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    灰を溶かした夏影の「つまり、彼の姿が見えないのは君の心の問題ということだよ」と医者は言った。
     夏の陽射しを透かす障子に映る影を見据え、久々知はゆっくりと瞬きを落とした。言葉を噛みしめる、或いは、理解できないとでも言うように。実際、そのどちらでもあったし、どちらにせよ、目の前の問題は依然として存在した。
    「そうですか」と久々知は答えた。顔を上げ、僅かに眉を顰める。
    「心当たりはあるかな?」優しさを惜しまない表情で医者が尋ねる。低学年の子供たちへ向けて怪我の具合を尋ねる時と同じ声音だった。
    「さあ……分かりません」
    「そうか。まあ、すぐに結論を出せるものでもないからね。ゆっくり考えてみて、もしくは、本人と話してみるのも良いかもしれない。幸いにも声は聞こえるのだから」
     相手を落ち着かせようという意識を隠さない声音にのって、益体のない忠告が伝えられる。尤も、医者が全く匙を投げ、適当にやり過ごそうとしているわけではないことを久々知は理解していた。白い頭巾をかぶった医者は歴然とした医者であり、同時に、学園の「先生」である。
    「ありがとうございます」安心させるように微笑む。相手を安心させるための笑み。作り物であっても相手を安心させるために微笑むことができることは、久々知の数ある取り柄の一つだった。
     それを優しさと評したのは誰だったか。
    「少なくとも、身体の問題じゃなくてよかったです」
    「心も身体の一部だからね。異変があったら、また、相談してほしい」
    「はい」大人しく頷き、久々知は立ち上がった。「新野先生、ありがとうございました」
     頭を下げた拍子に結わえた髪が肩を滑る。頭巾をかぶっていなかったことを思い出した。授業を休んで医務室を訪れていたことも。
    「お大事に」
     障子を開け、再び一礼してから廊下へ出る。校庭から、一斉に返事をする甲高い声が聞こえた。まだ授業を行っている時間らしい。宙を見上げれば天頂へ掛かる手前を昇る日が見えた。
     今が春ならば迷わずに裏庭の、よく日の当たる一角へ足を向けただろう。途中から授業を聞いたところで結局は聞きそびれた部分を誰かに教えてもらわなければならず、静まり返った教室に一人遅れて入ることは憚られた。それならば休み時間まで待って、次の授業から合流する方が自然だ。
     白光に目を細めれば、輪郭が複雑な色彩を纏って瞼の裏に踊る。光と呼ぶには直接的に肌を突き刺す熱が、額へ汗を滲ませる。医務室で次の授業まで屋内で休ませてもらう方が賢明だったかもしれないと考え、久々知は自嘲を零した。誰にも見られていないはずの表情を笑うように、近くで蝉が歌い始めた。
    「珍しいな」
     背後から声を掛けられる。
     殆ど反射と呼ぶべき速さで振り向き、呼吸を抑えるように息をのむ。
    「三郎?」久々知は呟いた。
    「それも、珍しい。」鉢屋の声が震える。笑っているらしい。「兵助が迷うなんて」
    「三郎の変装を見破れたことなんて、一度も無いよ」
    「謙遜するのは兵助らしいな」
    「何を疑っているの」
    「もしかしたら、兵助に化けた誰かかもしれないと思って」
    「三郎以外が?」
    「変姿の術は私だけのものじゃあない。課題とか、色々、理由があって変装している可能性はある」
    「それを見破れない可能性は」
    「ないな」鉢屋の声が再び波打つ。「私には分かるとも」
     久々知は大きな双眸を瞬かせ、それから喉の奥で笑みを零した。「自信家」
    「そりゃあね。兵助かどうかなら、間違えないさ」
     得意げに、彼が常より変装をしている相手よりも僅かに細い顎を上げて、頬を緩める姿を思い出す。腕は組んでいるか、顔の前で広げているか。表情と仕草を統一させることに拘りがあるのかもしれない。
    「俺はそんなに分かりやすいか」久々知が呟く。
    「いいや」真面目な声が言った。「私だから分かる」
    「やっぱり、自信家だ」
