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    財ユウ 「ピリオドは打たないで」

     都合よく一つだけ空いていたロッカーにスーツケースを押し込むと、先輩は「身軽になった」と両手をひらひらとさせて言った。
     出発の日。午後六時に梅田で待ち合わせをした。日付が変わる前に出発するバスで、先輩は東京に行く。
    「サマソニの時、コインロッカーぜんっぜんなくて大変やったよな」
     去年、じゃない。もう、一昨年の話だ。俺が高校に入った年、二人で夏の音楽フェスに遊びに行って、ロッカーを探して右往左往したことを思い出す。
    「財前が余計なもん持ってくからやで、着替えとかいらなかったやろ」
     初めての野外フェスにはしゃぐ気持ちの一方、必要以上に身構えた結果、大荷物を背負っての参加となり、ロッカー探しで体力を大分消費してしまった。おかげで、その日のヘッドライナーでもあり、俺たちが一番のお目当てとしていたイギリスのバンドがパフォーマンスをする頃には二人とも力尽きていて、スタジアムの最後列で夜風に当たりながら何とかメロディを聞いているような有様だった。
    「……それについては、まあ、反省してますけど」
     夜の風と一緒に流れてきたメロディを思い出す。甘くて苦いような旋律を鳴らすギターと、心臓の鼓動と共鳴していたドラムの音、腹に響くベースの音。昼の暑さが籠る肌を撫でるよう、何度も何度も二人で聞いた旋律と、夏の夜の風が通り過ぎていく。
    「あん時、喧嘩する元気ももう残ってなかったな。二人して死にそうになってたけど……」
     めっちゃええ曲やったなあ。
     それを思い出すよう、目を閉じて先輩が言うのに、「せやな」と返す。
     本当に、素晴らしい演奏だった。
    「あれは一生忘れられへんなあ。これからもずっと、あの時聞いたあれが一番やったなあって思うんや」
     でも、これから先、あれ以上のものに出会えないような、そういう未来がないような先輩の口ぶりはいかがなものかと思う。
    「あ、でも、一番初めて財前とライブ行った時に聞いたあれもよかったよな」
     まだ中学生やったな、あの頃。
     笑顔で、楽しそうに、思い出を語り続ける先輩に、ただ相槌を打つ。言うべきこととか、言った方がいいことは沢山あるはずなのに、それを表現する言葉が見つからない。
     それで、数日前から俺たちはこんなことばかり繰り返している。
     二人で過ごした日々を語り、記憶の食い違いを正すよう喧嘩して、何か一つの物語を作るように思い出ばかりを口にする。一か月先とか、一年先のことがまるで出てこない会話を不自然に思いながらも、未来へと勝手に流れていく時間へのせめてもの抵抗とばかり過去を懐かしむ。
     お笑いが好きで、モノマネが得意で、大阪の街も空気も愛してやまないはずの先輩が東京に行くことを決めた時、当たり前のように二人で過ごした日々が当たり前ではなくなる未来を、俺たちは実感してしまった。
     大阪と東京。
     大した距離じゃないという人間もいるが、高校生の俺と、大学生にこれからなる先輩にしてみれば、それは大層な距離だ。地球と月よりは近いけれども、俺の高校と先輩が通っていた高校よりかは大分遠い。未体験の遠距離恋愛。

