潮の調べ「モアナ気をつけてね」
ある島での浜辺、シーナは舟に乗り込む娘を心配した。
「大丈夫。夜の舟出より安全だから」
娘のモアナは安心させるように母に力強くうなずいた。
「むしろお母さんたちに仕事任せちゃったことが……」
「船旅以外なら私たちの方が詳しいわ。お父さんには言っとくからね」
「ありがとう。夕方ぐらいに戻れると思う」
「ええ」
モアナはシーナと鼻を合わせると舟の帆を開いて目的地へ向かった。
別のとある小さな島では太陽が天高く登っている時間。その島を目指して水平線から巨大な鷹が姿を表す。その鷹は大きな脚で掴んでいた袋を離した。鷹は袋を落とした場所とは別の場所へ着地した。青い光が鷹の体を包み込み瞬時に大柄な男へと姿を変える。彼は首を鳴らすと島に先客がいたことに気づいた。
「マウイ」
先客の少女は男の方へ走り出し、跳びはねるように抱擁した。
「久しぶり」
「モアナ」
マウイと呼ばれた男は抱擁し返して彼女を降ろした。
「どうやって来たんだ?」
「あっちにも浜があったの。で、舟はそっち」
モアナはマウイが来た方角とは反対を指し示した。
「テ・カァのせいか様子が変わったな」
「最近引き上げたって言ってなかった?」
モアナは疑わしげな様子を見せた。前回マウイと会ったときにテ・フィティが復活したあとに引き上げた島で会おうと。
「おっとそうだ。言ってたものは?」
マウイは大袈裟に両手を打ってモアナに質問した。前者の言葉が彼女の言葉に対する応答なのか話題を逸らすためのとっさの一言はよくわからなかった。
「持ってきた」
モアナは気を取り直して貝殻とウニの針を見せた。
「完璧」
マウイはさっき着地時に脚から離した物体を拾い上げた。モアナから見るに曲がった流木、枝が数本、そして何かの繊維のように見えた。
「それは?」
「みやげ」
「えっと名前は?」
「枝と……」
「木じゃないほう」
ニタニタするマウイに対し、モアナは眉間にシワを寄せたくなった。いやマウイから見ればモアナはわずかながら眉間にシワを寄せていた。
「クジラのひげだ。さっきの借りていいか?」
「どうぞ」
マウイはそう答えるとモアナが持ってきた貝殻をつまんだ。そして貝殻の鋭く研がれた部分を流木の端に溝をつけるようにこすりつけた。
「何するの?」
「すぐわかるさ」
マウイはクジラのひげを流木の溝にひっかけ始めた。よく見ると貝殻で流木の溝を規則的に刻んでいたようだ。
「それってどこから……」
「カカモラからくすねた」
予期せぬ名前にモアナはしかめっ面を見せた。
「あいつらまた太鼓を作る気だ」
「いま使ってる船だとオールが足りなさそうね」
モアナはカカモラの復活の速さにある種の感心ともいうべき気持ちを抱いた。おそらく彼らもクジラの皮を太鼓の皮にでも使うのだろう。しかし完全復活したカカモラに再会するのは勘弁したいところだ。
「よし」
マウイは流木に引っ掛けたクジラのひげを裏面で枝を組み合わせて固定した。
「これで完成だ」
マウイはクジラのひげを指で弾き始めた。
「何かリクエストは?」
「うーん」
モアナはどうリクエストしていいか迷った。マウイには千年の情報の隔たりがある。彼がどういった曲を知ってるのかモアナには見当がつかなかった。
「迷うなら俺が一曲歌おう」
「それって……」
初めて会ったときの歌だろうかとモアナは思った。もしかしたらマウイは最初からあの歌を歌うつもりだったのかもしれない。しかしモアナが予想を立てた矢先にマウイが口ずさみ始めたのは──。
「……子守唄?」
「うん」
マウイは歌を中断して答えた。モトゥヌイでもよく歌われていた子守唄だった。
「知ってるなら変えるか」
「ま、待って」
モアナは別の曲を弾こうとしたマウイの手を遮った。
「そう、歌は知ってる。でもマウイがその歌を歌うのは知らなかった。だから聞きたい」
モアナはジェスチャーを交えてマウイに話した。
「それでは眠れないお姫様に一曲」
「まだ夕方だけど」
モアナは冗談めかして言った。モアナはマウイと合わせて口ずさむ。しかしマウイが聞いた島の子守唄はモアナがモトゥヌイで聴いた子守唄と似ていたが途中の歌詞やメロディが違っていた。
「あっ」
モアナは歌詞の違いに気付いて歌を中断した。マウイもモアナの声と同時に弦を弾く手を止めた。
「歌詞違うんだね」
「それなら俺が伴奏に専念しよう」
「そっちが歌ってからでいいよ」
モアナはあくまでもマウイが先に全部歌うよう促した。
「歌い終わったらモトゥヌイ版を聞かせてくれ」
マウイはモアナにそう伝えて再び歌い直した。初めて会ったときの張り切った歌声とは打って変わって穏やかな歌声だった。彼の歌声が弦の音と溶け込むように調和する。マウイが奏で終えるとミニマウイとモアナは拍手した。
「ご清聴いただき光栄だ。今度はそっちだな」
マウイはモアナに目配せした。ミニマウイもどこからかマウイ本人と同じ楽器を用意してミニモアナに促す素振りを見せた。
「えー……コホンッ、んんっ」
モアナは軽く咳払いして喉の調子を整えた。彼女が咳払いするほんの少しの時間、マウイは楽器の弦を調整した。