     雲のない空を鳥が横切り、一瞬、光を遮った。翼の形をした曲線が瞳を覆う。瞬きに等しい安らぎの後、再び降り注いだ光線が瞳に突き刺さり、彼は俄かに目を細めた。同じ太陽の光であるにも関わらず、夏の陽射しは強く、鋭い。大気に籠る熱よりも、その鮮鋭さが久々知は苦手だった。
     光に慣らすように、静かに瞼を持ち上げる。
     何もない廊下。
     単調な風景だけが広がる空間に、影が一つ。
     背の高さはどれほどだったか。
     目の色は、何色か。
     空白に形を描くように思い出す。
     創り出す。
     視線があった。
     しかし、空間には何者も存在しない。
     錯覚。
    「やっと目が合った」影が笑った。
    「ごめん」口先で微笑みを返す。「眩しくて」
    「夏の陽射しだ。切れ味の良い刃物みたいにいつもでも輝いて、目を逸らすことしかできない」
    「三郎もそう思う?」
    「刀で切られた瞬間の熱さと似ているからな」
     廊下に落とされた影が角度を変えた。頭を上げたのか、後頭部に結わえられた髪の先が現れる。人の手によって作られた髪だ。影には、しかし、本物も偽物もない。まして、今目の前にいるであろう少年が本当に鉢屋三郎その人であるのか、判断することはできなかった。陽炎と喋っていたとして、見えていないという意味では同じであるのだから。
    「三郎はどうしてここに?」久々知は宙を見つめながら言った。「授業は未だ終わっていないと思っていたけれど」
    「知っているだろう。ろ組は早朝から実習だったんだ。ちょうど戻ってきたところ。サボりじゃないから安心してくれ」
    「まさか、三郎は悪戯者だけど真面目なことくらい知っているよ」
    「そういう兵助は?」疑問符が返される。「私も、久々知兵助が不真面目ではないことを知っているけれど」
    「俺は、その……医務室に」
    「怪我でもしたのか」声音に剣が混じる。
    「少し、目眩がして」
    「……大丈夫なのか?」
    「うん。新野先生にも見ていただいて、病気ではないと分かっているから。少し休めば、その内治る」
    「夏バテ?」
     首裏を冷えた感触が走る。汗が滑り落ちたのだろう。屋根により日差しが遮られているとはいえ、立ち話をするには適さない温度であることを思い出す。
    「確かに、暑さのせいかもしれない」
     床板の軋む音が響く。遅れて影がゆっくりと近付いてくる。
     頬に微風。僅かに暖かい熱。吐息か。
    「兵助」囁き声が言う。「私の目は、何色?」
     問いには答えず、久々知は陽射しを拒むように目を閉じた。

     南向きの窓から日差しをふんだんに取り込んだ教室は、廊下と変わらない熱をうねらせていた。開け放たれた窓から風が流れ込んでいるためか、しかし、幾らか快適と言える。細やかな差ではあったが、たったそれだけのことが有難く思われることもある。
     教室後方の扉を開ければ、すぐに馴染みのある声が彼の名前を呼んだ。遅れて、存在を示すように手を上げる。
    「兵助」
    「勘右衛門、朝はごめんね。それから、後でさっきの授業の内容を教えてほしいのだけど……」
    「大丈夫だったか?」言葉を遮り、尾浜が言った。「新野先生は何て?」
    「問題なかったよ。少なくとも、身体の方はね」久々知は平淡に言った。
    「そう……良かったと言うべきか、分からないな」
    「良かったよ。少なくとも厄介な病ではないことが分かった。新野先生がご存じない病ならお手上げだけど」
    「そうだな」尾浜は頷いた。「だけど問題は解決してない」
    「解決?」久々知が繰り返す。「問題って?」
     丸みを帯びた双眸が俄かに見開き、それから呆れたように閉ざされる。芝居がかった動きで首を横に振る。わざとらしさの滲む動きでも、鉢屋の癖とは違うなと、久々知は無為に考えた。
    「問題じゃないって?」尾浜が抑揚をつけて尋ねる。
    「影は見えるから、存在は感知できる」
    「そういう話じゃないと思うけど」
    「そういう話だよ。俺は雷蔵と違って四六時中三郎といるわけじゃないし、合同実習も暫く予定されていない。廊下で会った時に困るかもしれないとは考えたけれど、姿が見えないのが三郎だけなら、却って判断も付きやすい。今のところ問題ない」
