拓崚小ネタログ3■春の夜の海
キッチンで隣に並び立った拍子、夜色の髪から覗く輪郭が普段よりわずかにあざやかなことに気が付いて目をとめる。
「黒木くん」
「なんだ」
そばに並んだ近さのまま小さく呼び声を投げると、揃って空にした酒杯をシンクへ置いたばかりの彼の瞳がついと持ち上がって問うてくる。
ひたりと重なる視線。彼のうつくしく整ったかたちの目元が、平生よりもかすかにあわく色づいていた。酒精に滲んだ眦をそっと指の背でなぞれば、無防備なルビーレッドが相槌の代わりにゆるくまばたく。
「今日の銘柄は、あまり君の体に合わなかったのかもしれませんね」
「……そうかもしれないな」
「覚えておきます」
所蔵品を少しずつ崩しながら適度に交わす彼との晩酌は自身にとって休日前のひそかな楽しみではあるが、万一にでも彼に悪酔いをさせるわけにはいかない。さきほど開けたボトルのラベルを脳裏に思い返しつつ、眦と同じ色の差した耳朶へ唇を寄せる。口唇の薄い皮膚で感じる確かな熱と、鼻先をくすぐるやわらかな宵の感触が心地好かった。灰羽。潮騒に似た、おだやかな低音が自身を呼ぶ。
「……酔っているのか」
「いえ、……それほどは」
わずかに身じろぐ程度で耳朶へのくちづけを受け入れた彼の温度が、その距離から離れていく気配はない。酔いを理由にしなかったのは、そう尋ねる彼の声があまりにひそやかで暖かかったからだ。
「なら、いい」
ちいさく呟いた唇がうすく弧をえがいたように見えたのは、気のせいだったろうか。そのまま腕を引かれて、耳朶へ重ねられた熱にくらりとした。
***
20190511Sat.
■ふわっとしたよるの話(拓真とりょうすけ)
ことん、と、小さな物音が聞こえたように思えたものだから、気なしに視線を遣っただけのはずだった。
静まり返った夜更けのキッチン、聞こえた響きは耳慣れたカクテルグラスのものよりもわずかに軽く――それはちょうど、彼の愛用品であるティーカップの陶器が奏でる繊細な音色と酷似していた。未だ洗いカゴのなかで立てかけられているはずのそれが、なにかの拍子に傾ぎでもしたのだろうか。なめらかな陶器の淵に傷でもついてはいけないと、冷蔵庫の戸を閉めてそちらへ歩み寄る。
ことり。また、小さな音がした。
カップの陰から、なにか小さなものが覗いている。
間。
「……夢ですね、これは」
真っ先に口から出たのはその言葉だった。
なぜなら、――なぜならば。
「そういうことにしておいてもらってもかまわない」
よく知った声が、なにやら意味深な、然しどこか舌足らずな響きの言葉を紡ぐ。ふんわりとやわらかな、あどけない子どもに近い輪郭と姿であることを除けば『彼』にひどくよく似たものを持った『ちいさなもの』がそこにいた。
「やはり、そちらのはいばはずいぶんとおおきいな」
まっすぐなひとみがじっとこちらを見つめ、真剣な表情で呟く。ちいさな体で精一杯に見上げてくる『かれ』は思案を巡らせるときのしぐさまで彼と瓜二つで、奇妙な感心すら覚えてしまう。
「はいば?」
「ああ、いえ、なんでもないです」
否、『彼』とよく似た存在である時点で、すでに少なからずの関心はあるのだが。奇妙な夢だと割り切ってしまえば、目の前の『かれ』に言葉を投げるための理性のハードルも多少は下がる。そう、これは、夢なのだ。
「君は、黒木くん……ですか?」
「おれのなまえはくろきりょうすけだ。やくしゃをしている。ただし、そちらの『くろきりょうすけ』ではない」
「……まあ、そうでしょうね」
「それをききたかったのではないのか?」
思わず口から零れたそれを拾った両目と声が、わずかな戸惑いを含んで曇る。幼い見目のとおり、かれは自身の知る『彼』よりも幾らか表情の起伏に富んでいるようだった。
「確かにそれも気にはなりますが。……まずはなにより、君と話をするためには君の名前が必要だと思いまして」
「それは、そうだな」
