春、沁みる 三月某日、二十一時五十分。来日公演期間中の宿舎としてワンフロアを借り上げているホテルの一室で、ルームウェアに着替えた拓真はゆるい息をひとつ吐く。
コンディション調整が最優先となるキャスト陣には個室が宛てがわれており、拓真もまた例外ではない。暮らし慣れた自宅とも、何度も寝泊まりを重ねている崚介の自宅とも異なる客室の沈黙はやはりまだどこか身に馴染まず、部屋に備え付けの液晶テレビのリモコンへと何気なく手を伸ばした。
電源を入れた画面が、民間放送局のニュース番組を映し出す。思考を遮らない程度の音量でニュースを流し聞きながら、仕事用のタブレット端末を手に取り椅子に腰を下ろす。明日のインタビュー対応のための資料でもさらい直そうかとディスプレイに指先を滑らせかけて、ふと耳朶を掠めたキャスターの声におもてを上げた。
「――それでは最後に、あすの天気です。あすは太平洋側を中心に全国的に穏やかな春の陽気が――……」
流れ始めたのは番組の終盤にある天気予報だった。三寒四温とはよく言ったもので、帰国してからも寒暖差を感じる日が続いていたけれども、幸い明日は春の陽気に恵まれるらしい。手を止めて画面を眺めているうちに全国各地の気候を示すマークが並んだ映像が切り替わり、青空を背に春風に揺れる小さな薄桃色の花弁が画面いっぱいに映し出された。
「さて本日、東京都では気象庁から桜の開花宣言が発表されました。昨年より一日、例年よりも約三日早い開花となります」
「……、」
今後一週間から二週間ほどかけて各地で見頃を迎えていく予想です。夜には冷え込む日もありますので、夜桜を楽しまれる際には薄手の上着を持ってお出掛けください。
にこやかにそう述べたキャスターの姿を最後に、映像がスタジオからフェードアウトする。クレジットから次の放送枠までの繋ぎのコマーシャルに切り替わった画面をしばらく見つめ、……そっと電源を消した。
資料のデータを開きかけていたタブレットのディスプレイライトを一旦落とす。いま自身の胸裡をかすかに揺らしたなにかを宥めるために、椅子から立ち上がって電気ケトルのスイッチを入れた。低く震えた唸り声とともに沸騰した湯を、客室に備え置きの紅茶のティーバッグを入れたマグカップにそそげば、ふわりと立ち上った茶葉の香りが鼻先を掠める。紅茶が飲みごろの濃さになるまでのわずかな時間を、そのままの場所で待つ。茫と巡らせた思考は、自然と先ほど目にした桜の映像をもう一度なぞっていた。
――彼と見る桜が好きだ。特に、やわらかな深い春の夜にま白く照らし出された桜の木が。
春の宵と光のなかで堂々と咲き誇る花弁のさまは彼の夜色の髪となめらかな膚の白さに似て、そしてなにより、それをまっすぐに見上げる彼のひとみがただ、うつくしかった。
芽吹きの季節を謳う桜の白いひかりを映した彼の赤のうつくしさを形容するための言葉を、拓真は知らない。あるいはそれは、一瞬のあざやかさをひたむきに見つめる双眸が、花影の向こうにともに立つステージを見ているのだと知っているからだろうか。夜風に揺れる梢のさざめきは、開演前の舞台袖にある言葉にしがたい高揚に似ていた。
ティーバッグを引き上げ、カップと道すがらの卓上に置いたままだった私用の携帯端末を手に窓際の椅子へ戻る。
二十二時を告げようとしている携帯端末のディスプレイについと指先を滑らせて着信履歴を呼び出せば、探していた名前にはすぐに行き当たった。 仕事用の端末ではなく、私用のそれにその名前が残っていることが、少しだけ面映ゆい。
彼は拓真の向かいの部屋に泊まっている。そろそろ、就寝の支度にもひと段落ついた時分のはずではあるが。彼の生活リズムを考えながら、発信のアイコンにふれた。
発信音のあと、呼出音が鼓膜を震わせる。三コール目で途切れたそれの向こうから、潮騒に似たテノールが響く。
「――灰羽?」
「遅くにすみません。……いま、時間はありますか」
「ああ」
どうした、と聞き慣れた調子で返る応えが心地好い。
ここが宿舎である以上、たとえ休息時間であっても恋人としての会話を互いに許しあえるのはそれぞれの部屋でひとり過ごしているときだけだ。宿舎に滞在しているあいだは同僚の立場以外で相手の部屋に立ち入ることはしないと、どちらからともなく決めていた。
「すこし、声が聞きたくなって」
「……そうか」
普段と異なる距離感に、それでも不思議ともどかしさを覚えないのは、日ごと近づく幕開けの高揚が自身と同じように心地好く彼の感情を揺らしているのを確かに感じているからだ。
「明日は、暖かくなるそうですよ」
「そうか」
他愛のない言葉に、彼らしい簡潔な応えが返る。数瞬の間を置いてから、はいば、と、静かな彼の声が拓真を呼んだ。
「じき、桜が咲くな」
「……ええ」
彼のやわらかな低音が耳朶から静かに沁み込んでとける。脳裏にえがいている桜は同じ枝に綻んでいるだろうか。ひそやかな春の潮騒に、そっと目を細めながら耳を傾ける。
久方ぶりの日本公演の開幕を、数日後に控えた夜のことだった。
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2020321Sat.//20200606Sat.