よるに琥珀をひとかけら 休日前のささやかな晩酌の支度を始めるキッチンで、隣に彼の姿があるというのはひどく幸せなものだと灰羽拓真は考える。――アルコールによく似た、けれどもそれよりやわらかなふわりとした酩酊感が、すでに心地好く胸裡を揺らしていた。
手元に並べたグラスは二人分。冷凍庫から取り出してきた袋入りのロックアイスをトングで挟み、厚めのガラス製の酒杯と、愛用しているアイスペールにも幾つか放り込む。
カクテル、ワイン、或いはそれ以外。酒の種類によって多少異なる手順を踏む場合もあるが、さして面白くもないはずの一連の作業を、それでも彼はかならず拓真の隣に立って、時折ちいさな問いを挟みながら律儀にじっと眺めている。その無防備な横顔に目を向けるほんのわずかな時間が、自身にとって何にも代えがたいものだと知ってから、気付けば随分と経っていた。
「今夜はウイスキーか」
「ええ」
アイスペールの傍らに置いたボトルを見遣り、彼が言う。
言葉通り、洗練された小ぶりのデザインのボトルを満たしている濃密な琥珀色は蒸留酒のものだ。つい先日購入したばかりのそれを、拓真が早々に選んだ理由はボトルの隣に置かれている。
「なんでも、新作のフレンチウイスキーだそうで。随分可愛らしいおまけもいただいたんですよ」
「?」
「君も見ればわかります。……ボトルの横にある箱を、開けてもらってもいいですか?」
ちいさく首を傾げてみせる彼に笑みをこぼしつつ、ウイスキーボトルのそばに置いてあった小さな紙箱を示す。
白の小箱に、彼の瞳とよく似たあざやかな赤いリボンが印刷されている。蓋を開けると、箱の内側がキッチンの明かりにさらされた。中身を見留めたルビーレッドが、まばたきをひとつ。ぱちり。
小箱のなかは、長方形の中央に間仕切りを立てることで小さな正方形をふたつ並べた形になっていた。それぞれの小部屋を彩っているのは、ウイスキー・ア・ラ・リキュール――所謂ウイスキーボンボンである。
売り主曰く女性もターゲットにしたウイスキーで、初回出荷分にだけノベルティとしてハート型を模したボンボン菓子が付属しているらしい。ショップバッグにさらりと放り込まれたそれをわざわざ取り出して突き返すのも気が引けて、……そうして今に至る。
「『Platine Coeur』、プラチナハート、か。……確かに随分と可愛らしいものを寄越されたな」
「……不可抗力、というやつです」
「そうか」
蓋の裏側に印刷されたフランス語を読み替えて、彼が声音だけであわく笑む。パールのような不思議な色合いを帯びた小粒の飴が、小箱のなかでことりと揺れた。
「せっかくですから、君もひと粒どうぞ」
「うん?」
「だから今夜開けることにしたんです」
手元にそそがれていた彼の視線が、ついと持ち上がって拓真を見た。自分ひとりで食するにはあまりにも、と言外に含ませたニュアンスを汲んだらしい双眸が思案するように目瞬きを数度繰り返し、それからもとの向きに戻る。間。彼の感想を待とうと、拓真は瓶の蓋を開けてグラスに注ぎ口を傾けた。
「はいば」
「?」
数秒のインターバルのあと、ふいに投げられた耳慣れた呼び声に顔を上げる。どうでしたか、と尋ねようとした唇に、ちいさなまるい感触がふれた。
「――、」
「……ああ。美味いな」
ぱき、と、彼の言葉のなかに繊細な飴細工がくだけて溶ける音がする。彼のうつくしい指先によって自身の口に押し込まれたひとかけらぶんの琥珀の味は、残念ながら拓真にはわかりそうになかった。
***
20190601Sat.