財ユウ 「17回目の」 十七歳になって半日が過ぎた。
正確には、もっと過ぎているかもしれないし、下手したらまだ生まれていないかもしれない。でも、二十日という日にちで考えれば、もう半日が過ぎている。
夏休みを迎えたばかりの梅田駅は普段にも増して人で溢れ返っていて、待ち合わせに指定された場所から少し離れたところにスペースを見つけ、そこで待っていることを伝える簡単なメッセージを送る。そのまま、特に興味もないネットニュースの記事を眺めていれば、携帯がぶるぶると震えだした。
おたんじょうびおめでとう。
英語で日本語で。次々送られてくる誕生日を祝うメッセージは、誕生日を迎える次男を置いてきぼりにして、ハワイ旅行に出かけた薄情な家族たちからのものだった。
祝福に託けて、アロハ~なんて浮かれた文字と一緒に、青い空と青い海を背景に笑顔を浮かべる両親や兄とその家族の写真が、携帯電話の画面に次々流れていくのに、「浮かれすぎや」と一人ごちた。
画像を流し見ながら、こんなキャラやったっけ?と、普段にはない陽気さを見せる父親の画像に一人笑いを堪えていれば、「何見とるの?」なんて声が後ろから聞こえてきた。突然のことに驚いて、特に見られたらいけないものでもないのに、思わず画面を切り替える。
「なに?隠すようなもん?」
後ろを見れば、何やら楽しそうな顔をしたユウジ先輩が立っていた。
顔を見るのは一週間ぶりで、声を聞くのは半日ぶりだった。半日前、「おめでとう」って電話越しに聞いた先輩の声が無意識に頭の中で再生される。
「別に」
そんな、恥ずかしいことになっている脳内を悟られぬよう、素っ気なく返せば先輩は口元の笑みをますます深いものにした。
「ははあ、財前くんも年頃やなあ、えっちな動画なんて」
くくく、と口元に手をあて、からかうような目線を向けてくる先輩にウンザリとした顔を向ける。
「ちゃうわ……」
それから、そういうモノを見ていたわけではないことを証明するため、届きたてホヤホヤの画像を先輩の顔の前にグイっと差し出した。
「おわっ、近いって……って、誰やこの浮かれた親父は」
顔を後ろに反らしながら眉根を寄せる先輩に「俺の親父」と返し、携帯を引っ込める。
「え、ほんまに?ちょっと横に並べてみて」
言うやいなや俺の手元ごと携帯を持ち上げようとする先輩に「強引やな」と言いながらも、浮かれた親父の画像を映し出す携帯を、そのリクエスト通り自分の顔の隣に並べてやった。
「ぜんぜん似てへんな、ノリがちゃうわ……、さては母親似やな?」
俺が母親とは似ていないことを知っているくせに、名推理とばかり言ってくる先輩に「母親見たことあるやろ」と呆れ気味に返す。
「……俺は生まれた頃から父親似、俺も将来はこうなんねんで」
ついでとばかり、写真の親父と同じように親指と小指を立てた手を裏返し、ハワイにいる観光客がよくやる例の、つまるところ父親と同じポーズを作ってみせた。
「あ、それやると似とるな。親父めっちゃ陽気やん、財前も年取ると陽気になるんやな」
ふうむと携帯の画面と俺の顔とを、視線を左右に動かしながら比べる先輩に、「ハワイ旅行で浮かれとるだけやし、あと似てるのは顔の話や」と携帯を下ろしながら言う。
「しっかしハワイなあ、セレブやな」
「甥っ子が来年小学校上がるから今年は豪華にしたらしい」
「自分のとこ毎年行っとるもんな、ほんで光くんは大体お留守番やな」
「こっちはガッコあるし、犬もおるし、留守番させとくのに高校生の息子っちゅーのはちょうどええんやろ」
それに、俺も留守番の方がちょうどいい。家族のいない家に友達を呼んでどんちゃん騒ぎのし放題、なんてものに興味はなく、この期間ばかりは先輩を家に呼び放題、というところが俺にとっての最大のメリットだった。事実、先輩と付き合い始めてから、家族が出かける時にはいつも先輩を家に呼んで、家族のいない家でやりたい放題していた。
「それなら財前の家にすればよかったなあ、今日」
先輩が言う。その通り、今日は家で会ってもよかった。むしろ、俺は先輩を呼びたくて呼びたくて仕方なかった。ただ、でも、今日はちょっと、という気持ちの方が大きかった。
「って、今日はちゃうな、そういうんやない」
誕生日のデートや!