     俺も、東京の大学を受験する。

     何度もそう言いかけて、やめた。それを言ったところで先輩が喜ぶのかも分からない。それを望んでいるのかも分からない。
     何となく、それとなく、高校を卒業したら上京したいと、両親に話した時のことを思い出す。当たり前だけど、何しに行くの?と聞かれ、そんなに行きたい大学があるの?と、逆に興味を持たれてしまい、動揺した。
     東京の大学に行くには、そこでしか出来ないことをする、何か理由が必要だ。
    「あ、あん時のセットリストなんやけど……」
    「東京行くの、楽しみです?」
     はしゃいだ様子さえ浮かべて昔話を続ける先輩を遮って尋ねる。
    「……え、」
     すると、初めて二人で行ったライブで聞いた曲の、そのメロディを口ずさみそうなほど上機嫌だった先輩の笑顔が引き攣った。
     我ながら、意地悪な質問をしたなと思う。
     でも、先輩だって、大概意地悪だ。無意識だとしても、俺はとても傷ついたのだ。合格通知がきたことを告げる先輩からのメールにあった最後の一文、『財前はどう思う?』ってやつ。
     どう思う?ってなんや。
     東京の学校に行くことは、先輩が希望して、わざわざ二月の寒い日に東京まで行って試験を受けて、そうやって自らの意思で決めた進路だ。それを選んだことで派生する問題だって、先輩が答えを出すべきだ。
    「ええなあ、東京。何でもあるし、修学旅行で行った時も驚いたっすわ」
     ええんとちゃいます?という俺の返信を、先輩はどう受け止めたのか。
     三日前、誰もいない先輩の家に泊まって、セックスしまくった時、快感を言い訳に沢山泣いていた先輩のことを思い出す。これが最後になっても仕方がないと、どうせそんなことを考えていたのだろう。
     そうやって、俺にばかり答えを出させて、自分ばかり泣き顔を見せる先輩の傷つきたがりにはウンザリだ。四百キロの距離も、会えない時間も、俺たちが別れる理由にはならない。でも、先輩は、近くにいなければ、俺の気持ちは次第に先輩から離れていくって思っていて、そうなった時には大人しく俺を手放そうって勝手に覚悟を決めていて、勝手に泣いていた。
     離れ離れになるけど、これからも一緒にいような。
     って、それだけ言ってくれれば、俺はいくらだって待つし、欲しい服とかパソコン周りのものとか音楽とか、全部節約して東京に通ってもいい。毎週は無理だし、月一も厳しいかもしれないけど、でも、出来る限りをやる。
    「東京での生活も、きっと楽しいんとちゃいます?」
    「うん、そうやな」
     俺の言葉を、また、いつも通り、後ろ向きな意味で受け取った先輩が俯くのに、こっそりと溜息を吐いた。
     上京する話を聞かされてから、ただの一度も、先輩と『これから』の話をしていない。どういう未来が幸せなのか、先輩は俺に聞いてこないし、俺も聞いていない。
    「バス、何時?」
     意地もある。ついてきてほしいと言われることを、それが欲しいって望まれることを期待している自分もいる。それも、もうなさそうだけど。
    「ん……、二十三時二十分発、ほんで新宿に着くのが七時。遠いなあ」
     肩かけの小さなポーチの中からチケットを取り出した先輩が俯いて言うのに、「遠いなあ」と鸚鵡のように繰り返した。
    「とりあえず、飯でもします?」
     携帯電話に表示された現在時刻を確認すれば、まだ七時前だった。
    「せやな」
     先輩が、顔を上げる。その吹っ切れたみたいな、割り切りましたみたいな顔は嫌いだ。
    「何食べたい?」
    「なんやろ、せっかくやし大阪のもんがええなあ、お好み焼きとか?」
     普段通りの先輩に、俺も普段通り「梅田やったらどこがええんやろ」と携帯を取り出した。二十三時二十分、東京行きのバスが出発するまで、俺と先輩は昨日までと何ら変わらない。
     四月の夜はまだ寒くて、二人で同じ音を聞いたあの夏の夜に重なる匂いはどこにもない。
     でも、あと三か月か四か月もすれば、夏はやって来る。別々の場所にいても、あのうだるような暑さの中、同じ音楽を聴いて、「暑いね」って、電話でもネットでも、言葉を交わす未来はあるはずなのに——。

     まるで、一生、離れ離れになるみたい。

     *

    「まだ八時や」
     二人で何度か行ったことがある店でお好み焼きを食べたところで、まだ時間はあった。先輩が大きく両手を伸ばして言うのに、「何してますかね」と携帯の画面を滑らせる。
    「うーん……って、あ」
     すると、先輩が何かに気づいたよう、目線を上げた。
    「あれ、あの映画、昨日から始まってた気がする」
     先輩が、SFのシリーズもののタイトルを口にする。俺も先輩も昔から好きなシリーズで、二人で一緒にいた三年の間、新作が発表されるたび観に行った。
    「チケットとれるんかいな」
     最新作は、先輩が言う通り今週から上映が始まっていたはずだ。道の端に寄り立ち止まり、映画館のホームページを開く。
    「どんなかんじ?」
     顔を寄せ、俺の手元を覗き込みながら先輩が聞いてくる。「うーん、ちょっと待って」と、チケット予約のページに日付を入れて検索すれば、生憎の結果が表示された。
    「……満席やって」
    「あちゃ〜、まあ、公開した週の土曜やしな……、しゃーなしやな」
    「どうします?他に観たいのあればそれでもええし、どっか入ってだべっててもええし……」
    「ん、これは?財前が好きなやつやん、時間もちょうどピッタリやん」
     俺の手元にある携帯の液晶に指を滑らせながら、先輩が画面をスクロースさせる。表示されたタイトルは、俺が好きな監督の作品で、これもまた、ユウジ先輩と観た作品だった。とっくに公開期間は終了して、円盤も発売されている作品だけど、アンコール上映をしているようだった。
    「ユウジ先輩、寝るやろ」
     映画を二人で観に行った時のことを思い出して言う。俺の隣、映画が始まって三十分後には爆睡していたその姿を頭に浮かべながら先輩の方を見れば、先輩は「今回は寝ない」と胸を張って言った。
    「なんやその自信、あん時も寝ないって言ってたくせに寝てて喧嘩になったな」
     また、思い出話。二人の日常が、どんどん、どんどん、過去になっていく。
    「うん、なったな。せやから、今日はちゃんと観る」
     液晶に表示された購入ボタンを勝手に押下する先輩が、「寝てたら起こして」と言ってくるのに、「寝る前提やろ」と、溜息混じり返す。
    「せやけど、財前が好きなものが観たい気分なんや」
     街あかりの下、先輩が言うのに「寝てたらぶつで」と乱暴なことを口にすれば、先輩は「怖いわあ」ってふざけるみたいにケラケラと笑った。

