そして赤にとける◆
随分と昔の話だ。
ふいに落ちた沈黙のあと、彼はぽつりとそう言った。
「お前は正しすぎる、と、言われたことがある」
繊細な輪郭のグラスを満たす葡萄酒の上品な赤と夜の空気が、過去を辿るようにゆらりと揺れる。
灰羽。静かな低い声。ルームライトの明かりを透かす、彼の掌中の赤に似たあざやかなルビーレッドが拓真を映す。
「正しいことは、間違いなのか?」
首筋がじわりと灼けつくような、それでいてひやりとしたなにかが背すじを滑り落ちていくような感覚は、拓真が手にしているカクテルの酒精のものではなかった。
拓真が彼と私的な時間を共有する間柄になってしばらくが経ったが、こうしてふたりで肩を並べているといまでもときおりそんな感覚に見舞われることがある――むしろ、いまだからこそ尚更にと言うべきか。美しい刃物のさきで臓腑をつたいなぞられているような、それは戦慄のかたちと酷似していた。
「どうしていまそれを?」
ソファの反対側の端に腰掛けている彼が、質問に質問で返すことを良しとしないたちであることは拓真も十二分に知っている。案の定その端正な眉が若干不満げに顰められたものの、話の腰を折ってまで咎めるものでもないと判断したのかじきに戻された。
「わからない」
「……というと」
「そのままの意味だ。偶然、思い出したから話した。それだけだ」
そうして彼の口から返された言葉は、拓真の想定の外にあるものだった。
珍しく彼自身も思考をまとめきれていないようで、間を置くようにワインをひと口呷ってから、小さく首を横に振る。「いや、……違うな」
「お前なら、答えられると思ったのかもしれない」
「それは、随分と買っていただいているようで」
「……灰羽」
彼が先ほどワインに口をつけたのとさほど変わらない意味しか持たないいらえが、はぐらかそうとしているように聞こえたらしい。批難の色を含んで拓真を呼ぶ声に、肩を竦めて他意はないと示しておく。
「……間違いではないでしょう。誰が言ったかは知りませんが、言われたとおり、君は正しいんですから」
「…………」
「そして、それを君自身もわかっている」
彼が選ぶ道は、彼にとって常に正しい。妥協せず問題と向かい合い、必要な取捨選択を行なって、それがいかに厳しい道であろうとも先へ進むことを選ぶ。自身が誤りだと感じる道を選ぶことができるほど黒木崚介は器用な人間ではないと、拓真もまた知っている。
「正しいことは間違いなのか、というのは、そういう意味でしょう?」
結局のところ正誤の概念などひどく脆くあやういもので、だとすればそれを決めるのは当人のほかにない。自身の選択が正しいことを知っていて、それが間違いなのかと問えるのは、彼が「そういう存在」であるからだ。
不条理と対峙してなお、自分自身に対して正しくあることができる人間。世の中には確かにそういった類いの人間が存在していて、けれどもそれと同じに、そうではない人間も確実に存在している。
彼が拓真へ向けた問いは、正しくあれる人間の傲慢だ。
彼がいつかに向けられた言葉は、そうでない誰かの傲慢だ。
「少し意外でした」
「なにがだ」
「君は、そんな言葉は歯牙にもかけないとばかり」
言いながら、手に持っていた酒杯をテーブルへ逃がす。ごとりと、鈍い音がした。
正しくあれる人間が、そうでない人間の弱さを長らく記憶の片隅へとどめ続けていたことが拓真には少々意外だった。拓真の声に、彼の双眸が思案を巡らせるように緩慢にまばたく。
「理解できなかったからだろうな。だから、覚えていた」
先ほども感じた戦慄に似た高揚が、拓真の背すじを震わせる。
うつくしく研ぎ上げられた黒曜石は、相容れない存在から与えられた瑕疵のひとつさえも忘れ去らずに、みがかれるのを待っていた。
「…………本当に、君という人は」
「なんだ」
「いいえ、」
馬鹿な人ですね、と続く言葉は、しなやかな腕を引いて葡萄酒の味のする口唇に噛みつくことで飲み下す。この美しい獣の牙にちいさな疵を残し続けた名も知らぬ誰かの弱さが、少しだけ羨ましかった。
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20180224Sat.