イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    掌に祈り もしも太陽の光が届かないことを夜と呼ぶのならば、深い森の中は常に夜だ。
     樹上に身を潜ませ、久々知は口布の下で小さく息を吐いた。己の数倍以上にもなる大木は頭の上で鷹揚と身を揺らす。葉と枝の擦れ合う低い唸り声は獣にも似て、忙しなく警戒の信号が神経を駆け巡る。きっと空は見えないのだろう。眼下を睨みつけたまま静かに呼吸を数える。呼吸を数えられるほど静かだとも言えた。虫や獣の蠢きに合わせて呼吸を繰り返す。身体が森と一体化していく錯覚。意識だけは、却って明瞭に研ぎ澄まされている。
     微細な振動の震えを鼓膜が捉えた。森の調和を打ち破る喧騒が地面を走る。不躾な響きに、久々知は掌に潜ませた得物を静かに一回転させた。次第に大きくなる足音を待つ。五秒。やがて三人の男が刀を振り翳しながら現れた。一列に陣形を成してある。大仰な素ぶりではあったが刀の間合いをとって進んでいることを思えば、戦いに不慣れな雑兵ではないのだろう。久々知は枝の上から男たちを眇め見た。刀を構え、周辺を見渡しながらも樹上に気付く様子はない。このまま身を潜めていればやり過ごせるだろう。
     三人目が眼下を過ぎようとした瞬間、しかし、久々知は予備動作もなく宙へ身体を踊らせた。
     空で上体を捻り、男の首元めがけて拳を振り下ろす。
     鈍い感触。
     そのまま背中を蹴り付け、反動で着地。
     白銀の反射が眼前に迫る。
     光を躱し、
     後ろ手に男の肩を掴む。
     自身の立ち位置と入れ替えるように反転。
     先頭に立っていた男が刀を振り下ろす。
     寸前で軌道を変えた刃が男の肩を切り裂いた。
     よろけた男の脇をすり抜け拳を突き出す。
     空振り。
     勢いのまま反対側の手でもう一撃。
     衝撃。
     金属がぶつかる高音。
     刀を弾く。
     刃の滑る鈍い感触。
     回転を利用して足蹴。
     一瞬の浮遊。
     半身のまま拳を振り翳す。
     掌に潜ませた鉄槌が薄い刃の上を滑る。
     火花の錯覚。
     手の内で寸鉄を回転させ、
     追撃。
     鉄槌が踊る。
     刀が地面へ落ちた。
     鋭利な鉄の先端を相手の顳顬に突き立てる。
     赤い幻想。
     視線は立ち止まることなく宙へ。
     振り向いて、
     両手を上げた少年と目が合った。
    「兵助」降参を示しているのか、もしくは無抵抗の意思表示か。万歳をして見せたわけではないことだけは確かだった。「何を見ている?」
    「……三郎と、」久々知は握りしめた拳を開いた。鉄の棒が自重に従い九十度回転し、余波のように揺れた。「それから、藪の陰から野うさぎが見ている」
    「目が良い」三郎は微笑んだまま息を吐いた。「敵は?」
    「もういない」言い切った後で、久々知は辺りを見渡した。「逃げられたけど手負いだ。皆の方に行けるだけの力はない」
    「それは何より。手伝いに来たけど不要だったな」
    「俺の方より人数が多かっただろうに、さすがだね」
    「運が良かった。手練れは兵助側にいったらしくてな。その意味では、さすがと言われるべきなのは兵助の方だ」鉢屋は真面目な口調で言いながら肩を竦めた。「何にせよ、私たちの仕事は終わりだ」
    「そうだね」久々知が頷く。手にしたままの寸鉄を懐へ仕舞おうと腕を上げ、静止した。
    「兵助?」
     赤が伝う。
     鉄の鈍色に反して鮮やかな色彩が、僅かな粘性を感じさせながら、ゆっくりと地面に落ちる。砂の上には無数の染みが黒く滲んでいた。
    「あ、」久々知が小さく唇を尖らせる。
    「……!」面の奥に潜む双眸を見開き、鉢屋は一足に駆け寄った。「やられたのか」
     腕を掴み、素早く肩の辺り——即ち心臓よりも高い位置まで持ち上げる。それから手を見やれば、傷口を探すまでもなく、親指の付け根から手の甲にかけて潔く直線が走っていた。傷は深く、しかし、骨までは見えていない。直撃したわけではないのだろう。