     予想通りの展開だ。
     新作に客を全て取られてしまったのか、旧作を淡々と流す小さなスクリーンに人はまばらだった。一番後ろの席には俺たちしかおらず、その前の列にも人はいない。
     真ん中あたりに数組のカップルがいて、あとは一人客がポツンポツンと列の端に座っていた。
    「……」
     始まって一時間が過ぎた頃、隣に座る先輩は舟を漕ぎ始めていた。チラと横を見れば、その目はしっかりと閉じられている。宣言通り、乱暴に起こしてやろうかという考えも頭を過ったが、結局そんなことはしなかった。
     その代わり、反対隣に倒れそうになる頭を、自分の方に引き寄せた。
    「……ふっ」
     小さく、噴き出す音が聞こえてきた。
     起きてたんかい、と隣を睨む。
    「頭、ガってされたから起きてしもたんですぅ」
     俺の肩に、トスンと頭を乗っけた先輩が目を閉じて言う。
    「今寝ると、バスん中で寝れなくなるで」
     返事はなかった。ただ、肩にある先輩の温度と重みが、ただ、ただ、愛おしくて、悲しいシーンでもないのに泣きたくなった。これから先、この映画を見るたび、俺はこの夜のことを思い出すのだと思う。
     それで、隣にいない先輩のことを考えて、重たくない肩に物足りなさを感じて、聞こえてこない寝息を探す。そういう日々が続いていったら、俺も、いよいよ先輩の代わりを探し始めるのかな。
    「……これは冗談なんやけど」
     隣から、小さな声が聞こえてくる。スクリーンに視線を向けたまま、「寝てるか起きてるか、どっちやねん」と突っ込む。
    「ふふ、もしくは、寝言かなんかなんやけど」
     賑やかなBGMが、先輩の小さな声に掻き消される。
    「うん……」
     明るい曲調なのに、その音楽がどこか切なく聞こえるのは、俺がこの映画の結末を知っているからだ。
    「東京なんて、行かなければよかった……」
     少し、震える声が、だけど、はっきりと聞こえた。スクリーンが、夜の風景を映し出す。街を照らす月明かりの下、恋人同士が手を繋ぎ、歌って踊り出す。
    「……まだ行ってへん」
     俺が好きなシーンをスクリーンが映し出す。それを話したら、先輩は「財前くんロマンチックぅ」なんてからかってくるに違いないから、話したことはない。
    「うん……」
     せやな、と。そう囁く先輩の声が、スクリーンの中で愛を紡ぐ歌声に重なる。二人の愛が全てが上手くいくような、そういう内容のことを歌っている。
     でも、結末で二人は別れを選ぶ。全て上手くいく愛なんてないことを、俺はもう知っている。
    「寝ててもええですよ」
     左手を握りながら先輩に言う。先輩の手は、いつも温かい。誰が別の人の手を握ったら、それはこういう温度をしているのだろうか。
    「今日は優しいなあ」
     ぶつって言うてたのに。肩に乗せた頭の位置を少しずらしながら先輩が呟く。
    「俺はいつも優しいですよ」
     寄り添うよう、先輩の方に自分の頭を少し傾ける。先輩が、「ほんまになあ」って呟くのが聞こえた。

