仄かな誘い自然豊かな島の外れでのできごとだ。四人の少女たちが集まって話をしている。一日の仕事も一通り終えてみんな和気藹々とした空気であった。
「この前、火傷しちゃったんだけど、あの人すぐ薬草くれたの」
とある少女の報告に他の少女たちも顔を輝かせる。
「彼もその気かもよ?最近あなたの話ばかりだし」
「ほんと!?」
「ほんと!今度、宴の後を狙って抜け出さないか誘えば?」
少女たちがトントン拍子で話に花を咲かせていく。
「ねえ、モアナ」
三人の目線が一人の少女に向けられる。四人の少女の中でも、ひときわ色鮮やかな衣装は民族の長の証でもあった。しかし、彼女は熱心に少女たちの話に耳を傾けるばかりであった。
「たまにはモアナの話も聞かせてくれない?」
「えっ」
ある少女の提案に他の少女たちも頷く。当のモアナを除いて。
「いつも話聞いてもらってるし」
彼女たちにとって、モアナは信頼のおけるリーダーであり幼い頃からの友達だ。だがモアナ本人は戸惑った表情を見せた。
「ううーん……」
モアナは腕を組んだ。彼女はあくまで聞き役に徹するつもりだったのだ。人間関係の潤滑化を担うリーダーとして。
「いい人は?」
「そうね……みんないい人だと思う。決められないわ」
モアナの答えに対し、質問した少女が大きめに咳払いした。
「質問を変えるわ、結婚するならどんな人がいい?」
直球な質問に対し、モアナは眉間を寄せて唇を結んだ。これではごまかすことができない。
「えっと、無理しなくていいよ?ね?」
他の少女がモアナ、そして質問した少女に目配せした。
「あ、こっちもごめん」
目配せされた少女も気遣う様子でモアナに言った。
「ううん、大丈夫。こっちこそごめんね」
モアナも眉間のシワを緩めて少女たちに言った。
「もし気になる人ができたら教えてね!相談に乗るから!」
先ほどの二人とはまた別の少女が目を輝かせた。
「ありがとう、そのときはお願いするね」
モアナは友達の好意に笑みを見せた。気がつけば空の色が話を始めたときから様変わりしていた。
「そろそろ戻らなきゃ」
日が暮れていくさなか、モアナを含めた四人の少女たちは恋話を終えて村へと戻っていった。
夜。夕食を終え、モアナは布団の中にいた。タパを隔てて雨が降り注ぐ音が聞こえてくる。彼女は午後の友人たちの話を思い出していた。
『結婚するなら、どんな人がいい?』
モアナの頭の中で友人の質問がこだまする。モアナは落ち着かず、ぐるりと体を回転させた。彼女は島の人たちの顔を順繰りに思い出していく。
「うーん」
モアナは低くうめいた。確かにモトゥヌイからの顔なじみで仲のいい人たちばかりだ。けれども友人たちの思うような『いい人』というには違和感があった。そもそも結婚以前の問題かもしれない。モアナは布団のなかに潜り込んだ。
「結婚……」
モアナの呟いた声が布団でこもる。彼女は布団から顔を出した。その視線は両親の寝姿へと動く。ふたりはどういった流れで結婚したのだろう。いつからお互いを意識し始めたのだろう。モアナがふたりを見つめていると父親が小さく唸った。モアナは目を丸くして、改めて布団に潜り込む。彼女は布団の中で根気よく深呼吸した。脈打つ心臓が少しずつ落ち着きを取り戻していく。しかしこのまま布団で完全に閉じこもっていると酸欠になりそうだ。呼吸をするためにモアナは頭を半分布団から覗かせた。そのとき、彼女は壁にかけられていたタパの絵が目に入った。
「いっ」
モアナの心臓がより強く跳ね上がる。彼女は思わずタパから目を逸らした。彼女が見たタパは釣り針を携えた半神半人を描いたものであった。彼は英雄だ。最盛期の人気はいかほどだったのだろう。さすがのモアナでも数千年前のことは想像に任せるしかなかった。けれども、特別な力を持つ英雄を手元に置きたい人間はたくさんいたに違いない。自分の島にとどまってもらえるよう、誘った者がいたのではないか。モアナは頭を振った。きっと最盛期のマウイなら名声を広めるために断っただろう。
