或る朝の話 リビングから街の景観を望む硝子戸の向こうに、抜けるような青空が広がっている。雲ひとつない快晴。午前九時を半ばまで過ぎた時分、普段と比べれば幾分か遅い朝の日差しが窓際にそそぐのを、湯に濡れた髪をタオルでぬぐいながら眺めていた。
これまで通りの休日ならば気に入りのオーケストラ楽団の旋律をなめらかに流れ落としているはずのオーディオ機器は、ひっそりと口を噤んだままだ。リビングの入口を抜け、ソファを通り過ぎ、十分な広さのあるダイニングテーブルへ向かえば、その理由である男が仕事用のタブレット端末のキーボードに滑らせる手を止めて崚介を見た。
「ああ、おかえりなさい、黒木くん」
「……ああ」
「すみません、あと少しで終わるので……かまいませんか?」
トレーニングルームで休日用の調整メニューを終えた崚介が浴室へ行っているあいだに、とメールチェックを始めたところまでは知っているが、まだ画面と向かい合っているのをみるに返信待ちの案件がいくつか溜まっていたのだろう。差し向かいの椅子に腰を下ろして、小さく頷く。
「なにかあったか」
「いえ、深刻なトラブルというわけではないのですが。手短に済ませられる用件だけ、と思ってひとつ手を付けてしまったところで」
「そうか」
崚介自身密度の高いスケジュールをこなす日々を過ごしているが、主宰である男もそれと同等程度には多忙な生活を送っている。こうしてふたり揃って丸一日の休暇が取れることなどここ最近ではほぼなかったと言っていい。忙しない日々の合間を縫うようにして、夜から朝までのほんの数時間を分かち合うことを、男と崚介は繰り返してきた。
小気味よい調子で沈黙を埋めるタイプ音を聴きながら、明清色の日差しに目を細める。明るい朝日のなか自宅にいる男を見るのは、これで何度目になるだろうか。茫と記憶を手繰り、重ねた夜を数えようとして、つかみかけた糸の端をそっと手放す。画面に注がれる男の眼差しはいたく真剣だった。視線を下へ向けているために伏せ気味の睫が目元へわずかな影を落としているのが、なぜだかひどくあざやかに目に映って離れない。
静謐。男の背後に広がる空に、どこかから淡い雲が流れてきているのがかすかに見えた。
「――どうか、しましたか」
「なにがだ」
「なぜだかずっと、こちらを見ていたようなので」
そうして降り積もった静寂を、男の問いがふいに融かした。
どれほどの時間が過ぎたのか。いつの間にか気に留めることすらやめていたことに思い至って、知らず目瞬く。
「……黒木くん?」
「いや、」
問われてみれば、取り立ててなにかを思案していたわけではなかった。
ひそやかに過ぎてゆく穏やかな時間を、……朝日にこの男の髪があわく滲んで透けるのを、ただ、見ていた。
かたん。椅子を鳴らして席を立つ。座ったままの男のそばまで歩み寄って、その頬にふれた。
「……っ」
左の手のひらを輪郭へ添わせると、眼鏡越しの青がわずかに揺れる。瞳の奥でゆらりと灯ったほのかな熱を覗き込むように近付けば、自ずと額がかるくぶつかった。
「はいば」
好きだ、と、あるいはそれに類する言葉を紡ぐより、いまはただその名前を呼ぶほうが心に馴染む。自分にとってはこのなんの変哲もない穏やかなばかりの朝もまた、とうに眩しく得難いなにかであるのだと、名を呼ぶ響きにだけ込めて告げる。――たとえまだ、それがこの男に届かないとしても。
「……髪が濡れていると、体が冷えます」
ついと持ち上がった指先が、ようやく崚介の腕を掴んで握る。男のひとみの奥で灯った熱が、朝色のトパーズをじわりと焦がして夜明け前へと連れてゆくのが見えた。
「かまわない。同じことだ。……それに、冷えもしない。そうだろう」
「……、……君は……」
「なんだ」
「……いいえ」
どこかもどかしげに双眸を歪めた男が、それを誤魔化すように唇を寄せてくる。椅子の座面に片膝をつくように引き寄せられた拍子、肩に掛けたままになっていたタオルが床に落ちて足下へわだかまる。
「は、」
息継ぎの合間、素肌の背をすべる手のひらの温度を確かめながら、まだ遠い夜明けを見つめていた。
***
20190320Wed.