ブアイソレモネード
「ただいまあ」
今か今かと日が暮れそうな時分、アルミンはアニと二人で暮らす自宅の玄関をゆっくりと閉じながら声をかけた。
「……おかえり」
ひょっこりとリビングの扉から顔を出したアニは、とたとたと軽やかな足取りで玄関までやってくる。
もう一緒に暮らし始めて随分経つこともあり、アニが玄関まで出迎えてくれることは少なくなったが、それでも今日は気分が乗っているらしい。内心少し驚きながらも、アルミンは取り沙汰せず、いつもの調子を意識して靴を脱いだ。
「いやあ、今日もたくさん研究したよ」
「そう、お疲れ」
「アニはゆっくりできた?」
「まあね」
アルミンは天文学の研究をしている。アニはカフェ店の店員だ。付け加えるなら、アニは本日仕事が休みだったので、一日中ごろごろと過ごしたのだった。
リビングに向けて歩き出したアルミンを、アニが後ろから追う。アルミンは身体を傾けながら歩いていたので、アニの様子がいつもと違うことに気がついた。
「……アニ?」
「ん? なに」
「――何か、いいことあった?」
アニはいつもより……なんというのか、少し浮ついたような顔つきだったのだ。緩む頬を必死に噛み締めているというのか、普段のアニを知っていると、それはとても珍しい顔つきだとわかる。
「……まあ、ね」
アニは目を伏せ、何かを思い出すように応える。
アルミンはそれを眺めて、ドキドキと微かな胸の高鳴りを感じていた。
*
アルミンを見送ったあと、アニはしばらく自分のために淹れたコーヒーを飲みながら、インテリア雑誌のページをめくっていた。
カフェ店の店員であるアニだが、ポジションとしては副店長に位置していて、店内の装飾などを店長らと話して決めている。こういう情報収集は欠かせない業務の一つだが、それにしてもインテリアや雑貨を見るのは楽しかった。
ちなみに店長、オーナーすべてが学生時代からの腐れ縁で構成された店で、アニも思ったことを言ってもある程度理解してくれる面子はありがたいと思っている。
そんな人と出会えたのは、大人になってからは今ともに暮らしているアルミンだけなのだから、その存在がどれだけ希少かは想像がつく。
ともあれ、そのコーヒーを飲み終えた頃合い。アルミンを自身の研究室に送り出して一時間くらいは経っていただろうか。アニは重い腰を上げて、積み上げていた家事に取りかかることにした。
キッチンでは普段しないところまで掃除をして、洗濯……それから切れかかった日用品の買い出しなど、あっという間にお昼の時間を迎えた。
普段、仕事のある日は昼食の時間はまばらであるからに、今日も上手く腹が空かなかった。アニは仕方なくバナナを頬張りながら、リビングのカラーボックスをなんとなしに見やる。
そこに乱雑に書類が押し込まれていて、自分もそうだが、アルミンも大概ずぼらだよなと脱力してしまった。
せっかく片づけの火が点いていることだし、とアニはバナナを食べ終わったあとに、その押し込まれている書類の整理に取りかかった。
仕分けをしてみると、そのほとんどがアルミンのもので、いくつか研究に関するものもあったようだ。内容はよくわからないが、とりあえずまとめたそれらをアルミンの書斎に持っていってやることにした。
普段入っても長居はしない書斎。書類を手に持っていたので、膝を駆使して電気のスイッチを入れた。主がいない部屋は妙に寂れているなと浮かび、そのまま机のほうへ歩み寄る。
「……うわ。……まあ、そりゃそうか……」
見ればアルミンの机の上も嵐が去ったあとのような状態になっていて、思わず声を漏らした。
共用スペースであれなら、個人のスペースはこうなって当然だろう。どこに書類を置こうかと迷ったが、勝手に机の上を触るのも気が引けたので、端のほうに置いておくことにした。
本人の机の上以外は意外と整理されている部屋の中を見回す。思ったより綺麗に使っているので少し感心したが、机の上を改めて見て、やはり次の休みは片づけを促すかと決める。
部屋を出るために踵を返し、歩き出したところ、
――がしゅ、しゅしゅしゅ
重量のある紙類が落下した音が背後で聞こえて、慌ててふり返った。
「うわあ……」
なんとアルミンの机の上に置いてあったらしいファイルが総崩れして床に落ちたらしかった。……しまった、やってしまった……私のせいか。考えたが、自分が来るまでしっかり保てていたバランスが、今崩れたのだから、自分のせいに違いないのだろう。
アニは、はあ、と深くため息を落として、仕方なく身体を屈めた。それらの書類を拾い始める。
その途中、一つのファイルからはみ出している、立派な筆書きの用紙を目にして、それに気が留まった。
金色のインクで枠が描かれている、何かの認定証や資格証のようなものに見えた。
それをファイルに挟み直すために拾い上げると、その用紙の文面が視界に飛び込んできた。
――『貴殿発見の小惑星の命名について』
