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    Untitled1(谛听+虚淮)2(阿根+谛听)3(山新+谛听)4(风息+閔先生)5(一凡仙人)6(阿赫)7(老君+谛听)8(玄谛)1(谛听+虚淮) あらゆる生き物の中でも、足音ほど分かりやすいものはない。足音は生まれてから現在に至るまで、その者の境遇を写しとる。例えば彼の主と呼べる仙人はどのような場面においてもひどく落ち着いた足取りを崩しはしなかった。尤もそれは彼の男が己の足で歩いていた時分の話であるが、今もさほど違いはないのだろう。その平坦であり、超然とした振る舞いが仙人たる男の本質だからである。何者も、歩くときには己の全てを足に委ねなければならない。
     諦聴は大きな足音を一つ踏み鳴らし、思考を止めた。天井の狭い廊下に低く反響した音は、瞬く間に空間を埋めては消えていく。音の響きなどには構わず、彼はもう一歩、また一歩と廊下を進んだ。左には空の鉄格子が並び、右側には石造りの壁がある。窓はなく、代わりに何か仕掛けがされているのか、陽光に似た明るさが満ちている。穏やかとも言える一方で周囲の無機質さが却って引き立って見える空間だ。息苦しいとも言える。尤も、この場所に求められた機能を思えば解放的であることが許されないことは明白であった。諦聴は規則じみた足音を響かせながら細く息を吐いた。同時に、最奥の壁に行き当たり、足を止めた。
    「久しいな」
     左側から投げられた声に呼ばれ、諦聴はそちらへ視線を投げた。手前にはこれまでの並びと変わらず、鉄格子が一つ。奥に広がる空間には組み立て式のベッドが一つ置かれている他には何もない。檻の中にいる者は壁を向いたまま、来訪者の名を呼んだ。
    「諦聴」
     足音で気付いたと言わんばかりに、彼は振り向かなかった。平らな床に腰を下ろし、ベッドの側面に肩を預けている。しかし、元より気付いてくれるよう仕向けたと言う方が正しいのだから、驚きはしない。檻の向こうに在る相手であれば自分の足音を知っているはずだと、諦聴は少なからず理解していた。その程度には親しい仲という認識がある。
    「少し痩せたか」諦聽は檻へ身体を向けながら尋ねた。
    「虚淮」
    「まさか。ここは龍游の街よりも、よほど良い気で満ちている」
     その言葉に、向けられた背の輪郭を記憶の内にあるものと重ね合わせる。以前会った時はいつだったか。数日おきに顔を合わせることもあれば、何十年もの間連絡を持たないこともある。それが虚淮と諦聽との間柄だ。それでも、やはり、記憶に残る姿よりは些か体格が細く変わったように感じられ、諦聽はただ「そうか」と言った。顔は変わらず壁を向いている。
    「蝉翅の黒と己の薄氷色を比べ、儚んでいるつもりか?」
    「私は正しく罪人であるし、高潔さなどない……ああ、でも、お前がそんなことを言うなんて珍しいな」
    「書を嗜まれるお方の側にいるだけだ。最近はネットに夢中だが……気紛れにこのような詩を聞かせてくる」
     むしろ彼の方こそ人間が作った詩を知っているとは思わなかった。表情を変えずにそう続ければ、背の上に薄氷を束ねたような髪が流れ落ちた。身動ぎ。続けて、強い光を失くした双眸が向けられる。膝の上に乗せられた手にかけられた枷だけが見慣れない。
    「少し変わったな」虚淮の口が動く。微かな動きで妙にはっきりと響く言葉を操ることが得意だったと思い出した。
    「お前は変わらない」諦聴が答える。
    「そう言うのはきっとお前くらいだ」
    「昔から、自分の懐へ入れたものに甘かった」
    「ああ、つまり、」虚淮は少し首を傾げた。「苦言を伝えに?」
    「まさか。老君の使いで近くへ来たついでだ」諦聴が顔色を変えずに言う。「お前が引き籠もっていると聞いてな」
    「館の差金?」
    「機嫌が良さそうで何よりだ」
     諦聴が眉を顰めれば、虚淮は態とらしく肩を揺らした。「本気にしたの?」
    「他人を侮らないお前の性質を知っているように、お前も、私が頼まれる者を選ぶ性質だと知っているだろう」
    「そうだね」「そうだとも」「…………」「どういった理由か、尋ねても?」
     虚淮は胸の前に落ちた毛を払った後で、抜け落ちた一本の髪を持ち上げた。どれほど精巧に生物の身体を模したとしても、彼を構築するものの正体は氷である。彼の術から零れ落ちた糸は瞬く間に溶け落ち、床を濡らす。爪の先ほどもない水溜りを掌で押し潰すと、彼は再び壁を見た。
    「引き籠もるも、何も。私は囚人だ。それに相応しい混乱を為したことを否定する気はない」
     誰のために。口から出かかった言葉をのみ、諦聴は目の前を別つ鉄の棒を掴んだ。力ある妖精であれば蟻を潰すよりも簡単に折れるであろう金属は、罪人を囲うという意味ではあまりに頼りない。彼の両腕を繋ぐ手枷もまた然り。これらが収監、或いは脱走の抑止の助けにならない事など子供でも分かるだろう。事実、この場所において彼らを縛るものは別に存在する。つまり、ただの見せかけなのだ。彼らは世間と分かたれるに足る存在なのだと、彼ら自身に突き付けるための機能。或いは檻に囲うことで、彼らもまた社会の管理下にあるのだと教えるためのものか。どちらにせよ己のしたことを認め、それを我が物として抱え込もうとする相手にはひどく無駄なものだ。身体を縛ることができたとして、どうして心まで縛れる道理があるのか。
    「外に出ないか」
    「私はここにいるべきだ」
    「囚人であっても、一歩も外へ出ることを許されないとは聞いていない。毎日庭へ出る時間が設けられているし、請えばそれ以上に出ることが叶うそうだな」
    「それはこの敷地内での話だ。であれば内と外に違いはない」
    「そう言うだろうと思ったから、管理者に頼んで一時的に外界へ出る許可をもらった」
    「…………まさか、」虚淮がゆっくりと瞬きを落とす。「そんなことが?」
    「一時間だけ。手枷はそのまま。私が付き添う」鉄を握る手に力を込める。古い金属の折れる、小気味良い音が一つ。
    「ちょっと待ってくれ、諦聴、」
     紫色の光が走り。
     それから、激しい熱。
     虚淮の言葉を待たず、一面に紫の炎が広がる。鉄で編まれた格子だけを伝い、やがて、数秒も経たずに炎は再び男の手に戻された。
     背の低い天井から警報が鳴り響く。廊下から幾つかの足音が近付く。幾つかの足音が群れを成して走り寄っているのだろう。諦聴はそれらに構うことなく檻の中へ足を踏み入れた。
    「何事ですか!」通路からやって来た妖精の中から、甲高い声が投げられる。
    「荒治療」諦聴が言った。「約束通り、少しこいつを借りる」
     手枷を掴み、牢から歩き去る。背後から聞こえる声に言葉を返すことはなかった。
     牢の並ぶ通路を抜けた先は小さな部屋のようになっていた。先に駆けつけた者たちが働いているのだろう、机や椅子が並んでいる。諦聴は誰の姿もない部屋の中で立ち止まり、それから、手を離した。元のように背中で腕を組み合わせ、何事もなかったように連れ出した男の方を見た。
    「まったく」虚淮が大きく息を吐く。「私の身体が氷だってことを忘れてはいないだろうな」
    「あの程度で溶けるほど弱っているのか」
    「そうではないが……」
     諦聴は一度黙り、薄氷色の頭を見下ろした。虚淮もまた動きを見せない。二本の角だけが視線と高さを等しくしている。
    「どこか行きたい場所は」諦聴は先までの沈黙を打ち消すように尋ねた。一時間という約束を破る気はなかった。
    「どこへも」
     投げられた返答にただ頷き、彼は懐から青い円盤のような石を取り出した。
    「それは?」虚淮が尋ねる。
    「青玉盤。老君の物を借りている。今回は少々行くところが多かったから冷却期間も短い。一度や二度、余分に使ったとしても問題はない」
     青く滑らかな表面が輝いている。天井に備えられた灯りのためではなく、石そのものが微かに輝きを放っているのだ。掌に石を乗せ、再び手枷を握る。
     目を閉じる。
     瞼の裏に火花。
     一瞬の眩暈。
     遅れて、浮遊するような感覚。
     微かに、青。
     目を開ける。
     そこは真白の世界だった。
     降り積もった雪が地面を一様に覆い隠している。前も、背後も、どこまでも白銀。聳え立つ木々は既に、或いは遠い昔から同じ姿であるのか、葉を全て落とし、代わりに枝の隅々までを氷が覆っている。
    「ここは…………」
     隣に並び立った男が右の角に触れながら呟いた。
    「いい景色だろう」
    「こんな場所が、まだ」
    「田舎へ行けばまだ人の手が入っていない場所も少なからず残ってはいる。一方で、少ないながら人も住んでいるが」
    「人間には厳しいだろうな」
    「この森の奥にある窪地は、少しばかり気候が良い。それが自然のためか、意図された導きかまでは知らないけれど」
    「ここに来たことが?」
    「二度目だ。前に来た時、いつかお前を連れてきてやろうと思って、忘れていた」諦聴は手にした青い石を懐へしまい、雪の中へ足を踏み出した。彼のやや丸みを帯びた足跡が刻まれる。足の裏から伝う冷気にわざと肩を竦めれば、一歩後ろに続く男が抑揚もなく「私は平気だ」と言った。
     森はただ白く輝きながら続いていた。どこへ続くのか、どこまで続くのかも分からない。見渡す限りを樹氷に囲まれている。変わらない景色。しかしこの光景を作る上げる木々、木々を成す枝の隙間、それらが全て異なる事を理解している。一つとして同じ物は存在しない。それぞれが自在に、もしくは秩序の中で折り合い、織られている。規則正しく結ばれた鉄格子との決定された違い。この場所が、生きているという証。
     諦聴はそう思考しながら、隣を進む者を見た。いつの間にか肩は一列に並んでいる。牢から引き摺り出した時よりも歩幅が広いように感じられる。その事を指摘しようか迷い、彼は口を閉ざしたまま虚淮の角を見た。雪から跳ね返る光を浴びているせいか、二本の角もまた輝いて映る。この森に満ちる気のおかげかもしれない。二人は互いに口を閉ざしていた。話をするには、静かすぎるのか。言葉を口にした途端に全て雪の底へ消えていきそうなほどの静寂が世界を埋めている。肌を刺す冷たさだけが鮮烈だった。
     不意に、虚淮が足を止めた。無言のまま、後方を振り返る。諦聴は同じように背後を見やり、何事かと首を傾げた。同時に呻き声に似た微かな響きを捉える。続けて、何かが落ちる鈍い音。
