朝と枕と私
――何かの気配がして、ゆっくりと意識が浮上した。
部屋の中が既に明るいことに気づいたときには目を薄らと開いていて、光の中で穏やかな眼差しを向ける瞳の存在にたどり着く。なんだ、感じていた気配はこれか、と再び瞼を下ろすと、心地のいい呼吸が肺を膨らませた。日差しの匂いがする。
「おはよう、アニ」
閑やかな吐息が言葉を紡ぐ。それすらも心地が良くて、本当は完全に覚醒してしまうことが少し惜しくもあった。……けれど、この人は私を待っている。そう思うと無碍にもできず、改めてゆっくりと息を吸った。
「おはよう……早いね」
うつ伏せだったのを横に体勢を変えて、穏やかな眼差しをなお持っていた瞳と私自身の眼差しとを繋げた。
ゆっくりと手が伸びて、
「それがさ、もう『早いね』って言える時間じゃないんだ」
私の無造作に散らばる髪の毛を撫でる。
今日は何も予定がなかったことを思い出してほっとしたあと、私が目を覚ますまで、どれくらい待たせてしまっただろうかと過った。
「…………今何時?」
「お昼の十二時だよ」
「……そう」
どうやら思っていたほどひどいことにはなっていなかったようだ。夕方の四時とか言われたらどうしようと身構えていた分、昼の十二時ならそんなに悪くない。
まだぼんやりとしている頭で撫でてくれた手を握り返して、その存在をそこに確かめた。
のそり、とベッドが揺れる。
「ぼくコーヒーを……アニはミルクティーだね。淹れてくるよ。もう少しゆっくりしてて」
そこに座ってまた何度か私の頭を撫でてくれた。
「うん、ありがと。お砂糖入れて」
「うん、ふふ、わかってるよ」
ぎ、とベッドに文句を言わせながら立ち上がった、下着とTシャツだけの後ろ姿を見つめる。離れていくことに少しの寂しさを抱くも、その後ろ姿を包む陽光があまりのも優しくて、姿が見えなくなるまでそれを眺めてしまった。
枕に顔を埋める。……信じられない、昨日嗅いだばかりの汗の匂いが深々と染み込んでいた。瞬時に昨晩のことが脳裏を過って、覚えたての甘い痺れが身体に走る。
――『アニっ、好き、好きだよ』
――『どうしよう……好きだ、アニ……ッ』
――『アニ! あにぃ……っ!』
思っていたよりもはっきりと事の最中が思い出されて、必死な声が耳の奥に響き込んでくる。引きはがそうとしてもだめだ、頭の中に勝手に入ってきて、触れ合っていた感触までも呼び起こした。
先ほどまでの穏やかさを返してほしい。……そう思いながらも、枕から顔を離すことは思いつかなかった。
――ここで、昨日。自分たちは。
その瞳から漏れ出していた欲情は強烈で、鮮明に思い出せた。あんな風に見つめられたのは初めてで、その視線だけで自分の身体が内側からざわついたのだ。あんな眼差しができるなんて知らなかったし、あんな深く骨の芯にまで染み込むような声を出せるのも知らなかった。……そして自分も、それらに簡単に踊らされてしまうなんて、思ってもみなかった。
ぎゅっと枕をより一層強く握り込む。思い出しただけでこんなにも顔が熱くなるだなんて……なんて強烈な経験をしてしまったのだろう。
「――お待たせ」
廊下のほうから声が聞こえた。
ハッと我に戻って、
「目は覚めた?」
「うん、だいたいは」
何事もなかったように身体を起こした。
ベッドの淵に腰を下ろしながら私にお決まりのマグを手渡して、「まだ眠そうだけど」と楽しそうに笑っている。とりあえずまだ上体を上げたうつ伏せの状態ではあったけど、そのマグを受け取って、そこから鼻をくすぐる甘い香りに意識を傾けた。
確かにいつもの寝起きとは少し違った。どことなくぼんやりしているというか……そうか、これは、気が緩んでいる。
まだ温かく、湯気を昇らせているミルクティーに口をつけて、唇の先でその甘さを実感した。……いつも自分で作るそれよりも甘い気がして、どれだけ砂糖を入れたのだろうと少し思う。
見ればベッドの淵に座って同じようにコーヒーを啜り、「あつっ」と声を漏らしている。恥ずかしそうににへら、と笑い、私のほうを見るので、緊張感の欠片も持てない。