     本当に、これ以外の愛を探そうと思う日がくるのだろうか。
     

     *



     映画館を出る頃には、二十二時をとっくに回っていた。あと一時間と少し。
     特別やりたいこともなかったから、コインロッカーに押し込んだ荷物を取り出し、バスターミナルへと向かった。この街を歩けば、歩くだけ、二人で過ごした三年間が転がっている。
     性懲りもなく、「あの時は」と話し出す俺と先輩を、呆れたように月が見下ろしていた。
    「入学式、いつ?」
     待合所は、少し混み合っていた。東京行のバスは、先輩が乗る便以外にも何本かあるようで、待っている間、何度も東京行きのバスが出発することを告げるアナウンスが待合所に流れた。
     先輩と俺は、空いている席を奥の方に一つ見つけ、そこに向かい合って座り、ここに来る途中で立ち寄ったスターバックスで買った飲み物をちびちびと啜りながら待つ。
    「しあさって。明日と明後日は部屋の片づけして、色々手続きとかして、めっちゃ忙しいわ」
    「引越しって、明日だけ終わるものなん?」
    「アパートの大家から鍵を受け取って、昼頃にこっちからの荷物やら家電やら届いて……って、終わらなそうやな」
     今気づいたかのよう、先輩がしまったという顔をする。
    「しばらくダンボールに囲まれてそうやな」
    「明日は向こうにいる兄貴も手伝いに来てくれるらしいから、結構進むんとちゃう?」
    「ちゃう?、やなくて終わらせるんや」
     片付けが苦手な先輩が人任せのように言うのを聞きながら、まったくと呆れる。
    「ところで、今日の財前くんは、あんまり笑わんな」
     先輩が肩を竦めて言ってくる。
    「笑うようなことがないからな」
     ぬるくなったカフェラテを一口啜り、そう返す。先輩は、「さよかあ」と笑顔のまま言って、飲むわけでもないのに、手元のカップを両手で持ち直した。
    「……よし、笑わせたる」
     カップから手を離し、それをトンとテーブルにおき顔を両手で覆う。何をする気だ?と眉を寄せれば、その手をパッと離し、小学生がするような変な顔を晒してきた。
     笑わせたるって、そういうことか。
     状況は理解できたものの、変顔で笑うのは小学生くらいだ。
    「ぶっさいく」
     顔の中央に頬の肉をぎゅっと寄せる先輩に感想を告げる。
    「これはダメか……」
     ちぇっと、顔を顰める。
    「俺のお笑いレベル舐めすぎやろ」
    「せやったな、自分、意外とお笑いIQ高かったな」
    「ありましたね、そんなの」
     中学の頃にあったふざけた試験で、そういえば、先輩は毎回一位争いをしていた。
    「天才財前くんのとっておきの変顔、見せてや」
     先輩が言ってくるのに、先ほどの先輩の真似をして、両頬を両手でぎゅっと押し上げてみせる。
    「ぶっ……、めっちゃブス……」
     俺よりもお笑いIQとやらは高いくせに、しょうもない変顔で先輩は声を上げて笑った。でも、すぐに「このままだと素人に負けてしまう……」と、今度は真面目な顔をしてみせる。
    「しゃーない、とっておきや……、ハイ、白石のモノマネしまーす」
     作戦を変え、ストレートに得意分野で勝負することにした先輩が、その通りモノマネをしてみせる。いつも通り、よく似ているし、ネタも面白い。初めて見るネタだから、多分、今ここで思いついたのだろう。
    「……ふふ」
     笑う気もなければ、笑いたい気分でもなかったけど、思わず笑ってしまった。
    「で、白石を迎えに来た謙也」
    「くくく……、それアカンやつ……」
     続くネタに、また笑う。夜行バスを待つ待合所に話し声はあんまりなくて、声を押し殺して笑った。我慢して笑う代わり、ちょっと涙が出てきた。「俺の負けでええですわ」って降参してみせれば、先輩の手が伸びてきて、俺の目じりに溜る涙をその指で拭う。
     その指の行く先を見送れば、ユウジ先輩と視線がぶつかった。
    「そういえば」
     すると、先輩が思い出したように話し出す。
    「さっきの映画な、俺は、中盤の二人で踊るシーンが一番好きやったな。最後の方は寝てたから覚えてないけど」
     あまりに唐突だったから、何の話をしているのか、すぐには分からなかった。
    「音楽も好きやったなあ、あれ、ラストどうなるん?」
     あの映画の話だということに、ようやく気づく。
    「自分で確かめてください」
     気になるんやったらブルーレイ貸しますけどって、続けようとしてやめた。
     ああ、そうだ。
    「……明日は、もう会えないんやな」
     先輩の顔を見つめたまま言う。嘘みたいだけど、現実だ。明日、四百キロの先にいる先輩に、ブルーレイを貸す未来はない。
    「うん、せやな」
     先輩が、瞬きをするのと同時、視線を落とす。