    「雪崩か」諦聴が呟いた。喉を震わせる平坦な響きは思いの外、判然と響く。「耳が良い」
    「雪から伝うものが多いだけだ」
    「調子が幾らか戻ったと捉えても?」
    「別に、あそこにいても問題はなかった」
     虚淮が微動だにせず答える。再び空気が震え、雪の流れ落ちる鈍い響きが鼓膜を揺らした。
    「何も話していないのは、あそこから出る気がないからか」
     諦聴の足元から細い煙が立ち昇る。瞬く間に溶け出した雪のしたから現れた黒い地面の上に、小さな紫の炎が揺らめきを残す。虚淮の双眸が揺らぎを追うように、諦聴の方へ向けられる。それから、花みたいだ、と虚淮は言った。
    「仲間の一人に、炎の花を咲かせる子がいたよ」
    「そうか」
    「肉を焼くのが上手な子もいた。そして、誰よりも私たちの……未来を案じた子がいたんだ」虚淮は一度目を伏せ、それから開き、樹氷の頂きを仰いだ。「私が話せるのは、こんなことばかり。それを話して何になる。私にできることは、あの牢に座っていることくらいだ」
    「あの妖精への罪滅ぼしのつもりか」
     声色は変わらず単調なままだった。諦聴が一足踏み出せば、雪はすぐに水へと変わり地へと吸い込まれる。抑揚のない声が宙へ溶け消える様とよく似ていた。平坦な問いかけに、虚淮は僅かに目を見開いて見せた。投げられた言葉が、まるで想像もつかないものであったかのように。
    「君が牢にい続ければ、彼の行いは輪郭を保ち続ける。罪という概念は罪人がいて初めて実現されるからな。語らずを続けるのは理念や、理想や、彼が語ったものを残すためか」
    「それが、せめてもの責任だ……まだ生きて、立っている私の」
    「あの妖精が選んだ道に、君が責任を取る余地はない」諦聴が滑らかな調子で言った。感慨も、糾弾もない、ただ当然を当然と告げるだけの響き。
    「だけど、もし私が間に合っていれば、彼は絶望せずにすんだかもしれない」
    「絶望?」
     疑問符と共に繰り返された言葉に、虚淮は視線を木々の群れへと逃した。言葉を、思考を辿るように凍りついた枝の流れを辿る。
     およそ三秒。
     虚淮は諦聴の双眸を見返し、ゆっくりと息を吐く。そして、再び吸い込んだ鋭利な空気を言葉へと変えた。
    「もちろん、風息がああなる事を選んだのには誇りや帰郷への願いもあっただろう。持てる全てをかけた意志と同時に誰よりもあの場所を愛していた。しかし、望みは叶わず、苦しみは永遠に理解されないと知った時、全てに沈黙を貫きたいと思う心を絶望のほかに何と呼ぶ? 彼は、人は愚か、妖精の社会にも二度と自ら干渉しない道を選んだ……選ぶ他に無くなってしまった。もう誰にも理解を求めない。助けも、何も。楽しい記憶の共有さえ、彼はもう、閉ざしたんだ。ただそこに在る、無干渉の美しい生命となって……それを仲間の応援もない空間で、一人、決意させてしまった」
    「しかし、君がいて、何が出来た」諦聴が尋ねた。変わらず、平静。
    「側にいることは出来た」
    「それだけ?」
    「まだ何もかもが切れてしまったわけではないのだと、教えられた。私はあの子の側に、随分と長い間いたのだから……きっと、それだけでも、」
     何かを伝えられた。そう呟きながら、虚淮の頬は薄く痙攣っていた。笑みのためか。それとも、怒りのためか。
    「生命があるだけでは不満か」
    「確かにあの美しい大木は生きている。この森の木々と同じ……だけど、それだけでは足りない。私は彼から多くを得すぎた。彼と話し、笑い、そこからまた新たな何かを得る……その機会がもう訪れないと思うたびに、」
     吐き出された言葉は虚淮自身に言い聞かせるように途切れていく。やがて彼は雪の落ちる静寂にも似た静けさで呟いた。
    「ああ、私は、寂しかったのか」
     呟きは雪に吸い込まれることなく森の静謐に流れ、やがて、静寂に消えた。
    「彼の想いを語りたくないのも、そのくせに頭の内では私と彼の間にあった言葉を繰り返してしまうのも、全部。ただ、私が寂しかったからなのか」
    「分かっていれば、いい。それがお前の想いであると。何のため、誰のためでもないと」
    「彼のために悲しむなと?」
    「そうじゃない。お前の後悔は、お前のためにある」
    「私のために、とは、」
    「悲しければ泣けばいい。けれど、誰かを失った悲しみを、救えたかもしれないという責にすり替えるな。君に問うべき責があるとするならば、もっと早い時分にあの妖精を止めなかったことくらいだろう。それさえ、君が止めるべきだったと思っていなければ無意味だけれど」
    「……厳しいな」虚淮は顔を上げたまま呟いた。
    「私の数少ない友人にまで引き篭もられては敵わんだけだ」諦聴は呆れを含めたように鼻先を鳴らし、その陰で僅かに唇の端を持ち上げた。「面倒もみきれん」
    「それは、すまない」
    「植物も皆、命がある。語りかけでもしてやれば感じ入る心もまた然り。少なくとも、全てが失われたわけじゃない」
    「……私の意地は風息の誇りを傷つけただろうか」
    「知らん」諦聴はすぐに答える。「泣きたければ泣けと言った。己に何かできたはずだと驕りたければ、驕れ。絶望も、後悔も……誇りも。他人に委ねるものじゃない」
     虚淮が目を閉じる。返事はない。諦聴は向かい合う相手に構わず、ただ言葉を吐き出していく。
    「背負うものは自分で決めろ。それが、生きるということ……命あることとの違いだ」
     閉じられた双眸の隙間から、一枚の薄氷がこぼれ落ちた。
    「諦聴、」虚淮が言う。「暫く、泣いてもいいだろうか」
     諦聴は黙ったまま言葉を返そうとはしなかった。向き合った男の顔は伏せられ、表情を窺うことはできない。
     やがて、ただ頬から薄氷の落ちていく影だけを見た。薄く透き通った氷は舞い落ちては地面に溶け込んでいく。
     光を透かし。
     絶え間なく。
     まるで、花弁。
     都市の中に茂る大木にもよく似合う、花の嵐のようだった。
    2(阿根+谛听) 雨が降っている。夏の雨によく似合う、真っ直ぐと落ちる雨だ。ただし、今は春。柔らかな花弁へ触れるには重すぎたのだろう。大粒の雨に打たれた梅の花が、形を残したままで地面を彩っていた。
     遅い午後から突如降り出した雨は、坂道を下るように、段々と勢いを増していた。一日晴れ間が続くはずだった空は、すっかり濃い灰色の雲に隠されている。天の機嫌が変わったことを察した村人が雨戸を閉ざせば、あとは雨音が残るばかりだ。村や近くの森に棲まう動物の気配もない。家屋に入れられたのか、野生のものたちは森へ帰っていったのだろう。夏になれば毎年大水に襲われるこの地に生きる動物たちは、安全に雨を避ける方法をよく知っている。
     窓から人気のない道を眺め、阿根は息を吸った。舌の根が湿っていく感覚。空気に含まれる水分量が多いのだろう。視界もまた青に霞がかって見えている。水底に沈んだような心地。肌に触れる室内の空気に普段よりも濃い水気を感じ、一人笑みをこぼす。阿根にとって水は不快なものではない。自らの霊属性を考えれば、自然、悪くないと思えるものだ。水の豊かな状況では大抵の場合、有利に振る舞うことができるし、濡れたところで困らないのであれば嫌う理由も減るというものだった。
     しかし、今日は不思議と雨の中に出かけていく気にはなれず、彼は屋根の下にとどまっていた。地を叩く雨音だけが響き渡る他に、少しの物音もないせいだろう。或いは季節に外れた、いわば不自然な恵みであるせいか。少年はもう一度深く息を吸い、空を見上げた。重く垂れ込めた雲は流れていく様子もない。しばらくの間は雨が降り続くであろうことを予感させていた。
     仕方なく欠伸をこぼし、当然無意味な行動ではあったが、数秒の退屈を消費した。丸めていた背を伸ばし、窓から顔を背ける。その後で雨戸を閉していなかったことに気が付き、再び振り返った。
     肌が粟立つ。
     雨によって霞んだままの景色に異変はない。
     窓の向こうを見つめる。
     瞬き。
    「やあ」
    「えっ」
     阿根は結んでいた唇から言葉にならない音を零した。下瞼と睫毛が触れ合う、正しく一瞬の間。その数えることも難しい僅かな空白を縫うように、眼前に現れた者を見る。眼鏡を押し上げ、今度は意識的に二度瞬きを落とした。
    「諦聴?」
    「そうだ」彼は端的に答えた。
    「どうしてここに」
    「雨宿り」
    「なるほど」阿根は湧き上がるため息を隠さずに吐き出すと、玄関を指で示した。「開けるから、待ってて」
     窓から離れて玄関へ向かう。入り口の鍵を解いた後で窓際に戻れば、既に諦聴の姿はない。黙ったまま雨戸を閉めれば、背後から一陣の熱風が吹きつけた。諦聴が濡れた衣を乾かしたのだろう。阿根であれば吸い込んだ水を全て取り除くが、彼は水よりも火に親しむ者だ。人であれ妖精であれ、得意はそれぞれに存在する。首だけで背後を見れば、顰めていた眉を緩めた諦聴が真っ直ぐに立っていた。
    「礼を言う」彼が言った。「……小白と猫は?」
    「小白は町の家にいるよ。小黒は……分かんないな。どっかで任務だとは言ってたけど」
    「老爺もいない」
    「お爺ちゃんなら叔父さんのところ」
     この雨だから戻るのは遅いと思う、と続ける。諦聴は小さく頷き、一人か、と呟いた。阿根はただ笑みだけを返し、椅子を指した。「座ったら?」
    「別に、ここで構わない」諦聴がすぐに言葉を返した。
     玄関の真横。雨音の音が止まればすぐに出て行くつもりなのだろう。雨宿りという言葉は恐らくそのままの意味だ。彼が阿根に会うつもりで訪れたとは考え難い。この家には大抵の場合祖父がいることを知っているのであれば、阿根が一人だったことは彼にとって想定外だったのかもしれないとさえ考えられた。
     阿根は鼻先に落ちた眼鏡を指で押し上げ、椅子に腰を下ろした。諦聴は背中で腕を組み、目を閉じている。その置物然とした姿は、かつて見た門番としての姿とひどく印象を異にする。彼が己の家の内にいることに口の端を緩めれば、吊り上がった目が微かに持ち上がった。
    「なぜ笑う」
    「座ったら?」阿根は繰り返した。
    「…………」
    「諦聴」
