ではないという自覚があった。
    「そのはずだったんだけどなぁ」
     裏山に隠された、それらの存在は既に誰もが知るところであったが、名目上秘密裏に飼われている兎たちを前に彼は呟いた。兎たちは皆藪野影に隠れ、雨が過ぎ去るのを待っている。その中の一匹を掴み、自らも木の陰に腰を下ろす。
    「どう思う?」
     葉の影から切り離された兎は迷惑そうに髭を揺らし、掌の中でしきりに身をよじらせている。彼は唇を尖らせ、仕方ない、と兎を解放した。それは泥を蹴り上げ、すぐさま群れの待つ藪の下へと駆けていく。宙へと舞い上がった泥は弧を描き、魏無羨の頬へ付着した。
    「せっかく心配して様子を見に来てやったのに」無数に並ぶ兎の目から顔を背け、独りごちる。兎は彼の声に応えることもなく、雨音に耳を震わせている。わざとらしく溜息を吐き出せば、乾いた息はすぐに雨に撃ち落とされた。
     嵐のような雨は、酷似した記憶を引きずり出す。かつて味わった感覚が蘇り、それに連鎖して事象が目の前に浮かび上がる。思い出すというよりも、過去に飛んでいるような感覚に近い。つまり、その時の感情もまた鮮明に蘇る。
     この、絶え間なく呼吸さえもままならないような雨の中に立ったことが、かつて一度だけあった。魏無羨という人間の人生において、その生涯を左右する分岐の一つ。その日に降っていた雨もまた、呼吸さえもままならない、滝のような雨だった。雲夢に降る、輪郭を保ったままで真っ直ぐに落ちる雨垂れとも、姑蘇に降る、木々や地面にそっと染み渡る霧のような雨とも異なった、怒濤のような雨。
    「……嫌な記憶だ」彼は再び言葉を口に出した。このような天候の中、出歩いている者はいないだろう。万が一、近くに誰かがいたとして、雨音がすべてをかき消してしまうに違いない。そう考える。自分の声が聞こえないということは、自分もまた周囲の物音から隔絶されているのだということに、彼は気が付かなかった。
    「何がだ」
     耳元で、声がした。魏無羨は弾かれたように立ち上がり、音の方を睨みつけた。それから、声の主を視認し、肩を竦めた。「なんだ、藍湛か」
    「雨の中歩いているのを見たと、思追が」
    「それで、わざわざ探しに?」
    「姑蘇の雨は冷たい」
    「それくらい、知っている」魏無羨が口の先を突き出した。
    「どうして、雨の中を?」
    「ああ、それは、だな……そう、兎の様子を見に来た」
    「傘もささずにか」
    「……いいだろう? 雨に濡れようと、俺の自由だ」
     藍忘機はその言葉に答えることなく、一歩彼の方へと足を近づけた。「風邪をひく」
    「藍湛、俺がそんな弱い奴に見えるのか?」
     真っ直ぐに魏無羨を見据えながら、藍忘機は黒目の奥底まで射ぬかんばかりに双眸を覗き込む。
    「……少し、」魏無羨が口の形だけで微笑んで見せる。「ただ少し、昔を思い出しただけだ」
     唇を閉ざしたまま、藍忘機が僅かに顎を引いた。話を続けるように、という仕草だ。魏無羨は頬に張り付いた髪を払い、再び口を開いた。
    「窮奇道でお前と向かい合った時も、こんな雨が降っていたと、思い出しただけだよ」
    「あの時、」藍忘機がゆっくりと言葉を紡いだ。「何と言ったか覚えているか」
     魏無羨は首を振った。思い出せないだけなのか、思い出したくないのか、その区別は付かなかった。何であれ、当時の切迫した感情だけは明確に反芻されている。例え相手を傷つけようと、どんな言葉だって使うことができただろう。
    「含光君の手で、」
     含光君の手で死ねるんだ、悔いはない。
     魏無羨の頬が僅かに痙攣した。そう言い放った己を覚えてはいない。けれど、一瞬でその言葉は紛う事なき本心だと理解する。その確信が神経を伝い、内腑に重い冷えを運び込む。魏無羨は固く強張った舌を動かし、ようやく一言だけを返した。
    「ひどい言葉だ」
     今度は藍忘機が首を振った。
    「この雨で、あの時のお前の顔を思い出した。お前も、そうではないかと」
    「まさか、それで俺を探していたのか?」
     首が縦に振られる。抹額の先から、膨れ上がった水滴が地面へと落下する。
    「俺を心配して?」
     再び、彼は頷いた。
    「驚いた」魏無羨が目尻を押し下げ、微笑んだ。力の抜けた、自然な笑みが額を彩る。「藍湛は俺を立ち直らせる天才だな」
    「……用は済んだ。お前が平気ならば、それでいい」
     彼は差していた傘を魏無羨の眼前へ突き出した。
    「使いなさい」
     差し出された傘を見つめ、魏無羨は小首を傾げた。
    「藍湛、お前の傘は?」
    「…………」
    「あっははは」湿潤を切り裂き、乾いた風が吹く。「お前が嫌じゃなきゃ、半分屋根を貸してくれ」
     暗い道に、傘を差した影が一つ。何もかもを傷つけた記憶を塗り替えるように、同じ影が今は傘を差し出している。それを望んでいるのは、きっと自分だけではないはずだと、魏無羨は相手の答えを待つ。藍忘機の、彫像のように静謐な頬が僅かに緩められた。
    「ならば、共に」
    2「願い事」「失敗」「しまった」と彼が言うと同時に、黒い着物の懐から掌大の物体が落下した。
     人気のない山道であろうと、彼の声を藍忘機が聞き逃すことはない。その上で、発言を確かめるように、彼は今しがた動いたはずの唇を見据えた。その背後には大きな川が、静謐を守るように流れていた。絶え間なく続く清音が鼓膜をゆりかごのように揺らす。虫も息を潜め始めた初冬の夜らしい、穏やかな空気。