     久々知は一瞬顔を窓に向けた。ちょうど天頂に差し掛かった日が瞼の裏に明滅する。
    「本当に、驚くべきことに、問題がないんだ」
     彼は繰り返した。言い聞かせるというよりは、単なる事実を報告するように。
     教室の喧噪が増幅する。小波がやがて大波になる現象と同じ。久々知は自分の声が隣に座る少年に聞こえていたかどうかを気に掛けることなく目を伏せた。大波は一度頂点へ至るとすぐに小波へと分散し、還っていく。一瞬にして静まり返った教室に吹き込んだ風に乗って、「お疲れ」と笑う声が紛れ込む。隣の教室も窓を開けているのだろう。
    「ろ組も大方が帰ってきたみたいだ」尾浜が呟いた。
    「そうだね」久々知が頷く。「三郎に会ったよ」
     尾浜は反射的に顔を上げ、久々知の目を真っ直ぐに見つめた。相手の表情を余すことなく観察する油断のない視線が、無防備と評価できるほど力強く一点を睨んでいる。久々知は視線を避けることなく微笑み、もう一度頷いて見せた。
    「大丈夫」
    「何が」
    「会って話しをしてみて、俺が思ったこと」
    「見えていない相手とよく会おうと思ったな」
    「会いに行ったわけじゃない。たまたま、廊下で」
    「朝、実習に出ていく三郎たちを見かけた……三郎の姿だけ見えないことに気付いた時にはあんなに慌ててたのに」
    「そりゃあ、驚いたから。だけど半日も経てば受け入れるには十分」久々知は肩を竦めた。「受け入れる以外にどうしようもないと分かった後だったしね」
    「三郎には話した?」尾浜は呆れを隠さず、同時に心配を滲ませた声音で尋ねた。
     久々知は首を横に振った。「言ってない」
    「どうして」
    「言う必要がない」唇が自ずと微笑を象る。「出会った時には気付かれていた」
     薄雲が太陽を遮る。光に消えていた青が空気に溶け込み、視界が俄かに影を帯びる。
    「それで、今後はどうするつもり?」
     半ば義務に近い響きを持った質問だった。それが学級委員長であるためか、同室であるためかは分からなかった。ただ他人を理解することはないと嘯く少年が存外面倒見の良い性質であることを、久々知はとうの昔から知っていた。
    「さっきも言ったけれど、実際、問題がないんだ」
     薄雲が風に流されたのか、陽射しが勢いを増す。四角形に切り取られた空白から洪水のように溢れ出し、室内を明るく染め上げる。大気に浮遊する微小な塵が白光を乱反射し、きらきらと宙を舞い踊った。
    「聞き方を変えようか」尾浜が笑った。
     笑ったと、久々知には思えた。
     光の洪水は人間の瞳には眩すぎた。暗闇も光も結局のところ、過ぎたれば人の目を奪うのだ。否、過ぎたと感じるのは人間の都合で、光も影も、ただそこに在るだけのこと。人間の存在こそが作為。意図
    「兵助は、どうしたい?」
     即ち、意思。
    「心に原因があるなら、心を問わないと」尾浜の声は微笑んでいる。
    「……難しいね」唇が歪む。微笑み返したのかもしれない。「分かっていたなら、こうはならなかったと思わない?」
    「思うも、考えるも、俺にとっては同じこと。心と表現はしてみたけれど、結局俺は人の心なんて信じていないし、全部、頭の中で感じただけのことだから」
    「勘右衛門はそうだろうね」
    「だけど兵助は違う」尾浜が断言する。
    「そして、きっと、三郎も」久々知は微笑んだ。
     今度は意識の中で明瞭に操作された動き。
     それこそが意思だった。



     目が覚めたのは雨戸と窓の隙間から射し込む光のせいではなかった。古いながらもしっかりと立てつけられた板戸に吹き付ける雨音のためでもない。砂の落ち切った砂時計を裏返すように、表裏が切り替えられただけのこと。規則的な、習慣のためだった。
     風が強く吹いているのか、降り頻る雨粒は絶え間なく窓を叩く。鼓膜を震わせる響きはどこか懐かしく心地よい。小さな欠伸を雨音に隠しながら、久々知は緩慢に上体を逸らした。眠っていた時に丸めていたのだろう。背骨から軽妙な破裂音が一つ。それから、衝立の向こうで笑う声。
    「おはよう」と久々知が言った。