先輩が首を横に振りながら言うのに、「それやな」と口の中で呟いた。
そうだ、なにせ、今日は俺の誕生日だ。そんな日に、家に来てください、なんて言うのは気が引ける。というか、いかにも、いやらしい。これまで散々家に呼んでおいて今更や、とは思うものの、誕生日みたいな特別なタイミングで誰もいない家に呼ぶのは、『いかにも』が過ぎる。
変な羞恥心とカッコつけと、スマートでいたいような気持ちから、誕生日の当日は家族が旅行でいないことを先輩に言うのを躊躇っていれば、「誕生日の日は俺が計画立てるな」、なんて先輩の方から言われてしまい、ついに誘うことは出来なかった。
「もうな、寝る間も惜しんで財前くんの十七歳の誕生日を祝う計画を練ってきたんやで」
「ほんまかいな」
拳を握り気合を入れる先輩に呟く。付き合い始めて二年と少し、デートの計画を立てるのは大体いつも俺だ。先輩はちょっとというか大分ザツなところがあるから、任せると無駄が多い。先輩も、それは自覚しているみたいで、だから、何をするでも俺に任せてくれる。まあ、この件ではもう何度も喧嘩してきたから、お互いに学んだところが大きい。
「ほんまやで、覚悟しとき」
そんなわけで、先輩自らが「俺が全部計画する!」なんて言い出すのはとても珍しいことで、それを俺のためにしてくれるというのだから、嬉しくないわけがない。
家に呼びたい気持ちもあったけど、それはまた別の日でもいい。
「いや、何の覚悟?」
楽しい気持ちを隠せなくなって、笑いながら突っ込めば、「祝われる覚悟」と先輩も口角を上げた。
先輩と付き合い始めて初めて迎えた誕生日は、二年前、まだ俺が中学生の頃だった。
確か、近畿地区代表を決める大会の真っただ中で、会う暇はなかったけど、会場まで応援に来てくれた。他の先輩たちも何人か一緒で、嬉しいのと少しガッカリするような気持ちが半分ずつあったことを覚えている。来年こそ二人きりで会いたい、なんて思いながら家路に着けば、最寄り駅にいないはずの先輩が白玉ぜんざいが二つ入ったコンビニの袋をぶら下げて立っていて、心臓が止まるくらい驚いたことも。喜んだことも。
一年経って、去年の誕生日は、好きなバンドの来日公演が重なって、二人でそれを観に行った。セットリストを今でも暗唱できるくらいには最高のライブで、俺と先輩の間では伝説となっている。(まあ、それは俺たちの間の話であって、ネットでは酷評されていたけど、俺と先輩だけの特別な感じがしてそれはそれでよかった)。
それで、今年は――。
「うお、たっかぁ……」
先輩の計画は、ちゃんと『計画』になっていた。
いつものような行き当たりばったりな感じはなく、前に二人で観たいと話していた映画の予約も事前に済ませてあった。そのことに驚いたら、「俺をなんやと思っとるんや」って、先輩は不貞腐れたような顔を作った。
映画のあとは、何をどう調べたのか、先輩が見つけてきた洒落たカフェに二人で入って、映画の感想を言い合って、くだらないことをたくさん話して、笑って、店を出る頃には空の色が少し変わっていた。
抜けるような青ではなく、褪せたような青。
「下から見るよりもずっと高いっすね……」
カフェを出たところで見上げた空の色が、また少しずつ変わっていくのを間近で見つめている。
先輩が立てた計画のラストは、梅田のファッションビルの屋上に設置された真っ赤な観覧車だった。子供の頃からずっと知っているけれども、実際に乗ったことはない。結構前に、俺がそう話していたのを覚えていたらしく、「初体験やろ」なんて楽しそうに俺の腕を引っ張ってエスカレーターを上っていった。
すごく乗りたいと思っていたわけでもないのに、俺の腕を引っ張る先輩があまりに楽しそうだったから、まるで小さな頃から憧れていた乗り物に乗る時のように俺までワクワクしていた。まあ、でも、絶対に先輩の方がはしゃいでいたと思うけど。
前も後ろも男女のカップルが並ぶ中、男二人で待っている時間は少し気まずかったけれども、観覧車に乗り込んでしまえば二人きりの小さな世界が広がっていた。
ゆっくりと天辺を目指すゴンドラには、その中で好きな音楽を流せる装置がついていて、何聞こうか?なんて、ユウジ先輩が自分の携帯をそこに繋いだ。のんびりとした速度で上り出すゴンドラの下を二人して覗き込み、でもすぐに顔を引っ込めて、「これ、ちょっとビビるな」と顔を合わせ、今度は視線を上に向けた。