     名前を呼ぶ。彼はその表情の硬さに反して、平時においてという注釈をつけられるものの、石像のような頑なさを持っているわけではない。もう一度名を呼んでやろうと口を開きかけたところで、諦聴が黙ったまま椅子の横へ歩き寄った。木製の椅子へ腰を下ろし、これで満足かと問うような視線を投げる。阿根は表情を変えずに、彼の正面に置かれた椅子を引いた。
    「それにしても災難だったね。本当、急に降り出した」
     水に親しむ属性である故だろう、阿根は他者と比べて雨の気配に敏い。それにも関わらず今日の雨は降り始める直前まで予感をさせなかった。この雨はこの一帯において、正しい意味で、誰にも予想され得なかった天の気紛れと言えた。「何かあったのだろうか」
     通常の、大気の水分が自ずと集まり、雲となって降り注いだ雨であれば彼に感じ取れないはずがない。つまり、この雨は自然というよりも何かの引き鉄があって発生したものだと推測できる。言外にその疑問を含めて問いを投げれば、諦聴は素っ気なく窓へ視線を向けた。
    「龍が来ている」
    「まさか!」阿根が俄に双眸を見開いた。「近いのか」
    「山二つ向こうの上空だ。近ければこの程度じゃ済まないぞ」
    「それにしたって、こんな山の中へ来ること自体、そうあることじゃないよ」
    「多分迷い込んだんだろう。凄い勢いで上空へ登っているから大気が乱れて、その影響で雲が生まれている。雨は単なる結果」
    「すごいなぁ」
    「龍は大抵力が強い。混乱されると困るけれど、帰り道は見つけたようだから」
    「ああ、いや。そうじゃなくて」阿根が顔の前で軽く手を振った。「本当に、耳がいいんだなって」
    「……別に」諦聴が呟く。「聞こえるだけだ」
     零された言葉は屋根を打つ騒音にかき消され、すぐに姿をなくす。代わりに雨粒の鳴らす無秩序な響きが空間を埋める。
    「今日は、老君のお使いだったの?」阿根は数秒の間降り積もる静けさを楽しんだ後で、そう尋ねた。沈黙とは無駄な音のないことであり、声の出し方次第ではそれを守ったまま会話ができる。
    「有給をもらった」
    「え、」
    「冗談だ。まあ、老君とは関係ない。私自身の所用だ」
    「それはまた珍しい」
     雨粒が丁度屋根の真上に落ちたのか。一際高い音が天井の梁を伝い、空気を震わせる。諦聴は黒目だけで上空を見上げた。雨の勢いを確かめるための仕草。老君の使いであればまだしも、自己の都合で帰還が遅れることを気にしているのだ。
     相手の様子に構うことなく机に肘をつき、続きを促す。話したくなければ、苦手な雨に降られたからといってこの家に来ることはない。少しであれば事情を詮索されても構わないつもりなのだろう。少なくとも家に足を踏み入れた時点でそう認識されることを、彼が理解していないとは考え難い。
    「私にだって友はある」眉一つ動かさずに、諦聴は続けた。
    「へえ、どんな?」
    「数年前に起きた龍游の事件を?」彼が尋ね返す。
    「知ってはいるけど、あくまで人間のニュースでだけだ。正直ほとんど知らない……妖精が起こしたんだろうな、くらいのことしか」本当はその事件に小黒が関わっていたことも知っていたが、あえて言う必要もない。そも、彼の口からも深くは聞いたことがなかった。
    「その事件の中心に関わっていた妖精だ」
    「それは、また。随分と大物だな」
    「強いぞ」
    「一度手合わせ願いたいね」
     隠居の身でなかったら。態とらしく付け足された言葉に諦聴が小さく笑みを見せる。「お前に敵うほどではない……今のお前なら、分からないが」
    「それはますます、相手をお願いしたかった」
    「残念ながら、後数十年は難しいだろうな」
    「どうして」阿根は尋ねた後で、自ら頷きを落とした。「ああ、なるほど」
     事件の中心にあった者。そう呼ばれることがあるのは事件を止めた者と、直接の被害を受けた者、そして、引き起こした者の三者に分けられる。数十年は無理、その言葉は彼の友が事件を引き起こした者に類されると受け取るには十分だ。要するに、件の妖精は今なお収監中だという意味だろう。
    「会いに行ってやるなんて、よほど仲が良いんだね」
    「それなりに」諦聴は再び天井を見た。視覚よりも先に聴覚が捉えたものがあるにも関わらず。どこか落ち着きのない仕草。「…………彼奴も、」
    「うん?」
     阿根の耳に諦聴並の鋭さはない。空気を揺らすか細い波を捉え損ね、彼は首を傾げた。
    「大切な者を失くしたから」
     声音は変わらず。
     しかし、明瞭。
     雨足が弱くなっているのだろう。阿根は場違いにそう分析した。
    「お前の側には、欠けた者が多いな」
     何を言うべきか迷い、唇の先を無駄に動かした後で、ただそれだけを返した。他にかけるべき言葉があったような気もする。それでも、真っ先に事実を告げたのは、幾らかの後ろめたさがあったからか。阿根は言葉を吐き出した後で、誤魔化すように首の裏をかいた。
    「何か寂しさを埋めてくれるものがあるんだろう……お前になら開けた穴を晒しても良いと思えるだけの何かが」
    「……私には誰の空白を埋めることもできない。彼らの空いた胸に残る篝火を絶やさないよう見守るくらいがせいぜいだ。私は、ただの焔だから」
     焔。
     寒さに震える中にあって、その温もりがどれほど有難いものか。
     暗闇に立竦む中にあって、その明るさがどれほど心強いものか。
     それが、限りなく唯一に等しいの焔であれば、尚更に。
    「そうか、だから、」頭から流れ出すままに、言葉が零れ落ちる。「お前は俺に、会いに来たのか」
     彼にとって、空白と呼べるものを見つめに。
    「玄离」
     諦聴が名を呼んだ。いつか、再会を果たした時の呼びかけに似た、眼前の存在を留めようとする声。
    「よく考えれば、お前の耳をして、家に誰もいないということに気が付かないはずがなかったな」
    「……雨が降ったのは、偶然だった」
    「それでも、会いに来たいと思ったんだろう?」
     少なくとも彼の抱える穴、それも最も大きな空洞の一つは玄离のために開けられたものであると玄离は自覚していたし、彼がそれを埋めずに置くことを選んだこともまた承知の上である。
    「私たちは互いをよく知っている」
     つまり、玄离の考えたままで構わないという意味。玄离はレンズの奥にある双眸を細め、大きく頷いた。確かめるまでもなく、頬の緩みを感じる。諦聴は玄离の顔を数秒の間見つめ予備動作もなく立ち上がった。
    「帰る」
    「そうか」
     簡素な言葉だけを交わし、諦聴は真っ直ぐに部屋を横切り、扉へ手をかけた。
    「世話になったな、」部屋の中に残る少年を見据える。「小僧」
    「老君によろしく」
     阿根が言い切った途端に一陣の風が吹き抜ける。空はまだ灰に覆われているもののほとんど名残の雨となっていた。後数時間も経てば、元の晴れ間が戻るだろう。諦聴は手のひらで雫の調子を確かめると振り返ることもなく空へ駆け出した。一呼吸を置く間もなく、彼の気配は遠くへ消えていく。
     天上を見上げれば、厚い雲の隙間から紫の光が射し込んでいた。
    3(山新+谛听)「あ、イケメン」
     突如目の前から投げられた言葉に諦聴は一度瞬きを落とし、それから眼前を見据えた。ゲームや漫画の煌びやかなポスタ。最後尾を示す札。館内放送のアナウンス。人々の足音。拍手。喝采。一度に渦巻くほどの情報を湛えながら誰も気にせず混沌の中に笑いながら身を置く場。何があれど、何が混ざり込もうと容易には分からない場所で、その言葉が己に向けられた事であると理解するのは容易い。しかしそれはただ見目の良い人間に向けられるものではなく、確かに、己を個として指し示す言葉であった。諦聴の耳は些細な音の違いを、その裏に潜む機微さえ聞き逃すことはない。
    「君は、」諦聴は音もなく首を傾げ、それから思い付いたように言葉をこぼした。「二つ結びちゃん」
     彼が呟いた拍子に、彼女は笑いながら大きく頭を振った。かつて頭の高い位置に結えられていた二つの髪束は真っ直ぐに降ろされ、穏やかな波を打っている。一頻り笑い終えた少女は手にした箱を抱え直し、なんだそりゃ、と言った。箱の正面に貼り付けられていた「優勝」のラベルが落ちたことには気が付いていないようだ。
    「君の名前を知らないから」
    「私もお兄さんの名前は知らない。それより、何年もそのコスプレやり続けてるの?」すぐに分かったと少女は再び笑う。諦聴はその問いには答えず、彼女を見下ろした。記憶の道には数えるほどもない人間の少女。それでも、過去の姿よりは少しばかり背が伸びている。歳の頃が変わっているのだろう。人であれば当然のことだ。当たり前のことを尤もらしく思考した自分へ向けて僅かに自嘲をこぼす。
    「君は大会へ出るために?」諦聴が誤魔化すように尋ねた。
    「まあね。他に出来ることもないし、楽しいし」
    「そう」
    「貴方は?」
    「お使い」
    「へえ」
     諦聴がこの少女について知っていることは殆どない。名前さえも知らず、かつて一度だけチームメイトを探していた彼女に助力したことがある。それだけの関係。少女の方もまた、声をかけた以上に諦聴への興味はないようで、呆と立ち尽くしている。ゲームに向き合っている時、或いは彼女の友人といる時であれば、彼女はよく話すのだろう。
     友人。
     少女の友人はどこにいるのだろうかと思考する。少女との関係よりは幾らか親しみのある顔を思い浮かべ、耳へ神経を傾ける。喧騒。しかし雑踏の中には見知った音を持つ者はいない。
    「小白は?」仕方なく、諦聴は口を開いた。少女の友人の名は知っている。
    「いないよ」
    「元気?」
    「多分」
    「曖昧だな」
    「最近会ってないから」
    「そういうものか」
    「友だちだからって、いつも一緒にいるわけじゃない」唇を微かに歪ませ、少女は言った。
    「友だち」諦聴は繰り返した。
    「そう。だから、あの子の邪魔はあんまりしたくないんだ」
    「邪魔?」
    「何があったんだろうね。小白は昔と変わった……少しずつ変わっていっていたんだ。私の知らないところで、私の知らない出会いがあって、それが良い方向へ働いた。それだけなんだけど、気付いたら、私よりもずっと広い世界を見るようになっていたみたい」