     鉢屋は片手で頭巾を解き、傷口を覆いながら器用に結びつけた。安堵のためか、一瞬息を吐く。彼の様子に、されるがままだった久々知が僅かに眉を押し下げた。
    「擦り傷だよ」
    「これほど血を流しておいて、か」
    「水は低きに流れるだろう」
    「痕を残すわけにはいかない」藍色の布を見つめる。
     久々知は瞬きを二度繰り返し、それから頬の力を抜いた。口布の下で微笑みを作る。表には見えずとも、目の前の少年には伝わるだろうという確信があった。
    「どっちに?」首を傾ける。
    「…………」息を吸う。一拍の間。結び目を覆うように、鉢屋は両手で久々知の手を包み込んだ。「どちらにも」
     手を握られたまま、久々知は自由なつま先で砂を蹴った。黒い染みが雑然と隠されていく。獣の鼻であればすぐに気付かれてしまうであろう、しかし、人間の視覚を誤魔化すには十分な程度に砂を撒き散らす。暗い森の中ではよほど目を凝らさなければ気が付かないだらう。
    「さ、帰ろう」
    「そうだな。雷蔵たちはとうに学園に戻っている頃だ」
    「一応、ここはまだ敵地だしね」
     久々知は一瞬だけ鉢屋の後方に茂る藪へ視線を向け、すぐに鉢屋の双眸を見据えた。そこにはもう誰もいないことを知っていた。生きた人間は、誰も。
     木の影に蹲っていた野うさぎが耳を立てた。次の瞬間には素早く森の中へ消えていく。鉢屋と久々知も揃って足を踏み出した。目配せもせず、同じ速度で歩く。
    「戻ったらまずは医務室に行くからな」
    「報告を先にしないと」
    「私がやっておく」
    「別行動をしていたのに?」
    「結果が分かれば問題ないさ。細かなところが気になるなら手当の後で報告すればいい」
    「……分かったよ。三郎に任せる」
     街へ遣いに出た帰りのような、早くも遅くもない足取りだった。

     学園の正門で鉢屋は握りしめていた拳を緩めた。肩を並べる少年に気取られないように顔を上げたまま。当然、表情は微動もしない。慣れた手つきで開かれた扉を潜る。数歩の差にも関わらず、立派な木造の内側から奇妙に暖かな風が吹き込んだ。
    「あ、久々知くんと……不破くん? それとも、不破くんに変装した鉢屋くん?」校舎の方角から駆け寄ってきた青年が笑顔で片手を上げた。気さくな挨拶であり、右手に握った入門表へのサインを求める仕草でもあった。「まぁいっか。おかえりなさぁい」
    「あっ小松田さん」久々知が礼儀正しく頭を下げながら、右手を背後に隠す。「ただいま戻りました」
    「五年生は実習? お使い?」
    「まあ、そんなところです」鉢屋が曖昧に頷く。
     小松田から差し出された入門表を受け取り、慣れた手つきで名前を記す。久々知は黙ったまま鉢屋三郎と書かれた下に、自分のものとは異なる筆跡で記されていく名前を見据えていた。ものの数秒で二人の名前を書き終え、鉢屋は入門表を小松田へ返した。
    「そっかぁ、お疲れ様」記載された名前を確かめながら、小松田は言った。「あっ、鉢屋くんの方かぁ。そういえば不破くんはさっき帰ってきてたかも」
     鉢屋が一瞬、久々知を見た。久々知もまた鉢屋を見返す。正しく瞬きの間に、しかし、二人は視線を正面に戻した。
    「それでは、私たちはこれで失礼します」
    「はぁい。サインありがとうねぇ」
     緩慢に手を振る小松田に頭を下げて校舎の方へ歩き出す。ちょうど正面から射し込む陽射しは朱く、光線の波形が微かに宙へ滲んでいる。光は反射し、散乱し、却って影を際立たせる。校舎の入り口をすぎ、中庭へ続く角を曲がる。医務室には中庭を回った方が早く着くことを二人は当たり前に知っていた。職員室へ向かうには遠回りであることも。
    「日が短くなったね」影に目を向けながら久々知は呟いた。
    「そうだな。私たちにとっては好ましいと言うべきだろうか」
    「無理に言う必要はないんじゃないかな。闇は夜にだけ現れるものじゃない。現に今日だって、ほら」
    「兵助は、それなら」
    「俺が?」
    「夜は好きか?」
