財ユウ 「地獄でプロポーズ」
六時間目の数学は自習だった。配られたプリントにあった問題をとっとと解いて、チャイムが鳴るまで欠伸を噛み殺しながら椅子に座っているのも馬鹿らしくなってきて、プリントをとっとと提出して教室を後にした。
部活まで、まだ一時間くらいあった。
中途半端やなと思いながら、ひとまず部室に向かう。一月の凛とした冷たい空気に包まれたテニスコートを眺めれば、あの賑やかな、いや、賑やかだった先輩たちの声が耳の奥に蘇る。
「静かなもんやな」
当たり前か。まだ誰も授業終わっとらんし、誰もコートにおらん。静かで当たり前。夏が終わり、秋が来て、冬になった。あっという間に巡っていく季節と、そこある風景は少しずつその眺めを変えていき、なんだかんだ、夏も秋も、そこにいた先輩達の姿が今はない。
高校受験も近づき、各々忙しいのか、週に一度は誰かしらがOBとして顔を出していたというのに、冬休みが明けてからはめっきりここを訪れなくなった。
「静かやな」
もう一度、呟いて、それから部室の扉を開いた。
「お、財前や!」
誰もいないはずの部室にいた人物に目を丸くする。そうだった。昔から感慨に耽ってみた時に限って、その感慨をぶち壊す先輩がここには多かった。
「……ユウジ先輩」
部室に置かれたテーブルの上に何やら分厚そうな雑誌を広げていたユウジ先輩と視線がぶつかるのに、すぐに嫌そうな顔を作った。「うわ」って、そんな声も添えて。
「なんやその反応は。もっと嬉しそうな顔しいや!」
頬杖をついたままムスっと膨れるユウジ先輩に、「俺は素直なんです」と憎たらしく返し、ロッカーの扉を開けた。
嘘や、俺は素直じゃないんです。
本当は嬉しい。久しぶりに会えて嬉しいって気持ちを隠すのに必死で、難しい顔になってしまっただけだ。
「っちゅーか、どうやって入ったんです?」
笑わないように、口元が緩まないように、緩んでいるのを見られないように。マフラーに顔の半分を埋め、くぐもった声で尋ねる。
部室の鍵を常時持っているのは部長である俺と副部長。あとは。
「んあ?オサムちゃんに借りたんや」
「……オッサン、防犯意識ゼロやな」
部員を信頼し過ぎるというか、どうにも緩すぎるところがある顧問の呑気な顔を思い浮かべながら、ハアと溜息を吐いた。
「信頼関係や」
「どうでもええですけど、この部屋寒ないですか?」
くるくると畳んだばかりのマフラーを広げ、それを首元にぐるぐると巻き直す。テーブルに置かれたエアコンのリモコンを確認すると、暖房ではなくドライの表示になっていた。
「……ドライになっとるし、これ以上カラっとさせてどうすんねん」
リモコンを操作しながら、マフラーを巻いたままの先輩に呆れ顔で言うと、先輩は「どうりで寒いわけや」とこの部屋の空気の如く、カラカラと笑った。
「なかなかあったかくならんから着替えも出来ひんし」
ドライモードな、なるほど。と先輩が頷くのに、「着替え?」と、そこに出てきた単語を拾う。
「ふふふ、喜べ財前。今日は俺と小春がダブルスの指導に来てやったんやで」
得意げに言うユウジ先輩に、「聞いてへん」と眉根を寄せた。
「ダブルスを強化したいって財前が言うてたって、オサムちゃんが言うてたで」
伝言ゲームのように話す先輩に、「ああ」と少し前に交わした顧問との会話を思い出す。確かに、今の四天宝寺には確実に一勝を掴み取れるほどの実力があるダブルスペアがいないし、夏までにダブルスの強化をしたいと、そんな話をした。それをあの顧問が覚えていたことは、正直意外だった。
「そこで俺と小春の出番っちゅーわけやな」
両腕を胸の前で組みながら、どこか偉そうに言う。
「……それは素直に助かりますけど、受験前なのに大丈夫なんですか?」
「小春は天才やから勉強なんてせんでも大丈夫なんや、すごいやろ」
自分のことを自慢するような口ぶりのユウジ先輩に、「小春先輩の心配はしてへん」と部屋があったまるまで着替えるのは少し待とうと、テーブルの角を挟み、ユウジ先輩の隣に座った。
「……何見とるん?」
分厚い雑誌を埋める写真の数々に、それが何の雑誌なのか薄々想像はつく。
「実はな、小春との未来のために、ついに買うたんや」
俺に表紙を見せるべく、開いていた雑誌を閉じた。
やっぱり。
表示にデカデカと書かれた雑誌のタイトルは想像通りのものだった。教会や大きなバンケットホールの写真、ドレスにタキシード、夢のように煌びやかな写真が載る一方で、予算だの万だの円だの冷ややかで現実的な文字が踊り狂う、つまり、いわゆる結婚情報誌。
「……ほんまに受験勉強した方がええですよ」
ネタか、本気か。
本気なんやろうな。
「受験よりも大切なことやで、小春との将来のためにいくら貯めなあかんのか知っとかな、目標も定まらんやろ」
「受験終わってから見積もったらええやん」
「あ、せや。財前、ウェディングプランナー役やってや、俺と小春の結婚式をプランニングしてや」
俺の話などまるで聞いていないといった様子の先輩が、名案を閃いたとばかり両手を顔の前でパンと音を立てて合わせる。
何だか楽しそうな先輩に、断る理由を見失ってしまう。はしゃぐ顔とか声とか、もっと聞いていたい。「いやです」って断ったら、この時間は簡単に終わってしまうことを俺は知ってるから、結局、こんな茶番に付き合うばかりだ。