    『二十三時二十分発、京都駅経由、新宿行きの夜行バスをお待ちのお客様にご案内です——』

     アナウンスが、二人の間に生まれた静寂を淡々と埋めていく。
     これに乗って、先輩は東京に行ってしまうのだ。
     夜が明ければ、もういくら手を伸ばしても届かない場所にいる。
     待合室で座っていた何人かが立ち上がり、停留所へと続く出口にぞろぞろと向かっていく。
    「……そろそろ、行った方がええんとちゃいます?」
     俯いたままの先輩に声をかける。
    「うん」
     先輩がのろのろと立ち上がるのに、俺も立ち上る。小さなスーツケースをゴロゴロと転がして歩く先輩の隣に立って、列の後ろに並んだ。隣にいる先輩の、空いている方の手を取り、ぎゅっと握る。
    「……」
     先輩は何も言わず、俺の方に視線を向けたけど、手を振り解くことはしなかった。
     後ろには誰も並んでいない。待合室に残る人たちも、それぞれ携帯を眺めたり本を読んだり、友達とおしゃべりをしたりと、俺たちの方なんて見ていない。
     でも、多分。
     後ろに誰かが並んでいても、待合室に残る人たち全員が俺たちの方を向いていたとしても、今この瞬間に胸を埋め尽くす切なさとかやるせなさとか寂しさを堪えることなんて出来なくて、俺は先輩の手を握っていたと思う。
    「荷物はこちらに預けてくださいー」
     係員の指示に従い、スーツケースやキャリーケースをバスの下にある格納スペースに預けるため、その列に移動する。そこでも最後尾だったから、手を離すことはしなかった。
     今ほど、今を名残惜しんだことはない。
     前に並んでいた乗客たちが、慣れた様子でバスのステップを上がっていく。この列が、永遠に終わらなければいいと思う。東京行。そう表示された電光掲示板がかかるバスの大きな窓から覗く人々の顔を視界の端に映しながら、あと数分後にはユウジ先輩もあの車窓の一部となり、はるか東へと旅立ってしまうのだ。
     俺たちの最後のエピソードは、梅田で映画を観て、バスターミナルでにらめっこをして、東京行きのバスの前で手を繋いだことになるのだろうか。
    「財前の手は、いっつも冷たい」
     手を繋いだまま、先輩が言ってくる。待合所にいた客は全てバスに乗り込んでしまったのか、乗り場には先輩と俺しか、もういなかった。バスの運転手が、車内からこちらを窺っている。
    「心があったかいからな」
     男同士で手を繋いでいることが珍しいのか、とっととバスに乗れということなのか。恐らくその両方なのだろう。だけど、その視線の意図するところに気づいているのに繋いだ手を離すことはせず、軽くゆらゆらと揺すった。
     あったかくないやろ、って。そういう先輩の突っ込みを待ちながら。
    「……」
     でも、先輩は繋いだ手に視線を落としたまま、何も言ってこない。
    「いや、突っ込むところやで」
     恥ずかしくなってきて、ぶっきらぼうに言う。
     夜行バスの前で手を繋ぎ、さよならの時を待つ。バスターミナルのやけに白く明るい照明に照らされ、見つめ合い、時が止まれと願う。
     それから、先輩が口を開くのに、これが最後の一節なのかなって思う。
    「明日も会いたい……」
     いつも冗談ばかり、ふざけてばかりの口から溢れた台詞が、四月の空気を白く染める。春とは名ばかりの、寒い夜だった。
    「先輩、」
     俺だって、今日も明日も世界でいちばん会いたい。気持ちが、溢れそうになる。
    「なーんちゃって!」
     そんなシリアスな空気を打ち消すよう、先輩が、ぺろっと舌を出した。
    「ほな、いってきます」
     握っていた手が、するりと離れていく。
     その手を額に持っていき、敬礼するみたく翳す先輩の笑顔が、ぎこちない。気のせいじゃない。笑っているのに、泣いているみたいな顔をする。変な顔。本当に変な顔だ。さっきの小学生がするみたいな間抜けな顔をよりも変だ。そう思って、ようやく笑ってみせたけど、多分、俺も似たようなもんだ。
    「風邪とか、気ぃつけや」
     受験生なんやから、と。先輩風を吹かす先輩に、「ユウジ先輩も」と返す。
    「勉強もがんばってな……」
     別の場所に向かうバスのヘッドランプが眩しいのか、別の何かが眩しいのか、先輩が目を細めた。
    「なに?」
     唇が辛うじて上がっているだけの、笑顔と呼ぶにはあまりに拙い顔をしたまま何も言わない先輩に続きを促すよう、その顔をじっと見つめた。
    「今までどうも、おおきに」
     これで、本当に、最後。
     ぺこりと頭を下げた先輩が、くるりと身体の向きを変え、背中を向ける。チケットを入り口に立つ係員に見せ、ステップに足をかける。この物語のエンドロールは、去っていくバスのテールランプに映し出される俺の影とかなんやろうな。
    「ユウジ先輩、」
     バスに乗り込んでいく背中に声をかける。
    「俺も、さっきの映画、二人が月の下で踊るシーンが一番好きやった」
     振り向いたユウジ先輩の顔は、全然笑顔じゃない。
    「……はは、財前くんはロマンチックやな」
     バスの入り口に立つ先輩が、こちらに顔を向けて思っていた通りのことを言ってくる。そんな泣きそうな顔で、人のことからかってくるなって思う。コミカルなのか、シリアスなのか、どちらかにしてほしいし、何より、こんな最後は望んでいない。
     俺は、先輩みたいに即興でモノマネをしたり、ネタで笑かしたりは出来ないけど、明日も会いたいって思う先輩の願いを叶えることは出来る。
     明日も会いたいって、先輩がそう望んでくれるのであれば、俺はーー。

