こたえあわせは一輪の「お前、平気なのかよ」
並んで腰掛けたソファ、隣からふいに投げられた問いに、城ヶ崎昴は台本の文字を追う目を止めてついと顔を上げた。そのまま視界を横に滑らせれば、彼のうすむらさきと視線がぶつかる。ぱちり。
「?なにがですか?」
いましがた寄越された言葉の真意が掴めず首を傾げると、彼にしては珍しくこちらの様子を探るような沈黙が返される。どうしたのだろう。昴もつられるように口を噤んで、彼の声を待つ。このごろの気に入りだというホットワインを、グラスの半分ほどまで減らしてから、彼はようやくもう一度口を開いた。
「だから、……今回の役」
「今回のって、」
数日前、次回公演『見えざる手-THE HOSPITAL-』のキャスティングが発表された。
昴が演じるのは、先輩ドクターのひとりである淵野辺正之。熱血漢のリハビリテーション医の役で、キャスト自身とのギャップが大きい配役が多い今演目のなかでは、比較的ギャップの少ない(と周囲の面々からも言われた)役どころだ。コミカルな表現の幅をどう持たせるかなど、芝居のうえで考えることはもちろんあるが、台本を読む限り昴としては感情移入のしやすいタイプのキャラクターだった。
「大丈夫ですよ。むしろオレ、こういう役のほうがやりやすいし……あ、でも難しい用語とか覚えるのはちょっと大変かも」
「…………」
問いの意図を掴みきれないまま普段通りの調子で返した答えは、彼が求めていたものではなかったらしい。あからさまに顔を顰めた彼が、ぼそりと「そういうことじゃねえよ」と呟く。
先ほど飲んだばかりのホットワインに、間をとる代わりに無意識でもう一度口をつけようとしたことに気付いたのか、彼はどこか決まり悪げに溜息を吐いてグラスから手を離した。ホットワインの水面が、リビングの明かりを跳ね返しながらゆらりと揺れる。
「ホン読みながら昔のこと思い出して、ひとりで勝手にしんどくなったりしてねえだろうなって聞いてんだ」
「へ、」
彼のひどく真剣なまなざしと言葉の意味を理解するために、二、三、目瞬きを繰り返す。噛み合ったままの視線を逃がすまいとでもするように、大きな手のひらが昴の五指を掴んだ。あたたかい。じわり、と心の奥がゆるくほどける感覚に目を細めて、ちいさくこくりと頷いた。
「大丈夫です」
「……嘘じゃねえな?」
「オレの嘘が下手だって、カイトさんいっつも言ってるじゃないすか」
そう言って笑うと、彼が拗ねたように唇を結ぶ。彼の不器用な優しさが、昴は好きだ。
膝の上に載せた、まだ真新しい台本を、彼に掴まれていないほうの手でそっと撫でる。これから何度も繰り返し読み込んで落とし込み、大切な仲間と作り上げていく世界がそこにあった。
「ホン読んでて全然思い出さないって言ったら、それは、嘘になっちゃうんですけど」
「…………」
「でも、あのときお世話になったリハビリの先生がオレを励ましてくれたこととか、そのときにもらった気持ちとか……そういうの、芝居に活かせたらいいなって」
相槌の代わりに、手を握る指先が強くなる。その手を同じだけの力で握り返して、大丈夫だ、と応える。
「それに、彼女のホンには、怪我でなにかを諦める役はいないから。……だから、大丈夫です」
脚本家の彼女が紡いだ物語の一員として、はじめて臨んだ大舞台。昴が演じることになったのは、怪我を乗り越え仲間とともにステージに立つ男だった。
「諦めなければ夢は叶う、諦めなくていいんだって。夢色カンパニーのみんなに教えてもらったんです、オレ」
今回昴が演じることになった淵野辺は、怪我や病気と戦う患者を全力で励まし諦めることなく支える役だ。そして淵野辺自身も、理不尽な環境を変えようと勉強に励んでいる。人間としても役者としても、彼に負けてはいられないと、――そう思う。
「……ったく、相変わらず暑っ苦しいやつだな」
「へへ、すみません」
いまこの胸のうちにある熱は、心臓の高鳴りは、どこまで彼に伝わっているだろうか。握り返した手を引き寄せて、彼の体をぎゅうと抱き締める。おい、とちいさな抗議の声が上がったけれども、それがかたちばかりのものだと響きから知っていた。
「けど、……まあ、それでいーんだよ。お前は」
「はい、」
「おし」
軽く背中を叩いて持ち上げられた彼の手が、わしわしと昴の髪をかき混ぜる。くすぐったさに思わず肩を揺らして笑って、そういえば、と言葉を続ける。
「『The AUDITION』の初演のときも、そーやって言ってくれましたよね」
「あ?」
「お前はそれでいい、いつもみたいに前だけ見てろって」
「あー……言ったか、そんなことも」
「オレ、あのときカイトさんにそうやって言ってもらって、すげー嬉しかったんです。ホッとしたっていうか、えっと――そう、足が軽くなったっていうか」
開演直前の楽屋。ざわめきと緊張感のなか、台詞が喉に貼り付いて、ひとつも出てこなくなった。
いまならわかる。きっとあのときの自分は、カンパニーの命運をかけた大舞台を前にして無意識に立ち竦みかけていた。フィールドで足を動かせなくなった、あの日のように。
「カイトさんは気付いてなかったかもしれないですけど、オレ、あのとき本当に助けてもらったんです。いろんな意味で」
「………………っ、」
「? カイトさん?」
「っ、べつに、なんでもねえ!」
ちいさく息を呑む音が聞こえたような気がして、首を傾げながら彼を呼ぶ。「いーからもーちょっと大人しくしてろ!」と早口に言う彼がなにやら誤魔化そうとしているのは昴にもなんとなくわかったけれども、加減知らずに抱き竦めてくる腕のくすぐったさには抗えなかった。
「あとで教えてくださいね」
「なにをだよ」
「べつに、なんでもないです、」
子どものようにぎゅうと添わせた胸越しに、ふたりぶんの心音が重なって心地好い。それだけ返して頬を寄せた首筋は、いつもよりあたたかだった。
***
20181123Fri.//HappyBirthday dear Subaru!