    「おはよう」声だけが返される。「まだ早いのに」
    「勘右衛門だって起きているじゃないか」
    「兵助が起きた気配がしたから起きただけだよ」鼻先に笑みを含ませた調子で言う。「雨なのに朝から鍛錬に行く気?」
    「さすがに、それは」言いながら窓を仰ぐ。「雨だから鍛錬をするんだって、八左ヱ門なら言いそうだけど」
    「潮江先輩の受け売りだな」
    「七松先輩じゃなくて」
    「七松先輩は鍛錬とは言わないし、雨だからとも言わない」
    「なるほど」
    「無理はしない方が良いよ。風邪を引いても難儀だし」
    「でもせっかく目が覚めてしまったからな。あと半刻もある」
    「なんでもいいけど。俺はもう少し眠るから」尾浜は呆気なく言い放った。続けて布の擦れる音が響く。布団にもぐり直したのだろう。
     反対に久々知は布団から起き上がり、藍色の制服を手に取った。几帳面に畳まれていた制服には余計な皺は一つもなく、自ずと背筋が伸びる。未だ結んでいない髪を背に垂らしたまま彼は廊下に続く扉を静かに開けた。湿気を含んだ枠木が鈍く唸り声を上げる。戸を開けたまま、机の上に置かれていた手ぬぐいを取りに部屋の中へ戻り、今度こそ、廊下へと身を滑らした。
     夏の雨は南風と共に駆け抜けたらしい。水溜まりを残す廊下を素足で踏む。足音は当然になく、代わりに湿った感触が肌を伝う。冷たくはない。生き物に触れた時に似た、漠然とした温かさがあった。
     軒先から手を伸ばし手ぬぐいに水分を含ませる。良く冷えた井戸水で顔を洗いたいけれどこの雨の中では難しい。重さを増した手ぬぐいを軽く絞り、額を拭う。宙から落ちてきたばかりの雫は、上空で冷やされていたためか、夏の空気に反してひどく冷えていた。地上の熱から遠ざかるという意味では、天上も地下も変わらないのかもしれない。
     汗の名残を拭いながら、深く息を吸う。大気に満ちた水の香りが肺を満たす。水底の石になったかのような錯覚。全身が静まり返り、空間に溶け込んでいく。身体を失くし、絵画に描かれた線の一つへ変化する。
     水を踏みつける、間の抜けた和音が聞こえた。
     振り返った拍子に、深く、絶え間なく続く呼吸が鼻先から伝う雫を吹き消した。
    「おはよう、三郎」久々知は微動だにせず言った。「雷蔵と八左ヱ門も」
    「おはよう」と彼らは口々に返した。仲が良い、そのうち二人は常日頃から同じ姿をしているにも関わらず、大抵、彼らの口調は揃わない。
    「早いね」不破が欠伸混じりの声で言った。「鍛錬に行くのかい」
     久々知は宙を見上げていた顔を彼らの方へ向けた。
     廊下に並んだ見知った顔が二つ。
     その一番端に、不自然な空白。
    「この雨の中は、さすがにね。単に目が覚めたから起きただけ」
    「そっか、僕たちなんて朝から八左ヱ門にたたき起こされて。雨風が酷いから生物小屋の様子を見に行くところ」
    「俺のせいみたいに言うなよ」と竹谷。「俺のフリをした三郎が生物小屋の補強を忘れたせいだろう」
    「生物委員会がそこまでやっているとは知らなかったんだ」鉢屋が憮然とした声で言う。「悪かったと思っているし、だからこうして付き合っているんだろう」
    「珍しいね、三郎が」久々知が微かに喉奥で笑みを零す。微かな笑みはすぐに雨音に紛れたためか、二人は表情を変えなかった。
    「どこが」眉を顰めながら竹谷が勢いよく言い放つ。「三郎の悪戯で迷惑をかけられたことは一度や二度ならずあるだろう?」口で息を吸い、そのまま溜息を落とす。「慣れているって言えるほどには」
    「そうじゃなくて、三郎は本当に人を困らせることはしないから。迷惑って言われることはやっても、八左ヱ門にとって大事な生物委員会の生き物たちをわざと危険に晒すつもりはなかった。つまり、見誤った……それが珍しいと思って」
    「兵助は時々三郎を買い被りすぎじゃないか?」竹谷が笑う。呆れを滲ませながら、嫌味のない軽やかな笑みだった。「だってさ、三郎」
    「生物小屋に急ぐんじゃないのか?」鉢屋の声が言う。
    「おっと、そうだったな」竹谷は軽く頭を振った。「悪い、兵助。そういうわけで俺たちは行かなきゃならん」
