ハロー、あの日のわたしたち 何時間も前にとっぷりと日が暮れて、夜が更けはじめたころ。お風呂を済ませて部屋へ戻ると、壁際に置いてある書棚の前に小柄な後ろ姿がぺたんと座り込んでいた。目瞬きをひとつ。
「柚音ちゃん?」
なんだかずいぶんと真剣に手元を見ているみたいで、思わず首を傾げながら声をかける。とってもかわいい、パステルカラーのふわふわのパジャマを着た彼女が、ぱっと私を振り返った。
「どうしたの?まだ髪も乾かしてないみたいだけど……」
「あ、す、すみません……!」
「ううん、いいんだけど。でも、風邪ひいちゃうといけないから、先に乾かそうか」
私より先にお風呂を済ませたはずの柚音ちゃんの髪は、まだしっとりと濡れていた。彼女の着ているふわふわのパジャマは確かにとってもあたたかいけれど、もうすっかり寒くなっているこの季節に、長い時間髪が濡れたままではさすがに風邪をひいてしまうかもしれない。ソファに置いたままになっているドライヤーを取って、おいで、と手招きすると、柚音ちゃんは少しだけ照れくさそうに視線を泳がせながらこちらへ寄ってくる。その手にはなにかの雑誌がしっかりと握られたままで、そこで私はようやく、彼女が熱心に眺めていたものがなんだったのかに気が付いたのだった。
「柚音ちゃん、その雑誌……」
「それ、私の台詞ですよ、もう」
どうしてこんな古い雑誌、置いたままにしてるんですか。それも付箋つきで!
むう、と子どもみたいに唇を尖らせているのに、大人しく私の足元に座ってドライヤーで髪を乾かされているのがおかしくて、思わず声をあげて笑ってしまう。
「わ、笑わないでください!」
「あはは、ごめんごめん……実はずっと置いてあったんだけど、とうとう見つかっちゃったな」
「えっ」
さわり心地のいい髪を乾かしながら、くすくす肩を揺らして笑う。
「だって、嬉しかったもの。だからすぐに手に取れるところに置いておきたくて」
ローテーブルの上に置かれた冊子は、国内のとある出版社から出ている演劇雑誌だった。
私が所属している夢色カンパニーはキャストの編成上、女性演劇ファン向けの大手誌に載ることが多いけれど、その雑誌は読者層をもう少し広く取った、いわゆる総合マガジンになっている。
表紙を飾っているのはストレートプレイの劇を主体にしている劇団の俳優さんで、その写真を囲むようにそれぞれのコーナーのタイトルが並ぶ。
そのうちのひとつ――『ニューフェース・先取りピックアップ』の題字の下に、「樋口柚音」の名前があった。
「付箋が貼ってあるから、てっきり資料かなにかだと思ってたのに……はずかしい……」
「え?どうして?」
「ど、どうしてって」
快活な彼女には珍しくもごもごと言い淀むしぐさに、きょとんと首を傾げる。
そこで『新進気鋭の若手劇作家』として紹介されている柚音ちゃんの写真は、もう数年前のものだ。もちろんいまではそんなことはないだろうけれど、慣れない仕事に緊張しているのか、表情もほんの少しだけぎこちない。恥ずかしいのはそのせいだろうか。
「私も初めて雑誌の取材を受けたときはあんな感じだったし……むしろ、柚音ちゃんのほうがうまく記者の人とやりとりできてると思うよ」
「……そ、そうですか?」
「うん」
インタビュー風景を撮影した何枚かの写真と、見開き二ページぶんの記事。柚音ちゃんが手掛けた脚本についての裏話や、これからやってみたいこと。そんな話が続くなかに、実は私の名前が綴られている。
『――尊敬する、または影響を受けた作家さんなどはいらっしゃいますか?』
『劇作家として尊敬する先生方はたくさんいますが、真っ先に思い浮かぶのは夢色カンパニーの座付き作家である彩瀬まどかさんです』
当時デビューしていなかった柚音ちゃんが夢色カンパニーの脚本に携わった経緯は伏せられているけれど、情報を取捨選択したなかでしっかりと要旨が伝わるように受け答えがされている。柚音ちゃんが話してくれたのは私のことで、……私には、それがとても、嬉しかった。
ほかの誰でもない、『私』の背中を追いかけて、ここまで来てくれたひとがいる。そこにはカンパニーのみんなが演じてくれる舞台を袖から、客席から見つめるときとはまた違った喜びが、確かにあった。
この記事を読むたびになんだかほんの少し照れくさくて、気恥ずかしくて、――でも、それ以上の喜びが、いつも私の胸をあたたかくしてくれる。
まだ返す言葉を探していたらしい柚音ちゃんが、タオル越しにちらりと私を見上げて、ふいと視線を逸らした。
「……でも、」
「?」
「やっぱりこの記事の私、……まどかさんのこと好きすぎて、ちょっとはずかしい……」
「……!!」
です、と、最後にちいさくつぶやくように言った彼女は耳たぶどころか首筋まですっかり赤くなっている。
思わず私までつられて頬が熱い。けど、こんなに可愛くて一生懸命な脚本家の後輩と恋人を持ったのは生まれて初めてのことだから、そのくらいは許して欲しい、……気がする。
「柚音ちゃん」
「えっ、はいっ」
私はいまでも覚えている。柚音ちゃんが原田さんに連れられて、事務所へやってきた日のことを。あのときの彼女のきらきらした瞳と、声から伝わってくるひたむきな熱と貪欲さを、私は、覚えている。
そこにいたのは、脚本家を目指して歩き出したばかりの「私」だったから。
だから、覚えていた。最後の日に私たちへお辞儀をして、迷わず踵を返して去っていった彼女の背中が、眩しくて忘れられなかった。
「……ええっと、その、……ぎゅってしても、いい?」
「……そんなの、聞かないでくださいよ……」
もう。なんて、少しだけ困った声が可愛くて笑ってしまう。また少し頬を赤くした彼女に怒られてしまう前に、ありがとう、と言ってあたたかい背中をそっと抱きしめた。
***
20190302Sat.