「いいか?」
「うん」
モアナが応答すると同時にマウイは楽器を奏で始めた。モアナの声は弦と溶け込むこともあれば離れて引き立て合うような調べだった。ミニマウイのほうも楽器を奏で続ける。気づくとミニモアナもミニマウイの隣に座り、同じ楽器を用意して奏でるジェスチャーを見せていた。モアナはちいさなふたりのタトゥーを見て思わず笑みをこぼした。
モアナが歌い終えるとマウイや人型のタトゥーたちが全て揃って拍手した。
「ありがと」
モアナはタトゥーの大反響ぶりにはにかんだ。
「人間から歌を聞かせてもらったのは初めてだ」
「えっ?」
マウイの言葉にモアナは目を丸くした。モアナはてっきり偉業を成し遂げるたびに彼が宴で歓迎されていたと想像していたのだ。
「……子守唄はな」
モアナは彼の苦笑いのような表情に対して最適解の言葉が思い浮かばなかった。とりあえず俯いて二回ほど軽くうなずいた。
「またマウイの歌も聞かせてくれる?」
「いつでも」
マウイはモアナに仰々しく返した。気がつけば太陽は西へ沈み出していた。
「また二、三日後かな」
「そうだな」
モアナは舟の停留先でマウイと別れることにした。モアナは舟に乗り込み、マウイも鷹に姿を変えて飛び立つ準備をしていた。
「待って」
モアナは舟から降りてマウイに声をかけた。
「目を閉じてもらってもいい?」
マウイは返事をするかわりにまぶたを閉じた。
「ちょっとごめんね」
モアナの両手がマウイの両頬に触れる。モアナの手はしっとりと湿り気を帯び羽越しでも熱いと感じた。マウイは口を開こうとしたが喉から出るのは鷹の高い声だった。
「待っ……」
マウイは声をあげようとして自分の姿を戻した。しかしその瞬間、彼の鼻に軽い感触が当たった。
「ん、あれ?」
モアナは元の姿に戻ったマウイを見て目を見開かせた。
「その、次会うのは……」
マウイは自分の指で鼻に触れた。
「えっと、ほんとは会ったときにできたらなーって思ってたの」
モアナはマウイの言葉が聞こえてなかったのか弁明の言葉を返すばかりだ。腕を組んだり髪をいじったりと目まぐるしい手振りだった。
「その……する前に聞けばよかったね…….なかったことに……できる?」
モアナの表情はやや気まずそうに眉を下げている。マウイは何度かまばたきするだけだった。
「あっ次会う場所の話だよね。ああでも別に約束しなくても……」
モアナはマウイの言葉を思い出してしどろもどろに話した。
「テ・フィティでもいいんじゃないか。俺が話す」
「あ、う、うん、そうだね。いいかも!」
モアナは自分だけ挙動不審になってることに汗が止まらなかった。
「数日後にテ・フィティね?じゃあね!」
モアナはマウイに手を振って文字通り舟に飛び乗って帆を開いた。追い風が吹こうとしたその瞬間。
「待った」
マウイはモアナの舟を押さえた。モアナは押さえられた箇所を振り返る。先ほどまで吹いていた風も止み不自然に静かになった。
「ん?まだなにか……」
モアナは舟のへりに沿ってマウイに近づいた。するとマウイは顔を近づけて自分の鼻とモアナの鼻を触れ合わせた。
「引き止めて悪かった」
マウイがモアナの舟を離す。すると追い風もさっきと同じように吹き始めた。モアナは無言のままマウイに小さく手を振って舟を操縦した。
モアナの舟が見えなくなるとマウイは鼻をつつくように触った。すると海はマウイを覗き込むような形をとった。
「何だよ……ん?」
マウイは覗き込む海の中に鮮やかな花びらを数枚見つけた。
「こういうときだけおせっかいか?テ・フィティもテ・フィティだ」
マウイは海が見聞きしてたこと、海の気遣いとテ・フィティのゆるしに文句を言いたくなった。
モアナは島に戻る途中、空にたくさんの花びらが舞っていることに気づいた。花びらはテ・フィティの象徴の渦巻のマークを形作り、モアナの舟に乗った。
「マウイもう話したのかな」
モアナの独り言を聞いたように海はうなずく仕草を見せた。海自身はマウイより先にテ・フィティに交渉したことを明かす様子はなかった。
「さっきの見てた?」
モアナは海に尋ねた。海は一度考え込むようにうねらせてうなずいた。一方でマウイも島から飛び立つ様子もなく海に話しかけていた。
「あれは挨拶のつもり。お母さんやお父さん、村の人、テ・フィティにもしたことがある」
「あれは挨拶だ。人間がやってるのは見てきたしテ・フィティもしてた」
海が並行でふたりの話を聞いているとはつゆしらず、モアナとマウイは話し始めた。
「あの子がしてくれて嬉しかった。けど」
「マウイが返してくれてよかった。でも」
ただの挨拶なのにどうしてこんなに体が熱いのだろう。人間とは初めてだったから。初めて旅をした相手だから。それだけだろうか。海は話さない。にもかかわらず海に言うのも躊躇ってしまう。ふたりは別れ際に鼻を合わせたときの相手の顔を思い出した。鼻を離したときの相手の顔は戸惑い、赤く染まって見えた。それは夕焼けのせいかもしれない。そう思えば思うほど、あのときの相手の顔が自分の頭の中に強く焼き付く。海は別々の場所で黙り込んだふたりをしばらく見つめるように留まっていた。