    「兵助も来る?」と不破が尋ねた。隣に佇む空白へ顔を向けながら。
     久々知は素早く瞼を閉じ、再び開く。「止めておくよ」
    「そう」不破は微笑んだ。「残念だね」
     誰に同意を求めたのか。久々知は一瞬考え、すぐに思考を止めた。
    「それじゃあまた、後で」
     二人が久々知の隣をすり抜けていく。一人分の空白を残して。
    「兵助」
     耳元に囁き声。それから鼓膜をくすぐる呼気が一つ。
    「三郎?」久々知も囁き声で返した。
    「今夜。待っている」
     微風が前髪の先を揺らす。何かを聞き返そうと開いた口は、何も言葉を放つことなく閉じられた。

     例えばよく似た二つの刀があったとして、それを見分けるために必要なことは何か。波紋の微差、柄や鍔の装飾の誤差、切れ味の落差。全く同一であれば見分ける必要はない。そこに差が、違いがあればこそ、区別が求められる。真偽のためではなく。ただ、存在を証明するためだけに。
     まだ僅かに濡れている樹の幹に背を預けた久々知の前を少年が歩いていた。同じ形、素人目には殆ど同一と表現すべき刀を抱えた少年が。目に涼やかな明るい水色の制服が両手いっぱいに忍び刀を抱えながら、しかし、危うさを感じさせることなく進んでいく。用具倉庫のある方角。光の中では奇妙に顔色の悪く映る少年は用具委員会なのだろうと考える。
     早朝に吹き荒れた嵐は、学園の授業が始まる頃にはすっかり静まった。朝の喧噪が嘘のように凪いだ空気が流れ、風と雨に洗われた空はいつにもまして青々と輝いている。ちょうど天頂から降り注ぐ陽射しは露の名残を受けて反射し、増幅し、拡散する。奇妙なほど輝きを帯びた世界。久々知は立ったまま瞼を閉ざした。光は瞼を透かして眼球の上に赤や緑の斑点を明滅させる。幻想ではない。現実の光と、見え方が異なるだけのこと。
     昼食を終えた子どもたちが思い思いに駆けて行く声が聞こえる。校庭に遊びに出る者。前の授業の片付け、もしくは次の授業の準備に駆り出される者。鍛錬に励む者。誰一人、久々知を振り返ることはない。彼らから見えていないかのように。
     久々知はゆっくりと瞼を持ち上げた。急激に光を受け入れた瞳の奥が異変を訴える。身体からの通達は大抵、痛みという形をとっている。光に慣らすように瞬きを繰り返しながら、目尻が微かに水気を帯びていることに気が付いた。痛みを和らげるために、反射的に流れたのか。未だ湿気を残した空気の中を、生暖かい風が通り抜ける。細やかな一滴は瞬く間に風にさらわれていく。涙の内に反射した光だけが、瞳の中に残される。
     太陽と月、どちらの光だろうかと久々知は考えた。
     真昼の空に月はいない。
     どちらかの存在がなくなれば、判断は容易につけられる。



     湖と呼ぶには小さな泉はその森の中心にあって、森の中で唯一木々の群れから開かれた小さな野原を創り出していた。
     藍色の空に輝く月を見上げ、久々知は「やあ」と言った。
     どこかの樹に止まった梟が「ほう」と鳴く。
    「いつの間に動物にも化けられるようになった?」笑いながら久々知が尋ねた。
    「それは変姿の術ではなく、もはや妖術の類だな」森との境界、今朝の嵐に倒された木々の残骸から声が響く。「やあ、兵助。よくここが分かったな」
    「呼んだのは三郎の方だろう」
    「来てくれる保証はなかった」鉢屋が真面目な声で言う。「どうしてここだと思ったのか、聞いても?」
    「雨が降った後、この泉は特によく月を映す」久々知は滑らかに答えた。「いつか三郎がそう言っていたから」
    「記憶力が良いな」
    「俺もそうだと思っていたからだよ」
     久々知は泉の縁へ近づき、湿った土の上に膝を付けた。それから指先を水へ浸す。微小な波紋が鏡のように静謐な水面を走り、やがてすぐにうち消えた。
    「どうして俺をここに?」
    「自分が綺麗だと思っている空間を共有したかった。それでは不十分か?」
    「見ている景色が同じだとは限らない」
    「そうだな……特に、」
     背後から声が響く。いつの間にかすぐ後ろまで来ていたらしい。久々知は、しかし、振り返らずに続きを待った。
    「今は」