    「吞み過ぎだ」藍忘機が窘める口調で言った。角があるよりも、むしろ、心配を滲ませた声色をしている。
    「ああ、うん。そうだな」素直に頷き、魏無羨は足元を見下ろした。河原の石が星影に反射している。山頂から運ばれた石の表面はよく磨かれ、そこに降り注ぐ飛沫が表面を濡らし、鏡のような滑らかさを生む。慣れた人間でも気を抜いた拍子に足を取られるほどの輝かしさ。魏無羨は重心が捻じれた瞬間を思い出し、小さく苦笑を零した。
    「転んでは危ない」
    「大丈夫だ、今だってちょっとふらついただけ」
    「川から少し離れた方が良い」
    「近いほうがいい音なんだ」唇の先を尖らせる。「分かったよ」魏無羨は落とした袋を拾い上げると大股で白い衣の周りを一周し、その横に並び立った。川と己の間に立つ男の肩に手を回す。彼は表情を変えることなく、顔の近くに寄せられた袋を視線だけで捉えた。
    「これは?」
    「気になる?」魏無羨が幼げな笑みを作った。
    「尋ねても?」
    「まあ、ちょっとしたお呪いだ」
    「まじない」藍忘機が繰り返した。「新しい術か」
    「違う」
    「それでは?」
     肩に回された腕が離れる。魏無羨は袋の閉じ紐を解くと掌の上で袋を傾けた。音もなく、一つの影が転がり落ちる。
     星を跳ね返し。
     一瞬、目を眩ませる。
     輝き。
     白く、澄んだ光。
    「……石?」首を傾げながら藍忘機が呟いた。
    「うん、石だ」
    「綺麗な形をしている」
    「そうだろう」
    「なぜ、これを」
    「拾ったんだよ」片側の眉だけをわざとらしく上げながら魏無羨が笑った。眼前の男が問うている意味を知っている上で、敢えて的を外した答えを返す。かつてであれば、明瞭を好む男はこのような回り道に眉をしかめたであろう。彼は、しかし、軽口を楽しむ気さえあるような素振りで「どこで」と尋ねた。丁寧な、優しさを隠さない口調だった。
    「雲深不知処の裏山……あれはもう裏の裏の山と言うべきか? まあ、なんだ、奥の方に流れる川の近くで。これみたいな石が多くてさ、驚いたよ。水しぶきに反射して、眩しいくらいなんだ」
    「雲深不知処の中にそんな場所があるとは知らなかった」
    「藍湛の庭だろう?」
    「ならば世界の全てがお前の庭だな」
    「それはいいな、どこに行くのも自由だ」両手を首の裏で組み、魏無羨は銀の輝きで賑わう空を仰いだ。
    「なぜ石を?」藍忘機が尋ねた。
    「昔、聞いたことがあったから」星々を眼差したまま、魏無羨が答えた。「蓮花塢の埠頭は雲夢の入り口だから、雲夢の人間も、そうじゃない、商人たちも大勢押し寄せる。市はいつも賑わっててさ、色んな話が聞ける。雲夢の中だけじゃない、広い世界の話だ。その一つだよ。どこの地方から来た人かも忘れてしまったけど、その人だ教えてくれたお呪いだ。法術も何も関係ない、子供騙し」
    「しかし、お前は覚えていた」
    「気に入っていたんだ」魏無羨が手中の石を握りしめた。「河原に行って、一番きれいな石を見つけたら掌で転がして三回願い事を唱える。それを白い袋に入れて一月肌身離さず持ち歩く。誰にも知られずに一月が経ったら、願い事が叶う……ってな」
    「清めた石には法力を宿すことができる。神像に石を用いるのは力を留めやすいとされているからだ」
    「そんな論理的な話じゃないさ」喉の奥で彼は笑い声を立てた。「何にせよ、お前にばれてしまったから失敗だ」
     乾いた石を一つ飛び越える。身体の動きに遅れて長い髪が宙を舞った。黒い髪が視界を遮り、一瞬、星明かりが消えた。夜の帳のような暗闇のはざまで大きな双眸が星の代わりに瞬いた。
    「藍湛?」魏無羨が振り返る。
     足が止まっていた。
     空間が一つ。
     その間を埋める沈黙。
     水音。
     黒に紛れない赤が、時を思い出させるように揺れた。
    「何を、」
     髪紐を目で追う。
    「何を願った」
     視線が交錯する。
     赤。
     白。
     見ているものは同一。
    「知りたい?」 魏無羨は小さく微笑んだ。
    「藍湛なら、何を願う?」
    「私は願わない」藍忘機がゆっくりと言った。「願うくらいなら、自ら叶える」
    「さすが、含光君」
    「お前が望むことも」
    「……俺の望みも叶えてくれるのか?」
     藍忘機が頷いた。
    「さすがすぎるぞ、含光君」
    「魏嬰、」彼は静止したまま、真正面へ視線を向けた。「言えないことか?」
    「ずるいぞ、藍湛」魏無羨の微笑が崩れ、深い笑みへ変わる。「俺の願いは、お前じゃなきゃ叶えられないっていうのに」
    「私?」
    「そうだとも、何せ俺が願っているのは、ずっとお前とこうしていられるようにってことだからな」息を一つ吐いた後で、彼は白状した。
    「願っている」藍忘機が、魏無羨の言葉を繰り返す。「それは、今もということか」
    「ああ……うん、そう、そうだよ」魏無羨が鼻の頭を擦る。「世界が俺の庭だとしても、やっぱり家は必要だろう」
    「つまり、私が家?」
    「他にどこへ帰れと言うんだ」
    「どこへも」彼は微笑みながら、はっきりと言った。「私とお前の道が同じならば、帰る場所もまた、同様に」
    「そうか、」魏無羨が呟いた。