     彼女の知らない出会い。その言葉に諦聴は微かに眉を顰め、それから己のことを思考した。彼女の友人である少女と黒猫の出会いの原因に、少なからず彼も寄与していたという自覚があった。反対に少女と出会うことがなければ、しかし、今この場で彼女と諦聴が言葉を交わすことはなかった。諦聴の目的は主である仙人の望む品々であったし、彼女は彼女の目的のためにこの場を訪れているのだろう。
     彼女が徐に息を吐いた。無意識に繰り返される呼吸ではなく、意図された溜息。薄茶色の頭を見下ろせば、彼女は己の眼前で掌をひらりと振りやった。「突然言われても困りますよね。ごめんなさい」
    「小白と喧嘩でもしたの」
    「そういうわけじゃないけど……」
    「なら、どうして?」
     どうして。どうしてそれを尋ねるのだろうと、自身に問う声が聞こえた。彼女と小白がどうであれ、それは俗世に生きる人同士の問題だ。彼には関係しない。人の在り方に口を挟もうとするには、諦聴は長く生きすぎている。
     それを、どうして。
     尋ねてやりたいと思うのだろう。
    「小白はね、今、外国の学校に行きたいって勉強に必死なの。だからあんまり、遊びに誘うのは良くないかなって私が勝手に遠慮してるだけ。メールはしてるから、元気なのは知ってる」
     少女が言葉を一瞬、それは正しく瞬きの間に等しく並の者では捉えることも難しいだろう時の隙間であったが、呼吸を止めた。
    「だけど、応援してあげたいんだ……友だちだから」
     友だち。
     大凡、その言葉のせいなのだ。
     己に声をかけた者が顔を知った者でなくとも、同じことを尋ねただろう。確かめようのない確信が思考を埋める。
     諦聴は彼女の言葉を余すことなく聞き取るように目を閉ざし、それからすぐに目を開けた。彼女からすれば少し長い瞬きに思えたのだろう。口の端を僅かに緩め目にゴミでも入ったのかと尋ねる。
    「いいや、」諦聴が言う。「心配はいらない」
    「何の?」
    「君と、小白の」
    「…………?」
    「自分が、相対する者が、世界がどれほど変わっても。変わらずに共にいる存在は言葉通り、かけがえのないものだから」諦聴は言った。「互いに影響を与えないからこそ安堵できる関係。それは良き友人の在り方として、一つ、間違いではないよ」
     少女が無言のまま目を細める。丸い双眸の内から、俄かに水音が響く。それを聞き取れた者は、諦聴の他に誰もいないだろう。
    「…………どうして、分かるの」無為に呼吸を繰り返し、少女が尋ねた。
    「私にも、ただ心の中で席を空けておいてやるくらいしかできない友人がいる」
     諦聴は鉄に覆われた屋根を仰ぎ、その上に広がる青を脳裏に描いた。
    「それだけだよ」
    4(风息+閔先生)『隠せ。』--戒はこの一語で尽きた。(島崎藤村「破壊」より)

    「お借りしたいものがあります」そう告げた瞬間に、眼前の妖精は俄かに顔色を変えた。言葉を口にした青年は、老人風の男の表情を真っ直ぐに見つめている。
     頭を下げなくてよかった。
     場違いな思考が頭の片隅を過ぎる。目の前には驚嘆と失望と、それから少しの軽蔑が滲んでいるようだった。尤も、暗闇の先、色の濃いレンズに遮られた視線の全てを察することは難しい。故に幾らかの想像が混ざっていたし、男の向ける視線がどれほど青年を否定するものであったとしても、不快だとは感じなかった。むしろ当然だとさえ思った。今から行われようとしていることを相手も正しく把握しているのだ。男の視線は彼にそれをよく知らしめた。
    「…………風息」
     男が息を吐いた。
    「何でしょうか、閔先生」
    「私はお前の先生であったことはないよ」男は言った。
    「……そうでしたか?」青年は疑問符を返した。「体術や音楽の大凡はあなたから教わったつもりでした」
    「体術も、何も。お前がうろちょろと私の周りを駆け回って、一緒に覚えただけだ」
    「あの頃は、楽しかった」
    「そうだね」男が表情を変えずに言った。「何もかも見たままに覚えていく。お前以上に私を楽しませて……未来への希望を見せてくれた子はいなかった。あまりにも才能に溢れていたからね。とても私では師など務まらないと思って、終に、弟子にはしなかったけれど」
     青年は男の言葉に、静かな笑みを返した。音もなく、ただ唇だけが三日月のように弧を描く。重く垂れ下がった前髪が偶然に吹き抜けた風に揺れ、却って彼の微笑みを覆い隠している。
    「しかし、私はあなたに教えを受けました」
     己の手を見つめ、それから、今度はゆっくりと頬を持ち上げた。意図された動き。自嘲。或いはもう形ばかりの笑みの他に、何の表情を浮かべられないという諦念か。
    「たった一つ。私にとって、絶対に守るべき、なによりも重要な戒めを」
     先までの微笑は影を失くしていた。風に荒らされた髪が皮膚に張り付く不愉快さを齎らす。彼は片方の眉だけを顰めた。
     男は底の見えない双眸で彼を見上げたまま、身動ぐこともなく口を開けた。
    「どうして私が『それ』を禁じたのか、理解しているね」
    「私が『これ』持っていると知られては、妖精の内で生きてはいけないから」
    「それは、なぜだと思うかね」
    「恐ろしいのでしょう。自らの修行を奪われることが」
     修行とは即ち生命。人が生まれ持った寿命を食や運動により長く、健やかに維持しようとするのと同様に、妖精にとっては修行は己の生命を育むことに等しい。
     一方で修行とは力だ。学を得るために知識を蓄えるように、武芸を修めるために刀を振るうように。生まれ持ったものを、より拡張しようという行為でもある。
     どちらの意味であろうと、それらを奪われることが恐ろしい。
     呼吸を置くこともなく返された答えに、男は頷きを見せた。
    「しかし、己の努力によって築いたものという意味では財産と変わらない。我々は盗みを悪と見做すが、実際のところは秩序のためであり、盗むという行為自体を忌避しているわけではない」
     男は鼻の先に落ちた眼鏡を押し上げた。だからいつの世にも盗賊は存在すると男は笑った。青年は笑わない。
    「しかし、お前の力の場合は少し異なる」男は続けた。表情は元通りに戻っている。「『強奪』が忌避されるのは、行為そのものが恐ろしいからだ」
    「どうしてですか」今度は風息が尋ねた。「盗まれた結果を恐れるのではなく、盗まれる過程そのものを恐れると? 苦痛があるから?」
    「未知だからだよ。珍しい力は恐れの対象になりやすい……それが、他者への影響を与える前提で奮われるものであれば尚更のこと」
    「だからあなたは私に、戒を与えたのですね」
    『強奪』を奮ってはならない。存在を知られてさえいけない。使おうと、使うまいと。所持しているだけで、そういう属性に生まれついたというだけで、許されないものがある。
     思えば、これが彼にとって原初の不条理だった。森を脅かす人という存在よりも長く、側にあった理不尽。例え男が告げなくとも、彼は揺るぎない現実に、遅かれ早かれ直面していただろう。それをこれほど長く耐えていたのは、ひとえにそれが正しいのだと彼が信じていたせいであるし、そう信じてこられたのは、伝えたのが眼前の男だったからだ。もし他の者から言われていたとすれば、その戒めは彼の中でさほど重要な意味を持たなかった。少なくとも彼は、そう確信できるだけの敬意を眼前の男に抱いている。今でも、尊敬の念は変わらない。
    「そうとも」男は答えた。
    「お前は誰にでも親しめる、懐こい子だったから……その力を見せては望むように生きられまいと、そう思ったのだよ」
     お前が兄と慕っていた氷の妖精は、決してそのように言わないだろうから。男はそう続けながら、思い付いたように「彼は元気か」と言った。青年は小さく頷く。首を動かしたはずみで空を見上げた。天上の星は気の向くままに瞬き、濃い藍色の空を彩っている。静かな夜が明けるにはまだ時間がある。
     けれど、もう夜明けを待つことはできない。
     頭を下げる。
     真っ直ぐに。
     うち倒される木のように、潔く。
    「先生」
     伏せられた顔から覗く双眸だけが、鋭利。
    「私はあなたにいただいた戒めを、破ります」
     僅かな摩擦さえ許さない静かな言葉こそ、鮮烈。
    「どうか、お力を」
     頭を上げる。
     同時に男がゆっくりと立ち上がった。
     無言のまま。彼の前に歩き寄る。
     青年の手のひらが男の額に触れた。
     風は吹くのを止め、生温い空気が全てを包む。
    「必要なのであれば、奪いなさい」
     男が言った。
    「私は抵抗はしない。しかし、自ら差し出すわけでもない……戒を葬るのであれば、相応の振る舞いで、私を打ち捨てなさい」
     冷たい声だった。もしかすると、男はめいいっぱいの優しさを込めていたのかもしれない。それでも、彼の耳には冷たく聞こえた。彼にとっては、その温度こそ現実。現実とは、しかし、認識する者によって変化するテクスチャである。
     少しだけ、寂しいと感じた。男の手を離したことに対してではない。まだ、己の現実を感じられるという事実に。だから、夜の空気の、湿気を含んだ熱のせいにすることにした。否応なく肌へまとわりつき、剥がすことのできない、粘性。逃れることのできない気配と比較すれば、男の声は時雨のように冷涼といえる。
    「…………、……」
     指先へ力を込める。現実に存在し得る力ではなく、身に馴染んだ霊を集めていく。
     爪先の感覚が鈍い。
     全身に巡る血の拍動が、内に響く轟を意識させる。
     力は徐々に競り上がり。溢れ。
     水風船のように。
     破裂。
     白光。
     眩すぎる視界の中で、男の眉が歪む様を見る。
     声はない。
     認識ができていないだけか。
     光は二秒も経たず、彼の掌中へ流れ込み。
     最後に残された一筋をも掴みながら、彼は呟いた。
    「……先生」
     返事はない。気を失っていると、確かめるまでもなく理解する。強奪を受けた妖精がどのようになるのかということは、当然、承知の上だった。
    「あなたの力が必要なのです」
     霊音はあらゆる物質を飲み下す人間に立ち向かうためには最適な力だ。それは彼でなくとも、容易に考え付くであろう戦略。しかし男の持つ力が霊音ではなくとも、彼は力を奪うことを選択しただろう。例え男に恨まれ、館に動きを、幾らか想定よりも早く悟られることになったとしても。その仮定を踏まえようと、やはり結論は変わらない。