     たった一言。彼らにとってはそれで十分であったし、それ以上は過分であった。
    「そうだね」久々知が鉢屋の口ぶりを真似て答える。「だけどここには確かに俺と三郎がいて、どちらもそう認識している。俺たちの間にどんな違いがある?」
    「違いはない」鉢屋は断定した。
    「困ったことにね」
    「困る?」鉢屋が微笑んだ。目に見えない笑みで。「困るならば、視点を変えればいい。武器を持ち変えるように、それは容易に行えるはずだ」
    「自分のことだからって、全てが制御できるわけじゃない」
    「制御じゃなく、対応と言うべきだな」
    「そう、対応」久々知も微笑んだ。「対応しようとしたんだ」
    「何に」
    「お前に」
     鉢屋が息をのむ、微かな呼気を鼓膜が捉える。それだけで彼の存在を知覚することができる。表情を想像する必要はない。久々知は泉に浸けた指先を静かに動かし、小さな波を立てた。波紋が再び生まれ、広がって行く。数秒を駆けて月の縁へと届いた波は、しかし、そこで音もなく消失した。
    「絶対に見分けられる方法だと思った……思い付いた、と言うべきかもしれない」
    「正しいよ、兵助は」鉢屋が丁寧な口調で言った。「よく似た二つのものがあって、それが片方だけになれば、間違いなく見分けられる」
    「太陽と月の光を見分けるように」
    「私は太陽?」
    「月かな。よく形を変えるから」
    「それが理由?」
    「理由?」
    「雷蔵ではなく、私を見ない方に選んだ理由」
    「雷蔵以外になっても見分けられるように……というのも確かにあるけれど、」久々知は一度言葉を切り、小さく息を吐いた。「たぶん、自信があったから」
    「自信がなさそうな言い方
    「確信できるほど明確な意思ではないから……ただ、漠然と、三郎なら分かるって、そう、思った」
    「兵助が私を間違えることは殆どない」
    「まるで気付かないか、気付くかのどちらかである、という意味?」
    「それでは足りない?」
    「負けてばかりじゃ悔しいだろう」久々知が当然のように答えた。
     苔を踏む鈍い音が二つ。背後に佇んでいた気配が消える。代わりにすぐ隣で衣の擦れる音が響いた。遅れて、肩に微かな熱が触れる。
    「それで、私に勝てる?」鉢屋が囁いた。
     水面に波紋。久々知はただ水中に漂うだけの、己の指を見下ろした。
    「どうだろう」久々知は首を傾けた。頭頂部で結わえた髪が宙を滑り、見えない肩に落ちる。「今ここにいるのが本当に三郎なのか、俺には分からない」
     夜闇より深い黒髪が宙に絡む。風が吹いていないことに遅れて気がつく。
    「難儀だな、私たちは」
    「私たち?」
    「私と、兵助。それ以外に誰がいる」
    「これは俺の問題だよ」
    「いいや、私の問題でもある」
    「どうして」
     黒髪が夜に流れ落ちる。艶めいた表面から水滴が一つ、伝い落ちた。
    「私が兵助に見つけてほしいと願っているから」
    「だから隠れる。隠れなければ、見つけてもらえない?」
    「今夜は、つまり、私の負けという意味」
    「確かに」久々知は微笑んだ。「俺たちはそれぞれに、少し、複雑すぎるのかも」
     鉢屋が微笑んだ。印象。錯覚。或いは現実か。「糸を解ける?」彼が問いかける。疑問符を浮かべながら、しかし、確信めいた響きで。
    「三郎の目は深い色をしているんだ。雷蔵よりも暗く、黒と灰の混ざった……青空を反射して少し青い」久々知が言う。
     水面に腕まで浸し、彼は思い切り波を立てた。鏡写しの月が乱れ、偽物の光が無秩序に反射し、散りばめられる。そして、連動する影。導かれ、誘われ、視線が重なり合う。
     そこに夏影を見た。
    417_Utou Link Message Mute
    2023/08/19 1:02:42

    灰を溶かした夏影の

    #鉢くく

    鉢屋の姿が見えなくなった久々知の話

    鉢くくの日には間に合いませんでしたが、アラウンド鉢くくの日なのでセーフと思いたい

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