     不意に、黒い衣が翻る。向き合っていた身体を川へ向け、彼は思い切り振りかぶる。頭上の高い位置から投げ出された石は滑らかな弧を描いた。浮遊。落下。数秒をかけ、石は水面へ小さな衝撃を作り出した。波紋が秩序だった円を重ねて広がっていく。水底へ沈み行く輝きから目を離し、魏無羨は夜闇へ浮かぶ白皙を振り返った。
    「ならば今度は、お前に願うよ」
    3「雪」 蛙の死骸が一つ、落ち葉に置いて行かれるように残されていた。生きている時分には水分で艶を放っていたであろう表皮は日に晒され、乾き、細かな皺を寄せている。焦げ茶色の風貌は、遠目から見れば岩のようであった。
     天の頂を過ぎた日差しはすでに大きく傾いていた。尤も、空の大部分は灰色の天幕に覆われ、蒼穹は見る影もない。ただ時折、厚い雲を穿ち、鋭利な斜線を描いて地上に射し込む光があった。そして、その一筋に照らされた屍。動くこともなく、天の温度に無関心な素振りで、ただ影を作り出すだけの物質。
     光を浴びたところで蛙の魂は天に上る意味を持たない。ただそれを見た人間が、神の慈悲であるかのように捉えるだけのこと。蛙の死骸は数刻も経てば蟻の群れか、或いはカラスや野良猫によって形を失くすだろう。それが当然の連鎖だ。それを知って尚、日に照らされた最後の時を幸運であったと想像するのは、蛙が何を求めて地上に現れたのかを予測できるからであった。
    「春を間違えたな」
     魏無羨は蛙を眺めながら言った。雲深不知処の中枢から離れた影竹堂。その中に誂えられた静室から続く庭の中央にしゃがみ込み、蛙の影を指でなぞった。「昨日は、暖かかったもんなぁ」肩を竦めそのまま片手で自分の胴体を抱きしめた。「それが今日はこれだ」
     一言零すたびに、口から吐き出される呼気が白く煙った。空気が冷え切っている証拠である。それは目に見えることで冬の訪れを感じさせる。ただ己の呼吸が白く変わるだけで、頭は明確に冬の存在を捉えるのだ。魏無羨は二重に羽織った上着の上から肌を擦るように腕を動かした。
     視界が陰る。
     一瞬の暗転。
     雲を貫いていた光が道を閉ざされる。降り注いでいた光は天上に消え、濁った水中のような世界が残される。明るさに慣れた瞳は鈍く、暗闇を茫洋と泳ぐような感覚。先ほどまで当然のように見えていた色彩が褪せ、黒と灰の陰影ばかりが浮かび上がる。影と物質の境が曖昧に混ざり、地面との距離を錯覚させる。
     眩暈。
     踵に乗せられていた重心が揺らぎ、
     眼前を影が駆け抜ける。
    「あっ……」
     平衡が崩れ。
     転倒。
     地面に掌を突き、魏無羨は見開いたままになっていた双眸で三回瞬きを繰り返した。砂で汚れた掌を握りしめ、開き、感覚を確かめる。周囲を見渡せば、何一つ歪みなく整えられた庭の木々が目に入った。
     手を使わずに立ち上がり、砂が付着した裾を払う。彼自身は少しの汚れなど気にならないが、部屋の主のことを思えば、無為に部屋を汚そうとも思わなかった。布を引き延ばし、身体を左右交互に曲げて砂が落ちたことを確認する。それから、僅かに視線を、片足分もない地面の先へ向けた。
     蛙の死骸は、跡形もなく消失していた。

     静室と庭を隔てる窓。その縁に腰を下ろし、暗闇を見透かす。冬の尖鋭な空気は窓から覗く木々の輪郭を明確に捉え、何里先をも映し出すかのように冴えわたる。魏無羨は茫洋と視線を漂わせながら、時折酒を口に運び、冷えた液体が喉奥へ流れ込む感覚に肩を震わせた。胃まで落ちた酒精が燃えるような熱さに変わるには、今夜は冷えすぎているようだった。
    「魏嬰」肩越しに、小波の声音が響いた。
     小石であろうと波紋は正確に水面へ描かれる。静謐が打ち崩され、乱れのない調べが広がり、再び静謐へと吸収される。調和の循環。その水面に描かれる繰り返しに似た控えめな声は、しかし、今夜に限っては波紋を起こす間もなく空気に溶け消えた。
    「藍湛?」魏無羨は振り返り、疑問符を浮かべた。彼が己を呼んだのか、確信がなかった。
    「今夜は一際冷える」藍忘機が言った。やはり、声はすぐに打ち沈んでいった。
    「分かったよ」魏無羨は大人しく立ち上がり、窓際から離れた。藍忘機の正面に腰を下ろし、背筋を崩す。「本当に、寒いな」
    「直、雪が降る」
    「どうしてわかる?」
    「姑蘇に暮らせば、肌が覚える」
    「雲夢の人間が嵐に敏いようなものか」
    「その土地で生きていくために必要な感覚なのだろう」
    「でも、間違えることもある」魏無羨が酒瓶を机に置いた。
     藍忘機は小さく首を傾げ、それから魏無羨の双眸を真っ直ぐに見据えた。先を話すように、という仕草だった。
    「今日庭で、蛙を見つけた」
    「珍しいな」
    「生きたやつじゃない」
    「それは、」藍忘機が眉を顰める。
    「昨日は、ひどく暖かかっただろう? 春だと思ったのか、冬眠から覚めてしまったらしい。ところが今日はひどい冷えだ。すぐに身体が動かなくなって、そのまま死んだんだろうな」
    「そういったものは少なからず存在する」
    「誰もが目覚める時に、目覚められるわけじゃない」酒瓶を遊ばせながら魏無羨は呟いた。「あの蛙は不運だったのか?」
    「冬の陽気は昨日だけのものではない。それにも関わらず、目覚めが昨日だったのは、蛙にとっての運命がそこにあったからにすぎない」
    「つまり、偶然?」
    「結果としてその蛙は死んだ。それをお前が見つけた。ただそれだけだ。お前のせいでもなければ、蛙自身のせいでもない」
    「不条理こそ理ってことか?」魏無羨が唇を尖らせた。「お前はいつも正しいよ、藍湛」
    「私の正しさは、魏嬰、お前が与えたものだ」
