夜がゆれている 静まり返った寝室に一歩踏み入って、そこではたと立ち止まる。普段ならば柔い薄明かりのなかでついと向けられるはずの視線が、ひそやかな静謐に代わられていることに気付いたからだった。
「……、」
点いたままの明かり、あまい曲線をえがく黒髪とピローカバーのコントラスト。伏せられた瞼と、なにより規則的な間隔でゆるやかに上下を繰り返すシーツの稜線が、この状況を物語る。
肌を重ねたあと、先に浴室から戻った彼は拓真が入浴を済ませて寝室へ戻ってくるのをいつも律儀に身を起こして待っている。気を遣わずとも先に休んでいて構わないと声を掛けるのは、「気を遣っているわけではない」という彼の端的な応えの揺るぎなさに数度のうちに諦めた。――その彼がいま、寝台に身を横たえて薄明かりのなかで静かな寝息をたてている。
初めて見る光景に拓真はしばらく思考を巡らせて、足音を立てぬよう慎重に歩を進める。床に敷いたラグマットの吸音性に感謝しながらあとほんの二歩ほどでその淵に行き着く場所で、足を止めた。
このまま自身の体重で寝台を撓ませれば、おそらく眠りに落ちたばかりの彼は目を覚ましてしまうだろう。拓真が寝室の読書灯の暖色のひかりのなかで彼の寝顔を眺めたことは、実のところいままでほとんどない。それゆえにこの状況を自ら終わらせてしまうのがどことなく惜しまれて、ベッドサイドへ置いているナイトテーブルの端にごく軽く体重を預けて浅く腰掛けた。機能性重視で選んだ頑丈な造りのそれが軋んだ悲鳴を上げないことを確かめつつ、そっと視線を傍らへすべらせる。
ドアの方向を向いたまま、横向きに体を沈めて眠る彼の横顔が、やわらかな淡いひかりのなかで無防備に滲む。白い水面に落ちる寝息は穏やかで、覚醒の気配は感じられない。
もしかすると、無理をさせてしまったろうか。一抹の不安が脳裏をよぎり――そこでようやく、これまで頭の片隅に残り続けていたささやかな疑問がするりと解け落ちる。
「……君は、」
声にもならぬ程度の加減で、そう呟かずにはいられなかった。
気を遣っているわけではない。いつかの夜、普段通りのトーンで答えた彼の声を思い出す。
この思考を辿らせないために、彼は拓真の戻りを待っていたのだろう。彼にとってそれは遠慮などといった類いの感情に起因する行動ではなく、ただ純然と『必要な』選択だった。
あまりにも彼らしい不器用で実直な親愛の情へふいに触れて、込み上げる感情に胸裡がさざめく。
黒木崚介は強い男だ。強く在ることを自己に課し、その正しさをつらぬくことのできる男だ。その程度、拓真とて十二分に知っている。こうして彼という人間の心根にふれるたび、その感覚が増すことはあれど減ることはない。それは彼のしなやかに研きあげた体にふれることを許されたからこそ殊更に鮮明な情動で、けれども、だからこそ。
寄りかかっていたナイトテーブルから立ち上がる。スリッパから足先を抜き、寝台の淵に膝から体重を掛ければスプリングがぎしりと鳴いて沈み込んだ。
案の定、ベッドの上でかすかに彼が身じろぐ。緩慢な速度で持ち上がった瞼の下から覗く双眸は、せつないほどにうつくしい朝焼けの色をしていた。
「はいば」
「……戻りました」
わずかに掠れた呼び声に短く応え、眼鏡を外してベッドサイドへと逃がす。はじめから彼の隣に空けられていたひとり分のスペースは当然のようにナイトテーブル側で、拓真を待つためのそれがひどく愛おしかった。
「痛むところはありませんか」
「……、特にない」
「本当に、ですね?」
まだシーツに潜り込むことはせず、座ったままそっと視線を合わせて掛けた問いに、静かに返されたいらえは変わらずまっすぐなものだった。確認を重ねながらもひとかけの安堵を得た胸中が少なからず表情に出ていたものか、彼の双眸がゆるく瞬いて拓真を見た。
「灰羽」
夜の潮騒に似たテノールが、静かに耳朶へふれる。寝台をちいさく軋ませて身を起こした彼の髪が、するりとこぼれてなめらかな頬の線をつたい流れるのが見えた。
「お前と繋がることは、心地好い」
呟くように紡がれた言葉の、思わぬ直截さに一瞬思考が止まる。
「行為そのもの。離れるときの名残惜しさ。お前が浴室から戻ってくるのを待つ時間。それらすべてを、俺は心地好いと感じている」
「……っ、」
「今もこれまでも、体調に問題はない。眠ってしまったことでお前を不安にさせたなら、……それはこちらの手落ちだ」
声のひとつも返せないまま、薄明かりのなかで彼の赤がゆらりと揺れる。夜更けのひかりに透けたルビーレッドが湛えたあやういまでのひたむきさに、かれに初めてふれた夜を思い出した。あの瞬間に感じた激情とよく似た、あるいはそれ以上のなにかに従って、彼の指先を攫い引き寄せる。
彼に手落ちなど、あろうはずもないというのに。選ぶ言葉のその生真面目ささえもが、ひどく彼らしく胸を灼く。
応えの代わりにしなやかな体を掻き抱き、首筋へ頬を寄せる。ふれた首筋は熱かった。
「黒木くん」
「なんだ」
「……名残惜しいと、思ってくれているんですか」
熱い体を抱き竦めたまま、喉をふるわせて問うた。やわらかな寝間着越しに重なった拍動が、かすかに強まったように感じたのは気のせいだろうか。そっと背に回された腕と彼の声が、ささやくように応える。
「もう一度、と、時折考える程度にはな」
それがお前にとって負担にならなければの話だが。
そう続いた彼の言葉は、噛みつくように口付けて塞いでしまった。
――眩暈がする。
***
20190607Fri.