私はベッドのサイドテーブルにマグを置いて、それからまた力を抜いて身体をベッドに落とした。
「なんだろう……気が抜けてる感じ」
先ほどの『まだ眠そうだけど』の返事として、自分の感じていることを教えてやった。実際少し身体もだるいだろうか。ベッドの上で脱力するのはとても心地よくて、「そっか」と笑みを絶やさない、その穏やかな眼差しを眺め続けた。……まだ熱いはずのコーヒーに果敢に挑み、少しずつ飲んでは満足している姿を見て、ふ、と頬が緩む。……そうだ、気が緩んでいるのなら、それは十中八九、これのせいだ。
「……あんたが、隣に……いるからかも」
「え?」
私の気が緩んでいる理由を白状して、
「朝起きて、あんたが隣にいるの初めてだし……」
寝そべったままずりずりと近づき、けれど触れるまでにはたかを外せなくて、そのまま顔をまた枕に埋めた。やっぱり昨日の汗と同じ匂いがして、けれどそれには気づかなかったようにふるまった。
「……ぼくがいると気が抜けるの?」
上から声が降ってくる。真面目な性分が出たのか、声も真剣で本当にただ純粋に疑問に思ったのだろう。茶化す様子もないので、もう少し伝えてあげてもいい気がした。
「だって……あんたなんかほわほわしてるし……気張っててもしょうがない……」
「……そうかな?」
問い返した割に、私が返事をするより先に、
「もしかして、褒めてくれてる?」
また真剣な声色で尋ねられた。
「褒めてるかどうかはわからないけど……そういうところも、嫌いじゃないよ」
枕を抱いて、目を瞑ったまま答えた。
するとそこで小さな間が生まれて、それが気になってちらりとその横顔を盗み見てやった。一体どんな顔をしているのだろうと気になったからだけど、ちょうどその視線が私のと重なる。
「えへへ、ありがとう」
照れ臭そうに微笑みかけられて、それがきらりと光ったように見えた。角度のせいだろうか、先ほどのように陽光が纏って、柔らかく見せて、不意にあぁ、とため息のような深い情動が起こった。
「……別に」
それを隠すように静かに締めて、この会話はこれで終わりにする。
今起こった情動によって溢れた感情が、身体を埋め尽くして苦しい。触れたい。触れたい。甘えたいような欲求が浮かんで、いっそその腰に腕を回してしまおうかと衝動が促していた。
「で、でもっ、」
その衝動を必死にしまい込んでいたら、唐突に違う声色で開口されて、ぱっと瞳を上げた。
「次はもっと男らしくエスコートできるように……! が、がんばる」
切迫したように言い切って、
「あれじゃあ、あんまりだったよね、はは」
今度は思いつめたように苦笑をしてみせた。言ったあとにコーヒーを口元に持って行っていたが、明らかに顔を隠そうとしたのだとわかる。
昨晩も、ひと段落してから何度か謝られたことだった。
二人で経験する初めての夜で、自分だけがさっさと達してしまったのだと最中から懺悔されていた。それを今でも気にしているのだろう。
――『アニっ、好き、好きだよ』
ふ、とまた耳の奥で声がくり返す。
荒くなった呼吸の合間に何度も囁かれて、正直なところ、私はそれどころではなかった。触れられるところ、すべてが燃えるように熱くて、背骨はその中心から甘く痺れて逃げ場がなくて……本当に、それどころではなかったのだ。
――『どうしよう……好きだ、アニ……ッ』
交わされたキスも鮮明に思い出せる。触れられた熱さも、触れた温もりも……こんなはっきりと思い出したくないのに、勝手に次から次へと場面が代わる代わる浮かんで、
――『アニ! あにぃ……っ!』
そのとき、自分が返事もできないほどに感じ入っていたなんて、思い出したくもなかった。もっと冷静でいられると思ったのに、まったくそんなことはなかったのだ。浴びる言葉も、触れる眼差しも、見せられる必死さも、すべてが鮮烈で力強く、優しかったのだ。
「……そうは、思わない」
考えたことを悟られることは避けたくて、反論はしたけども枕に口をつけたまま、しかも極々小声でしか言わなかった。案の定聞こえていなかったらしく、「……え、アニ? なんて?」と聞き返されたけど、二度は言わない。