     藍忘機が丁寧な口調で言い切った。真っ直ぐに正面を見据えたまま、瞬きを一つ。瞼が動き、その上にかぶせられた睫毛が空を切る。空気が揺らめき。微風。僅かな温度。
     魏無羨が喉の奥で笑い声を立てた。
    「なぜ笑う」
    「なんでもない……ただ、」魏無羨が微笑みを作る。「俺は春風を待てる運命だったんだと思っただけだ」
    「春風」藍忘機が繰り返した。眼前の男が零した意図を考え込むように口を閉ざし、僅かに目を伏せる。
    「なあ藍湛、」
     魏無羨が彼の名前を呼んだ。思考を中断した男は顔を上げ、目を伏せる前と寸分違わぬ角度で魏無羨の双眸を捉えた。
    「俺もいつか、雪の気配が分かるようになるだろうか」
    「お前は周囲の機微に敏い」
    「それでも雪にはなじみがない。何年もかかりそうだ」
    「何年も、か」藍忘機が口の先から微かに息を吐いた。
    「おい、今、笑っただろう」魏無羨がわざとらしく眉を寄せた。「今だけでも気付いたことはあるんだ」
    「どのような?」
    「雪は降りだすと、少し暖かくなる」
     魏無羨が笑いながら窓の外を指で示した。暗闇を照らすように、白い結晶が浮かんでいる。一粒一粒が落下を繰り返し、絶え間なく夜を埋め、淡く光を滲ませた。
    「明日はきっと一面の雪景色だな」
    「雪の中で奏でる音は短くも、洗練された響きになる」藍忘機が唇に三日月を湛えて言った。
    「雪が周りの音を吸っているから?」
    「ああ」
    「それは、楽しみだ」
     腰に差した笛を確かめるように、掌で触れた。
    「何を弾くべきか、考えておいてくれよ」
    「愚問だ」
     微笑んだまま返された言葉に、魏無羨は無言で頷いた。その間に音は雪に飲み込まれ、消えていく。二人の間には静謐だけが揺蕩っていた。
    4「焚き火」「幼少期」 焚き火とは、焚かれる時によってその意味を変える。
     男は手頃な薪を炎の下に差し込みながらそう言った。炎を狭み対面に座ったもう一人男は首を傾け、それから、対岸の男の顔へ視線を向けた。
     夜は既に更けていた。日が沈み、名残の灯火さえ消えた夜。しかし深夜というにはまだ浅い時刻。就寝の時間には届かない頃合いに焚き火をしようと言い出したのは当然魏無羨で、しかし、藍忘機はその提案を吟味することもなく首を縦に振った。彼の頭に叩き込まれた雲深不知処の禁則事項に、焚き火を禁じるものはなかったからだった。
    「どういう意味だ」藍忘機は視線を固定したまま問いかけた。
    「さあ」魏無羨が無責任に答える。
     薪の爆ぜる音が軽妙に響いた。飛び散った火の粉を避けながら彼は手にした鉄の棒で火中の木々を突き回した。
    「慣れているな」藍忘機が言った。「ここに初めて来た時も、焚き火をしていた。あれもお前が?」
    「初めて来た時?」疑問符を投げ返し、三秒ほど思考する。「……ああ、思い出した。招待状を失くして門前払いを食らった時か」
    「書状の無いものは入れない。規則だ」
    「藍氏のお堅さをよく知った晩だったよ」黒目を斜めに上げながら魏無羨が笑った。藍忘機は無表情のまま、火の中へ薪を一つ焼べた。炎は瞬く間に、薪一つ分の勢いを増す。向かい側の男が俄かに眉を顰め、俺がやるのに、と呟いた。白い着物に煤が付いたらどうするのか、と息を吐く。
    「お前はこういうのに慣れているのか」
    「こういうの?」
    「焚き火や、野宿の心得があるのか」
    「……藍湛は知ってるだろう? 俺が昔、つまり江氏に迎えられるよりも前、浮浪児だったって。野宿が毎日だから、覚えただけだ」
    「その頃の記憶はあまり無いのだと聞いた」
     魏無羨が意外さを隠さず眉を上げ、それから小さく吹き出した。
    「全くないわけでもない」燃え盛る炎を鎮めるように、薪を一つ抜き取る。
     焚き火とは秩序だ。薪が多すぎては手に負えず、少なくなれば、やがて消えてしまう。どれだけの明かりが必要か、いつまで火を焚きたいのか、節度を持たなければ炎はたちまちに掌から溢れ、人を焼き焦がす。魏無羨は炎の利便性と、そのすぐ隣に居合わせる危うさをよく知っていた。何一つ不足のない土地で行われている、さながら余興のような炎が最も危険であるということも。乾燥した北風に揺らめくそれを真剣に操りながら彼はゆっくりと口を開いた。「不思議と覚えていることもある」
     藍忘機は赤々とした反射を双眸に写し、僅かに顎を引いた。先を促す仕草だ。
    「冬の夜、今よりももっと寒さの厳しい季節だったと思うけれど、橋の下でお爺さんにあったんだ。あの時の俺と同じ、身よりも、頼れる人もなく、天を屋根とする人だったんだろうな。彼は焚き火をしていた。寒さの中ではそこが天国に見えて、俺は自然とそちらへ近づいた」
    「危険だ」藍忘機が呟いた。夜の中に動く物は人ではないか、人間であっても物盗りや狂人である可能性がある。不用意に近付いていいものではない。少なくとも、藍忘機にとってはそれが世界の在り方だった。
    「真冬に夜闇を彷徨う方がよっぽど危ない」魏無羨は小さく微笑んだ。目の前の人間が寒さや飢えに縁のない生涯を送ってきたことへの、喜びを含んだ笑み。雲深不知処が寒さの厳しい土地であると言えど、肌着に等しい着物一枚で凍夜を越すような経験をしたはずもない。あり得ない想像に、自ずと頬が緩む。少なからず幸運だったであろう生を祝福できるのは、魏無羨にとってそれを願う相手だからに他ならなかった。
    「その老爺はお前に何をした?」