    「うん」久々知は大きな双眸で二度瞬いた後で、小さく微笑んだ。「好きだよ。夜は優しいから」
    「優しい」鉢屋が繰り返す。「優しい、か」
    「夜が恐ろしいのは、夜を知らないから。闇を恐れるのは、闇が手に負えないから」
    「恐ろしく思わないことと優しいと感じることは違う」
    「寄り添ってくれる、もしくは寄り添うことを許せるという意味」
    「それならば、優しいのはむしろ兵助の方だ」鉢屋は断定した。
     その言葉には返事をせず、久々知は右手を見やった。幾重にも巻き付けられた布の下から黒が滲む。藍と赤が混ざり合って黒く見えているのか、時間が経ったことで変色したのか。判別は付けられない。唯一、これから先、この頭巾を頭巾としては使うことはできないだろうことだけは分かっていた。それは初めから分かりきっていた、当然の事実だった。
     二人は中庭を横断し、突き当たりから廊下に上がった。授業はとうに終わっている時刻であったが、人の気配はない。下級生が遊び回るには遅く、上級生が鍛錬に出るには早すぎる。図書室の前を通り過ぎれば、青色の制服を纏った下級生とすれ違った。ちょうど扉を閉めていたらしい。「こんにちは」と下げられた頭に鉢屋が手を振りかえし挨拶を返す。その様子で彼が不破ではないと気付いたのだろう、下級生たちはそれ以上言葉を続けることはなく、鍵を持って反対方向へと去っていった。
     少年たちの姿が曲がり角に消えるまで、鉢屋は足を止めていた。彼らの先輩に代わるように。それから再び正面を向き、向けられた視線へ曖昧に微笑んだ。
    「すまない」
     久々知は黙って首を振った。角度を変えた視界に鈍い朱が映り込む。実体のない名残。間も無く闇に沈む宙に浮かぶ残滓。網膜に淡く織り込まれる光に微笑を返す。唇は閉ざしたまたまで、右手を持ち上げ、廊下の先を示す。ここからは一人で行こうか、という提案だった。
    「暗くなってしまうな」表情を変えず、鉢屋は久々知の手を取った。怪我に響かないよう、そっと。厚く巻かれた布が皮膚に、擦れ鈍い熱を錯覚させた。
     二度瞬きを落とし、眉を顰める。念押しのように鼻を鳴らせば、鉢屋が悪戯気に口の端を持ち上げた。三日月を模った笑みが浮かぶ。久々知の意図を理解していることを明かすための仕草だ。
     取られたままの手を置き去りにして、久々知は歩き出す。彼の歩調に合わせて鉢屋が常より僅かに広い歩幅で続いた。歩き慣れた廊下は変わらず静寂に満ちていた。生徒の足音はおろか、虫の声さえ聞こえない。
     冬。
     周囲に漂っていた残光はいつの間にか消散し、暗闇が密やかに沁み渡っている。
     薄闇を敷いた廊下の先で滲む光を見た。
     二人は光に向かい、歩調を変えずに進んだ。扉の隙間から漏れ出す灯りに一瞬目を細め、板戸を二度叩く。灯りが風に煽られたのか、角度を変えた光が扉の横に据え付けられた「医務室」の文字を薄く照らした。
    「はぁい、入っておいで」来客を予期していたのか、落ち着いた声音が言う。
    「失礼します」久々知が左手で板戸を滑らせる。そのまま背後を振り返り、軽く手を上げた。
     鉢屋は小さく頷き、久々知の手を離した。音も立てず踵を返す。部屋の中にいる人間に気付かれないために。否、気付かれていても尚、知らしめたくないものがあるための仕草だった。
    「すみません」久々知は部屋の中へ視線を戻した。後ろ手で戸を閉め、棚から薬を取り出している男の正面に立つ。「善法寺先輩、その、」
    「右手だね」座布団の上に腰を下ろし、久々知にも座るよう促す。「見せて」
     大人しく右手を差し出せば、慣れた手つきで布の結び目が解かれる。数刻ぶりに解放された手は奇妙な軽さを感じさせた。床へ頽れた布の一部は糊で固められたように不恰好な皺を作っていた。
    「あぁ、潔い切り傷だね」表情を変えずに善法寺は言った。傷の具合を確かめるように取り上げた右手を、変えながら眺めやる。「でも縫うほどじゃないな。切られてすぐに止血したでしょう」
    「はい、多分」
    「不自然に開いてもない。これならしっかり薬を塗って、暫く安静にしていれば問題なく治るよ」善法寺が微笑む。下級生を安心させるための笑みだ。「とりあえず治療をしよう」