舌足らずではあるが、ふむ、と納得した様子でかれが頷く。次の問いを待つ澄んだ赤のいとけなさに促され、再度口を開いた。
「君はここでなにを?」
「てぃーかっぷをさがしていた」
返された答えに目瞬きをひとつ。かれがここにいた目的は理解できたが、かれの体にはこのカップは大きすぎるのではないだろうか。かれもこちらの表情からそれを察したらしく、言葉が続く。
「これをもっていくわけではない。さんこうにするためだ」
「……参考?」
「かたちや、てざわりをしらべにきた」
「なるほど……?」
分かるような、分からないような。兎角かれはかれなりの理由でここに来ることにしたらしいとだけ結論づけて、ちいさなてのひらと指先で陶器にふれているかれの挙動を目で追う。ふっくらとした横顔。眼差しはいたく真剣で、少しばかり離れた寝室で眠っているはずの『彼』を思い起こさせた。
「……あんしんしろ。しらべごとがすんだら、すぐにもどる。おまえも、はやくねむりにいくといい」
視線に気付いてか、ふいにかれが顔を上げて言う。やわらかい夜の声が、夜更けのキッチンにひそやかに落ちる。知らず、問いがぽつりと漏れていた。
「君の、」
「?」
「……君の帰るところには、俺がいるんですか」
ぱちり。今度はかれのひとみがゆるくまばたく。それからひとつ首肯を返してみせ(「『こちらの』はいば、だが」と律儀に言い置くことは忘れずに、)こともなげに答えをつむぐ。
「ぱーとなーだからな」
自身の深層意識のどの部分がこの夢を見せているのかは相変わらずわからないままだったが――それでも、そのひとことにはほかには代えがたい意味を感じずにはいられなかった。
「君も、なるべく早く帰ってあげてください」
待っていると思います。続けた言葉に、かれはやはり『彼』とよく似たしぐさでこくりと頷いた。
***
20190529Wed.
■once,once,once.
耳朶にふれていたふたりぶんの浅い息が、夜の寝室のなかでひそやかに落ち着きを取り戻していく。繋がっていた下肢と、重ねた肌がわずかにそっと離れただけだというのに途端に汗が冷えていくように感じて、知らず手を伸ばしていた。
「……、黒木くん?」
汗ばんだ首筋を引き寄せて抱き込むと、どうかしましたか、と薄い戸惑いを含んだ男の声が至近距離で鼓膜をふるわせる。
素肌でふれた首筋と胸板越しに伝わる心拍の速度と強さは、まだかすかに行為の余韻を残していた。互いの輪郭のかたちにじわりと滲む温度が心地好い。
身の丈はこの男より下回るといえ、骨格や筋肉量を考慮すれば決して華奢とは評せぬ体を割り開いて繋がることは男にとっても多少なりとの負担になっているだろう。その程度は、十二分に理解している。だから、――ただ。
「もう少し、このままでもかまわないか」
ただ、今夜はまだこのまま、五感で全身で男の体温を感じていたかった。胸裡を揺らした感情のままを伝えて問えば、はくりと息を呑んだ気配がする。どうかしたか、と先ほどの男と同じ言葉を返しきる前に、男の唇が呼吸をさらっていった。
「――、」
拒むことなくうすく開けた隙間から舌先が入り込み、深い角度で吐息が溶け合う。長い口付けのさなか、わずかな息継ぎの合間にどちらのものともつかない唾液が自身の口の端から零れて顎を伝うのを、どこか他人事のように膚で感じた。
息継ぎに離れた拍子に男もそれに気付いたらしく、長く節ばった指の背が口元へふれる。
零れた銀糸を伝いあげて拭う所作のひとつさえもが心地好く、その指先をくちびるでやわく食んで引き寄せた。
「……っ、」
ひくり、と男の指先から動揺が伝わったのは一瞬。青の奥に揺れる熱を確かめながら、先ほどまでの口付けと同じように開けた隙間から口腔へと迎え入れる。
人差し指と爪のかたちを舌でなぞり、濡れた音とともに熱をふくませる。指のさきから付け根までをひとしきり辿り終えたところで唇を離して、男の名の響きに喉をふるわせた。はいば。
「あつい」
***
20190522Wed.