    「何も、」首を横に振る。炎の影に鼻筋が判然と浮かび上がる。「俺を浮浪児だと分かっていたんだろう。黙って火を分けてくれた。食べ物もなかったけれど火にあたれるだけ暁光だったよ。何せ俺は火の付け方も知らなかったし、知っていたとしても子供一人でやり通せたとは限らない」
    「それが覚えていることが」
    「それだけじゃない」視線を炎に合わせて揺らしながら、彼は頷いた。「いつ、どこかも覚えていないのに。あの時言われたことだけは覚えているんだ」
    「何と?」
     相槌を投げ、それから藍忘機は正面にある唇を見据えた。次に吐き出される言葉を消して聞き逃しはしない。ただそれだけのために。真っ直ぐに張られた弦のような背筋が、一際張り詰める。魏無羨は熱に揺らめく視界の向こうを正しく捉えると、軽く首筋を掻いた。
    「焚き火は昼間に焚けば熱を得るための道具になる。夜は灯りを得るための。用途が違えば焚き方も変わる。炎をよく見て、必要な分だけ燃やせ。野で焚く時は絶対に忘れるな……必要な分より僅かに少ないのが適量だ」
     舌先で唇を一度舐め、それからゆっくりと言葉を紡ぐ。
    「幸福と同じように」
     真っ直ぐに正面を見やる。炎を反射した着物は赤く染まり、白ばかりを纏う男に色彩を足している。見慣れた姿の見慣れない様相に、彼は喉の奥で笑いをこぼした。「藍湛、お前、赤も似合うじゃないか」
    「お前の方が似合う」すぐに言葉を返し、思考を整えるためか、二秒瞼を伏せる。「幸せになるな、という忠告か」
    「さあなぁ。炎も幸福も同じで、過ぎたればたちまち身を焦すってことだったのかも」
    「問わなかったのか」
    「俺は当時七つにもならない子供だぞ。それに向こうは日がな一日壁に向かって話しかけているようなお爺さんだ。会話にすらならない」
    「しかし、君は覚えていた」
     覚えておくことが苦手だと明言する男の記憶に残る言葉。つまり、彼にとって幾らか重要であったということ。
    「幸せを望むな、とは」
    「まあ家もなく老いた人間の生涯は幸せとは言い難いかもしれないからな。それはつまり、子供も同じだ。この先幸せになれることなんてないのだから、期待するなって警告だったのかもしれない」
    「だけど、お前は違う解釈をした」
    「藍湛は俺よりも俺のことを知っているのか?」
     藍忘機は首を横に振った。地面に伸びた影の角度が正確に反復するのを見やり、魏無羨は炎の中から一つ薪を抜き取った。北風に煽られた名残の火は一瞬にして燃え上がり、正しく瞬き一つの間に炭へと変貌する。脆く崩れ落ちた破片を払い、彼は掌を焚き火へ翳した。
    「俺が思うに、幸せは望むものじゃない」
    「どうして」
    「一つの幸せを手に入れれば、次は二つの幸せを望む。二つは十に、十は百に。人間ってのはそうやって欲に従って生きている」
    「幸せに果てはない?」
    「あるさ」魏無羨が微笑んだ。「つまり、最期には否が応でも打ち止めだ」
     幸せの頂に立った瞬間に命を絶てば、或いは。
     天を屋根にする老人は自由だったのだろう。引き止めるものもなく、引き止められる自分さえいない。幸福を得てしまえば、それ以上には得るものがないと分かれば、命を手放す選択がすぐ隣に寄り添うだけの自由が彼にはあった。それは世を彷徨う浮浪児も同じだったのだろう。いつ死んでも、どこで死んでも、構うものは誰もいない。
     究極の自由。
     すなわち、幸福の意味。
    「魏嬰、お前は、幸せではないのか」
     雲深不知処において死も生も自在には決められない。家訓と称された何千に及ぶ掟には、誰が付け足したのかも分からないほど古くから、自死を禁じる掟があることを藍忘機は当然に認識している。
     眼前の男の幸せが、しかし、本質として自由によって成り立っていることも彼は当然に理解していた。
     神妙な表情、無表情に近い、僅かに眉根が寄せられているだけの機微を正しく見とり、魏無羨は顔の前で軽く手を振った。
    「幸せだよ」端的に答える。
    「…………?」
    「ああ、いや、そうじゃない。確かに幸せだけど、これが最上ってこともないってこと……俺はなあ、藍湛、お前が思っている以上に欲深い人間なんだ」
    「お前が?」睨め付けるような表情で藍忘機が言った。「お前の冗談にしては、笑えない」
    「俺の冗談に笑ったことがあるか、含光君?」
     わざとらしく唇を尖らせる。煌々と揺らめく炎に合わせ、陰影は徒に伸び縮みを繰り返す。藍忘機が子供のような仕草に笑みを溢せば、彼は満足気に二度頷き、指を眼前に持ち上げた。
     親指と中指を触れ合わせ、
     摩擦。
     皮膚と骨のぶつかる軽妙な音が一つ。
     暗転。
     頬に突き刺さる北風の、明瞭な輪郭。
     瞬きを一つ。
     その瞬間に、炎はうち消えていた。
    「ここに天子笑があればもっと幸せだ」魏無羨が微笑んだ。「部屋になら、あるだろう?」
    「幸せになったら困るのでは?」
    「俺の子供の頃……一番幼い時分の記憶を当てにするなよ。知ってるだろう? 記憶力の悪さには自信がある。この記憶だって、火に当たった時の印象を都合よく書き換えているだけかもしれない」
    「それでもお前を作り上げる言葉の一つには違いない。それに、」藍忘機がはっきりと言い切った。「この程度では十分とは言えない」
     暗闇に浮き出す白皙の輪郭を眺め、魏無羨は二度瞬いた。「それ、藍湛が決めることか?」
    「…………私はお前の苦しみばかりを知っている」