     そう言いながら立ち上がり、薬棚へ向かう。久々知は反射的に立ち上がりかけた。彼の気配に気付いたのか、善法寺は足を止めずに振り返った。微笑んだまま、しかし確かな含みを持って向けられた視線にその場へ座り直す。印一つ付けられていない薬棚を茫と眺める。薬壺は迷うことなく取り出されていった。
    「それにしても」薬棚に向かいながら善法寺が言った。「珍しいこともあるものだね」
     久々知は首を傾げ、控えめに口を開いた。「何がでしょうか」
    「寸鉄は確かに怪我を負いやすい武器ではあるけれど、久々知がここまで派手な怪我を負うのは珍しいと思って。刀を受け損なうなんて、滅多にないだろう?」
    「敵に一人だけ太刀を持っている相手がいて、目測を見誤ってしまって……お恥ずかしながら」
    「全く見誤ったのなら指の二本は飛んでいるものだよ」
     両手に薬壺と包帯を抱えたまま、善法寺は久々知の前に腰を下ろす。中途半端に宙へ留まっていた右手を再び持ち上げ、反対側の手で薬壺の蓋を開ける。薬草の、複数の草が混ざり合ったために抽象的な草の香りとしか判断できない、複雑な香りが立ち昇る。作ったばかりなのか、薄灰色をした軟膏は壺いっぱいに詰められていた。
    「何にせよちゃんと医務室に来てくれてよかった」
     中指で薬を掬い取り、傷口を塞いでいく。壁のひびを埋め立てるような、それでいて傷口に衝撃を加えない丁寧な手つき。手当をされているという事実は、しかし、却って傷の存在を浮かび上がらせる。右手に燻り出した痛みを表情にしないよう、久々知は頬の裏を柔く噛んだ。その仕草に、善法寺が小さく笑みをこぼす。治療による痛みに耐えていると思ったのだろう。
    「一緒にいたのは鉢屋かな」穏やかな笑みのまま善法寺が尋ねる。「彼は本当に面倒みがいいね」
    「三郎は認めたがらないでしょうけれど」素直な声音で久々知は言った。「善法寺先輩は周りをよく見ていらっしゃるんですね」
    「確かに六年生と五年生は直接の関わりは少ないけど、」善法寺は微笑んだ。指に残った薬を拭い、包帯をゆっくりと巻き始める。「同輩の次に長く一緒に学んできたのは、君たちだから。少なからず、分かっていると思うよ……そうだね、久々知は無茶をしがちだとか」
    「そんなつもりはないのですが……」久々知が苦笑をこぼす。
    「そういうところが、さらに心配になるんだろうなぁ。まぁ、僕が言えた事じゃないか」
     包帯を巻き終え、端を結ぶ。きつくも緩くもなく、正確に固定された布は頭巾よりも手に馴染む。久々知は結び目を見つめ、小さく息を吐いた。
    「この薬を分けるから毎日湯上がりに塗ること。暫くは少し滲みるだろうけど、塗らないと悪化する可能性があるから忘れないで。それから分かってると思うけれど、動かそうとしたり、負荷をかけたりしたら傷口がくっ付きにくくなるからね。治るまで極力右手は使わないように。左手で大概のことはできるだろうけど咄嗟の時は利き手が動いてしまうものだから、十分気を付けてね」
    「分かりました」
    「何か違和感があればすぐに医務室に来ること」真面目な口調で善法寺は言った。棚から取り出した薬壺のうち、一番小さなものの蓋を外し、軟膏を移し替える。
    「傷痕、」久々知は顔を上げずに呟いた。「傷痕は、残るでしょうか」
     善法寺の視線が彼の視線を辿り、包帯の結び目に辿り着く。手元は淀むことなく動き続けている。
    「残ってほしいの?」
     小さな薬壺が差し出される。久々知は掌にそれを収め、曖昧に首を振った。縦でも横でもなく。肯定にも否定にも見える微笑みで。
    「心配されるのに慣れていないんだね」断定。善法寺は微笑んだ。「ああいう奴は、心配することが役割だと思ってるんだ。だから、少しくらい大袈裟に甘えてあげればいい」
    「善法寺先輩の経験談ですか?」
    「心配性は六年生にもいるんだ」
    「ありがとうございます」久々知も笑みを返した。
     立ち上がり、頭を下げる。善法寺は瞬きを一度だけ落とした後で「お大事に」とだけ言った。

