戸棚の鍵は閉めたまま 所用で訪ねた彼の楽屋、そこで目にした信じがたい光景に、灰羽拓真は不覚にも数秒間の直立不動の姿勢に追い込まれた。
「どうした」
「……ああ、いえ、すみません、少し考え事を」
楽屋に置かれた一人掛けのソファに座ったまま、彼――黒木崚介が問うてくる。呼び声に我に返り言い訳じみた言を返しながら、「先日電話があった見積りの、内訳書が届きまして」と本来の用件である書類を彼に手渡す。彼が書類を受け取る代わりに傍らに置いた『それ』に言及すまいという自身の理性は、彼以外の目がないという状況のなかで砂糖のように容易く溶け消えた。
「黒木くん」
「なんだ」
「つかぬことを聞きますが、……それは、一体?」
受け取った書類の束に黙々と目を通していた彼の双眸がついと持ち上がって、視線が噛みあう。拓真の問いが何を示しているのかを理解したらしい彼が、不思議そうにちいさく首を傾けた。
「見ての通り、知恵の輪だが」
それがどうした、と、疑問符が続く。
どうしたもなにも。少し前までこの楽屋にそんなものは置いていなかったでしょう。もしかして私物ですか。ちなみにそれはどちらのメーカーの商品です?
拓真がどこから指摘していけばいいものかわからず思案しているうちに確認を終え、書類を返した彼が口を開く。
「先日夢色カンパニーの劇場を訪ねた際に、脚本家の彼女から待ち時間にと知恵の輪を貸し出されてな」
「……はい?」
「不要だと断ろうとしたところに、雨宮さんから知恵の輪の効用について聞かされた」
「それで、購入してみた、と」
「そうだ」
事情を聞けば聞くほど何故と問いたい部分が増える。どこで購入したものか、コレクターの端くれであることを密かに自負する拓真が知らぬ種類のそれに対する興味をどうにか――夕食を摂りながら十二分に仔細を尋ねようという決意とともに――思考回路から追い出して、拓真は唯一残った疑問を声に載せることにする。
「……彼の薦めだからですか?」
「?」
「私の家にも『それ』があるのを、君なら知っているでしょう」
拓真がこれまでに趣味として蒐集してきたそれらのほとんどは、常に然るべきスペースに収納してある。確かにわざわざそれらを彼に見せたことはないけれども、リビングなど彼の目につくところに置いてあるものもある。それでもいままで一度も興味を示すそぶりすら見せなかったというのに、自分以外の人間から薦められて購入にまで至るとは――と、何気ない調子で続けるはずの言葉がどこか子どもじみた色を帯びてしまったことに気付いて口を噤む。彼の真紅が二、三、緩慢に目瞬いて、拓真を映した。
「確かにこれを買ったのは雨宮さんの薦めがきっかけだが、それはあくまで彼の説明に納得したからであって、他意はない」
拓真の声が含んだ響きに気付いているのかいないのか。あくまで淡々と返されるそれに「まあ、そうでしょうね」などと拓真まで冷静な気分にさせられる。このあたりの情緒の機微にどうにも疎いところがあるのが、拓真からすれば彼の数少ない短所のうちのひとつと評せぬこともなかった。
「それから、これがお前の家にもあるという話だが」
「はい」
律儀な性分の彼は、拓真が向けた言葉のひとつひとつを確かに拾って応えを返す。平静を取り戻したまま、何気なく返した相槌に重ねられたそれに、拓真はいましがた掴み直したばかりの平静を再度取り落した。
「あまり、お前以外に興味を向けていなかった。今後は気をつける」
「っ、」
「……どうした?」
どちらかといえば起伏に乏しい彼の表情と声からは、まったく冗談や揶揄の気配が感じられない。――それはつまるところ、彼にとっての純然たる事実をなんのてらいもなく拓真の前へ呈したということにほかならず。
「それは、そのままでいいです」
彼と自らの趣味について深く語らう日は来ないかもしれないと詮のない思考を巡らせながら、そう返した。
***
20181008Mon.