――あんな溶けるような声で、表情で迫られて、それを受けとめることで精いっぱいだったのに……それにまた〝男らしくエスコート〟なんて加わってしまったら、どうなるかわかったものではない。
「……アニ?」
声が耳元で聞こえた。抱きしめている枕に顔を埋めたままだったので驚いたが、どうやら屈んで顔を覗き込んでいるようだった。
「――もしかして、昨日のこと思い出してる?」
なんでばれた。
「う、うるさい」
意識した途端、思い出していたことに対する羞恥が沸いて、なんとか顔を見られないようにしようと思えば思うほど、どんどん顔から蒸気でも上がっているように熱くなっていく。
さらに防御を固めるため、もっと強く枕を握り込んだのだけど、
「え、でも……顔見せてよ」
それは簡単に取り上げられてしまった。
「かわいい」
目の前に嬉しそうな眼差しが現れる。言葉の通りの感情が読み取れて、やはり茶化したりしているわけではないことはわかった。それでも、こんな上せてしまった顔をまじまじと見られるのは不本意だ。
「あ、あんまり近くで見ないで。どんな顔していいかわからない」
「どんな顔でもかわいいよ」
そう言って、本当に満足そうに笑ってみせるから、また顔を隠したくなった。
「ねえ、アニ……」
起きたときのように、穏やかで優しい手つきで髪の毛に触れられて、
「昨日、どんな感じだった?」
その調子のまま尋ねられるものだから、またボンっと小爆発が起こったように頭の中が真っ白になった。
「ぼくはさ……とても気持ちがよかったよ」
髪の毛から手が放れて、その代わりに愛おしそうに見つめる眼差しが触れた。
「快感とかそういう意味はもちろんあるけど、心地がいいという意味の気持ちよさもあって、君の体温とか、鼓動とか、呼吸とか、初めて直に触れた気がして、君がとても近くて……すごく、気分がよかった」
それを丁寧に紡いでくれる様子に釘づけになって、ぐつぐつと自分の中にも情緒が湧き始めたことに気づく。
「君が好きだと、もうそれだけで頭がいっぱいになって、呼吸をするのと同じように、くり返しくり返し、君が好きだと頭に浮かんで」
息がぴったり合わさるのが、形がぴったり合わさるのが、とても気持ちがよかった。
その情で形作られた言葉たちに釣られて、私の胸の中にも甘い心地が浮かぶ。
私はまだ絶頂が何なのかわかっていないので、自分がそれを迎えたのかもわからないけど、それでもあの重なるような感覚には溺れていたし、……また繋がりたいと思ってしまっていた。
「……今もだ、君が好きだよ」
今度は私の髪の毛ではなく、頬に触れて、それから唇もそっと触れられた。その手がまた離れていくのが悲しくて、ぎりと胸が締めつけられる。
いっそのこと、「私もだよ」と言ってしまいたかった。けれどもそれを言ってしまえるほど、今はたかが外れてない。何のためかと聞かれたら、おそらく自分の〝見栄〟のためにほかならないだろう。自分でもなんでこんなに口にできないのかわからない。けれど、おそらくのその見栄のためにぐっと堪えて、私はまたその衝動を飲み込んだ。
「……だからこそ、あんなに早くイッちゃったんだけど……ほんと、あれはごめん」
いつの間にかまた話題がそこに戻っていて、拍子抜けしてしまった。せっかく身体中が痛いほどの情に溢れていたのに、現実に引き戻された気持ちになった。……こちらはそんなことこれっぽっちも気にしていないのだから、反対にしつこいなと不満を抱いてしまったほどだ。
わざと見せつけるように深いため息を吐いて、
「だから、そんなに気にしなくていい」
「アニ」
ようやくベッドに起き上がって座った。
すぐ隣に身体を置いて、寄せ合うように肌と肌が触れる。
「誰もそんな経験豊富な色男みたいなのをあんたに期待なんかしてないよ」
「……え、まあ、それはそうだろうけど……」
あのとき、自分が返事もできないほどに感じ入っていたなんて、思い出したくもない。浴びる言葉も、触れる眼差しも、見せられる必死さも、すべてが鮮烈で力強く、優しかった…………どうしようもなく、愛しかったのだ。