『よかったら一緒に来ない?』
別れ際に提案したときのマウイの表情を思い出す。その瞬間、跳ねるように動き続けていたモアナの心臓が縮こまる。彼女の耳に外の雨音が一層強く響いた。
翌日。夜の雨は嘘のように晴れ上がっていた。しかし午後になっても植物にかかった露が乾ききることはなかった。モアナは湿ったままの岩場に大きな葉を何枚か敷いた。
「よう」
モアナが声のした方を見ると緑色に輝く丸っこい虫が岩場に乗っていた。
「マウイ」
モアナは小さく笑って虫に話しかけた。
「湿気がひどいな」
それだけ言うと緑色の虫は青白い光を放ち、巨大な男へと姿を変えた。
「風で吹き飛ばせない?」
モアナは冗談を交えて返事した。冗談は頭を使う。代わりに昨夜のことを考え過ぎずに済む。
「難しいな。昨日の雨の範囲が広すぎた」
「ふふ」
「髪が決まらなくて災難だ」
モアナはマウイの髪を見たが、特に際立った変化は見受けられなかった。
「わたしも。いつもより寝癖がひどかった」
モアナはマウイに同調しつつ岩場に座った。
「調子は?」
マウイに促され、モアナは近況を話し始めた。
「うん、だいぶ作物も実ってきた。近々結婚の宴もできそう」
モアナの言葉を聞き、マウイは厳めしい表情になった。
「どうかした?」
「結婚……そうか、そんな歳か。おめでとう。式はいつだ?」
「あ、いや、わたしじゃないよ」
早合点したマウイに対してモアナは首を横に振って訂正した。
「そうか。祝いに何をすればいいか悩むところだった」
モアナはマウイの落ち着いた様子に少し寂しさを覚えた。
「わたしはまだ相手がいないから」
モアナを見てマウイは意外そうな反応を見せた。
「選び放題だと思ったけどな」
もう少し言い方はないのだろうか。マウイの言葉を聞いてモアナは不機嫌そうに彼を小突いた。マウイは軽く咳払いしてこう言い換えた。
「失礼。海に選ばれし者に選ばれるのは名誉なことだからな」
「そう?」
モアナは苦笑いした。
「ああ、誰だって喜ぶさ。どんな奴だって」
マウイの言葉にミニ・マウイも力強く頷いた。
「ありがとう」
モアナははにかみながら礼を言った。
「どういたしまして」
マウイは片眉を上げ、お得意の不敵な笑みを浮かべた。
「その」
「ところで」
ふたりは同じタイミングで声を出した。
「あ、どうぞ」
モアナは話の出だしが被ったことに却って安心した。きっとマウイは自分の話をするだろう。別の話題にしてもらえる。
「うん」
マウイは少し気の抜けた返事を返した。
「話を少し戻そう」
マウイの声が低くなる。
「……本当に相手はいないのか?」
マウイの質問を聞いた瞬間、ミニ・マウイが目を丸くして本人を見上げた。モアナも目を見開いて彼を見つめた。
「う、うん」
「ああ、いや、違うな。一方的に気にかけてる相手でいい」
マウイの胸にいる小さな相棒の視線が戸惑った様子でふたりを行き来した。
「まっ待って。相手の気持ちも考えたいな」
予想外の質問にモアナは目を泳がせた。
「その様子だといるんだな?」
ああ、しまった。マウイのニヤリと笑った顔を見てモアナは顔をしかめた。
「ここに相手はいないだろ?好きに話してくれ」
マウイは穏やかに言った。モアナは地団駄を踏みたくなった。人の気も知れないで。胸にいるミニ・マウイも表情を歪めて首を横に振る。モアナは期待した。そうだ、そのまま抑えてほしい。しかしモアナの願いは届かなかった。ミニ・マウイはうんざりした表情のまま背中へと移動していった。もう少し粘ってほしかった。だが背中へまわって説得するのも気がひける。こうなったら仕方ない。モアナは腹をくくって話し始めた。