そこにあった空の色が、ゴンドラが上るスピードに合わせるかのよう、青色から橙にゆっくりと変わっていくのが見えた。
夕暮れにピッタリな一曲、なんてすぐには思いつかなくて、選曲はシャッフル機能に任せた。それでも、不思議なもので、機械が空気を読んだように、夕暮れのこの時間帯に合うゆったりとしたメロディで空間を満たす。綺麗な曲調と、それに合うボーカルの声色と、二人を包む夏の夕焼け空と、何だかくすぐったいくらいにロマンチックだった。
「黄色やなくてオレンジやっちゅーの」
流れる曲の歌詞を拾いながら先輩がぽつりと漏らすのに、「ほんまやな」と呟くよう返す。夏の初めの、明るい夕陽に目を細める。
「星もまだ見えへん」
俺も、先輩の真似をして歌詞を拾う。先輩が俺の真似をするよう「ほんまやな」って呟くよう言ってきたから、俺たちはお互い外を見つめたまま小さく噴出した。曲調はロマンチックな空の色にピッタリだったけど、さすがのハイテク機器も、歌詞までは考慮出来ないようだった。
「夕焼けってまぶしいなあ……」
眼下に広がる大阪の街と同じように、その頬を夕陽と同じ色に染めながら先輩が言った。
「せやな」
少しずつ、少しずつ、空に近づいていく観覧車の中、向かいに座る先輩の横顔もオレンジ色に染まっていた。西日が強くて、少し暑くて、自分たちが夏という季節にいることを実感させられる。
「今日、楽しかった?」
外に顔を向けたまま、先輩が聞いてくる。
「はい」
珍しく素直に答える。
「ユウジ先輩にしては、ようやりましたわ」
でも、たちまち恥ずかしくなって、余計な一言ってやつを付け加えた。
「失礼なやっちゃなあ」
オレンジ色のほっぺたを膨らませる先輩に「褒めたんですけど」と悪びれず肩を竦める。
「楽しかったです、ほんまに」
「ふうん」
きっと、俺が楽しいと思うことを考えてきてくれたんやろうなって思う。
映画も、カフェも、観覧車も。
それを嬉しいと思う反面、先輩が楽しかったのかが気になってしまう。元来、人に合わせるのが苦手なタイプなのだ、この人は。
「先輩は、楽しかったです?」
それで、気になっていることを、そのまま聞いてみる。
「へ?俺?」
すると、先輩は不機嫌そうな膨れ顔から、今度は驚いたように目を丸くした。そんなことを聞かれるとは思ってもいなかったと、そういう顔だった。
「……ううん、せやなあ、今日は何しようかなって考えてた時に、」
俺の質問に、なのか、俺がそんなことを聞いてきたことに、なのか。何か考えるよう先輩が首を傾けながら話すのに耳を傾ける。
「めっちゃ考えたんやで、ほんまに、せやけど目新しいアイディアとかうまい作戦とか思い浮かばんくて、それやったら俺が財前として楽しいことをしようって考えて、」
「うん、」
ゴンドラが、頂点へと近づいていく。あと、数分。そんな位置だった。
「そんなやから、俺は当たり前のように楽しかったで」
オレンジ色は深味を増していく一方で、流れるメロデイは相変わらず黄色い世界を歌っている。比喩か、直喩か。そんなのは知らないけれども、この時間帯もいつか終わって、星が見える夜が来ることを否応なく予感させた。
「って、もうすぐてっぺんとちゃう?」
ユウジ先輩が窓へと顔を近づけ、その距離を確認する。
「まだ少しありそうっすわ……」
ちょうど五台か、六台先にあるゴンドラが頂上に差し掛かるところにいた。流れていた曲が終わるのに、「もっかい聞く?」と、散々突っ込みを入れていたくせに、先輩が俺の返事を待たずにまたあの曲をリピートさせた。
でも、俺も、もう一度聞きたい気分だったから、何も文句はなかった。
「なあ、てっぺん着いたら何する?」
先輩がそわそわとした様子で聞いてくるのに、「何もせんでええやろ」と、窓の外に携帯を向けその景色を写真に納めた。
「小一くらいん時に、梅田に住んでるじいちゃんが俺と兄貴を連れてきてくれて、これに乗ったんやけど、」
写真を撮る俺の前、先輩が話し出すのを聞く。
「てっぺんに到達した瞬間、兄貴がふざけて立ち上がって飛び跳ねたからゴンドラがめっちゃ揺れて、それが怖くてギャアギャア泣いたの思い出したわ……」
嫌なことを思い出したとばかり眉を顰める先輩に、「かわいい時期があったんやな」と言えば、先輩は「見られなくて残念やったな」としれっと言った。