    「だから、幸福を教えろって?」
     唇を結んだまま、藍忘機が二つの双眸を真っ直ぐに見返した。星影を反射させる視線から逃れるように鼻筋を掻き、魏無羨は曖昧に舌を動かした。
    「ああ、えっと…………参ったな」
    「何が?」
    「今すぐに死んでもいい気分だ」
     顔を上げ、唇を吊り上げる。
    「魏嬰、」
     見慣れた微笑みにつられるように、白皙の上に三日月が象られる。
    「その冗談も、笑えない」
    5「金丹」「手を繋ぐ」
     男が抱えていた木箱を机に下ろした瞬間、彼は箱の中身に興味を持った。男の何事にも丁寧な所作、当然のように振る舞われる余りそれが特別なものであると意識しなければ分からないほどの、ある種の品を身に纏う男の指先に微かな緊張を見とったからだった。
     彼は酒を差し出した男の姿を思い出した。脇腹に傷を負いながらも、雲深不知処へと逃げおおせた夜に浮き出した輪郭。雪が降る前の凍りつくような気配の中で青い細紐を握りしめていた指先。その爪にはそれまで言葉よりも雄弁に示されてきた覚悟と、少しの緊張が滲んでいた。拒まれることを恐れたわけでも、家規を破る行為だからでもない。そう気が付いたのは雲深不知処に彼が腰を落ち着かせた後のことだった。
    「藍湛」彼が窓枠に背を預けたままで言った。「それは?」
     男は顔を上げ、一度瞬きを落とした。興味を持つことが意外だと示すように。好奇心に満ちた彼の性質は、その実彼の指向に沿わないものには全く響かない。彼の人物像をよく知らなければ返ってこない反応に、彼は口の端を吊り上げた。静室の端から、同じ言葉を繰り返し投げる。
    「それは?」
    「借り受けたものだ」
    「随分と丁寧に扱う。何か貴重な宝器か何かか」わざとらしい口調で魏無羨が問いかけた。「それとも、仙督様への貢物?」
    「魏嬰」藍忘機が嗜めるような口調で名を呼んだ。「気になるなら、こちらへ」
    「見せてくれるのか」
    「元よりそのつもりだ」
     魏無羨が喉の奥で音を立てた。それから呼気に紛れ込ませ、やっぱり、と呟きを落とす。藍忘機が奇妙な緊張を見せるのは決まって自分のために何かをする時だ。何故なのか、理由を尋ねたことはない。別々の人間である以上語らないことの一つや二つあるべきであると彼は考えていたし、もし無意識であれば、男は緻密に統制された思考で以て緊張を覆い隠すと予測できた。それでは、あまりにもつまらない。彼にとって、藍忘機の知らない藍忘機という側面は十二分に興味の対象であった。
     片足を窓枠から下ろし、真っ直ぐに部屋を横切った。机に向かい腰を下ろしている男の対面に立ち、しわ一つない額を見下ろす。藍忘機は黒目だけで彼の姿を確認し、それから掌で座るように示した。
    「それで、一体何を借りたんだ」魏無羨は机に肘をつき、身を乗り出す。
    「書物を」
    「書物?」繰り返しながら、魏無羨は首を傾げた。雲深不知処に居を構える姑蘇藍氏は仙門の大家の中でも多くの書物を有する世家である。特定の門家にのみ伝えられる秘伝の書や、あるいは個々の内実を示したものでなければ、仙門で流通する書の殆どを所有していると言えるだろう。その藍氏が書物を借りるという事態が何を指し示すのか、魏無羨には想像もつかなかった。
    「雲深不知処にない書物もある」
    「そりゃあ、そうだろうが……」
    「特に、法術とは異なる分野の書物は手薄い」藍忘機は憚りなく言い切りながら、木箱の蓋に手をかけた。
     ゆっくりと、振動を起こさないように外した蓋を片側に置いた。微かに首を曲げ、中を見下ろす。斑らな薄茶色の目立つ平面が整然と敷き詰められている。
    「随分と古いな」魏無羨が中を覗き込んだ。「触っただけで崩れそうだ」
    「状態は良くないと聞き及んでいた。それでも中身は見られるし、上質な紙であるから乱雑に扱わなければ容易に破れたりはしない」
     魏無羨は鼻先で曖昧な相槌を返した。それから一番上に置かれた一冊を慎重に持ち上げ、表紙を眺めやる。箱の内から舞い上がった埃が、日の光を反射して俄かに煌めいた。
    「墨がかなり掠れてるな……何だ、」顔を近づけ、表紙に貼られた紙片の文字を読み上げる。「医、術……大鑑?」
     魏無羨が顔を上げ、藍忘機の鼻筋を見据えた。
    「医術?」
    「そうだ」男は簡潔に頷いた。
    「どうして」
     藍忘機は無言で魏無羨の顔を見つめた。二つ、三つ、脈を数える。彫像然とした表情は僅かにも動くことなく、落とされる瞬きだけが彼が生きていることを示している。魏無羨は注がれる視線から逃れるように手元へ視線を落とした。表紙を丁寧に捲る。小さく開かれた唇から、言葉にならない声が漏れた。
    「ああ……」
    「何か?」顔を動かさずに藍忘機が尋ねた。
    「ああ、いや。読んだことあるなって」
    「医術書を?」
    「医術書を読みたい時もあったんだよ」
    「どうして」
    「それなら藍湛は、なんで医術書を?」魏無羨が目線を上げた。「これ、誰から借りたんだ?」
    「……温寧に」
    「温寧、」意外であったのか、口の先を尖らせて彼は言った。「つまり、これは」
    「温氏の残したものだ」
    「温氏は温氏でも大梵山の温氏だ。なるほど、道理で見覚えがある」
    「お前はなぜ?」
    「夷陵にいた頃……監察寮に匿ってもらっていた頃だが、温情に借りていたんだ。あそこにあったのはこれの写しだろう。全部捨てられたと思っていたが」
    「長年の顧みるものもなく、随分質は悪くなったと温寧は言っていた」