     彼は男の力を奪わねばならなかった。
     授けられた戒めをうち砕くために。
     頭を下げ、不義理を明かすことが必要だった。
    「許されることではないでしょう……許されるつもりもありません」彼は一方的に囁き、唇を固く結んだ。これ以上の言葉は無用であると、唯一の物見客であった月に示すように。
     倒れた男の背を壁にもたせかける。服に着いた埃を払う。それから椅子と机の並ぶ庭先を振り返った。丁寧に置かれた二胡は傷一つなく、そこにある。漠然とした思考の片隅で、誰かがよかったと言った。息を吐く。ひどく熱っぽい。力を使ったせいか。全てをやり終えてなお皮膚の下で波打つ緊張のせいか。何にせよ、大気と混ざり合う己の呼気が不快に感じられた。地面を蹴り、宙へ飛び上がる。風に吹かれれば幾らかマシになるかもしれない。
     そのまま、夜の最中を走り出す。足は止まらず、ただ、闇雲に。走り続けていけば、どこかに辿り着けるだろうと考える。
     そうして彼は、暗闇を駆けて行った。
    5(一凡仙人) 彼はいつも駆けていた。勿論、実際に走り続けていたわけではない。ただ、彼の心は常にどこかを目指そうとしていた。
     行きたい場所。見たい景色。触れたい物質。
     様々な望みに駆られる度に、彼は軽く世界へ飛び出して行った。そして一つ叶えれば、また次の望みが湧き上がる。岩の隙から清水が湧き出すように。それが再び、彼の足を駆けさせる。彼の心は絶えず望みのために拍動を続けていた。一処に留まることなく、常に遠く、まだ見ぬ希望へ向けられる意志。それが彼という存在であったと言っていいだろう。
     幸いにも彼は、誰よりも早く、強い脚を持っていた。落葉が地に触れるまでの間に平野を駆けることも、水溜まりを踏み越えるような気軽さで山を踏み越えることも、彼には容易だった。
     いつか、その脚があるからどこへでも駆けてしまうのか、どこへでも駆けて行くために力を得たのかと尋ねられたことがある。彼は一言「覚えていない」と答えた。その時、彼は既に何百という歳月を過ごしていた。長く生きる身では生まれたばかりの記憶などいつの間にか薄まり、拡散されてしまう。何より、常に未来を志向する彼の心には過去を振り向く余地などない。もしも、空間と同様に時間の中を自在に行き交うことが出来れば、彼は過去でさえ見るべきものとして求めただろう。しかし、どんな妖精であれ、時間を彷徨うことは難しい。何にせよ、振り返ったところで戻ることはできないと分かっている以上、そのような問いは彼にとって無意味でしかなかった。
     目指す先を見据えること。彼にとって重要なことはそれだけであったし、世界には向かうべき場所が山のようにあると思っていた。
     だから、駆け続けた。
     誰にも止められることなく。
     己の心さえ振り切り。
     自由。
     何処へでも行けるのだと、疑わない。
     ある時は砂漠まで駆けて行った。彼の生まれた土地の近くにも砂漠と呼ばれる砂地は存在したが、それらとは比べ物にならないほど広い砂の海へ臨んだ。足の裏に伝わる熱は耐えず陽を浴びるために火傷と錯覚するほどに熱かった。砂は黄金色に輝き、両手で掬い上げればさらさらと流れ落ちた。一方で、夜になれば砂が遠く影に沈み、森よりも黒く地を染め上げた。昼の日差しが嘘のように冷たい空気へ一変する。このような場所に暮らすのは、ただの獣や人では難しいだろうと考えた。実際、砂漠の最中で隊商の列と出会うこともあったが、どれも水脈に近い場所であったし、そうでない場所には人の影はおろか、獣もほとんど存在していなかった。何もかも砂に埋もれた土地。
     それでも夜空に浮かぶ月だけは印象深く覚えている。
     冴えた白月の、ひどく美しい輪郭を。
     またある時は、火の山を訪ねた。大陸のおよそ反対側にあるという大きな山だった。いつ火を噴き出してもおかしくはない場所であるのに、麓には村がある。それが面白く思われ、彼はわざと人の作った道から山を登った。賑やかな山道ではあったが、当然、人の道などを使っては火の吐き出される場所までは上がることができない。仕方なく道を逸れて一息に飛び上がった。頂上に辿り着いた途端に熱気が顔を焼く。山の中央に開いた穴を見下ろせば、赤く、粘性を伴って沸き立つ溶岩の姿が目に焼きついた。そのエネルギィは、彼がそれまでに見たものの中では格別だった。地球の中で、あれほど凄まじい熱量を見ることは難しいだろう。今でも、そう思う。
     炎から身を守る術を知っていたために、彼は戯れに穴の中へ降りた。掌で溶解した熱に触れる。どろどろとした温度が肌にまとわりつく。
     只管に溢れ満ちたエネルギィを叫ぶだけの赤。
     暴力的なまでの熱。
     全てはそこに始まり、終わっていく。
     好ましいとは思えない。
     好ましくなかろうと、しかし、ただ眼前に波打つ熱は見応えがあった。あまりに純粋な生命。このような生命が世界にはあるのだと、識ることに価値がある。決して無駄ではない。彼は火口へ戻り、暫く腰を掛けていた。掌が味わった停滞した粘性の感触が消えるまで。
     氷の大地を訪れたこともある。極北にある、氷からなる大地。地続きではないため、海を越えなければならない。潮風の中を飛ぶことは地の上を駆ける感覚とは違うのだと知ったのはこの時だったように思う。海の上にいる方が身体が軽い。重力は変わらないはずなのに。視覚を遮られないせいか。それとも、海と空の色があまりにも似ているので、感覚が鈍くなってしまうのか。だから氷の上へ降り立ったとき、彼は細やかな失敗をした。落下。或いは墜落。勢い良く飛び続けていた反動と、地球に満ちる引力を読み間違えたのだ。衝撃的な体験だった。
     氷は硬く、彼一人の身体を受け止めてもひび割れることはなかった。彼は倒れ落ちたまま冷たい大地に頬を当てていた。氷の下では絶え間なく海水が蠢き、低く長い轟きが神経を震わせる。時折、どこかで氷が割れているのか、破裂音が聞こえてきた。しかし、それだけ。他に音はない。彼はいつの間にか息を潜めていた。肌が氷に張り付き、動きを阻む。全てを氷の内に閉ざしてしまうような、全てを一体化させてしまうような、統一された静寂。黒目だけを動かしていれば、遠くに動く物の影が見えた。大きな身体に、丸い耳が見える。熊のような形をしているが、色は白い。世の中にはたくさんの獣がいるのだから、きっと、彼もこの場所では当たり前の存在なのだろう。動きを止めた生き物がいるというのに、獣は近寄らずに去っていった。
     そのうちに、夜になった。彼の生まれた場所よりも、ずっと空が近い。星も見知らぬ姿をしたものばかり。さらには地平に降り注ぐ光の布が揺れていた。宇宙からの鮮光か。空を仰ぐ。一息に身体を起こし、そして跳躍した。白く濁った霞が顔を覆った。
     それらを行き過ぎた上空に佇み双眸を見開けば、洪水のような光りが網膜を焼く。
     青。それから紫。
     宇宙より降り注ぐ色彩の、波が彼を物ともせずに流れていく。生命のない。ただそこにあるだけの光。生命に左右されることなく、織り重なるだけの輝き。
     自ずと涙が溢れ出す。
     そう、彼はいつも、こうして泣いていた。
     溶岩の粘りを指に遊ばせている時も、砂漠の冷えた夜の中でも。頬には確かに涙が伝っていた。そういう時は決まって、泣くために世界を駆け巡っているのかと錯覚する。美しいから泣くのか、望んだ景色だから泣くのか。分からない。
     雨のように落ちていく涙を拭った拍子に、頬の皮膚が幾らか剥がれていることに気が付いた。きっと、氷の上にこびりついて、残されてしまったのだ。取り戻すことはできない。それでも彼は、落とし物にしては悪くない、と思った。
     それからも、彼は世界を駆け続けた。珍しいものも、普遍であるものも、全てを知ろうと星の内を走り続けた。その過程でいつの間にか仙と呼ばれるものになっていたけれど、それは彼にとって些細な変化に過ぎなかった。一つの生命が、多少の力を得たところで、世界が、星が、どう変わるというのか。彼は仙になってなお駆ける理由を尋ねられるたびに、そう答えた。そして、また風のように駆けて行く。
     砂漠を見た。
     山を見た。
     海を見た。
     花を見た。
     樹を見た。
     獣を見た。
     人を見た。
    「地球の中はもう大体見てしまったなあ」
     ある時、彼は潮風を纏いながら、呟いた。
     海の上。小さな島の群れを見てきたばかりだった。潮風の中を走ることは変わらず好ましい。地よりも、少しばかり自由な心地になる。走りながら彼は振り返り、背後に見える大きな月を見た。昇り始めたばかりなのか、半分ほどを水平線に隠している。遠い昔に見た月によく似た白い輪郭。
    「ああ、そうだ、」
     白い光が身を包む。いつかの、光の波を見た空を連想させる、静かな夜だった。
     彼は脚を止め、それから遥か高くに聳える天蓋を仰ぐ。
    「月や、星や、宇宙を、私はまだ見ていないじゃないか」
     そして彼は、真っ直ぐに宙を蹴り上げた。
    6(阿赫) 手錠はかけられていなかった。足も自由。そも、この場に来たことさえ彼らの意思で、彼らにとっては彼らを連れて来た者たちが自分たちへ向かなければならなかったという誉でさえあった。
    「これで三度目だ」眼前に座る男が静かに言った。「阿赫」
    「俺の名前知っているんすね」
     呼ばれた名前に視線だけを投げ、安っぽいパイプ椅子の背もたれに深く体重を載せた。左右を螺子一つずつで止められただけの簡素な椅子がか細い悲鳴をあげた。背を預けるには心許ない。隣を見れば、背を真っ直ぐに伸ばしたままの友人がただ眼前を睨みつける横顔が見えた。唇を結んだまま、何を言うこともない。眼前の男もそちらへは話しかけようとはしなかった。三回目にもなれば、彼らの役割に気づいているのだろう。つまり、喋るのは阿赫の役目であるということに。
    「知っている。三回も顔を合わせれば」
    「ふぅん。俺らとしちゃ、あんたらと顔を合わせるのは三回じゃ数が合わないんだけどな」
    「…………それは、」
    「俺たちは学がない妖精だからなぁ、数え間違い?」阿赫は掌を頭に当てて首を傾げた。「なあ、无限様?」
     当然、意図した動き。その拍子に毛糸の柔らかな感覚が触れ、今回も奪われずに済んだと内心で息を吐いた。この場所を遠目で監視しているであろう、心霊系の妖精に気取られぬように。