「ほんで、そん時は、もっと昼間の明るい時間帯やったから地平線とかくっきり見えて、じいちゃんに『あの先には何があるんやろ?』って聞いてみたんやな」
「うん、」
幼少期のユウジ先輩の視線を追いかけるよう、窓の外に広がる地平線を確認する。夜との境にある時間帯の地平線は、ぼんやりと曖昧に滲んでいた。
「そしたら、じいちゃんも上手い答えがなかったんやろな、『東京』って言うてた」
「適当なじいちゃんやな」
クスリと笑いを漏らす。
「ちっちゃかった俺は、ああ、あの先には『東京』っちゅーのがあるんやなあって信じ込んで、『東京』ってめっちゃ遠いなあって思うててんけど、実際にはあそこよりももっとずっと遠いとこにあるよな」
ユウジ先輩は、地平線の向こう、遠い遠い場所にある『東京』を見つめているようだった。
「……はあ、遠いなあ」
その表情は、どこか寂しそうにも見えて、なんだろう?って思う。でも、これは時間帯のせいかもしれない。夕暮れは、センチメンタルを誘うところがあるから。
「……そろそろ着くんとちゃいます?」
そう思うことにして、理由を聞けばよかったのに、まるで話題を逸らすみたいに全く違うことを口にした。すでに俺たちの前の前にあるゴンドラがてっぺんに到達するのが見えている。
「あっ、ほんまや」
窓に向けていた視線を俺へと向け、「どうする?何する?」とまた聞いてくる。
「せやから、何もしませんって」
慌てて焦り出す先輩の様子に、さっきのは気のせいやったんかなと思い直して笑ってみせれば、先輩は「もったいない気がする」と、芸人魂のようなものを覗かせてきた。
「あ、そろそろとちゃいます?」
窓から位置を確認する。
「まずい、どないしよ」
って、もう着いてまう
一つ先にいた観覧車がその位置に到達するのに先輩が、頭を抱える。そんなに悩まんでもええやろと思うけど、ここで何かをしたいと考えるユウジ先輩は嫌いじゃない。
「財前、ほら、誕生日やろ、したいこと言い」
身を乗り出しながら、そんなことを言ってくる。
「無茶ぶりやな」
チラと、俺たちの前後にぶら下がるゴンドラに視線を向けて、その中の様子がこちらからは見えないことを確認する。ということは、向こうからもこっちは見えないということやから。
「……目ぇ瞑ってもらえます?」
向かいに座る先輩の方へと顔を近づける。
「へ?」
きょとんとするだけで目を閉じようとしないユウジ先輩に、「おもろい顔されてもな」と呟いて、そのまま、その間抜けな顔にキスをした。
すぐに唇を離し、でも近い位置で見つめ合う。少しのあと、「キスしたかったん?」と、からかうでもなく、ただただ不思議そうに先輩が聞いてきた。
「せやな」
先輩は知らないだろうけど、俺はいつだって先輩とキスしたいと思っている。
流れていたメロディはいつの間にか止んでいて、ゴンドラの中の二人きりの小さな世界に音はない。オレンジ色の空に包まれた世界の向こうにある地平線の、その向こうに広がる世界でも、同じような色の夕陽が沈むのか。ここより外の世界のことを、そういえば考えたことがなかった。
「そうなんや……、ほなら、もっかいする?」
先輩が、さっき見た地平線より向こう側に立っていたら、こうしてキスも出来ない。ゴンドラの中にいつまでもいられればいいけれども、その時間はきっといつか終わりを迎えるのだ。
そう考えると、今この瞬間がとても愛おしいものに思えた。
「あ、せや」
鼻先が掠るくらい顔を近づけたところで、先輩が何かを思い出しよう口を開く。
「誕生日、おめでとう」
それから、そんな声がぽつんと響いた。
「……」
二人して目を開いたまま、見つめ合ったまま、もう一度触れ合おうと、今の距離を確認しようと、顔を近づけていく。
『ええ、そう、夏を迎える今日このころには――』
あと一センチ。って、それくらいの距離まで近づいた時、突如、テンテンテンと陽気な三味線の音と拍手の音の後、おっさんの話し声が流れ始めた。
「……、ぶっ」
一人ぺらぺらと、しかしテンポよく話し出す声には聞き覚えがある。
「落語?」
「そうそう、時そばやで、じいちゃん好きやった」
キスする一秒前に流れ出した落語に、先輩は噴出して、俺はぼやいた。好きな演目だったのか、先輩は、「これ、めっちゃおもろい」と笑ってしまっているし、ロマンチックな空気なんてもうどこにもない。