    「それにしても何故温寧がこれをお前に?」
    「私が頼んだ」藍忘機は声音を変えず、しかし、一度言葉を切った。息を深く吸い、細く吐き出す。
    「金丹を移したのが温氏に伝わる医術書であるならば、と」
     指先に摘まれた紙が雪崩れ、軽妙な音を立てて本が閉じられた。
    「金丹」魏無羨が繰り返す。
    「金丹だ」藍忘機が丁寧に発音した。
    「俺のためか」ほとんど確信を浮かべた声で魏無羨が言った。「残念だが藍湛、金丹は腕や足、臓腑と同じだ。一度切り離されたら同じものは生えてこない。かけがえのない……或いは単なる器官にすぎないものだ」
     静謐を守るような囁き。それでも確かに空気を震わした声音は部屋の中へ染み渡り、やがて窓の外で揺れる風にかき消える。その一瞬を捉えるように、梢の影が烏の悲鳴を聞いた。
    「お前の失くしたものを、全て元通りにはできない」
    「当然だ」魏無羨は小さく笑った。「望んでさえいない」
    「それでも可能性があるならば、私は手を伸ばす」
     机の上に行儀よく置かれた手で拳を握り、そして開く。ただそれだけの行為。開かれた掌には何もなく、物質は見えずとも、確かな決意が渦を巻いている。
     目に見えないそれを包み込むように、対面から掌が伸ばされる。
     皮膚が擦れ。
     僅かな熱。
     規則的な拍動。
     すなわち、生命。
    「仙督も忙しいだろう?」
    「私がやりたいだけだ。しかし、お前が嫌と感じるならば、これは撤去する」藍忘機が箱を見下ろしながら言った。
    「嫌じゃあない。お前が俺のためにすることで、嫌なことはない」魏無羨は己の体温よりも冷たい指先に触れたまま言った。彼は今も尚緊張を走らせているのだろう。張り詰めた糸が冷えた温度に変わり骨に伝う。「だけど、気にしなくていい……その、金丹のことは」
    「どうして」
    「俺が望んで手放したものだから……確かに取り戻せたら嬉しいし、その術があるなら俺は挑むだろうと思う。だけど、失くしたこと自体は痛みじゃない。それに、取り戻したところで一度失くした事実は変わらないんだ。元通り、とは意味が違う」
    「私の行動は無意味、か」藍忘機は落胆も見せず、書簡を読み上げる時と同じ声音で呟く。落とされた言葉を掬い上げるように、魏無羨は首を振った。
    「意味はある」
    「魏嬰」藍忘機が重ねられた掌に力を込めた。「お前の示す意味であれば私は信じられる」
    「金丹を失ってよかったこともあるんだ」
    「尋ねても?」
    「……かつて、蓮花塢が襲われた時。きっかけが俺の腕だったことは?」
    「知っている」
    「虞夫人が俺の腕を奪わなかった結果、巡り巡って金丹が失くなったとすれば、少なくとも俺は腕を失わずに済んだってことになるだろう?」
     鼻筋を指でなぞりながら、魏無羨が視線を机上に落とした。繋がれた掌の隙間の影が二つの黒目に重ねられる。
     肉体の一部が触れ合うのはただの外観。
     そのうちに共有される空間、
     黒々とした空洞にこそ、意味がある。
     二つの存在がなければ成し得ない世界。
     それを実証するための、行為。
    「腕が無ければ、こうして藍湛と手を繋げなかった」魏無羨は微笑んだ。「これが今の俺だ」
    「……お前が、それで構わないのなら」藍忘機が頷く。「ところで、」
    「何だ、藍湛」
    「私は腕を生やす術なら知っている」
    「……はぁ?」
    「正確には、その術が書かれた書物が蔵書閣にあることを知っている。医術と法術の境目は複雑だ」藍忘機は軽く目を伏せた。「医術で成せずとも、法術では術があるかもしれない。逆もまた然り」
    「えっと、つまり? 含光君は何を言いたいんだ?」
     微笑みを俄かに崩し、魏無羨は半分ほど隠れた黒目を見つめた。二秒静止し、瞼が再び持ち上げられる。
    「今は今であっても、未来まで諦める必要はあるまい」
     そう言い切り、藍忘機は対岸にある双眸を見つめ返す。魏無羨は投げられた言葉に二度瞬きを落とし、それから唇の隙間から歯を覗かせた。遅れて軽やかな笑い声が零れ落ちる。彼は隠すこともなく笑みを浮かべ、しかし何を言うこともなく、黙ったままで首を縦に振る。
     繋がれた掌の内では、暖かな熱が世界を包んでいた。
    6最終話の行間捏造ss 水中を漂う水草のように、彼は歩いた。酔いの回った人間とは違う。空気の流れに従っているという意味の秩序がそこにはあった。身体は軽く、呼吸は深い。思考も澄み渡り、どこまでも歩けそうな快さがあった。この世に再び現れてから、あるいは十六年前の状態と比較しても、最も適切に身体が機能していると考えられる。呪い、傷、過去。身体中に括りつけられていた負荷が全て解消された結果だろう。
     何もかもを手放した。
     手放すつもりだったものも、そうするとは、考えていなかったものも。
     今はもう、何もない。
     無縁。
     完成された、無。
     魏無羨は手綱を握った左手を見た。驢馬は機嫌が良いのだろう、日頃のように足を止めて餌をねだることもなく、従順に歩いている。風に従い歩く己と同様に。彼はそう考え、自ずと笑みを零した。世人は己のことを反抗的な人物だと推し量るが、実際のところはこれほどまでに大人しい。これが本来の自分だと認めることができた。
