或る夜の話 うつくしくととのった指先が、小ぶりな鉢のそばにそっと伸ばされるのを、知らず息をひそめて見つめていた。
エビテランサ属、月世界。淡い月明かりの色の棘に覆われ、その姿に似た美しい名を与えられたそれに目をとめたことさえ、彼の選択であれば至極当然の事柄のように思えた。
拓真が育てているサボテンたちに、彼が不用意にふれようとしたことはない。ただ時折、拓真の自宅のなかで寄り添うように息づいているかれらへ目を向けて、存在を確かめるように鉢植えのそばに手を伸ばすことがあった。
「その品種が気になりますか?」
キッチンから戻りざま、彼の背へ歩み寄りながら何気ない調子を装い問いを投げる。肩越しに拓真を振り返った彼が、いらえの代わりに緩慢なまばたきを返した。
「前回ここに来たときにはなかったものだな」
「ええ。少し前に、新しく買ったんですよ。……よく覚えていましたね」
返された応えに、思わずかすかに目を丸くする。彼の観察力や記憶力の確かさについては拓真とてよく知ったところではあるが、よもやこういった場面でまで発揮されるとは思っていなかった。なにを考えているものか、そのまま口を噤んで視線を手元に戻した彼の横顔を、つられるようにして見遣る。
常に几帳面に着込んでいる夜色のジャケットを脱いだ彼は、佇まいのどこかにうすく無防備さを纏いつかせているように見えた。それはあるいは拓真の自宅に彼が身を置いているという状況から来る錯覚でしかないのかもしれなかったが、なにに対しても直線すぎるほどの眼差しを向ける彼の瞳には、いとけなさに似たなにかが月影のように映り込むことがある。ちょうど、彼がいま手を伸ばそうとした覇王樹の名に似た色の、ごく淡いひかり。
彼とかれらは少しだけ似ていると、拓真は思う。
人間には過酷ともいえる環境に適応し、慈雨すらさほど必要とせず、強くまっすぐに生きてゆく姿が当然のものだと――そう、大多数から認識されているところが。
その実、他者を寄せ付けぬためのもののような棘の下にひどく繊細な一面を確かに息づかせているところが。
彼とかれらは、ほんの少しだけ、似ている。
「……なんだ」
「いいえ、なんでも、ないのですが」
なぜだか無性に彼の温度にふれたくなって、すぐそばにあるしなやかな体を引き寄せていた。ふいの行動にも抗うことなくその身を預ける彼の無防備なしぐさと声が、五感にじかにふれる。
「灰羽」
彼がその距離のまま、顔を上げて拓真を呼んだ。低くささやくようなテノールに鼓膜を揺らされ、背すじがざわりとさざめく。
息の詰まりそうなほどうつくしい静謐が朝日に透けたリビングで、初めて彼を抱いた。彼の体を横たえたソファの軋み、耳元でひそやかに耳朶を打つ彼の声も息遣いも、薄い汗に濡れた素肌の手ざわりも、ふれた奥の熱さに感じたくるおしい情動さえ、はっきりと覚えている。忘れられるはずもない。
「君は、どうして」
なぜなにも言わず抱かれるのかと、あのとき飲み込んだ問いがほとりとこぼれて落ちた。
好きだ、と。あるいはそれに類する言葉で、彼が自身を求めてくれたなら。いつか彼を失う前に、一度でもその言葉が聞けたなら。自分はそれだけで、十分だというのに。
彼の双眸がまっすぐに拓真を捉える。あざやかすぎるほどの赤。
「お前が、そういう顔をするからだ」
「……どういう、意味ですか」
どうにか喉から押し出した応えは、自分のものではないかのように弱々しい。
本当は、彼の言葉の意味などわかっていた。そして彼もまた、拓真が彼の言葉の意味を理解していることを知っているのだろう。自ら彼というひかりに手を伸ばしておきながら、伸ばしてしまったからこそ、予防線のように呪いのように繰り返し刻み続けてきた可能性の影を貫かれて立ち竦む。
「……さあな」
焦がれる熱もくるおしさも懊悩さえも、自らの意思で掴むものだと彼が言う。立ち止まることを良しとしない声と瞳は、拓真の腕に身を預けてなお気高い。ステージライトに似た眩しさに目を細めながら、――この光を棘と呼ぶには鋭利に過ぎる、と詮無い思考を巡らせた。
***
20190322Fri.