ゴンドラは頂上から少しずつ降下し始めていて、前のカップルたちの様子もすっかり丸見えな状態だ。
「じいちゃんの呪いやな、このタイミングで落語流すとか……」
「呪いってなんや、じいちゃん、まだピンピンしとるからな」
もう一回くらいキスしたかったなあと思う。正直なところ。
「っちゅーか、落語とかダウンロードしないやろ」
ところどころ落語家の口調を真似て、鼻歌を歌うみたいに落語の一節を口にする先輩に溜息を吐く。
「これダウンロードせえへんとか、人生の半分は損してんで」
膝についた膝の上に頬を乗っけた先輩が、美しい音楽に耳を傾ける時のよう目を閉じる。
「そんなん初耳や」
行きはロマンチック、帰りはすっかりコメディと化したゴンドラの中、俺たちはまたいつも通りの会話を交わす。まあ、こんな塩梅がちょうどいいのかもしれない。
「……もうすぐ着くなあ」
先輩が言う。
窓の外を見れば、夕暮れに染まっていたはずの街が、底の方から濃い藍色に染まり出すのがはっきりと見えた。夜が、もう来る。観覧車がもうすぐ一周して、この狭い乗り物の外に出たら、今日はもう終わりだ。
「着きますね」
ついでに、俺たちの一日も、もうすぐ終わりますね。
今日が終わると、明日は会えなくて、明後日も会えなくて、次に会う約束をしているのは明々後日。本当は、毎日会いたいし、本当は、今日ももっとずっと一緒にいたい。
「どうしよって思うてんのやけど」
落語家の小気味いい話ぶりを流したまま、先輩が背もたれに背中をだらりと預けながら俺を見る。
「なにが?」
それに首を傾げると、先輩は身体を背もたれに預けさせたまま「どうしよ」と繰り返した。
「せやから、なにが?」
「帰りたくないなあ、今日」
賑やかな空間に零れた言葉が、薄暗い中にあってもはっきりと浮かび上がる。
「困る?」
先輩が聞いてくるのに、そんなことを気にする性格やないやろって思う。いつも人のことを振り回すくせに、この期に及んで「困る?」だなんて、どの口が言うんやろうか。
「奇遇ですね」
でも、そういうところが好きだった。困るようなことを言われても、望まれても、だから、ちゃんと応えたいし、先輩が困る?って聞いてくることに、俺は大体困らない。
「帰したくないなあって、俺も思ってた」
どんどんと暗くなっていくゴンドラの機内が、一気に明るくなる。窓の外を見れば、他のゴンドラにも同じように明かりが灯されていた。照明が切り替わる時間帯なのだろう。
明るくなった室内からは、先ほどまで空にあったオレンジ色はもう確認出来ない。代わりに、探せば星でも見つけられそうな、そんな夜の気配を漂わせている。
「……うち来ます?」
結局誘うんかいって、自分でも思う。でも、仕方ない。結局、誕生日だって、いつだって、俺がしたいことは変わらない。一緒にいたいって、それだけだ。
「行く」
向かいに座る先輩がコクリと頷く。
携帯から流れる落語家の声と、客席が笑う声。俺たちの間には、しばしの沈黙。騒がしいのか、静かなのか、よくわからない。
「よっしゃ、サービスしまっせ」
それをぶち破るよう、先輩がふざけた。
「……そんな意味ちゃうし、下品やで」
百パーセントの否定は出来ないところが、少し悔しいところだけど。でも、今日という時間をもう少し一緒に過ごせるのであれば、詰まるところ、エロでも下品でも何でもいい。
「うんうん、分かっとるって」
そう言うと、先輩は「その辺のデパートでケーキ買ってこ、ほんでローソクに火ぃつけて、俺がハッピーバースデー歌ったるわ」と、気も早く、「練習しとかな」と、バースデーソングを歌い始めた。
「いや、まだケーキもローソクもないんですけど」
そう言うと、先輩は歌うのを止めた。
「はよ年取って陽気になった財前を見てみたいわあ」
もうあと五分もすれば、地上に辿り着く。
「あと三十年くらいかかるな」
親父の年齢まで。それを言うと、先輩は「先の長い話やなあ」と面白そうに言った。
「時間がかかる話なんですわ」
なんの話や?って思うけど、俺が中年のおっさんになっても、その隣にユウジ先輩がおったら楽しいんやろうなって確信がある。だから、まずは。
来年も、先輩と一緒にこの日を過ごせますように。
って、誕生日は別に願い事をする日やないなって、心の中で突っ込んだ。