     妖精会館の龍游支部。その北側に面した一室に阿赫と叶子は通されていた。窓はなく、部屋の中には机と向き合うように置かれた椅子が用意されている。それら以外には、何もない。本来は二人だけを入れるためにら作られているのか、阿赫が腰を下ろす椅子は、彼らが到着した矢先に慌てて運び込まれたものだった。
     これがどのような場所であるのか、阿赫も叶子もよく理解していた。もしかすれば、妖精会館に出入りする者以上に知っていると言える。館の方針に賛同する者が厄介になることはまずない部屋であったし、館に属さない身でありながら、阿赫たちがこの部屋に通されたのは初めてのことではなかった。会館の設備図に記された名前は会議室、そして、通称は反省室。館の規則に反しかけた妖精から事情を聞き取り、厳重な注意を行なうための部屋である。
    「それにしても、今回はアンタが話をするんだな」阿赫は身を起こし、机に肘をついた。「最強の執行人をわざわざ出してくる理由は?」
    「……言う必要はない」
    「まさかとは思うけど、俺たちがアンタには萎縮するとでも思われているのか?」
    「公衆の面前において妖精は正体を晒してはいけないということが館の規則であるとは、」
     阿赫の問いには答えず、无限は手元に置いた紙を見た。
    「知っているか?」
    「当然」阿赫は表情を変えずに言う。
    「次、変化術の不使用を扇動することは?」
    「当然」彼は繰り返した。
     无限は紙面から顔を上げ、阿赫の顔を見た。ゆっくりと見据え、それから、同じように叶子の顔を観察する。彼の顔が正面に戻るのを待ち、阿赫は「それで」と言った。
    「それで、お前たちは知っている?」
    「何を」
    「一つ、俺たちは変化術を使わなかっただけで一言も妖精だと言っていない。二つ、俺は街を歩いてる姿をアップしただけ。三つ、俺たちは館に属していない以上、本来は館の規則なんかに従ってやる義理はない」
     頬杖をついたまま、眼前の男へ視線を上げる。彼は眉一つ動かさずに阿赫の視線を見つめ返した。一瞬の沈黙。遠くで何かあったのだろう、館に住まう妖精たちの笑い声が隙間風と共に微かに髪を揺らした。
    「お前たちの姿は比較的人に似ているが、それでも妖精であると知られるリスクがないとはいえない」
    「四百年を生きるお爺様には分からないかもしれないけど、現代人なんてちょっとやそっと見た目がおかしくても気にしてないみたいだけど」
     パイプ椅子の背にかけられたジャケットからスマートフォンを取り出し、阿赫は慣れた手つきで写真のフォルダを開いた。
    「はい」と差し出された画面を无限が覗き込んだ。
     龍游の一角。大通りに面したコンビニの駐車場だろう、開けた空間数名がピースサインを翳している。中央には学生服を着た男女が四人。そして彼らの隣に、岩を纏った大男が写っていた。
    「コスプレですかって。写真を撮ってくれって言われるんだけど俺は地味だからか、やっぱり叶子が人気だね」
     机に置かれたスマートフォンを指でなぞる。次々に変わる画像には、やはり、通りすがりなのだろう人間と、変化を解いた叶子の姿が並んでいた。
    「写真を撮らせたのか」
    「人は隣を歩く誰かが妖精だなんて思わない……イベントなんかなくても、変な格好した奴らがいたら、何かあるんだろうと勝手に推測して、片付ける。だから、館の規則に触れてはいない」
    「インターネット上で変化をせずに歩こうと呼びかけているのは?」
    「呼びかけじゃなくてただの投稿だよ。変化せずに歩いてる俺を見て、真似する奴が出たとしても、それはそいつの意思だ」
    「……龍游は館の管理下にあるということを理解しているな?」
    「館に何一つ世話になってないのに、出て行けって?」
    「違う」
     无限は即座に言葉を返した。阿赫が僅かに目を開く。「違う?」
    「お前たちが出て行くことを望んでいないことはわかっている」
    「……ふぅん。お前にわかるって言われるのは、癪だなぁ」
    「龍游には会館がある。だからそれを破る、或いは破りかけるようなことを繰り返せば私たちは止めざるを得ないし、あまりに繰り返されるようならば注意ではなく捕らえることも視野に入る」
    「それで?」阿赫が尋ねた。
    「せっかく出られたのに、どうして同じことを繰り返す」
     黙り込んだまま、叶子が机を叩いた。横に座った阿赫が彼を制止する。内心を聞かれて、それを理由に捕らえられては堪らない。意味がない。そう言い聞かせるように叶子の口を掌で覆う。
    「お前たちの方こそ、どうして忘れようとする?」
    「忘れることはない。あの事件は龍游に住まう全てに傷を残した。それは私たちだけじゃなくて、お前たちにも同じだろう。忘れてはならないという意識だけは、共有できていると思っていた」
    「ご都合主義は相変わらずだな」
    「……よく喋るようになったな」无限が言う。
     阿赫は投げられた言葉の意味を飲み込むように深く瞬きを落とし、そして、にっこりと微笑んだ。
    「もう黙るのは止めたから」
     心霊系、傀儡。阿赫の持つ力は、奮っている間沈黙を余儀なくされる。彼の言葉全てが操っている者の行動に影響されるためである。余計なことを言うことはできないし、口を塞がれては他者を操っても意味がない。それを知っているからこそ、いつかの列車内で无限は真っ先に阿赫の口を塞いだのだろう。
    「何のために」无限が問う。
    「俺たちのために」阿赫は答えた。「風息の上げた声は、ずっと俺たちが上げたかった声だ。それを無駄になんて、したくない」
    「それで、風息の真似事を?」
    「結局、館が危惧しているのはそれか」
    「危惧するなと言う方が無理だろう。あれは、犠牲が多すぎた」
    「犠牲、ねぇ」溜息に混ぜられた言葉に続くものはなく、阿赫は再び背をパイプ椅子に凭せ掛けた。
    「風息はもういない」
    「言われずとも」
    「彼は死を選んだ」
    「……死んではないよ」
    「木に還ったとして、そこにもう彼の意思はない。それは死んだと同じだ」
    「そこで死と言うのか」阿赫は无限へ人差し指を向けた。「やっぱり、人間」
     嘲ることもなく、ただ事実を告げるだけの口調。无限は微かに首を傾げた。
    「そうだが?」
    「勘違いしないでほしいんだけど、別にアンタが人間だからって俺たちの中で、何か印象が変わるわけじゃない。アンタが最悪なまでに強い執行人様ってことは変わらない」
    「それは、どうも……?」
    「ただ妖精は、死という言葉を使わない。その点アンタは人間なんだと思っただけだ」
    「思考を無くし、自らの行動を止めることが死ではないと?」
    「現象としては死と変わらない。風息は木に還ったけれど、あの木は風息ではないから。だけど妖精にとって自らの生が終わるのは霧散や消散……それくらいだ。わざわざ死という言葉で重みを意識しない」
    「それなら、死という言葉で間違いがないのでは?」
    「そう思うから、アンタは人間なんだよ。无限」
     阿赫が微笑む。
    「兎も角、俺たちは俺たちなりに声を上げ続ける。これからも.風息の上げた声を消させないために。人に……館に、声が届くまで。まあ、館の厄介にはなりたくないから、規則ギリギリのところは守ってやるけど」
    「既に厄介になっているとは?」
    「お前たちが勝手に出てきて勝手に連れてきてるだけのことに? 俺たちが付き合ってやってるんだということを忘れるなよ」
    「……そんなにも、風息が好きだったのか?」
    「大好きだったさ。俺たちみんな……だけど、それだけじゃない。風息が好きだから手を貸したんじゃない。彼の声に、理想に、夢を見たから手を貸したんだ。だから、彼が消えても止まる理由にはならない」
     叶子の口を押さえたままになっていた掌を剥がし、その手を机について立ち上がる。
    「言っただろう?」
     同じように立ち上がった叶子の背を叩き、入り口に向かう。話は終わりだと言うように。実際のところ任意の同行である以上、彼らを引き止める権利は无限にないと知っていた。
    「俺たちは、黙らないよ」
    7(老君+谛听) 主人が窓を覗いていた。内側へ僅かに迫り出した窓枠の縁に腰をかけ、体重を預けるように外へ重心を傾けている。子どもの形をしているからといえど、彼が大人と呼ぶべき歳であることは理解していたし、この空間においては万一にも落下の危険がないことくらい想像するまでもない。
     その上で、諦聴は「危ないですよ」と呟いた。口には出さない。出す必要はない。心の中で念じるだけで十分に伝えられる。
    「心配をしてくれるのかい」と主人が振り返った。「おいで」
     諦聴は許可を得られたような心地で一歩部屋に踏み入り、窓の奥へ視線を向けた。「何か、面白いものがありますか」
    「いつもと変わらない。ただの星空だよ。面白いものが見たければ、とっくにそうしているとも」
    「そうですか」諦聴はそれだけ答えると、手にしていたはたきを壁に立てかけた。「落ちないでくださいね」
    「落ちたらかっこ悪いねぇ」
     主人はふざけた調子で肩を揺らすと、窓を向いたまま諦聴を手招いた。彼は小首を傾げ、一拍の後に窓際へ足を進めた。主人の意図が読めないことは今に始まったことではない。そして目的が分からないというだけでは、従わない理由にはならなかった。
    「諦聴」
    「はい」
    「妖精と人の違いはなんだと思う?」主人が尋ねる。窓を透かす眼差しは天上に描かれた星よりもずっと近くに落ちた影に縫いとめられている。
    「様々ありますが、霊質にアクセスできるかどうか、でしょうか」
    「无限のことは知っているだろう?」
    「存在としては。直接会ったことはありません」
    「あれも確かに人間だよ。立場がどうあれ、今も変わらずね」
    「貴方は雀と恐竜を比較されると?」諦聴はすぐに言葉を返した。
    「なるほど、ふふ、そうかい。无限は恐竜か」
     星の明滅から目を逸らし、主人が諦聴の方へ首を向けた。子どもの容姿には不似合いなな双眸。鋭利な刃物よりもよほど研ぎ澄まされた視線を真正面に受け、諦聴はもう一度首を傾げた。
    「それで、」