    「来年、俺も東京に行くから」

     そう言うのと同時に、プシューというガスが抜ける音と共にバスの扉が閉まる。
    「待ってて」
     最後の言葉が、先輩に届いたのかは分からない。
     驚いた顔をする先輩が、ガラス扉の向こうに見える。一緒にいないとダメになるって、先輩がそう言うのであれば、一緒にいればいい。運転手に何か言われたのか、ステップのところに突っ立っていた先輩が軽く頭を下げ、バスの中を移動していくのを追いかける。少しして、先輩が席に着くのと同時、ゆっくりとバスが走り出した。
     重たげに発進する車両の窓から先輩がこちらに顔を向ける。
     笑っているのか、泣いているのか。
     相変わらず、よく分からない顔をしている先輩を笑わせようと、両手で頬を挟んで持ち上げてみせた。発想が小学生やなって、先輩に対して思ったことがそのまま自分に突き刺さる。
     少しずつ、少しずつ、俺から離れていく車窓の先輩が俺の方を見て笑うのが見えて、それで俺と同じように両手を頬にあてて不細工な顔を作るのが見えた。
     別れ際に見た最後の顔が、その不細工な顔ってのはどうなんやろうか。
    「でも、まあ……」
     可愛いとかかっこいいとかからは程遠いけど、泣いている顔よりもずっといい。
     それにつけても、ロマンチックの欠片も残らない俺たちのしばしの別離は、まだまだ、ジ・エンドの文字が似合わない。
    「東京か……、面倒なことになったなあ」
     がらんとしたバスターミナルに一人突っ立ったまま漏らす。
     東京に行くための理由は、これから作ればいい。両親も納得してくれて、自分の人生にも不利にならない理由なんて、実はすぐに思いつく。
    「っちゅーか、めっちゃ勉強せなあかんけど……」
     こっちの大学よりも、偏差値の高い学校に合格すれば、それはきっと理由になる。
     そう思って、高校最後の一年間を勉強漬けにする覚悟を決める。面倒くさくて大変なことくらい分かっている。でも、離れるよりも、ずっとずっと、気が楽で、簡単だ。
     両手を高く上げる。
     ターミナルの白いアスファルトにくっきり浮かぶ俺の影は、エンドロールのそれではない。だって、来年は、また、今日も明日も先輩と一緒にいるはずだ。
     朝になったら、電話しよう。それで、今日と同じようにくだらない会話を交わして、続きがあることを確認しよう。

     だって、ピリオドはまだーー。
    tamapow Link Message Mute
    2019/06/03 0:02:38

    財ユウ 「ピリオドは打たないで」

    #財ユウ
    上京する日のユウジと、大阪に残る財前。高校生。

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