「……ええですよ」
嫌な役回りやなって思う。けど、こんくらいしか、先輩と関わる方法が『まだ』ないのだから仕方ない。きっといつかは、俺だって。なんて、夢見て、俺は、好きな人が夢見る、その人が俺じゃない別の人と挙げる結婚式のウェディングプランナーごっこに興じるのだ。
「予算とかありますー?」
ウェディングプランナーがどんなことをするのかなんて具体的に分からないから、それっぽいことを聞いてみる。
「うーん、せやなあ、二百万円くらいかなあ」
「なるほど、かしこまりました」
分厚い雑誌を適当に開き、「ここええんとちゃいます?予算三百万やって、がんばってください」と、ユウジ先輩の前に差し出した。
「予算聞いた意味ないやろ!」
「……ほならここは?百五十万っすわ」
ペラペラとページを捲り、先輩が言う予算で収まる式場を探してやる。ウェディングプランナーめんどいな、こんな仕事絶対に嫌やな。俺が差し出したページを真剣な目つきで眺める先輩の隣で思う。
「うーん……、ここは小春の好みとちゃうなあ、小春のゴージャスかつキュート、それでいて純潔なイメージにも合ってへんし……、まだまだ小春のことを分かってへんなあ」
嬉しそうな、本当に結婚するわけでもないくせに幸せそうな表情を浮かべる先輩とは対照的に、俺の表情は奇妙なものに違いない。久しぶりに会えて、話せて。それだけで嬉しくて笑い出しそうになる反面、好きな人の好きな人の話を聞くのは結構堪える。ごちゃ混ぜになった気持ちが、この妙な表情の正体だ。
「あ、小春の写真見る?」
「いりません」
「なんでや?!」
っちゅーか、ごっこ遊びとはいえ、好きな人が別の誰かと結婚するのをお膳立てする役割なんて、前世で悪行積みすぎたんやろうかと思えてくるくらいに、ひどい状況だ。ここが地獄かって、そんな感じだ。
「カリスマウェディングプランナーやから写真なんて見ずともお見通しっちゅーことやな」
ユウジ先輩が楽しそうに笑いながら、妙な設定を付け加えてくる。口を開けて笑うと八重歯が覗くその笑顔を可愛いと思ってしまうし、こんな地獄であっても、その笑顔を見ているだけで心が弾む。苦しいのに嬉しいって、ほんまどうかしとるでって、頭の中、突っ込む声が聞こえた気がした。
「はあ、そっすね、じゃあ、ここでええんとちゃいます?予算五百万っすわ、インテリかつメガネ、それでいて坊主な雰囲気によう合いますよ」
巻頭ページにデカデカと特集が組まれている、いかにも豪華なカタカナの名前のホテルを提案する。五百万って。勧めておきながら、結婚式ってめちゃくちゃ高いんやなと、心の中で驚いた。
「ご、ひゃ、く、まん?!」
ユウジ先輩も俺と同じことを思ったようで、素っ頓狂な声を上げた。
「ほんまに?」
目玉がくっつくくらいまで誌面に顔を近づけたユウジ先輩が、「ほんまや」と呟く。
「ほなら、ここでええですかね、ここにしましょ、もうめんどいんで、これ契約書です、あと三秒以内に記入してください」
エア契約書と、エアボールペンも先輩の前に置く。たまに甥っ子とするごっこ遊びのまんまだと思いながら。
「おい!めんどいってなんや、ウェディングプランナーやろ、親身になれ」
「じゅーぶん、親身ですわ。っちゅーか、お客さん、一生を添い遂げる人間のための金を惜しむんですかあ?」
エア契約書へのサインを躊躇する先輩を煽るように言う。
「ぐっ、嫌なウェディングプランナーやな……」
背に腹は変えられへん、と切腹前の侍のごとく厳しい顔つきでサイン(フリ)をする先輩に、「はい、まいどぉ」と、その手元にあるエア契約書を取り上げた。
「財前には絶対に頼まへん」
「俺かて絶対にやりたないわ」
悔しげに顔を顰める先輩に素っ気なく返す。俺が先輩の結婚式のことを考えたくない理由なんて、先輩にはわからないんやろうけど。
「ほなら、財前は結婚するとしたらどういうところがええの?」
暖房が効いてきた部屋で、マフラーを外しながら先輩が聞いてきた。
「俺?」
「せやで、カリスマウェディングプランナーとして、自分の理想はちゃんと考えといた方がええで」
まだ、ごっこ遊びは続いているのか、それともまたやるつもりなのか、先輩は、俺の人生において微塵も役に立たないアドバイスをくれた。
「ウェディングプランナーになんて絶対ならへんけど、せやけど、まあ……」
二人の間に置かれた雑誌に視線を落とす。めくれどめくれど、チャペルの写真が出てくる。こういう場所に立つ時、俺の隣にいるのがユウジ先輩だとして、ありえへんけど、そうだとして、だとしたら。
「俺は、好きな人が楽しそうに笑ってくれるなら、地獄でも、どこでも何でもええですよ」
どこでも、なんでも、本当に。
その笑った顔で、俺の名前を一番に呼んでくれるなら、地獄だって今だって、悪いもんじゃないって思える。
「財前、お前……」
驚いたって顔して俺を見る先輩を、見つめ返す。木枯らしが、カタカタと部室の窓を揺らす。
「……カッコええこと言うな、それ、いただきや!」
雑誌の下に置いてあった本物のメモ帳とボールペンを取り出す先輩に、「パクらんといてください」とため息と共に吐き出す。
「俺が『いつか』使う用なんで」
頬杖をついて言う。
「ム、ケチやなあ、使う予定なんてないくせにぃ」
先輩が口を尖らせるのに、いつか言ったりますわって、声に出さず呟いた。