     わざとらしく意味ありげな行為を見せて、意味を尋ねてもらいたがる。その仕草は確かに子どもらしいと言えた。それに正しく応えてやるのが諦聴の役目でもある。だからと言って遠回りに付き合うかは諦聴次第で、おおよその場合彼は回りくどさを嫌った。
    「何をお考えになっていたのですか」
     端的に問えばそれでも主人は満足そうに頷き、再び窓の外を向いた。
    「人と妖精の共通点を言えるかい?」
    「どちらも生命……知恵を持つ生命であること」
    「そう。より正しく言えば、主観を持つ生命だ」
    「知恵ではなく?」
    「リスは冬眠のために木の実を土に植えるし、犬は芸をよく覚える。これらも知恵の一種だ」
    「一理ありますね」諦聴は頷きながら主人の頭を見下ろした。小さな頭にはどれだけの知恵が詰まっているのか。さながら小宇宙くらい形成できるのではないか。そのような思考が徒に浮かぶ。
     主人は外を眺めながら「ここも宇宙だよ」と呟いた。「君は物分かりがいいね、諦聴。番犬扱いが惜しいくらいに」
    「……ええ、できれば、番犬程度にしていただけるとありがたいですね」
    「謙虚なことだ」
    「私がここにいるのは貴方のためじゃない」
    「しかし、君のためでもない」主人が笑う。
    「老君、」従者は笑わなかった。「話の続きを」
     主人が唇の端を平行に結び、それから口を開き直した。窓の外は変わらず一面に星を浮かべている。絵に描いたような景色。そう考えた後で、星の瞬きが動きを止めていると気がつく。この世界においては現実として存在しても、この光は遥か宇宙からの旅を経た光ではない。それらの真似事であり、言いようによっては正しく描かれた星にすぎないのだと思い出す。主人は、諦聴の思考を読み取ったのだろう、瞬きの代わりに星の位置を動かし始めた。
    「主観というものはある種の絶対的な価値、定規、摂理だ。誰しも己の信じる論理や道理があり、それは必ずしも誰かに教育されたものとは限らない。他者を害してはならないという掟はそれぞれ社会を成立させるために不可欠な、原理として埋め込まれるけれど、一方でそれに反する摂理もまた学習される。幾つか並列するものから、己が信仰すべきもののみで構築するからこそ絶対的な意味が付与される」
     地平線、ここでは地平は存在しないのだから天に平行な直線と言うべきであろうが、その淵に沈んでいた三つ並びの星が天上に近付いた。真冬の宙模様である。星が浮かぶ方角を南と仮定して動かしているのだろう。星は弧を描き再び地平線に近づいていく。諦聴は星の動きを目で追いかけながら、聞き逃すことがないように耳へ意識を傾けた。
    「人も妖精も、自分の世界がある」
    「霊域ですね」諦聴の答えに主人が微笑み、深く頷いた。
    「霊域とは即ち、主観の根源。霊を操るための心臓ではあるけれど、同時に私たち知恵のある生命の本質的なものの見方を反映する場所が霊域だ。そこでは時の流れでさえ自由自在となる」主人が空を指で示す。諦聴は改めて見るまでもなく頷きを一つ落とした。「さながら宇宙のようにね」
    「時間とは天体の運行を数字に置き換えたものということでしょうか」
    「多くの人の答えを正とするのならば是と言えよう」
     窓の外ではまた星が角度を変えた。今度は赤い星が十字の端を定めるように並んでいる空が映る。思考の隅でこれは一体どこの空だろうか、と考える。
    「南半球だよ」主人が微笑んだ。「天体の運行を定めるのはその宇宙を内包する者であり、世界の糸を紡ぐ権利がある者だ」
    「つまり、神」
    「そうとも言える。唯一にして無二の……これは宗教によるけれどね。多くの神を並列する考え方の元でも、雷や水、根源という役割において同じ役を担うものは多くない。属性が同じでも、果たすことが違う。何にせよ、人も妖精も、己が世界においては殆ど神と同じに機能する」
    「妖精や人が神というものであるとして、」
     星が一斉に瞬き、一瞬に視界を眩ませる。この空間に月は浮かんでいない。この世界の神は月を眺める場所であるとは考えていないのだろう。せいぜい、不意に遊びに行く観光地か。
    「それでは、我々の認識する宇宙は誰の者ですか」
     諦聴は静かに尋ねた。主人が音もなく微笑みを深める。それこそ言いたいことであったと言わんばかりに。或いは、あまりに見当違いの問いであったせいかもしれない。
    「そう、それが問題だ。我々生命は皆小宇宙を内包する、この霊域も然り。違うのはそれを認識できるかどうか」
    「主観があるかどうかですね」
    「主観の中では見たいものを見たいように見ることができる。藍渓鎮の中では私こそが真実であるように」
    「真実は最後に残った選択肢にすぎません」
    「限りなく事実に近い虚偽、と言いたい?」
    「ええ……霊域内では虚偽は存在しない。主、或いは神の認識において正しく存在が確立される」
     星が動きを止めた。
     諦聴は目を眇め、主人を見下ろした。座っているせいで、頭頂部の柔らかな曲線までが明確に映っていた。
    「君は、どうだい?」
     主人が唇を平行に戻した。「君は存在している?」
    「この場所には、少なくとも。貴方が、私にあれと望む限り」
    「では望まなければ?」
    「この宇宙からは消えるでしょう」諦聴はにべもなく言った。「けれど、私の宇宙において、或いは貴方以外の者の中には存在するのかもしれません」
    「君にいてほしいと願う者は多いだろう……それでも、存在なんてその程度のもの。自分の中に認識されているからと言えど、自分の中に認識されていないからと言えど、その存在がいる保証してくれるものなど何もない」
     部屋が暗闇に沈む。空に瞬いていた星々が一斉に瞳を閉じたのだ。諦聴は瞬きもせずに暗がりに浮かぶものの輪郭を捉えようと正面を見据えた。表情までは窺えない。代わりに、揺らぐことのない呼吸の響きが耳元を這っていることに気がついた。
    「諦聴、」
     主人の声がする。
     明瞭な響き。
     反して、姿は曖昧なまま。
    「彼女は本当に消えたのだろうか」
     窓の奥に、星明りよりも鈍い、一筋の赤が広がる。
     炎。焔。燈。灯。
     揺らめく光は湖面に反射し、世界へ染み出している。
    「彼女は、存在していたのだろうか」
    「彼女が影であったのか、リアルであったのか。それを知って如何するのです」
    「如何もしないさ」
     ただ、考えただけ。主人はそう呟くと唇の隙間から息を吐いた。蝋燭の火を消すように、そっと。
    「私の宇宙には確かにいた、それだけのこと」
     完全な暗闇が訪れる。
    「ねえ、諦聴」
    「はい、老君」
    「僕らの宇宙を内包しているものは、誰だと思う?」
     諦聴は二つの目を閉じた。
    「神です」
     瞼の裏に一つの宇宙が残された。
    8(玄谛) 帰り道を急ぐ必要のないことが、幸運だとは限らない。
     老爺に頼まれて二つ隣の村へ届け物をした帰り道。歩道と車道の区別がない一本道ではなく、登山道さえない山の中。その只中で足を止めたまま、彼は心中でそう呟いた。内心を悟られぬよう、驚きを含んだ微笑みを浮かべながら。
     今、彼の眼前には人型をとった神獣が佇んでいる。緑を基調とした着物を身にまとい、長い髪を風に靡かせた、見覚えのある姿。数百もの緑色がひしめく森の色彩に溶け込むように静かに佇んでいたそれの前を、彼は一度通り過ぎ、それから立ち戻り、その姿を視界に収めた。獣は突然現れた彼の姿に目を見開いただけで、他に何をすることも、言うこともない。無為な瞬きだけが、彼らの間で消費されていく。
    「諦聴」やがて、彼が名前を呼んだ。
    「……やあ」獣は薄く口を開いた。
    「どうしてこんなところに」「老君に頼まれた霊草を採りに来た」「それにしたって、わざわざ?」「ここは霊の質が高い」
     諦聴は聞かれたことに答えを返すと再び口を噤んだ。話すことはないと断じているというよりは、話すことを躊躇うあまり黙っているような不自然さがあった。代わりに、獣の眼差しだけは逸らされることなく彼に縫い止められている。彼は視線から逃げるように空を仰ぎ、それから徐に眉を顰めた。彼の仕草に獣は小首を傾げた。言葉はない。ただ曖昧に相手の姿を見据え合う。数分にも満たない間をあけ、やがて諦聴は僅かに目を逸らした。
    「帰る」 
    「諦聴、」鼻を小さく鳴らしながら彼は再び獣の名前を呼んだ。「雨が来るぞ」
    「急げばいい」
    「雨雲が渦巻き始めた。さしものお前でも間に合わない」
    「…………」諦聴が息を吐いた。彼の言い分はとうに認識済みだったのだろう。雨を好む者と厭う者がいれば後者の方がより鋭い感覚を発揮する。きちんと用意をしていれば最低限の不快さでやり過ごすことができるからだ。雨を凌ぐ算段をつけるか、或いはどうにもならないと諦めることで。
    「ちょっと先に、雨宿りには充分な洞穴があるけど」彼は諦聴の足先が向いている方角と反対側を指で示した。
    「お前は雨を嫌わないだろう」
    「うん。嫌いじゃないし、どちらかと言えば好きだ」
    「なら、なぜ?」
    「ただの親切心じゃないかな」彼は言った。「行こう」
     諦聴の手首を掴む。霊草を摘みに来ていたというのは本当なのだろう。手に握られている麻袋が指先に掠れ、青苦い香りが一瞬でも立ち上る。同時に、前兆を告げる大きな一粒が頭上に落ちた。
     無言のまま彼は地面を蹴り上げる。耳元で風が唸り声を響かせる。背後に続く足音さえ聞こえない。掴んだままの手首だけが付いてきているのではないかと、あり得るはずもない空想が思考の隅を徒に埋める。獣の気配が離れていったとして、気が付かないほど愚鈍ではない。それでも、彼は背後を振り返った。
     脈が打つ間よりも短く。
     一瞬。
     真っ直ぐに前を向いていた双眸が視線を捉え。
    「玄离」
     たった一言、獣の呟く声を聞いた。
     洞穴へ到着した途端、紫色の炎が爆発のように舞い上がり、そして何事もなかったかのような冷静さでうち消えた。一瞬の驚きの後で、己の身体に纏わりついていた水気が消え去っていることに気が付く。礼のつもりなのだろう。洞窟の奥へと向かう背中は何事もなかったかのように平静を湛えている。入り口から十分に距離を取り、諦聴は土の壁に背を預けた。或いは、彼から距離を取っているのか。彼は入り口の近くに立ったまま、顔だけを獣へと向けた。瞼に力を込め、瞬きもせずに横顔を見つめる。