     風が押し寄せ、背の高い草の頭をかき分けていく。一方向流れていく力によって草は川面のような模様を描いて揺れた。その仕草を真似るかのように、黒い髪が同じ方向に靡いている。それを抑えることもせず、彼は頭上を仰ぎ見た。遠くに立ち並ぶ稜線の他に遮るもののない薄青の中を、一筋の雲が流れている。その手前を滑空する鳥の影が一つ。急降下し、草に消え、そうして再び飛び上がる。きっと、獲物を捕らえたのだ。草原、道すら存在しない草の海を行く人間を気にも留めず、世界は動いている。鳥の影はいつの間にか消えて見えなくなった。
    「この世界に君だけしかいないのであれば、好きに生きればいい」
     不意に、かつて慈悲を込めて送られた言葉が蘇った。思い出す、つまり、長い間忘れていたということ。
    「沢蕪君の言う通り、俺だけになったなぁ」魏無羨は誰にともなく呟いた。聞く者がいない言葉を声に出す。「結局のところ」
     驢馬が鼻を鳴らす。「ああそうだな、お前がいるな、林檎ちゃん」彼は足を止めて驢馬の耳に触れた。硬い毛が指と爪の間を埋め、柔らかく皮膚を刺す。彼は二、三度耳の先から付け根までを往復すると、鬣の中へ掌を埋めた。
    「昔に戻っただけだ」
     夜狩に行くと告げたまま戻らない父母と驢馬を置いて、かつて、彼は一人で歩き始めた。或いは、それが彼と言う人間の始まりと呼べるかもしれない。記憶になくとも、骨に染み付いて離れない。思い出すことさえなく、常に寄り添っていた感覚。天を屋根とし、地を床とする生き方が、結局のところ己の根源だったのだろう。湧き出した水は川に導かれ、海に届き、やがては山に還る。それと同じこと。戻ってきただけのことだ。ただ、かつてと異なるのは、彼を迎える者がいないことか。
     世家とは繋がりを絶った。現実における交流という意味だけではない。それだけならば、広い天下を歩く中で再び出会うこともあるだろう、と予測できた。断絶したのは目に見える関わりではなく、より根の深い部分。彼らが何を言おうと、もう魏無羨に影響を与えることはない。魏無羨が彼らのために、弱きを助けたとてそれは己の誓いのためでしかなく、彼らのためだけに何かしてやることもない。そういった意味に近い。誰を顧みることなく、誰にも顧みられない存在。それは、天下を彷徨う浮浪児と、何の違いがあろう。
    「俺だけしかいない世界で、俺はいったい何になればいいと思う?」
     彼は腰に差した笛に手を伸ばした。
     唇に当て、風を吹き込む。徒に流れ出した笛の音は、やがて耳に馴染んだ旋律へと変わる。
    「なあ、」心の中で、彼は一つの名を呼んだ。「藍湛」
     別れたばかりの人間。彼の姿は常に鮮明な影を保ち、網膜の裏に映しだされる。
     この世でたった一人の知己。
     即ち、この世でたった一人の、己ではない人間。
     彼に認められた自分があれば、それが「魏無羨」で構わない。そう誓うこととは、彼以外の人間を自身の世界から消し去ることと同義である。藍忘機だけが、魏無羨を世界に繋ぎ止める糸だ。他でもない魏無羨自身がそう定めた。それを失くした今、魏無羨が「魏無羨」である意味さえない。尤も、十六年前に味わった苦痛に比べれば余程穏やかであるし、自分が何者であるかなど、元より不明瞭な問いである。二度と関わることのないだろう人たちを思う寂しさがあったとして、ただそれだけのこと。与えられる影響は、それほどに些末。
     魏無羨は思考を打ち切り、代わりに初めてこの曲を聞いた時の景色を想像した。山頂とは異なる、暗く狭い洞窟の中だった。地下に流れ込む水のせいでひどく湿気た、寒い場所だった。もしくは、当時の自分は幾らか血を流していたので、体温が低かったのかもしれない。隣にいた男の手も己と同じ、氷のような冷たさだった。その感触が肌の上に広がっていく。魏無羨にとって思い出すまでもない、失われたことのない感覚の一つ。
     脳裏に映る風景の中で、藍忘機の旋律が止まる。己が曲名を尋ねたからだ。
     洞窟にはあり得ない突風が横顔に吹き付けた。
     瞼の裏に浮かんだ記憶の中で、唇が一音、一音を区切りながら動いている。
     音は聞こえない。
    「魏嬰」
     代わりに、聞き慣れた抑揚が、彼の鼓膜を震わせた。
     笛から唇を外し、わざと緩慢な仕草で振り返る。
     草の影に浮かぶ姿が一つ。
     天に逆らうように、真っ直ぐに伸ばされた背。
     広大な自然から切り離された。
     白皙。
    「曲名、教えてくれるのか?」魏無羨が尋ねた。
    「お前は、既に知っているだろう」
    「ああ、うん。それもそうだ」
    「それを、伝えに」
     山で別れ、その事実を思い出し、戻ってきたのだろう。真面目なことだと、魏無羨は頭の片隅で考え、小さく吹き出した。
    「まさか、それだけのために?」
    「いいや、」白皙の影が瞼を下ろし、ゆっくりと見開いた。「魏嬰、」
     心臓が一つ脈を打つ。
    「迎えに来た……帰ろう、私と」
    「どこに?」
    「お前の思う、帰るべき場所へ」
    「お前は、」魏無羨が微笑んだ。「俺はどこに帰るべきだと思う?」
     白い布を波打たせたながら、腕が広げられる。
    「おかえり、魏嬰」
    「ただいま、藍湛」
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/11 0:23:56

    w/x-ssまとめ

    #CQL
    別サイトからの移転です。
    初出:2021年12月31日

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