     戸を閉める間の抜けた音を一つ響かせ、久々知は灯りに背を向けた。残光さえも夜闇に覆われた廊下を躊躇いなく歩き出す。闇は光に慣れていた瞳の奥を滲ませる。空中に漂う微細な光を求めるように。夜が完全な暗闇を意味しないことを、彼は知っていた。
     慣れた足取りで教室へ向かう。長屋の方角から、甲高い叫び声が風に流される。悲鳴ではない。歓声、或いは興奮に近い響きだった。下級生たちが未だ遊んでいるのだろう。彼は振り返ることなく歩みを進めた。楽しげな声音の輪郭は風にぼやかされ、すぐに消えていった。
     角を左に曲がる。
     一瞬の目眩。
     白光。
     冬の月。
     足を止め、ゆっくりと宙を見上げる。
    「兵助」月の声。
     前を向く。
     三日月に微笑んだ口元が見えた。
    「三郎」影の存在を確かめるように、或いは定めるように、久々知は声を返した。
    「手当は終わったのか?」
    「うん。縫うほどじゃなかった。薬を塗って大人しくしておけば治るって」
    「そう、よかった」
     何がよかったのだろう、と久々知は考えた。それから考えるまでもないことを思い出す。
    「先生への報告も問題なし」
    「他のみんなは?」
    「先に戻った勘右衛門曰く、上手くいっているようだな。雷蔵の作った偽の書簡だとはバレていない。後は八左ヱ門が戻れば完了だ」
    「わざと敵に見つかった甲斐があったね」
    「敵対する忍が取り返しにくるほどの書簡ともなれば、説得力も増すものさ。特にあの城は今、戦の気配には過敏になっているだろうし」
    「戦は避けられたかな」久々知が呟く。
     鉢屋は一度深く息を吸い、首を振った。「さぁな。あの城と敵対してる城はずっと争いを続けてきた。私たちが今動いたからといって、遅かれ早かれ戦にはなる」
    「……そうだね」
    「だけど、あの城は敵の領地との境界にある村ではなく、反対側の山に目を向けざるだろう。偽書を完全には信じなくても、山向こうの城と協力して砦を建てる計画を無視はできない。あちらに兵が集まれば、敵対する城も山の方を警戒し始める。暫くは睨み合いになるし、少なくとも、城の間にある村が戦火に巻き込まれる可能性は下がっただろうさ」
    「うん、そうだね」久々知は繰り返した。「そうだといいな」
     一瞬だけ俯き、宙を見た。月は変わらず白い光を放つ。夜と弧の隙間に黒が滲む。夜よりも暗い。完全な暗闇がそこにある。
    「傷は、」鉢屋が呟いた。独り言と錯覚するような囁き声で。「痛むか」
    「痕は残らないよ、きっと」
     息を吐く。どちらの吐息か。白い靄が薄く二人の間を漂い、消散する。
    「よかった」
    「どうして?」久々知は問う。
    「痕が残っては、忘れてしまうだろう?」鉢屋が疑問符を返す。
     何を、と久々知は問わなかった。
     見えないからこそ記憶に残るものを、存在するものを、彼らはよく知っている。
     久々知は鉢屋の顔を真っ直ぐに見つめた。
     思いやるように柔らかな光が二つ。暗闇に揺れている。
    「右手、暫く使えないんだ」
    「そうか」
     二人は長屋の方角へ身体を向けた。揃って歩き出す。虫も鳴かない冬の静寂の中で、床板の軋む音が控えめな響きで二人を包む。
     不意に、左手に温もりが触れた。
     作り物の面に反し、彼の手は温かい。左手も使えなくなってしまったことに気付く。
     だから、仕方ない。
    「手伝ってくれる?」久々知は尋ねた。
     言葉の代わりに微笑みが返される。
     掌と同じ、柔らかな温もり。
    「無事でよかった」祈るような呟きが月明かりに沈む。
     祈りに応えるように、控えめに握られた掌を握り返した。
    417_Utou Link Message Mute
    2023/12/31 17:00:45

    掌に祈り

    特に年の瀬とは関係ないはちくくです。
    駆け込み書き納めができてよかった…
    #鉢くく

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品