    「なんだ」諦聴が俯きながら言った。
    「無口になったな、と思っただけだ」
    「話す必要がなくなったから」
    「老君はよく喋るだろう?」
    「私が相手をする理由はない」
    「今の老君には、お前しかいない」
    「……お前が、それを言うのか」
    「俺としてはお前が老君のところへ行くのも意外だったけどな。どうだい、藍渓鎮は」
    「静かだ」
    「お前の耳にも?」彼が口の先を僅かに尖らせた。「案外、いい巡り合わせだったのかもなぁ」
    「昔のままであれば、あり得なかった」
    「……変わらないものはない。そうだろう、諦聴」
     諦聴が顔を上げた。黙ったまま洞窟の入り口へ視線を向ける。彼の向こうに見える空からは、威勢よく水滴が流れ落ち続けている。止めどない雨垂れを見据える双眸が俄に細められた。
     彼は一連の仕草を眺めながら近くの岩壁の方へ一歩足を寄せた。洞窟の手前側にいるせいだろう、通り雨による水の気配が呼吸のたびに身体の内へ染み入っていく。暫くは止みそうもない、と彼は呟いた。数メートル先に佇む者にも聞こえるだろうと知りながら。獣は言葉を返さなかった。ただ地面を叩く雨粒の賑わいだけが洞窟の内に跳ね返り、自然に反響を繰り返す。彼の耳には鈍く雑然とした音にしか聞こえないそれを、神獣の耳はどう捉えているのだろうか。彼は不意にそう考え、すぐに思考を止めた。
    「諦聴」代わりに、獣の名前を呼んだ。曖昧に空を眺めていた視線が、彼の口先へと向けられる。「こっちへ来ないのか」
    「なぜ?」
    「空は、こちらからの方がよく見える」
    「必要ない」
    「それなら、俺がそっちへ行っても?」
    「なぜ?」諦聴が再び疑問符を投げた。
    「話がしやすい」
    「話ならここでもできる、それに、」諦聴は一度言葉を切った。息を吐き、流れ出した呼気の中へ言葉を紛れ込ませるように呟く。「私たちが話をしたところで何になる」
    「何にもならない。それが肝要だ」
    「随分と難しい言葉を操るようになった」
    「お前もな」彼が喉奥で笑い声を立てた。
    「つまり、変化」獣は笑わない。
    「変わらないのは自然だけだ。俺たちも自然から生まれたはずなのに、どうして変わる?」
    「生まれたから。世界から押し出され、意識に縋ることが妖精と人に与えられた特質。現実をイメージとして思考に取り込み、思考を物質として現実にする。それらを媒介するのが霊だ。思考と現実は常に数多の霊を行き来させている……浸透圧のように。均等を求めて。私たちの意識がそれを維持するための装置であれば、変わり続けるのは当然のことだと」
    「老君がそう言った?」
    「そうとも考えられると仰った」
    「百年の暇つぶしにはなりそうもない話だ」
    「私が問うたんだ」獣は肩に落ちた毛の一房に指を埋めた。
    「なんだってそんな、退屈な話を」
    「ただ、変わるものを見てきたあの人ならどう処理しているのかを知っていると思った」
     彼が指先で石壁に触れた。壁伝いに洞窟の奥へと一歩足を進める。ビニール製の靴底が砂を噛んだ。摩擦音は雨垂れが反響し続ける空洞の中で奇妙なほど鮮明に響く。獣は俄かに近づいた影を見つめ、静かに髪から手を離した。
    「意外に考え込む癖がある」彼がさらに一歩、足を進めた。影が一段と濃く輪郭を浮き上がらせる。「そこは変わらずか」
    「……私を知っている?」諦聴はゆっくりと近付く影に顔を向けた。「本当に?」
    「どうだろう」彼は軽く首を傾げた。
    「私は、お前を知っているか?」
    「知っていたよ」彼が過去形で言った。「今更、どうして尋ねる」
    「……今、私たちの関係を何とすればいいか、分からない」
    「旧友、それじゃあ、あまりに距離があると言いたいのか」若しくは、距離が近すぎるのか。
    「私たちは互いをよく知ってる、少なくとも、かつての関係においてはそうだった。ならば、今は? 昔のお前と今のお前は違うのに」
    「それでこの山に来てたの?」彼は一瞬洞窟の入り口を見やり、それから目線を獣へと戻した。「俺を観察しに?」
     直接顔を合わせるのではなく、遠目から確かめようとする行為。それが彼の知る諦聴らしい行動かどうか、彼の掌中に答えはなかった。諦聴らしいと言われればそうであるし、かつて記憶と重ね難いという感覚もある。せいぜい、警戒心の強さが獣らしいと言える程度だった。
    「霊草を採りに来たのは本当だ」
     彼は諦聴の手に握られたままの麻袋へ視線を落とした。雨に降られたせいだろう、薄茶色の袋は水分を含み幾らか濃い色へと変化している。霊草の用途は多岐にわたる。濡れてしまっても問題なければ良いが、と場違いな心配が頭を掠めた。彼は諦聴の主たる仙人について多少なりとも面識がある。その記憶から判断するに、霊草が駄目になったところで入手を諦める聞き分けの良さはないだろう。諦聴は近いとは言い難い距離を、再び往復することになるに違いない。
     熱心に袋を見据えていたからか、諦聴は手元のそれを俄かに持ち上げた。怪訝さを押し隠さずに眉を顰め、それから麻袋を軽く振った。「使い物にならない言われたら、また採りに来る」
     思考を推測したのか、或いは声が漏れたのか。小声であれど耳の良い獣の前では問題にならないことを思い出す。彼は何か言葉を返そうと二、三度口を開閉させてから軽く息を吐いた。同時に返答というには感嘆に満ちた声色がこぼれ落ちる。
    「従順だな」
    「…………暇だから」
     数秒の間を空けて諦聴が言った。麻袋越しに重なっていた視線が外れ、俄かに彷徨う。洞窟の入り口を見やり、その奥に落ちる細い絹糸を確認し、それから彼は反対側に深く穿たれた空洞へ目を向けた。
     彼の視線の届かない場所へ。
    「……ああ」彼は一連の仕草を黙ったまま眺め、やがて小さく微笑んだ。「なるほど」
     諦聴は顔を背けたまま、言葉を返さない。
    「またの機会のつもりか」
     彼が柔らかに断定する。豊かな髪の隙間から覗く獣の耳が俄に引き攣った。
    「そんなものなくても、家に来てくれれば良い」彼は首の後ろで腕を組んだ。そのまま乱雑な仕草で壁に背を預ける。昔はこの粗雑な仕草も板についていたが、少年と言うべき今の身体では些か不似合いかもしれない。「場所も知ってるのに」
    「隠居していると言ったのはお前だ」
    「……それが?」
    「私が側に寄っては、意味がない」
    「諦聴と喧嘩するのは楽しかったけどなぁ」
    「全力で戦えばお前の正体がバレるのも時間の問題だ」現に藍渓鎮で手を合わせた妖精らはすぐに気がついた、と続ける。「邪魔をするのは、本意じゃない」
    「小白とお爺ちゃんを巻き込んで大暴れした奴が言うセリフじゃないな」
    「あの時は事情があった。今はない」
     はっきりと言い放つ諦聴の口調に、彼は笑い声を上げる。
    「それなら、どうして来た?」
     諦聴がゆっくりと顔を向ける。壁に預けていた背は真っ直ぐに伸び、かつて相見えた時分よりも長くなった髪が空洞の奥から吹き込んだ風に揺れている。知らないと言い切るには見慣れた、しかし、確かに記憶とは異なる姿。
     諦聴は二秒の間彼を真っ直ぐに見つめ、それから光の方へ視線を逸らした。
    「会いに来たわけじゃない」諦聴は呟いた。
    「それなら盗み見るだけのために、わざわざ来たのか」
     否定を表すつもりで、諦聴の首が横に振られた。
    「ただ、気になっただけだ」
     何を、と問うように、彼が首を曲げた。黙ったまま先を促す。
    「玄离」
     名前を囁かれる。
    「今のお前は昔のお前とは違う」
     どれほどの力があり、何を好み、何を尊ぶのか。
     それは互いによく知ったこと。
    「よく知っているとは、もう言えない」
     どこから生まれ、何を成し、どう終わったのか。
     今は。
     何のために在るのか。
    「知りたかった?」彼が尋ねた。
    「……お前とは二度と会うことはないと思っていたから」
    「だからと言って、遠目から見てるだけで何が分かる。俺を知りたいなら、会いに来ればいい」数分前に告げた言葉を、彼は事も無気に繰り返す。「それに、」
    「それに?」
    「見ているだけじゃ、お前にしか分からないだろう」
     諦聴は両の目を大きく見開くと、二人を隔てる空間を見つめた。そこに、たった今投げられた言葉の輪郭が、形を成して残されているかのように。
    「つまり、どういう?」
    「互いのことをよく知っていた、それなら、俺も知らないと不公平だ。今のお前のこと。何が変わって、何が変わらないのか。知りたいと思うのはお前だけだと?」
     彼は鷹揚に首を振り、大きく口を開けた。唇の端が持ち上がり、笑っているのだと誰の目にも明らかな顔を作る。
    「諦聴」
     そのまま、名前を呼んだ。
    「……玄离」
     名を呼ばれた獣も、同じように名前を呼ぶ。
    「今度は、喧嘩でもしてみるか」
     拳の形に丸めた手を顔の前に掲げて見せる。わざとらしい仕草に、諦聴は長い溜息で返事をする。肺の底に澱んでいたものを全て吐き出した後で、獣は固く凍りついた頬を微かに緩めた。
    「しない」端的な否定が続く。
    「つまらんな」
     笑みを浮かべながら返された言葉に答えず、諦聴は微笑みを収めた。そのまま明るい方へ、真っ直ぐに歩き始める。洞窟は直線で、必然的に彼の横を過ぎていく。そのすれ違いの一瞬、諦聴は静かに口を開いた。
    「また、来る」
     獣が洞窟の外へ出る。通り雨はとうに止み、地上に零れ落ちた水滴に跳ね返る陽光が、雨上がりの明るさを増長させていた。
     瞬間的な輝かしさが目眩を引き起こす。
     獣は振り返ることもなく駆け去っていた。
     視界が正常に戻る。遠く、小さく霞んだ一点から目を離し、彼は見慣れた森の中を歩き出した。

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    2022/09/11 0:18:30

    Untitled

    #LXH
    別サイトからの移転です。
    初出:2021年12月31日

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