これだけでは伝え足りない。もっともっと溢れて、言葉にしたくて、
「つまり、その……」
けれど、どんな言葉なら言えるだろうかと考えて、
「十分、だった」
たどり着いた言葉にすべてを乗せた。
――そう、あれやこれやと気にしているようだけど、そんなことはもう、気にするどころではなかったのだ。
「あんな気持ちになるなんて、知らなかった。新しい感覚を知って、それで精いっぱいだった……だから、あんたに〝男らしいすごいエスコート〟をされても……もたなかった……」
唐突に自分がとんでもなく恥ずかしいことを言っているような気になってきて、
「……かも……」
それを言い切るまでにはまた小声になっていた。
でもこれが思っていた本当の気持ちで、これ以上無駄に気に病ませなくなるならば、言えてよかったのだろうとも思う。
「……そっか」
「……うん」
自分から隣に寄っておいて、この距離感にすら照れが生じてしまっていた。しまった、どうしてこんなに近くに来てしまったのだろうと思ったけど、触れているところは温かくて離れる気にもなれない。
ああ、そうか。これは……また触れたいんだと思い出した。私はまた寄り添い合いたくて、触れたくて、ここに来たのだろう。
「……やっぱりアニは優しいね」
優しくその髪の毛が頬をくすぐった。肩に頬を預けられて、
「そういうところも、好きで、好きで好きで仕方がないよ」
まるで歌うように紡いでいた。
私はそんな恥ずかしい告白になんと答えていいのかわからず、「そりゃ、どうも」とぶっきらぼうに返しただけだった。
心地のいい重さが身体に乗っていて、そこからは温もりも愛しさも広がってくる。こんなに近くにいるんだから、触れてもいいだろうか。キスの一つや二つ、してもいいだろうか。
「……キス、していい?」
衝動と現状とで吟味をしていたら、先に誘われていた。どうやら同じ気持ちだったようだと知って、もう押さえられなくなった。既に身体は傾いていたと思う。
「わざわざ聞くの?」
「聞くよ。君の気持ちは全部知りたいから」
ゆっくりと向かい合わせになる。気持ちの中ではお互いに、もう既に触れていたのかもしれない。吐息が混ざる距離まで近づいていて、
「……いいよ。キス、したい」
私が認めたところで、
「あにっ」
私の名前が絡まって、ついに唇が触れるに至る。
淹れたてだったコーヒーとミルクティーがすっかり冷めてしまうほど、その触れ合いは続いたのだった。
おしまい
あとがき
373さんハッピーバースデイ!
お祝いに書かせていただきました。
リクエストは「アルアニちゃんの初夜にまつわるもの」でした……^^
いかがでしたでしょうか。
というわけで初夜の次の朝を書いてみました……!
ミンくんも余裕なかったんですけど、それはアニちゃんも同じだったっていう……( ´ ▽ ` )
次の朝、思い出してピロートークの続きみたいな、それでも体力はかなり戻ってるので、なんとなくうずうずしちゃうような……そんなひと時を描けたらなと思い書きました。
どうかな……?!
あと、お気づきかもしれませんが、
今回文章で一度も『アルミン』という名前は出てきませんでした。
アニちゃん照れて言葉にできなさそうだなと思って……笑。
ほかにも実は描かれていないけど細かく設定はあって、せっかくなのでその一部分だけでもと下記におまけでつけときます。
それでは長々とお付き合いくださりありがとうございました!
お楽しみいただけていたら幸いです!
373さん、改めましてお誕生日おめでとうございます(≧∀≦)
以下、設定(プロットより抜粋) --------------------
一人暮らし始めたアニちゃんの家で。
付き合い始めて一ヵ月。
ミンくん的にはキスだけにしとくつもりが、盛り上がっちゃう。笑。
我慢しようとしたミンを見て、アニちゃん「いいよ」って。
歩いて帰れる距離ではあったけど、「もう遅いし泊ってけば?」って。
こんな設定でした。