死者からの手紙死者の日まであと数週間。サンタ・セシリアのとある学校の放課後。学校の門からやせっぽちの少年が帰路へと駆けていった。少年の使い込まれた靴が薄く足跡を残していく。老舗靴屋の息子ミゲル・リヴェラだ。彼の丸い頰に汗が伝う。彼はいとこと死者の日に演奏する曲を練習する予定だった。
リヴェラ靴屋はサンタ・セシリアに訪れた者たちの名所だ。彼らはミュージシャンであるヘクター・リヴェラの遺品を見にここを訪れる。娘に宛てた手紙や愛用品など、彼の痕跡を知りに来るのである。しかし遺品の中には彼の肉声が録音された音源はなく、彼の歌声は想像に任せるしかない。音楽禁止の掟が解かれたことでリヴェラ靴屋に足繁く通う者が増えた。もう、この近くで音楽を奏でてもサンダルが飛んでくることはないだろう。マリアッチでさえ正体を隠さずとも靴の修理や購入ができるようになったのだから。
だが、今日のリヴェラ靴屋は珍しく人の通りが少なかった。その代わり、一人ぽつんとヘクターの遺品の展示を眺めるマリアッチの姿が目立った。こともあろうか靴屋の出入口にギターを置いている。ミゲルはマリアッチにギターを退けてもらうよう声をかけようとした。
「あのー……」
「わぁっ!?」
背後から声をかけられて驚いたのかマリアッチはひっくり返った。
「う……」
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
ミゲルは唸っているマリアッチの体を起こそうと彼の手を引いた。
「あっ」
ミゲルはマリアッチの顔を見て目を丸くした。以前に靴磨きをしたマリアッチであった。……祖母に見つかってサンダルの洗礼に巻き込まれた、あのマリアッチである。
「ここの息子だったのか」
マリアッチは起き上がって眉間にしわを寄せた。彼もまたミゲルのことを覚えていたようだ。
「あー……うん」
ミゲルは目を泳がせた。
「……災難だったな」
マリアッチは再びヘクターの遺品を眺めた。
「いまは音楽禁止じゃないよ、ご覧の通り」
ミゲルはガイドの真似をするように展示されている遺品を手で指し示した。
「あー、いや、君もだけど……彼もだ」
マリアッチはヘクターが娘に宛てた手紙を見つめた。
「……うん」
ミゲルは口をつぐんだ。死後の世界を見たことのない者にとって、ヘクターは「家族に再会できず非業の死を遂げたミュージシャン」なのだ。ミゲルはあの死者の日の出来事を話したくて仕方がなかった。だが、死者の国の出来事を信じてもらえるはずがない。ヘクター・リヴェラが愛する妻イメルダと娘のココに会えた証拠は生者の国には存在しない。娘に会えたかどうかについては今のミゲルにさえわからない。
「死者の日も近いな」
ミゲルはマリアッチの言葉を聞いて月日の流れの早さを実感した。ミゲルは今朝、祖母のエレナが祭壇に飾るココの写真を探していたことを思い出した。
「そろそろ戻るか」
マリアッチはふと我に返ったようにつぶやく。いつの間にか夕焼けが青紫に帯びていた。マリアッチは出入口の近くに置いていたギターを手に取った。
「おじさんも家族の写真を祭壇に飾ってね。花も忘れずに。あと食べ物もね!」
ミゲルの念の押し方を不可解に思いながらもマリアッチは頷いて去っていった。
「ただい……」
ミゲルが家に入ろうとした瞬間、犬の大きな鳴き声が遠くから聞こえた。
「ダンテ?」
ミゲルの声に応じるように、角から毛のない黒い老犬が姿を見せた。ミゲルの友達のショロ犬、ダンテだ。
「ダンテ!ダンテ!久し、うっ!」
ミゲルはダンテの体当たりをもろに受けて勢いよく倒れこんだ。
「ああ、会えて嬉しいよ!」
ダンテの舌が鞭のようにしなり、思わずミゲルは何度か目を瞑った。さすがに目を舐められるわけにはいかない。
「死者の国はどう?居心地よかった?」
ミゲルは起き上がって背中についた砂を払った。
「バウッ」
元気な鳴き声とともにダンテの尻尾がちぎれんばかりに揺れる。
「パパ・ヘクターやママ・ココたちは元気?」
ミゲルは少し心配そうにダンテに尋ねた。ダンテはさっきと変わらない元気な鳴き声を返した。
「……よかった」
ミゲルは胸をなでおろした。そしてダンテの体をやさしく撫でた。
「ん?」
ミゲルはダンテの足首に何か巻き付けられていることに気づいた。
「大丈夫?怪我したのか?」
ミゲルの質問に対し、ダンテは不思議そうに首をかしげる。ミゲルはダンテの足首に触れて、巻き付けられているものを解いた。ミゲルがくしゃくしゃと音を立てて開くと文字がびっしりと書かれている。手紙だ。しかもミゲル・リヴェラ宛だ。
「ありがとう、ダンテ」
ミゲルはダンテの頬を撫でる。
「自慢の魂のガイドだ」
ダンテが届けてくれた手紙。それはリヴェラ靴屋に飾られている偉大なるミュージシャンと同じ筆跡であった。