「相手とは仲がいいと思う。ときどき相談にも乗ってもらってるの。でも、お付き合いしてるわけじゃない」
マウイは真摯な態度でモアナを見つめる。いま彼は何を思っているのだろう。モアナはマウイの真意が読めなかった。どうせマウイは茶化すだろうと思っていたのだが。なかなか茶化してくれない。モアナは話しにくさを感じた。
「さぞいい奴なんだろうな」
「どうかな」
モアナは首を傾けた。
「物知りで頼もしいと思うけど、ちょっと……なんていうか、なんでもない」
モアナの声がかすれる。
「相手は気づいてないと思う」
いま、まさにモアナの隣で話を聞いているなんて思ってもいないだろう。その『相手』がマウイ本人だと知ったらなんて思うだろうか。
「気づかれたらどうなるか考えたくない」
モアナの手が震えた。気づかれたら彼と会う機会が減らないだろうか。このまま安全な状態でいるのが一番楽しいのではないか。自分は旅をして危険を乗り越えることができた。それにも関わらずモトゥヌイにいた頃の両親の気持ちが改めてわかった。モアナの瞬きが減り、呼吸が浅くなっていった。
「詮索し過ぎたかもしれない」
モアナの様子を見てマウイは眉間にシワを寄せた。
「ただ、そいつのことで何かあったら頼ってくれ」
「うん」
マウイの言葉は嬉しかったが、今回に関しては彼を頼れそうにない。モアナは頷くだけで精一杯であった。
「そういえばそっちも何か話したかったんじゃないか?」
「えっ」
モアナは再び話を蒸し返されたように感じた。彼女は別の話題がないか近頃の出来事を思い返した。
「あっ、そういえば作物が育ったからおすそ分けしようかなって。燃料になる木の実がたくさんでき……」
モアナの言葉が尻すぼみになっていく。火を盗んできたような半神半人に燃料なんて必要だろうか。
「ココナッツのほうがいいかな?あとタロイモとか」
「いや、いちいち火を盗むのも苦労するからな」
モアナは仰々しく話すマウイを見て思わず吹き出した。さっきまでの緊張感が少しずつほぐれていくようだった。
「よかった。ちょっと持ってくるね」
モアナは岩場から降りて駆け出そうとした。
「わっ!?」
露で光っていた草がモアナの足裏を滑らせる。とっさにマウイは岩場から降り、転びそうになったモアナを受け止めようとした。しかし彼も草露で思いっきり足裏を滑らせてしまった。
モアナの体に鈍い衝撃が響く。上手く体を動かせない。湿った土が近いせいかさっきよりも蒸し暑く感じる。そのうえまぶた越しでも暗いような気がする。モアナはゆっくりと目を開けた。自分の体の上に山のような大男が覆いかぶさっている。
「うぁっ?!」
モアナは鈍痛を忘れて大男の頬に一撃食らわせた。大男がマウイだとモアナが認識できたのは一撃食らわせた直後だった。
「ごっごめん!平気?」
モアナは我に返って口を押さえた。
「俺も魔物が同じことしたら同じことする」
マウイは頰をさすって彼女の体から退いた。
「その様子だと大怪我はなさそうだな」
「うん」
モアナは眉を下げた。
「マウイは魔物じゃないよ」
どうだか。マウイは先程モアナが押し倒したときの姿が頭に焼きついたままだ。目を大きく見開かせた一瞬の表情が何度も思い起こされる。殴る直前に彼女は自分からわずかに目を逸らした。その短い間、彼女は何を思ったのか。頰を殴ったのも自分が恐ろしい存在に見えたからだろうか。彼女の視線の意図を考えると頭が痛くなりそうだった。
「魔物が転びかけた人間を助けると思う?」
黙ったままのマウイを見つめ、モアナは上体を起こした。彼女は怪我こそなかったようだが、髪や背中に泥や草がついていた。