どうやらアルミンが研究の中で見つけた星についての書類のようだった。ざっと文面を流し見していくと、国際なんとか連合などという機関からのもので、しっかりとは読まなかったが、アルミンがその小惑星に名前をつけ、それが承認されたという旨らしい。半年以上も前の日付になっている。
気になったのはその星の名前だ。
――少し自意識過剰だったかもしれないが、新しく見つけた星に恋人の名前をつけたという話を聞いたこともあり、まさかなと期待を持ってしまった。……期待という言葉が合っているのかは微妙だが、とにかく、どくどくと脈拍が速くなった。
しかし、正直、本名をつけられるのは気恥ずかしくていやだなとも思ったアニだ。だがあの男はやりかねないという気持ちも拭えない。
その書類からなんとかその小惑星の名前を見つけ出そうと、今度は焦りながらだが、しっかりと目を通してしまった。
そうして、ようやく発見する。
――『小惑星:「ブアイソレモネード」』
「……ブアイソ……? ……は?」
思わず声をこぼしてしまった。
その名前には、一つも自分の名前などかすっていなかったのだ。
なんだ、と気が抜けたそのときだった。ぶわ、と自分の脳裏に蘇った光景があった。
『お待たせしました。レモネードです』
『……え、ぼく、頼んでません……』
数年前、アルミンが初めてアニが務めるカフェ店に現れたときのやり取りだった。
……そう、それがアルミンとアニの、初対面での会話だったのだ。
当時、同僚であるライナーに小言を言われて、腹の底から煮えくりかえっていたアニは、やや乱暴にそのメニューをアルミンの目の前に置いたのだった。
それを混乱するような眼差しで眺めたアルミンが、恐る恐る不機嫌全開のアニに向けて顔を上げて……そうしてそのレモネードは行き先を間違えていたのだと判明する。
「ふふ……なにそれ」
その小惑星の名前を改めて確認して、アニは思わず失笑してしまった。
『ブアイソ』は完全に余計だとは思ったが、それもアルミンらしいなと愛しさが溢れた。アルミンにとって、そのときアニが無愛想だったこと自体、素敵な思い出として記憶されているのだ。それを言葉で話してくれたことはあれど、こうやって違う方向から見て、何やら実感めいたものを抱いた。
おそらくアルミンはアニが本名をつけられることをよく思わないであろうことも予測済みで、だからこんな回りくどく二人の思い出にまつわる名前にしたのだろう。
それからアニは、くすぐったくてしようがなかった。
アルミンが自分のことをどれだけ想ってくれているか、それが直接感覚として伝わってくるようで、頬だって緩みっぱなしだ。
大崩落した書類の山を拾い上げながらも、早くアルミンに会いたいなどと、柄にもないことを思い浮かべてしまった。……口から出ていないのでまだセーフだ。
半年以上も前に決まったその小惑星の名前を、特にアニ自身に報告することをしなかったのは、言いふらすようなことをしたくなかったからだろうか。……それとももしかして、クリスマスやアニの誕生日といったイベントごとまで待つつもりだったのだろうか。
ともあれアニは、その小惑星の名前のことは知らない振る舞いでいることにした。そもそも自分からなんと切り出していいのかもわからない。
アルミンの書斎を片づけ終わったあと、リビングに戻ったアニは、それからアルミンが帰るまでの間、どうやって時間を潰そうかと悩んだものだった。ずっと心がむずむずしていた。
*
「ええ、アニ。本当にちょっと今日、どうしたの」
「……なんでもない」
一休憩のため、ソファに座っていたアルミンの横に、珍しく密着するようにアニは座った。
今日はもう離れたくないような気持ちだったが、それを口にしてやるのは癪なので、ずっとくっついていたのだ。アルミンは頑なに事情を話さないアニを不思議に思いながらも、
「……なんかまあ、でも、君が嬉しそうでぼくも嬉しいよ」
にへら、と笑って見せた。
この男はもう。なんなんだ。
また溢れたこそばゆい感覚が腑に落ちないアニだ。ともに暮らして長らく経つというのに、こんなにも自分の中に存在していた気持ちを実感するのは久しぶりだった。
「そうだ。今日は二人でどこかに食べに行かない?」
アルミンがその調子のままアニに提案した。
「じゃあ、うちのカフェ行くのは?」
この時間はホールにはバイトしかいないので、空気を読んでくれるだろう。それよりも今、なんとなくそこに二人で行きたいと心が逸る。
「……今日休みなのにいいの?」
「うん、……行きたい」
『あんたと二人で』は聞こえないように口の中で噛み殺して、アニはまた笑って同意するアルミンの横顔を盗み見ていた。
おしまい
あとがき
現パロミンくん天文学者にしがち〜!!
(星に命名するネタほかにも書いてたらすみません笑; 好きなもんで)
海洋学者設定も大好きなんですけどね!!(≧∀≦)
というわけでご読了ありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。
幸せな二人を書きたかったのでめちゃ満足。
お付き合いくださりありがとうございました!