青天をつかむ 隣に腰掛け直した拍子に、軽く腕がふれる。そのままなにくれとなく男の横顔を見上げると、同じようにゆるりとカクテルグラスを傾けていた男が視線に気付いてか崚介を見た。
「なにか?」
「……いや、」
そう問いながら、男の意識が崚介の持つワイングラスと、テーブルの上にあるボトルの残量にまで即座に向けられるのがわかる。もはや無意識的な行動なのかもしれないが、この男のこういった気質が、彼を集団の長たらしめている理由のひとつなのだろうと崚介は思う。
とはいえいま共有しているのは互いに最も私的な時間であり、そもそもが男の問いへの応えの半ばだ。巡らせかけた思考を引き戻し、男の横顔を見留めるに至った起点の事柄を口にする。
「少し、意外に感じたのを思い出していた」
「?」
「お前が、俺になりたいと言ったことが」
「…………、そのことですか」
崚介の言葉に、眼鏡越しの瞳が若干決まり悪げに逸れていく。
『一日だけ他のキャストと入れ替われるとしたら、誰と入れ替わりたいか』。
それは、夢色カンパニーの広報部との合同企画でファンからジェネシス宛てに寄せられた質問のうちのひとつだった。
普段のジェネシスの広報活動ではそういったスタンスの企画はほぼ行なっていないため、ある意味では新鮮と言えなくもなかったが――ミーティングの合間に揃ってインタビューを受けたメンバーが思い思いの答えを探すなか、最初に口火を切ったのが意外にもこの男だった。
『黒木くんですね』
特に理由も述べずただあっさりとそう返して、あとに続いた他の面々の答えに耳を傾けていた男に再度水を向ける機を逸していたのを、男の横顔を見てふいに思い出したのだ。
男の答えを待って視線を向けると、いくらかの躊躇を含んで泳いでいたトパーズがなにかを諦めたように帰還する。
「私としては、特に可笑しなことを言ったつもりはなかったんですが」
「……そうか?」
「ええ。ミュージカル俳優として、君の視点で舞台に立ってみたい。……君が藍沢くんと入れ替わりたい、と答えた理由とさほど変わりませんよ」
そうして返された答えにまばたきをひとつ。本心を建前の下にしまい込みがちな男にしては珍しく、素直な響きの言葉が続いていく。
「……ただ、普段より考えなしに答えてしまったことは認めますが。理由を答えなかったのは、あまりに安直で分相応でないと思ったからです」
――なるほど、そこに着地するのか。
相槌の代わりに口をつけかけたグラスの淵で、吐息が一瞬ひそかに鈍る。
「逆に、なぜ私の答えを意外だと?」
いましがた自らが口にした言葉の意味を、男は特に深くは捉えていないらしい。ローテーブルへグラスを置いて、男がゆるりとこちらへ半身ほど向き直る。随分とリラックスした様子のしぐさは、酒精からのものだろうか。日ごろ気を張ることの多い男には確かにいい傾向だが、と回路の片隅で考えながら、葡萄酒をひとくち傾け直して答えを紡ぐ。
「お前は、いまでも時折俺に触れるのを躊躇うだろう」
「……っ」
ことん。わずかに中身を残したグラスを手放して、隣りあったソファの上で男へ向き直る。瞳に薄い動揺を浮かべて身じろぎかけた男の指先を掴んで、視線を引き戻す。
「認めろ、灰羽」
「……なにを、」
「お前が、凡庸でないことをだ」
手を掴んだままそう告げれば、男の纏う空気がわずかに揺れる。
「役者としても、一個人としても、――俺にとっても。お前が特別な存在であることを、受け入れろ」
それはあの会見の日、この男の腕を受け入れたときから、崚介がずっと探していた答えでもあった。自らがこの男へ抱く感情を表すための、より適切な言葉。
「特別になることを、恐れるな」
「…………、」
「お前には、俺が、……俺たちが、いるだろう」
柄にもない言葉だと、わかっている。こんなふうに言葉を探しながら誰かになにかを伝えようとすることはこれまでの人生のなかで初めてで、けれどもだからこそ、妥協するわけにはいかなかった。
眼鏡の奥で、未明の青が一度、目瞬く。
「黒木くん」
「なんだ」
「……おれ、は」
「ああ」
「……あなたたちを、……君を、好きでいて、良いんですか」
ほとりと落ちた答えが、たとえどれほど幼くわかりきったものだったとしても。それをこの男が自らの言葉で問うことに、なににも替えがたい意味と価値がある。
「灰羽」
「……はい」
「対決公演を終えて、お前の最初の目的の真相が知れたとき。……誰かひとりでも、お前のそばを離れたか?」
「……いいえ」
「お前が選んだメンバーは、自分の居場所を自分の意思で選べない人間か?」
「……いいえ、」
耳朶を打つ声の、熱い震えが愛おしい。
片手は握り続けたまま、もう片方の手で男の頬を包む。「それから」
「――お前の選んだパートナーは、自分のパートナーを自分の意思で選べない人間か?」
いま、自分はうまく笑えているだろうか。この男の心に幾重にも重なって掛かっていた雨雲を押し退けるための最後のひとかけらを、この男へ伝えられているだろうか。舞台の上で演じる「誰か」ならば最適解を導く自負があったけれども、ここにいるのはただの黒木崚介と、灰羽拓真という男だった。
くしゃりと、男の――拓真の湛えた青がゆがむ。掴んだままの手のひらを掴み返されて、ぐいと腰を引き寄せられる。崚介の背を掻き抱く腕は熱かった。
「黒木くん」
「ああ」
「……好きです」
「……ああ」
「好き、……好きだ」
ああ。聞こえた声に、心がふるえるのがわかる。
この言葉を、きっと自分はずっと、待っていた。そしてその応えがこの男の心へ届く日も。夜を重ねて、ずっと、待っていた。自分よりも半まわりほど広く、そして見た目よりも細い背に、同じだけの強さで腕を回す。あたたかな首筋に頬を寄せて、応えを継いだ。
「俺もだ、灰羽」
***
20190414Sun.