「魔物による」
「確かに。でもマウイは」
モアナは咳払いして眉を吊り上げる。彼女なりにマウイと初めて会って口上を述べ始めたときの表情を再現しているようだ。
「姿を変える者、人であり風と海の神、そして……」
「結構」
マウイはモアナの口上を止めさせた。彼の強張っていた表情が和らぐ。
「自分のことはわかってる」
マウイは自分に言い聞かせるように言った。
「わかった」
モアナはマウイが優しげな表情に変わって安堵した様子を見せた。
「ところでね」
モアナは思い切って話を切り出した。
「話を少し戻していい?」
「どうぞ」
「海に選ばれし者に選ばれるなら誰だって喜ぶって言ってくれたけど……」
「そうだな」
「それって、半分神様の英雄も含まれたりする?」
モアナは思わず上目遣いになった。落ち着かないのか彼女は髪を耳にかける。赤く染まった彼女の耳を見てマウイは軽く瞬きした。耳の赤みは徐々に頰にかけて広がっていく。モアナの首筋に汗が流れた。気づけば、さっきまで背中に移動していたミニ・マウイが顔を覗かせていた。
「……お前がそれを知ってどう思うかによる」
「わたしが嬉しいって言ったら?」
「きっとそいつは大喜びするだろうな」
マウイは手の甲で頬を冷やした。自分の顔が熱くなっていることをモアナに気づかれないように。
「そっか」
モアナの口元が緩む。
「髪の泥と草が落ちるとなお喜ぶだろうな」
「えっ?あ、ほんとだ」
モアナは髪を触って泥や草がついてることに初めて気づいた。というよりも腕やふくらはぎの裏側にも泥がへばりついている。
「海で落として……」
「海もいいけど」
モアナはマウイの言葉を遮った。
「この前、湖と洞窟を見つけたの。たぶん私しか知らないと思う」
モアナは深呼吸してマウイの髪を撫でる。
「あなたも来ない?」
モアナはマウイの髪についていた草を取って彼に見せた。マウイはモアナから草を受け取った。草にわずかに泥がついている。
「海の方が早──」
マウイが草からモアナへと視線を移す。彼女は砂浜を見つめ、瞬きをせわしなく繰り返している。マウイはその様子を見てモアナが遠回しに伝えたいことがあることに気づいた。
「あ、もちろん、海でもいいよ」
モアナは落ち着かない様子で提案を変えた。
「いや」
マウイの声がかすれる。彼は唾を飲み込んで格好がつくように言い直した。
「湖でしかできないことがありそうだな」
モアナは何も言わずに頷いた。
「それは人目があると始めにくいことで……ここまでは合ってるか?」
「あ、うん」
「で、図体の差が……失敬」
早合点している可能性が頭に浮かび、マウイは言葉を止めた。
「ふふっ」
「ん?」
「いや、ごめん、ふふっ大変そう。さっき転んだとき思った」
モアナがくすくす笑う。早合点でもなさそうな様子にマウイは安心しつつも呆れそうになった。
「真面目な話してるって言うのに」
マウイがうんざりした様子で肩をすくめた。
「大丈夫。わかって……ぷふっ」
モアナは堪えきれずに笑いを漏らす。いったいどこで笑いのツボにはまったのかわからない。マウイはおろかモアナにもわからなかった。
「都合のいい方法でできるといいけど」
「そこは任せる」
「あなたも初めてなの?」
モアナが煽るように尋ねた。
「千年もさびれた島にいたら忘れるさ」
マウイは軽く流した。
「着くまでに思い出せない?」
モアナは湖の方角を一瞥した。
「思い出す気になれない。案内してくれ」
マウイは軽く両手を叩き、転んだ時についた土を落とした。モアナはマウイに応えるように彼の指を手で握った。モアナの手のほうが熱い。ふたりともそのことを意外に思った。そしてモアナが引っ張るような形でマウイを湖へ連れていった。